第12話

 女、ってこんなにワケ分かんない生き物だったっけ。そんなことを薄らボンヤリ考えているところで名前を呼ばれた。

 ナオ。

 呼ばれ始めて日は浅いけど、都度 積み重なる嬉しさは確実に俺を柔らかくする。


 駆け寄る神威の姿を目にし、申し訳なさが募った。俺 目がけてまっしぐら、その背後に見え隠れするトモの小さな姿も必死。

 俺は自分の無力さに天を見上げため息した。俺に出来ることを俺なりに考えて行動に移してみたんだけど、ドラマみたいに上手くはいかないもんだな。


「山田くん」


 語尾がわずかに上がった柳井の豹変に俺はまたため息を重ねた。何だそれ。


(…女の子、の。声なんだけどなあ…)


 嫌悪感を覚える俺は、どこか男としての本能やら生殖機能やらに異常をきたしてるんだろうか。それとも相手がこの、理解が及ばない柳井だから?


「…ナオ。探したよ」

「…ごめん、神威」


 いろんな意味を籠めて、口にした。

 ごめん、神威。探させて、ごめん。きっと心配させたよな、ごめん。トモと二人して、そんな汗ばむほどに走らせて、ごめん。柳井のこと、どうにもできなくて、ごめん。


 俺の心中を知ってか知らずか、神威もトモも、それは安堵した様子でほっと一息をついている。迷い子を無事に探し当てた訳でもないってのに、そんな。

 俺は今、どんな顔をしてるんだろう。



 中・高一貫の有名私立男子校。俺が青春時代を過ごしたそこに、まあ、女っ気は無かった。それを女心が分からない理由に掲げて良いとは思ってないけど。

 神威達のことを遠巻きに見てきたんだ、だからこそ分かる。某かの欲を孕んだ視線に晒されている美青年。帯びている熱量は人によって相違こそあれ、目立つというのは大変なんだな、と気の毒に思っていた。

 しかも神威一人がとびきり、じゃないんだよな。隣にそっと寄り添うミコちゃんも、存在感ある武瑠くんや心くんも。あの輪の中に入りたいと焦がれる連中は潜在的に引きも切らないはず。自分を正当化する訳じゃないけど。



「…この後、自由行動だって立川先生が。あっちにカフェがあったよ、そこでレポートまとめようか」

「え、もう少し一緒に回らない? 山田くん。アタシ全部 見れてないし」



 その憧れの輪の中に、片足くらい突っ込めてると思う。

 全部を見て回れてないのはお前のせいだと言わんばかりに俺を盗み見る柳井。だからこそ、なのか? この湧き出る醜い感情は。

 俺とトモで神威達の世界に蓋をしてしまうつもりはない。もうこれでおしまい、とばかりに後から誰も入れないようにするつもりはない。神威達の世界を狭めてしまうつもりはないんだ…、ないんだけど。近づく誰かを、選別したいと暗に取捨する俺は思い上がってるのか?

 だってね、神威。いつだったか柳井は、声高に言ってたよ。



『一度でいいの、一度でいいからあんな良い男と寝てみたい』



 それを愛と、呼ばないだろ?



 ***



 場所は確か、構内のカフェテリア。俺は人気メニューのカシューナッツカレーを一人ホクホクと頬張っていたけど、突然 耳に飛び込んできた幾つもの不穏な言葉にスプーンで掬う行為を止めたんだ。


『山田くん、アレ凄くない? 見た目 言うことないしセンスあるしそこらの男とレベル違うでしょ?』

『でも結婚してるってぇ』

『だよね、いっつもヨメと一緒じゃん! 山田くんじゃない子の方が良くない? 吉居くん? 眼鏡男子!』

『や、和風男子の方でしょー! 弓削くん! 苗字からしてイケてんじゃん』

『良い身体してると思うの! 剥いてみたくならない?』

『うわ、もー! ほのか、肉食丸出し! こっわ!』

『一度で満足できんの? それ』


 まるで脈絡も中身も無い会話はなかなかのボリュームで繰り広げられていた。耳にシャッター降ろせれば良いのに。イヤホンするのも不自然だしな。

 男が下ネタ交わしてると眉を顰めたり引いたりするくせに、それとレベル変わんないじゃんか。

 いやむしろ、日本の法律に触れようとしてるだろ。友達だったら止めろよ、無責任な。辟易した俺は席を立った。そして、思った。


(…なんで辟易すんだろ…)


 その頃はまだ、神威達のことをよく知らなかった。外見要素と事件の顛末。握りしめてる情報はそれくらい。

 それでも勝手に憧れてあのメンツと一緒にいる心地好い空間を思い浮かべてる俺と、身体だけでもと刹那の繋がりを求める柳井と。変わらないから?


 口下手な俺は、心許せる友達が多くない。大学にはたくさんの人間がいる、だからと言って自然とそんな関係がたくさん出来る訳じゃなかった。

 そう。立ち止まっていつか目の前を通り過ぎるかもしれない神威達をただ待っていたって何も変わらないことくらい。

 気づいて、いたんだ。築いて、なかったから。


 関係を築いていくのは大変な作業だ。時に望もうと望むまいと強いられる協調性ってあるしね。1年・2年と単位履修していく中で、俺は科目によって課せられるグループワークが苦痛で仕方なかった。

 自分の言葉で想いを表現するのが苦手。語彙力に欠ける、ってのは理由の一つにあるかもしれない。意見を出せ、と言われればつっかえながらも話せなくはないんだ。ただ言葉じりへかぶせるように放たれる他者の意見がそこに提示されれば、俺はその先へ進めなくなる。ディベート、っていうのか。意見を闘わせるのも苦手。自分の中へ相手を受け容れつつ、折り合いをつけるポイントを見つける作業工程。逃げ出したくて、何度 教室の窓から青い空を見上げただろう。


 手がけたい作風、はあるけど自分、への固執は無い。だからか、どこまでも誰をも認められそうな気がする。

 でも誰をも、どこまでも。自分の内側へは踏み込ませたくない気がする。



 3年になって、キャンパスが変わった。物理的な変化は俺の内側への変化ももたらしてくれるだろうか。そんな淡い期待がゼロとは言えなかった。

 だから、そっと座ったんだ。年度の始め、カリキュラムの説明会。憂鬱そうに独り頬杖をつく、神威の隣に。


『…ここ、空いてた?』


 俺からの一言目。口にしてから酷く後悔した。空いてた? って、事後確認って何だよそれ。気が利かないにも程がある。

 しかも目も合わせてないし。失礼にも程がある。


『あ、うん。どうぞ。誰も来ないよ』


 それが神威からの一言目。

 名前くらいは知ってもらってると思う、翳る表情を裏切る柔らかな声だった。そこそこの人数を収容できる講堂なのに誰も神威の隣にいないなんて、違和感を覚えながら俺はそっと息を吐いた。いつも誰かしらの温もりに包まれてる印象が強かったからね。


『…俺って。そんなに怖い?』

『は?』


 神威からの二の句は突拍子もない内容で、俺の口はあんぐり開いてたかもしれない。

 その瞬間、初めて本当に真正面から神威を捕らえた。掛け値なしのイケメンだな、これは。顔だけ、ではなくたぶん中身まで。


『…なんでまたそんな。ネガティブだな』

『んー、いや。足立くん、息ひそめてるから』

『んなこたねーよ。山田くんこそブルー入ってんじゃん』


 俺が隣だと調子出ない?


 いつもの顔ぶれの代わりになんてなれないと自嘲気味だった。何 言ってんだ俺、と自分で自分を呪った。

 話すのが苦手、って人生の8割くらい損してると思う。変化を求めて一歩を踏み出したところで、言葉もなくその先が拓ける訳ないだろ。一言目を滑らかに会話に繋げられるスキルってどこで身につけりゃいいの。


『あー…、ごめんね』


 ごめん、と吐いた言葉を取り返したかった俺だけど、それを遮ったのは神威の謝罪だった。それは機先を制されたというより真剣な驚き。今の会話のどこにごめんねポイントあった?


 話すのが苦手な俺のコミュニケーションスキルがそう高くないことは自覚してるんだけど、こちらをじっと見入る神威が俺の表情から正しく感情までも読み取ってくれないかと委ねてしまう。

 何かを変えたいと思った、それは季節が巡りやって来た春特有の勢いだったのか。肌を撫でる心地好い風は何かを変えられると後押しするかのように思えていたけど。


(…馴れないことは、するもんじゃないな)


 何のシナリオも描いていなかった。交わす言葉ひとつ、シミュレーションしていなかった。ただ隣にいるだけで仲良くなんてなれるはずもないのに、何か俺、失敗したんだろうな。


『俺、愛想なくて怖く見えるから口角上げてかなきゃ駄目だよ、って言われてたのに』

『…え。…う、ん?』

『人と話すのも苦手で…、ごめんね、足立くん気分悪くなったでしょ』


 誰から言われたんだか、その口角とやらを無理にでも上げていれば何かが違っていたはずだと悔やむように、神威は両の人差し指で口の端をむにむにと押し上げている。眉間に皺寄せた仄暗い表情とアンマッチなその幼い仕草に、俺は自然と笑みがこぼれた。


『何だそれ、口角って…誰がそんな』


 くつくつとこみ上げる笑いの合間に俺は質問を挟んだ。なるほど、こうすると不機嫌そうに聞こえない。俺の標準装備が解除されるコツか。笑い、ってのは口の端であれ声音であれ、含ませると関係性を滑らかにしていくらしい。

 今さらだよな、こんなの。誰もがきっともっと早くに、そうと自覚しないままに身につけているはずのテクニック。俺は上手く取り込めないまま、大きくなってしまったけれど。


『んー、武瑠が…、って』


 分かる? 神威は目顔で問うてきた。

 分かるよ、いつも一緒の。そう応えながらもう一つ分かった。

 この近さ、だからこそ神威自身へ実直に付き従う瞳や表情筋の微かな変化すら見て取ることができるということ。遠巻きに目で追うだけじゃ知り得なかった。


 自ら求めたこの距離感。いいんじゃない? うん。悪くない。馴れないけど、馴れていきたいと思う。


『あ、でもどっちだっけ? 和風男子? 眼鏡男子?』


 神威が考えているよりずっと前から俺は神威達を知っている。そんな仄かな後ろ暗さから、俺は校内でよく耳にする形容を選んだ。

 和風男子に眼鏡男子。ワイキャイ騒いでたあの女子達と自分を同じ立ち位置に置いた。俺は、卑怯だ。


『ぶ。二人ともそんな風に言われてんだ? 黒縁眼鏡のアイドルっぽい方』

『なるほど…吉居くん?』

『わ、やっぱり有名なんだ? 武瑠。もう一人は弓削 心って言うんだけど』


 言うまでもないかな、とはにかみ俯く神威の様子に、俺はあの二人が羨ましくて堪らなくなった。神威と仲良くなったなら、こんなにもこそばゆく幸せなオプションが付いてくるのか。自分の預かり知らぬところでも丁寧に大切に語られるその名。


 でもね、神威。有名なのは吉居くんだけ、って訳じゃなく。勿論 弓削くんだけ、ってこともなく。やっぱり中心にいる神威なんだと思うけど。


『あ、俺は山田 神威です。よろしくお願いします』

『存じ上げてます、何を今さら』

『仕切り直し? タイミング逃したから』

『真面目か』


 うん、いや真面目だよな神威。こんだけイケメンならもう少しチャラくても許されそうなもんだけど。だからかな、ギャップ萌えって言うし。何かくすぐるのかもしれないな、誰かのものに手を出す背徳感にゾクゾクくる変態のピンポイントをさ。


 神威と“一度 寝る”ことをさも勲章のように語っていた柳井の姿が目の裏を過る。あまり他人に興味はないけど、あれと近くなるのは嫌だな。

 説明会が始まって、講堂内へ滑り込んできた柳井を視界の隅に捕らえると俺の口の端は知らず歪んでしまう。


 目が、合った気がした。いや、正しくは。隣に座る神威へ柳井の眼光がロックオンされた。

 どうすっかな、これ。神威の右隣は、空いている。バッグが置いてはあるけれど。


『ねえ、山田くん。ここ、いいかな? 僕、前の黒板 よく見えなくて』


 そんなはずないだろ、って。瀬井、視力良かったじゃんか、って。

 勿論 口にするつもりはさらさら無くて、俺は独り胸の内側だけで呟く。


『…あ、瀬井くん…、うん、どうぞ』


 それにお前、どこからやって来たよ? 神威は気づいていないかもしれないけど、俺はそっと窺ってた。いや、分かんない。意外と神威も気づいてるのかもしれない。瀬井は、左ななめ“前”の席を立ってやって来た。何てことなさそうに、笑みをふんわり浮かべて。


(…いいヤツなんだよなあ、瀬井)


 何ぞセンサーでも内蔵されてんじゃないのかと疑うほど、瀬井は他人の“困った”を感知するスキルに長けていると思う。たぶん俺と手がけたい方向性は似てるはず、この二年間、かなりの確率で同じ講義を取ってきた。その折々で垣間見る瀬井の気配りは見事としか言いようが無くて。


 けれど。その性癖ゆえ、なのか瀬井が大勢から温かく囲まれているシーンを見かけた覚えがない。あえての距離感を、瀬井はあまり崩さない。自らをマイノリティに置こうとするそのストイックさを時に悲しく感じてきた。

 俺は中高をずっと男子校で過ごしたせいか、本当にほんの少しの理解が及ぶと思っている。ただ、知ってる、というのではなくて。


(…そういうのも、ちゃんと言わなきゃ伝わんないんだよな)


 何をどこまで欲張ろうとしてんだ、この春の俺。目の端が捕えた柳井と同じくらいきっと、俺の頬も苦々しく引き攣っていた。



 説明会が終わって、メシでも、と思わなくはなかった。もう少し、この三人の並びを心地好く感じていたいと。


 でもさ。こういう時、世間ではどうすんの? 上手な声のかけ方なんて俺は知らない。誰かしらが誘ってくれれば頷いてきたし、誘いが無ければ独りだった。おひとりさま、が苦痛じゃないのは生きていき易くもあるけど、何かしら損をしてる方が多いのかもしれない。


(それは、ね。そんな道を選んできた俺の自業自得というやつ…)


 そう思って諦めにも似た易きに身を任せてきたんだ。その、ツケなんだな。損をする、ってどういうことか本当に分かってなかった。俺は。


『…ねえ、山田くんも足立くんもこの後 予定ある? 無いならお昼ご飯でも…、どう?』


 切り出してくれたのは瀬井だった。控えめに、けれどどこかしら手探りで“これから”を見出そうとする俺達の背中を押すように。


『あ、いいね。俺 行く。足立くんは?』

『ん。俺も行く』


 またふわりと瀬井は微笑んで、つられるように神威も俺も頬を緩ませた。講堂の外へ一歩を踏み出せば、誰にも平等に降りそそぐ温かな春の陽射し。取り戻せるか? 俺…って、何をよ?


 何かに急かされるような焦り。昂揚感に加速度をつけられる。みっともないな、今さらアオハルめいちゃってどうすんの。構内に点在する緑の隙間からチラチラと、どこかへ誘うように揺れる木洩れ陽。何か、変わる。何か、変えたい。それが良い方向へ、であれば言うことない。


(…良い方向、だよな)


 神威と瀬井の軽やかな肩先をちらりと盗み見ながら、それは間違いなさそうだと信じられた。




『…インターンシップかあ』


 俺達は外窓に面したカフェテリアのカウンター席へ並んで座った。左から順に俺、神威、瀬井…口に出す時は「山田くん」だけど。そんな合致しない理想と現実のわずかな隙間に俺はため息をこぼしてしまう。とはいえ互いを直視しないで済むこの位置関係は、今日初めて直接的に関わった俺達に丁度良いと思う。


 このキャンパスの正門から一直線にのびる道沿いには、両側に聳える無機質なコンクリートの研究棟へ幾ばくか柔らかな印象を与えるように木々の緑が立ち並ぶ。青々と揺れるしなやかな枝葉をぼんやり見つめながら、瀬井の呟きに意味なく頷いた。


『そっか、必須だっけ?』

『だねー。どうしよ、僕 何も決めてないなあ』

『そうなんだ? 瀬井くんって何でもしっかり計画立ててる人かと思ってた』

『え、そう? そんな風に見える?』


 瀬井と神威の会話に耳を傍立てていた。俺が特別 言葉を挟まずとも何となく参加できている奇妙な安心感があった。けれど瀬井は身を乗り出し、俺へも意見を問うてくる。


(…置いていかないんだな)


 黙したまま、知らぬ間に、場の雰囲気も会話も先に進んでしまって、俺の人生にはそんなシーンが幾度となくあった。それはますます俺の無口さに拍車をかけてきたと思う。決して話したくない訳じゃないのに。


『…だな。瀬井も真面目だと思う』

『…“も”?』

『…山田くんも、瀬井も。真面目だな、と』


 えええー、そんなことないよ、と口を揃える二人に俺は思わず噴き出した。お笑いか、って。


『俺の人生設計は杜撰だ、ってよく怒られるしね』

『えー、奥さんから?』

『いやー、奥さんから怒られたことはないなあ』

『…うわー、これが噂の』


 そう言ってその先を飲み込んだ瀬井へ顔を向けたのは俺だけじゃなかった。噂の、何? って。続きを促す神威の表情は読み取れない。心配そうな声、ではあるかな。


『や、ごめんね? 山田くん、奥さんの話になると…その』

『大丈夫、続けて? 瀬井くん』

『…イケメンなのに、顔が、すっごく…』

『すっごく?』

『…だらしなく、溶けて残念、って』

『ふはっ』


 ごめんねごめんね、と必死で謝る瀬井と、いやいやいいよいいよ、と丁寧に宥める神威。ちなみにまた噴き出してしまったのは俺。ほんと真面目だな、二人とも。介在するのは他人の言葉なのに。


『礼ちゃん…、奥さんにデレデレしてるのは自覚ある。姉ちゃんからも気持ち悪いって何度言われたことか』

『血の繋がった身内から、ってよっぽどじゃない?』

『そう。だから血の繋がらない他人様から言われるのは致し方ないと思う』

『…なあ。“人生設計”って?』


 ピタリと空気が止まって、俺は今度こそ失敗したんだと背筋が冷えた。タイミングが悪かった。話の腰ってやつをボッキリ折ってしまった。もう、接合の仕様もないだろう。

 とりあえず謝れば、遡ってまた会話を繋ぎ直せるか? とりあえず、って対処法を、俺はあまり好きじゃないけど。


『…ごめ——』

『えー、と。…引かない?』


 どれほど口元を見つめられていたのかと不思議なくらい、神威は絶妙な間で俺に謝らせてくれなかった。代わりに悪戯っ子のような幼い笑みを浮かべて俺と瀬井を交互に見つめている。


『引かないよー、ねえ?』


 ニコニコと屈託無く、俺から同意を得られるのは疑いの余地なしとばかりに微笑む瀬井に救われる。俺もこんな風に邪気の無い笑顔を浮かべられたらいいのに。仏頂面じゃないことを祈りながら俺はコクコクと首肯した。




『…杜撰、とまでは言わない、けど』

『…まあ。ザックリ、は。してるよな』


 引かない、と誓った言葉に二言はない。俺も男だからね。いや、引いてはないんだけど、神威を挟んで顔を見合わせた瀬井と苦笑い。面白いなあ、神威って。


『だよねえ。人生設計というよりまだ淡くほのかな夢、というか』

『何 詩的に纏めようとしてんの』

『いや、あまりにも馬鹿っぽいかな、と思って』

『卒業後まず挙式、ってとこは笑えた』

『え、笑い取りたかった訳じゃないんだけど』


 礼ちゃん=奥さん、のためにカフェを造りたいんだ。

 そんな魅力的な冒頭の句に瀬井も俺もすっかり惹きこまれ、続く二の句を待ってたんだけど、空回りしてる自分がいるんだと神威は途端に声を落とした。


 料理教室に通いバイトに励みながら貯金もしている可愛い奥さんは経済学部で、やりたいことに向かって一歩ずつ着実に進んでいる。毎日をともに過ごしている神威は時々焦るんだそうだ。

 一級建築士の資格を持つ父親の早期退職を待って、設計事務所を立ち上げる予定。そこにあるのは結局 他力だから尚更、なんてため息を吐きながら訥々と語る。


(…言葉 選んでんだろうな)


 何せこうして会話らしい会話を交わすのも初めてな俺達。ありがちな世間話に終始しない神威の自虐ネタにもてなされ距離感は近くなった。けれどどこまでを踏み込んでいいのか。そもそも俺達に“次”はあるのか。測りかねているのは、俺だけなんだと思ってた。


 ビジョンが明確にあればその行程も自ずと見えてくるのかと他人ごとのように考えていた俺は、そう言えば俺自身は今年度の履修計画すらロクに立てていないな、と肩を落とす。瀬井のことを案じるより前にまず我が身、だろ。

 何となく、ここまでやって来れた。だからってこの先もやって行ける保証なんてない。きっと今年は単位の心配より他に考えなくちゃいけないことが沢山ある。


『だから、って訳じゃないんだけどインターンシップはカフェ関係のとこにしたくて。卒業研究に向けてさ、今年は立川先生のゼミでワークをたくさんやって、とか…、俺なりに焦りを埋めたいんだけどね』

『…立川先生のとこにすんのか、ゼミ』


 うん、と頷き俺を真っ直ぐ射抜く神威の瞳には、不思議な色が浮かんでいる。何だろう。満ちている熱は、好奇? 期待?


『…俺も』

『僕もだよー』


 恐る恐る言葉に乗せた俺の方向性は、前々から明確に決めていた類じゃない。今、この場で。神威のビジョンに乗っかりたくて決めた俺は、やっぱり卑怯で勝手だ。

 だけどね。何かがこの先、上手くいかなくなったとしても、当然だけど神威のせいになんてしないから。ごめん、一緒の方、向かせて。


『ねえ、気になってたんだけどさ、足立くんって古民家に興味ない? 僕 結構、取ってる授業 重なるなあ、って思ってたんだよね』

『あー、うん。それは俺も思ってた』

『え、ちょっとお二人とも? 俺もそこ入れてもらっていいですか? 古民家カフェとかご興味ございませんか?』


 どうかな。どうだろう。今 浮き足立ちそうなのは俺だけだろうか。

 瀬井や神威の晴れやかな笑顔から、この場ならではの特別感を嗅ぎとることなんて出来やしないけど。この三人で、何かをゼロからともに創りあげていく。そんな風景。俺は容易く思い浮かべられるんだけどね。


 そんな風におずおずと、暗闇へ手を伸ばす幼子のように俺達 三人組は始まったんだ。

 子ども、って好奇心には抗えないもんだよな。そう、俺はガキなんだ。二十歳をとうに超えたとは言え。どれほど尻込みをし、後ずさりしたくなっても、その先にキラキラと輝く経験したことのない“何か”が待っていると分かっているのなら、もう、他の誰かに譲りたくない。


『…え。柳井なの?』


 立川先生のゼミの一発目。まず求められたのはチーム編成だった。

 全メンバー16人。4人ずつの4チーム。女子はちょうど4人で1チーム作ればいいじゃん、って。さて俺達 三人組に誰が一人加わってくれるだろう、って。顔ぶれをぐるり見渡していた俺は、浅はかだった?


『アタシだとご不満なワケ? 足立くん。れっきとした女なんですけど。オ・ン・ナ』

『…見れば分かるよ』

『あらそ? 女性視点があった方が良い、って先生が言ってんの、アタシが我儘言ってんじゃないの』


 先生が、ってところを強調しつつ、俺と瀬井を交互に見据える柳井とは、上手くやっていけそうにないなとその瞬間 諦めた。

 諦めて、放棄するのは簡単。俺がここから去って他のチームへ入れてもらえば良いだけのことだ。ただその場合、この居心地の好さを柳井に譲らないといけない訳? 俺と瀬井は知らず神威を庇うように柳井の視線上へ立ちはだかっている。


『よろしくね? 山田くん』


 媚びるように伸びた柳井の語尾が正直 気持ち悪い。でももっと気持ち悪さを感じているのは、粘着質な眼力で捕らえられようとしている神威だろう。

 そっと、ため息ひとつ。大事なものを守りたい、そのためのプロセスはひどく試されるもんなんだな。


『女、って。あんな面倒くさかったっけ』


 バイトへ向かった神威を見送り、俺と瀬井は図書館で資料集め。立川先生から出された最初の課題だ、きちんとクリアしたいとは思うけど、いかんせん柳井との折衝点を見つけることに苦労する。“子どものための空間”だぞ、テーマ。アバンギャルドすぎるだろ、あいつ。革命でも起こしたいのか、何に対してああも攻撃的なんだ。


『女、って括りが雑すぎるよ、足立くん』


 柳井は、例外。


 そう、声を落としテーマに沿うような本の背表紙を人差し指と目で追っていく瀬井。


『そこだけ呼び捨てなんだな』

『呼び捨てでいいと思う、あれは』

『瀬井も大抵 雑じゃない?』


 なかなかの蔵書数を誇るこの大学の図書館、年月を経た本には独特の匂いがあると思う。通り過ぎてきた時と、触れてきた人の記憶とを刻み込んでいるからか。書架の間をすり抜けていくのも悠久の時間軸を旅しているようでワクワクする。


『…足立くん、気づいてた? 柳井って僕のことだけ“瀬井”って呼び捨てするの』


 だから、って訳じゃないよ、とつけ足し、瀬井は目顔で資料を精査しようと促す。だから、って…あ、呼び捨てのことか。やられてるからやり返してる訳じゃない、ということね。瀬井の意図するところをきちんと汲み取れた自身へ安堵しながらテーブル席へ着いた。


 それに、気づいてた? って訊き方が、気づいてなくてもいいんだよ、それが正解じゃないんだよ、って認められ、許される範囲の広さを暗に示してくれている。俺はそれにほっとして、苦手だけれどそれでも話していける。瀬井や神威は、訓練を受けた訳でもないんだろうにナチュラルにそういう話し方ができるんだよな。


『…そういやそうだな。他は“くん”付けなのに』


 瀬井はひどく言葉を選んでいる様子に見えた。呼び捨てでいい、と断じながらも悪くは言いたくないのか、そんな瀬井を優しいな、と思う。まあ、男が女の陰口なんてみっともないと言えばみっともないけどさ。


『柳井はね、山田くんの左右にいる僕や足立くんのことが気に入らないんだと思う』

『あー、まあ。それはそうかもな』


 悪意、というか。いや、具体的に何かをされた訳じゃないから意図は孕んでないんだろうけど。嫉妬、ジェラシー。そんな分類が出来るかもしれない。そのポジションをアタシに譲れ、と目線で強く念じられてる気がしないでもない。


『阿吽だな』

『そんな息ぴったり? 僕ら』

『言い過ぎか』


 これでもかと抱えてきた本の山から一冊ずつを手に取り、要不要を選別していく。何度も何度も二人だけに任せてごめんね、よろしくね、と神威から念を押された。あの真面目さを思い出せばいい加減な作業は到底 出来ない。


『…足立くんは、さ。僕の、その…、』

『…何?』

『…知ってる? 知ってるよね、聞いたことあるよね、僕が、ゲイだって』


 胸を張れとは言わないけどさ、瀬井。そんな風に自分で自分を落とすようは言い方は聴いてるこっちが悲しくなる。

 何だろう、この上手く表現出来ない歯がゆさ。何かが人と違うからと言って、たったそれだけで瀬井の全てが否定されるはずないのに。


(…でも。嫌な想いもしてきたのかもしれないな)


 癖、というものは意識してもなかなか直せないと聞く。

 自制心だけで本来に戻せない、いやそもそも戻すべきことなのかと問うても正解なんて導き出せやしない、そんな自身の領域と瀬井はずっと一緒に生きてきたんだよな。


『…そういう…うん。僕の、そういうとこも。柳井が僕を呼び捨てる理由の一つかなあ、って』


 切なく吐き出す瀬井のため息とともに落ちる暗い言葉。深意が汲み取れないそれはとても寂しく耳に沁み入った。


『…瀬井』


 ひそめた声に出来るだけ負の感情を乗せないようにして、俺は瀬井の名前を呼んだ。俯けていた顔をそっと上げた瀬井が瞬間 目を見開いたから俺はよほど酷い表情を浮かべているんだろう。館内の時間は止まっているような、それでいてどこかに人の流れや空気の動きを残している。


 独りでいる方が、楽だ。けれど。それは完全な孤独ではなく、適度な距離を保ちながらどこかしら誰かと共に在ることを求めている。

 だから俺は、ここが好きなんだ。

 なんて、甘えた。なんて、子どもじみた。でも今、誰かに近く寄り添う力を。どうか、俺に。


『…俺はね。中学も高校も、男子校で。だから、って訳じゃないけど…その。そういうのって。少しは、本当にほんの少しは、分かる、つもり』


 つっかえながら繋いでいく言葉は、きちんと瀬井へ届くだろうか。背筋が伸びるような静寂の中、響く靴音やページを捲る乾いた音にかき消されやしないと思うけど。


『足立くん…』


 ありがとう。


 確かに、そう聴こえた。

 それは、何に対しての? 困惑は俺の眉間へますます深い皺を刻む。気を遣わせたかったんじゃないのに、結果 そうなってんの? これ。


『…意味が分かんないよ、瀬井』


 分からないことは分からない、と問える気安さと、弁える分。友情を育むのは難しいとやっぱり思う。それでも、瀬井がふわりと笑うから、なんとなく大丈夫なんじゃないかと根拠の無い安堵を引き寄せたくなる。


『ごめんね? コイツ何 言い出してんだ? って足立くんが思ってるのは分かってた。ここの皺、スゴイことになってるよ?』


 眉の間に人差し指を当て、俺の表情を真似ようとする瀬井だけど、元が柔和なもんだから中途半端に間が抜けたそれしか出来上がらない。


『放っとけ。それに俺はそんな口 悪くない。何 言いたいんだろうなあ瀬井くん、程度だよ』

『うん、足立くんの優しさを垣間見た』

『だから意味 分かんねえ、って』


 あのね、と一呼吸置いて瀬井は切り出す。机の上で組み合わせた指の、親指だけを上に下にと動かしているのは瀬井の躊躇いや揺れる心情を表しているんだろう。


『足立くんがすごく言葉を選んでくれたのは嬉しかったよ…、僕は物心ついた頃から、本当に自然と好きになる対象が同性だったんだ』

『…うん』


 こんな場合の正しい相槌なんて知らない。瀬井はきっと、自身のとてもデリケートな部分を声に出してくれてるのに。


『僕は自分の心も身体も男だ、ってちゃんと分かってる。認めた上で同性を好きになってしまう。共学で、ちょっと無理したりしてみたけどやっぱり変えられなかった』

『…そうか』


 無理、というのはたぶん、女の子とつき合ってみたり、したんだろうな。同じように悩みもがくクラスメイトの姿を俺は確かに目にしてきたはずなのに。


(何も…、話すらまともに聴いてこなかったな)


 それは、ひどく悔やまれた。今この瞬間、経験していれば瀬井への言葉に具体性が増したかもしれないのにと考えてしまった自分の浅ましさがもっと悔やまれた。


『足立くんや山田くんみたいにね、抵抗なくするっと受け容れてくれる人って…、やっぱり、あんまり、多くない』


 俺の眉間にはまた醜い歪みが生じているんだろう。せめて瀬井から視線を逸らしては駄目だと自身へ懸命に言い聞かせている。俺が例えば瀬井の言葉に真摯に向き合っている己をきちんと明示するには、もうその態度しか残ってないと思うから。気の利いた声かけなんて、出来やしない。


 とても、悲しいことなんじゃないか。自分が自分のままであることを、認めてもらえないなんて。


(瀬井は…家族とは、どう…)


 俺は“子ども”としてはあまりデキの良い子ではなかったはずだ。

 無口なのは今に始まったことではなく幼少期から。母親は決して豪胆なタイプではなかったからそれは心配したらしい、いろんな先生に相談したのよ、といつだったか苦笑まじりに聞かされたことがある。それは、過去を懐かしむレベルの話。

 家族は俺を異端児扱いも腫れもの扱いもしなかったし、無口は個性に溶け込んだ。成長は個性に変化を与え、俺は今 ここにいる。少なくとも“他人様に迷惑をかけないように”とする両親の教育方針には添えているだろう。


 瀬井は? 家族は味方だったんだろうか? 他の誰かと違う、それは瀬井の確かな個性だと笑ってもらえたんだろうか。


 大丈夫だよ、と瀬井は俺の目の前で手をひらひらと振る。まるで俺の心中を察したように。間違いなく苦々しい表情から読み取らせてしまったんだろう、親しくなりたいと思う相手に気を遣わせない配慮、って、人づきあい初心者にはなかなかレベルが高い。


『僕ん家ね、父親が司法書士なんだけど…その、養子縁組の相談とか受けることがあるんだって。決して多くはないけど世の中にゼロじゃない、その現実は知ってる』


 母親も兄も姉も呑気な人だから。


 軽やかに家族を形容する瀬井のその様に俺は何となく安堵して そうか、と口の端を緩めた。

 知ってる、それは本当の理解に繋がってるんだろうか。瀬井の家族は呑気なふりをしているだけかもしれない。そんな思案を巡らせながら俺はふと気づく。


(…俺が一番、瀬井を“特別”なとこに当てはめようとしてんじゃん)


 こんなに柔らかく温かく笑える人間が、辛く悲しい想いばかりをしてきたとは考えにくい。瀬井にはごくごく一般的な時間も経験も環境も、接してくれる人達もいたんだろうな。


(…馬鹿だな、俺…瀬井は、可哀想、なんかじゃないのに)


 ふるふるとかぶりを振る俺を見て瀬井がくすり、と笑いをこぼす。


『足立くん…、喋ってくれるとありがたいかな』

『…ごめん。危うく瀬井に同情するとこだった』

『うん、まあ。彼氏に恵まれてないのは同情してくれていいけど』

『そんなん俺もだ。つき合った試しがない』


 瞠目し、えーそれはそれは、と意味不明な口ごもり方をする瀬井の向こう脛をスニーカーの先で蹴る。お互いに場所を弁え、籠った笑いがそれ以上広がらないように拳を口元に当てた。


『僕ね、結構 良い人達に囲まれてきたんだと思うよ。ほら、順応性って女の子の方があるし…、女子会呼ばれたり普通に恋バナされたりとか。気持ち悪い、とかって酷く苛められたことも無かったしね』

『…そうなのか』


 あれ。今 何かが思考を掠めた。そもそも何の話からこの流れになったんだっけ。


『…柳井、は。違う? 今まで瀬井が出逢ってきた人達と』

『…うん』


 しばし逡巡の間を感じる。考えすぎかもしれないけど、そんな瀬井の前置きは、きっとこれから話題に上る柳井へ勿体無いくらい優しいものだと思う。


『柳井は山田くんを…その、狙ってる、よね? や、本当に純粋に好きなのかもしれないけど』

『いやいやいや、トリケラトプスを狙うティラノサウルスだよ、アレは。とにかく一度 寝てみたいっつってんの聞いたことある』

『…なかなかの表現力。足立くん』

『…構うな、先 続けろ』


 ふ、と瞬間 綻んだ瀬井の頬を確認して、俺は手元の分厚い参考資料を手繰る。瀬井は話をしながらでもきっときちんと必要なものだけを選別してるはず。


『僕は…女っぽくしてるつもりはないし女の子になりたい訳じゃない。山田くんのことを女の子の目線で見てる訳でもない』


 なるほど、とそこまでを聴いて俺は瀬井が言わんとするところをうっすら感じた。同時に柳井の瀬井に対する態度が微妙に異なる理由も。


『女が女に向ける嫉妬深さなのかね、あの刺々しさは』

『そんな感じかな…僕達、近いしね山田くんに。柳井より…あとはねえ』


 僕のこと、中途半端で許せないんじゃないかな。


 瀬井の小さな呟きは、館内に射し込む光が所々投影する埃とあいまって高い天井へ立ち昇る。

 俺は言葉なく黙りこむ。それが真実かどうかは分からない。柳井にそこまでの悪意はないのかもしれない。それでも瀬井にそう感じさせる何かが柳井の態度の端々に見え隠れしてきたんだろう。

 味方するというのは公平さを失うこと。それでもどれだけ穿っていようと瀬井の肩を全力で持ちたい。


『誰にだって自分なりの考えとか、モノの見方とか、あるよね。僕がちょっと他と違うからって、それを曲げて欲しいなんて思わない』

『…うん』

『でも、自分の世界の枠組みに当てはめて幼い感情をぶつけてくる柳井とは僕…仲良く、やっていけそうに、ない』


 いいよ、と俺は言った。無理して仲良くしなくていい、と。

 その是非は、分からない。それは瀬井をやみくもに甘やかしている盲目的な許しなのかもしれない。


 だってさ。例えばこの先、就活が上手くいって無事に社会人になれたとしよう。我慢しなくちゃいけない人間関係なんて、きっと吐いて捨てるほどあるんだろう? 躱しいなしていかなくちゃいけない上下関係だって、きっと星の数ほどあるんだろう? 正社員の3分の1くらいの責任感で済むアルバイト、という身分の今でさえ、気を遣わなければ事が回らない環境、というものを確かに感じている。だから今のうちに、たとえ失敗しても取り返しがつきそうな今のうちに、頑張ろうよと背中を押して瀬井のスキルを磨いていく手伝いをするのが友達としてあるべき姿なのかもしれない。

 いや、俺ごときが何 言っちゃってんの、って話だけどさ。


 嫌いなやつとでも何とか事を成し得ていく術。あるいは。嫌いなやつとは徹底的に交わらずそれでも事を成し得ていく術。


(…でもなあ。会得しないで済むんなら…)


 そんな、正統派っぽくないやり方。生真面目な瀬井や神威にあまりおすすめしたくない。なんてことを思うのも、俺の甘さだろうか。



 俺達世代が社会に出れば、ゆとりださとりだと揶揄され使い物にならないと扱われる話は、耳にしたことがある。あるからこそ、手に出来る力は持っていた方が良いのかもしれない。しれない、けど。

 そうやって考えは明確な結論を持たないままぐるぐると廻り、俺は流されるように日々を過ごしていた。忙しさを充実と勘違いし、向き合うべき対処を先送りしていたんだ。


 柳井の存在を、例えばファービー人形? だっけ。あんなんだと自己暗示をかけてしまえば(不自然にバッサバサの睫毛なんて実際 結構似てると思う)必要とされる日常の受け答えは苦痛ではなかった。人間を、無機的なものに喩えるなんて、甚だ失礼だと分かっている。それでもそんな脳内置換をしないと感情が先に立ち、イライラしてしょうがなかったから。

 それに、どこかで思ってた。柳井だって、そうだ。神威と“一度寝たい”んだ、それがためのあいつの言動は神威を軽んじてるように感じられて、また苛立ちを覚えていた。神威の前に立ち、庇うように。瀬井との間に立ち、直接 交わらなくて済むように。俺は上手く立ち回れてるとでも思ってたんだろうか。そんなスマートっぽい自分に、誰かの役に立ててる風な自分に酔ってたんだろうか。


 ミコちゃんは泣かなくて済んだはずだ。神威の唇はああも腫れ上がらなくて済んだはずだ。


 ごめんな、神威。あの出来事で俺は、いやたぶん瀬井も、思い知らされた。

 やっと、でごめんな。柳井、本当に神威のこと、どうにかしたかったんだ、って。日々は何となく、過ごせていたから。見たいものだけ見えるふり、耳にしたいことだけ聞こえるふり、それはとても楽だったから。


『…柳井。ちょっと、話があるんだけど』


 神威の隣にぴたり寄り添う瀬井を苦々しく見つめる柳井へ、出来るだけ感情を押し殺し声をかけた。お前の目には、この優美で繊細で大胆で奇想天外な芸術の何かしら、ちゃんと捕えられているのか? 神威ばっか、追っかけ回してんじゃねえよ。悪態を吐くのは心の中。俺は何と切り出そうか、表情も殺して口を開いた。


 俺なりの精一杯で柳井へ「迷惑だ」と告げたのに、どうしてこうも通じないんだろう。そりゃあ話すのが苦手だと自覚してる、それにしてもだ。


(…威圧感でもって説き伏せる、ってのもなあ)


 恫喝、みたいなことはしたくない。いや、そもそも出来ないだろ俺にそんなの。それでももう少し腹の底から声を出したい。俺の覚悟が伝わって欲しい。

 言わなくても、今までと同じ様に時間をやり過ごすことは出来る類だ。それでも、今までと同じ様に時間をやり過ごしたくないならば、言わなくちゃ前に進めない類なんだ。止めてくれ、と何度でも、分かってもらえるまで。

 柳井の前に立ち、俺の背中から出る何かがあいつの獰猛さを少しでも削いでくれたらと後ろ向きなことを考える。足立くんてさあ、と粘着質な声で名前を呼ばれたのはちょうど中庭に着いた時だった。


「山田くん達のこと、いろいろ探ってた人じゃなかったっけ?」


 柳井が論点をすり替え、俺のことを持ち出してきたのには訳があるんだ。俺を怒らせたいんだ、そうして理性を奪い取ってそれを自分の攻勢に活かすつもりか。


(…女、って。こんなワケわかんない生き物だったっけ)


 ああ違った。女すべてがワケ分かんない、みたいに括ってしまったけど、そうじゃない女の子も確かにいるんだった。聞かれていればまた瀬井に大雑把だと怒られたかもしれない。

 ミコちゃんとか、ミコちゃんと仲の良い(一緒にいるとこを見かけたことがあるけど名前は知らない)女子とか、あの子達は性別という属性だけで、目の前のこいつと同じ輪の中に入れちゃいけないと激しく思う。


「違うと思うよ。俺は神威達を自分のものにしたいとは考えてなかった」


 柳井ときちんと視線を合わせる。俺の言葉がちゃんと伝わるように、ただ音として向かうのではなく意味を噛みしめてもらえるように。


「…“達”?  アタシ別に山田くん以外に興味ないんだけど」

「そうなんだろうな。だから余計に柳井のしてることは理解できない」

「何よ? 余計に、って。足立くんが言ってることの方が理解できない」


 す、と音を立てて息をのむ。勢いに乗せる言葉を思い浮かべる。ふと脳裏をよぎる過去のワンシーン。あれは、葛西だったよね。




『それでもおかしいことはおかしいと、誰かが言わなければ』


 学校内での喫煙は見つけ次第退学。生徒手帳の校則にもはっきり明示されていたのにそれは、とある男子生徒だけ例外扱いされようとしてたんだ。市議会議員様の大切なご子息だった。

 由緒正しき名門、私立中高一貫校、多額の寄付金を失いたくない大人達はきっといたんだろう。終いには葛西が悪者になっていて、俺達生徒には何も詳しいことが知らされないまま、葛西はいつのまにか他校へ異動することが決まってしまった。



 学年末、最後の日。何の因果か俺は日直だった。日誌をおざなりに仕上げ、職員室へ足を踏み入れた時だった。


『…いろいろと、ご迷惑をおかけしました』


 職員室の最奥を陣取る教頭のデカい机。落ち着きなく手を揉み合わせ、偉そうな椅子に偉そうに座る教頭に向かい、葛西が深々と頭を下げていた。


(どうして…?)


 そりゃあ、詳しいことは何も知らされてなかったけど、そんな時だからこそ、耳に入ってくる真実って、ある。ガキだからってナメんな、なんて大人達へ妙な反発心を持ったりして。

 だから、葛西は、むしろ迷惑をかけられた側なのだと思っていたのに。それなのに。


(どうして、謝ってる…?)


 端整な横顔を見る限り、そこには晴れ晴れしさも笑みも無く、ただただ言いようのない苦しさに満ちていた。葛西の口をつく言葉はとても丁寧だったけど、黒髪が垂れるほどに頭は下げられていたけど。

 ああ、本意じゃないんだな。それくらいは、感じ取れた。


『…葛西先生。もうこの件は、』

『…それでも、私は』


 自分のことを“私”と称する男は間違いなく大人であり教師だったんだけど、同じモラトリアムに位置する仲間っぽくも思えた。何かを探し、もがき足掻いて努力している。そんな風に。


『きっと、この先も。おかしいことはおかしい、と。間違っていることは間違っている、と。言い続けるんだろうと思います』

『…葛西先生』

『誰かがそう口にしなければ。子どもたちを危険に晒すことになってしまいます』


 あの時の葛西は、とても格好良かった。職員室内はしんと静まり返りそのせいかより一層、葛西が放った言葉が持つ力は空気を万遍なく伝わり、俺の身体中をびりびりと駆け抜けた。あんな風には、なれないけどさ。




「…柳井は、間違ってるよ。言ってることもやってることも、おかしいし。何より神威を、見誤ってるよ」

「何それ。アタシに男 見る目がないとでも言いたいの?」

「馬鹿なの、柳井。んなこと言ってないだろ」


 馬鹿、とか他人様に向けて使っちゃいけませんと言われ続けて大きくなったはずなのに。ああ、そうか。俺 結構ムカついてんだな。事ここに至って俺は微かに口元を歪ませた。こうハッキリ自認したムカつきって、向き合ったことそうそう無いなあ。


 ムカつきながらも自分の伝えたいことを口にする、これもまた俺にとってはすっごく経験値が貯まりそうな試練だ。上手くいったら俺、レベルアップ出来るんだろうか。柳井はどの程度のボスなんだろう、ロールプレイングゲームの戦闘シーンほど冷静ではいられない。分析もコンボも出来ないし、長けたスキルの活かし方も分からない、武器だって選べない。そりゃそうだ、プレイヤーは俺な訳だけど客観視してるんじゃない、直面してるからね。


「神威を選んでる時点で柳井の目は節穴じゃない。だけど見落としてるんだ、って。どうして神威に惹きつけられるのか、考えてみたことある?」

「理屈っぽーい、足立くんて。人 好きになるのにそんな深い理由って必要? 直感とか本能とか、そういうの大事にしないの?」

「否定はしないよ、柳井の生き方は。でもそれってどう働くんだよ? やっぱり外見要素が大部分 占めるんじゃないの?」

「何 言いたいのか…、」


 分かった? 分かったんだな、柳井。顔で選んだんじゃない、って吐き返す言葉に覇気が無いよ。


「山田くんのセンスの良さだってすごくいいなと思ってるわよ、いろいろ話してみたいのに足立くん達がそうさせてくれないんでしょ」


 おっと、そうきたか。まるで何もかもが周りのせいだ、と自分に非が無いかのように物言ったね、柳井。驚きとか称賛といった場に相応しくない感情がふわふわと行き交いそうになる、あまりにワケ分かんなさすぎて現実逃避しそうになった。


「話したいだけなら俺達がいてもいいよな? 二人だけにしか分からない世界があるとでも言いたいの? 俺らと神威は同じ方 向いてんだけど」

「何それ。すっかり親友気どり?」


 腕を組み斜に構え、漫画でよく目にするようなあからさまな嘲りの態度で柳井はせせら笑う。ふふん、とか、ははん、とか。擬態語 背負ってるんじゃないかと見間違えるほど分かりやすくてかえって萎える。

 怒りに任せて柳井の全部を否定するようなこと言っちゃ駄目だと思ってるから、一呼吸をおけるこの状況は都合が良い。と、思ってた。


「同じ方、って言うけど足立くん。それって山田くんに乗っかっただけでしょ? 何だか知らないけどずっと山田くんのこと遠巻きに見てたじゃん、お近づきになれたのねえ?」


 すごいな、反撃だ。そんな風に思考を逸らせる自分がまだいるけど、明らか劣勢を感じたりして。口が達者な肉食女子に口下手典型的草食男子が敵うはずもないのか。

 柳井の鼻で笑う様はますます板についてきて、ひん曲げてやりたいと子どもじみた衝動に駆られそうにもなる。


「…羨ましいんだ? 柳井」


 嘲笑なんて技、俺は生憎 持ち合わせてないからね。それでも前々から瀬井と当たりをつけていた柳井の感情へ言及する。もう、何が本当に言いたいことだったのか分からなくなってきた。柳井の術中にハマってるのかな、これ。マズイ気がする。


「んー? 羨ましいってかむしろ憐れ?」

「憐れ…?」

「足立くん、自分達がなんて噂されてるか知らないでしょ」


 それ以上を聞かない方がいいように思えた。悪い予感ってのは大概 当たるもんだから。噂なんてロクでもないのが大半だから。

 止める間もなくつらつらと美しくもない言葉を紡ぎ出す柳井の真っ赤な唇にぞわりと悪寒が走る。


「どんだけ二人が頑張ってみても弓削くんと吉居くんには敵わないのにねえ? 可哀想なレプリカだ、って」

「!…っ、」

「ああ、それともアレ? 足立くんも瀬井と同じでホモだかゲイだかそっち系の人? マジ羨ましくなんかないから、ウザいから逆に」


 可哀想と称された俺達。呼び捨てされた瀬井の名前。何がどうしてこんな話に?


 俺の沸点は、かなり高いと思っていた。いや、そんなのそもそも分かっちゃいなかったんだ。誰ともこんな風に、言葉で応酬したことなんて無かったから。しなくて済む平易な道を、人の背に隠れるようにして歩いて来たんだから。


「…柳井、お前――」


 図星を指されて瞬時に引き出されるような類の怒り、それよりも自分が大切に想う友達が槍玉にあげられた途端 蠢く言い表しようのない感情。

 神威は、俺達をレプリカにしようなんてこれっぽっちも思っちゃいないのに。

 俺達だってレプリカになりたかった訳じゃない。ただ、友達になりたかっただけ。それなのに。


「ナオ!」


 ほら、こんな風に大切な名を大事そうに呼んでくれる大切な友達にね。




 駆け寄る神威の姿がぼんやり滲みそうになって、俺は慌てて天を仰いだ。悔しいからなのか、何かがこみ上げそうになるのは。

 その悔しさの原因は何なんだと自問する。まさか柳井に言いたい放題 雑言をぶつけられたから、なんて答えは認められない。俺はそこまで弱くない。


(…いや。でも、やっぱ弱いんじゃん俺…、)


 知らないことは知らないと考える方が優れている、そんな名言を残したのはソクラテス先生だったか。じゃあ、誰か。教えて欲しい。

 友達のために何もしてあげられない自分の無力さを知って、だからどうだと言うんだろう。知ることで、強くなれるのなら。次 また同じような場面に出くわしたとして、確実に役立てる別の一手を選ぶことが出来るようになれるのなら。どれだけだって知ることの痛みに耐えようと思えるけれど。



 館内のカフェテリアへ俺を誘い場を終結させようとする神威と、ここぞとばかり追い縋る柳井を俺は交互に見つめていた。目を瞬かせそれまでとほんの少し視点が変わったせいか、視界の隅っこに小さな影を見つける。

 あれ。まさかね。いや…、でも。ひょっとして。


「……柳井」


 ずっとずっと、きっとずっと我慢してたんだと思う。神威が、柳井の名を呼んだその声。鬱屈した想いを音に乗せるとこんなにも低く暗く響くんだと、わずかに身震いした俺は、俺達だけが周りのほのぼのとした温かな風景から切り取られてしまったように感じられてならなかった。

 それはあまりにも神威に不似合すぎて、捕える像の端がまた滲みそうになってしまった。


「…今まではっきり言ってなかった俺が全部悪いんだけど」

「何の話?」


 小首を傾げつけまつ毛が取れそうな勢いで瞬きを繰り返す柳井のあざとさにむしろ感心する。

 もう俺、なんか女性不信になりそうだ。どうしてこんなに自信満々なの。可愛くなんか、ないと思うぞその仕草。全くもって俺だけの主観だけど。でも神威も絶対 惑わされないと思うぞ。神威の一番近くにいるのは誰だと思ってんだよ、ミコちゃんだぞ。


(…惑わされて欲しくなかったり…も、する)


 誰かに、こうあって欲しい、などと願うのは、抱きがちなことなんだけど、ひどく勝手なことなのだと分かった。偶像化されることを生業としてる人たちを除いて、だけどね。

 だから俺が神威はミコちゃん一筋の男であって欲しいと(要らん世話だと思うけど)ヒーロー視するのも勝手。こんな風に昏い瞳を、声を。誰かに向けるのはらしくないと思うのも勝手。




 ゴールデンウイークに帰省した俺は、母親と一緒に市内の路線バスに乗った。

 近くのショッピングセンターへ買い物に行って帰って来て、たったそれだけだったんだけど、ミコちゃんの一言は心に深く残っただけじゃなく俺をリアルに動かした。


『ナオくんが一緒にバスに乗ってあげればいいんだと思うよ』


 ミコちゃん。

 誰かを動かす一言、って。どうしたら絞り出すことが出来るんだろう。むしろそんな意識をせずともぽろりと生れ出るものなんだろうか。だとしたら俺には何が足りなかったんだろう。結局、神威にこんな役回りさせて。思い描いてた筋書きはこうじゃなかったはずなのに。


「すごく迷惑だと思ってる、柳井のこと」

「!…、っ」


 本来、解放された空間であるはずの中庭は点在するオブジェのせいでその区画ごとがこじんまりと纏まっている。だからか、声も通るのだろう。神威の想いが張りつめられた声音は微かに残るざわめきの中をすうっと響いていった。

 途端に身じろぐ視界の隅の人影。やっぱりあれはミコちゃんとその友達なんじゃないか。


 これ、聞かせていいものだろうか。まさか神威が柳井へ罵詈雑言を浴びせるとは思えないけど(浴びせる権利はあると思うけど)。それでも、うふふあははと笑い合えるような明るいシーンは続かないだろう。

 幸い、と言えば、神威は半ば背を向けているような格好であることくらい。表情まではたぶん、見てとれまい。


「…ナオに何 言ったの? 柳井」

「…ナオ…? って、足立くん? 呼び出されていろいろ言われたのはアタシの方よ? 山田くん」


 ストレートにぶつけられる神威の不機嫌さに、柳井は若干 たじろいだかに見えた。俺もトモも、たぶん、ほんの少し目を見開いたと思う。その声音、だけでなく表情も、初めて見る神威だった。

 全身を何か陽炎のような、揺れる青い焔が覆っているような。怖く、はなかった。ただ、ひどく遠く感じた。


「山田くん、友達選んだ方が良くない? 足立くんも瀬井もアイドルの親衛隊か何か? アタシ、山田くんと話くらいする権利あるでしょ? 絶対 山田くんにプラスになる話とかアタシ持ってんのよ? うち、パパが設計事務所やってるし」


 最後の方はもはや誰に聞かせたいのか…いや、俺とトモに、なんだろうな。お前達はそんなネタを持っているのかと、居丈高に問い質されているような気になった。

 そうだな、確かに。確かに俺は神威に何も与えていないと思う。むしろ与えてもらってるばかりだ。新たな気づき、知らなかった自分、居心地の好い場所、ミコちゃんの美味しいご飯。関係、というものが互いにかかわり合うことだとするならば俺達の“友達”というそれはひどく一方的なものだ。

 だけど俺は神威が本物のアイドルなんかじゃなくて良かったと思ってる。手が届く、同じ大学の同じ学部の同級生で。本来の一学年の差を普通に考えればここまでの接点を持てることが稀有だ。恋情とはまた違う、その奇跡のような偶然を俺は本当にありがたいと思ってる。


 それだけじゃ、駄目なのか。神威の友達でいて良い、とは認めてもらえないんだろうか。


 選びながら考えながらゆっくりとしか反論できない自分がまどろっこしくて嫌になる。神威の形相がますます強張る様を目の端に捕えながら、俺なりに慌てて言葉を吐き出した。


「だから神威と一度だけ寝たいって? 神威に利のあるネタを持ってるから? 言ってることもやってることもメチャクチャだと思わない? 柳井」

「べ、つにアタシそんなこと言った覚えないし! なんで足立くんがいちいち絡んでくるかな! アタシと山田くんの話じゃん!」


 柳井と神威の距離を縮めさせまいとしてきた。でも俺とトモは結局 失敗して、柳井を神威に近づけすぎてしまった。それをきっかけに俺達と神威の距離も近くなったけれど、それは思いがけずご褒美を貰えたようなもんだとは到底思えない。


 とにかく、何だか嫌なんだ。神威が綺麗な顔を歪ませるのも。ミコちゃんが泣いてしまうのも。何か、人の役に立ちたいと…いや、人の役に立てると奢ってる自分も。空回りばっかりしている切なさも。

 自分が変われば世界は、おのずと変わるのだと思ってた。でもそれはいつも自分が意図した通りとは限らないんだ。


「…柳井」

「なに? 山田くん」

「俺、奥さんのこと大事だし友達も大事なんだよね」

「…だから?」


 だから、と神威は柳井の言葉を丁寧になぞってすうと息を飲む。ああ、はっきりキッパリ拒絶するのか。つまるところ本人からの弁が一番効果的なんだろうか、そうはさせたくなかったのに。神威はキラキラしてるのが似合ってると思うから。

 無様に立ち尽くしたままぼんやりと思いめぐらす俺の耳に飛び込んできたのは、なかなかに不穏な神威の声だった。


「俺が大事にしてるもの、柳井が傷つけるんなら…俺も柳井のこと、傷つけるけど」


 神威、と呼びかける声が掠れる。傷つけるなんて昏い言葉、どうしたって、似合わない。似合わないから使うなよ、と本当は言ってあげたかった。

 ミコちゃんが聞いているかもしれないし、見せたくない姿かもしれないし。俺も、聞きたくないかもしれない。神威の暴言なんて。


 頭の中ではぐるぐるといろんな考えが廻るのに、廻るばかりで出口が無い。しなやかに動けやしないし、気の利いたセリフの一つも生まれてこない。俺はつまるところ柳井との場をどう収めたかったのかすら分からなくなってきた。

 何かに直面した時、もう少し動ける力があるように思ってた。目の前の神威みたいに、一言一言を強く吐き出していける力。

 傷つける、と前置きをし、辛く苦しそうな表情の歪みを必死に取り繕おうとする神威の、それは捨てきれない優しさ。そう感じてしまう俺の贔屓目は行き過ぎているんだろうか。


「…アタシ、もう結構 傷ついてるわよ」

「じゃあこれ以上、俺の周りに近づかないで。比べようなんて無いけど俺の奥さんの方が傷ついてるし、ナオもトモもすっごい嫌な思いしてる」


 俺達のことなんていいのに。神威が一番、傷ついて嫌な思いもしてるのに。


「近づかないなんて無理でしょ、一緒のゼミなんだし」

「じゃあ、俺はゼミ変わるよ。やりたいことへの近道はここかと思って入ったけど」

「ちょっと山田くん!」


 それは怒りなのか、それを通り越した呆れのせいなのか、鼻息荒く もう、と吐き出した柳井の声は、苛立ちが刺々しさを煽っていた。


「もーいいっ! 山田くんがこんっな面倒くさい人だと思わなかったっ…、」


 あ、泣いた。泣くんだ柳井。でもそれは強気仮面を剥いだ素の姿というよりも、ごってりと黒く縁取られた目の化粧を気にしながら水分で滲まないように指で押さえるといった…俺、自分で相当酷いと思うんだけど、パフォーマンスにしか見えないの。ああ、歪んでるよな性格が。

 ごめんな柳井、と思いつつ ごめんな神威、こんな面倒なことになって、と未だ神威の味方をし続けている。


「面倒くさいのは、柳井もでしょ」

「……!、っ」

「俺ね、基本的に自分の大事な人以外には愛想もへったくれもない冷酷人間なんだよ。つき合いの長いヤツはみんなそう言うと思う」


 場はもう神威と柳井の会話に転じていて、俺はいつ譲った覚えもないのに第三者として傍観している。そんな自分の無責任さにも嫌気がさした。


 神威、ってまあきっとモテただろうから目の前で女子に泣かれたことなんてザラにあるんだろう。だからか、と理由づけてしまうのは非モテ男子の僻みかもしれないが、ある種 修羅場と括ってもいい今、冷静に穏やかに動じることも妙に昂ぶることもなく対処している姿に強さを感じる。


(…いや、修羅場、と言うなら…)


 神威はよほど血なまぐさいシーンに遭遇しているはず。ついこの前、普段はアシメトリーな前髪に隠れている過去の傷痕を見せてもらったばかりだ。

 あんな共有、嬉しくない訳ないだろ。俺もトモも神威とのつき合いは長くないけれど、お前が本当に冷酷人間かどうかなんて、そんな判断くらい容易につけられる。


「…こ、後悔しないのっ? そんな狭い、世界だけで生きて…センスって、経験が磨くんじゃない? 若いんだし、いろんなこと経験したっていいでしょ? だからアタシ――」

「狭い? そんなことないよ」


 即座に言いきった神威は頬の傷痕を思い出したように長い指先でなぞる。何だろう、あの仕草。何か意味があるんだろうか。

 そうしてとても柔らかく薄っすらと、笑ってるように見えた。たぶん、光の加減でも微妙な角度でも気のせいでもなくて。


 神威って。俺が思うよりずっと強いんだな。


「俺が世界に直接 繋がってなくてもいいと思ってる。俺をいろんな世界に連れてってくれる接点は、少ないけどちゃんと、あるから」

「そんなの…」

「詭弁? そうかもね。でも俺なりに大事にしてるから。勿論 刹那的でも一時のものでもない繋がりだと思ってるよ。柳井は質より量なの? 接点が多ければセンスはより磨かれる? 俺はそうは思わない」


 置きどころがなくなったのかもしれないけど、神威は頬に触れた手をゆるりと下ろすと腕を組んで重心を整えた。ふう、と小さく吐き出した息。

 柳井は不思議と、次に何を言われるのか身構えているように見えた。確か、対面で話をしてる時、腕を組むという無意識下の行動は相手への拒絶を表しているんじゃなかったか。神威は、それ分かってやってるんだろうか。


「柳井が俺のことどう思ってたのか知らないけど。実際 俺は面倒くさいし俺の厳選された接点に柳井を加えるつもりは微塵も無いよ」

「な、ん…、」

「ナオに酷いこと言ってないよね?」

「ア、アタシの方がっ」


 神威、とそこでようやく俺は名を口にした。俺へと向き直る神威の表情が途端にふわんと柔らかくなり、その後に若干の苦味も走る。


「俺は何も言われてないよ、大丈夫」


 ウォータープルーフ、とかってやつなんだろうけどそれでもやっぱり滲んだ目元をどうにかしたそうに抗ってる柳井を目の端が捕らえ、何故だか急に気の毒になった。

 気の毒に、なんて思える自分の心の余裕がひどく厭らしいと感じる。神威の言質はとってないけど、それでも俺は神威の「少ないけど厳選された接点」の一つなんじゃないかと。神威に近い側、なんじゃないかと、その自負から柳井を憐れむ俺自身にちょっと吐き気がする。女々しい、ってこういうことを言うんじゃないのかな。


 女子の皆さんに失礼だな。それでももういい加減、この場をなんとか収めなければ。


「悪かったな、柳井。わざわざ呼び出してこんな、」

「…ホントよ。足立くんマジサイテー」


 言葉は俺へと向かっていても柳井の視線は刺々しく神威を貫いている。誰かの嫌悪や憎悪といった「悪」が付く感情を引き受けるのは確かに心地好いものではないけれど。それよりも何よりも、こんな状況に陥ってしまったことが悔やまれた。


 頭の中で考えているほど、実際に事は上手く運べない。と、いうことが分かった。

 じゃあ、この次は? 神威や、あるいは瀬井が困っていたとしてスマートな対処法が何となく分かったから、上手くやることが出来る?


(…とは、限らない。限らないんだけど…)


 限らないんだけど。行動しなければ、始まらない。何かに委ねて揺蕩っていたって、何も変わらない。俺が動かなければ、俺の前に道なんてこれっぽっちも拓けないんだよ。


「違うだろ、柳井。俺が」

「そうよ、繋がりの元を辿れば山田くんがマジクズ。バッカみたい、アタシ、何だってこんな――」


 バカみたい。


 柳井はもう一度そう吐いて、それをまるで捨て台詞かのように後味悪くその場に残して行った。


 晴れてて良かった。風があって良かった。そう思った。

 誰をも平等に照らし誰をもの間を爽やかに吹き過ぎていく。そこに善と悪、という明確な分け隔てはない。小さくなる柳井の背中から目が離せなかった。



 俺は良いことをしたかったはずだ。神威の役に立つことを。

 いや、単に自分が良いヤツになりたかっただけか。だからこんなに気分が悪い。利己的な欲を満たすために起こした行動は何の達成感ももたらさない。こちらへ歩み寄る神威の弱々しい表情に俺の涙腺は緩みそうになった。


「…ナオ、」

「ごめん、神威。俺 余計なことした。余計なことさせてごめん」


 神威に先に謝らせてはなるものかと、俺は勢い込んで一気にまくしたてた。

 良かった、声は震えてない。神威は瞬間 気圧されたように目を見開いたけどくしゃりと頬に皺寄せ、何言ってんの、と呟いた。


「余計なこととかじゃないでしょ。元々は俺がしっかりしてればこんなことには…最初からこう…見ないふりとか気づかないふりとか。しなきゃよかったんだよ」


 掌で顔をごしごしと擦りながら神威は弱々しく自省する。あまりに大きすぎるため息は背後から近づく気配をかき消してしまったらしい。


「いやホント。王子がそれ自己申告してくれると助かりますわー、あたしら思っててもなかなか口には、ねえ?」

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