第11話
「…こんな感じでいい? 大河内さん」
王子は本当に王子らしからぬ控え目さで訊いてきた。王子、ときたら基本スペックに“尊大な態度”とか備わってても世間が許しそうなもんなのに。いや、勝手に王子よばわりしてるのはあたしだからさ、そこに“らしさ”を求めるのはこれまたすっごい勝手。分かってる。
王子から手渡された原稿に目を走らせ目を瞠った。
「おっほー! すっご! 何すか王子、この上手さ! いや絵が上手いって知ってましたけどこれほどとは!」
「…え。プロの人に褒められた」
「良かったね、神威くん」
「ああ、そんなリア充 見せつけんでもらえますか、イラっとするんで」
いやしかしそれにしても、とあたしは原稿を手に体育座りでまじまじと見つめ直す。王子がこんなに描ける人だったとは。
何度か読み切りを載せてもらった月刊誌が「真夏のアツーい恋🖤大特集号」を出すとかで、あたしはなんと32ページもいただいた。当初のネームはちょっと背伸びしてオフィスで始まる密かな恋、に挑戦してみたんだけど、バイトすらしたことがないあたしには、正直 会社勤めの実態だとかオフィス内の備品一つ想像出来なくて四苦八苦。アシスタントの千津ちゃんがいろいろ資料を揃えてくれたけど、担当さんからリアルさに欠けるから感情移入できない、と指摘された。いや至極ごもっともです、はい。
そんなこんなで急遽 路線変更して、あたしは爽やか学園ラヴをお届けしようと躍起になってるところ。追い込みかけなきゃ、って段になって千津ちゃんから「もう行けません」って電話がかかってきた時には発狂しそうになったけど。
パースもとれるんだな王子、と感心する。三点透視法まで完璧だ。いや、この告白シーンの渡り廊下は大事だな、と思ってたけどすっごいわ。
あたしの心の声はダダ漏れだったのか「図学とかやってるから」とこれまた控え目な答えが返ってきた。
「…大河内さん。千津ちゃんと、何かあったの?」
王子にもうちょこっと頼もうかと原稿用紙をテーブルに置けば、開けた目の前にミコちゃん先輩の心配そうな顔があった。この人はまったくもってニブちんなんだか鋭いんだか分からない時がある。
「…千津ちゃんは、ですね。もうここには来んと思います、他の先生に付くって言ってたんで」
「…付く、って」
「アシスタントっすよ。もっと有名な先生のとこで募集してて。なんかツテがあったんでしょ」
出来る限り心中も声音もフラットに、と思ってるんだけど大丈夫かな、あたし。何か醜いものが混じってやしない? そういうの、ミコちゃん先輩にはすぐ見抜かれると思う。ひょっとするとその隣でミコちゃん先輩と同じ様に大きな瞳を切なく眇めている王子にも。
「…どうして―—」
「いや、実際そんなもんすよ。プロっつったってあたしは毛が生えたようなもんだし…、経験値ないものが上手く描けんかったし」
呆れられて、離れていかれて当然だろうと思う。プロっつったってこの程度か、って。ダメ出しされてネームを練り直すあたしを、千津ちゃんはどう思ったろう。
あたしには、たぶん。まだ、足りない。
掴みかけてた…そう、思いかけてた力は何だかするりと抜け落ちてしまって、満ち足りてない。惰性だけで自分が自分を動かしてるような毎日にやたら焦ってるんだよね。
つまるところあたしは、経験してなきゃ描けないのかという自問自答に苦しんでる。いや、正確に言うと答えが分かりきってるから、苦しいんだよ。
海賊王にならなくたって、錬金術師じゃなくたって、あやかしが見えなくたって、描ける人は描ける。それが、プロってもんなんだ。腐女子の集まりで読み回してた二次創作的なやつとは違うってのに。
悔しくて歯噛み、情けなくてため息。あたしは忙しい。
「…大河内さん。俺、他に何か手伝えない? 建物だったらわりと描けると思うんだけど」
「わりと、どころじゃないっすよ。ぜひともお願いします、王子」
「…王子、っていうのはやめて欲しいんだけど…」
「却下」
まいったなあ、なんて言葉が顔に浮かびそうなくらい困った表情の王子へ、あたしは背景の指示を出していく。この人、地頭良いんだろうな。「一」言ったら「十」分かる人、っているでしょ? こんな感じ、ってニュアンス伝えただけでふむふむと頷いてくれる王子にあたしは感心しきりだ。
「…ふふ。嬉しい」
「出た、ミコちゃん先輩の脳内リレー発言!」
手元の原稿用紙から顔を上げ、愛しの奥様を見、あたしを見た王子は訝しげに小首を傾げた。うん、そんな愛くるしい仕草が似合う21歳成人男子って王子くらいのもんだよ! 脳内リレー発言、って? とにっこにこ顔のミコちゃん先輩へこっそり問うている。
「時々、注意されるの。私、頭の中でぐるぐる考えてることの続きがそのまま口に出ちゃったりするから」
「あるよね確かに、礼ちゃんってそんなとこ。ネーミングのセンスあるんだねえ、大河内さん」
「…バカですか王子。バカップルですか。はよ取りかかって下さい」
細めた目で嘘っぱちの睨みをきかせれば、叱られてしゅんとうな垂れる大型犬みたいなへこみ具合。うわ、こんなん身近にいたら飽きないだろうな。
それでも律儀に手は動かすってどうなのよ、王子。真面目か。
「王子って意外と面白い人なんすね」
「えっ本当?!」
「そんな喜ぶとこですか」
王子がぶんぶんと勢いよく首を縦に振り肯定の意を表す隣で、ミコちゃん先輩もつられるように首肯する。あたしはまた目を眇めた。ほんと、リア充爆死してしまえ。
「や、あの…大河内さんとはその…もっと、仲良く。なれたらいいなあ、と…あの! 下心とかじゃなく!」
「何すかそれ。軽く告白っぽくなってますけどいいんすか」
「嬉しいもん、良いことよ」
そう言えば、とあたしは思い出す。
今日、うちを訪ねて来たミコちゃん先輩と王子は、折り入ってお願いしたいことが、と口上を述べてたじゃないか。丁度良いところに足りない人手が来たと手伝いに引きずり込んじゃったけど結局、何だったっけ? お願いごと、って。
下心が本当にあるヤツは、そんな風に言い回さんでしょ。あたしは苦笑しながら「で?」と続けた。
「何やったんすか、お願いごととやらは」
「あー、えっと」
「まあ、タイミング失わせたんはあたしですけどね。あ、手は動かしてくださいよ、王子」
拳を口元に当てこくり頷いた王子は素直に丸ペンを走らせながら、ちらりとミコちゃん先輩を盗み見た。さっきから変わらず極上微笑み大サービス中のミコちゃん先輩は、あたしの言葉を受けて王子へ視線を投げかけている。察するに“お願いごと”があるのは王子の方だけ、なんじゃなかろうか。
「…大河内さん。この忙しさは、いつまで…?」
「締め切りは今週末なんで。あ、王子、そこの壁はこっちの砂グラを貼って下さい」
「了解です…、じゃあ来週は少し、落ち着いてる?」
「この原稿、落とさんかったらですね! あたしの精神状態はすこぶる良好だと思いますけど! 落ちる落ちんは受験生並みに気ぃ遣ってもらっていいっすか?!」
「あ! ごめん――」
いや、手伝ってもらってるってのにあたしったら。自分の我儘勝手さに、カルシウム不足に、呆れ返ってしまう。
大きく吸い込んだ周りの空気を意のまま吐き出した。勿論、吐き出す時にテーブルの上のモロモロが飛んで行かないようあさっての方を向いて。
(…アホかあたしは。こんな気配りはするのに)
逸らした顔を王子へと戻す。王子の目は口ほどに物を言う。なんか、痛々しいじゃんか。あたしは ごめんね、と重ねて言われるより先に すみません、と頭を下げた。
「いかんすね、あたし…ちょっと八つ当たりっぽいというか、いやモロ八つ当たりというか」
美容室に行く時間が惜しくて伸ばしっぱなしの前髪を、あたしは指を梳き入れてガシガシ掻いた。その隙間から目に飛び込んでくる王子の黒髪には天使の輪。
狭いワンルームの唯一の窓から、穏やかな陽射しは誰にも平等に降りそそぐ。かぶりを振って否定する王子をキラキラと輝かせた。
「や、ごめん本当に俺が…空気読んでなくて、大河内さん忙しいのに押しかけて来ちゃって」
「ミコちゃん先輩から連絡はもらっとったんですから。本当に切羽詰まっとるなら玄関のドア 開けんかったら良かっただけでしょ」
それでも、あたしはそうしなかった。招き入れてむしろ待ってましたとばかりに手伝わせてる。謝る必要なんてないんです、王子。
高校の時よりずっと、漫画を描くことに充てられる時間は増えた。
なのに、今。締切に間に合わないかもしれないと独りいきり立っているのはどうしてだ。
漫画を描き始めた時からずっとプロデビューを目指してた。
なのに、今。最初の頃の気持ちって、どこに置いてきたんだ? あたし。
「…せっかく大河内さんから仲良し認定もらったのになあ俺…、」
「…別に取り消した覚えはないっすよ」
「うー、ん…でも」
言い淀んだ王子の不思議な間が気になって、あたしは伏せていた顔を上げた。長く骨ばった王子の指は繊細な手つきで砂っぽい柄のグラデトーンを原稿用紙へ貼り付け軽く圧着させると、絶妙な力加減でカッターを操り、線をなぞってはみ出している部分を細かく切っていく。隣で息を詰めトーンヘラを握りしめているミコちゃん先輩。
何だ、この二人。人生で初めての共同作業ですか。ウェディングケーキ入刀並みに緊張してんじゃ? 何だ、この真面目バカップル。
「…俺の、お願いごとなんて。大したことじゃなくて」
なんだか申し訳ない、なんてのたまう王子の神々しさがハンパない。
なんだこの、じわりと押し寄せる罪悪感。これはもう、何と言うか。この人 名前負けしてないなあ。神の威力とまでいかないまでもさ、天使レベルじゃあるよね。いや、王子の天使力 ハンパない。羽 見える。
「何、自分でハードル上げよんすか。マジくだらんお願いやったらミコちゃん先輩を嫁にもらいますよ」
「駄目駄目ダメダメ! 俺 泣くよ?!」
「泣くんかい!」
こうやって軽口叩いてる間に、お願いごとがうやむやにならないかな、とか。目論んでるでしょ、王子。そうはさせるか、っての。
お願いごとってのは、されると結構 嬉しいものだ…まあ、誰からされるか、にもよるけど。
「仲良しだからこそ大したことないお願いも出来るんでしょ。違いますか?」
「大河内さん…!」
「また分かりやすい感動っぷりですね、はよ言ってください」
会話の最中も王子の手は休まらない。愚直、と揶揄するには軽やかだし楽しそうな真っ直ぐさだ。きっと、あたしが課したあの禁止令も誠実に守ってるんだろう。手渡された原稿用紙、あたしが指定した箇所は文句のつけ様が無い出来栄えだった。
「…俺ね。来週ゼミ合宿の予定がありまして」
言いにくそうに切り出した王子。綺麗な眉は顰められ口元が苦々しく歪んでいる。何故だろう、とその理由を深慮するより先に 唇オバケの姿が暗く浮かんだ。
「ゼミ…ってことは。一緒に合宿しちゃう訳ですね、あのド派手ブスと」
「…いっそ清々しいまでの毒舌だね」
「言えない王子とミコちゃん先輩のために、あたしが代弁してるんです。で?」
王子の話に真剣に向き合っていない訳じゃないんだけど、それでもやっぱり切羽詰まってるあたしはまた別の原稿用紙を手にし、王子に描き入れてもらいたい背景の写真を資料入れの中から探し出す。
「それで、ね。その日…、来週の木曜なんだけど。礼ちゃんと一緒にいて欲しいなあ、と」
「ああ、いい…ん? お二人の愛の巣にあたしがお邪魔する体っすか? てかお隣のアイドルとサムライは?」
訊けば王子達が通う大学では前期試験前のこの時期、ゼミ合宿を設けている学科が多く、生憎とアイドル武瑠先輩もサムライ心先輩も日程が重なっちゃってるんだとか。
快速電車で二時間くらいの隣県に一泊。王子にとっては遠く感じられて堪らない距離なんだろう。
過保護…いや、王子は親じゃないんだから。過干渉? 行き過ぎた心配? そう思わなくもないけれど。
そもそも、王子。あたしはただ、ミコちゃん先輩と一緒にいればいいだけですか? そんな邪推もちらりと掠める。掠めるけれどいかんせんあたしはキャパが狭い。とにかくも目の前の締め切りに打ち勝たねば何事をもしっかりと考えられない。そうして思考を一旦追いやった。
「いいっすよ、喜んでお引き受けします、しますんで。王子、あと2ページ手伝ってください」
「あ! はい、こちらこそ喜んで!」
「居酒屋か! 最後まで全部手伝ってくれたら禁止令解除し—―」
「徹夜でも何でもしますから!」
鼻息荒く墨汁の蓋を開け、ベタ塗りの準備に取りかかる王子に、ミコちゃん先輩がくつくつと笑う。笑いながら「栄養ドリンク剤 買ってくるね」なんて男前なセリフをさらりと言ってのけた。
***
「…やっぱりねえ、ミコちゃん先輩」
「なあに?」
カフェテリアに射し込む陽射しはほど好い温もりで、入稿を終えたばかりの疲弊した身体は簡単に眠りの世界へ誘われそうになる。なんせ睡眠不足の日が続いてたんだ、致し方ない。
多くの人の摩擦で若干すり減った長椅子の背にだらしなく凭れかかり、目を閉じたまま頭を後ろへ倒すとぽかりと口が開いた。瞼の裏でチカチカと煌めく陽は心地好い。空気中を舞う埃をパクパクと食むあたしは池の鯉みたいだろうなあ。そう言えばかの有名な池野恋先生のペンネームの由来ってそこだったよなあ。いやもう、眠くて思考が迷子になってる。
「…春眠暁を覚えず、ですなあ。って、時期ズレか」
「話が飛びますなあ」
「いやね、王子は。ミコちゃん先輩に来て欲しいんやないかと」
「…どこに?」
そう口にしながらミコちゃん先輩はあたしが意図する先を考え込んでる。今朝、出発した王子はご丁寧に“旅のしおり”みたいな行程表を置いていったんだとか。修学旅行生かキミは、と物申したい反面、とにかく厳しくわが身を律せよと偉そうな言葉を王子へ投げつけたのは、他ならぬあたしですよ。うん。
いつ、どんなところを見られてもミコちゃん先輩を泣かせるような愚行は繰り返さない。想いを寄せる輩がどれほど傍近くで色香を振りまき惑わせようとしても。なんていう、王子の固い固い決意が滲み出てそうじゃんか。
「…行きましょ。うん。行ってみましょ」
「…大河内さん?」
「その前に15分だけ寝かせて――」
「…えっ?! ここ座ったままで?」
座ったままだから起きやすいんですよ。
そんなあたしの薀蓄は眠気が支配した動かぬ口元でもごもごとかき消された。
15分後に覚醒したあたしは、なかなかに冴え冴えとしている頭の中を感じていた。
よし、出かけよう。そんな風にあたしを急き立てるの単なる好奇心だけじゃないと思う。勿論、この陽気に心浮かれて何かが萌えいずってる訳でもない。
行きましょ、と誘った目的地に、ミコちゃん先輩はあまり良い顔をしなかった。だからか、ちっこい身体はソファーに縫い付けられたまま。無理に連れて行こうとは思ってない。思ってないんだけどね、ミコちゃん先輩。
「……私、は。神威くんのこと信頼してるから…、覗きに行くようなのは、ちょっと…」
「うん、分かってますよ」
あたしは構内の生協で買った紙パック飲料をストローでちるちると吸い上げながら応えた。でも、と続けるあたしのこの先の言葉がミコちゃん先輩の笑顔を取り戻せたら、今すぐにでもここを飛び出そう。
「この前、あたしは王子に手伝ってもらってもんのすごい助かりました」
「…うん。…うん?」
「王子、絵は上手いし楽しそうやし嫌がらんし。で、あたし調子に乗ってすっごい手伝ってもらったんすけど。あれがあの人の基本なんすね?」
「…基本?」
「無償。無条件。見返りを求めず困っている人を助けてあげる。そういうデフォルトが遺伝子に組み込まれとるんでしょ、どれだけ天使力ハンパないんすか」
あたしの褒め言葉を微塵も疑わず真に受けて、ミコちゃん先輩はえへへー、と崩れた笑みを浮かべる。あーあ、目じり垂れ下がっちゃって。正月の福笑いですか。ちょっと盛りすぎたかと思ったんだけどもう今さら訂正もできん。
コホンと咳払い一つ。わざとらしく声音を変えて だから、と続ける。
「余計に不思議やったんです。王子の、ミコちゃん先輩への想いの向け方はなんで時に無条件じゃないんやろう、って」
愛らしい笑みは残したまま、それでもミコちゃん先輩の頬にふと陰りが見えた。躊躇うように唇を舐めて。
それは逃げた私のせいだとでも言いたいんでしょう?
「ミコちゃん先輩のせい、とかじゃなくてね。あたしはつい忘れてしまうんすよ、バカップルがあまりに幸せそうだから、この人達を悲しませた辛い事件があった、ってこと」
ミコちゃん先輩は大きな瞳をあたしに据えて、ゆっくりと瞬きをした。繰り返される瞬きのたびに視線が少しずつ下へ落ちていく。
「怖かったんやないすかね、王子。ミコちゃん先輩のこと、手離したくなくて…あんなスマホの設定とか、無様やしみみっちいと思っとったんすけど」
あたしは何も頼まれてない。王子はあたしにただ、今日を一緒に過ごしてとお願いしただけ。だけど王子がもう、信用と信頼をはき違えることは無いと思うんだ。
「王子の全部を差し出してきてると思いません? ミコちゃん先輩が王子を信頼してる、ってんならどすこい信頼されてあげましょ。目に見えないものでもよく見れば分かることって、あるんですよ」
だってあたしには見えたもん。あの日、美術室前の廊下で。高い背を折り、ミコちゃん先輩の言葉を一言も聞き漏らすまいとする王子と、ちっちゃな背を少しでも伸ばし、王子に近づこうとつま先立ちで震えるミコちゃん先輩からは、お互いの「好き」が溢れていた。
こういうことなんだな、ってあたしには分かった。感じられた。今のあたしは、あの瞬間から始まっている…。
「…うああー…」
「え。な、何? 大河内さん…」
「あたし。忘れとったんかなあ…」
知らない、経験したことない、から描けないんじゃない。あの時みたいに関心を持って、想いを添わせて、自分から近づいていくことで、出逢える素晴らしさとか心打たれる風景とかあるんじゃん。
「何かの約束? 忘れ物? どうしたの? 大丈夫?」
「“才能とは情熱を持続させる能力のこと”」
「…何ひとつ会話が成立してないんだけど」
「かの有名な宮崎駿先生の名言ですよ、知らんすか」
ごめんね知らない、と申し訳なさそうに眉を顰めたミコちゃん先輩へ、あたしは伸びをしながら苦笑する。ほんと、真面目なんだよなあ。
「あたしが漫画を描くのが好きで好きでたまらんのと同じくらい、王子はミコちゃん先輩を好きで好きでたまらんのでしょ。そんな情熱、もはや才能ですって。ヘタレ王子は不甲斐ないし情けないとこもあるけど、強くあろうともがき続けよるんですね」
そういう泥くささってあたしは嫌いじゃない。ましてや、王子だもん。何でも備わってるハイスペック男子に世の中ほいほい渡っていかれたら、嫌味すぎて反吐が出そうじゃん。
「行きましょ、ミコちゃん先輩。王子の晴れ姿 見届けに。てかね、漫画的王道展開やったらここは行くとこなんですって」
「…それで結局、行かなきゃよかった、って泣くパターンだったりして」
「ノンノン。待っているのは絆をさらに深めた二人のハピエンっすよ」
それに、とあたしは言葉を追加する。
こんなの信じちゃもらえんかもしれんけど、それでもあたしは、ミコちゃん先輩から何かをひどく断られた記憶はないからさ。
「ネタ。ネタください、あたしに」
「…大河内さんの嘘って分かりやすいの気づいてる?」
「いやマジ行き詰まっとんすよ、次は連載もらえそうなのに」
「えっ、すごい! おめでとう!」
「日本語よぉく聞いてくださいね、まだ決まったわけやないですから」
他人様の喜びを自分ごとのように感じてくれるミコちゃん先輩に、バックへ花咲きそうな笑みが戻った。王子、花は描けるんかな、なんて。いかんな、思考がどうしてもあたし寄りだ。
「はい、じゃあ出発ー」
ミコちゃん先輩の可愛いひざ小僧をトントンと二回。突けばのろのろと立ち上がる姿が、古びたブリキ人形みたいで面白い。
あたしの笑顔にいつもの笑顔が返ってきたよ。よし、行ってみよう。
王子、頑張ってよ? いや、何が起きるか分かんないけどさ。今回はアイドルもサムライもいないじゃん。一人でラスボスやっつけなきゃじゃん。
あたしは勝手な期待を胸にポケットからスマホを取り出す。本当に勝手だ、また新しく溢れる「好き」の場面をこの目で見たいと思ってるあたしは。不意に過ぎる澄んだ空気は知らずあたしの口元を緩ませ、指先は軽やかに乗換案内のアプリを起動した。
駅構内のコンビニでおやつと飲み物を購入して、あたし達は快速電車へ乗り込む。決して決して、遠足気分ではありません。
朝の通勤ラッシュはとっくに過ぎてるせいか乗客はまばらで、レジ袋をかさかさ言わせながらあたしは窓際の席へどかりと腰を下ろした。基本、引きこもりの運動不足。立ってなんかいられない。
次いでふわりと隣に降りてきたミコちゃん先輩を、改めてちっさいな、と感じた。レジ袋を持つ手は同じ人としての手、のはずなのに、華奢なラインも肌の白さも指一本一本の太さもまるで違う。
いいなあ、これ。たまたま乗り合わせた電車内、俯けていた視界の隅に入った女性の白い肌に惹かれて。気づかれないようにこっそりと視線を下から上へ辿らせればそれは愛らしく綺麗な横顔。目が合った訳でもないのに赤面しハッと慌てて視線を逸らす間際、彼の瞳が捕えたモノは、彼女の左手薬指にキラリと光る銀色の輝き――。
「…さん、大河内さん、妄想中 恐れ入りますが」
「…んあ、何すか。妄想だなんて失礼な、ネタ作りに勤しんでるんすよ」
「ああ、そうだったの?」
ミコちゃん先輩の細い指は、あたしへおやつのおすそ分けを差し出した。お礼を言いながら受け取って、そう言えばこういうシチュエーションって初めてかも、と思い至る。座席、って指定された場所で肩寄せ合う、なんての。
いつもはあたしん家だもん、狭いとはいえもう少し空間に余裕がある。
何だこの、妙な緊張。しかもいつも漂ってくる良い匂いと違ってる…てか、ミコちゃん先輩からはいつも良い匂いが漂ってくると刷り込まれてるあたしがちょっと変態っぽくて嫌になる。
「何すか、これ。香水?」
「え、香水はしてないよ。柔軟剤 変えたからじゃないかなあ」
くんくんとミコちゃん先輩の白シャツへ鼻を近づけたあたしを真似るように、同じ仕草を繰り返す先輩。いやあ。同じ仕草なんだけど何だかな、取り組む人間が違うとこうも可愛さ萌え度が違うのか。なんだか、いろいろ新鮮だ。
旅ってほど大仰な行程じゃないけど、それでも、あたしの目に映る何もかもが狭い部屋の淀んだ空気越しじゃない“直”って気がする。
「…あたしの方が、連れ出してもらっとんかなあ」
ただ同じ場所に佇んでいるままでは、新しいネタなんて浮かんでこないのかもな。行き詰ってたここ数週間、あたしはちょっとでも外の空気を吸ったっけ? 妄想は自由でどこまでも膨らませられるんだけど、でもそれはあたしだけの世界を押し付けてるだけなのかもしれない。やっぱりそこにあたしなりのメッセージとか問いかけとかリアルさとかがないと、読者さんの共感は得られないのかもなあ。
「…電車に乗るのってね。私、結構 怖かったの」
「…過去形? 今は大丈夫なんすか?」
大丈夫、とにっこりほほ笑むミコちゃん先輩に、焦ったあたしは一気に安堵する。今日のこのプチ旅行はお節介だし要らぬお世話だと重々承知してるけど、それに輪をかけて無理をさせたとなればもう、罪悪感だけで地中深く潜り込めるよ、あたし。
「痴漢にでも遭いましたか」
「ううん。このまま家に帰れなくなるのかも、って」
あたしはお喋りな方だと自分でも認めてるし、考えるより先に言葉が口をつくタイプだけど、流石に空気を読んで慎重にならなきゃいけない時くらい、分かってるつもり。つまり、今だ。
いや。てか出ないよ。二の句が継げない…は、意味が違うって、あたしのバカ。
「あ、ごめんね? 空気悪くなっちゃった」
「うー…いえいえ。あたしの人生経験不足です。何つったら良いのか分からんかった」
対面で座らず、良かったのかもしれないとあたしは感じた。隣に並んで、窓外を流れる同じ景色を目にして、次の到着地を告げるアナウンスを耳にして。そんな物理的な“共有”が、気持ちをさらに寄り添わせてくれるような。どうか、錯覚じゃありませんように。
「…理由を、訊いても?」
「…むしろ、訊いて欲しい」
もう、ここだけ切り取ったらなんかムズムズしてきますってば。ミコちゃん先輩は本当に自分のポテンシャルに無頓着すぎる。などと思考を逸らしながら、あたしはこの可愛さの塊がどこか隠し持つ暗い影の理由に近づけることが嬉しかった。
不謹慎かもしれない。それでも。ああ、あたしこの人の友達なんだ、って、深く思えたから。
ミコちゃん先輩はたぶん意識して、何てことない調子で自身の小さい頃を語ってくれた。それをあたしにも示すように、時々おかしなタイミングでプリッツがぽきんぽきんと音を立てる。そんな気 遣ってくれんでもいいのに。そう思うけれど気を遣わないでとひどく請う方がミコちゃん先輩にとって難しいのかもしれない。
恋人とのランデヴーに子どもを連れて行くママってのもいかがかと思うけど、ましてやデパートの屋上に置いて行こうとするなんて。要らないと思ってしまう子どもをどうして産むんだろう。たとえどんな状況であれ産んだ子どもへ責任と愛情を以ってどうして向き合えないんだろう。至極真っ当で当たり前に思えるそんなあたしの考えは、でもミコちゃん先輩のママを思い遣ってないことになるのかな。よそはよそ、ウチはウチだから。
「それは、確かに。トラウマになりますね」
「そんな大袈裟なものじゃないのよ、実際 電車に乗る機会ってあんまり無かったし。時々思い出して、胃の奥の方がズーンとしたくらい」
その“胃の奥の方がズーンと”ってのがどの程度の気持ち悪さなのか。ミコちゃん先輩の身体はただでさえ小さいのに、もっときゅうっと縮み上がったんだろうか。こんな、可愛い人が。こんな、優しい人が、辛く寂しかった時にどうしてあたしは傍にいてあげられなかったんだろう。いや、あたしだってもっと小さかったんだから何をしてあげられた訳じゃないけど。
でもなんか、どうしようもなく悔しかった。
「…うちは結構、ママと仲良しなんすよ」
「そうなんだ? 良いね」
「ママは漫画家になりたかったらしくて…でもお婆ちゃんからすっごい反対されて泣く泣く諦めたクチなんで。基本的に応援してくれるんすよね」
ほらまたあたしの悪い癖で、何を結論とするのか定まらないまま、するすると口走ってる。ママって総称しても、本当にいろいろなタイプがいるから。あたしん家のママの話をしたってミコちゃん先輩の心をチクチク痛めてる過去は消せやしないと思うんだけど。
「あたしに言わせれば反対されたくらいで諦めるなんてその程度じゃん、って感じなんすけど…やっぱどこか羨ましいみたいで、漫画家になれたあたしのこと。時々、作品に口出すんですよねママ…そういう時はマジでウザい」
「心配でもあるんだろうけど、ね」
「塚ちんの家はね、逆にお母さんと仲 悪いんすよ。塚ちんの弟ベタ可愛がりで、お母さんってのは男の子に甘いんすかね」
あたしは一人っ子なので分からない、と追加するとミコちゃん先輩はうーん、と唸り遠い目をした。ちっこい弟がいるんじゃなかったっけ、先輩。やがて 私のところは、と小さな声が会話を繋ぎ紡いでくれる。
タタタン、タタタン、と不規則に、けれど心地好く線路の音はあたし達を目的地へと連れて行く。結論なんかなくたって、答えなんか出なくたって。人は否応なしに次の瞬間へと連れて行かれるんだな。
「弟だけ特別、っていうのはなかったかなあ。最近は仲良くやってるみたいだけど」
「先輩は? お母さんと仲良くないんすか」
ずけずけと立ち入ったことを訊いている自覚はある。せめて重苦しさが漂わないように気をつけるから。だから先輩、その暗いところもやわなところもあたしに見せてください。
もっと早くに友達になりたかった、ってどうしようもなく悔しい気持ち、取り戻すために追いつくから。
先輩はまた うーん、と小さく唸った。何となく感じるのは、すっごく悩ませてる訳じゃなくてこの真面目な人が真剣に言葉を選ぶまでの思考の間、なんだということ。それが分かってしまえば、気を遣わせているのかも、と臆するのではなく、ただ黙って待っていればいいんだと心地好い。
電車の窓はさすがに開けられないけど、それでも感じられる初夏の風がすいすいとすぐ傍を走っていく。もっとド田舎を走る各駅停車の鈍行、なんてのが四季を愛でるにはちょうど良いのかもしれないなあ。
空気は、あたし達が生かされている環境の変化を逐一 教えてくれるんだよ。ダメだわ、やっぱり。引きこもってちゃ。スクリーントーンの番号を変えてカッターでの削り方を少し変えれば、そりゃあ夏の空も秋の空も描けるけど。
何が生えてて何が浮かんでて何が飛んでて。あたしはそんなの、よく知らない。生きてるだけなんて、つまらないんだわ。
「お母さんとは…そうね、あまり仲良くなかった、かな」
「これまた過去形すか」
「うん…好きじゃなかった」
「お。ぶっちゃけましたね」
嫌い、なんていうネガティブ発言がこれほど似合わない女子も珍しいもんだ。たいていが悪口陰口他人の不幸ネタがスイッチで目を輝かせるように仕込まれてるのに。
「でもね…この前、謝られちゃって」
「…謝られちゃって?」
その言い方に何とも気を引かれ、あたしは電車に乗り込んでから初めてまともにミコちゃん先輩の顔を覗き込んだ。
謝られちゃって、とは何だろな。その場の流れで謝罪の言葉だけ仕方なく受け容れざるを得ませんでした、的な?
いやいや、そんなワケないか。ぽややんとしてそうで、ミコちゃん先輩はかなり頑固者。意に添わないことを甘受するとは思えん。
とすると、何だ。思ってもなかったのに謝られちゃってビックリ的な?
「んー、まあ。親から謝られるってあんま無いっすね」
「そうだよね。私、智…弟が小さい頃は口やかましく言い聞かせてたの。“悪いことしたらごめんなさいでしょ”って」
「基本っすね、人としてのね」
ミコちゃん先輩はまた そうだよね、と相槌をくれ、ようやっと見つめていたあたしの視線に気づいた。今頃かい、ほんっと自分への頓着に欠ける美人だ。気づいた途端 放たれた笑顔があんまり無邪気で可愛いから許すけど。
「ごめんなさいって言われたら…許してあげるのよ、って。仲直りの言葉だよ、っていうのも」
「ああ、それもよう言われましたねえ」
あたしの拙い洞察力を発揮させるに、戸惑ってる、って表現が一番しっくりくるのかな。まさか長年 嫌ってた母親から今になって謝られるとは思ってもみなかった、ってとこ?
謝られたら許してあげるのよ、ってそれをミコちゃん先輩は今、ちっこい弟に対してじゃなく自分へ言い聞かせてる最中なのかもしれない。
許してあげたんすか。それとも、許せたんすか。
どっちがよりミコちゃん先輩の心中に近いんだろう。こんなぶっちゃけトークされてんだもん、ガールズトークとするには色気が足りないけど。妹尾先輩が傍近くにいない今、ちょっとは代わりになりたいな、くらい欲張ってる。
正しくは、なれないと分かってる。誰かの代わりは誰にも出来ない。プロとしてデビューしたてのあたしに担当さんは最初にそう言ったんだ。だから自覚を持ってくださいね、と。大河内先生の漫画は大河内先生にしか描けないんですよ、と。
「…大河内さんだったら…あ、そうか。お母さんと仲良しだもんね、比べて考えるのは難しいか」
「そっすねえ…先輩のとことうちじゃ…。ま、でもあたしが思うにミコちゃん先輩のママさんも、勇気 要ったかなあ、って」
別に先輩のママさんの肩を持つつもりはない、だけど。心優しいこの人は、不思議なくらいどこか頑なだったりするから、たぶん。ごめんなさい、の一言で解けていったはずの心の固結びを、その端っこを未だ握りしめてんじゃなかろうか。
それが最後の矜恃だとでも? ミコちゃん先輩。眉間に皺寄せて異を唱えられたところで、凄みも無いですよ。
もういいよ、って言いたいんじゃないっすか? 本当は。そんな風に、もうとっくに。
「人間ってその立場に置かれると、何かこう…素直に謝ったり出来んくなるんやないすかね? あたしも今、そうなんかもしれんけど」
「…大河内さんが?」
ミコちゃん先輩は先輩なんだけど、その小ささからか見た目の儚さからかどうにも庇護欲を掻き立てられてた。あたしはたぶん後輩としてはすっごく大柄な態度をとってきたと認めてる。
窓枠に肘をついて掌へ顎を乗せる。王子の元へはあと駅二つ。あたしもちょっとぶっちゃけてみようかな。旅の恥はかき捨て、なんて言うじゃん。
「つけあがっとったんですよ、あたし。いやこれ、過去形じゃないかもしれんけど」
ミコちゃん先輩はウンともスンとも返してこない。軽々しく“そんなことないよ”なんて言わないあたりが真面目なこの人らしくて落ち着ける。
「先生、なんて呼ばれて…いい気になっとったんですよね。あたしは葛西みたく出来た人間でもないのに」
先生、という肩書きはあたしをひどく勘違いさせた。専門性のある職に与えられた呼称、ってのに過ぎないのにさ。さも自分がそう呼ばれるに相応しい、くらい思ってたんじゃないの。いや、そんな風に省みることもないほどに溺れてた。
“先生”なんてのは、ほんと。葛西みたいに誰かの心をグッと持ってくヤツが纏うのが正解なんだと思う。
高校時代、身内ウケする BLネタの同人誌でほぼ毎回、葛西のことをそれは面白おかしくイジったもんだ。大人気やゆよトリオと絡めてシリーズ化してた(弓削先輩との巻がそれはもう御好評いただきました)。そのせいで自分の性癖まで疑われたってのにあのイケメンはね。
“お前、凄い力 持ってんだねー、羨ましい”
なんて。
羨ましいだよ? 大人が子どもに、先生が生徒に、だよ?
綺麗な顔をくしゃっと笑み崩してさ、あたしが美術室の片隅でチマチマ描いてた原稿見て、サラリと言ってくれちゃって。
キュンとした、なんて。これがトキメキってやつかと体感した瞬間だった、なんて。絶対 言ってあげないんだからね。
「でも…プロの漫画家、って立場を手に入れたのは大河内さん自身の力なんだから」
ぽきんと乾いた音を立て、手に持つお菓子を少しずつ口内へ運ぶミコちゃん先輩の所作は上品だ。本当は話すことだけに集中したいのかもしれない、ただ 普段よりぶっちゃけ気味のこのガルトーが重苦しくならないよう、無理やり付け足してる感じがして。さして笑うとこでもないんだけど、何となく口の端が緩くなる。
「そう、そこは頑張ったんですよ? あたし。最初は箸にも棒にもかからんかったけどずっと投稿し続けたし、描き続けてるとちょこっとずつは上手くなってきたし、とにかく一日中 漫画のことだけ考えてても誰からも何も言われん人生 送りたかったんですよ」
「送れてるよね、今」
「うん、まあ。実際のところ一日中漫画のことだけ、って暮らしぶりはどうかと思いましたけど」
そう、それだとつまらないんだ、って分かった。今日のこの、小さな冒険はあたしに気づきを与えてくれる。
「19やそこらの若造が先生、ってねえ。ナイでしょ、普通。若さを持ち出すのは卑怯なんすけど…自分を合理化したい言い訳だから」
「大河内さんのそういう真面目な考え方 良いと思う」
「いや100パー、先輩のが真面目」
電車はゆっくりと駅のホームへ滑り込んでいく。目が捕らえる像は縁取りが曖昧ではなく、くっきりと鮮やかになる。それにつれ、あたしのもどかしい思考もクリアになっていくようだ。あと一駅。王子は今頃、近代美術館訪問中だったっけ。
「なりたいものになれた。でもそこについて来た立場は自分が思ってたのと違ってて…目の高さ、って言っていいんかな、それがちょっと変わったら見えてくるもんがあるんすね」
だから、って繋いだ先をきっともうミコちゃん先輩は分かってる。あたしの話にひっかけて、ミコちゃん先輩のママを正当化するつもりはさらさらないんだけど。それでもこんな風にしかあたしは、先輩の胸中にわだかまってる最後のモヤモヤを晴らしてあげることは出来んからさ。
「先輩のママさんは。確かに望んで“お母さん”になったんじゃないんでしょうね」
「……うん。そう、だと思う」
「でも、キャリアに生きる女、ってのは。なりたくてなった姿なワケですよね」
「そうね…、でもそこについて来た立場はきっと、お母さんにとって苦しいんだわ」
苦しくてたまらない現状を変えたい時、人はどうするんだろう。荒々しく吹きすさぶ風が吹いているとするならば、敢えて頑なに立ち向かうのも術だろうし、しなやかに力を受け流すのも一手だろう。じっと耐え忍ぶのも、逃げちゃうってのも選択肢。
あたしはね、先輩。
「あたしは…、先生、なんて呼ばれちゃってんのにネタに詰まって経験してない世界が描けなくて担当さんからさんざんダメ出しくらった時。ただただ、言い訳しか探せませんでした」
「……大河内さん――」
「葛西の、何がスゴいと思ったかってね、先輩。あの人、気持ちいいくらい認めるでしょ、いろんなこと。ま、だからたくさんの生徒から慕われて認められてんのかもしれんけど」
車内を流れる軽やかなメロディとアナウンスが次の駅名を告げた。早かったな、もう降りなきゃ。夢中で喋ってると体感時間は短いもんだ。
あたしの言葉に何と返そうか思案しながら、ミコちゃん先輩はお菓子のゴミくずをコンビニのレジ袋へまとめ入れていく。
「……お母さんも、スゴい、のかな。大河内さんの考えに依るのなら」
「そう。ごめんね、って。認めて謝ってくれたんでしょ? 仕方がないわね許してあげるわ、くらい言ったらどうすか」
「……その居丈高属性は、ないわ」
「まあね、25歳を過ぎた人間の考え方やら生き方やら他力で変えるんは難しいんですと。よってこちら側が譲歩して“変わって”あげるしかないって」
「何情報? それ」
「はい、降りて降りて」
ふふふ、と笑いながらミコちゃん先輩は席を立つ。
あたしは先輩の後につきながら、前を行く小さな背中が少しばかり晴れやかさを纏っていることを願った。
初めて訪れる場所って心細さを感じそうなものだけど、独りじゃない、って不思議だ。それだけで自分が何か出来そうな気になる。ゆっくりゆっくり並び歩くのがたとえ儚げなミコちゃん先輩だとしてもね。
見かけによらずこの人はしっかり者。あ、でも。この迷いない足どり。あたし、勝手に決めつけてたのかな。
「先輩はここ、来たことあるんすか?」
「神威くんとね…一昨年かな、神威くんが好きな建築家さんの企画展があって。模型とかね、それを見に来たの」
「そりゃ勿論 王子とでしょうけど。先輩も一緒に見て回るんすか? そういう時」
あたしの質問の深意を探るようにミコちゃん先輩はあたしを見上げる。二人がすごく仲良しだ、っつーのは嫌というほど見せつけられているけれど、何処かに出かけた二人の図ってのをあたしはヒキで見たことがないな。
「うん…一緒に。正直 分からないことが多いけど」
「面白さが?」
「ううん、専門用語とか。でも神威くんが一つずつ丁寧に教えてくれるからそれはそれで面白いし…」
「…し? 何すか」
「真っ白なのね、模型。色が着いてなくて…だから余計に想像が膨らむのかな」
にこり、と分かりやすく意味ありげに笑顔を向けられた。何すかそれ。こっちが赤面しそうになるんですけど。
「私達のカフェはどんな風に出来上がるのかなあ、って…カウンター席に座ってくれるのは誰だろう、ロフトから消しゴムの消しクズが飛んでくるのかな、とか」
直接的な表現で嬉しい言葉を貰えるのもニヤけちゃうけど、婉曲表現がじんわり胸に沁み入ってくのも悪くないもんだ。あたし専用のロフトだなんてあんなの、冗談のつもりだったのに。なんてね。嘘ウソ。本当はかなり期待してる。あたしもミコちゃん先輩のカフェにいていいんだよ、ってお墨付き。私達の、“達”に。入れてもらいたいじゃん。
「神威くんと私と、一緒に見て回っても感じてることはたぶん違うし、面白さも興味の持ち方も違うと思うわ」
「でも、寂しくはない、と」
「そうね…いつかね、って思い描いてるものが同じだからかな」
「幸せ者すね、先輩は」
いや、王子の方なのか? 幸せ者なのは。
だって世の中の女子の大半は、あそこに行きたい、このお店に連れてって、とか、彼氏やらダンナやらを自分の我儘につき合わせたがるんじゃないの? 二人に色濃い共通の趣味がある、とかならともかく。これ、かなり前に美容室で読んだ女性月刊誌情報ですけども。
ダンナ様に三歩下がって付き従う、みたいなさ。昭和初期…いや、もうどこまで遡ればいいか分かんないけどこう…女子の慎ましやかさ、ってやつね。ここにあり、ってね。というか、ミコちゃん先輩はねー、歩幅もちっさいから王子が浮き足立って駆け出したら自然と三歩下がった状態になるわな。ふふふ。
「…え。どうしたの?」
「んー、や。恋 したいなあ、と思ったり思わなかったり」
「すると良いのに、大河内さん」
「ちょっとそこまで、みたく簡単に言わんでくださいね」
「でも向井理が理想でしょう?」
「でも、って何すか。いますよ、ドッペルゲンガー」
「超常現象? 現実見ようね?」
「見てますよ! 現に王子みたいなイケメンがいるんすから」
「神威くんは、駄目よ?」
「お願いされても要らんですー」
駅から歩くこと暫し。青々と茂る芝の向こう、静かにそこに佇む洗練された美しい建物が見えてきた。
あたしだって(単位はいつだってヤバいけど)一応、美大生なのでね。なかなか面白い企画展をやっている美術館だと聞いたことがある。
人間に喩えて言えばさながら背筋を伸ばして姿勢良く、って感じか。荘厳な居ずまいであたしとミコちゃん先輩を出迎える御影石の階段。
ミコちゃん先輩のローヒールは、一足上るごとにカツンコツンといかにもな音を立てる。あたし、スニーカーだなあ。ちょっとお客様、とかって入館拒否とかされんよね?
「…また、嫌な場面に遭遇したりして」
じっとエントランスを見据えたまま、ミコちゃん先輩はゆるりとトートバッグを左手に持ち替えた。
きっとその行動に意味は無い。いつになく饒舌だと感じたさっきまでもそう。胸がざわついて落ち着かなくて仕方ないんだろう。ちりちりと炎の外側が肌を掠めるようなもどかしい焦燥感でいっぱいなんだろう。
そんな心的ストレスを与えたかった訳じゃないんすよ、先輩。あたしは、綺麗で可愛くて本来なら透明感あふれるはずの横顔がほんのり翳っていることに罪悪感を覚えながら言いたいことを口にする。さすがに顔は逸らした。ごめんなさい、って思う部分があるから。
「うん、不安はどんどん口に出すと良いっすよ。実現せんから」
「そうなの?」
「ミコちゃん先輩はいかんせん溜め込みすぎなんすよ。適度に吐き出していかんとそのうちそのちっちゃな身体、おどろおどろしいもんに乗っ取られますよ?」
ふ、と先輩の口元が微かに緩んだ。不思議と、無理が見え隠れする嘘くさい類ではなく、心底から思わずこぼれた風の笑み。
「ちっちゃい、は。余計です」
「そこすか。もう今更 背は伸びませんて」
「二十歳過ぎても人間には可能性が」
「都市伝説ですね、都市伝説」
自動ドアは派手な音も立てず静かにあたし達を迎え入れる。それぞれがバッグから財布と学生証を取り出しながら声を落として追加した。
「先輩のママさんみたく…謝ってくれたら消えてくわだかまり、ってのもあると思いますけど。あの女は謝りませんからね、絶対」
くるん、とミコちゃん先輩の大きな瞳があたしを見上げたもんだから、一気に恥ずかしさがこみ上げた。眼力ある人からじっと見つめられるのって落ち着かない。ひどく何かを暴かれそうな。いや別に隠しごとなんて無いんだけどさ。
「わだかまり…消えてる、のかな。私」
バリアフリーが整っている館内、緩やかなスロープを進む。見上げる天井は高く上下階を連続させた空間が広いせいか、小声であっても反響音を大きく感じた。
こうやって近しいのは、これまた悪くない。
「まあ、少なくともあたしにはそう聞こえましたけどね。口に出しながら自分の胸の内を整理してる、っつーか」
受付の綺麗なお姉さんへ学生証を見せながらお金を渡して、あたし達は引き換えにてらてら輝く瀟洒なチケットを手に入れた。
さて、いざ。案内板で展示会場を確認する。「建築家による7つのインスタレーション」。これだ。
「勿論、ママさんだから、ってのはあると思いますよ? まったくの他人じゃない、血の繋がりがある人だから。理由としてはベタだけど、ほら。そうやって無理くりにでもこじつけとけば、何となくこそばゆい気持ち、逸らせるでしょ」
「…うん。うん、そうね…長いこと嫌いだ、ああはなりたくないなんて突っぱねてきたのに。ごめんねの一言で浮上しちゃう私って芯が通ってなくて嫌だったんだけど」
「考え方ひとつですよ。先輩に芯が通ってないとは思えんけど」
そう? って問うような瞳を明らか視界の隅っこに感じる。
何となく、先輩の半歩前を進むあたし。教育上よろしくないエロシーンを見せたくなくてちっちゃな子どもの視界を遮るお母さん心理ってこんなのかもしれない。
「王子のこと、大好きやないですか。そこはブレんでしょ」
平日昼間のせいか、決して人は多くない。それでもきっと、素晴らしい作品を前にして昂ぶる誰それの気持ちはひんやりとした館内の温度を確実に上昇させ、目に見えない熱気の帯がふわりと通り過ぎていくようだ。「順路」と控えめに掲示してあるそれを横目に、あたし達は王子がいるであろう空間へ静かに足を踏み入れた。
おそらくは館内で一番広い展示会場を使ってあるんだろう。それに今日の来訪者のほとんどは目的地をここと定めて来てるんだと思う。そう思っても不思議はないくらい人の流れに乗れば迷うことなくこの展示へたどり着く、そうしてたちまち作家が構成した空間を体験することになるんだ。
あ。なんかあたし、ちょっと浮かれちゃってるかも。建築とか工芸品とかはよく分からないんだけど、やっぱり絵画は好きだしさ。こういうとこで壮大なスケールの作品と対峙しちゃったら、あたしの頭の中は音楽の時間に聴いたムソルグスキーの「展覧会の絵」がエンドレスリピートしちゃうね、間違いない。
いかんいかん、危うく妄想モード突入するところだった。我に返れば前を行く人たちの感嘆の声が漏れ聞こえあたしは正直 安堵した。静かに一言も発せずただただ鑑賞する、って実は苦手だったりするんだよ。
「…喋っても、大丈夫なのかしら」
「ぶ。大丈夫っすよ。王子達なんてきっとこんなん見てわいのきゃいのとレポート纏めよるんやないすか」
まず真っ先に迎えられた大きなオブジェ…いやオブジェ、って言っていいのかなこれ。一面、まるで壁のように視界に広がる格子模様。遠目に棒だと思った細い一本ずつは近づいてみるとなんと紙だった。
「すご…」
「え…これ、紙…? あ、丸めてあるんだ一本ずつ」
あたしもミコちゃん先輩も本来の目的を忘れ(いやそもそも本来の目的、って使命感なんて無いんだけど)食い入るように傍近くで見つめる。
この格子模様、絶妙。距離がある時点で目に飛び込んできた格子の集合体が浮かび上がらせるラインは、三角だったり平行四辺形だったり。それは何故だろうとあたしは無意識下で解明したくなっちゃうのか、それすらも作者の意図なんだろうか。じっくり見入れば、細い紙の棒は何層にも重なってるせいで立体感を醸し出してるのだと分かる。
「ちょ、見て先輩! 向こう側がなんか消える!」
「大河内さん落ち着いて、感覚で喋ってるでしょ今」
だってなんかほら。消失点、って言うの? このトリッキーなオブジェのその向こう、空間が透けて見えてるんだけど。なんかふっと消えるんだよね。視覚にイタズラされてる感じ。横に長く…10メートルはあるかなあ。展示されているその周りをうろつくあたしは、知的好奇心をくすぐられてるオランウータンみたいじゃない?
「なんでこれ倒れないんだ? あ、なるほど! 下の方はちょっとデカいんだ。え、そんだけで強度って増すもん? すっご! 紙スゴイね!」
「来て良かったね、楽しそう大河内さん」
「いや、楽しみに来たワケやないんですって」
あなたが笑ってくれるから、あたしも楽しくなるんすよ? ミコちゃん先輩。だからと言って笑わせようなんて無理強いはしないけど。その表情を曇らせるような心の陰りは一刻も早く吹き飛ばしたいくらいは思ってしまう。
「よーし、次 行きましょうか」
解説のパネルを熱心に読み込む先輩の背へ声をかけた。王子達のことだ、つまりあたし達以上にそもそも興味関心がある人達だから、もっとゆっくり見て回らないと追いついちゃうかな。まあでも、これだけ広いし。死角はたくさんあるし。
「柳井、お前さ」
聞き覚えのある声でも名前でもなかったんだけど。なんとなく、場に相応しくなくて足が止まった。名を呼ぶ音が、怒気を孕んでいるから。そうしてあたしの内側がざわざわと急に騒がしく鳴りだしたから。
あたしの身体は知らずミコちゃん先輩を庇うように、その歩みの先を止めている。
ゆったりと時が流れ、一画ごとの空間があたし達をここじゃないどこかへ連れてってくれる、そんな浮遊感漂うこの場にひどくそぐわない。声のボリュームに配慮してるのは明らか感じとれる。かと言ってビリビリとした怒りはこれっぽっちも隠せてやしない。いや、むしろ。隠す気はないんだろう、相手へ伝わって構いやしないと思ってる態だ。
「ほんと、お前。何しに来たの」
「何って、決まってるじゃないそんなの」
「んだよ、言ってみろよ」
「おべんきょう、でしょ? おべんきょう。レポート仕上げなきゃ、ねえ? 足立クン」
あたしはオブジェの陰からわずかに身を乗り出し、次の作品の解説パネルが掲げてあるパーティションの脇へ視線を据えた。
会話を耳にして、ああやっぱりか、と胸の内で諸々に合点がいく。嫌なことに対して、とか、嫌いなヤツに対して、とか、ある種の防衛反応なんだろうか、胸騒ぎ、ってさ。誰かの一言に何気なく止まったあたしの足も、ミコちゃん先輩の前へ立ちはだかるように動いたあたしの身体も、唇オバケの視界へ先輩を捕えさせまいとする。
「先輩、ちょ、こっち」
「大河内さん? どう―――」
察しの良いミコちゃん先輩は、あたしの後ろ手が自分へ触れた意味を素早く理解してくれたらしい。ほんのちらりと盗み見をして、ナオくん、と囁いた。
「ナオくん? 新キャラ登場すね」
「キャラ…と言いますか。神威くんのお友達、です」
「またレベル高いな、王子の友達は」
あたしの呟きに、一瞬は確かに強張ったミコちゃん先輩の身体からゆるりと力が抜けるのが分かった。
いや、だってね。アナタか向井理か、っつーくらいの塩顔男子ですよ、いわゆるあたし好みのイケメンですよ! いかん。いかんいかん! まったくもって不埒な! あたしは左手の甲を自身の右手でぎゅうっと抓ると正気を取り戻し聞き耳を立てるべくふるふると頭を振った。
「“おべんきょう”ってお前…どの口が言ってんだ」
足立クンことナオくんは、不機嫌さを十分滲ませた口調と、呆れ以外の表現が当てはまらない表情で唇オバケを見下ろした。
対する唇オバケこと柳井、だったっけ。高く細いピンヒールの底をコツ、と大仰に鳴らし、片足重心に腕組みという傲慢さを絵にしたような態度でナオくんを見上げてる。
頑張れ、ナオくん。あたしはじっと立ち竦んだまま、心の中で全力エールを送る。勝ち負けじゃないんだろうけど、負けたくないって勝気さを前面に押し出してる柳井の不遜さが場の不利に輪をかけてるように見えるよ。
「お前、もう俺らと同じグループじゃないよな? “おべんきょう”も“レポート”も同じグループのヤツらとすべきなんじゃないの」
「“同じ”ゼミ室の仲間じゃない。意見交わすくらいいいでしょ」
「いや、交わしてないだろ、神威は。一言も。何か聞こえてたんだとしたらそりゃ幻聴だ」
あたしだったら「ぐぬぅ」って擬態語にするわ。それくらい柳井の表情はやりこめられた悔しさで苦々しく歪んだ。
あたしが思うに、ナオくんは片手を軽く腰に当てたなんともスマートな立ち姿で何てことない口ぶりで淡々と正論を説いていく。柳井の強調を上手に拾い、嫌味は躱して嫌味で返す。その飄々とした様に当たり散らしどころが無くて柳井は余計に腹立たしいのかもしれない。
「迷惑行為だよ、柳井がやってること。神威に対してだけじゃない。俺らにも、みんなにも。分かってんの?」
「山田くんから迷惑だ、って言われた覚えはないわ」
ふ、と鼻から抜けるような柳井の嘲笑をナオくんは怒りを露わにするでもなく、そうか、と相槌ひとつで引き受ける。あたしの方がおでこに怒りマーク浮かび上がってるよ!
この女をはっきりきっぱり拒絶してない王子も王子だ、とは思う。でもあたしはもう、王子が誰かへのマイナス感情を容易にぶつけられない優しい人だと知ってしまった。
ナオくんも、同じようなこと考えてるのかもしれない。グルグルと纏まらない思考が蠢く頭の中を落ち着かせるように長い指先で髪を撫でている。
「…柳井。ちょっと、中庭。つき合って」
ナオくんは柳井を操るように人差し指でクイクイと引き寄せた。
…か、かっこいいじゃないか。おい。
そのままスタスタと先に立って、中庭とやらを目指し始める。勿論、素直に引っ張られるような柳井じゃなかったけどね。はあ、と態とらしく肩を落とし大きなため息をこぼすと、さも嫌そうにナオくんの後をノロノロと追い始めた。
「大河内さん、行こう? 中庭」
「…先輩?」
「ナオくんが酷いことされたら…、」
酷いこと、って例えばあのピンヒールの先端で急所蹴られるとかですか。うん、そりゃ酷いわ。体格差からも身のこなし方からもナオくんがそんな攻撃受けるワケないと思うけど。
「…そっすね。急ぎましょ」
そんなんじゃない。分かってる。ミコちゃん先輩が心配してる“酷いこと”ってのは、ナオくんがやたらめったら“口撃”されちゃったら、ってことだ。本当に、この人は。だから先輩が身代わりになりに行くとでも? そんなのあたしが許すわけないでしょ。
それにね、先輩。これはあたしの勘でしかないけど。ナオくんは中途半端な気持ちで柳井と向き合ってたんじゃないと思う。相当、覚悟決めてると思うんだ。大切な、友達のためにね。
誰かに向ける、負の感情。ましてやそれが相手の行為や行動の是正を求める類となれば、すごく困難がつきまとう…と、思う。あたし、そんな経験無いけどさ。一旦 相手に認めてもらわなきゃいけないもんね、己の非を。
認めるのかね? あの唇オバケ。悪い、なんてこれっぽっちも感じてなさそう。良心の呵責、なんて書けないでしょ漢字。サムライ心先輩が刺したはずの釘は効果が無かったのか、鼻から意にも介してないのか。
まだまだ展示を見たかったな、と後ろ髪を引かれながらあたし達は中庭へ急ぐ。ナオくんの真っ直ぐな背中を、柳井の踏ん反り返ったような背中を、見失わないように適正距離を保ちチラ見で追いながら、あたし達は押し黙ったまま ただただ歩を進める。
「ナオくん。良い人っすね」
「…ね。良い人すぎる。他人のことなのに」
「他人やないでしょ、友達のことですよ。こうやって本物の大人になってくんでしょうね」
「…え?」
中学・高校とさ、あたしの人間関係は、自分から求めた世界が全てだった。クラスメイトはただ、授業を受ける間だとか体育祭や文化祭って行事ごとに同じ空気を共有してれば良かった。漫画を共通項として集まった塚ちん達との密度が一番濃かったのかな。
「大学に来て思ったのは…人が多くて。いろんな人がいすぎて、どんなタイプが自分の友達やったか分からんくなってしまって。時に望まない誰かとも、何とかやっていく術とか覚えてしまって。あたしはそれが大人になるってことかと思ってました」
「…違ってた?」
「うん。たぶん今からナオくんが見せてくれる力。誰かのために動けるしなやかさとか強さ」
しなやかさとか。強さ。
ミコちゃん先輩の囁き声は館内のそこかしこに広がるざわめきの中でも、艶めく床に幾重にも響く足音の中でも確かに聴き分けられる。
そういうことだ。目を凝らせば見えるし、気持ちを添わせれば感じられる。
あの、柳井って人が何故 王子にそこまでご執心なのか分からないけど。
アナタの“好き”って。何ですか。あたしはそう問い質したい。
自分の想いを一方的にぶつけることが“好き”を表現する術だと考えているなら大間違いだ。そんなの、そんな表現をしている自分を好きなだけだ。
「足立くんてさあ」
中庭、と称されたスペースが目に入って来た途端、ああここも展示空間のひとつなのか、と気づかされた。足を止めたナオくんと柳井の死角であろう位置であたし達は息をひそめる。
竹がいろいろなサイズのドームを作っていて、なおかつ遠目からだとよく分かる、動物を象ってるんだ。夏を思わせる陽射しにつやつやと映えるゾウやキリンはどこかユーモラスで、こんな場面でなかったらもっと楽しめたんだろうに、と苦笑を浮かべてしまった。
「山田くん達のこと、いろいろ探ってた人じゃなかったっけ? ねえ、それってどうなの? アタシのしてることと何が違うワケ?」
柳井の物言いには存分に悪意が籠められていて、それは聞いている者への不快感を与えた。いや、聞き耳立ててる人間がこの場にいるなんて思っちゃいないだろうから、誰かに宛てている訳じゃない、明らかナオくんだけに向けられた昏い感情。あたしの隣でミコちゃん先輩は、まるでわが身がそれを受けたように身を硬くした。柳井の態度をガキみたいだと感じるあたしもガキ、ってことなんだろうか。この距離から察するにさして顔色も表情も変えていないナオくんがひどく大人びて見える。
「違うと思うよ。俺は神威達を自分のものにしたいとは考えてなかった」
サラリと言い放たれる言の葉。ナオくんに不利な形勢を許しがたいあたしの目はめちゃくちゃ贔屓目に出来てるよ。
「ナオくん…」
王子が聞いたらソッコーでヤキモチ妬きそうなほど切なく、ミコちゃん先輩の声はナオくんの名を呼んだ。声にも潤み、って含まれるんだなあ、なんて、あたしはトンチンカンなことを考えてわずかに生じた疑義を逸らす。
探ってた、って。どういう意味?
「…大河内さん、ナオくんね。葛西先生が昔いた男子校の出身なのね…だから、右京くんのこととか」
「ああ、事件のこととか…よく、知ってる、と」
視線はナオくんへ据え置いたまま、ミコちゃん先輩は王子の友達を丁寧に庇う。それは、もう。王子の友達じゃなくて先輩の友達、なんですね。
「でも別に…野次馬、みたいなこと。されなかった。私達が嫌な想いをするようなことは、何もされなかったのよ」
「分かってますよ、イケメンは大概 良い人です」
放っておけばどんどん落ちていきそうなミコちゃん先輩の声音を上げたくて、あたしは場に不似合な軽いジョークなんて交えてみる。あれ? 痛いわ、先輩の視線が。
「…大河内さん、前々から思ってたんだけどそのイケメン定義と見解には物申したいです」
「申さんでいいですよ、冗談ですって、冗談」
眉根を寄せあたしを見上げる先輩の顔にほんの少し笑みが宿る。澄んだ空に溶け入りそうな爽やかな声がナオ、と呼んだのはその時だった。
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