第10話

 礼ちゃんが、絶賛 脳内会議中だ。俺は大人しくただただ礼ちゃんの隣を歩く。



 ***



 賑やかな写真撮影は笑いに包まれたところで終わりを告げ、葛西先生から美味しいお茶と和菓子をご馳走になった。御近所の奥様方御用達の老舗和菓子屋さんのなんだとか。芋羊羹ってもっと口の中 もたつくのかと思ってた。こういうの、素直に美味しい、と感じられる自分を大人になったと称してしまうガキな俺。


 そのまま場は打ち上げという名の単なる宅飲み会に雪崩れ込もうとしていた。

 弓削、ビールで良い? 吉居、それ発泡酒だよ、とこういう時、とてもマメな働きをなさるお三方が先生のご実家の広い台所(キッチン、よりこっちのがしっくりくる)で甲斐甲斐しく準備に取りかかっていて、俺は俺で武蔵さんから全権委任された芽生ちゃんのお世話係を遂行し、ようやっと「かみー」(かむい、って言いにくいらしい)と愛らしく呼んでもらえるようになった頃。



 どこかしら思考が遠くに飛んでるな礼ちゃん、とは思ってた。芽生ちゃんを高い高い、とあやしながら横目でチラと窺っていた。きっと葛西先生達もそう、時折 台所の賑々しい声は瞬断する。

 あ、動いた、と気づいた時にはデニムのシャツの裾をツイと引かれていた。


『…神威くん…ちょっとだけ。うちに寄ってきても、良いかな?』


 その静かな物言いはとても控えめで遠慮深く、いつもの礼ちゃんの物腰の柔らかさそのものだったけれど、どこかしら最後に、独りで、って、カッコ書きがくっついているような気がしてならない。口の端にちゃんと笑みは浮かんでいても、礼ちゃんの胸中に無理があることくらい、俺にだって分かるんだよ。


『…どっち?』

『え?』

『どっちの“うち”? 御子柴家? 山田家?』

『…あー、御子柴、家』


 くしゃりと笑み崩れた表情は素のものだと思われた。だからその一瞬へ付け入るように俺は重ねて問うてみる。


『…俺も、行っていい? 一緒に』


 とても小さかったけれど、台所のわざとらしい喧騒と芽生ちゃんの愛らしい声に紛れそうだったけれど、礼ちゃんは小さく す、と息をのんだ。ああ、やっぱり。束の間の逡巡は俺を伴うつもりではなかったことを指すんだね。


『…飲まなくて、いい? 葛西先生達と…』

『俺の優先順位のつけ方、そろそろ覚えてね? 礼ちゃん』


 いつだって、何だって、礼ちゃんと共に在ること。だからって、トイレまではお邪魔しませんが。

 葛西先生達と楽しく飲む機会はまた別日にだって設けられるけど、今の礼ちゃんに巣くう某かの暗い陰からは、今を逃しちゃ救えないかもしれない。

 生きていく上で不意に問われる、タイミング。直面して動けるしなやかさ。俺はね、もう間違えたくないんだ。


 ちょっとトイレに、と断りを入れてゆるりと立ち上がった礼ちゃんの背を見送る。心や武瑠とワイワイ言いながらもちゃんと耳を傍立ててくれていたんだろう、葛西先生が見計らったように俺へ、じゃなく芽生ちゃんを引き受けるために長い腕を伸ばしてくる。


『…大丈夫?』

『え?』

『ああいや…心配癖って抜けないもんだな。御子柴、大丈夫だよね?』


 目線だけで礼ちゃんが消えた廊下の奥へ俺を誘う。俺はコクリと首肯して、笑んで安心感まで添えたいなと思った。


 戻っておいでね、飲みながら待ってるから。


 細い顎でクイ、と台所の心や武瑠を指す。

 みんな待っててくれるんだ。いや、飲みながら、ではいつまで正気で待っててくれてるのか分からないけど。



 礼ちゃんは、何をしたいんだろう。何をしに行くんだろう。あるいは何を言いたいのか。誰に? 智くんに? お母さんに?

 礼ちゃんの横顔にほんの少し落ちていた翳りを思うと闇雲に焦燥感を掻き立てられる。それでも、引きずり込まれないように。待っててくれる人がいるから。


『…神威ってさ。ちゃんと“旦那様”だったんだね』

『え、俺そんなプレイしたことないです』

『…いや、違くて』


 葛西先生の腕に抱っこされていた芽生ちゃんは、台所で酒の肴を作り始めた心と武瑠を目にすると、めいもてつだうー、と身じろぎし軽やかに床へ着地した。小さな身体を愛でる手も瞳も、この人はいつだって温かい。


『…さっきさあ。“うち”ってどっち? って』


“うち”ってどっち?


 うん、確かにそんなことを訊いたっけ。そんなしみじみと改まってなぞられるのは奇妙な感覚。

 俺の顔はきっとぽやんとマヌケ面なんだろう、葛西先生の言葉の意味が正しく掴めず、しばし待つ続く言葉も想像すら出来ない。


『そんな捉え方って俺には無いからさ。そうか、結婚するってそういうことなんだな、と』

『…んー、そう、ですね。どっちの家も二人の家だと思うから』


 俺は胡座をかいたまま、葛西先生を見上げながら応える。腕組み姿で壁に凭れていた先生はふわり、と降りてきてその優しい眼差しを俺の高さに合わせて言った。


『…自分に属していたものが誰かとの共存域になる。そこには血の繋がりだけを拠としない努力や思いやりがあるんだろうし勿論、』

『愛情も』

『そ。お前達見てると、結婚って悪くないなと思うんだけど』

『…けど?』

『…一人が楽だし一人が寂しくないと思ってしまう典型的アラサー道を突き進んでいく俺』


 ヒヒヒ、と片方の口角だけを綺麗に引き上げて葛西先生は顔を俯けた。動きに合わせてアシンメトリーな前髪がサラリと揺れる。

 廊下をこちらへ進んでくる礼ちゃんの足音を耳にすると、先生は大きな掌を俺の頭へ乗せポンポンと某かの力をくれた。待ってるよ、と。




(…ただじっと待つ、って結構苦しい…)


 いや、待つ苦しみというやつを俺は充分理解してるつもり。それでもね、こんな風に某か言いあぐねている礼ちゃんを手ぐすね引いて見守るだけなんて。しかもその引き金に全く心当たりがない、ピンとこない自分に苛立ちすら覚える。


 葛西先生のお宅を出て、本当によかった? と重ねて問われた。先生達と飲んでなくてよかったのか、ってことね。完璧に笑えてない礼ちゃんの柔らかな頬をムニムニしながら、本当によかったんだよ、と断言したならそれきり礼ちゃんは黙々と歩を進める。


 途中何度か俺を見上げる愛くるしい顔。でも留まることはなくてすぐに逸らされてしまう。その度にサラリと揺れ動く黒髪がとても綺麗だと思った。指で梳けば絡まることも軋むこともなく背へ流れる。俺には無いものだからかどうにも気持ち良くて時々没頭しすぎちゃうんだよな、なんて変態っぽい思考は礼ちゃんに絡め捕られた指の動きと共に停止した。


「…神威くん」


 お、キタ。


 品が無いけどふざけてるけど。そんな吹き出しでも脳内でくっつけないと居たたまれない。礼ちゃんの真剣な瞳に浮かぶ色の意味を見出したくて、俺の足は動きを止めた。


「…嫌いにならないでね? 私のこと」

「どうやったって、なれないんだけど。どうしてそんなこと言うの」

「…何を言い出すか、分からないから。自分で自分が」


 この事態の原因もこの先の展開にも考えが及ばない俺は、相当鈍いんだろうか。でも瞳はもう逸らされてないから、きっと問えば礼ちゃんはきちんと応えてくれるはず。


「御子柴家に向かってるってことは、お母さんか智くんへ言いたいことがあるんだよね?」

「…お母さんに。訊きたいことがあるの」


 そう、と俺は努めてフラットな相槌を打つ。

 礼ちゃんとお母さんの間に横たわる得も言われぬ澱みはきっと二人にしか分からなくて、だから完全に澄み渡る日が来るのかどうかも分からない。それでも礼ちゃんが大学卒業後、結婚式を挙げる時にはお母さんへ心底笑顔で花束を渡したい、と考えているのは知っている。


「…神威くんは、気づいたかな? あの…右京くんの手紙で。私もう、本当に…今さらすぎるんだけど」

「ん? 何か気になることあった?」


 礼ちゃんは肩にかけていたトートバッグからここ二日ばかりで見慣れた束を取り出すと、留めていたゴムを外しトランプのように数枚をずらし並べ、礼ちゃんを食い入るように見つめていた俺へ掲げてみせた。これ、と。


「宛名がね…、全部 “山田 礼“ なの」

「…うん。う、ん? それが…?」

「…差しいれは、別にして。初めて、私から手紙を出したのは…受験が終わってすぐ」


 まだ、御子柴だった。


 礼ちゃんの言葉に隠された深意を探ろうと、そうしてそれはこれから向かう先へどう繋がるんだろうかと、俺は必死に考えを巡らせた。


「…ちょ、待、ってね」


 知らないことがある。長生き仙人でもあるまいし、それは世の当然のことなんだけれど。ごくごく身近、礼ちゃんと俺を取り巻く狭い世界にそんな気づきもしなかったことが。今さら、と言う根拠のない手遅れ感に焦ってしまうのは俺だけか。


 それが例えば、よくよく目を凝らさなければ見えてこなかった優しさ、とかだったらもう少し心浮き立ちそうなものなのに、右京が絡むとどうしても俺の心は一旦 堅い鎧を纏ってしまう。つけられた傷ひとつに揺らぎたくないと懸命に虚勢を張っていた名残なのかもしれない。


「誰かから、聞いたのかもしれないね? 右京。ほら、弁護士さん、とかさ」


 そう、可能性のひとつを口にしながらそれはないな、と自分でも認めた。国選ではなく真坂家の顧問弁護士が右京の件も担ったけれど、下された審判はもとより所内で時間を過ごす右京へ特別に心が割かれたとは…、ちょっと、思えなかった。そう、思うに足る材料って右京に関しては本当に乏しい。それだけで右京を“可哀想”だとするのは違うかもしれないけれど。


 それよりも、さ。御子柴家へ向かってるんだよ、俺達。礼ちゃんの脳内会議はもう終了間際で、きっと答えが見え隠れしているんだ。


「…お母さん、かな、って」

「…うん」


 ゆるりと一歩を踏み出しながら、俺はそもそもを思い出していた。


“オレ側へ堕ちればいい”


 あの、不穏な言葉が達筆で綴られていた便箋も。真白の封筒も。一度、ぐしゃぐしゃに握り潰されていたんだ。


 激情がそうさせたのだということは一目瞭然だった。怒りとか憤りとか。そんな簡単な名づけ方で終わらないような荒ぶる想いは歪に残る皺が物語っていた。


「…もっと早くに。気づくべきだったんじゃないかな、私は。右京くんから初めて返ってきた手紙は新しい住所宛てだった、実家からの転送じゃなく…山田 礼様、だった」

「…礼ちゃん。俺も気づけなかったよ、ごめんね」

「神威くんが謝ることなんてないわ。私が、不純だっただけ」


 礼ちゃんは感情の揺れを見せようとせず淡々と言葉を紡いでいくけれど、いつもより幾分低い声音であることは分かる。俺だから、分かるんだと。せめて思わせて欲しい。

 俺は少し身を屈め、並び歩く礼ちゃんの右手を取った。いつだって俺はこんな直接的な繋がり方で、礼ちゃんの脳内会議を覗き見出来ないかとジタバタしている。


「…不純、って?」

「手紙が返ってきたこと、それが、重要だったの私には。右京くんを救ってる気に、なってたのよ。宛名書きにはろくに目もくれないで自分の偽善に酔いしれてたの」


 ほんっと、馬鹿だわ私。


 誰かを悪し様に罵るなんてこと決してしない礼ちゃんが自身へは容易く暗い感情を向ける。なかなかに礼ちゃんの自己評価は上がらないんだよね。



 幸さんが、右京へ教えたんだろうか。礼ちゃんの新しい住所、新しい苗字。何故なんだろう、何のために。いや、そもそもどうやって?

 眉を顰め「御子柴」の表札に小さくため息を吐いた礼ちゃんと共に、俺は玄関のドアを開けた。


 礼ちゃん! と智くんの声がすぐさま飛んできた。そして変わらぬ笑顔と声音で俺の名も呼んでくれる。スニーカーを脱いで並び立つと前回逢った時よりさらに目線の高さが俺のと近づいていた。


「また背 伸びた? 智くん」 

「神威がちっちゃくなったんじゃないの?」

「わああー、生意気ー! 俺だってまだ成長期だよ!」


“彼女の弟”だった智くんが“俺の弟”になってから、やっぱり愛しさは募って募って仕方ない。もともとちびっ子は好きだったし、俺の下に弟や妹は望めないとずっと分かっていたからなおのこと。やめてよ! と頬を膨らませる姿すら可愛くていつも頭をグリグリ撫で回しちゃうんだよね。

 初めて逢った時は保育園年少児だった智くんも今やランドセルを背負う小学1年生。ちっちゃくてぷくぷくしていた身体は手も脚もすらりと伸び少年へと変化を遂げ、成長ってこういうことだよな、とつくづく感じる。


「わ、ちょお…礼ちゃん、どうしたのー!」


 ショートブーツを脱ぎきちんと揃えるなり礼ちゃんは、智くんをふんわり抱きしめた。今日もぐりんぐりんに撫で回そうとしていた俺は先手を打たれ動きが止まってしまう。何時にない礼ちゃんの行動に驚いているのは、何もジタジタしている智くんだけではなくて俺も。


「…智に。あんまりこういうこと…してあげてなかったなあ、と思って」

「えー? してもらったよーいっぱい」


 智くんの屈託無い反応は確かな真実だ。小学1年生で気遣い上手もないだろうし…え、や。礼ちゃんの弟なだけに持ち合わせてんのかな、そんなテクニック。まさか、ね。身を捩るようにして照れくささから逃れようとしている智くんだけど、礼ちゃんの細腕を本気で振り切る気はないらしい。


 ああいうの、俺にも覚えがあるなあ。母ちゃんとか姉ちゃんとかからギュウギュウされると本気で恥ずかしくて。でも頬が触れ合う温かさはまんざらでもないんだよね。小学生ともなると照れが勝って仕方なかった気がするけど。

 …てかもう。ちょっと羨ましいんですけど。そんなギュウギュウ。俺も欲しいです、礼ちゃん。


「風邪ひいた時とかさー礼ちゃんいっつもしてくれてたってば。覚えてないのー?」

「…そうだったっけ」

「えええー、もうボケたの?」


 その憎まれ口は弾むように礼ちゃんをからかって、心持ち沈んだ表情だった可愛い人を簡単に笑顔へと変えていく。いや、やっぱり相当なライバルだわー、智くん。


「お母さん、さっきから待ってるよー」

「…うん」


 俺の行動には何かと邪さがつきまとうような。

 礼ちゃんの背中をゆるりと押しながら、半ば強引に付き添ってきた是非にほんの少し迷ってしまった。


「礼ちゃん…何か、ごめんね」


 言葉はポロリと零れ出た、俺の明確な意志とは別に。無意識だからこそ率直な気持ちと言えるんだろう、俺はやっぱり後悔している。どうせ後悔するのなら、と己の内なる衝動に常々素直につき従ってきた俺なんだけど。


「男に二言あり、ですか? 神威くん。やっぱり私、嫌われちゃうの?」

「うわ、何? その可愛い責め! むしろ快感…や、違っ! 無理してないかな、って」

「…苦手なノリツッコミにも果敢に挑戦」

「…そもそもノリツッコミ、にもなってないけどね」


 関西の人に怒られちゃうね。


 ふわん、と浮かんだ礼ちゃんの笑みは、けれどすぐに綺麗な横顔から消える。リビングへと続く廊下でつと歩みを止め、ふう、と大きく深呼吸をした。俺もつられる様に次の一歩を慌てて止める。


「無理はしてないの……ただ、」

「……ただ?」

「…ツケ、を。払う日は今日なのかな、と」

「…ツケ、って。その喩えはどうなんだろう」

「…そう、かな。優しいね、神威くん」

「優しい?」


 何がどう繋がって“優しい”へ至るのか。俺は未だに礼ちゃんの思考回路を正確に読めないでいる。右に左に振り回される感は、けれどハマると結構な心地好さだったりして。俺だけにしか解けない謎、みたいな。そして俺だけが丁寧になぞることを許されてる、みたいな。


「…お母さんと私がずうっと見ないフリをし続けてきたものは。溜まりに溜まったツケより質が悪くて救いがなくて汚いものかもよ? 神威くんをつき合わせるのが申し訳ない」


 だけど、って続いて欲しいな、としばし待った。それでも変わらず好きでいて、とかさ。

 とはいえ根が遠慮しいの礼ちゃんの口からおよそ期待した通りの言葉は終ぞ聞こえない。求められなさすぎるのもちょっと悲しいもんだな。ならば、と俺からくっつける。


「だけど、俺は。まるごとの礼ちゃんが好きだからね? そこんとこはいついつまでも忘れちゃ駄目なんだから。分かってる?」


 礼ちゃんの目元が瞬く間に紅く染まる。それだけで 分かってるよ、と応えてもらってる気になる単純な俺。

 山田家はそこそこ仲が良かったから、礼ちゃんと幸さんの関係を視点を変えず語ることは難しい。解ってあげられてない部分はきっとまだまだあるのだと思う。それでもね。どれほど言葉で伝え態度で示しても俺の想いがどうにも抗えないものがあるんだよね。

 それは遺伝子、ってやつで、二重螺旋構造に刻み込まれた情報は、最近ふとした折に礼ちゃんと幸さんの面影を無理なく重ね合わせる。

 もしも、出来るなら。礼ちゃんの綺麗な顔立ちにどこかしら残る微かな寂しさが、その色を消すのなら。今日、二人が乗り越えるものがおどろおどろしいものだとしてもそれは必要悪なのかもしれない。仲良くして欲しい、なんて表面的なことは言わないから。


「…行こ。幸さんも智くんも待ってるよ」


 こんにちは、と挨拶しながら先に足を踏み入れたリビングのテーブルには、湯気立ち上るティーカップが三客用意されていた。

 キッチンで智くん用のオレンジジュースをグラスへ注ぐ幸さんは、無造作に後ろ髪を束ね上下スウェット姿。締め切り明けを如実に物語っている目の下のクマに、ああ礼ちゃんは言いたいこと言えなくなっちゃうだろうな、と俺はぼんやり想いを馳せていた。


「…おかえり」

「…ただいま」


 ほんの少しだけ空気が硬かった。それは互いに何を話すべきで何から切り出そうかと探り合っているからかもしれない。俺は一人 素知らぬふりをして椅子をカタン、と引き深く腰掛けた。智くんへ声をかけグラスを手渡した幸さんは、ごく自然に俺の斜め前へ座る。だから礼ちゃんの真正面が幸さん。


 ふと見遣ると智くんは、漂う空気に何かを察したのか、テレビの前から動かずこちらへ近づこうとしない。小さな話し声はきっと届かない距離。

 …空気 読めてるんだなあ。それとも。


(…智くんも礼ちゃんみたいに優しーく嘘つくの上手なのかな…)


 そんな技、身につかなくたってよかったのに。

 姉と弟、というより幼い母子に近い関係だったと思う、この二人。礼ちゃんは自分の本分に加え智くんと日々の暮らしを共にし、護って教えてその成長に心を砕き責任を感じていた。幸さんを生みの親だとすると礼ちゃんは育ての親、ってところ。それは多少、歪に思える。本来、無くてもいい姿だから。

 それでもこの微笑ましい二人はそうやって寄り添って生きてきた。

 今でこそ離れて暮らしているけれど、智くんは幸さんの携帯電話からしょっちゅう電話をかけてくる(勿論 礼ちゃん宛てに)。通話が終わると礼ちゃんは毎回のように苦笑し、今日も何てことない話だった、と呟く。いつか、男の子が男にしか相談できないようなことが出てくるんじゃないかなと思うんだけど、俺にとっての心や武瑠やうちの父ちゃんみたいな存在に俺がなってあげられたらなあ、なんて。一人勝手に思ってるんだ。


 そうして。

 礼ちゃんが毎回「…お母さんは、ちゃんとお母さんしてる?」って、苦しげに確認しなくてもいいようにならないかな、って。



「…これ。あんたが訊きたいことがある、って言うから」


 探し出した。


 先ず沈黙を破ったのは幸さんだった。スウェットのポケットからカサ、と音を立てて取り出されテーブルの上へそっと置かれたのはここ数日でもう何度も目にした白い封筒。


 ———ただ。


「…ちゃんと、読めるわよ。中身も」


 およそ三年前の消印。表書きにはここの住所。その脇には「御子柴 礼 様」とある。ただ、もしかするともっと綺麗だったかもしれない右京の字が醜く歪められているのは、一旦、荒々しく裂かれた跡と修復の跡が明らかに見て取れるから。


「…ずっと。礼はこのまま気づかないのかと思ってた。それならそれでこれは、無かったことにするつもりだった」

「…今日、気づいた。ここ何日か、何度も目にしてたせいか…、やっと」

「…そう」


 交わされる会話に刺々しさは無い。あるいは今からこの矛先は酷く鋭いものになるんだろうか。俺は礼ちゃんから指摘されるまでまったく気づかなかったんだけど、日付を遡って考えると、そうだ。これが。


「…一通目よ、これが。真坂 右京くんからの返信は…これが正真正銘の一通目」


 次の行動を暗に促しているような幸さんの声は、その余韻は。椅子に深く沈んでいる礼ちゃんの小さな身体をテーブルへ引き寄せようとしているような。中身を、読んでみたら、と俺だけがそう感じてしまうんだろうか。


 ああでもそれなら何故それは、三年前じゃなかったんだろう。三年前は、読むべきじゃなかったんだろうか。読まない方がいいような内容なんだろうか。今、だったら。読んでも大丈夫なんだろうか、礼ちゃんは。


「…読んでから、破ったの? これ」

「うん…ごめん、もうこの頃はあんた結婚してたから親権なんて関係なかったのに」

「…ああ、そこは。“親”を振りかざさないのね」


 うっすらと、笑いさえ含むような声音で礼ちゃんは言い切った。嫌味、とすら取られかねないようなむき出しの感情が言葉に乗る。

 親らしからぬ幸さんの生き方に辟易してた礼ちゃんを俺は知ってるし、振り回されて生きてこざるを得なかったことも知ってる。

 そんな、心配そうな瞳で俺のこと盗み見ないでも大丈夫。言いたいこと、言ったらいいんだよ礼ちゃん。きっと幸さんもそのつもり。


「…振りかざすほどの親らしさなんて、あたしにははなから無いわ。分かってるでしょ、礼」

「親らしく、なろうとしてるのも…分かってるわ」


 礼ちゃんの細い指が封筒へと伸びる。躊躇いを如実に表すかのように一度は強く握りしめられた拳。それでも意を決したのかもう片方の手も伸びて、乾いた音を立てる封筒に触れ中から薄い便箋を取り出した。

 便箋は一枚。力任せに破ったのであろうその裂け目はセロハンテープが取り持っている。てらてらと人工的な照り返しに一旦 眉を顰めた礼ちゃんは、また見開いた綺麗な瞳を白い用箋の上へ走らせた。


 普段から読書家の礼ちゃんはきっと文章を読むのが速い。それとも書かれた文字数はさほど多くなかったのか。俯けていた顔をほどなく上げると、反応に困ったような不可思議な表情を浮かべた。


「…神威くん」

「何? 礼ちゃん」


 何事かを言いかけた唇は半端に開かれたまま動きを止めた。それでも瞳は悠然と物語っておりますが。気を遣ってくれてるんだね、礼ちゃん。俺がいつまでも不甲斐ないから。一体いつになったら好きな子に変に気を揉ませることなくどーんと飛び込んできてもらえる男になれるんだろ。


「言って? 礼ちゃんが嫌じゃなかったら。俺は、平気。聴かせて? 右京の手紙」

「…私は、嫌じゃ…でも、これ―――」


 息をのんだ礼ちゃんはこの先に何かあると思う、と。カサリと便箋を揺らし幸さんを意味ありげに見つめた。


「…これ…この内容だけじゃ…この先に、繋がらない」


 そう言い置いて息をのんでコクリと喉を鳴らす。

 ちらと寄せた視線はバッグの中、“この先”って手紙の束を指してるんだろう。

 その間に、俺は妙な渇きを覚えもう湯気も立ち上らない紅茶に口をつけた。


「“ミコちゃんは、オレを救ってくれるの? オレはミコちゃんに縋っていいの? オレを、赦してくれるの?”」


 喉の奥に何かがこみ上げて、でもそれは放たれる術を持たなくて、ク、と無様な音を立てた。

 礼ちゃん。礼ちゃんは、右京を救うつもりだったのかな。縋られることは想定内だったのかな。赦してあげるつもりだったのかな。

 いや、そもそも。これに初めて目を通したのは幸さんだ。俺の身震いにも似た憂いはきっと、時間薬が効いているからこその和らいだ感情で。三年前だったら? 声にもならない呻きとともにビリビリと、右京そのものをそうしたいかのようにやっぱり破り捨てていたかもしれない。


「…ふざけんな、って。思ったの。その子にも…礼にも」

「え」


 どうして、と継ごうとして、でも負の感情を向けられたはずの礼ちゃんが至極当然といった風だったから、俺は慌てて言葉を飲んだ。


「…お母さんの言い方は乱暴だけど。私は、そうなんだろうと思うわ。大事な人を傷つけられたのに、傷を負わせた人と繋がりを保つ行為だったんだもの。いろんな人からの等しい理解は…」

「…礼。 何て言ったらいいのかな」


 ふ、と深めの息を吐き、幸さんは言い淀む。勿論 理解は及ばなかった、と前置きをし礼ちゃんとテーブルの上の冷めた紅茶の間で視線を彷徨わせた。


「あまりにも綺麗すぎて、真っ直ぐすぎて。どうして礼は手紙なんて、って…でもそれ以上に、怖かったのよ」

「…怖かった?」


 意外にも疑問が先に口を吐いたのは礼ちゃんだった。

 手紙のやり取り。ただそこだけを見つめれば、恐怖されるような行為だとは思えない。


 視点が違えばおのずと目の前に広がる景色も変わる。そこに宿る想いも向けられる感情も。色や光の三原色が織りなす彩は見る者によって輝きにもくすみにも受け取れるんだろう。幸さんには、どう見えたのか。訊いてみなければ分からないんだ。


「…だってそんな…取り憑くみたいな。塀の中の閉ざされた世界で、自分へ向けられる感情を読み間違えることってあるのよ、たぶん。取材したことあるから…」


 幸さんが携わってきた出版物はなにもお洒落な女性向けの月刊誌ばかりじゃなく、男性向けの週刊誌だったりお堅い機関誌だったこともあるらしい。だから知ってる、と幸さんは言う。礼ちゃんはそこまでをじっと聞き入るとコクリと頷いた。


「…お母さん。右京くんが私に、こう…何らかの感情を抱くのはその手紙がきっかけ、って訳じゃないわ」

「…待って。神威くんはこの話、大丈夫なの?」


 大丈夫です、と不穏さの欠片も感じさせないことを祈りながら応えた。右京の本心、という部分に俺は終ぞ触れる機会がないまま今日まで時間を過ごしているけれど、アイツは確かに、礼ちゃんへ特別な想いを寄せていたんだろう。たとえその始まりが互いの共通点を見出したから、というありふれたものであっても。

 心の親父さんが言ってた。“類似性の法則”ってやつ。共通点を見つけた相手とは心の距離までも近しいと勘違いすることがあるんだって。


 お母さんは知らないだろうけど、と礼ちゃんは前置きした。幸さんは痛そうに眉を顰める。捨て置いてきた過去をもう一度拾い上げて、丁寧に埋め合わせていこうとする作業はあちこちに何かが突き刺さるし、ただ傍にいるだけの俺ですら息苦しくなる。言葉の端に時折混じる礼ちゃんの暗い感情、幸さんはそれをただただ受け容れている。あたしにだって事情が、という自己主張はとうの昔に使い果たしたとでも言いたげに。


「…似てたの、右京くんと私は何となくこう…環境が。親から特に顧みられることもない、生まれた意味も幸せの意味も分からない、家に帰っても用意されてるのは温かなご飯じゃなくて、お金」

「…それは…うん。でも、」

「そう。でも、だからと言ってそれが悪いことをしていい理由になるとは思わなかった」


 今だって、思ってない。

 礼ちゃんは現在進行形を告げるとしばし息をのんだ。間が辛いのか幸さんは、頭痛を治めようとでもするように、髪へ指を梳き入れ頭を抱えている。


「…きっかけが、あったか無かったか。その違い」

「…きっかけ?」

「右京くんにはお兄さんもいたし。島でぼんやり暮らしてた私と違ってもっとずっと大勢の大人に囲まれてた。世の中の、悪いことに近かった。それがたぶん、右京くんのきっかけ…の、一つ」


 それは右京が望んで生まれ落ちた毎日ではなかったんだろうに。しばらく時間をおいて、改めて見つめ直してみる真坂 右京という子は、ひどく寂しく憐れな気がした。


「一つ、って…あるの? 他にも」

「…?」

「…きっかけ」


 礼ちゃんの瞳はふ、と一回り大きく見開かれた。幸さんは、言葉を扱う仕事をしている。きっと、言外に潜む、とか、行間を読む、とか。隠れた気持ちが突き動かす都度の言葉の選び方を、心得ている人なんだと思う。


「…救って欲しい、って請われて…拒絶した。拒絶して、逃げた」

「…だからなの? こんな…手紙。今度こそ救ってあげたいと、思ったの…?」


 分からない。


 礼ちゃんは大きなため息とともにそう吐き出した。智くんが観ているリビングのテレビから一際大きな笑い声が上がる。いや、観ているかどうか分かんないな。智くんの明るい笑いは聞こえてこないもん。


「…神威くん達にも、話したんだけど。救うとか救えるとか…そんな高尚な次元じゃなくて。むしろ同情とか、改心していく過程をちゃんと知りたかったとか、変わらない日常が待ってるよって伝えたかったとか…たった一つって訳じゃない、答えは」


 でも、と苦しそうに礼ちゃんは息を継いだ。一気に流れ出た言の葉達のせいじゃない。いつだって何だって、上手くまとめられない胸の内を曝け出す作業は、もがいて足掻いて、でも必死でそれでいて情けなくて苦しくって仕方ない。


「…でも、どれも。起点は、私、なの」


 絞り出すような礼ちゃんの声がか細くて、止めさせた方が良いのかな、と迷った。痛くて苦しい想い。わざわざ選んでしなくてもいいんじゃないか、って。


 俺は礼ちゃんを甘やかしたいから。自身の頼りなさは痛感してる常日頃だけど、それでも 溶けちゃうよ、って可愛いクレームすら甘んじて受けとめられるくらいに。ただそれが、今ここで正しい選択なのか分からない。葛西先生と、武瑠と心と、姉ちゃんと妹尾さんの顔が浮かんで、首を横に振られているような気がした。


「…礼ちゃん? 人間、誰だってそうじゃない? 何かを考える時は誰だって自分が」

「神威くんは、違ったわ」


 やけにきっぱりと言い切られて、正直たじろいだ。礼ちゃんの物言いはいつも穏やかで、一語一句を丁寧に選び空気を読み、紡ぎ継がれていくから。迷いなく、よくよく咀嚼するより先に口をつく勢いというのが珍しかった。


「…神威くんは、覚えてるかな。地元の市役所で、まだ小さい智を抱っこしてくれた時。あの時は、違った…きっと、私のためだけを考えてくれてた」


 見ず知らずの他人だったのに。


 覚えてるかな、なんて控え目に確かめる礼ちゃんに思わず胸がギュッと縮む。そう、俺は勿体ないことに礼ちゃんのことを全く知らなくて。あれが礼ちゃんと俺の初めての接点だ。こんな風に名前も知らなかった礼ちゃんがかけがえのない大切な人になって、一点の曇りなく真っ直ぐ讃えてもらえると、あの時の無意識無愛想な俺も悪くないと思えるけれど。


「…真似したかったのかもしれないわ、神威くんのこと。無償で、何の見返りもなく、誰かのために何かをしてあげる自分に酔いたかったのかもしれない」


 でも、と俺はまた反論を掲げたくなる。誰だって、そうだよね? 大抵は、そうじゃない?

 まったくの無から新しく何かを生み出す、あるいは創り上げていく作業って人生において稀有なこと。おおよそ某かのルールと例えば、って例示を与えられてそれをなぞり、自分なりの考えや行動を含ませて個性化し自分のものに変換していく。


 信号が青の時に横断歩道を渡るのよ、と教えられた。それは人や車が道路を安全に使うためのルール。もし赤の時に渡ったら、って悪い例を交通安全教室の腹話術人形に想像させられてゾッとした覚えがある。

 だけど、車が滅多に通らないような田舎道、右も左も充分に確認して横切った経験はあるんだ。たぶん、父ちゃんに手を引かれてたと思う。うちの親はそれはそれは四角四面の融通が利かないタイプというのではなかったし。それは思い返すと“合理性”を身を以て知った幼い日の記憶。


(…あれ? それって)


 それって、でも。大きくなる過程で自然と身についてきたものじゃないか。育てられ方、というか。俺の根っこの部分を作ってくれてる元、というか。それらがあるから内側から湧き上がる考えであり、言葉であり、行動であり。

 何か。今 何かが引っかかった。礼ちゃんが使った言葉…真似たかった?


「…礼ちゃん。えーっと、ちょっと待って…」


 もぞもぞと纏まらない思考が邪魔をして、次に続く言葉をなかなか吐き出させてくれない。何かが確かにチラついているのに。

 何度も、不思議に思っては考えてみた。礼ちゃんが自身を軽んじる理由。俺と出逢って以降、変化が生じていると信じたいところだけれど、それは小さい頃の、今となっては埋めようのない寂しさが巣食う心の奥の、奥深い場所。そこに留まり在る暗い闇。そのせいかなあ、って、けれど俺はそれ以上の深い思惟を避けていたかもしれない。


「…うん。神威くんが言いたいこと、何となく…分かるわ。その通りだと思う、真似する類じゃない」


 でも、って続くんだろうな。そう、確信しながら礼ちゃんの口元を見つめていた。そんな小さな先読みのピタリ賞にひどく安堵する。それに続く一言も、俺はまだ分かってないから。


「…いろんな気持ちを、真似て覚えて。ううん…覚えて、真似て。そうやって、生きてきたの。だって、理由をちゃんと教えてくれる人が、私には…右京くん、にも。いなかったんだもの」


 理由を教えてくれる人。

 それは今、礼ちゃんの目の前に座っている人で。右京にとっては。


 そこまで考えて俺は頭を軽く振る。ネットで目にした市議選出馬表明だったか、魂の籠らない作り笑顔しか浮かばない。“お母さん”に至ってはそのすぐ隣で深々と頭を下げる姿のみで、顔のパーツすら分からない。


「…いつからだったのか、もう…忘れちゃったけど。ご飯を残すんじゃないよ、ってスズおばちゃんからもキヌおばちゃんからもよく叱られた…神威くん家は?」

「えっ? うん、それはうちも」


 突然向けられた話の矛に戸惑って、妙な間が空いてしまった。

 つまるところ悲しくなるような気がして。そうなった時に俺はまだ、礼ちゃんを静かに抱きしめてあげるくらいしか策が無い。


「どうして? って。訊かなかった?」

「…訊いた、のかなあ。農家の方が一生懸命作ってくれたからご飯を美味しく食べられるのよ、とか…あ、残さず全部食べたら作ってくれた人がみんな喜ぶよ、とかそんな感じ」

「…そっか」


 礼ちゃんは? 訊かずにはいられない。訊かずして先に進めない。


「“バチが当たるよ” … “片づかないだろ”って時もあったかな。スズおばちゃんとキヌおばちゃんを責めるつもりはないの、だけど二人に見限られるのが怖くて、ご飯を残すと叱られる、って等式だけ必死に覚えた。私のせいで誰かに迷惑かけるんだ、って。私のしたことで誰かが喜んでくれる、そんな教えられ方は、私に無かった」


 ピキン、と張り詰めた感の場は礼ちゃんがふう、と吐いた息でほんの少したわんでくれた。つられるように俺は意味のない咳払いを一つ。幸さんは変わらず顔を俯けたまま、テーブルの上で組んだ両の指を弄ぶ。


「…だからね。私は空っぽだったと思うの…自分の内側から溢れ出てくる気持ちなんてきっと本当には無かったんだもの。それは何故か、って理由づけなんて貰えないままその時々の感情を公式みたいに覚えて、行動も」

「そんなこと…、」


 ないよ、って続けたかったのに。そんなことないよ、って簡単に否定することが正解なのか分からなくなる。

 それは、それこそ“俺 起点”じゃない? 悲しい空気にたどり着きたくなくて、なんとかそこから逃れようとしているだけじゃない?

 礼ちゃんは、きっと心を震わせながら、絞り出す一言ごとにどこかに痛みを感じながら、でももう、逃げないと強くあろうとしている。

 そんな礼ちゃんを俺は、一時の勢いで無碍に否、と出来やしない。それよりも。


「…礼ちゃんが、空っぽで良かったよ」

「…? どうして…」


 そりゃ、そんな表情になるよね。神威くん、突然どうしちゃったの? って。空気読めてる? ってビックリ眼だよね。読んでるよ、ちゃんと俺なりに空気は読んでる。

 だけど、礼ちゃん。俺と出逢ってからの礼ちゃんには、何らかの変化が起きていると、俺の目は節穴なんかじゃないと。たとえ空っぽだったとしても今は穏やかに満たされゆくものがあるんだと。信じさせて、ね?


「礼ちゃんと、初めて逢った時。あの、図書館で…あの時も、空っぽだった訳でしょ?」

「…そう、ね」


 間が空いた礼ちゃんの答えを俺は俺の都合の良いように解釈したくなる。だって礼ちゃんはあの時より前に俺のことを知ってくれてたはずだから。もしか胸の内に何かが微かに芽生えていたんだとしたら。でも、それが恋愛の類か分からなかった、そんな気持ちの公式は覚えてこなかったから。なんて考えてくれてると嬉しいんだけど。

 いつの間にか幸さんの顔は上がっていて、俺の口元から紡がれるのは一体どんな摩訶不思議な呪文なんだと問いたげに見据えられている。


「あの時の行動がたとえ誰かの真似でも、礼ちゃんが必死に覚えてきた公式の一つでも。俺は全然かまわないよ、むしろそうであって欲しいくらい」

「神威くん…? どういう…」

「空っぽ、いいじゃない。人間の行動には他意が付きまとわない? 私欲とかさ? 空っぽ、凄いじゃない。そんな礼ちゃんとだから、俺は今ここでこうしてられるんだと思うよ? 空き容量たくさんあるから俺のアホなとこも全部 受け容れてくれるんだよね?」


 見た目、だけに寄せられる好意はちっとも嬉しくなかった。敬遠して面倒くさがって出来るだけ関わらないようにしてた。だけど、知りたい、と思ったんだ、あの時 礼ちゃんのことを。それは同時に俺のことも知って欲しい、と。表裏一体だったと思う。


 誰かを本当に好きになるなんて初めてだったよ。どうしていいか分からないこと、たくさんあったよ。こうしたい、と俺自身が選ぶ行動の起点はいつも礼ちゃんだったよ。礼ちゃんは、違った? ねえ、そうやって新しく気づいてきた気持ちは今も在り続けて。だからもう、空っぽじゃないんでしょ?


「…礼ちゃん? うわ、泣く?」

「…神威くん、ありがとう」


 とてもよく似た声だったけれど、その言葉がこぼれ落ちたのは幸さんからだった。


「…え。ありがとう…言ってもらえるとこ ありました? 今」

「…ありました」


 両の口角が綺麗に上がった笑み。けれどその目の縁は紅く、じわり浮かんだ水分で瞳は潤んでいる…、やっぱりどこかしら似てるよなあ。

 泣き出しそうな礼ちゃんを横目に小さな背をぽんぽんと撫でながら、幸さんの次の言葉を待った。


「…少し。あたしの話をしてもいい?」

「はい」


 あ、しまった。俺が即答するとこじゃないのに。礼ちゃんを見やると俺の慌てっぷりを感じとったのかくすくす笑われた。

 そんな涙目のくせに可愛いったら。コクリと頷くからオッケーってことね。


「…最近、担当誌が変わって。ママさん向けなの」

「…編集長、さんでしょ?」


 ママ、いちばんえらくなったんだって!


 そう、定例の電話報告で智くんが教えてくれたんだ。担当、ってレベルじゃなく一誌をまとめ上げる責任者なのに、どうしてそんな控え目な言い方、と不思議に思った。幸さんは目元と口元を奇妙に歪ませるとかぶりを振る。


「…あたしは、何も分からないもの、まともに子育てしてきてないんだから。周りのスタッフが優秀なの」

「そう、…なんですか」


 それでも二人の子を持つお母さん、だ。幸さんが仕事で負っている責任の重さは正直分からないところがあるんだけど。この、憔悴ぶりはもしかすると、忙しさとのしかかる圧だけが擦り減らしているのではないのかも。


「…たくらん、って。知ってる?」


 たくらん。托卵?

 漢字は分かったんだけど、幸さんが導きたい方向性の深意が分からなくて俺の戸惑いはすぐ表情に出る。礼ちゃんも脳内会議でそれは激しい議論が繰り広げられているはずだ、ピクリとも動かない。


「…最近ネットで使われてるような意味じゃなくてね。本来の…動物の習性」

「…あの、あれですよね。カッコウとかが自分の卵を別の鳥に育ててもらうっていう」


 そう。


 幸さんの消え入りそうな声音は悲しげで、だからか俺は来たる展開を勝手にマイナス思考して胸がざわざわと落ち着かなくなる。

 幸さんと俺は親子。結婚というきっかけがあって結びついた義理という関係だけど、偽物じゃない。所詮 他人だからと分かり合うことを放棄するのは簡単なんだ。だけどそんなの逃げを打つための屁理屈だよね。礼ちゃんが逃げないのなら、俺も全力で。


「…結局…あたしがしたことって、そういうこと。礼のことはおばちゃん達に、智のことは礼に押しつけて…自分のことだけしか考えてこなかった」


 でも、って反意語を、使ってその先をどう続けよう。

 礼ちゃんも智くんも、今ここに健やかにあるということを。幸さんは卵を預けたまま飛び立って行った訳ではないということを。どう伝えれば、この涙目母娘は笑顔になるんだろう。


「…でも。今、苦しんでるでしょ」


 すん、と鼻を啜る音に続いた礼ちゃんの声。俺はだいぶ贔屓して耳を傾けているけどそれでも断定的で尊大な物言いだと受け取れる。

 ただ、まるでその苦しみを分かち合ってるように言葉を絞り出す礼ちゃんも痛々しい。ねえ、そんなとこも真似だ、真似してる、って言うの? 礼ちゃん。

 違うよね。その声も、その表情も、礼ちゃんの心の奥底の方からこみ上げてきてるものでしょう? その言葉も、俺が“でも”の先に続けようと考えてたこととは違うもん。


「…やれるの? って思ったの。ママさん向けの雑誌だなんて。母親らしいことなんてほとんどしたことない人が、何を分かってあげられるの? って」

「…ほとんど、って。言ってもらえるほども無いわ」


 自慢することじゃないか こんなの。


 自虐的にうっすらと浮かんだ、幸さんの口の端の笑みを見ても俺は笑えなかった。

 母親らしいこと。それは何を、どこまでを指すんだろう。例えばさっき、智くんへジュースが入ったグラスを手渡す幸さんの姿は、普通のお母さんのそれと寸分違わないように思えたけれど。


「…新しい生き方を提起するとかトレンドを創り出すとか、ターゲット層も違うしそれぞれの雑誌で得意分野って、あるのね。うちは…地域コミュニティや先輩ママさんの代わり、ってとこ」


 時に吐く息とともに掠れる幸さんの声を一言も聞き逃すまいと俺は前のめりになる。だって俺はまだ正しく理解できてない。

 苦しんでる。そう、礼ちゃんから断言された幸さんが苦しんでるのは何に対してなのか、どうしてなのか。


「…子どもがいるから。あたしが編集長なんて肩書きを与えられたのは、子どもを産んだことがあるからよ。母親の視点を持ってる、と…それを誌面作りに活かせるだろうと思われてるからなの」


 直接的な言葉ではなかったけれど、ああそこが幸さんの苦しみなのかな、と俺はぼんやり考えていた。

 礼ちゃんはもっとくっきり感じているのかもしれない。勝手な思惑を押しつけられ、こみ上げる憤りを何とか自身で誤魔化しているような、そんな印象。


「…確かに、いろいろと記事にする上で経験の有り無しが差として出てくる。読書の共感や反応をいかに得られるかという点においてね。物販のページもそうなの、スポンサーとの大人の事情もあるけど…実際使ったお母さんからの体験談がある商品ってすごく売れるの」


 アルバイトですら携わったことのない業界だ。その大変さに想いを寄せ想像するより前に俺はただただ頷くばかりだった。それは、幸さんの声がだんだんと震えて頼りなくなってきて、他に成す術がないというのが正解でもあったんだけど。


「…礼がちっちゃい頃、スリングなんてあんまり知られてなかったわ。スズおばちゃんもキヌおばちゃんも使ってたのはおんぶ紐で…、礼がおばちゃん達の背中で寝てたのを覚えてる」


 スリング、って単語に一瞬詰まったけれど、続く幸さんの言葉から察するに、あれだ。赤ちゃんを抱っこする紐、みたいなの。街中でも見かけた覚えがある。なるほどあれなら片手が塞がらなくて良いな、なんて、リーとガクの子守りを手伝ってた時に知ってると良かったな、なんて、思ったりした。


「…最近またおんぶ紐の良さが見直されてるんだけど。どうでした? って訊かれるの。デスクは、どうでした? って。答えられないわよ、分からないから。哺乳瓶の消毒だってそう、布おむつのことだってそう、搾乳した後の保存方法だって…っ、」


 何一つ、分からないの。


 絞り出すような切ない声は、次いで聞こえた大きなため息がかき消していくようだった。奥の歯を噛みしめすぎて、俺は頭痛を覚えている。


「…知らない、ってことに気づいて震えるのは、恥ずかしいことじゃないんだ、って、あたしは、先輩記者から言われたことがある。でも…これは違う、知ろうともしなかった結果、あたしは今 何も分からないんだ、って…罰を受けてるんだなあって…二回も、チャンスはあったのにあたしは――」


 相変わらず流れてくるテレビからの楽しげなリズムの合間、俺の隣です、と息をのむ音がした。ギリギリと噛みしめすぎた奥歯の力を無理やり逃がすように、俺は横目で礼ちゃんを盗み見る。開きかけた唇が、またすぐ引き結ばれる様を視界の隅で捕らえていた。


 幸さんの言葉が先をついたから、自分の内側の深いところにずっと閉じ込めておいた暗い感情は、いざ口に出そうとしてもなかなか上手く纏まらないらしい。

 そんな感覚は俺もよく分かる。息を吐き息を吸い、唇を噛み唇を舐め、眉間にシワを寄せ両の口角あたりを微かに引きつらせている。そんな所作を招くいたたまれなさもよく、分かる。


「…考えなしで、頭悪くて。ガキだったし、謝り方も知らなかった。礼は分かりやすく道に外れた訳じゃなかったから子どものことで頭を下げる、なんて経験したことなかったし」


 スズおばちゃんにもキヌおばちゃんにもごめんね、なんて言った覚えがない、と、幸さんは苦々しく笑った。



 痛いな、空気が。発されてるのは幸さんからなのか礼ちゃんからなのか分からないけど、痛々しさが空気に充満して重くのしかかって、頭の芯がずくずくと疼く。それでも不思議と、二人ともやめればいいのに、とは思わなかった。


「…おばちゃん達は。あたしの結婚を勝手に決めた引け目があったんだと思う。礼を、預けっぱなしにしてたのに咎められたことはなかった…責任はとれないよ、とは。何度も言われたけど」

「………」


 何か。何か、言えるんじゃないか、って、相槌の一言を探してるんだけど見つからない。少しも漏らさず聴いているとせめて伝わるように、俺は頷きを繰り返した。


「礼は、大きくなっていったの。あたしが、いなくても…あたしが、何をしなくても。でもだからって、母親がいなくてもよかった、って言いたい訳じゃ…」

「当たり前でしょう…」


 考えるより前に言葉が口をついたような、礼ちゃんは自分でも驚いたのか身じろぎし唇を舐めた。


「…私が…どうして庭の木に登ってたと思うの?」

「…庭の木…?」

「おばちゃん家の庭にあったでしょう?」


 幸さんは遠い目をしてきっとスズキヌさん家に意識を飛ばしている。俺も四年くらい前に想いを馳せた。礼ちゃんを迎えに行ったあの島。檜の香りに包まれた居心地の好いスズキヌさん家の庭には確かに大きな木が在った。


(…登って…どうしてたんだろ、礼ちゃん…)


 礼ちゃんが小さい頃の話を、俺から攻めの姿勢で訊いたことがない。あまり感情をあからさまにしない礼ちゃんだけど、遠足だとか運動会だとか、流石に口の端に浮かぶ苦々しさを、沈む声音を、不自然な間で取り繕われる言葉達を、俺は見逃すことも聴き逃すこともできないんだ。

 小さな遠慮が積み重なって生まれる躊躇いは、優しさとは違うと知ってる。俺にとっては礼ちゃんのそんなとこもきっと俺だけしか知らない大切な一面だし、いつだったか幸さんへ伝えた“礼ちゃんを産んでくれてありがとうございます”に繋がるんだけど。礼ちゃんには様々に思うところがあるだろうと、複雑な心境が司る曖昧な表情の由縁も知ってるつもり。


「…登ると。家の前の大きな道が通りの端まで見渡せた。お母さんが帰って来る姿を、誰よりも早く見つけたかったのよ」


 ヤッバい。俺が泣きそうになってどうすんだ。礼ちゃんはきっと意識して、感情を声に乗せていないんだと思うのに。


 ちょっと、重ねてしまった。入院していた母ちゃんの、いつになるとも知れない帰りを待っていた小学生の俺と。

 勿論、背景も環境も違うから その時の気持ち分かるよ、なんて簡単に口にすべきじゃないんだけど、礼ちゃんの心情に寄り添える材料が俺の手の中にあるという些細な安堵は知らず瞼の奥を熱くして、俺は思わず目を瞑る。

 心細くて、仕方なかった。父ちゃんも姉ちゃんもちゃんといたのに、何故か独り取り残されてしまうと焦って拭い去れなかった絶望感。涙なんて、毎日 理由もなく出た。


 俺と同じくらいだったんだろうか、それとももっと小さかったんだろうか。礼ちゃんは幸さんの姿を誰より先に見つけることが出来たんだろうか。出来たとしてその時の二人は互いの笑顔を目に焼きつけたんだろうか。それとも――。


「…叶ったことは、無かったけれど」

「…ごめん…礼…」

「謝らないで」

「…そうよね…でも、」


 ごめん。


 幸さんの消え入るような声に、礼ちゃんは一旦 椅子の背もたれへ身体を預ける。ふう、と大きな深呼吸一つ。それは決して話すのに疲れたとか億劫になったという仕草ではなく、自身に閊えている積年の想いをどこから取り出せばよいのかと真剣に自問している人の姿だった。


「…いいの。結局 お互い様なんだわ」

「…お互い様…?」


 幸さんでなくとも礼ちゃんに問いたかった。お互い様、って? どういうこと?

 声に出し音として確かめた自分の言葉を、礼ちゃんは間違いなさそうだと言いたげに頷いている。


「…忘れてたの私、そういうの…おばちゃんに言われてぼんやり思い出したくらいで。きっと他に、覚えなくちゃいけないことがたくさんあったせいね」


 その微かな暗喩は先ほどの話に繋がるのだと感じた。礼ちゃんの口調は変わらず淡々と静かで、責め立てるような蠢く感情の逆巻きは無い。


「…さっき、お母さんは托卵、って言ったけど…知ってる? 産まれてきたヒナ鳥も結構 残酷なのよ」

「どういうこと?」


 しまった、俺ってば。さっきはきちんと喉奥にしまい込めてた問いを、今度は知らず口に出していた。斜め上から見下ろす礼ちゃんの瞳は、俺を映さない。幸さんも、今この場も。


 寂しいって、こういうことだ礼ちゃん。胸が苦しい、ってこういうこと。

 礼ちゃんには、いつもキラキラ笑っていて欲しいのに。


「…巣から追い出すの、本当のヒナをね。親鳥がいない隙に全部押し出して自分だけが巣を占領してしまうの。羽を広げてエサをねだると、羽の模様が他のヒナ鳥の嘴みたいに見える。強かよね…そうやって親鳥を欺いて育ててもらうのよ」


 ゆらゆらと彷徨っていた礼ちゃんの瞳はぴたりと幸さんを見据え、今の色を取り戻した。俯いていた幸さんは、途切れた礼ちゃんの言葉の先を掴もうとするようにふと顔を上げる。


「…私も、追い出したのよきっと…お母さんのこと。振り向いてもらえない人にエサをねだって口を大きく開けるんじゃなくて、ちゃんとエサをもらうにはどうすればいいのか真似たの、他のヒナを」

「…礼ちゃん…」


 そんな風に自身を悪し様に言わないで欲しいと思った。じゃあ礼ちゃんをほったらかしにしていた幸さんだけが悪いと断じたい訳じゃない。

 幸さんは、逸らすことは罪だと言わんばかりに礼ちゃんを固く見据えたままだ。原因が自分だけに由来しない出来事って、一体 何をどこまで遡れば真に解決と言えるんだろう。

 そういえば幸さんの口から“親がいない”と聞いた覚えがある。俺はどこか苦しさを逃がすように考えていた。


 自己肯定がくるりと包み込みゆっくりと育んでくれる幸福感。渇望してやまなかったのは礼ちゃんだけじゃない。悲しい連鎖はどこかで途絶えてしまえばいいのに。


「…お母さんも、おばちゃん達から育てられたでしょう? 寂しいとか、足りないって心の痛みを知る人が他の人に対してどうするか、って…何通りか、あると思うの」


 懸命に、俺なりに考えた。何通りか。それは幸さんと、礼ちゃんと。そうして右京のことも含まれているんだろうと考えた。


「…自分がしてもらってないこと。体験できなかったこと。それを誰かに教えるのって難しいわ。私は智に…例えば、生まれてきて良かった、この世の中はまだまだ楽しいことが待ってるんだ、って。そんな幸福感を抱いてもらえてるかどうか分からない…それでも――」

「分かるわ、礼が言いたいこと」


 言いあぐねた礼ちゃんの言葉を幸さんは淀みなく継いだ。

 分かるわ。もう一度、自身へ言い聞かせるように残響を噛みしめている。

 礼ちゃんは、というと幸さんを見つめたまま。どう分かったのか、と言いたげに真意を探るかのごとく目を逸らさない。


「…礼は、味わわせたくなかったのね、智に。同じ、痛みを、ね。自分がされてきたように智に接することは、寂しさでひたひたの子をまた一人増やしてしまうってことだから」


 それが、礼のやり方だったのね。


 自分とは違うと、この先を続けたいのかもしれない。俺はふるふるとかぶりを振る幸さんと、僅かに目を細め眉を顰め口を開きかけた礼ちゃんとを交互に見つめた。


「…そうね、お母さんは。自分がされてきたように、私に接した…んだと、思う」


 でも、と間髪入れずに続けた礼ちゃんの継ぎ方がいかにも礼ちゃんらしくて、俺はふと張りつめていた顔中の力が抜けそうになった。誤解をさせたくないと、勢い込んで反意を伝えようとしてくれる。

 礼ちゃんは、いつもそう。自分についた数多の傷より、誰かの痛みをどうにかしてあげられないかと考えてる。そんな、傍にいる俺達が苦しくなるくらい心配になるくらい、優しい人。


「…無理もないの、そうなの。他のやり方なんて知らないんだから…だから、お母さんを今更責めたって仕方ない」

「…や、いっそ…責めてくれた方が…」


 幸さんの語尾はあまりに小さく霞んで消えて、音として聞こえなくなる。責めてくれた方が、どうだと言いたいんだろう。

 気のせいかと思ったけれど、礼ちゃんは確かに、ふ、と小さく笑った。幸さんへ目線を移していた俺は、隣の気配の変化に驚いて慌てて礼ちゃんへ目を向ける。

 表情が、その拠り所の感情が読めない。今どんな気持ちでいるんだろう礼ちゃん。泣き出しそうにどこか苦々しい、何を孕んでいるのかどこか達観したような。そんな、掴めない深意。


「…駄目よ。責めてあげたりしない…そうやってお母さんを甘やかしてあげたり…私は、しない」

「礼ちゃん…」

「責められた方が、楽に感じることってあると思うの。私は…神威くんが怪我をした時に、心底そう思った。どうしてみんな優しいの、どうしてみんな私のせいだ、って責めてくれないの…」


 思い出したくないこと。だからこそ口にするのも無意識に憚ってきたはずのそれを、礼ちゃんは躊躇いがちに言葉にした。

 蘇る場面は鮮やかできっと痛みまでも伴う。俺の傷跡も何がそうさせるのか、連動するように疼き出す。


「何故かって、きっとね? 責められて可哀想な自分に酔いしれたかったの、事の本質から目を逸らしたかったのよ。人って狡いの、そうやって自分を護っていくんだわ。責める方だって、辛いのに」

「…礼。あたしは、」


 幸さんの、その続きは俺にだって分かったくらいだ、礼ちゃんにも理解が及んでるはず。楽をしようとするのでも、自分を護ろうとするのでもなくて、ただただひたすら。謝りたいんじゃないかな。もう、その“時”を逃してしまったけれど、小さな礼ちゃんへ。庭の木に登って待ってくれてた頃の礼ちゃんへ。

 待って、待って、辺りは闇に包まれたかもしれない。お母さんの姿は例えば外灯に、車のヘッドライトに、ぼやけたかもしれない。もしかすると、浮かんで流れ落ちた涙に何も映さなかったかもしれない。

 そうしてそんな礼ちゃんを、木から降ろして抱きかかえてくれたスズさんとキヌさんにも、謝りたいんじゃないのかな。


「楽をしたい訳でも保身のためでもない。お母さんが言いたいことは、分かってるつもり。良いの…私が責めなくてもね、お母さんは今、責苦を負ってる。いい気味だ、って、思ってる」


 涙をほろりと零しながら。そんな切なげに震えながら。口にするセリフじゃないな、と思った。いい気味だ、なんて。

 なんて似合わないんだろう、礼ちゃんに。使い方を間違ってる気すらしてくる。


 こんな時に気が利かない俺はハンカチなんて持ち合わせてなくて、咄嗟に指を伸ばすのが精一杯だ。頬を伝う透明な雫を掬い取り、拳を握って俺の皮膚へ染み込ませる。ごめんね、礼ちゃん、って思いながら。涙の原因まで全部、掬い取ってあげられないから。


「…書けないんでしょう、上手く、記事が。纏められないんでしょう、分からないから。母親、って自分は放棄して、仕事と恋愛と女である自分にかまけてきた人が、だからこその壁にぶつかってるんでしょう?」

「…自業自得よ」

「そうね、ぴったりよ…その四字熟語」


 頷く幸さんの姿に胸が苦しくなる。ただ、俺はどこか別の思考を彷徨っていた。


(…じゃあ、右京は…)


 同じ痛みを味わわせたくなかった礼ちゃん。同じ痛みをわが子に味わわせてしまったけれど、それはくるりと巡って今わが身をこれでもかと痛めている幸さん。


「…右京は…そうか。あいつは、痛みを…、他の人間へぶつけたのか」


 特に意識しないまま口をついて出た言葉はもちろん取り戻せるはずもなく、俺は軽々しかったのではないかと慌てて拳を唇へ当てた。

 よく、噛みしめることもしなかった。誰かを言い表すのに正解とかないし、決めつけたりとか、すべきじゃないのに。


「…ごめん、俺…勝手なこと…、」


 伏し目がちに礼ちゃんと幸さんを窺い見ながらなんとかそう絞り出した。

 傷は、完治したのに。思いのほか、声音は低かった。俺は右京へまだ暗い蟠りを抱き続けているんだろうか。

“囚われて欲しくない”

 そう、静かに力強く訴えられたあの日を思い出す。これは、囚われていない、と。言える?


「…ううん…私も。そんな風に、思った」


 礼ちゃんはそっと俺の拳に触れた。知れず悔やむ俺の胸の内なんてお見通しといったところなのかな。


「…ごめんね。神威くんがそんな…、苦しそうな顔、することないのに…」

「…私のせいで、とか。続けたら怒るよ?」


 嘘だけどね。礼ちゃんに、心底怒ったことなんてないけれど。

 俺がもしも苦しそうな顔をしてるのなら、それは礼ちゃんが笑ってないからだ。礼ちゃんが笑っていてくれるのなら俺はいつだって幸せなんだから。そんな温もりの連鎖なら俺は喜んで根源になるのに。


 礼ちゃんは俺の目を見つめたまま、微かに口角を上げた。そうそう、そうやって脳に勘違いさせてドーパミン出して、本物の心底からの笑顔、見せてよ。ごめんね、こんな時にこんな俺は空気読んでないけど、このいたたまれない場は酸素量が少なく感じられる。


「…右京くんも、私みたいに。すごく寂しくて悲しくて…きっと どうして、って何度も自問自答して」


 きゅっ、とまた礼ちゃんの眉根が寄る。経験値がないことを想像だけで 分かるよ、なんて俺には言えない。言葉だけで寄り添ったふりをしても中身がなくて薄っぺらい。だから俺は礼ちゃんの手に指を絡めて力を籠めた。

 今は? 礼ちゃん。寂しくない? 悲しくなったりしない?

 これから先は俺がずっと、そんなの感じる一瞬もないくらい愛し続けていくからね。


「…右京くんの周りに、大人はたくさんいたと思う。右京くんも、真似たのかもしれないわ。埋められない虚しさの紛らわし方…」

「…でも、礼とは…」


 違うじゃない。


 幸さんはわずかに身を乗り出して言った。二人の間を艶のあるテーブルが隔てているけれど、幸さんが木目の上へ置いている両の掌は礼ちゃんの方へと近づいた。

 違ってるわ、ともう一度 言い聞かせるように念を押す幸さんの声は、礼ちゃんの肩に手を置き揺さぶっているようだった。


「似てた、としても、それに礼が共鳴したとしても。あの子と礼は、見つけられたものが違うでしょう?」


 幸さんの視線はチラと俺の方を向いた。暗に俺を指してくれてるのか、可笑しなもので急に礼ちゃんと絡めている指の繋がりが恥ずかしくなって肌がじんわりと熱を持ってしまう。


「…そう。神様なんて信じたことないけれど。神威くんとのことは、感謝してもし足りない」

「…神様なんて、いないわ。礼だから」

「…え?」

「たとえ始まりは真似だったとしても貫き通せばそれは礼の自然体じゃないの? あたしはあんたが…優しいとこも、すぐ泣くとこも、もう全部があんただから、だから神威くんは――」


 幸さんは感極まったようにグ、と音を鳴らし嚥下してそれ以上を上手く紡げなくなった。ちょっと、俺。一転して違う種類のいたたまれなさが来ちゃったよ。照れるというか、いや照れるのは自意識過剰すぎるのか。


「…礼のこと。産んでくれてありがとう、ってあの言葉…自分のこと、遡って満たしてくれる言葉ってあるんだなあ、って。あたしは産んだ責任なんてこれっぽっちも果たしてこなかったけど、産んで良かったなあ、ってあの時 思った」


 幸さんを見つめていたけれど、隣の礼ちゃんがふわりと微笑んだのが分かった。目で確認しなくても纏う空気が色を変えたように感じた。俺の大好きな、礼ちゃんスマイル。


「…産んだ責任なら、充分果たしてくれたと思うけどお母さん」


 えっ、って。幸さんは心底驚いた様子でえっ、と聞き返した。信じがたい言葉ってそうそう耳がすんなり受け容れてくれないものなのかな。とは言え俺も、礼ちゃんがふわり笑いながら織りなす優しい言の葉は一体どんなものだろうと想像も出来ずにいる。


「…お母さんみたいになりたくない、なっちゃ駄目だ、って。私ずっと思ってたの。愛に飢えて愛に溺れたがってる“女の人”みたいな生き方は周りを巻き込んで不幸にする、って…ずっと」


 礼ちゃんの口調はほんの少し、高校生の頃を思わせた。初めて礼ちゃん自身から聴かされた家庭の事情、の一部分。確かあの時も俯き加減で、涙目赤い目ウサギの目で打ち明けられたんだった。


 でも、礼ちゃん。分かってるんでしょ? 嫌だ嫌だと嫌悪する、実はそれすらも。


「…そうやって、意識してたのね…お母さんは、私の傍にいたの、ずっと。反面教師、って言うんだっけ。産んだ責任…果たしてるんじゃないの? 違う?」

「…礼…」


 定義、なんて明確なものはそこに無いんだと思う。人の数だけ、親子の絆も家族の形もあるんだろうから。


「私が今、こうして神威くんの隣にいられるのは、ここまでにお母さんがいたからでしょう? だったらやっぱり、私のお母さんはこの人じゃなきゃ駄目だったんだな、って。そんな結論、悪くないと思う」


 ギュウギュウしたくて、たまらなくなった。なんて、そんなこと実際しようものなら 神威くん、って苦笑いと共に窘められると思うけど。それは優しく柔らかく。

 礼ちゃん、心配してたよね。ここに来る前、幸さんと話をする前。自分が何を言い出すか分からないから、嫌いにならないで、なんてそんなの、本当に杞憂なんだよ。


 手紙の宛名書きは件の発端で、話はあっちこっちへ寄り道している。着地点も振り出しも分からないまま、どうなるんだろうと暫しぼんやりして思考を逸らしたりしたけれど、なんとなく、見えてきた。

 眉を顰めながら。唇を噛みしめながら。涙をこらえながら。我慢できていたはずの傷をもう一度切り開き、澱み溜まっていた膿を出し、礼ちゃんが真皮の再生を待とうとしているのは。その、あえての意味は。


 本物が欲しかったからなんじゃないのかな。


 母娘ごっこ、でも家族ごっこ、でもない。恐る恐る撫でるように当たり障りなく関係を続けるのではなく、本当のね。

 何かを求めるというのは時に苦しい。必ず得られるとは限らないし、自分一人でどうにかできるとも限らない。努力することも歩み寄ることも信念を曲げることも必要かもしれない。それでも、乗り越えたその先を欲するのなら、そうやって、もがいてる礼ちゃんを俺は嫌いになんてなれる訳がない。もう一度、自分の胸の内で反芻した。


「…あたしは…感謝しなきゃ」


 幸さんは ふ、と息をもらし、それは薄く微笑んだせいだと分かった。考えを巡らせているのか俯き加減だった顔は、けれど突然ふるふると何かを否定する。


「…しなきゃ、って別に義務感とかじゃなくて」


 分かってる。幸さん。きっと礼ちゃんも分かってますよ?


「…そんな真っ直ぐに、育って…」

「…話 聞いてた? お母さん。私のどこが真っ直ぐなのよ、歪でデコボコだ、って」

「人を傷つけるような生き方、選んでない。あたしのことだって、ねえ…反面教師だなんてそんな認められ方…」


 ありがたいだけじゃない、と幸さんはまたうっすら笑った。声あげて笑ったっていいのに、我慢しないで。目元のクマも霞んじゃうくらいに。それは時にどこかの角度で礼ちゃんととてもよく似ている。


「大丈夫です、幸さん。礼ちゃんがちょこっとばかし歪でデコボコだとしても俺が建て直しますから」


 幸さんの瞳に瞬間 不可解な色が走ったけど、俺が大学で専攻している分野とか、いつだったか語った将来設計を思い出してくれたんだろう、すぐに得心の表情が浮かぶ。


「永久保証なんでしょうね、それ」

「勿論です、腕の良い一級建築士が手がけますので」

「…お義父さんが?」

「うん、礼ちゃん そこはね? 確かに俺まだ試験も受けてないけどさ、いつかその時には俺が、ってたとえ話でね」


 礼ちゃんを小突いて礼ちゃんが蕩けるようにふんわり笑って、つられるように幸さんも笑って。あ、今度は白い歯が覗いてますね。そこまで確認出来て、俺は身体の強張りが解けていく感覚を味わった。

 思いの外、緊張してたってことか。ヘタレっぷりに苦笑も湧く。


「…あたし。見当違いなことしちゃったのかもしれない」


 幸さんはふう、と息を吐くや両の掌で顔をごしごしと拭った。仕切り直し、といった風に。


「その頃、あたし…ほら。迷惑行為防止条例、だとか小難しい法律は、結局 一市民を丁寧に守ってくれるもんじゃないんだ、って…、知って」


 知って、と暫しの間の後でその言葉を選んだ幸さんを流石だ、と思った。そう、俺達は“知った”けれど“理解”して“納得”出来た訳じゃなかった。


「その子の…礼と似たところがあるとか、そういう背景をあたしはよく分かってなくて。礼がこの先ずっと執着されたらどうしよう、神威くんがいるのに、って…そんな考え方が“女”ってことなのね…“母親”っていうより」

「…心配してくれたことに変わりはないと思うけど」


 峠を越えた、って表現は適当ではないと思う。それでも俺にはじわりじわりと伝わってくる、気のせいじゃないと信じたい。礼ちゃんの、言いたかったことを言い切った感。

 経年がどこかへ隠してしまったもつれた糸の先端を、わざわざ痛い想いをして泣きながら探す必要はなかったのかもしれない。これから先をただ、生きていくことは出来ただろう。

 でもね、礼ちゃん。お疲れ様。糸は解けただけじゃなく、時々 綺麗な模様を紡いでいけるんじゃないかな。


「それはそうなんだけど。こういうの…、証拠になるかと思って」

「…証拠?」


 こういうの、と幸さんは白の封筒と便箋を指す。証拠? と問い直した礼ちゃんへ頷きながら。途端にそこにあった無機質で頼りなげな物が重要度を増したかに思えた。証拠、って。


「…礼に断りもなく悪かったけど。あたし…少年院と真坂さんの事務所に手紙出したのね、内容証明で。礼は結婚したからここにはいない、こんな手紙は送らないで欲しい、って…あとあと、追いすがられたりした時のために」

「え」


 礼ちゃんは文字通り目を剥いた。いや、俺も大差ない表情だと思うけど。

 俺達の知らないところで幸さんは一人、礼ちゃんのためを思い行動してくれてたのかと思うとなんとなく胸がじんわり熱くなる。


 だってさ。誰に相談もせず、って心細かっただろうし、的外れかもしれない、って不安だったと思う。それでも何か、したかったんだよね幸さん。


「…あたしは…ほら。結婚、とか…上手くいかなかったし。幸せになれる、って分かってるのにその…邪魔されるようなこと…あ、勿論 法律も意識したんだけど。でも話 聴いてたら。あ、何かあたし違ったな、って思った」

「…うー、ん、そうね。右京くんが私へ向けてた想いは横恋慕的なものじゃなかったと思う…思うんだけど」


 礼ちゃんは沈黙とともに視線をテーブルの上で彷徨わせる。

 およそ感情の籠らない右京の手紙は束となり、生々しい剥き出しの叫びは最初の一通のみ。


「…あたし…余計なこと、したわね」

「そんなことないわ」


 間髪を入れない礼ちゃんの反応に俺は口の端が緩む。

 本当に、優しいったら。そうして何かを考えついたのかコクコクと一人頷いた。


「…やっぱり、右京くんに確かめたい」

「え?」

「お母さん。私、右京くんと面会することになったの」


 え、と先ほどと同じ母音が幸さんから返ってきたけれど、そこに内包される感情はまるで異なることが分かる。顰められた柳眉。揺れる瞳。愛娘を心配するお母さんの図、以外の何物でもない。事ここにきて俺は、そう言えば面会の話はまだだったな、と思い至った。手紙の話が、先行しちゃったからね。


「面会、って…どうして今頃」

「今頃、だからよきっと。お母さん、新聞読んでるでしょう?」


 だから、分かるでしょう、と礼ちゃんは薄らと苦笑いを浮かべながらそう続けた。幸さんは黒目をくるりと一周させると合点がいったようにああ、と漏らした。


「…何か…嫌ね、そういうの。見えない力で良い様に操られてる感じがする」

「…そうね」


 俺も首肯して賛同した。言動の裏側に何か別の深意が隠されているのではないか、と申し訳なさも感じるけれど疑ってしまいたくなるこれまでの経緯が真坂さん側にはあるんだ。


「ひょっとすると、ね? 私の新しい住所…新しい苗字はちょっと考えれば分かっちゃうと思うんだけど。あの…秘書の人が調べたのかもしれないなあ、って」


 まるで確証はないんだけど。


 そう慌てて付け足す礼ちゃんの控えめな言葉に、それでも俺はあり得るのかもしれないな、と考えを添わせていた。何せあの秘書という人は、うちの父ちゃんへ紫色の風呂敷に包んだ現金の束をそっと差し出してきた過去がある。これで右京との一件を表沙汰にしてくれるな、と。そんな世界が実在することを平々凡々に生きてきた俺や家族へ、良くも悪くも知らしめた。


 個人情報保護が声高に叫ばれているものの実態はどうなんだろう。政、の世界だけがそうだとは言わないけれど、成人し優しく守られていた居心地の好い箱庭の外へ出るにつけ、俺達の知らない事実は確かにあるし、それ在りきで成り立つ世界は本物なのかと疑わしく思っちゃうんだ。

 とは言え俺一人の力と浅慮で何かを変えられるのだとは意気込めない。ヒーローになりたいなあ、マジで。


「…お母さんが手紙を出してた。このワンクッションがあったからだと思えば、右京くんからの返事に一旦 納得することも出来る」

「…どういうこと?」


 訝る幸さんへ礼ちゃんは白い封筒の束を見つめながら、まるで主観が無くただただ事象だけが業務日誌のように列記されているのだと告げた。


「私達の幸せを、邪魔するつもりはありません…そんな風に受け止めることが出来るわよね?」

「…後々、変な風にとられないように…その自衛の策だと受け止めることも出来ると思うけど」


 俺は思わずくしゃりと苦笑した。俺の考えはどちらかと言うと幸さんに近かった。俺が負った痛みの素は悪意ばかりだと、そこに右京の悲しみを推し量る必要が俺にあるのかと。やっぱりどこかで打ち捨ててるからかな。


 心優しい彼女を持つと大変だね、神威。

 いつだったか、葛西先生から向けられた言葉を思い出す。

 本当にね、先生。

 その彼女が奥さんになって、物事の捉え方は自分の目の色一つ、心の持ちよう一つでこんなにも変わってしまうのだと日々 驚きと嬉しさの悲鳴をあげてますよ。


「…そういうの、全部。話してみないと、分からない」


 礼ちゃんはまた白い封筒の束を手に、きちんと角を揃えトントンとテーブルへ小さな音を立てた。どうしても他のどれとも上手く重ならない最初の一通は、ひどく右京を象徴しているかに見える。


「…上辺だけで人と関わっていくこと、って。私は、出来ると思ってた…勿論 是非は置いといてね」


 俯き加減の礼ちゃんの言葉は、俺に向けられているようで。でも同時に幸さんへも、ひいては右京へも向けられているように思えた。


 そうだね、俺も。出来てたんだと思うよ。礼ちゃんと出逢う前の俺はそうだったと思うもん。心や武瑠や家族っていう本当に限られた狭い狭い世界でしか本心を曝すことは無かった。

 今ならば、ちょっと勿体ないことをしてたんだな俺、ってほどには思える。

 誰かが、俺を、見つけてくれる。そのきっかけの一つが俺の見てくれだったとしても、それはその人の軽薄さとイコールになんてならないのにね。


「…親子だから。何でも分かり合えるって訳じゃない。親子だからこそ、分かり合えないこともあるかもしれない。そういうの、擦り合わせていくのはきっときついから。だから――」


 お母さんとも、上辺だけで。


 その先に続いたであろう言葉はひどく掠れて聴き取りづらかったけれど、そう思ってた、って過去形で。今はそう思ってないんだよ、って優しい対義であるように感じられた。幸さんはそんな礼ちゃんを窺うように見、何度も唇を舐めている。

 傍目、だからこそ理解が及ぶ。本当に、心から言いたい言葉は、いざとなるとなかなか出てきませんよね。


「…ほんと。いろいろ…ごめんね、礼」

「いいわよ、もう…もう、充分」


 礼ちゃん、頑張ったなあ、ってそんな俺の感想は単純すぎて、礼ちゃんの胸の内にずっと居座り続けてた暗い影の浄化には届かないかもしれないけれど。それでも、それ以外のピタリ賞が思い浮かばない。だから少しでも伝わるといいなあ、って、俺は礼ちゃんのちっちゃな頭を撫でる。

 頑張ったと括るならそれは幸さんも、だけど、流石に頭ナデナデは、違うからね。

 俺はようやく智くんが観てるフリをしてくれているテレビの音が耳に入ってきた。



 すごく、骨が折れたと思うんだ。いくら覚悟の上で臨んだんだとしても。その時々で湧き上がる感情に俺達は名詞を与え形容詞で表現し、倒置し強調し情を乗せ相手に伝える。その相手が自分の伝えたかったことを完璧イコールで汲んでくれるかと言うとそうじゃない。一人一人が違う人間だからね。

 たとえリーとガクみたいな双子だって、シンクロ率は高いけど育ってく過程で個性が加わるから。



 ***



「フリ、は…もう、欲しくないなあって。ずっと、思ってたけどなかなか行動に移せなかった」

「…礼ちゃん」

「良かった、今日…すっきりした」


 なんてことない、帰り道。

 けれど目に映る風景が、肌で感じる夕暮れ時の空気が、耳元でそよぐ風もちかちかと揺れ光る木々の緑も。何時間か前に通った時と全く違うように感じられるってこと――。


「…あるよねえ」

「…どうしたの? 神威くん」

「俺、ほんっと礼ちゃんが好きだなあ、って感じ入ってるの」

「…脈絡なさ過ぎて途方に暮れますわ、旦那様」


 繋いだ、というよりもはや俺から強引に絡めた指へ分かりやすく力を籠めた。満面の笑みを浮かべ礼ちゃんを覗き込む。道行く人から鬱陶しいなあの男、とか思われて…いや思われててもやめないけどさ。


「世界が違って見えない?」

「…ふふ。神威くんは相変わらず綺麗よ?」

「や、そうじゃなくてね?」



 ご飯食べて行けばいいのに、と何気なく誘ってくれた幸さんの口調は、本当に何の気負いもなく普通で、それがかえって嬉しかった。そう、俺達の日常に劇的な変化は訪れていないけれど、それでも確かに変わった新しい関係性の息吹を感じる。真面目さゆえに得てして不器用な礼ちゃんが、幸さんと急に肩組んで友達母娘、なんてレベルに到達できないのは分かってる。それでも、ね。


『今日は葛西先生のところにお呼ばれしてるんだけど…また来るから』


 そう穏やかに迷いなく言い切った礼ちゃんの約束は、きっと間違いなく果たされるだろうと思った。



「杞憂だったでしょ? まったくもって俺がどうやったら礼ちゃんのこと嫌いになると思うの?」

「…嫌なとこ、たくさん見せたよ?」

「まだまだだよ、何 言ってんの。俺の溺愛 舐めんな、って」


 礼ちゃん、またね! と智くんはさほど別れを惜しむ訳でもなく元気に手を振ってきた。それは確かに“また”すぐ逢えるのだと素直に信じきっている人のシンプルさ。智くんの後ろにそっと立った幸さんへ小さく細い腕を絡ませていた甘い姿が目に浮かぶ。そのさり気ない仕草にあの二人は、あの可愛い家でちゃんと親子なんだなあ、って。俺が感じた安堵と微笑ましさを、恐らくは礼ちゃんもきちんと胸に仕舞ってくれたと思うんだ。


「礼ちゃんになら俺、どれだけでもあげる」

「…何を?」

「“絶対”。絶対 嫌いにならないよ。つか、なれないからどんどん見せてね? いろんな礼ちゃん」


 途端に指先がじんと熱くなって、礼ちゃんのくつくつとこみ上げるような笑いとともに胸の奥がとく、と鳴る。痛みを伴うほどの狂おしさではないけれど、だからこそ刹那ではない永遠を感じられるんじゃないのかな。いやもう、何だろうね。この昂揚感。俺、ものすごく情熱的に語っちゃったよ。


「隠すようなところも無いし、隠すつもりも無いし」

「え、誘導尋問? じゃあ毎日一緒にお風呂入ろうか!」

「…それとこれとは」


 葛西先生を筆頭にもうみんな出来上がってる頃かもしれないね。テンションについていくには、これくらい浮かれた調子で丁度良いかもしれないよ? 俺達。


「…良かった、本当に」

「何が? 礼ちゃん」

「ふふ、ナイショ」

「何それ可愛い!! や、てか早速隠しごと?!」


 カラカラと玄関の引き戸を開ければ ただいま、と自然と口をつく優しい言葉。当たり前のように返ってくる おかえり、の三重奏。他人様のお家なのに。大切な人がいるならばそこは、いつだってすぐにでも飛んで帰りたい場所になるんだね。

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