第9話

 葛西先生のご実家は、流石の老舗と言うべきか一歩を踏み入れた瞬間から懐かしい香りと共に、背筋をピンと伸ばして相対したい荘厳さがある。伝統文化と共にあるお家っていいな。なんて見惚れていましたら。


「なに? 御子柴。うちの子になりたい?」

「もーっ! 先生はまた!」


 担任の先生が引率するの図、だった。師弟関係から卒業して久しいのに、葛西先生が神威くん達と並んで歩く光景は、いつまでだって微笑ましい。ファミレスを出て葛西呉服店までの道のり、私は神威くんが後ろに伸ばした掌をちょっと摘まんで俯瞰していた。俯瞰、は正しくないか。見上げてた、だわ。


「うちの子、って兄ちゃん…そこは俺の嫁、とかじゃないの?」

「いやあの武蔵さん? それだいぶ問題ありますから!」

「ああそうか、僕と再婚ならオッケー? お互いバツイチ同士ということで」

「意味分かりません! 分かりたくありません!」


 神威くんってば、その素直すぎるほどの反応を楽しまれて弄ばれてるんだ、って気づいては、いるのよね。きっと。それでもあまりに居心地が好いから、我が身を粉にしてるのね。

 私は首を竦め漏れる笑いを抑えきれずに ふふ、と声に出した。母屋に続く広い廊下でお絵描きをしていた芽生ちゃんが顔を上げる。


「れいちゃん! こっちみてー!」

「え、私を描いてくれてるの? 芽生ちゃん」

「んーと、パパでしょー、やまちゃんでしょー、れいちゃんでしょー、あとみんな!」

「ええー、オレ達まとめられちゃったよー」


 寂しい、とばかりに芽生ちゃんへ名前覚えてと縋る武瑠くん。

 心くん、武瑠くん。馴れない名前呼びは、一旦 胸の内で唱えてからでないと難しい。


 芽生ちゃんと遊びながら、浴衣を選ぶ心くん達を眺めていた。何だかモデルを頼まれたらしい、神威くんや武瑠くんも一緒になっていろいろな柄を肩から胸にかけて当てられている。若旦那、なんて呼ばれている武蔵さんの佇まいは美しく、日本古来の正装を身に着けているだけではない静かな迫力があった。


 ただ、着物を着ているというだけではあんな風に凛とした美しさは体現できない。負けちゃってるもんなあ、私。浴衣にはまだ、袴の時のように圧倒される着用感は無いのかもしれないけど。


「れいちゃんねー、めいとおそろいなんだって! パパがいってた!」

「…え。そうなの?」

「そうなの。ご協力願えますか?」


 芽生ちゃんと並び座っていた私の目の前へ、武蔵さんは黒・白・藍色と何着かの浴衣を差し出した。私も、ですか。


「…あれ。ヤダ?」

「チビなので。悲しくなるんですよ」

「うなじ、スッゴい綺麗なのに」


 どこか的外れな武蔵さんの褒め言葉に私は口の端が緩んだ。武蔵さんの肩越しに、葛西先生のお母さんに捕まった神威くんの悩ましげな姿が見える。そうして、着物や浴衣は丈の調節 簡単だから、と試着を促された。そういえば、成人式の時、袴を選んだのも同じ様な理由からだったな。


「これから伸びるかもしれないでしょう? そんな可能性にお応えできますよ、こちらのお品は」

「…さすが。お上手ですね」


 もう今さら伸びるわけありません。小学6年で止まりました、私の身長。

 未知なる可能性は芽生ちゃんにこそ宿ってるね。羨ましく感じながら、お着替えしようか、と笑んで誘った。



 ***



 いつから怖くなったんだろう、とずうっと考えてきた。右京くんからの手紙に感情を見出せないと怖くなったのは。

 私は敏くないから、割と最近だったのだと思う。それまでは文通、という行為自体へきちんと手を抜くことなく自身の気持ちが向いているのか、それが、気になっていたから。


 義務、のように感じていた。私に出来るせめてものことなんだと。時々、ポストに届く白い封筒を神威くんが見つけて手渡してくれる瞬間、その瞳を彩る痛々しさに気づいてない訳がない。


 傷痕が、疼くのかもしれない。あの苦痛を思い出してしまうのかもしれない。逃げた私を悲しく思って。その間、死んだように生きていた日々を思って。またちょっと、苦しくなって。


『…礼ちゃん。偉いね。凄いよ』


 それでも神威くんは私を力強く抱きしめてくれる。

 それは、もうどこにも行かないで、なのか。俺なら大丈夫だよ、なのか。

 私は自分に都合の良いように、どちらともの意味で受け止める。回した腕が触れる神威くんの背中は、広く温かい。


 神威くん。私は偉くも凄くもないの。酷く自分勝手なことに、気づいてしまったの。


 矯正と社会復帰。そのための入所だ。規則正しい生活は心身の健康を右京くんへ取り戻させ、そしてそれを維持していくはずだ。手紙には刑務作業へ参加している、とあった。職業訓練も行われているから資格も取れるのだ、と。


 日々が淡々と綴られた手紙。私はたぶん、次第に焦ってきたんだ。愛らしい絵本を送り、きっと慈しみに満ちた手紙も添えた。本物が、見つかるはずだと。私が見つけて欲しいと暗に願っていた“本物”。


 それはきっと、“改心”だ。


 その過程が見えない。変化が読み取れない。右京くんの心は清く正しいそれへ改められたと確証が欲しかったから、誰より先に安心したかったから。だから私は、文通を続けてきたのかもしれない。


 だからね、神威くん。こんな私、偉くも凄くもないの。

 だって、どうするの? また、私の大切な人が傷つけられてしまったら?

『私達を訪ねて下さい』私は確かに、そう手紙に書いた。

 性善説も性悪説も論じるつもりはないけれど、また黒く暗い刃が向けられてしまったら? 我が身を挺して守る術しかないのでは。

 悲しみに暮れる誰をもの姿を容易に想像出来た。


『…神威くん』


 昨夜。山田家の二階、神威くんの部屋でお風呂上がりの神威くんを捕まえた。何? と同じ目線へすぐに降りてきた明るい瞳は、けれどすぐに強く真っ直ぐな光が灯った。


『どうしたの? 礼ちゃん』


 そう問うた神威くんの声は、本当に優しかった。白い封筒の束を両の手に持ち立ち尽くしていた私はきっと、ひどく怖い顔をしていたと思うのに。私の両肩へ柔らかく力がかかる。立ってないで座って話そう、と促されているみたい。だから私はその温かさに従って、ベッドの脇へ小さく陣取った。

 神威くんも長い脚を折って座ると、膝を立て私を囲むように向かい合う。その一つ一つの仕草に、喉の奥がク、と鳴った。


 楽しくない何かを打ち明けなくちゃならない時、って口の中の唾液が蒸発してひどく乾く。私はまだ、神威くんの瞳を真正面から見据えられていない。


“結婚したら片目を瞑った方が良いらしいですよ?”


 確か乃木さんがそんなことを言っていた。生まれ育ってきた環境や背景がまったく違う二人が一緒に暮らし始めるとなると自然 衝突は起こるものだし。嫌なところも欠点も改善してほしいところも受け容れられないところも、きっとたくさん見えてくる。だから、両目をしっかり開けて見ないで、片目を瞑ってお相手を視界に入れるくらいが丁度良いのだと。


 乃木さんはもう、お母さんのアシスタントじゃない。同じ出版社内にいるけれど、別の女性向け雑誌のチーフを任されている。アラフォー独身女子が読者層のターゲット。隔月で婚活記事に追われている乃木さんは、嫁が欲しい、なんてぼやいていた。


 乃木さん、でも。私は神威くんのこと、いつだって両目をしっかり開けて見つめていたい。あの日から、思い出すことも憚られる、私のつまらない人生が初めて煌めいたんだもの。白と黒で構成されていた硬質で無機な世界が、色鮮やかに彩られていく感覚。

 神威くんが傍にいてくれるだけで、私はつまらない人間じゃないのかもと嬉しい勘違いをしそうになって。そうしてそれはいつしか、自分の中で確固たる自己肯定に変わってくれないかと願っている。


 正直。神威くんには、片目を瞑ってて欲しいけどな。こんなにも真っ直ぐ見つめられると、その綺麗な眼力に圧されてしまう。無垢な子どもではない、だからか。私は愛されているのだと無条件でその温かさに手を伸ばせずたじろぐ私がいる。満たされてきたものの圧倒的な差。いつか、平衡になることはあるのかな。


『…それ。右京からの手紙?』


 分かっているだろうに神威くんは私の手に触れながら確認した。言葉もなく頷く私は、神威くんが与えてくれたきっかけに感謝しながら一言目を吐いた。


『…読んで、欲しいの。それから、』


 私の考えを、聴いてほしいの。


 帰省する車中で、私はほとんど話さなかった。考えが纏まっていなかったから。今だって、そう。きちんと筋道立てて語る自信は無い。

 でも神威くんは。武瑠くんも、心くんも。明日はきっと、葛西先生も。みんなきちんと耳を傾けてくれる確信はあった。


 でも、と言ったきり逡巡の様子を見せる神威くんの、その理由がどこにあるかを、私は何となく気づいている。束の間、神威くんから離れ私はベッド脇に置いていたスマートフォンを手に元いた場所へ戻った。


『…まだ、気にしてる?』


 だって、という短い言葉はその後に続くとめどないごめんね、を容易に想像させた。

 いいのに。神威くん。本当に気にしないで。私の心底からの言葉だと分かってくれていると思うけれど、それでも謝らずにはいられないんだろうな。それ以外のことも、含めてね。


『夫婦になる、ってそういうことでしょう? 私のことを何でも分かろうとしてくれる人がいる、って、それが、神威くんだ、ってことがどれだけ嬉しいか。きっと、神威くんには伝わってないのね?』

『…礼ちゃんは、優しすぎるよ…』


 優しくなんか、ないんだってば。神威くんは激しく誤解しているね。大河内さんが諸々の設定の意味を説明してくれた時、本当に優しいのならばそれとなく気づいたことを匂わせるべきだったんじゃない? そうしていたら神威くんはここまで罪悪感を抱えずに済んだんじゃないのかな。


『…そう? じゃあ、非道い言い方する』

『…礼ちゃん?』

『私は神威くんと違って生まれ育った間の絶対的な愛の量が足りないんだから。惜しみなく絶え間なく注いでくれなくちゃ暴走する面倒くさい嫁なのよ? 分かってて、結婚したんでしょう?』


 ちょっと、何かが足りないな。手を腰に当てるべきだった?

 上からレイ、には程遠い。居丈高に言い放ちたかったのに、何だか中途半端な気がするわ。神威くんも似合わないと思ってるんだろう、緩みかけた口の端を懸命に元に戻そうとしている。もういいよ、いっそ笑って。


『世界がそれを束縛と呼んでも、私にとっては真っ直ぐな愛情だわ』


 礼ちゃん大好きだ、って少し窮屈に感じるくらいの力で抱きしめられるこの瞬間。耳元に降ってきた言葉が私をどれだけ安心させるか。何度目だって、何度囁かれたって、私はそのたび貪欲になる。


『…神威くん、私の下着の枚数も柄も、全部把握してないでしょう?』

『え、ええっ?! な、何?! 突然…』


 あ、身体離れちゃった。私の両の肩を軽く掴んで引き剥がして、神威くんはその質問の意図は、と問いたげに私の顔を覗き込む。


『私は、神威くんのボクサーパンツ。何枚あってどんな柄か全部把握してる』


 サイズもね、どれがお気に入りかも。ほんの少し目線が高い所に居る神威くんは、私の話の終着点が分からずに戸惑っている。ふ、と笑いがこぼれた。


『お洗濯する時に変化がないかチェックしてるの。これは? これは、束縛と言いますか?』


 肩口に埋められた神威くんの唇は、言わないね、と柔らかく紡ぐ。

 神威くんも優しい嘘つきだね。言うのかもしれない。でも、神威くんにとっては、そうじゃないってことでしょう? だから私も同じ。そうやって私達は一つ一つ丁寧に、確かめ合っていかなくちゃ。



 島から出て実家のある地元へ移り住んだ時、人の多さに驚いた。けれど大学のあるこの街はその比にならないほど何もかもが溢れていて、ボンヤリの私は、物事自体の捉え方をボンヤリと霞ませてしまいそうになる。その方が随分と楽だから。見ざる言わざる聞かざるを存分に発動して、曖昧に笑って済ませられるだけの温さに浸る方法もあるから。


 でも、それじゃあ駄目なの。きっと、大切な人を守れないの。自己犠牲も現実逃避も、清らかな術ではないの。私も、私を、大切にしなきゃならないの。

 私の大切な人達は、私のことを大切だと示し続けてくれるんだから。


『…礼ちゃん。手紙、読ませて』


 神威くんはずっと、何度そう言いたかったんだろう。もっと早くに、差し出せばよかった。こんな風に独り、抱え込めなくなる前に。

 もっと早く気づいてあげれば良かった、ときっと神威くんはそう言って自分のせいにしようとするでしょう。

 月に一通のペースで届けられてきたそれは、もう三十を超える束になっている。神威くんは決してぞんざいに扱うことなく、丁寧に目を通していった。



 ちょうど日付が変わろうとする頃。全部を読み終えた神威くんは、それまで一度も上げなかった顔を私へ真っ直ぐ向けた。濡れていた髪の毛は半ば乾き、サラリとおでこにかかった前髪が幼さを醸し出しているけれど、険しい表情は神威くんが確かにあの頃と同じ高校生ではないことを物語る。


 誰の上にも三年、等しく時は過ぎた。私の成長と変化は、神威くんのように光り輝いてはないと思う。


『……礼ちゃん』

『……はい』

『……礼ちゃんの話、ちゃんと聴くから。その前に、』


 ギューッて、させて。


 承諾はもとより求められていなかったのか。うん、と言うより前に神威くんの温かさに包まれた。たった、これだけで、この世はひどく安心出来ると思える。


 ありがとうね、神威くん。目を逸らさず読んでくれて。私が神威くんのお嫁さんにならなかったら、神威くんはこんなことに巻き込まれず済んだのに。何度そう考えたか分からない。

 でもそれと同じくらい。どこまで遡れば正解なのか、分からなくもなるの。果ては、私がこの世に生まれなければ、へ行き着きそうになって。さすがにそれは私の全部を否定することだと気づく。

 神威くんをただただ笑顔でくるんであげられる人がこの世のどこかにいるのかもしれない。でもそれが私じゃないことにぞっとして、見たこともない仮想の相手に激しく嫉妬するほど、私は神威くんから離れられないでいるの。

 神威くんの温もりがふと離れ、瞳をまた真っ直ぐに覗き込まれた。私の考えてること、もう分かってるんじゃない? 神威くん。それほどまでに視線の強さは何もかもを見透かすような力を持っている。


『…どう、思ったの? 礼ちゃん。聴かせて?』


 そんな風に甘く蕩けるように言われたらどんな秘密も隠し通せなくなる。神威くんが警視庁捜査一課の刑事さんになったら、尋問成功率は100パーセントじゃないかな。ふと逸れた思考を自身で緩く笑んで、私はするすると言葉を紡ぎ出した。



 始めた頃の気持ち。でもいつからか気づき、怖くなってきたこと。その理由も自分なりに考えた。

 だからこそ、面会の申し出に応じたいと思っていること。神威くんを守りたいから、なんて大仰なセリフを吐くつもりはない。でも、私にとっての“大切”とか“未来”とか“幸せ”とか、それらは実は誰を起点としたものか、誰の存在があってこそ成り立つものなのか。神威くんは分かってくれている、そんな安心感があった。


『そっか。そうなんだ』


 ひとしきり私が考えを述べた後、神威くんはさほど間をおかず穏やかに応えてくれた。そこに、空気を重苦しくさせないための柔らかな配慮を感じる。


『俺ね、礼ちゃんは右京と会った方が良いのかどうか…そこまでは結論出せなかったんだけど』

『…けど?』

『怖い、という感覚…は。あった、確かに』


 どこからどう話そうか、と言いたげに神威くんは私から一旦目を伏せ眉間にうっすらと皺を寄せた。次いで うーん、と小さく唸り声。


『…礼ちゃん。相変わらず俺、上手く伝えられないかもだけど』

『そんなことないわ』


 だから何でも話して? と私は神威くんの手に自分の手をそっと乗せた。ベタベタと密着するのは得意じゃない。だけど本当はいつだってどこかしら神威くんに触れていたい。誰に臆することなくそうして良い権利を、私は結婚によって手に入れたんだ。


 実際のところ妻の座、というのは安住の地にあるのではなく、いつだって脅かされる崖っぷちにぶら下がってるようなもの。結婚指輪をはめても尚、熱い視線はそこかしこでつきまとうから私はため息を吐くばかりだけど。


『…この前、空間設計理論の授業でね。都市部の大型商業施設…こう、なんとかモール、ってとこ、ね? その集客効果、ってのを教わったんだ』


 私はゆっくり瞬きをした。あれ。話の“点”がえらく飛んだ気がするけれど。神威くんが何を“怖い”と感じたかについて、が始まるんだと思ってた。

 最終的には線できちんと結ばれるのかな。神威くんの声はとても耳に心地好い。


『四角四面でどこもかしこも真っ直ぐすぎる建物、って…勿論、そこに色彩も関係するんだけど。綺麗ではある、整然としていて無駄がない。けど一方で、面白味に欠けたりやる気を削いだり、感情が負に向きがちだったりするんだって』


 きっと講義では専門的な用語を使って、専攻する学生達には分かりやすいように滔々と論じられたんだろう。その内容を、まったくの素人である私がイメージしやすいように平易な言葉を使ってくれる。

 隠れた優しさに気づけた瞬間、私は私が神威くんを大好きなんだと改めて嬉しくなる。うん、と大きく頷いて神威くんの言葉はちゃんと伝わってきていることを示した。


『その施設は、というとね。わざと通路に角度をつけて…こう、体感しにくいくらいの歪曲でね。直線的な空間を見せないようにしてあるんだ』


 私は、神威くんの優しく穏やかな言葉を受けて、頭の中にショッピングモールを思い描く。広々とした空間にたくさん入っているであろうテナント。カートをカラカラと押しながら通路を進む。その通路が、真っ直ぐじゃない。はっきりと感じにくいくらいに曲がってるのね。結論は分かってる、集客効果があるんだ。それが何故なのか、がピンとこない。想像力が足りないわ、私。


『礼ちゃん、ってほんっと可愛いよねえ。俺の話、すっごい真剣に聴いてくれるんだもん』


 今、頭の中でお買い物行ってたでしょ、と言われ両頬を大きな手ですっぽり覆われて、目の前にある綺麗な瞳がやんわり三日月の形を描く様を見つめた。自然、体感温度がじわりと上がる。


『…一生懸命、考えてたのに』

『うん、分かってる。ごめんね? 理由、分かった?』


 分かられたら分かられたでヘコむけど、と苦笑しながらつけ加える神威くんへフルフルとかぶりを振って否、の意を表した。教授が講義する程の理論を素人が容易に分かるはずもないのよね。それに、あのね、と巧妙なマジックの種明かしをされるような神威くんの扇情も心地好かった。


『遠くまで見渡せるほど真っ直ぐすぎる通路だと、気分的に疲れちゃうんだって。あそこまで行くのにすっごく歩かなきゃならない、って感じるから』


 私は頷き、なるほど、と思う。頭の中でもう一度、カートを押す自分を思い描いた。行きたいお店までの距離がどれほどかにもよるだろうし、どれほど強くそのお店へ行きたいと思うかにもよるだろうけれど、確かに一歩を踏み出す前に諦めにも似た倦怠に襲われそうだ。そもそも、そんなの楽しくない。


 大型の商業施設、そんな場所ってきっと、何を買う目的が無くても出向いて時間を過ごすだけで楽しいんじゃないのかな。飽きずに過ごせるだけの仕掛けや工夫があるのだろうし、ましてや広ければ一日で全てを満喫するなんて難しい。


『通路が微妙に曲がってると、視界が狭くなるんだ。でも場所柄、それは向こうに何があるんだろう、って期待感を煽るんだよ。結果、たくさん歩いてる。いろんなお店を見て楽しい気分のまま、いつの間にかたくさん歩いてるんだ』


 歩かされてる、って言った方がいいのかな。講義の内容を思い出しているのか、首をほんの少し傾げながらまた緩く笑う神威くん。そこでは一つのテナントごとの間口は狭く、奥行きを深く設計されているのだとも追加してくれた。視界にさまざまな顔の店舗が入ってくるから、飽きない。そうして集客効果のみならず、リピーター増という効果も生んでいるのだとか。


 私はなるほど、と今度は口に出した。真っ直ぐ、と。ほんの少しの歪み、と。印象的で対照的なそれらは神威くんの話の行く先を象徴しているようでもあった。


 話に耳を傾けながら、私は改めて感謝する。ちょっと、思考が逸れてしまうけれど。神威くん、ありがとう。


 ハコモノは俺に任せてね。そう、神威くんは時折口にする。それは、私のカフェの話。

 礼ちゃんは美味しいスイーツとか紅茶の勉強をたくさんしてね、と、山田家に帰省するたび、神威くんはお義父さんと真剣な眼差しで議論している。


“人気のカフェ”に、何の秘密も無い訳がない。提供される味の面のみならず、造りの工夫にもよるのだと神威くんは考えている。そうして懸命に勉強してくれてるんだ。

 何となく居心地が好い空間は何となく出来上がるものじゃない。そこには計算された理論がちゃんと介在する。偶然とか運とか、頼りないものを当てにするのではなく、実現に向けて無駄のない手段や方法をしなやかに手にしていく神威くんは本当に、私には勿体ないほどの人。


 ねえ、神威くん。この話。どんな風に纏めてくれるの? 右京くんの手紙に始まった、この話。右京くんが今 毎日を過ごしているのはまさに四角四面、無機質で味気ない灰色のあの場所だよね。


『…そうやって、考えてみると。俺はね、勘違いしてたのかもしれない』


 しばらくの間の後で、神威くんはポツリと切り出した。

 勘違い。

 そしてその言葉は、神威くんがさっき口にした“怖さ”に繋がっていくのだと感じた。私が抱いた“怖さ”とも、遠からずリンクするのか。


『…一緒に、行ったよね? あそこ。右京が、今いる場所』


 頷きながら、思い出した。葛西先生の愛車に乗って、デート気分だなんて、ほんの少し浮かれたりして。

 三年。あの頃の考えが随分と清らかで無垢に思えた。ここ最近、私の胸の内で禍々しく蜷局を巻く感情とあまりに乖離していて、ため息する。


『どこもかしこも、キッチリしてた。無機質で硬質で無駄もない。廊下は真っ直ぐ伸びて隙なんてなくて、建物自体に見張られてる感じがした』


 神威くんは、よくボキャブラリーが貧困だと自身を嘆く。表現力が足りない、と。言いたいことを上手く伝えられないと。

 そんなことないわ。私は今、一瞬であの場所へ連れて行かれた。頬に置かれていた神威くんの温かな手が、いつの間にか私の手を握っていてくれるから何とか保てている。この手がなければ私は、とっくに震えだしている。


『犯した己が罪は白日の下に曝される…そうして改心せよ、と。求められる場所。その存在理由に相応しい造りなんだと思ってた。…あの頃は、今みたくロジックなんて知らなかったから』


 ふう、と大きく息を吐いて神威くんは続ける。少し長めに目を瞑って、あの場所を瞼の裏へ思い描くかのように。


『…時間が経てば、真っ直ぐになって。戻ってくるんだろうと、思ってた。あそこで過ごすってことはそういうことだと』


 決めつけてた。

 神威くんのまあるい瞳に映る私は歪んで見えて、知らずゾワリと背筋までもが震える。同意を伝えたくて懸命に首を縦に振った。

 そうなの、神威くん。誰かに? あるいは、何かに? 預けて任せてしまっていたのよ、右京くんのことを。


『俺達は…分かってたのにね。右京にはきっと、求めてやまないものがあって。でもそれは、近いようで遠い』


 ひどく言葉を選んだ言い回しに神威くんの心根の優しさを感じる。

 求めてやまないもの。そして、近いようで遠いもの。それは右京くんと私に相通ずるものだからだ。成長の過程で私達は存分に味わうことができなかった。絶対的信頼、他者との血が通った交わり。私達を取り囲むのは大人のエゴばかりではなく、本当はどれだけ叱られても温かな手が私達を抱きしめてくれるということ。

 私が手に入れることが出来たから、右京くんも。そう願ったのは、私の勝手だったのでは。


『あの場所で…右京が。それを手にできたとは思えない。長くて、ただ真っ直ぐに伸びる薄暗い廊下で。アイツ、希望なんて見えたのかな』


 見えなかったんだろうな。その反意が、黙り込んだ神威くんにそっと寄り添うようだった。じっと手にした手紙の束を見つめながら考えをまとめている神威くんはとても綺麗…神々しい、と言ってもいいくらい。身内の欲目、などではないと思う。都度 物事に真摯に相対してきた人の芯の強さ。考えを逃がしたり、不確かな他力に頼ったり、安直な選択を採るのではなく、たとえ険しくてもその時の最たる道を歩んできた神威くんならでは。一番近くで感じることはできても、その美しさそのものを自分のものにすることはできないから。私は時々、ひどく気後れしてしまう。


『…右京が自ら進んであそこへ入った訳じゃないでしょ? どうしても“入れられた”感はあると思う。その…言い方悪いけど、親御さんの力は存分に発揮されなかったから』

『…そうね。そう』


 右京くんが審理にかけられている頃、真坂市議は自身の進退問題に追われていたのだと思う。知り得ない世界のあり得ない力で、右京くんはひょっとすると入所を免れることが出来たのかもしれない。その是非は、分からないけれど。

 手紙の中では一度も、私が知る限り一度も、誰かが面会に来てくれたという知らせは無かった。私や神威くんは知人、あるいは事件の被害者、という立場で、面会の優先順位は決して高くない。今まで先延ばしにされ続けてきたのは、ご家族の面会もままならない事情があるからかと、勝手に決めつけていたのだけれど。


 そうやって、私は右京くんを独り、孤独な世界へ放置してきたんだ。文通をしている、ただそれだけの行為が、右京くんへどれほどの影響を及ぼしたのだろう。私の真の思惑は、とっくに見破られていたのかもしれない。だから、右京くんは欠片すら、胸の内を見せてくれなかったのかもしれない。


『…ある意味、右京は。歪んだ道を歩まされてきたと思うんだ。こんな憐み方、なんか違ってるかもしれないけど…でも、狭い世界でさ。享楽だけが、全て…みたいな』


 神威くんはそう言って空いた片方の手を口元へ当てる。自身の言葉に納得いかない風で、でもそれ以上の表現が今は見つからないらしい。うーん、と小さく唸りながら次の言葉を紡ぎ出す。


『なのに先の見えない出所日までを正しくあれと暗に強要してくる空間で過ごさなきゃならない。居心地悪かっただろうね、そんな中で健やかさなんて取り戻せたのかな。余計、鬱屈とした想いを抱えちゃったんじゃないのかな…いろいろ、考えるんだけど』


 ただ、それすらも。何も、感じられない。手紙の束を右手に見つめながら神威くんは 怖いね、と小さく囁いた。


『…面会に、応じたいんだよね? 礼ちゃん』


 私は間をおかず頷いた。誰かに打ち明けて自身の整理がつく、というのは往々にしてあることなんだな。そう、神威くんへ胸の内を吐露して、己の勝手さを苦々しく思って、人が人を救えるかもしれないなんて傲慢な思い上がりを嘆いて、勘違いに気づいて怖くなって。

 私に出来たことは、文通ではなかったのかもしれない。もう、今さらだけど。それでも素晴らしい天命を待つには、私はあまりにも人事を尽くしていない。手に入れた幸せは、それに甘えて揺蕩うばかりではきっといつか失ってしまうんだ。私はもう、何も持っていないとぼんやり飢えていた頃の自分には戻りたくなかった。



 ***



 駅前のファミレス。

 店内で葛西先生を待つ間、私は前の晩、神威くんへ差し出したのと同じ様に武瑠くんと心くんへ相対した。きちんと輪ゴムで纏められた白い封筒の束。真正面に座る二人はテーブルの上を見、私を見た。


「…ミコちゃん? これ、」

「…読め、と?」


 いつだって無駄のない端的な心くんの物言いに苦笑が漏れる。

 命令形だなんて畏れ多い。読んで欲しい、んです。流石に全部へ目を通してもらう時間は無いと思うんだけど、それでも。


「…どうして?」


 武瑠くんは日付が一番古い一通を束から抜き取り、目線を投げかけ問うてくる。心くんは黙したまま武瑠くんから手渡されると、ごく最近の一通を抜き取った。

 なんて合理的なんだろう、二人とも。そのまま文面を目で追い始め、途中 それぞれの封筒を交換した。

 私は、武瑠くんからの質問に応えるタイミングを失ったまま、ほんの少し俯いて前髪に翳る二人の表情を見つめている。私の隣で神威くんが僅かに身じろぎ、膝の上で堅く結んだままの拳へ温かな掌を重ねてくれた。


「…御子柴がどうしたいのか。そこを理解するための布石か?」

「それとも、ミコちゃんの心情への共感? いや、どっちとも?」


 未だ便箋へ視線を据え置いたままの二人は、けれど的確に結論へと導いてくれる。本当に優しくて聡明な人達。私のことを分かろうとしてくれる、その真摯さに甘えてはいけない。苦手だからと、逃げていては駄目。

 昨日はモヤモヤした考えを抱えたまま言葉にすることはままならなかった。だけど、今なら、神威くんへも、何とか伝えられたのだから。心くんから何となく反対されそうな気がしていても、きちんと伝えなければ。


 面会したいと思っている。

 たったそれだけを口にするのに、ひどく間が空いた。案の定と言うべきか、私の言葉が賑やかな空間へ舞った途端、心くんの眉根はほんの僅かひそめられる。武瑠くんは何かを見透かそうとするように、黒縁眼鏡のブリッジを長い指でツイ、と直した。


「…確認させてくれ、御子柴。これは本当に、右京が書いたものなのか?」


 武瑠くんも隣でコクリと頷いているから、同様の想いは抱いたのだろう。私は間違いない、と応える。中学の頃から右京くんは、その見目と違わず美しい字を書く人だった。何かを埋め合わせするように通わされた沢山のお稽古事。その中に書道があったのだ、と耳にした覚えがある。

 お手本のような綺麗な楷書体は終始乱れることなく、右京くんの日々を綴る。それだけのこと。手紙、として本来求められる役割なら充分果たしているはず。


「ミコちゃんがさ。なぁんでそう考えたのか、を聴く前にオレも確認したいことがあって。心と共通認識だと思ってんだけど」


 いい? と武瑠くんは心くんの横顔をチラリと見、首肯を合図に私へと向き直る。


「一つ。右京に関して、何らミコちゃんに課せられた義務はありません。よって、“○○しなければならない”と考える必要はありません」


 武瑠くんの長い人差し指がピタリと私の眼前に据え置かれ、吸い寄せられるように魅入った。指は、あと何本増えるのだろう。とても見当違いなことを考えていた。


 二つ。

 穏やかな声と共に指がもう一本しなやかに伸びた。目の前に現れた綺麗なVの字越しに武瑠くんへと焦点を合わせる。


「友達の友達はみな友達だ、って。基本的にはオレ、そう思ってる。でも、」


 でも、の先は容易に分かる。だから私は顎を軽く引き分かっている、と伝えた。視線を逸らさず武瑠くんを見つめていると、私はどこかで何かを間違えたのだろう、色素の薄い髪の毛がふわふわと揺れ 否、を表されてしまった。


「…分かってないよ、ミコちゃんは。右京が神威のことを傷つけたからだと思ってるんでしょ? 違うよ?」

「お前のことも傷つけたからだぞ、御子柴」

「! っ、もーう! 良いとこもってかないでよ心! そうだよそういうことだよミコちゃん、だからさ」


 武瑠くんは軽く咳払いをする。ちょっとリズムを整えているように。隣の席で微動だにせず腕組みしたまま武瑠くんをチラリと盗み見た心くんは、悪かったな、とその調子を狂わせてしまったことを詫びている。


「オレら、は。右京と友達にはなれない。そこは、ごめんね?」


 押し付けではない、理解を求めくる柔らかな“ごめんね”にふと笑みがこぼれた。物事に優先順位をつける作業は時にひどく迷い、出した結果に残酷さを感じることもあるのだけれど。それは比較対象へ、確かに想いがあるからだ。


 武瑠くんと心くんの方が、神威くんと過ごした時間ははるかに長い。長いし、濃いし、揺るぎない。天秤になんてかけようがないのに。

 それでも右京くんのことをきちんと一個人として捉え、神威くんや私のことを慮り、全力で最善を考えようとしてくれるこの人達に感謝の述べようがない。


“友達の友達”


 暗に私は、前者の友達なのだと、改めて呈してくれる、その気持ちも嬉しかった。友達の、親友の彼女、だった。武瑠くんや心くんとの接点はまずそこがスタート地点で直接的ではなかったはずだ。だからこそ神威くんが事件に巻き込まれた時、私は言い表しようがないほど申し訳ない感情で押し潰されそうになった。誰もかれもに何度 頽れて土下座しそうになったか分からない。結局、逃げ出したんだけど。


 それでも、この人達は自分の意志で神威くんと共に私を連れ戻しに来てくれたのだ。そうしてお墨付きをくれた。

 オレらが友達だと面倒くさいよ? と武瑠くんは破顔した。

 何かにつけ説教されるからな、と心くんは目だけで笑った。

 そんな二人が決めたことだ。決して子どもじみた浅はかな感情だけで突き動かされてはいない。私の了解を待つようにじっと見つめくる視線へ、武瑠くん、と呼びかける。


「…友達に。右京くんと友達になりたいとは、思ってないの。そのために面会するのでは、ないの」


 そう。

 そのたった二文字には、優しさが充分感じられたけれど、訊き返すトーンではない。かといって受諾でもない。武瑠くんはテーブルへついていた両肘に力を籠め、またほんの少し私へと距離を詰める。Vの字だった長い指にもう一本、加わった。


「じゃあ、三つ目と。関係してるかな。…右京のことは、どう足掻いてももがいても救えない。誰が埋めてあげられるんだろう、ね」


 優しく静かに武瑠くんは念を押す。分かっている、ときちんと伝えたいのに腔内が粘ついて上下の唇を離すことすらままならない。

 救えるだなんて、思い上がりもいいところ。そんなのはとっくに気づいている。私のもたつきを感じ取ってくれたのか神威くんはまた添えてくれる手に力を籠めた。


「オレやミコちゃんが感じてきた何かの物足りなさは、埋められてきてるんだと思うよ? 神威や心や葛西センセから貰ったもの。万葉ちゃんとか美琴からとか、オレには一緒にサッカーやってきた仲間もいるし」


 それでも、と続く武瑠くんの言葉は私が引き継ぎたいと息を吸った。眼鏡の奥で薄茶の瞳がク、と細くなる。


「…武瑠くんや私にほんの少し足りなかったもの。右京くんには…、存在自体はあったけれど向けられなかったもの」


 それは、と堪らない様子で勢い込んだ神威くんが言葉を挟む。そうしてきっと一緒の括りに入るのであろう心くんへ確認するような視線を向けた。


「…神威や俺にはもともとあって当然だったもの。一番身近な、家族の愛情」


 そういうこと、と武瑠くんが三本の指をテーブルの上へ下ろしながら口にした。その長くしなやかな動きは何通かの封筒を所在無げになぞる。


「それは時にいいわけだった。オレに優しさが足りないのは、オレに強さが足りないのは。子どもの頃、与えてもらえるはずだったものが欠けてるからだ…そんな風に、考えたことない?」

「…あるわ。何度も」


 以前の私なら卑下して、きっと吐き捨てるように呟いた言葉だったろう。でも今、私には隣の席でフルフルと全力でかぶりを振りながら固唾をのんで見守ってくれる温かな存在があるし。何言ってんだ、と骨ばった肘で武瑠くんを小突く力強い存在もある。


「だけど今は…ちょ、もう! 痛いよ心!」

「くだらないこと言うからだろ」

「昔は、って話! 過去形! 今はたくさんの人にたくさん貰って溢れるくらいだから他の人にも分けてあげられるんだと思う、って! 言いたかったの! オレは!」

「…良いこというじゃないか」

「結局痛いよ!」


 苦笑しながら始まりの一通をスイ、と抜き取った武瑠くんは、その向こうに何が隠されているのか探るように窓から射し込む光に翳した。


「…待ってる、って。スタンスじゃなかったっけ? 本物が見つからなかったら訪ねて来て、っていう。ミコちゃんに何ら義務はない。友達になりたい訳でもない。救えるわけないのは百も承知…なら、なんで、面会したいの?」


 怖くなったから、と私は胸の内を吐露し始める。途端、素直でよろしい、と心くんからお褒めにあずかり、私はふ、と笑みを漏らす。神威くんは私のすぐ傍でピクリと微妙な表情を浮かべ、武瑠くんは 上からすぎる! とぼやいて心くんからまた小突かれた。場に似つかわしくない重苦しい空気をチラとも漂わせないように、三人とも何てことない日常会話を楽しむような雰囲気を纏っている。神威くんなんて、同じことを二度も聞かせてしまうのに。本当に、ごめんね。


 一頻り話し終えると、私の名を呼ぶ二人の声が重なった。

 ミコちゃん。御子柴。

 旧姓の方が長く慣れ親しんできたのだから耳に馴染んで当たり前だ。自然と両の口の端が緩む。

 そういえばお義母さんは、いつだって名前を呼ぶことを蔑ろにしない。魂を籠めた都度の響きは、だから神威くんや美琴お姉さんを強く真っ直ぐ健やかに育て上げたのだと思える。


 私もそうであって欲しい。ううん、そうありたい。大切に想う人達から優しく温かく名前を呼んでもらうたび、満たされゆく温もりと、この人達にもっと近づきたいと思う焦りと、もう決して失いたくないと身体中を駆け巡る熱い痛みとがごちゃごちゃになってむず痒くなるのだけれど。それでも、卑屈にはならない。はなから諦めない。私は、それくらいには変わってきていると思う。

 目の前に二人の声に、はい、と短く応えた。


「安心した」

「うん、オレもー」


 安心、という言葉は私の目の前で腕を組んでどっしり構える心くんの厳めしい表情とは対極にあって、私はコクリと喉を鳴らした。ちょっと緊張してしまう。 

 武瑠くんのアハハ、と響く笑い声が和ませてくれるけれど。


「心さぁ、なんでミコちゃんに対してはこう…お茶目さに欠けるのよ?」

「…いや、要らんだろ。ここで茶目っ気は」

「ミコちゃん、怯えてるって!」


 心くんは武瑠くんを苦々しげに見つめ、私へと視線を移した。

 しまった。怯えてなどいないのだ、と満面の笑みで応え、表したかったのに。こんな風に心底親身になってくれている友達に対して、私ときたら放つオーラに圧倒されて産毛まで竦んでいる。ククク、と押し殺した神威くんの笑い声は私に向けられてますよね?

 それはきっと心くんと、この右京くんの話題を囲む時限定で働く想いのせいだ。反対されるのではないか、といつだって誰より卓越した整然さを説く心くんは、右京くんとの文通を『正確に理解が及ばない』と言った。


「…御子柴のことは…何と言うか。今じゃ 娘みたいな感覚なんだ。何につけても心配だし、険しい顔つきにもなる」


 許せ、と短く言い置く声音は温かい。私はフルフルとかぶりを振り、とんでもない、とうなだれた。心くんが、自身をそんな風に言う必要はまるでない。いつまでも頼りなく、芯の強さも揺るぎなさも持ち合わせない私が言わせている。


「もー、娘って!」

「いいなあ、礼ちゃん」


 武瑠くんがカラカラ笑っている。娘、って。どれほど私がチビッ子であっても同じ歳なのに。いや、そんな感覚なんだ、って解説があったじゃない。うん、ダイレクトに父娘って位置づけされた訳じゃないんだから、私ってば。苦虫を噛み潰したような心くんを前にして非常に失礼なんだけど、それは分かってるんだけど。


「…御子柴。笑いたいなら存分に笑え」

「…ハイ。スミマセン…」


 仕切り直しに呼吸を整えようと大きく吐きだした息と共にグフ、と奇妙な笑いまで漏れた。そんな私の無様さを見聞きしていた神威くんもつられるようにグフ、と音を立てる。あ、そういえば。


「…いいなあ、って?」

「ん? いや、心みたく人間的な厚み、って俺にはないからさ。何か“お父さん”としては最強で最高だなあ、って。羨ましいなー礼ちゃん!」

「…神威。俺は手放しで喜ぶべきなのか?」


 是非そうして? と綺麗な笑顔を向ける神威くんとそれを受けて笑み崩れる心くん。武瑠くんはその傍らで変わらずニコニコと魔法の粉みたいな煌めきをまき散らしていく。


「…むしろ俺は神威の“兄”の座を」

「あ、そうだったね」

「ちょ、待ってって! 心! オレと万葉ちゃん並みに蝸牛の歩みで」

「寿命が尽きてしまわないか」

「でも男性の平均寿命って年々延びてるよ!」

「…武瑠。女性も、ね」


 やゆよトリオは本当に仲良し。絆は固く深くそして秘めたる熱さを感じさせる。顔つきも身体つきも変わる頃の互いのランドセル姿(心くんだけは本当に想像できないけど)が学生服姿になって。ブレザーを纏って過ごしてきた日々が今に至る温かな繋がり。他の大学生と変わらないようで、それでいて感じてきたものも考えてきたことも決めて選んできた道もずっと濃いこの人達と共に在る、この幸福感って。

 伝わるのかしら。伝わってるかしら。伝わればいいのに、全部。

 こうして寄り添っているだけで自然と湧き上がってくる笑みが、空っぽだった私をどれほど満たしてくれているか。その軽やかな会話に耳を傍立てているだけでもどれほど心が浮き立つか。


 心くんがお父さん、で。武瑠くんがお母さん。そんな構図が今も残る。自宅に飾ってある一枚の写真。あれは、高校の文化祭で展示されていた神威カメラマンの渾身の作だった。見つけちゃったんだよね、私。あれが神威くんの作品だ、って。分かっちゃった。


「御子柴。思い出し笑いの最中に申し訳ないんだが」

「話 戻しまーす」


 会話は男女の平均寿命差六歳あまりをどう縮めるか、という話題に移っていたはずなのに。神威くんは自身へ置き換えていかに健康に気を遣っているか熱弁を奮っていたのでは。私は慌てて、姿勢も息も崩れた表情も整える。


「安心したよ、俺達。御子柴の心中を曝け出してくれて。本当にお前、どこまで悟りの境地に達するのかと心配してたんだ」


 みんなから微塵もブレず真っ直ぐに向けられる視線は強く温かい。自身の存在価値を過剰に勘違いしそうなほど。

 だから私は心くんの言葉と添えられた武瑠くんの笑みを斟酌する前に、今じゃ、お義父さんにお義母さんに、お母さんに、目の前の二人に。欲しかった存在が私には何人もあるんだな、とそんなことを考え紅く熱くなる顔を俯けた。


 悟りって、と漏らした小さな呟きさえもきちんと拾い上げてくれる。武瑠くんは笑みを浮かべた口元を綺麗に動かし、だってねえ、と音を出した。

 悟り、だなんて。とんでもない誤解だと思う。ますます紅く熱くなる頬を掌で鎮めようとしながら私はふるふるとかぶりを振った。私はどこへも達していないし、だからこそこんなに中途半場な場所でぐるぐると案じているばかりだというのに。


「…正直、初めは分かんなかったよ? なあんでアイツと文通なんか、って。で、分かんないままその先の思考を放棄してつき合ってけなくもないと思ったんだけどそれじゃイヤだった。だってさ、そこだけずっとミコちゃんのこと無視してくのと変わんない」


 万葉に聞かせたいな、と思った。武瑠くんのこの言葉。それは叶わないから私がよくよく覚えておこう。葛西センセになりたいんだ、と常日頃 口にする武瑠くんは、だけど今は万葉の頼もしさと重なる。


 私は、あんたがいいの。純粋に、単純に、礼が好きなの。


 あの言葉に私はどれほど救われただろう。目の前の武瑠くんが呈してくれる温もりが同じものであることは、ボンヤリの私にもよく分かる。


「今だって正確な理解が出来ているとは思わない。俺達は別の人間だからな。でも確実に、三年経ってるんだ。例えば武瑠は教職課程を採ってるから発達心理学に触れたし、俺は法律を学んで弁護側に立つ意識も覚えた。右京と御子柴の関係性を捉える側面は一つだけじゃない」


 生きているこの世は三次元であり、だからこそ想いは多面にわたる。右京くんを信じてみると伝えたかったあの日を思い返した。


「可能性も、一つだけじゃないよね」


 それまで俯き加減で話に耳を傾けていた神威くんが、私を覗き込み見上げるような視線を寄せた。綺麗だなあ、と場違いな感情に引き込まれてボンヤリしてしまいそうになる。


「例えば過去からを考えるとね、礼ちゃんは右京と同じ南高へ行くのが嫌だった。だから俺達は西高で逢えた」

「…うん」


 真向かいの席で武瑠くんが 神威の表情が緩すぎる、と指摘している。この話の、流れの真剣さにそぐわない緩さだということね。腕を組み苦笑している心くんを目の端に捕えながら私は神威くんの次の言葉を待つ。


「もっと言えば。あの事件があったからこそ、俺は今、礼ちゃんとこうしていられる。…右京にはむしろ。感謝しなくちゃいけないかも」


 途端、神威、と鋭い二つの声が重なる。異を唱えたいと光る二組の双眸は、けれど神威くんの大きな掌が制した。待って待って、ともう片方の掌は相変わらずテーブルの下、私の膝の上で私の指と繋がっている。


「神様みたいだよね、俺こそ悟り開ききってるでしょ? こんなこと言っちゃうと。でも“言ってみただけー”とかって薄ーいレベルじゃなくて」


 そんな可能性の連鎖はあると思うんだ。


 キッパリと言い切った神威くんの言葉に籠められた強さが、よほど深く何度も考えたんだろうな、と。そう、想いを及ぼすのは簡単で、私は嬉しくてありがたくて神威くんの長い指を縋るように握りしめた。


 辛く嫌なことは誰だって避けて通りたいはず。それはただ思考する、という作業においても同じだと思う。それでも神威くんは敢えて真っ直ぐ立ち向かう。それはもう、この綺麗な人の生き方として根幹にある揺るぎなさ。

 だから可能性を、考えてしまう。神威くんの傍にいるのが私じゃなければ、神威くんはわざわざこんな苦しい作業を選択しなくてもいいんじゃないか、と。


「…昨夜ね。礼ちゃんから話を聞いて、ずっと考えてた…んー、いや。ずっと、三年。考えてるのかも」


 ああずっとなんだ、って私は胸の奥がチクリと痛む。私が、私だけが、私が一番、考えなくちゃいけなくて、神威くんにはいつもキラキラでいて欲しいのに。

 目の動きと脳は関連があるのだと実感する。私は神威くんから知らず目を逸らし、半ば溶けかけの氷が薄く浮かぶグラスを見つめた。


「…礼ちゃん? 一人脳内会議は禁止だよ?」


 何度言ったら分かるの、と笑いを含んだ声で優しく窘められる。いつしか堅く握りこんでいた拳を掌でポンポンと弄ばれていた。神威くんも、何度言ったら分かるの? 私のこと、あんまり甘やかさないで。


「心が言うように物事にはいろんな側面があって、だからいろんな見方や考え方があるんだよね…さっきの、可能性の連鎖って話。もう俺、どこまで遡っていいのか分かんなくて」


 微動だにしない心くんと小首を傾げる武瑠くんと、場に沁み入る神威くんの声は決して小さくないのに、一言も聞き漏らすまいと私はまた拳に力を籠めた。


「…そもそも。俺は被害者で、右京は加害者。これは、法がそう裁いたんだから間違いない関係性」


 ピリリとした空気が一瞬走り、私よりむしろ心くんの方が大きく深く頷く。


「でも俺達は知ってしまった。右京に同情の余地がある、って…同情、って上からすぎる?」

「…憐憫、でも構わんが。まあ、俺が言いたいのもそこだ。罪を憎んで人を憎まず、を俺は学んでるところだし。あの頃より俺達は、幾分賢くなっただろう?」

「心はいつだって賢いじゃんか。でも知らなかった時と知ってからじゃ全く同じ様には考えられないんだよね。じゃあ右京と友達になれるか、っつーと、また話は別」


 言葉の途中から神威くんではなく私の方へ向き直り、ピシリと譲れない一線を念押しされる。武瑠くんの主張はもっともだ。


「…右京と似てるとこがある、って礼ちゃんの言葉を、ね。俺はあの頃よりもっと理解してるつもり。するとね。もっともっと…心の深い場所で右京と礼ちゃんが響きあってたとしたら? こんな今はなかったよね。そんな可能性もあったなあ、って」


 そんな今は否定したいと即座にかぶりを振ることなど出来ない。諸々の結果として今はあるけれど、“今”がずっと“未来”だったあの頃、私が神威くんの手を離したのは事実なんだ。それでもこうしていられるのは、こんな面倒くさい私の何もかもを、打ち消したい過去までも、まるごと掴んで離さないと、この人が、この人を愛してやまない沢山の人が動いてくれたからだ。運命なんて頼りないものに、神様なんて目に見えないものに、委ねるのではなく。


「今の自分、って。嫌い?」


 神威くんが控え目に問うてくる。これには間髪入れず首を振った。

 神威くんが私を大切にしてくれるから、それが痛いほど伝わってくるから、私も私を大切にしていきたいと思えるようになったんだもの。

 昔はきっと想像すら出来なかった。そんな自分も、そんな変化も嫌じゃない。


「俺もね、嫌いじゃない。礼ちゃんやみんなからずっと一緒にいたいと心底望んでもらえる山田神威でいたいからさ。で、ちゃんと努力していかなきゃと思ってる自分は嫌いじゃない」


 ちゃんと努力してるのに、そうは言わない神威くんの謙虚さに思わず笑みがこぼれる。


「いろんな鎖は、連なってるんだ。何か一つが欠けても、こんな今にたどり着かないんだよ」


 神威くんの静かな言葉はひどく哲学的に聴こえる。私は不意にDNAの二重らせん構造を思い描きそれは何故だかメビウスの輪へと変化を遂げ、最後には神威くんがプレゼントしてくれた四季を彩るネックレスへと変わった。

 一つ一つの鎖。その連なり。

 神威くんと出逢ってから、というだけでなく私を象る全ての要素を考えるのなら、やっぱり私は、私が生まれてきたことを肯定せざるを得なくて。あんな忌まわしい事件すらも。


「…右京のことも、そうなんだ。これから先を考えると、俺も怖くなるけど」


 三年、見えてないからな。

 心くんの一言に私達はゆるりと頷く。


「…あんなの、無ければ良かったとは。言えないんだ」


 だってね、と神威くんは目の前の二人へほんの少し身を乗り出して訴える。武瑠くんも心くんも、伸びやかな神威くんの声に愛しげな表情を浮かべていた。


「武瑠も心も、今ここでこうやって勉強してるのは少なからずあの事件の影響を受けて決めた進路があってこそ、じゃない?」


 まあね、と二人の声が重なる。武瑠くんは苦笑し、心くんは腕を組んだまま難しい表情を天井へ向けた。三年、と。大きなため息と共に呟きが漏れ聞こえた。


「…どう、過ごしてきたんだろうな。右京は」

「…オレ達もさ。狭いっちゃ狭いんだけどね、世界。割と限られた関係の中で生きてるんだけどさ」


 それでもそこに大切な人の温もりがあるのか否かで時の流れ方は違ってくる。色も景色も、心の持ち様も。


「御子柴だけが向き合うことじゃないんだぞ。俺達を巻き込め。喜んで巻き込まれてやるから」

「そうだよ。オレ達、あの頃は何もしてあげられなかったけどさ」


 そんなことはない、と言いかけた前のめりの身体は、一段と距離を詰めてきた神威くんの温かさにピタリと寄り添われる。

 だからね、って近いよ、神威くん。武瑠くんも心くんも呆れてるよ。


「みんなで、だよ。礼ちゃんが抱える怖さ。独りで立ち向かおう、なんて。しないで?」



 ***



 御子柴ー、と葛西先生に呼ばれる。

 お店の軒先に大きな影が四つ。教師然とした硬質な声ではなくどこか幼さを含んでいるそれはきっと、神威くん達と一緒だから。恩師と教え子、という関係性にカチリと収まらない仲の良さは私に自然とこみ上げる笑みをもたらす。“卒業後の先生とのつき合い方”なんてマニュアルを欲しがってた自分が嘘みたいだ。


「芽生も連れて早く、こっち。この仏頂面どうにかしてー」


 この、と指されているのは間違いなく神威くんだ。下駄を履きながら、その様を見ずとも手に取るように分かる。今の一声で神威くんの綺麗な顔はさらに表情を閉じ込めてしまっただろう。私は愛くるしい浴衣姿に着替えた芽生ちゃんに向き直り、おいで、と手招きした。


「うわー、芽生! 可愛いー! 世界一可愛い!」

「パパー!」


 小さな体躯をそっと抱きかかえた途端、武蔵さんの絶賛が飛んできた。芽生ちゃんは迷いなく武蔵さんへと両の腕を伸ばすから、私は壊れものを扱うようにゆるりと、待ち受けるパパの愛情の中へ芽生ちゃんを引き渡す。手放しの“可愛い”は、武蔵さんの奥底から堪らなく止め処なく溢れ出てくる感情がそのまま言の葉に乗ったものだろう。シンプルで嘘が無いから、心に響く。この空間を共有する誰をもに伝播していく。


「可愛いねえ、お姫様みたいだよ芽生! よく似合ってる! ああ、去年も着せてあげれば良かったな、勿体ないことした」


 小さな小さな美人モデルさんはきっとご両親の良いとこ取りなんだろう。クリンクリンの黒目がちな瞳。肌理細かなすべすべツヤツヤの肌。バサバサの睫毛。プルンと弾力がありそうな唇。どんな褒め言葉も表現力不足な気がしてくる。

 ふと実家で時を過ごす智を思い出した。私、智へこんな風に大絶賛してあげたことあったかな。自分がされてきたようしかきっと、私は智へ出来ていない。そう思い至れば急に、智がひどく不憫に感じられた。私よりもちっちゃな紅葉まんじゅうのような掌は、いつも何かに飢えていたんだろう。


 芽生ちゃんの脇の下へ差し入れた両手を目線より高く掲げ、ふわりふわりと宙を舞わせる武蔵さんの姿もまるで舞踏会の王子様みたいだ。クスクスと笑いながらくるりと回っても嫌味ですらなくむしろ眼福。今 ここだけゆうるりと時間が流れてるわ、なんだか癒される。


「ちょ、もう! 親バカか、いやバカ親か武蔵。なんとかの一つ覚えみたく可愛い可愛いって語彙力疑うよ、まったく。芽生のこと、甘やかさないんじゃなかったのか?」

「僻まないでよ、兄ちゃん」

「おーおー、あっちでもこっちでもリア充の一言一言が胸に突き刺さるわ。何が悲しくて俺、カメラマンなの」


 ちょ、お袋が撮って! 俺と御子柴を!


 その声に反応してこちらへ一瞥を投げた葛西先生のお母様は、それは見事な営業スマイルを浮かべたままひらりとスルーなさる。チ、と舌打ちする葛西先生の背中へ神威くんの大きな抗議の声が響いた。


「何してんですか! 葛西先生! 礼ちゃんの傍から離れて!」


 あああ、そんなに走っちゃ裾が乱れちゃうわ。

 猪突猛進、という四字熟語を神威くんは正確に体現しつつ私達へと距離を詰めてくる。綺麗な顔を不機嫌そうに歪めているのは本当に勿体ない、葛西先生とそんなに近しく接してた訳じゃないのに。


「近い! マジ近いから先生! うわーもう、礼ちゃん…っ、」


 笑いを堪えているような顰めっ面で何事かを言いかけた神威くんは空気と一緒にそれを飲み込んだ。両肩を勢いのまま引き寄せられるとちょっとだけよろける。不意に耳元へ、超可愛い、と切なく言葉が降ってきた。

 耳は、ちょっと。そこにかかる熱い吐息は、冷静さを一瞬で奪っていく。周りに人がいる、置かれている状況を呪文のように心の中で繰り返し、かあっと上がる体温が鎮まるように念じた。


 神威くん、って少年のように邪気のない真っ直ぐさを綺羅綺羅しくぶつけてくるかと思えば。低く掠れる声のせいかな、色っぽさをふわりと纏ったりして。その振り幅にびっくりする。まだ見たことのない神威くんの表情、一体いくつあるんだろう。


「…風呂敷に包んで連れて帰りたい…」

「…え、…ふ、?」

「いやもう、誰にも見せたくない! こんな可愛いの!」

「はーい、お写真撮ろうねえ」


 芽生ちゃんを左腕で器用に抱っこした武蔵さんは、右手で神威くんと私の背をまとめて押しやる。わざとなんだろう、間延びした声に笑いが含まれていて、葛西先生の大きなため息が自然と連なった。


「僕は芽生の可愛さ、みんなに見て欲しくてたまらなくなっちゃうけど。閉じ込めときたい人なんだ? 神威くん」

「そうだね、武蔵。神威の許容量は1ミリ四方くらいしかないから」

「…狭いね」

「そりゃもう昔からね」

「…ちょっとそこ! 1センチ四方くらいありますって!」


 それでも狭いだろう、と仕立て上がりの浴衣を身に付けた心くんが、幾度も頷く武瑠くんと笑い合いながら断言する。

 濃い紺の絣地に三筋の格子模様。袖へ通した腕を組み、すっとその場に佇んでいるだけなのに本当に様になっている心くん。隣に立ち並ぶ武瑠くんはこげ茶の地に同系色で規則正しく描かれた市松模様。浴衣としては珍しい色合いなのに、肌も髪も色素の薄い武瑠くんに不思議と良く似合っていた。

 なんてつらつら口にすると、神威くんは複雑な表情を見せるかもしれない。大好きな大切な親友が大絶賛されるのは嬉しい、けれどその言葉を発しているのは私、とあっては。


 逆の立場だったら、と思い浮かべてほんの少し嫌な気分になった。うん、万葉と私と並んでいて神威くんの視界に共に入ってるはずなのに、まず万葉を褒めちぎられたら。嫌な気分になっちゃうわ。それが嫉妬、という類のものであるとして以前の私ならそんな感情を抱くことそのものが嫌だった。


(…ドロドロしたものにね。乗っ取られたくなかったからね…)


 そんな、お母さんが溺れる恋愛沙汰しか私の成長過程にはなかったから、遠ざかっていたかった。でも、今の私なら、ね。身を窶してしまうほど醜い激情もこの先 確かに生じるのだろうけれど。人を好きになり恋におち愛し愛されていく人間ならではの行為には、自分でも知らなかった新しい自分を連れて来てくれる新鮮さがあると思える。そこには、新しく気づく温もりも。驚くほどの柔らかな優しさも。変わっていく自分を体感できる嬉しさも、あるから。


「神威くん」

「ん? なあに? 礼ちゃん」

「すっごく素敵。良く似合ってる」


 ここはまず神威くんのこの艶やかな姿を堪能してから。あの二人は葛西先生のお母さんとお父さんが褒めちぎってるところだもの。素直な感情をただ伝えるだけなのに優先順位をいちいちつけているような、そんな不器用な思考回路に我ながら苦笑が漏れる。

 それでも、細やかなことなんだけど。いつだって神威くんのことを“一番”に。


 誰をもを、真に平等に。それはとても難しい、と今日、葛西先生にいただいた言葉は否定的な表現ではあったけれどすんなりと心に響いた。


「え…と。ありがと、礼ちゃん。うわー、なんだろ。照れる」


 神威くんのバランスの良い体躯へピタリと吸い寄せられている浴衣はとても着心地の良さそうな。しじら織、というんだっけ。白と薄いベージュの切替のみで柄は無い、とてもオーソドックスなものだ。す、と伸びた神威くんの首元にチラリと覗く半襟はカジュアルな文様が見て取れ、古き佳き伝統文化は躍起にならなくとも新しい息遣いと上手く融合していけるものなのかな、と感じた。


「…真っ赤」

「! いい、いたんですかっ?! 先生!」

「いたよ。いるよ。ずっとね」


 背後からの突然の声。神威くんはさらに頬を紅く染めた。葛西先生はにやりと口角を上げると一眼レフを手に、私達へ一団となるよう目で訴えてくる。


「芽生、れいおねえちゃんに抱っこしてもらってね」


 目の中に入れても痛くない、とは武蔵さんの蕩けた溺愛ぶりのためにあるような表現だわ。小さな私よりさらに小さくほわほわで温かな芽生ちゃんの身体を手の中に預かると、私はたったそれだけで優しい気持ちになれた。


「神威ー、笑ってー」

「………」

「吉居ー、神威に笑い方教えてやってー」

「神威ー、スマイル!」

「雑だなオイ。弓削! レフ板 持って来て!」


 神威はグラビアアイドルか、と心くんが苦笑を浮かべている。葛西先生は目元に当てていたレンズから顔を離し、諦念したようにカメラを下ろすと大きなため息を吐いた。それは見事に神威くんと重なる。


「なんつーか、神威。お前、一人きりだと纏ってるオーラ違うな」

「…オ…、や。よく分かんないですけど…」


 一人で写真、って苦手で。本当に、すみません。


 力なく頭を下げ、身を縮こませる神威くんに何だか切なさがこみ上げてくる。私は抱っこしていた芽生ちゃんを傍立つ武蔵さんへ大事に大事にお返しすると、履き慣れない下駄の音をカタカタと立てながら神威くんへ走り寄った。


「神威くん」

「そして御子柴が隣に立っただけで相好が崩れる、と」


 ふにゃり、と音までも聞こえそうな、それは柔らかな笑みが神威くんの顔中に広がる。こんな至近距離で、目じりにくしゃ、と寄る小さな線の一つ一つまでもが見て取れるほど近くで、何度 目にしても。都度、胸がく、と熱く痛くなる私は本当に神威くんが好きで好きでたまらないのだと改めて思う。


 一人、凛と立つ佇まいはどちらかと言えば硬質。近寄り難さを放つほどに綺麗。いや、美しさゆえに自身が望む以上の衆目を集めてきた神威くんだからこその頑なさなんだろう。とび抜けて綺麗、だけどとび抜けて不器用、とび抜けて優しい。上手く躱す、なんて「テキトー」な技を身に着けてこなかった神威くんの真っ直ぐさも好き。こんな風に一瞬で、その分厚い殻が割れ花開くように笑みが咲き誇るのは、神威くんが間違いなく私を好きでいてくれているから。


 芽生ちゃんを抱っこしたせいかな。私、さっきから随分と何気ない幸せを見つけるのが上手じゃない? あの小さな身体から発せられる温かさは周囲の人へ伝播していくものらしい。


「わあ、凄く様になるねえ。二人のとこ、撮らせてもらっていい?」


 武蔵さんの優しい声は、葛西先生のそれととてもよく似ている。兄弟、だからか。照れ臭そうに小さく頷いた神威くんをきちんと確認して、葛西先生はまたカメラを構える。


(…私と、智は…)


 お父さん、が違うから。一般的な姉と弟、という関係性よりさらに半分 繋がりが薄い。歳の差も性差も、あるかもしれない類似点をもっと霞ませてしまう。

 それでもあの子はいつも 礼ちゃん礼ちゃん、って武蔵さんのようには私、上手に抱っこも出来なかったのにな。


「…礼ちゃん? どしたの大丈夫? 具合悪い?」

「…え? あ、ううん。何でもないよ」


 得意のボンヤリを発動させてしまった。心配そうに私を見つめる神威くんへ真っ直ぐ笑みを返す。


「入籍した時の写真、撮ってもらった時みたいだなあ、って」

「ぶ。そ、かな。こんな感じだったっけ」


 あの時も、写真部の元部長さん家のスタジオだったか。タキシード姿の神威くんを一人 被写体にして、それはご苦労されていた。思うような表情が引き出せないなんて、と自身の未熟さを嘆かれる元部長さんと、それに対して神威くんが謝り倒す構図という…。結局、一人ずつの写真って撮らなかったんじゃなかったっけ。


 18歳の私達はきちんとフレームに収められ、今も寝室に飾ってあるけれど。時々思い出したように神威くんは、式挙げる時にもう一度 撮り直そうか、と言う。でもまた、カメラマン泣かせかもしれないね。


「ああ、そうだなあ。僕も前撮りってこんな感じだったな、すっごくいろんなポーズさせられて」

「…なあ。今じゃもう見返すこともないけどなあ、あの写真」

「…また僻んで」

「僻んでねえだろ、武蔵様を反面教師として俺は俺で幸せな結婚を、だな」

「え、する気あったの?」

「…ちょっと、枯渇してっかな」

「うん、むしろ婚活しないとね」


 訥々と繰り広げられるアラサー兄弟のやり取りに、いつしか私達は大きく口を開けて笑っていた。もしかすると葛西兄弟はやり手のカメラマンとアシスタントさんだったのかもしれない。


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