第8話

「めーい!」


 名前を呼べば無垢な笑みを何の見返りも必要とせず呈してくれる。手放しで俺の胸へ飛び込んでくるふわふわの小さな温もりが愛しくてたまらない。


「やまちゃーん!」

「あー、俺の癒しー! 天使ー!」


 久しぶりに真正面から入った店内はお得意様で溢れていた。大方、お茶かお華の発表会でもあるんだろう、セレブ感漂う奥様達が楚々としたご様子でうちのお袋の見立てに頷いたりしている。


「兄ちゃん、悪いね」


 和服をいなせに着こなして、うちの看板若旦那のご登場だ。修行の身、として店頭に立ち始めた頃こそ着物に着倒された七五三の子どものようだったのに、今じゃすっかり板についたもんだな。


「このお客様達が終わったら店閉められるんだけど長引いちゃって。じいじも出かけてるし、他に誰も頼めなくてさ」

「いいって。気にすんな」

「ご飯は母屋に用意してあるから、芽生に食べさせてくれる?」


 武蔵の名を呼ぶ声がする、どうやら商談がまとまりそうだ。俺は武蔵の肩越しにお袋へ軽く手を上げると、芽生を抱き直し母屋へ向かおうとした。


「じゃあ、芽生。やまちゃんと先にご飯食べててね? パパ、あと少しで終わるから」

「やまちゃんとおふろもはいるー」

「よしよし、愛されちゃってんな、俺」


 苦笑いを浮かべ身を翻す武蔵の背を小突いて、俺は今度こそ母屋への廊下を辿り始めた。



 結局、芽生の母親がうちへ戻ってくることはなかった。離婚の手続きは淡々と進められ、彼女は親権を放棄し、武蔵は慰謝料を求められなかった。

 芽生が寂しい想いをしなくて済むように。俺達家族がまず心を割いたのはその点に尽きる。もともと親父とお袋の可愛がりようは度が過ぎていたけれど、そこに“可哀想”が加わって盲目的と言えなくもなかった。意外にも歯止めをかけ続けているのは、武蔵なんだ。


『みんな、協力してくれるかな? 僕一人じゃママの役目まで果たせないからさ』


 芽生のオムツを器用に替えながら、離婚が成立したあの晩。武蔵はぽつんとそう漏らした。当たり前だろ、とその頃の俺は芽生をろくにあやすことも出来なかったけれど間をおかずそう言い切った。


『…ありがと、兄ちゃん』


 目を細め優しくふわりと微笑む様は、どこか神威を彷彿とさせる。俺は二年間、神威と武蔵を重ね見つめ続けてきたのかもしれないな。“教え子”という以上に気になって関わって踏み込んで、もう後には退けなくなった。


『…でも、じいじもばあばも甘やかすだろうなあ』

『…そりゃなあ。孫は子どもとまた違う、ってよく聞くしな』

『芽生が幸せでいられるように、どうすべきかは僕がちゃんと考えていかなくちゃ。…それが、親ってことだよね、一番責任を持つべきは僕だから』


 いつの間にか弟は先に親になって。自分以外の大切な誰かの幸せを考えられる、優しい強さを身につけていく。そうして俺は負けた気になってちょっとだけ悔しくなった。

 俺が武蔵から頼られる順位は、ばあば、じいじに次ぐ第三位だけれど。それでも要請に応じてそそくさと芽生を抱きしめに来るんだ。




「ただいまー」

「あ! パパー、おかえりー」


 芽生を風呂に入れ、洗い髪を乾かしているところで武蔵が帰って来た。親父やお袋の姿は共になく、一足先に切り上げてきたらしい。


「わ、兄ちゃん。風呂まで? ありがと、助かった」

「やまちゃん、かみあらうとき、めい、おめめいたいしたよぅ」

「ごめんてば、芽生」


 芽生のいたいけな物言いにクツクツ笑いながら武蔵がどうしたの? と問うてくる。髪を洗う時にシャンプーの泡が芽生の目に入っちゃったんだよね。芽生へもう一度ごめんね、と謝りながら武蔵へも悪い、と詫びた。


「いいよ、そんなの僕もしょっちゅうやってるよ」

「え、しょっちゅうは駄目だろ」

「まあでも、健やかに育ってますから」


 武蔵の雑駁なまとめ方に こんなヤツだったかな、と想いを巡らし苦笑が漏れる。繊細。そんな一面が武蔵の気立てには確かにあったはずなのに何だろう、この…動じずデンと構えた肝っ玉母さんみたいな風格。てか、お袋に似てきた? …まあ、似てて当たり前なんだけど。


「芽生、一人っ子確定なんだからさ。そんな至れり尽くせりで甘やかさなくてもいいんだって」

「そうは言ってもさあ、可愛い姪っ子だしちっちゃいし」

「兄ちゃんが実は一番過保護だよねえ」


 帯を鮮やかに紐解きながら、パパお風呂入って来るね、と芽生へ笑みを残し武蔵はドアの向こうへ消える。

 芽生の短い髪の毛はすぐに乾いた。保育園に通っていると長く伸ばすことを嫌われるらしい、翳りの無い黒髪に輝く天使の輪をつるりと撫でた。


「パパが上がってくるまで絵本読もうか?」

「よむー! やまちゃん、なにがいい? めいがよんであげる! じょうずよ!」


 芽生の小さな手が俺の指を掴む。何だろうな、この安心感。庇護すべきか弱き存在のはずなのに、むしろ俺は頼られ間違いなく好かれていると真っ直ぐで真っさらな気持ちをもらえてる。俺の方がお世話されてるじゃんね。本棚からいそいそと絵本を選ぶ芽生の小さな背中を見つめながら知らず口元が綻んだ。




 兄ちゃん、と夢かうつつかぼんやりする間に軽く肩を揺すられ薄目を開ける。子ども部屋の照明スイッチに手をかけた武蔵が風呂上がりのパジャマ姿で立っていた。


「…電気も点けっぱで。兄ちゃんも疲れてたんだね」

「…んあ。悪い」


 こっちこそごめん、と、当たり前のように俺へ手を差し伸べてくれる武蔵。俺はゆるゆると掴むとよっこらせ、と起き上がった。

 すやすやと愛らしい寝息を立てる芽生に小さな布団をかけると、武蔵はその丸くぷくぷくの頬っぺたにチュ、と胸が熱くなる音を鳴らした。


「…いいな、あれ」


 子ども部屋を出て廊下を挟んだ居間へと入る。続きの台所へ一旦消えた武蔵は両手にビールを持ち現れた。


「何が? いいって?」

「ほっぺにチュウ」


 途端にぶ、と噴き出す武蔵に失礼だろ、と指摘する。だってもクソもあるか。ここ最近のあれやこれやに、心が荒んでるんだな、俺は。純真とか無垢とか、紛うことなき愛とか、きっとそんな類に飢えている。


「選り好みしなきゃいいでしょ、兄ちゃん昔っからモテてたんだし。ちょっとハゲて歳くったけどまだまだイケんじゃないの?」

「…あのなあ」

「あ、それともあの噂本当なの? 兄ちゃんの高校に井上さんとこのお嬢さんが通ってるんだけど」

「みなまで言うな武蔵、えっ、つか父兄にまで広がってんの噂?!」


 怖っ、と両の掌で顔を覆う俺を目を細めて見、抑えた声で笑うと、武蔵は美味しい効果音を鳴らしながらプルタブを開けた。音は出さずとも口の動きだけで乾杯、と言い合う。俺はほんの少しビールを片手に掲げると蓋を開け渇いた喉を潤した。


「何? お前、いつも独り晩酌してんの?」


 寂しいな、とからかい笑うとまさか、と目を眇めて反論された。


「今日は兄ちゃん来てくれたから特別。いつもは芽生に絵本読みながら寝落ちてるよ」

「んー。無理もない」


 芽生が先に寝入ったのか、それとも俺だったのか。その前後さえ曖昧になるほど、心地好い存在が傍らにあるというのは安らかな眠りへ誘われる。口が回んねーな、自分の声が遠いな、字が霞んで見えるな、絵本がグチャグチャになるヤバい…そう、ぼんやりと思ったのが記憶の最後。


「…でも僕はさ、そのまま寝ちゃってもいいから。夜中に起き出して洗濯やら片付けやらゴミ集めたりしなくていいから」


 恵まれてるんだよ。

 武蔵はそう言って穏やかな笑みを口元に作った。誰と比してか、なんて明白だ。



 保育園への送り迎えは基本的に武蔵の役目で、珍しい父子家庭はどうしても好奇や憐みの目を向けられがち。コイツ、お迎えの時は和服姿で行くからね。悪目立ちするっつーの。何の宣伝なんだ。

 それでもきっと、本当の意味で我が子とたった独りで向き合わなければならない親御さんに比べれば、武蔵の周りにはじいじばあばをはじめ、温かな支援の手がたくさん差し伸べられているのだと思った。


「…お前。頑張ってるね」

「何? 投げ出すと思ってた?」

「そんな無責任男じゃないだろ。…頑張れるのかな、とは思ってた」


 いろいろ、と付け足して、俺はため息した。“いろいろ”の深意に想いを馳せたんだろう、武蔵はふ、と柔らかく笑んでビールの残りを飲み干した。



 芽生の母親が親権を放棄したそれから、じいじとばあばはとっくに子育てを卒業していたから、孫と我が子では勝手が違う、と当初は何かにつけ尻込みする姿も見られたというのに。武蔵は今みたいにふわふわと笑いながら飄々と何でもやってのけたんだ。

 器用なヤツだとは知っていたけど淡々とした武蔵の日常に無理や我慢が隠れてやしないかと俺は随分心配して、でもそれを理由にするのは照れ臭かったから、何かと芽生にかこつけて実家へ戻ってきている。


 そもそも、武蔵が“後を継がなければならなく”なったのは、俺の我儘のせいだから。

 俺は短気、武蔵は呑気。充分 大人になってしまった今でこそ、そんな形容は久しくされていないけれど。呑気に、見せかけているだけかもしれない。武蔵は、本当は誰よりも努力して心を割いて、ろくでなし兄貴の駄目さ加減を引き立てないように上手に立ち回ってくれてるんだ。


「僕一人じゃないからね、みんなそれぞれしんどいのに手伝ってくれるから。兄ちゃんも疲れてたんだろ? ごめん、今日は急に」

「いや、大丈夫。明日だったら手伝えなかったし」

「え、デート? 珍し」

「違うよ、バカ」


 神威達が帰って来るんだ。

 その名を口にするだけで俺の口元は自然と笑みを作る。そんな俺の表情を盗み見て、武蔵もまた相好を崩した。


「神威くん、かあ。本当に綺麗な子だよね、絵になるというか様になるというか」


 武蔵が神威とご対面したのは去年、師走の初め。と言っても神威オンリーではなく(当たり前か)トリオ+御子柴で何の予告も無くうちの店先にひょいと現れたんだ。

 ちょうど土曜日で、母屋で芽生の子守りをしてた俺が、兄ちゃん教え子さん達が来てるよ、と武蔵から呼ばれた時の驚きったら無かった。


「袴姿のあの写真、未だに焼き増ししてくれない? って奥様方にねだられる」

「アイツ、あんなにぶーたれてんのに?」

「それは兄ちゃんがからかいすぎたからでしょ? 他人様の奥さんなのに綺麗だの可愛いだの言うから」

「昔っから独占欲の強い王子様なんだよなあ」


 一生に一度の成人式。その晴れやかな式典で袴を着たいのだとアイツらは言った。そんなスタイルが最近の流行りなのかと、へえ、なんて応えたら、分かってますか先生?! と詰め寄られたんだ。


 いやもう、とっくに“先生”ではない。俺もトリオも御子柴も、それは充分理解しているのだけれど。きっと何年先に振り返ってもやっぱり輝かしく貴重な時間だったと思えるあの頃に、一旦 強固に形成された関係性はそうやすやすと変形しないらしい。


『葛西先生と同じものを下さい!』


 同じものって? とそりゃあうちのやり手若旦那も訳分からないよな。困ったように神威を見、その背後でアハハと笑う吉居と弓削を見つめていた。


『俺達の卒業式で着てた袴です! 礼ちゃんが格好良かった、って大絶賛で! 俺、悔し…じゃない、同じ土俵に立ちたいんです!』

『んんー、や、キミの方が格好良いと思うけどな』

『武蔵、身内は贔屓して』

『ま、葛西と張り合いたいんだよ。名実ともに大人の仲間入りだしな』

『弓削、お前ナチュラルに呼び捨て…いいけど』

『うわー、キミもまた似合いそう和服』

『ええー! センセの弟さん! オレは?!』


 御子柴は確かギャアギャア騒ぐトリオの傍で終始 微苦笑を浮かべていて、いつの間にか俺の手から芽生を引き受けるとさすがと言うべきか、器用に抱っこし遊び相手になってくれていた。広い店内だというのに、デカい男五人が肩を寄せ合うように立ち並んで反物や袴を身に当ててはあれでもないこれでもない、とはしゃぐ姿。今思い返すと、相当滑稽だ。



 記念写真を、と言い出したのは誰だったのか。商魂逞しいうちのお袋だったのかな。仕立て済の羽織袴はまるでおあつらえ向きのように神威のしなやかな身体にピタリと添っていた。吉居と弓削は、ちょっとお直しが必要だったけど。


 何だかな。なんか…何となく。ちょっとだけ、悔しかったのかもしれない。ついこの前まで制服姿が当然だったヤツらだよな。なのにいつの間にかこんなの着こなせるようになっちゃって。しかも負けてないオーラ。本当に、どれだけ伸びしろあるんだよ。俺なんてもうとっくに頭打ちだってのに。そんなに急いで追いつこうなんて、してくれるなよ。


 だから、ちょっとからかったんだ。桃色の地に濃い紫の袴を組み合わせた御子柴は、さながら明治時代の女学生のように純情可憐で凛として。神威が妬くのなんて分かりきってたけど、可愛い綺麗と連発したんだ。


『もー先生! マジ意地が悪い! 駄目ですって! 撫でないで礼ちゃんのこと! あああもう、おさわりなしだって!』

『大人げないねえ、兄ちゃん。ごめんね、神威くん』


 ああそうか。大人げなくいつまで経ってもつまらないヤキモチを妬く神威に安心していたけど、そう仕向けてる俺の態度も大人げないのか。小5くらいか。


 そうして、長方形のフレームに収まるあの日の神威は壮絶に不機嫌な顔をしている。みんな晴れ晴れとした爽やかな笑みを浮かべているのに。まあ、見るにつけ笑いがこみ上げてくるんだけど。


「ゴールデンウィークだから帰って来るの? なに、また飲みに行くの?」


 武蔵の声にふわりと回想から呼び戻された。と同時にここ最近、俺の心を荒ませていた懸念事項も呼び起こされた。


「んー…飲みに、行きたいけど。…行けるかな」


 一気に歯切れが悪くなった俺へ訝しげな武蔵の瞳が据えられる。兄ちゃん? と語尾が上がった優しい声音に、ほんの少し縋りたい気分になった。武蔵の、俺より色素が薄い瞳は不思議と惹かれる力があって、じっと利発そうな瞼の下から思案げに見つめられれば勢いに任せ内なる弱さを晒け出してしまいたくなる。


 空になったビールの缶をコトリとテーブルの上へ置いて、次いで力なく倒した上体を支えるように顎をつく。武蔵は俺の一挙一動から目を逸らさず、俺は眼力に抗いたくて目を瞑った。そう、見なければ、いいんだ。なんてね。そうやってとどのつまり、見ぬふりが出来なかった俺だったからこそ、今ここでこうしてるんじゃないのか。うん、と自問自答の末に頷くと、頭の上に柔らかな笑いが降ってきた。


「行き詰まってんだねえ、兄ちゃん」

「…そりゃね。神威がらみだから」

「好きなんだねえ、本当に」

「そりゃね。好きに決まってる」


 神威の好きな海賊王にオレはなる、って漫画みたく、さ。俺達は共に乗り越えてその先に得た絆の深さも輝かしい未来もあるんだ。そこに教師と教え子、という“単なる”関係性はとっくに無くて。仲間、かな。神威のね。いや、神威達のね。新たな称号を手に入れて、俺は年甲斐もなく浮かれてるんだ。手柴先生みたいな“教師然”とした御方からはお叱り受けそうだけど。


 卒業してからも帰省の都度、連絡してこられるとか。二十歳になったから飲みに行きましょうとか。実家まで訪ねてくれたりとか、売上に貢献してくれたりとか。真剣な恋のお悩み相談とか、俺みたいな教師になりたいとか。実は、ありそうでそうそうない。どれも教師冥利に尽きること。最たるは、あれかな。婚姻届の証人欄。


 俺はゆるりと瞼を開ける。武蔵の瞳は未だそこにあって、頬杖をついた端整な顔から見下ろされていた。


「…今更、だと思うんだ。…面会させます、なんて」


 武蔵は面会、と小さく呟きやがて ああ、と合点がいったように頷いた。

 うちの家族はみんな知ってる。事件は、真坂親子が社会的に制裁を受けましためでたしめでたし、で終わったわけではないということ。


「…あれから、三年だ。真坂さんは恐らく次の市議選に出馬する」


 口に出してしまうのは、ずっと憚られていた。なのにこうして中途までを武蔵へ告げながら、ああ俺は誰かにそうだと断定して欲しいんじゃないかと己の腹黒さに辟易する。


「…話題づくり? …に、利用されちゃうの? 神威くん達」

「…なあ。そう、思うよなあ」


 ありがと、武蔵。俺の目には多分に請い願うような光が宿っていたと思う。じっと俺を見据えたままつるりと滑り落ちた武蔵の言葉は、俺の潜在思考をなぞるのに充分だった。他者から客観的に聞かされてもそれ以外の考えに至らない。


「兄ちゃんがそう思うのは自然でしょ、面会の申し込みに応じます、ただそれだけなら。…もっと前でも良かったはず」


 当初から真坂さん本人とはなかなか連絡がとれず、事後の混乱や対応に追われているからだと結論づけていたけれど。時間が経つにつれ、政治的な立場に身を置いた人間というのは得てしてこうなのかもしれないと気づかされた。

 最終的な責任を負わず翻すことができるように? イメージをキープし直接手を染めることなどないように? どんな思惑かは知らないが、黒子として働く非日常的な秘書とやらの存在も俺のため息を増加させる一方だった。


「…もう、神威達は。あの頃のように高校生じゃない、未成年でもない。俺が、全力で、守らなければならない存在じゃない…んだよなあ」


 大人だ成人だ俺と変わらない。テーブルへ顎をついたまま口を開いても言葉なんて上手く紡げない。でも武蔵はそれを笑みを湛えたまま黙って聴いてくれたし、俺は力が入らずにいる自分を無理に奮い立たせようとはしなかった。


 静かな夜。微かな生活音が心地好い空間。嫌だな、歳とると。妙にセンチメンタルになるじゃないか。口に出して耳に届き脳で充分理解したさっきの言葉達は、なんて寂しい響きなんだろう。

 教え子達が成長し巣立っていく姿を何度となく見て来た。ただ、その後もずっと絶えることなく続いてきた関係は俺にとっては初めてで、それはもはや師弟を超え家族のように身近なものとなっている。そう、身近すぎる。それだけにどこまで口を出していいのか、何をどう、助言するべきなのか。最も尊重すべきは神威の心なのか、それとも御子柴なのか。俺はあの頃と同じ様に大局を捉え冷静に客観視し、けれど熱意をもって事に当たることが出来るのか。


「…そうだとしても。兄ちゃんのが、長生きしてるでしょ」


 場にのんびりと広がった武蔵の一言は俺の目線をゆるりと上げさせた。もう一本飲む? と柔らかく問われたけれど、何てことない、もう一本飲め、と眼力で訴えられている。お前が飲みたいんじゃないの。俺は苦笑を浮かべ大人しくお相伴にあずかることにした。


「…“うちの子も 叱ってくれて ありがとう”なんてね」


 カシュ、と小気味よい音を立てて飲み口を開けると、武蔵は喉を鳴らしゴクゴクとアルコールを摂取していく。


「…何だっけ? それ」

「ほら、国道に出る曲がり角のとこにずっと昔から立ってる看板」


 そうだったっけ。飲酒がもたらす弊害だな、思考回路が鈍くなっている。俺は頭の中で道を辿り、今ではもうすっかり薄汚れ、文字のペンキはヒビ入り掠れてしまったそれを思い浮かべた。


「子どもの頃はさ、良い迷惑だと思ってた。親から叱られるだけでも嫌なのに赤の他人からも注意されちゃうわけでしょ? それ感謝するのなんで? って」


 ああ、そうだったな。武蔵と俺は四つ離れてるから学校に共に通った記憶は小学生の頃しかないんだけど。集団登校のその途中で、ぶーたれてるガキがいたっけ。


「…大人になって、親になって、ああ、そうだなあ、って。あの頃とは違った視点で受け止められた自分にほっとしたんだよねえ」


 やけに艶やかな顔でニコニコとご機嫌な武蔵をじっと見つめる。気づけよ、目で促してんだろ。俺は“親になって”ないんだから、お前の言わんとする先を正確に掴み損ねてる。


「良いと思うんだ、僕は。たとえそこに直接的な血の繋がりが無くても。世話を焼き守り育んで、必要な時に欲する者へ温かな手を差し伸べられる年長者。…神威くん達に対する兄ちゃんのスタンスは、すごく良いと思う」

「…そうか?」


 あまりに詩的な表現を受け、照れくささも手伝った俺の言葉はひどくぶっきら棒だったけど。その理由を長年の経験値から察した武蔵は、そうだよ、とするりと首肯した。


「きっと、兄ちゃんの中ではもう。こうしてあげたい、って基本姿勢は出来てるんだと思う」


 何だよ、武蔵。お前、メンタリストか何かなの? そんな風に穏やかな声で全身優しく包み込まれるみたいに囁かれると実際はそうでもないのに、その気になってくる。俺、やれる人なんじゃね? って気に。


 決して表出しない政の闇。存在するのだろうと知りながら、目の当たりにすることはなかった。あの秘書は、いや、真坂さん自身か。今回の面会を、和解という美談に仕立て上げようとしている。そうした匂いを嗅ぎ取ってしまった俺も、日常の些末な諦めと妥協に薄汚れてしまったからこそ察知できたのかとげんなりしていたけど、嫌悪すべき対象だからこそ敏感であったと思っていいのだろうか。



 この前ね、とボンヤリしていた俺の思考へ武蔵の声が割り込んでくる。

 この前、っていつの話だ。武蔵の話は驚くほどにあちこち飛んで、疲れた頭では整理が追いつかない。


「僕らが組合の集まりで遅くなって、兄ちゃんに芽生の子守りを頼んだことあったでしょ?」

「ん」

「僕、あの時たまたま見てたんだけど」


 見てた、という物言いに見られていたという被験者的な意識は全く無かった俺は戸惑いを覚えた。教師という職業柄、多数の視線に曝される機会には馴れているけれど身内からの観察眼だと話は別だ。


「兄ちゃんは芽生のお絵かきにつき合ってくれてて、机いっぱいに紙やクレヨンが広がってた。見てた時ちょうど、芽生がお茶飲みたい、って言ったんだ」


 俺はコップに麦茶を注いで芽生に飲ませ、その後こう言ったらしい。


“芽生、飲み終わったらお片付け。机に置きっぱなしにしたらどうなるかよく考えて”


「分かる訳ない、って思ったんだよね、僕だったらコップ取り上げて飲み残し片付けるなあ、って。だって僕は察したから、その先の展開。きっと芽生はコップの存在なんか忘れてお絵かき続けて、その内ぶち当たってひっくり返してこぼしてビショビショ。で、叱っちゃう」


 でも兄ちゃんは、と武蔵は一旦、息をのんだ。その先に繋がるのは果たして正解か不正解か。いや、そんな風に審判が下される訳じゃないのか。それでもじっと武蔵の口元を見つめてしまう。


「芽生に任せた。結局、机の上に置きっぱにしたコップを見て、風呂場からこっそりタオル持って来てたよ」


 お前、一体どこでそんなに観察してたんだ。そう思う頃にはもう、その先の流れと結末まで思い出していたから、余計に恥ずかしさが募る。案の定、芽生はコップを引っくり返し、ご機嫌に描いていた芸術作品はビショビショになった。俺はべそをかきそうな芽生にタオルを差し出し、またどうすればいいのか考えさせた。


“ほら見てごらん。言った通りでしょう?”

 子どもの頃、周囲の大人からそう居丈高にしたり顔をされるのがたまらなく嫌だった。物事の行く末なんてきっと本当は誰も知らないのに。さも先見の明という超能力があるかのように威張り散らす大人にはなりたくなかった。だから、たぶん。芽生に対してもそうしたんだと思う。

 しかし、傍聴すると気の長い話だな。日頃、時間に追われ芽生と日常を過ごしていない俺だからこそ、出来た対応なんだろうに。


「ほら、パパ言ったよね? なんて。僕、しょっちゅう叱ってる。芽生のペースに、じゃなく僕のペースに合わせさせて、急かして先回りして取り上げて」


 それじゃ駄目なんだな、って思った。そこで途切れた武蔵の話は、結局 何なんだよ、と問い質したくもなるし。何となく言いたいことは伝わってきて、ほんわりとどうでもよくなったりした。

 神威達の屈託のない笑顔が瞼に浮かんでくる。正解は無い。絶対的な上下関係が朧になった今だからこそ、対等に話ができるのは楽しみとすら思えた。


 使い終わったカレンダーの裏一面に描かれた芽生の力作達は、くしゃくしゃに歪んだ芽生の顔と同じ様に滲んで見えた。小さな手でタオルを掴み、たどたどしく水分を拭き取りながら ごめんねえつめたかったねえ、と涙していた優しさは、武蔵。お前譲りだと思うけどね。


「…やけに持ち上げるなあ。何が欲しいんだよ、武蔵」


 飲み終わったビールの空き缶を、少しの力でペコペコと鳴らしながらぽつりと呟いた。家の前の通りを時折走り去る車のエンジン音が耳につく以外は静けさが覆う夜。伏し目で当然だろ。頬に熱が集まっているのは、アルコールのせいなんだか武蔵のせいなんだか分からない。


「大人になると、あんまり褒めてもらえなくなるでしょ」

「…そりゃあ、まあ」


 だから、あれだろ。“自分へのご褒美”なんつー贅沢産業が世に堂々と認められてるんだろ。お金を落としてんのは圧倒的に女性が多いと思うけど、後先考えず衝動買いしてしまった品々がマンションのクローゼットに眠る俺の肩身もさほど広くない。


「…僕のこと、頑張ってる、って。…言ってもらえて嬉しかった」

「…だから、の。お返し?」


 ふ、と肩を竦め笑う武蔵の素直な感情表現に自分でも驚くほどホッとしてしまう。

 そう、大丈夫。見たくもない世界の一面を見せつけられ、揉まれ引きずり込まれそうになっても、己を留めるだけの強さを俺は持ってるはずだし、清く正しく美しい心根は俺の周りに溢れている。


「不純な動機も、あるかなあ」

「むしろそっちを先に言え」


 目を眇めて恨めしく武蔵を見遣ると、また涼しげにふ、と笑いを零した。


「神威くん達をさ、ぜひお連れして?」

「…どこによ?」

「勿論、うちの店に、よ」


 ああもう、こりゃ商売がらみだな。困ったように武蔵の眉尻は下がっているものの悪戯っぽく笑んだ口の端には商魂が滲んでる。


「…誰だよ? 親父? お袋? 何に使うの? アイツらのこと」

「うーん、ばあばがさ、浴衣着てくれないかしらこの子たち、って。最近うるさくてね」


 ああ、そういうこと。近年、和装の魅力が見直され、組合としても民族衣装として若年層へのアピールに力を入れているらしい。浴衣は袴や着物よりよほど手軽に触れられるしね。

 うちの若旦那は看板息子として普及活動に尽力しておいでで、本来その立ち位置は俺だったかもしれない、という罪悪感から事あるごとに身に纏ってはいるけれど。まあ、アラサーのおっさんだからな、俺たち。お袋が神威達の写真を見てはほう、とピンク色の吐息を漏らしていた姿は何度となく目にした。


「…まあ、言ってみるけど。神威、基本的に写真撮られるの嫌いなヤツだよ」

「奥様用の浴衣もご用意しておきますので、ぜひ」

「お前、優しい顔して怖いね。神威の弱点、的確に突いていくね」

「兄ちゃんもね? 見てみたいでしょ? 浴衣姿」


 色白で優美でうなじも綺麗だったからきっと色っぽいよ、なんて、どこでどう会得した殺し文句だ。見てみたく、ないこともないと思わなくもない。


「芽生にも着せてさ、“ママとお揃い 浴衣の魅力”なんていうプロモーションもね」

「…うん、ほんっっとお前、頑張ってる」


 いろいろ、と付け足した俺の笑みは武蔵の屈託のない笑顔に溶け込んでいく。日々、子ども相手だと喜怒哀楽はシンプルで明瞭な表現へ研ぎ澄まされていくのかな。武蔵の笑った顔に疲れまでまとめて解けていく。俺も焼きが回った? 営業用の腹黒スマイルかもしれないのにな。




 その日、夜遅く。俺のスマホは静かにメッセージを受信した。『夜分 申し訳ありません』と美しい日本語に自然と頬が緩む。神威じゃないな、御子柴の指示だろ、これ。


 明日、逢えますか? 端的な文章は相変わらずの神威。無駄がないのはいいことだ、世代のわりにSNS依存度低め。不器用な王子様はいつだって自分の言葉で伝えたがる。そういや、アイツ。御子柴と仲直り出来たのか? いや、出来たんだろうな。そうでなきゃ、こんな余裕ぶっこいてスマホなんぞいじってやしないだろ。


 それでもやっぱり気になるから、いつでも良いよ、と記した返信の本文内でさり気なく確認した。場合によっては、集まる顔ぶれと議題が違ってくる。御子柴がいなければ、進まない話だ。


『仲直りしました! ご心配、おかけしました』


 添付写真があるなんて珍しい。バカップルチュー写真とかじゃないだろうな、これ。目を細めながら画面をスクロールしたその先に表示されたものは。


「…これ、どこだ? 電車の中?」


 何やってんの、アイツら。つか、誰と誰の仲直りだよこれじゃ。

 神威のスマホのインカメラは確かに御子柴(苦笑)と神威(満面の笑み)を捕えてはいたけれど、範囲内に共に収めようとしたのであろう努力虚しく残念に途切れた顔の吉居と弓削がかえって気の毒だ。


 隣に眠る芽生と武蔵を起こさないように、俺は独り 笑いを堪えひどく腹筋を使う。まあ、無様に途切れてても、みんな笑顔なのは分かったよ。俺はどこか、明日を待ち遠しく感じながら深く息を吐き眠りに落ちていった。



 ***



 かかってきた電話に、実家に来ていると応えると今にも出向いてきそうな雰囲気が感じられた。いや、来て欲しいのはやまやまだけどね、主に武蔵とお袋がね。そっちを先にしてしまうと進む話も進まなくなりそうだ。こっちから出向くよ、と伝えても申し訳なさがる神威はなかなか はい、と言わない。


「俺のマンションにデカい男四人は無理だし、真っ昼間から飲むわけにもいかないし。駅前のファミレスにしよう」


 店名と待ち合わせの時間を告げ 渋々、といった体の神威の承諾を得ると、俺は身支度を整え始める。土曜日の今日、若旦那は休業日で芽生と一緒にパンケーキとやらを作っていた。


「めーい! やまちゃんに出来上がったの一つちょうだい」

「おててあらってからよー!」


 子どもって、自分が言われた通りをなぞるんだな。大方、武蔵かお袋から事あるごとに言われている言葉なんだろう、芽生のたどたどしい口調はそれでもどこか大人びていて俺の笑いを誘う。


「出かけるの?」

「…ん。今日、連れて来るかどうか分かんないぞ」


 差し出された皿を前に慌てて先手を打とうとすれば、ゆるりと武蔵から微笑まれてしまう。武蔵の後ろについてきていた芽生がフォークを手渡してくれた。


「めしあがれー、やまちゃん!」

「ありがとう、芽生。芽生もパパと一緒に食べたら?」


 芽生の顔が一瞬、困ったものになった。視界の隅で武蔵が“先に食べちゃった”と口パクで教えてくれる。俺の方が起きたの遅かったもんな。

 ごめんね、いただきます、とありつこうとした時、芽生の小さな身体は飛び跳ね、元居たキッチンから小皿とフォークを手に戻ってきた。


「めいにもひとくちちょうだい? ひとりでたべると、おいしくないよね!」


 こんな小さな子に気遣わせるなんて良い歳したおっさんが情けない。それでも互いに分け与える温かさと、おいしいね、と見上げてくるつぶらな瞳に俺の目尻はやに下がった。




「葛西先生!」


 神威は大抵 学習するヤツだけど、この“葛西先生”だけは例外だな。もう先生じゃないよ、と逢う度ごとに言い続けて何回目? それでも心地好い感覚をもたらしてくれるそれに、揺蕩っているのは俺も同じ。近寄ってきたウェイトレスに目で断りを入れ、俺はつま先を名を呼ばれた方へ向けた。


「…ほんっと目立つなー、やゆよ。周囲の皆様から頭一つ分抜きん出てるし、御子柴は相変わらずちっちゃいのな」

「久々逢うなりそれですか?! いくら見つめたって礼ちゃんはおっきくなりませんよ!」

「神威くん、ひどい…」


 苦い笑みを浮かべる御子柴を神威は片腕で隠すように覆い、俺へ吉居の隣へ座るよう全身で促した。

 店内隅のボックス席。本来は広々としてるんだろうに手狭に感じる。運ばれてきたお冷の代わりにドリンクバーを注文しながら店内を見渡す。大型連休の前半。家族連れで賑わうその喧噪に、俺はほんの少し眉根を寄せた。


「…失敗したかな、ここ。真面目な話、しにくくないか?」

「うーん、真面目になりすぎて煮詰まるよりは、開放的で良いと思う」


 間髪入れずに返ってきた吉居の一言は、言い得て妙、なのかもしれない。コイツは相変わらず、不思議と真理をついてくる。


「…そっか。じゃあ、さっくり本題入るか」


 真正面の神威も、斜向かいの御子柴も、その綺麗な曲線が縁どった瞳がくるりと真剣なものに変わる。隣に位置する吉居も、その隣の弓削も、反応は見えずとも、きっと同じだろう。



 昨日の夜、電車の中で、きっとこいつらが交わしたのは、あの画像が捕えた年相応の緩んだ表情ばかりではないはずだ。俺は冷えたグラスに口をつけ唇をひと舐めすると、真坂さんの秘書が、と話を切り出した。


「…面会を、セッティング出来ないか、と。打診してきたんだ」


 出来る限り私情は交えず。そう、前提として切り出したはずだった。

 とは言え、俺も人の子だ。可愛い教え子に降りかかるかもしれない大人の事情を鑑みると、完璧にフラットではいられない。


「…先生、歯切れ悪い」

「当初は、神威に」


 御子柴の大きな瞳がもう一回り大きく見開かれた。

 無理もない、俺だって電話を受けたあの日、話の対象はずっと文通を続けていた御子柴に対する申し入れだと思い込んでいたんだ。先入観と言う無かれ、経緯を考えれば無理もないだろう?


「…それはおかしいでしょう、と。一旦は突き返した。そうしたら一昨日、面会の日時指定で御子柴へ話が持ちかけられた」


 端的な、けれど滑らかではない俺の口調から聡いコイツらは何を感じとったのか。そうして一等先に口を開くのは誰なのか。束の間 考えを巡らせて、当たりをつけて、それはごく自然で、的中したことに俺の口の端は緩んだ。


「…葛西」


 そうか。ついぞ弓削に“先生”と呼ばれたことはなかったな。


「俺の見解はこの中の誰より歪んでいると思うが」

「そんなことないよ、弓削。俺はみんなの意見を聴きたい」

「出所が近いからじゃないか。…この時期、このタイミングでの面会の理由を、確か葛西はそう言ってた」


 そうだね、と頷きながら注いできたアイスコーヒーを一口啜る。吉居越しの弓削は、大人びた視線を向け暫し言いよどんだ。“大人びた”って、ないか。コイツら、立派な大人だもんな。


「真坂はまた、出馬するだろう? ネットで目にしたんだが」


 その先の弓削の思考は透けて見えるような気がした。そうして、ホッとした。ああ、俺だけじゃなかった、と。よほど穿った私見だろうかと悩んだんだが。


「しかも政策、っつーかイメージ戦略 変えてきてるよね? 地域共生…子育て支援、青少年保護? だったっけ?」

「…お勉強してるね、吉居」

「だってイヤじゃん。オレ、面会以外の何かにミコちゃんと神威が巻き込まれるの、」


 絶対にイヤだ。

 吉居の物言いは普段のそれと変わらずふわりとしていたが、黒縁眼鏡の奥に光る色素の薄い瞳は強い意思を湛えている。


「「ありがっ…」」


 うん、もうさ。お前達のバカップルぶりは痛いほど見せつけられてきてるんだけどさ。同じタイミングでありがとう、って言おうとハモっただけで、見つめ合って微笑み合って肩すくめ合うのとか。見てるこっちが痒くなるから止めてくれない?


「武瑠だけじゃないさ、俺だって。…それにこの件、右京本人は、どこまで知ってるんだ?」


 外野が勝手に騒いでるだけじゃないのか。静かに呈された弓削の疑念は、確かに、と頷けるものだ。何かへのアピールのためだけにただ、顔を合わせるというのなら、当事者達に何をももたらさないのなら、別に服役中にわざわざ面会する必要はないんだ。右京の出所を大人しく待てば良い。

 御子柴が職員へ託したあの手紙。何も見つけられていないのなら、右京はそれを手に自身で御子柴を訪ねてくるだろう。


「…同情が。全くゼロだったかと問われると…、答えに詰まります」


 御子柴は周囲の喧騒に取り込まれそうなほど静かに、けれど凛とした声で言葉を紡ぎ出す。丁寧語であるのは、視線が俺へ向けられているからだろう。同時にテーブルへ載せられたのは幾つかの束になった白い封筒。宛名がどれも正しく「山田 礼 様」としたためられていて、そこにあるすっきりとした無駄のない字を目にする限り、とてもあの凶暴さは嗅ぎ取れない。


「…ただ、日常はあり続けると。その…無機質な灰色に覆われていない世界は続いてるから、戻った時に、違和感が無いように。そんな思いで、始めました」


 俺は御子柴の言葉をきちんと耳で感じながら、視界の隅で神威の姿を凝視していた。神威の嫉妬は、独占欲は、それが自身の人生で初めて得た血縁と友人以外の愛しい存在だから、という理由からか。はたまた、元来近しい者への執着が高じる性格なのか。御子柴がその小さな一身で受け留めるには少々荷が重すぎないかと心配になることがある。御子柴が、良く言えば大らか、悪く言えばボンヤリ、なおかげでその絶妙のバランスは保たれていると思うけど。


 だからね。俺は正直 不思議だった。神威が、御子柴と右京との文通を静観していること。

 いくら神威が御子柴の未来を全部もらったとしても、さ。そこはお前、配偶者として、更に言えば被害者として、物申しても良いんじゃないか、なんてね。

 浅慮だったのかな、そういうの。俺は瞬きをして、軽く目を伏せた。俺に三年が過ぎたように神威達も三年を過ごしているんだ。好きで好きでたまらない、その想いだけが熱く突っ走っていた時期はほんの少し過去のものになったんだな。

 生きていくことが下手な御子柴の傍らに神威の温かさは常に在る。きっと思い遣って深く理解し合いたいと願う真っ直ぐな心根は、未だ真っ直ぐさを失わず瞳に表れていると見て取れた。


 俺、ほんっと良い縁 結んじゃったな。他人様の世話してる場合じゃないんだけど。


「…読んでいただいて、構わないんですけど、これ。本当に、ただ…淡々と、右京くんの日常が、綴られています」


 これ、と指す御子柴の肌の白さに引き戻された。いや、と反射で抵抗を示す。流石に自分宛てではない手紙を開けて読むのは躊躇われた。


「神威は? 読んだの?」

「…刑法133条に該当するので」

「開封済みのものなら問題ないんです、夫婦間だし。…と説明して昨日、強引に」


 眉間に薄ら皺が寄る神威の困り顔は、恐らく昨日、御子柴が迫った時にも発揮されたのだろうと容易に想像できた。長い指で数通を弄びながら先生、と丁寧に呼びかけられる。


「…右京は、きっと。何も、知らないと思います。ご家族が、面会に来たとかいうエピソードは、どこにも書いてなかったし。そもそも礼ちゃんから面会の申し出を受けていることすら知らないんじゃないかな」


 俺が連絡をとり合うのも、専ら第一秘書、とかいう肩書を持つ男とだった。手紙の内容だけでその真偽を判断するつもりはないが、我が子の面会へ一度も出向いてはいないのだと真坂さん本人から直接 吐露されたとして、俺はきっと確認作業を怠ったまま信じてしまうだろうと思った。


「…お元気ですか、と始めるのは腑に落ちなくて。私から出した最初の手紙に、私の他愛ない毎日をつらつらと書きました。右京くんはそれを、真似ているのかもしれませんが…」


 気になる点が、あるんです。

 そう、ため息と共に吐き出した御子柴の声は、存外低いもの。主観がほとんどないのだと、御子柴は言った。手紙にしたためられた内容から確かに右京の日常は思い描くことができる、けれど。そこに、生きている人間の感情が伝わってこないのだと漏らす。


「…私が、そんな書き方をしているからなのか、とか。検閲…とかが入って書き直しさせられているのか、とか。考えも、したんですけど」


 けど、で終わる物言いからその結論付けは否、としたのであろう御子柴の思考はなぞることが出来た。俺は一旦、背もたれに身体を預け脚を組み直す。そうしてまたテーブルの上へ身を乗り出した。


「手紙のやり取り、なんて…余計なことを。そう、思われているのかもしれないと考えたこともありましたが。結びには必ず、返信待っています、とありました」


 幾通かの束から白い封筒の一つを抜き取った神威の長い指が、その箇所を明示してくれた。縦書きの便箋へ丁寧に綴られた日本語は、どこか他人行儀。

 俺は勝手に。もっと近い距離感を想像していた。宛名部分と同じ様に整った、決してぞんざいさを感じさせない文字。


(…これ、本当に右京が…?)


 神威をあの現場から担ぎ出したのは、誰あろう俺だ。流れ出た血の鮮やかさと向けられた悪意の痕は、今も時に蘇る。

 だからか。そんな意地の悪い考えを俺は抱いてしまうのかもしれない。

 右京くん本人が書いてますよ、と御子柴は何でもないことのようにつけ足した。最低、俺。


「…ごめん。そんなに顔に出てた?」

「…俺達も同じ表情をしたからな」


 弓削の低音ボイスが照れくさそうな音を含む。そっか、と安堵した息と共に言葉を漏らし、俺は改めて神威の手から便箋を受け取った。


 それしか無かったのだろうか。現代っ子には似つかわしくない縦書き便箋に、背を正し姿勢を律しながら向き合う誰かを思い浮かべた。俺は、右京の兄貴はよく知っている、何度となく面談を重ねた過去があるから。ただ、右京という子は御子柴、あるいは神威越しに垣間見たことしかなくて。

 ただ、淡々と。激情をぶつけるでもなく、勿論清らかな想いばかりに溢れているでもなく、一切の情が介在しないまま紡ぎ出されていく日常。それでもほんの少し灰色だと感じてしまうのは、俺の変な先入観か。


「…先生、私は、誰も苦しめないのなら。面会に応じたいと、思っています」


 御子柴が繰り出す日本語は丁寧で美しい響きを保つ。


“誰も苦しめないのなら”


 というか、神威を、だと思うんだけど。そうは言わないし、そうは言わせないんだな、コイツら。俺は うん、と頷きながら眼力だけで伝わるように御子柴へ先を促した。


「…少しは、大人になったので。物事が持つ面は単純な一つではないのだと、知っています」


 御子柴の言葉はどこか哲学めいていて、俺の解釈は正解なのか、それとももっと深淵なる世界に飛び込まないと正しくは見えてこないのか。絶妙のバランスが作り上げている小さく美しい顔立ちに浮かぶ綺麗な笑み。それと相まって聴き心地の好い声に考えることを忘れてしまいそうだった。


「…右京は。何か考えがあって、こんな手紙を書いていると思ってるの?」

「それを、確かめたいんです」


 間髪入れず返ってきた御子柴の言葉に、俺は俺の解釈が間違ってなかったことを知らされた。先生、と、強く真っ直ぐな瞳の力は神威のそれに近い。夫婦、って似てくるものなんだな。


「…私は、どうしても。右京くんを救えなかったと思う負い目が…未だに、どこかに、あります」


 そのか細くなった語尾とともに逸らされた目が悲しくなる。

 そんなこと、ないのに。御子柴。誰もが同じ様に考えている。俺の隣でも俺の目の前でも、御子柴を庇うかのように身じろぐ大男四人の姿。きっと傍から見たらさぞかし滑稽だろう。


「でも…それだけに縛られ続けているのは、きっと、違うのだろうとも思います。なんて言ったらいいのか…」


 見極めたいのかな。

 まるで自身へ言い聞かせるように御子柴は呟く。何を? と反射のように口にした俺を御子柴はじっと見つめ、それから神威を愛おしそうに見つめた。


「…右京くんへ、本物の光は射し込んだのか。今、確かめられるのなら、そうしたいんです」


 本物の光、か。俺じゃなかったっけ? そんなこと、神威へ言ってたの。初めて、あの公的機関へ神威と御子柴を連れて行った日を思い出した。俺と御子柴ばかりが口を開いているけれど、それぞれがそれぞれの姿勢で真剣に耳を傾けているのは分かっている。


 不意に、違和が横切った。信じたいのだと、あの日。御子柴は口にしてなかったか。御子柴が紡ぐ“信じたい”は酷く盲目的な気がしてたんだけど。それは、神威へ向けられたものだったからか。


「…大切な人ができて。大切な人との時間が増えて。実現させたい未来はどんどん広がって。私は、狡くなったんです先生」


 そんなことない、と今度は口にした。照れ臭そうにはにかむ御子柴とそれを覗き込んで微笑む神威。俺だって、狡いさ。こんな可愛い教え子達を、誰かの思惑のために黒い世界へ巻き込もうとするのなら。何が何でも全力で、阻止してやろうと勝手に決めてしまってるんだから。


「もう、誰も、ほんのわずかでも傷ついて欲しくない。閉じ込められた数年は、右京くんへどう影響したのか。…手紙だけでは、分からないなら出所前に」


 確かめたい、とするのは御子柴自身の気持ちの向き方なのかもしれない。


“少しは大人になったので”


 根付いたように変わらない人間、てのは、自己世界だけで完結し日々を送る環境にある者だろう。正しくは、皆無に等しいと、俺は思っているけれど。だから、コイツらだって変わってないはずないんだ。いやむしろ、変わっていて当然。

 同じ大学を四人とも選択して、学部こそ違えど日常を近しくして、開ける世界は他者より狭いのではないかと案じたりもしたが杞憂だったな。俺は 続けて、と御子柴を促し、改めてぐるりと場を見回した。知らず、巻き込まれていく世界はある。環境は日々、そうと意識しないまでも変わっていくから。御子柴がそう続けたところで、隣に座る神威はほんの少し眉をひそめ、腫れが残る唇へ指を寄せた。


 そう、傍目に分かるほど、神威の美貌を損なっているソコ。御子柴が暗に示したのはその件に限らない一般論だと思うけど、お前の心身は御子柴が流した涙を想ってそういう反応しちゃうんだね。


「でも、きちんと考えれば防げる事態は、あるでしょう? 先生。もしも私の手には負えなくて、その余波が私の周りの大切な人たちへも及んだら?…最近、そればかりを考えてしまう私は、本当に、狡いんです」


 俺の隣に座る吉居がストローで所在なげにグラスの中身をかき回す。カラカラと音を立てる氷が場に涼やかさをもたらした。


「狡くはないでしょ? 御子柴。そんな風に言わないの…俺は嬉しいのに」


 嬉しい? と御子柴の大きな瞳はさらにクルリと輪郭を広げる。緊迫の空気に似つかわしくなかった? でもね、思い出して。あの高校の、保健室で。俺と話をしていた時の、御子柴とは明らかに違うでしょ?


 答えを求めてくる御子柴の眼力に俺は笑顔で応える。御子柴には、甘いんだ。自覚ある。それに気づいた神威がさっきとは別の意味で眉をひそめているのも分かってる。つまらないヤキモチを妬かせて楽しんでいる俺は充分 悪趣味だ。自覚ある。


「自分が誰かにとって大切な存在だ、って、自分を大切にすることは大好きな人達を大切にすることでもあるんだ、って…分かったんでしょ?」


 御子柴はゆっくりと頷く。でも、と言葉を継いだのは、神威の方だったけど。


「それは逃げてることにならない? って。礼ちゃん、言って聞かないんですよ」


 困ったもんだ、みたいにわざとらしく呆れながら神威は綺麗な顔をくしゃりと崩し御子柴の黒髪を柔らかく撫でる。ほんのり頬を染める御子柴の方が人目を気にする羞恥心はあるらしい。もう何もかも可愛くて仕方ないんだな。こんなのにいつもアテられてる吉居と弓削が…。


「オレ達のこと、気の毒だと思ったでしょ?」

「…何なの? 歳くったら俺、顔に出るようになった?」


 まずいな、表情筋の鍛え方が足りないのか。それとも昨日、芽生にデレデレし過ぎたのか。眼鏡の奥から目を細め吉居をチラと見れば、色素の薄い瞳でニコリと見つめ返されるし。俺達の鍛練の賜物だ、なんて宣う弓削の言葉に、肩を落としそうな自分がいる。

 いきがるつもりはない。教え諭すつもりもない。けれど、俺はやっぱり心のどこか奥深くでいつまでも、コイツらにとって“ここぞという時に手を差し伸べてくれる頼れる大人”でありたいんだろうな。


「逃げ、ではないでしょ? トリアージは時に必要だと俺は思うよ」


 ああ、しまった。トリアージ、なんて口をついて出たけれど、そんな生命に関わるような重い話題へ転換させるつもりは無かった。昨日、武蔵の部屋の本棚で見たハードカバー、あのタイトルが妙に頭から離れなかったせいかもしれない。それでもピクリと、誰もが姿勢と視線を正す。言葉の深意を探ろうと思考を巡らせている。そう、人間は超能力なんて持ち合わせちゃいないんだから意思疎通には思いやりが必要。


「…選別? もともとはそんな意味だったか。なるほどな、言い得て妙、だ」


 弓削に知らないことなんてあるんだろうか、いや、勿論あるんだろうけど。流石、と感嘆を漏らさずにはいられない。と同時に、御子柴の黒い瞳がゆらりと煌めく。


「誤解しなさんなよ? 御子柴。なにも俺は、右京は黒タグだと言いたい訳じゃない」

「…でも。赤、でもない、と」


 俺は専門家ではないけれど、思うにトリアージは“全ての患者を救う”という医療の大原則からすると例外もいいところなんだろう。

 けれど、思う。目の前に座るこの若い夫婦は医療資源を際限なく持っているのか。医療を施すキャパシティは心身ともに無限にあるのか。

 違うだろ。医師や看護師のように宣誓してもいないんだ。そこに囚われる責務はない。


「何もかも、誰をも、救えたら、理想的。結果としての平等がそこにある。そんなヒーローも、いるんだろうね」


 ヒーロー、の下りで弓削が薄く笑う声が聴こえた。んー、アイツなら。俺が言いたいこと、先読みできてるんだろうな。


「でもね、考えてみて? 誰をもを平等に救いたければ、ヒーローは一体何人いればいいの?」


 本当に、平等に。それはとても難しい。人間が同時に成し得ることなんて限られている。行動には必ずといっていいほど情が伴うし、手足は二本ずつ、身体は一体だ。それでも右手で救えたものが左手では救えないことだってあるかもしれない。御子柴が自身を狡いと見做すその視点は、そこにあるんじゃないのか。

 右京を、救えると。一度、救えなかったのだから今度は救いたいと。暗に、この生真面目で生きることに不器用な女の子は、囚われ続けてきたんだ。そうして、微かな不安は色を消すことなく濃くなっていったのだろう。神威の額の傷は薄くなっていったけれど、経た年月が必ずしも改心へ導いたとは限らない。しかもこの、情が滲まない文面からだけで何をどう的確に判断しろと言うんだ。


「御子柴はこの世に一人しかいないんだよ。その小さな身体で、神威も右京も同じように救えるの? 守れるの? それはちょっと違わない?」

「先生…」

「俺たちは、御子柴の周りにいる素敵な人たちだったんじゃないの?」


 口にしてからはたと思い当たった。この話、吉居も弓削も分かってるんだろうか。それは御子柴が、塀の中の右京へ初めて渡したあの手紙。俺の隣から不穏な空気は漂ってこないから、大丈夫らしいな。


「ちょうど五人いるね?」


 場に、そぐわない気もした。それくらい底抜けに明るい吉居の声。また薄く笑う弓削の声が心地好い。だって俺も、その先に続く吉居の言葉は予想できたからね。それでも御子柴には分かりづらかったのだろう、五人? と眉間に皺寄せ訝しく呟いている。隣に座る神威にはピンと来たらしいな、口の端に柔らかく笑みが浮かんでいる。

 まあそうだ、戦隊物ヒーローが五人組であると瞬時に結び付けられるのは、幼い頃から慣れ親しんだ男子たるゆえん。


「…若干かぶらないか? 俺と葛西では」

「あ、弓削もそう思った? ブルー…グリーン? ブラックでもイケるよね、俺達」

「しょうがない、神威にはセンターポジションあげるよ、レッド」

「恩着せがましくありがと。武瑠はイエロー以外ないね? このカレー好き」

「そこ要らないよ!」


 その段になってようやく日曜朝のテレビ番組に思い当たったのだろう、御子柴には小さな弟がいたはずだ。ふふ、と肩を竦ませ綻ばせた顔を神威に向けている。


「私、ピンク?」

「礼ちゃんはホワイトでもいいなあ…」

「神威ー。公衆の面前!」


 ほんっとにもう。いくら格好良くても台無しだよ、そんなにデレデレしてたら。

 吉居の言葉に端を発した会話にはそれまでの物々しさが消え、その代りのように俺の耳に周囲の喧騒が届くようになった。


 吉居の、空気の変え方は絶妙。天然なのか、計算なのか。頬杖をつき軽口をたたきながらも、黒縁眼鏡の奥からチラと真剣な瞳で御子柴と神威を見やる…いいな、そのスキル。


「…面会の話。先方に応じるよ? 御子柴」


 御子柴の小さな顔に綺麗な微笑みが浮かんだまま首肯される様を見て、ただし、とつけ加えた。


「御子柴一人で、行かせたくないんだ。ここに居る全員で…は、無理にしても、俺も同席できないか相談したい」


 いい?

 俺は御子柴だけでなくやゆよまでぐるりと見回した。間髪入れず返された「はい」という重なる響きにコイツらの真面目さを嗅ぎとって俺はやっぱり、嬉しくなった。

 守るから。そう、口にするのは簡単だ。でもその術が、例えば芽生に対してしてあげられるお世話のように明確ではないから。出来る限りの事態に思いを巡らせておきたいと心を割くくらい。


「先生、俺も…」

「うん、神威は言わずもがな。そもそもあっちは…右京と神威を会わせたいんだよ」


 俺を同席させるくらいなら神威も、と駆け引きの材料のように扱われるのは目に見えていた。交渉術は得意としない。けれど盾になるくらいは出来るだろ。スーパーヒーローのブルーだかグリーンだかに任された役割分担は遂行しなきゃね。


 逃げ、という手段で己を守ってきたはずの御子柴だ。それが今じゃ、自ら立ち向かおうとしている。弱いながらも、それを言い訳にせずに。

 なあ、だから、塀のこちら側の人間にもたらされたこれだけの変化を、向こう側の右京へも同じ様に求めてしまうのは酷なんだろうか。


「…御子柴は、ホワイトね」

「…どしたんですか、先生? 急に」

「ナイチンゲール、思い出した」


 は? と頓狂な声をあげた吉居の脇腹を小突く。ちっとは考えろよ、何だよその反射。お前の向こうの和風ヒーローは分かってんぞ、トリアージの流れからか、って。


 トリアージはもともとフランス語。フランス軍が野戦病院で始めた、軍事的必要性の高い人間に対する選別だったはず。クリミア戦争で重傷者と選別された者達へ一日も欠かすことなく夜回りを続けたのがナイチンゲールじゃなかったか。大昔の彼女からの受け売りだけどね。


「いって! センセ何だよ?! 白衣の天使? だっけ?」

「違うよ、クリミアの天使! そこから看護師全体を白衣の天使っつーようになったの」

「あー、礼ちゃん、天使です」


 ニヤけんな、って。イケメン崩れてる、って。違うの、俺が伝えたい言葉はね。


「ナイチンゲールの言葉にさ、こういうのがあんの。“天使とは美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である”」


 うわ。壮絶なキョトン顔だね、御子柴。アナタよアナタ。天使、って形容。

 神威が俺と御子柴へ交互に向けている熱い視線にはうっすら感動まで含まれていると見てとれますが。


「……え?」

「うん。いいよいいよ、御子柴はそのまーんま自分に頓着なくて。そういうとこが俺は好き」

「また先生はっ! 訴えますよ! 格好良いと思ったばっかだったのに!」

「いいよー、思ってろよー」


 さり気に腕時計を覗き見ればお昼の時間帯をちょうど跨いでいる。入り口付近に見える、空席を待つ人達の影。そろそろ河岸替えか。とは言えもう少し、コイツらとのこの空気にとっぷり浸りたいけど。


「あっ、ちょ、センセ。場所変える? まだ大丈夫でしょ? 予定無いでしょ? 今日」

「何なの? 吉居。軽く失礼だからね、その決めつけ」

「葛西、うちのお袋が新しく浴衣を—―」

「あ! そうだそれ!」


 すっかり忘れてた、思い出した、ちょうど良かった、ナイス弓削。社割で出してもらおう、浴衣。


「うちうち! うち寄って! 酒もメシもたんまり出す、事が終われば」

「……こと?」

「モデルやって? ノーギャラで悪いけど」


 せめても、と立ち上がり様に奪った伝票は、危うく御子柴に掠め取られるとこだった。先生、とやや恨めし気に見上げてくる大きな瞳が可愛い。と、思う間もなくヤキモチ妬きダンナに遮られた。


「モデルって…成人式の時みたく? 礼ちゃんもですか?」

「当然」

「えええー、ヤダなあ。先生、またヤラしい目で見るでしょう? 礼ちゃんのこと」

「……見ません。常に見てません」

「間があった今! 超不自然!」


 ぶくく、と漏れる笑いをこらえきれず背中が小刻みに揺れてしまう。こういうの、本気じゃないからからかえるんだよ? 神威。いや、御子柴のことは本当に可愛いし好きだと思うけど、それはもう芽生に対する情に近い。御子柴も、俺には父性を感じると言ってなかった?


「御子柴は甚平でも似合うかもな?」

「心くん…ちょっと、それは、酷い」


 あれ? “心くん”? いつの間に名前呼び? いつから名前呼び?


「昨日からだよ? センセ」


 肩越しにチラリと向けた視線によほど羨ましげな光でも宿っていたか。お前の透視能力にも感嘆するよ、吉居。


「“武瑠くん”なワケ? 吉居は」

「そ! 新鮮だよー、これがまた」

「じゃあ俺も“大和くん”って」

「あ、り、え、ま、せん っ!」


 神威の怒声を背に受け俺は満席の熱気を縫ってレジへ向かう。それぞれから向けられるご馳走様でした、の丁寧さにまた嬉しくなりながら、俺は春の陽気に目を細めた。

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