第7話

 90分の講義を苦痛に感じたのは初めてかもしれない、それほどまでに今日は、早く家へ帰りたい。いや帰りたい、というより、一秒でも早く礼ちゃんに逢いたい。キスは出来ないけど礼ちゃんをギュウギュウしたい。あのちっちゃな身体をこの腕の中に抱きしめてフワリと鼻をかすめる礼ちゃんの匂いにツルスベの肌に触れてほっこりしたい。痛いよ神威くん、って小さな声で抗議を受けるまで手加減できないだろうけど。

 欠乏症もいいとこ。ジェインのもうふ、って絵本の話を思い出し微苦笑が浮かぶ。でもそんな俺の礼ちゃんへの執着は、どこか狂気を孕んでいるような気もして、その対象である礼ちゃんが可哀想に思えて、ク、と眉間にシワが寄る。


 終業のベルと同時に俺は深く息を吐いた。スマホがフルフルと鳴動し、メッセージの受信を告げる。確認するとそれは瀬井くんからで、学食にいるからおいで、とのお誘い。

 昨日、サボった分のノートを借りなきゃ。

 気力が漲らない重い身体を奮い立たせるにはそれ以外ピタリとくる理由がない。勉強は、頑張ろうと思ってるから。俺はノロノロと教室を出た。


 学食へ向かいながら手持ち無沙汰で、スマホを操りながら経済学部のシラバスをぼんやり見つめた。礼ちゃんもあと1コマあるはず。終わったら一緒に駅まで行って、姉ちゃんを見送ることになっている。


(……心、上手くいったのかな…)


 俺達が大学に入って、物理的な距離が開いてからなんだろうな。地元も家族も友達も通い慣れた学校も店も、ましてや男子力向上委員会も、それまでほぼ毎日を共にしていた当たり前は、突然当たり前でなくなった。


 心は、後悔していたらしい。いつだったか“美琴は神威の姉ちゃんだ”と断言したこと。

 俺達やゆよトリオが全員二十歳になって初めて葛西先生とお酒を飲んだ時、そんな話がポロリとこぼれ落ちた。それにずっと気づけなかった武瑠と俺はビックリして、酔う、という初体験も手伝って心の大きな身体を両側から無様に抱きしめてごめんねごめんね分かってあげられなくて、と大声で泣くや叫ぶやの痴態を晒したんだった。

 いつもより何もかも緩んでた葛西先生だけが楽しそうに笑ってた。


 かと言ってその後、心が具体的な行動に出た様子は無かった。俺に気兼ねすることないよ、と伝えると、気にならないのか、と珍しく不安げな声が返ってきたし。



『…え? 俺、何を気にするべき?』

『…俺がひょっとすると義理の兄貴になるかもしれないだろ』

『ああ! いいねえ、それ。心とも“永遠”が手に入るんなら俺は嬉しい』


 私も嬉しい、と皿洗いをしていた礼ちゃんも言った。オレだけなんか寂しい、と皿を拭き上げていた武瑠が言った。


『大体姉ちゃんのさ、今までつき合ってきた彼氏ってのがさ』

『あれだよね、美琴ってダメンズ好きだよねえ』

『そう! 男の俺から見ても何というか頼りないでしょ大丈夫なの良い人かもしんないけど、っての選んできては』

『浮気されちゃうんだよねえ』


 姉ちゃんの彼氏遍歴を語る武瑠と俺を、心は苦笑しながら見つめていた。いっつも一緒にいたんだもん、心だって知ってる。

 昔から委員長だの生徒会長だのとリーダー職を任されてきた面倒見の良い姉ちゃんは、責任感が強い典型的熱血長女タイプで、だからか母性本能をくすぐるマダオ(=マルデダメ男)に弱いらしい。終いには彼女、じゃなくてお母さん、みたいな立ち位置になって、ご愁傷様、を繰り返し見てきた。


『だからさ、むしろ心が彼氏とか果ては旦那様とか、神威も安心じゃない?』

『いや本当に、家族としては幸せになって欲しいから! でも逆にあんなのでいいの? って訊きたいけど』


 そこまで言って、神威くん、と礼ちゃんに窘められた。はい、ごめんなさい。

 でも流石に姉バカじゃないしさほどのシスコンでもないので、姉ちゃんをストレートに褒める、ってのは抵抗あるんだよ? 誰にも“姉ちゃん”って存在がいないから分かんないだろうけど。


 俺とはまた顔立ちが違っていて、父ちゃん似の姉ちゃんは、可愛い可愛い良い子の美琴ちゃんとして常に俺の先にいた。小学校でも中学校でも高校でも、二歳年上の姉ちゃんを知っている先生は多くて“あの”山田美琴の弟か、と形容されることが多かった俺。成績も素行も良くついでに外面も良かった姉ちゃんと、無愛想で特に秀でた何かを持たない“顔だけ”みたいな俺は、比較されるたびに本当はちょっと沈んで。でも、嬉しかった。


 記憶は曖昧だけれどいつも背中を追いかけてた気がする、ねえちゃんねえちゃん、って。母ちゃんがいない間はたぶんいつもよりしつこく。そしていつもちゃんと、振り向いてくれてた。ありがたいことに、転んで擦りむいた膝を手当てしてくれる温かな手が、俺にはいつもあった。俺の身長がいつしか姉ちゃんを追い越しても、俺の体躯が姉ちゃんをすっぽり覆い隠せるほどになっても、二歳という歳の差を意識しなくなっても、やっぱり姉ちゃんはいつまでたっても姉ちゃんで、俺はいつまでたっても敵わない、という感覚を持ち続けている。


 終生敵わない姉ちゃんのお相手は、やっぱりそれなりに敵わないと納得できる人であって欲しいじゃん。それは俺の勝手な視点だけれど、姉ちゃんが家へ連れてくる彼氏を見るたびに頭を抱え込んでいた父ちゃんの憂鬱も、相手が心ならば冴え冴えと澄み渡るんじゃないかな。そんな風に考えると、俺は知らず笑みが浮かんだ。



 姉ちゃんが心に対して抱いてる感情に恋愛の色香が混じっているのかは分からない。悪意はないと断言できるけど、じゃあどんな種類の好意が寄せられてるんだろう、というのが詳細不明。

 想像したくない、というのとは違ってる。例えば…そう、俺達は両親がセックスした結果、受精卵としてこの世に誕生した訳だけど、その行為そのものを想像しがたい。脳の禁区? 家族だからこその触れちゃいけない領域みたいなとこにそれはある。姉ちゃんの恋愛沙汰も、そんな感じ。


『…神威、美琴を呼んでいいか?』

『…姉ちゃんを?』


 昨日、大河内さんと電話越しに会話した後、髪の毛をかき乱して抱え込んでいた頭を上げると、切なく揺れる心の瞳に捕らえられた。どうして心がそんな顔してるの。


『神威と御子柴を守りたいし救いたい、今の俺が出来得る限りの力で。それは俺の本心で微塵も疑って欲しくない』

『疑わないよ』


 でも、心。どうしてそんなに言いづらそうなの? いつもの切れ味鋭い口調はどこ行ったの? その理由を教えてよ。


『…美琴に、手伝わせて。非日常性を、演出して。…そう、この機に乗じて俺は』

『心』


 よく働かない頭で心の言葉のその裏を考えようとしていた俺に先んじて、優しく心の名前を呼んだのは武瑠だった。


『ねえ勿論、リスクも承知の上なんだよね?』


 リスク、と反芻したのは俺だけだった。心が姉ちゃんと、そのどこにリスクがあるんだろう。俺の思考は一時的に礼ちゃんから離れ、未だ苦しそうに口を噤む心の胸中へ馳せられた。

 ああでも、ごめん。いつもならもう少し思い遣ってから答えを欲しがると思うのに。


『…勿論だ。だからその時は神威、お前に決めさせたりしないよ。俺が退く』

『ちょっと待って。俺だけワケ分かってない。リスクって何? 俺が退くって?』

『神威。美琴と心が、必ずしも上手くいくとは限らないでしょ? オレ達は、いつもみんなが一緒にいられる未来を描いてるけど』


 そうは、ならない未来もある、と。姉ちゃんか心かを選ばなくてはならない未来もあり得る、と、武瑠は言いたいのだろう。そうしてそれは間違っていないのだろう。


 美琴は分かりやすそうで分かりにくいからね。苦笑混じりにそうつけ加えた武瑠を俺はじっと見て、それから心を見た。

 嫌だ。俺達の前へ等しく広がる未来に誰が欠けるのも嫌だ。反射が俺にそう告げてくる。

 でも。でもさ。心にこんな顔させてるままなのは、もっと嫌だ。


『…怖いよね』

『…神威?』


 俺の名前を呼んでくれたのは武瑠だったのか心だったのか。いつも、心細くなりそうな時に俺は名前を呼ばれると、神様の力をほんの少し分けてもらえるような気がしている。


『何かが変わりそうな、そんな時の一歩目は。…怖いよね』


 この機に乗じて、なんて心がそんな風に自身を悪し様に言う必要はない。ねえ、ヒーローに、なりたいんだよね? 心。俺は、今この時点で最大限の笑みを浮かべた。引きつってたら、ごめん。でもほら、笑ってるときっと良いことあるよ。武瑠は分かってるといいたげに俺の表情をチラ見して、心を温かく見遣る。


『変身ベルトの用意は出来てるの? 心。俺は、バッドエンドは要らないよ。勝手に退かれても許可しないから』

『一筋縄じゃいかなさそうなヒロインだけどねえ』

『だよねえ。だけど、良いヤツなんですよ、うちの姉ちゃん』


 知ってるよ、そんなの。

 武瑠の声に乗って心の低く穏やかな声も同じく俺の耳へ届いた。でも、俺だって知ってるんだ。


 自分のことに置き換えて。明るい未来しか描かないように。それしか要らないって強く願って明日、行動出来るように。俺のことも一緒に奮い立たせようとしてくれてるんだよね。そんな分かりづらい優しさが、俺の擦れた唇を撫でてくれるようだった。



 ***



「山田くん、こっち」


 学食の入り口に立った途端、瀬井くんの明るい声が俺を呼んだ。窓際の温かな陽射しが瀬井くんの童顔を照らしている。


「ごめんね、遅くなって」

「大丈夫、そんな待ってないよ。これ昨日の授業のコピーね、大講堂だったから代返しといた。特に課題は出てないから」


 ありがとう、と言いながら席に着く。A4用紙を広げると瀬井くんを表すかのような可愛い文字と図形が几帳面に埋まっていた。


「代返、バレなかった?」

「大丈夫、声落として無愛想ぶっきらぼうを心がけたから」

「…うん。改めてそう形容されるとちょっぴり傷つく複雑な男心だねえ」


 お昼食べた? と問うとまだだと答える瀬井くんに、お礼に奢るよ、と笑顔を向け食券売り場へ向かう。


「…山田くんさ、そんだけ無愛想ぶっきらぼうだから。仮面引き剥がしてめちゃくちゃにしてやりたい、って肉食女子に狙われちゃうのかもね」


 逆に、と。A定食が乗ったトレイをテーブルへ置きながら瀬井くんはポソリと呟いた。俺はただ苦笑を返すばかりだった。


「昨日は…、ごめんね? 迷惑かけて」

「どうして山田くんはそうかなあ。人のことばっかり」


 怒ったようなため息混じりだけれど、瀬井くんの声音は至って明るい。瀬井くんとは1年の頃からよく同じ講義で顔を合わせていて、今も同じグループ。恐らくは卒業制作まで共に頑張ることになる数少ない気の合う仲間だ。


「そこ…それ。大丈夫?」


 そこ、と自身の唇を指し、それ、と痛そうに顔をしかめた。大丈夫だよありがとう、と応えるとクシャリと顔中に広がる瀬井くんの笑み。俺はポケットから可愛いパッケージのノルディックワセリンを取り出し、瀬井くんへかざして見せた。


 礼ちゃんご愛用の品だ。さっき、別れ際。塗ってね、と差し出された。任されたことが何となく寂しかった。いや、俺が何かを期待する資格なんてどこにも無いんだけど。でも、礼ちゃんはやっぱり優しくて。


『学校、だからよ?』

『…どういう意味?』

『ここがお家だったら私が塗ってあげたいとこよ? ラップでパックしてその上からキスだって、直接、じゃないから大河内さんも許してくれるわよ』


 そう言って、にーっこり笑って、渋っていた俺の手を取り一本一本の指を開き、掌へ乗せてくれる柔らかな仕草。どうしようもないくらいに胸が痛かった。

 ごめんね、礼ちゃん。大好きだ、礼ちゃん。


「…奥さん…ミコちゃん、も。大丈夫だった?」


 A定食へなかなか手を着けず右手で小さなワセリンの缶を弄んでいる俺を気遣うように、瀬井くんの声が穏やかに問う。瀬井くんだって、人のことばっかりじゃん。


 教室外の工房で作業をしていたから瀬井くん達にも見えていた。

 礼ちゃんの驚いた顔。走り去る姿。追いかける武瑠。俺を制する心。

 スローモーションのようにそれこそ一コマずつ鮮明に蘇っていたたまれない。


「…なんとか、大丈夫。昨日は、流石に家へ帰ってきてくれなかったけど」

「えっ?!」

「あ、でも今朝、迎えに行ったから。仲直りしたよ」


 もう一度 ありがとう、と言うとあああ良かったね、と心底安堵したような声が返ってきた。それからふと表情を真剣な色へ変えて声をひそめる。


「…昨日、足立くんに相談したんだけど」

「…何を?」


 足立くん、とは俺達四人グループの最後のメンバー。センスの好さが垣間見える、でも決してひけらかさない寡黙な好青年。


「ほら、立川先生さ。グループ決める時、異性ならではの視点云々って話、してたよね? で、結局 強引に柳井がうちのメンバーになったわけだけど」

「…うん、そうだったね」


 俺達の学部は元々女子学生の数が少なめで、そのせいかやたらド派手な柳井は1年生の頃から浮いていたし悪目立ちしていた。手がける作風も斬新な色使いやテーマで、傾向の重なりは見出せず同じグループになった時は人知れず大きなため息を吐いたんだ。


 向けられたまま据え置かれ絡め捕られるような視線の回数が重なれば重なるほど、思い当たる感情に目を瞑りたかった。見て見ぬふりをし続ければいつか他へ目を遣ってくれるのではないかと。今回の件は対処を面倒くさがった俺の自業自得だと分かってる。ああ、なんかもう一度大河内さんへ謝りたくなってきた。

 ちょっと逸れた俺の思考を遮るように、瀬井くんの柔らかな声が耳に入ってきた。


「…僕さ、自分の内側にあると思うんだよね? 異性、じゃないけど…その、男性的じゃない視点、というか。…ゲイだし?」

「瀬井くん、そんな言い方―—」

「立川先生へメンバー変えてもらえないか頼んでみたいんだ、僕達も辟易してる、あの柳井の行動には」


 ルールを無視してるよ。

 すっかりA定食を食べ終わった瀬井くんは、そう言ってまた深いため息と共に箸を置いた。俺は未だに何一つ手を着けられずにいる。


「瀬井くんの気持ちは嬉しいけど。そんな言い方しないでよ、そこは嬉しくない」

「わ。足立くんが言った通りだ」


 瀬井くんから己の性志向をカミングアウトされた時に微塵も驚かなかったと言ったら嘘になるけれど、不思議と嫌悪感はなかった。ああそうなんだね、と。大河内さんのBLマンガでしか知らなかった世界の実在をすんなり受け容れることが出来た。

 だって真面目で勉強家だし、こまめに気がつく良い子なんだよ、瀬井くん。それでもやっぱりマイノリティに属するからか、ノンケには手を出さないよ安心して、なんて卑下した物言いをする時がある。

 怒るけどね、普通に。友達なのに、そんな言い方って、ないと思うから。


「…自分で自分を傷つけるような言い方するのは、駄目だよ。俺、友達にそんな言い方させるくらい不甲斐ないんだな、って。また落ち込んじゃうよ?」


 言いながら俺は箸を手に取り、ご飯茶碗を持ち上げる。瀬井くんへ薄く笑いを向けると俯き加減の苦笑が返ってきた。すっかり冷めてしまった唐揚げを口にしながら、考えがあると言っていた心の頼もしい姿を俺は思い出していた。


「心にね、何か考えがあるらしくって。お前は普通にしてろ、って言われてるんだ」

「…そう。弓削くんが…」


 それは頼もしいね、との言葉に即座に頷く。情けないけどね? と自嘲気味にうっすら笑いを浮かべると、瀬井くんの幼い顔がムッとしたものに変わった。感情に素直な瀬井くんはどこか、心の双子の弟たちリーとガクに似てるんだよね。憎めない。


「そうじゃないでしょ。山田くんの盲目的な愛はみんな知ってる。横入りする柳井が駄目でしょ」

「ぶ。そんなプンスカしないで」

「僕も何かお役に立てるといいんだけど」


 そういう気持ちが嬉しい、と感謝の意を述べると瀬井くんは一気にハニカミ王子と化した。いや、あの、と何やらごにょごにょ言っている。


「…他の誰とも関わらないで。礼ちゃんと二人だけで生きていけたらこんなヘンテコなため息吐くことないのかなあ、って。…昨夜、考えたりしたんだけど」


 残りのA定食をなんとかかき込んで一息ついた俺は、瀬井くんが持って来てくれた熱いお茶を受け取りながらポソリと呟いた。そうだね、とも、そうなの? とも口にしない、瀬井くんは黙って俺の言葉に頷いている。


「…でも、こんなことが起きたから出逢えた人とか、気づけた優しさとか、動き出した感情とか。…あるんだよねえ」


 山田くん、詩人。小さめの湯飲みの温もりを両の掌で包み込みながら瀬井くんが笑う。



 礼ちゃんともしもこの世に二人きりなら、礼ちゃんが傍にいない時間、俺は本当に独りぼっちだ。俺が創り出したい空間に、礼ちゃんのカフェに、そんな虚無感の欠片すら要らないのに、でもどこか閉塞的な思考を捨てきれずにいる。自分自身の内なる矛盾に気づくたびに溢れる苦々しい気持ちは、俺を残りの昼休み中、ボンヤリさせた。



 3コマ目は環境デザイン史、立川先生の講義。普通にしてろ、という心の指示に従いたいものの、何が普通なんだか分からないな、と眉をひそめてしまう俺の動きはきっとぎこちない。


「…山田くん。僕の後ろに隠れられるワケないでしょ」

「…あ。何だろうねえ、心理的な作用が」

「どんだけ身長差あると思ってんの? 失礼しちゃうよ」


 ごめん、と笑いながら瀬井くんと共にゼミ室へ入る。さほど広くない室内に柳井の姿はない。…知らず息が漏れた。安堵の、ね。ああもうほら、いちいち普通じゃないじゃん。グルリと見回した俺の顔を追うような幾つかの視線に気づいて、漏れた息をすぐ呑んじゃったけど。


「…あ。あー…え、っと。何か?」

「山田くん…、立川先生が捜してた。話があるから授業の前に教官室へ来て、って」

「…話?」


 昨日の、あの忌まわしい場面に立川先生はいなかったはず。いやいなかったからこそ、柳井は授業中なのに大きな声で喋るわ近寄ってくるわ…。また思い出してしまいそうな感触に嫌悪感を覚え、俺は小さく身震いをする。


「…山田くん? 僕も一緒に行くよ」

「…や、大丈夫だよ」

「僕も用事あるからさ、立川先生に。ああ、大丈夫。ゲイ話はしない」


 用事、だなんてそれ、瀬井くんの用事じゃないでしょ。絶対、俺絡みでしょ。本当に、俺の周りにいる人達って何だってこうも優しいんだろ。


「…じゃあ、行こうか」


 行こ行こ、とちょこまか俺の後を追ってくる瀬井くんが仔犬に見える。今度は礼ちゃんの実家で礼ちゃんの帰りを今かと待っているカムイを思い出してまたも笑みがこぼれた。



 僕ね、と廊下を歩きながら切り出した瀬井くんの声音は、明日の天気の話でもするように変わらず穏やかだった。視線を下ろすと真っ直ぐ前を見つめて 本当に憧れなんだよ、と続ける横顔。うん、山田くんとミコちゃんには憧れる、と。過去にも言われたことがあったな。照れくさくて確か、その理由は深追いしなかった。


「男同士で、永遠とか未来とかって。まず、考えにくくって」

「…あ。あー、っと。結婚…は、どこででもは出来ないよね確か。日本では」

「そう。どうしても戸籍に繋がりを保たせたいなら養子縁組するか…、でもそれってちょっと、苦肉の策? でしょ。当たり前じゃなくて」


 うーん、と考え込むにつれ歩幅は狭まり足の動きも鈍くなる。それでもどうしてもそうしたいと思う人もいるだろうな。現にあるわけだし、方法として。

 その深意へ想いを馳せようとした俺の思考を先読みしたように、家族にはなれるからね、と瀬井くんは何でもないことのように言う。その物言いが悲しかった。


(……家族、か)


 あの佳き日。

 市役所の戸籍係のお兄さんへ提出した一枚の届。

 特に不備もなかったから『はい受理しました、おめでとうございます』とあまりに呆気なく、礼ちゃんと俺は家族になった。

 数人の職員さんが仕事の手を止め拍手をしてくれて、仕事の途中だろうに抜け出してきてくれたのか父ちゃんと母ちゃんの姿も遠くに見とめて。

 そうしてこれが肩透かしか、って体感した。礼ちゃんの絶対を、未来を、全部もらったのに。


 慢心しちゃ駄目だ、ってずっと自分を鼓舞してる。安心に浸りきるのとも違う。かと言って気負いすぎても悲壮感が募る。俺達の幸せは、愛しい人が傍にいてくれる感謝と、会話と、笑顔と、思いやりと気遣いと、そんな当たり前を忘れずに積み重ねていくことで、ずっと未来へと繋がっていくんだ。そう、みんなが、教えてくれた。


「…瀬井くん? 家族、になれた後のが大切だと思うよ」

「…うん。そういうのも、山田くんとミコちゃんに教えてもらった」


 瞬間、言葉を失くした。そんな話、したことあったっけ?


「自分の性癖に気づいてからずっと。諸々諦めてたんだよ、こと恋愛に関して」


 いや、人生かな。

 明るい声音が紡ぐ言葉は寂しい響きで、俺はたまらず立ち止まってしまう。

 俺は、その。ゲイではないから。瀬井くんの奥深くに居座り続けてる切ない心情は、正確には分からない。いろんな苦い経験が導き出した傷つかないための結論かもしれない。


「…でも…瀬井くん。そんな前提は、寂しいよ」

「…うん。知ってる」

「…それまでの自分が変わっちゃう出逢い、って。あると、思う…いや! あるよ!」


 思わず廊下の端で大きな声を上げていた。はたと気づいた瞬間、どこかへ急ぐ見知らぬ誰かから怪訝な顔で見据えられる。知ってる、と噴き出す瀬井くんの姿が先へと進んで、俺は慌てて追いかけ始めた。


「そう。山田くん達と出逢って、今の僕は、それを知ってるんだ」


 だから、お役に立ちたい。


 瀬井くんの“だから”は、接続詞としてどこに結びつくのか分からなかったけど、それでもこそばゆくてムズムズとどこか嬉しくて、意味のない咳払いをした俺は教官室のドアをノックした。




「…なんか、僕って空回りしてない?」

「してないしてない。ありがとう、瀬井くん」


 失礼しました、とお辞儀とともに教官室のドアを閉めた途端、瀬井君は肩をがっくり落としてため息と共にネガティブな言葉を吐いた。ネガティブ、似合わないのにな、瀬井くん。




 立川先生は部屋へ入った俺の顔を見るなり 制作グループの件だけど、と切り出した。俺の身体の陰に隠れていた瀬井くんの姿を認めるとその先を言い淀んだけど。


『…瀬井くんも、同じグループだったね』


 山田くんと柳井さんと。そう続けられた、いくぶん躊躇いがちな言葉から立川先生は心と話をしたのだろうと察せられた。


『あながち他人ごとではない…、瀬井くんも一緒にいいのかな』


 後半部分は俺へ了解を求めるもの。諾、の意を頷いて返すと柳井をグループから外す、とあっさり告げられる。思わずホッと安堵の息が漏れ、慌てて口元を押さえた。


『…申し訳なかったよ。山田くんの知人…弓削くん、だったか。彼から事情は聴いた。…昨日の授業の一件も』


 本当に既婚者だと思わなかったんだ、と立川先生は椅子に座ったまま瀬井くんと俺を見上げ、もう一度申し訳なさそうにすまなかった、と重ねた。



 心は一体、何をどんな風に語ってくれたんだろう。今の俺の心底の願いをスルリと叶えてくれた心は、やっぱりピンチの時に颯爽と現れる相当格好良いヒーローに思えて、些末な事象にもがく俺が相当格好悪いモブに思えてならない。登場して3分以内で特にセリフも無く死んじゃいそう、俺。


『あー良かったです! 先生。先生のご存じないところで大抵目に余る行動が多すぎたので。僕、今日はグループのメンバー変えて欲しい、って言いに来たんでした』


 さっきまで廊下で訥々と紡がれていた暗めの声音は一気に明るくなって、瀬井くんは第三者の声をまるで代表者のように的確に伝えてくれた。ありがとう、と心の中で深々頭を下げる。


『うん…非常識な振る舞いがあったみたいだね。僕はそういう目配りや気配りが苦手で…、』


 何かを続けたそうだった立川先生の声は、でもそれ以上は噤まれたままだった。年代物の机に積み上げられた書籍の向こう、ほんの少し開け放たれた窓から入る緑の風がふいと頬をかすめていく。


『…できれば穏便に。訴えなどは起こさないでもらえるとありがたい』

『あ、はいそれは…そんなつもりはありません』


 言いながら、ああでもそれを交渉のネタに使ったのかな心は、と思う。穏便、とはどこか遠く離れた場所で暮らしているんだろうか、礼ちゃんと俺は。普通の幸せを叶えるのが実は一番難しいのじゃないかと薄々気づいてはいるけれど、それでもちょっと言いようのない寂しさを感じ表情を定めるのに困った。


 不意に、訪れるんだ。今みたいな瞬間。

 礼ちゃんを好きだと、その鮮やかで色褪せない想いを軸に広がりゆく未来をただただ描いて、色づけていくのが楽しみで仕方がなかった高校生の頃。彩られていくのは何も温かな想いばかりじゃない。寒色系の、思いがけない横やりが入ったりするんだよ。

 そういうのを知って、それが大人になっていくということなんだろうかと思う。大人になればもっと強く優しく礼ちゃんを守れると漠然と思っていたあの頃を無邪気とするなら、今の俺はきっと矛盾に悩まされ翻弄されて奔走して邪気にまみれている。


『それで、代わりのメンバーだけど』

『あ、それならご心配いりません。山田くんと足立くんと僕とで頑張ります。足立くんも了承済みです!』


 思考が逸れていた俺の耳に瀬井くんの明るく強い声が入って来た。

 え? 足立くんも了承済み? いつの間にそんな話?


『僕達、卒業制作で取り組みたいものも大体考えてたんですよ。柳井だけはどうにも方向性が違って困っていたので、丁度良いと言ったら語弊がありますが』

『ああ、そうだったのか。…ちなみにどんな?』

『アフォーダンス理論を利用したカフェ空間の設計を…、ビジネスの対話手法である“ワールドカフェ”を実現したい狙いもあります』


 立川先生は頷きながら確かにそれは柳井さんとは…、と口ごもっていた。柳井はもっと独創的なプロダクトデザインとかを手がけたがっていたから。


『瀬井くん…』


 黙って聴いていれば気恥ずかしくなった。だってさ、それ。俺だけの意見じゃん。瀬井くんと足立くんへ熱く熱く語っていた俺の、というか礼ちゃんのカフェ像を二人ともニコニコと聴いてくれてたんじゃん。それなのに瀬井くんは、黙ってて、とでも言いたげに俺をクリンとした茶色がかった瞳で制する。

 結局、そのまま瀬井くんは立川先生を押し切るように三人のグループで頑張りたいんです、と貫き通した。山田くんもそれでいいの、と先生から確認のように問われたけれど、俺のために鼻息荒く熱弁を振るう瀬井くんを見ていると、こみ上げてくる何かが鼻の奥の方をつついて、ただ頷くばかりだった。


 しかも、さもついでにのように追加した瀬井くんの言葉は来月のゼミ合宿に及んだ。正直、柳井のこともあって参加は見合わせようと思っていたんだ。参加して課題を仕上げればまるまる取れる単位を捨ててしまうのは惜しい気がするけれど、どちらかというとゼミメンバーの親睦を深める意味合いのほうが強いそれは、礼ちゃんへ余計な心配をかけてしまうかも、という想いと、何より自分自身 驚くほど乗り気じゃなかった。


 嫌悪感すら持ちたくなかった。それはもう、相手への関心に含まれる気がして。俺なりに示してきた拒絶をまるで意に介さない柳井を、同じ言葉が通じない生き物なんだと思いこもうとした。そんな失礼な観念を持つことも嫌で、持たされてる自分も嫌で、持たされてると柳井のせいにしたい自分も嫌で。四月からこっち、黒い感情に飲み込まれてしまいそうだった。


 ありがとう、瀬井くん。俺、何もお返し出来ないけどせめてグループワークは二人分頑張るよ。こんな決断をさせてしまったこと、俺に起きたことなのに巻き込まれてしまったこと、後悔させないようにしていくからね。


『山田くんの奥さんも参加しちゃ駄目ですか?』


 そんな瀬井くんの言葉にびっくりした。 礼ちゃんは完璧 部外者なのに。


『僕達がゼミで取り組もうと思ってた課題って、山田くんの奥さんの意見なしじゃ上手くいきそうにないんです』

『…いや。流石にそれは…。事前に細かくヒアリングしておいてもらえれば』


 消極的な立川先生の返答がむしろ正当なのだと思った。自分のゼミの受講者でもない学生の同行なんて許されないだろう。責任者である立川先生へそこまで気苦労をかけたくないし、礼ちゃんだって気まずいはず。


 それでも。この場合の“先生”が葛西先生だったら、なんて失礼なことを考えてしまう自分は感じてる以上に弱っているのかもしれないと苦笑が浮かんだ。そんな置き換え、詮無いことなのに。


『瀬井くん? それは…うん。大丈夫、そこは』


 しどろもどろな単語しか口に出せなかった俺はよほど困った顔をしていたのかもしれない。敏い瀬井くんの表情が瞬時に曇って、俺はそれだけでもう申し訳ない気持ちでいっぱいになった。瀬井くんがここまで突っ込んだ話をしてくれる必要性なんて本当はこれっぽっちもないんだ。そうさせてるのは俺だというのに。


『ごめんね? ありがとう。助かった』


 俺は瀬井くんの背をちょっとだけつつき、ゼミ室へ戻ろうと促した。見れば立川先生も、何やら言いかけていたけれど机上のテキストを手に じゃあ、と話を切り上げる。三人とも視線をどこに定めていいのか迷ってしまった。


『…山田くん』

『?…はい』


 立川先生は俺達へ背を向け古びた窓をカタカタと閉め始めた。表情が分からなくて返事の仕様に困る。


『…誰かが、君のために動いてくれたり。何かに働きかけてくれるというのは。…素晴らしいことだね、財産だよ』

『はい。本当にそう思います』


 瀬井くんや心のことを言われているのだと、俺は嬉しくて知らず笑みが浮かぶ。こちらを向いた先生は、ほんの少しどこかが痛そうに眉間に皺を寄せ、手にしたテキストをトン、と机に立てた。


『作品にも、ひいては活かされると思うよ。…君達が手がけるカフェが楽しみだな』


 はい、と素直に返事が出来た。立川先生とこんなに話をしたのは初めてだ。どこか寂しげな瞳の色が気になりながらも、俺達は教官室を後にした。




 空回りだった、と嘆く瀬井くんをやんわり否定し感謝の言葉を伝える。それを何度か繰り返しながら廊下を急ぎゼミ室へたどり着いた。瀬井くんの背中を押し室内の空いた席へ滑り込む。

 程なくしていつもと変わらぬ様子の立川先生が姿を見せ、遅くなって申し訳ない、と静かに講義が始まった。


 こうなっては瀬井くんと私語を交わすのも難しい。本当に足立くんも三人でやってくことに不本意じゃないか気になって仕方ないんだけど。講義が終わってからじゃないと確認の仕様がないな。

 切り替えるようにため息を小さく一つ。昨日からあちこち逸れて纏まらない思考を一旦停止し、俺はノートをとり始めた。


 時折、窓外へ目をやるとコの字型の学部棟に囲まれた中庭が見える。ベンチが据え置かれ、設けられた憩いの場の鮮やかな緑を楽しむことができた。校内が無機質なものとならないようにか、或いは遮光遮熱の意味があるのか。風に揺れる枝葉の動きが爽やかな音まで伝えてきてくれるようで、ふと憂いも曇りもない吐息が漏れた。


(…俺って現金だな…)


 昨日から、いや、四月に入ってからこっち、ずっと憂鬱だった柳井の件があっさり解決した途端、これだよ。俺を生かしてくれてる要素の美しさに改めて気づくなんてさ。…余裕、出ちゃって。昨日なんか礼ちゃんの気持ちを、俺の不甲斐なさを想うといてもたってもいられなくて、掌とか膝とか足のつま先とかフローリングの床とか。狭小な世界にしか目が向かなかったっていうのに。


 温かな陽射しへ空へ、向けて手を大きく広げ差し伸ばし揺るがずにそこにある木々を見ていると、ああ俺はあんな風に揺るぎなく凛としてありたいとつくづく思う。よそ見が過ぎたのか、瀬井くんからシャーペンの背でコツンと肘をつつかれた。案の定、と言うべきか、講義が終わってチラと覗き見た瀬井くんのノートは俺の倍以上 書き取られていた。ヤバイ。俺、超不真面目。気持ちがざわざわと落ち着かないのは勉強を頑張れない言い訳になりゃしないのに。


「…山田くん、上の空だったね。今日のノートもコピー要る?」

「…ほんっとスミマセン。お願いします」


 高くつくよ? なんてそれ瀬井くんの最大限イジワルな顔? 全然そう見えないんだけど。生協のコピー機へと並んで歩きながら俺は瀬井くんへ問う。


「…瀬井くんさ。今日の夜、空いてる? バイトとか予定とか入ってない?」

「…入ってないけど。どうしたの急に」

「コピーのお礼、も込みで。うち来てご飯食べない? 足立くんも呼んで…俺、足立くんとも話したいし」


 俺はあまり交友範囲が広くないと自認してるから、武瑠や心以外を誘うのは基本 苦手だ。断られた日にはやっぱり軽くへこむだろうし、よしんば乗ってくれたとして無理させてないか表情や声音から正確に読み取れる自信が無い。


 だけど。瀬井くんのこの表情は、声は。心底がストレートに表現してると迷いなく思えた。


「いいねえ! ミコちゃんのご飯、美味しいんでしょ? 決起大会みたいで、いいねそれ!」


 じゃあ早速、と言いながら瀬井くんはスマホを取り出し足立くんへ連絡を取ってくれる。

 決起大会、か。いいこと言うな、瀬井くん。三人で約二年間、卒業まで頑張るんだもんな。俺はコピー機横の投入口へ十円玉をチャリンと入れ、瀬井くんから借りたノートをA4サイズへコピーしていく。


「足立くん、大丈夫だって! 何時集合にする?」


 スマホの送話口を手で覆った瀬井くんが明るい顔をこちらへ向ける。


「7時にうち…、場所分かるかな?」

「住所教えて良い? ナビって来るでしょ」


 何だか、何となく、楽しくなりそうだ。俺は知らず口元へ笑みを浮かべていた。

 っとヤバイ。礼ちゃんへ連絡しとかなくちゃ。武瑠と心はバイトだけど、これからちょくちょく顔を合わせるであろう俺のグループメンバーをご招待するから、いつもの通りご飯は5合お願いします、って。




 4コマ目がある瀬井くんと別れ、俺は駅までの道を急いだ。一日24時間で考えるとほんの少し離れていただけなのに、不安が払拭された俺の胸の内は、安堵感が大きすぎて礼ちゃんを求めてやまない。や、格好良く言ってみたけど、要はギュウギュウしたいだけ。いつまでたってもガキっぽい表現方法だと思うけど、触れて確かめて伝えて伝わってくることって、たくさんあるんだよね。

 ちょっと、大人になったとこと言えば、より隙間なくギュウギュウできるというか、肌と肌が…、


「…神威くん? 走ってきたの?」

「礼ちゃんっ…、」

「顔 紅いよ? 大丈夫?」


 まさか疚しいことを考えてました、なんて素直に白状する訳にもいかず、俺は曖昧な笑いを浮かべてコクコクと頷いた。うん、頬に異様な熱。呼吸を落ち着かせるフリをしながら、大きく深呼吸を繰り返した。


「心と姉ちゃんは?」

「お土産買いに行ってる…、吉居くんも一緒に荷物持ち」

「え。武瑠、お邪魔虫じゃない?」


 礼ちゃんはふふ、と小さく微笑んで肩を竦める。一陣の風が礼ちゃんの柔らかな髪の毛もスカートの裾も揺らし通り過ぎて行った。こんな人混みで時々錯覚に陥るんだけど、行き交う人がみんな、礼ちゃんの愛らしさに気づいて振り向いて攫われちゃうんじゃないか、って。だからそんな無防備に笑わないで、って、お叱りを受けそうな邪な考えに染まりそうになるんだ。


「…あのね。いつもと変わらない雰囲気だったの、お姉さんも弓削くんも」

「…いつもと? …糖度ゼロ?」


 うーん、そうね。眉尻を下げながら小首を傾げる礼ちゃんの様に思考がズレそうになる。いかんいかん、今は心と姉ちゃんのこと。

 観察力が足りないのかなあ。細い指をシャープな顎に当ててちょこっと唇を突き出した仕草に負けて礼ちゃんの手をむんずと掴んだ俺は、やっぱり相当 渇いてるんだと思った。


「照れてる、とかじゃないのかな」


 口に出して言ってはみたけれど。…ない、かな。それは、うん。姉ちゃんが、心が、照れて平常を装う、とか。…いや、あるのかな。あの二人ならとても上手に、そうとは気づかせないほどに、今まで通りを貫けるんだろうか。互いにも、周囲にも、変な気遣いは無用で。


「…それとも。姉ちゃん、恐ろしく鈍感だったのかな。こと、自分に関して」


 心の意識の奥底に潜んでいた自覚は、時間と距離を経て顕在化し動き出した。ただ、それを姉ちゃんと通わせる方法は俺みたいにむき出しの激情を真っ向勝負でぶつけるんじゃないんだろうな。もっとこう、何か、スマートな気がする。



 南口から駅構内へ入り、ますます大きくうねる人の波をかき分け、ズラリと連なる銘菓店の一画へ足を運ぶ。ふと見下ろせば礼ちゃんは未だ思案中の様子で、俺ばかりが一方的に喋っていた。繋いだ手を軽く揺らし、礼ちゃん? と呼びかける。長い睫毛が幾度か瞬いて、見上げる双眸にまた胸がキュウ、とくる。


「…私は、ほら。ボンヤリしてるから…神威くんみたく、ストレートに表現してもらえて嬉しかったし分かりやすかったけれど」

「妹尾さんという超難関を越えられたからねえ、何とか」


 おどけた口調で肩を竦める俺に礼ちゃんは柔らかく笑みをこぼす。知らない誰かとすれ違うそのたびに、もう二度と出逢うことはないかもしれないその人が礼ちゃんじゃなくて良かったと神様に感謝したくなるんだ。


「…私達が変に口出しすべきじゃないと理解してても、大人しく傍観出来ないことって、あるのよね」


 大切な人、なだけにね。

 礼ちゃんの声はどんな雑踏の中でもどんな小さな呟きでもちゃんと聴こえてるよ。俺はコクコクと髪の毛を揺らした。


「…吉居くんも、弓削くんも。男子力向上委員会、だったっけ?」


 礼ちゃんの大きな瞳がちょっと遠くを見つめるように弧を描く。何かを懐かしみ思い出しているような横顔をほんの少し幼く感じる。最近の礼ちゃんはめっきり大人っぽく見えて、可愛いという表現より綺麗という表現がピッタリきてたけど。あの頃の空気を不意打ちで纏ってくれると、それはそれで気持ちが俺達の始まりの頃に戻って、妙にザワザワと浮き足立ちそうになるんだよね。


「そうだよ、男子力向上委員会。ちなみに姉ちゃんが委員長。不甲斐ない俺の恋の行方を応援してくれました」

「…ね。応援してくれた人達がいてくれたからこそ、神威くんと私は今 ここにこうして一緒にいられるんだわ」


 勿論、と息を継ぎ、礼ちゃんは目の前を急に横切ったちっちゃな男の子を避けた。あどけない「ごめんなさい」の声に大丈夫だよ、と笑顔で応えて。避けるために俺の方へ自然と距離を詰め身体を預けてくれたことにたまらなく安堵を覚える。

 ああもう。ここなんで駅なんだろう。


 大切な人は他にもいるし、一緒にいられる理由は他にもあるけど、続いた礼ちゃんの言葉に我に返った。


「でも、難しいよね。自分がしてもらった嬉しいこと以上の何かを、してくれた人達へ返したい、と思っても何を、どうしたらピタッと当てはまるんだろう」


 武瑠へも、心へも…まあ、姉ちゃんへも、いつもいつでも、何かをお返ししたいと思ってる。ただ具体的な行動が、俺の独りよがりじゃないかな、とか。本当に相手を思い遣ってのそれなのか、とか。正解を教えてくれる人がいなくて、誰かに正解を求めたくなって。葛西先生に逢いたくなって。

 俺って成長出来てないな、って省みる、その無限ループに陥ってたりする。


「そういう欠けてるピースを探すような作業って途方に暮れちゃうけど、でも、神威くんなら」


 ハズレなさそう。そう言って礼ちゃんは左手の薬指に光る銀色の輪を見つめ微笑んだ。


「…あ」

「え?」


 姉ちゃん達との待ち合わせ場所、中央改札口。時刻表や広告が掲げてある大きな柱の前で俺は礼ちゃんの左手を取った。自ずと両の手を繋いだまま、向かい合って、ちょっとフォークダンスっぽいけど。不思議顔の礼ちゃんに見上げられて俺はキュッと眉根を寄せた。


「……ごめんね? 礼ちゃん。俺、全然気づいてなくて」


 言いながら右手の親指で礼ちゃんのリングをそっと撫でる。

 ああ、確かに。礼ちゃんの白い肌の上を少しも引っかかることなくスルリとそれは回転して、もう一度、俺はごめんね、と告げた。礼ちゃんの目線もユルユル動く指輪へ据え置かれていて、敏い礼ちゃんには俺の ごめんね、の真意がきちんと伝わったらしい。途端に眉を柔らかくハの字に下げ、礼ちゃんは困った表情を浮かべた。


「…誰が…ユノちゃん、か。吉居くんか弓削くんか」


 言わないでね、って約束したはずなのにな。そんな気落ちした呟きは駅構内のアナウンスがかき消そうとする。


「うん、もうそこは追及しないで? 気づけなかった俺が俺を赦せない」

「神威くん…、そんな風に言わないで?」


 礼ちゃんの頬をくしゃっと歪ませる困惑がますます濃くなっていく。礼ちゃんの俺への評価は多分に過大で、だからか俺の卑下した物言いは即座に否定されがち。…でもね。


「…ねえ、俺はね。自覚してる、どれだけ俺が礼ちゃんの世界を狭くしているか。だから気づかなきゃいけないんだよ、礼ちゃんのどんな小さな変化も」

「気づかなきゃいけない、って。そんな義務はないでしょう? 神威くん。自分で自分をがんじがらめにしないで?」


 向かい合わせに手を繋ぎ合った俺達は、傍から見ると本当に滑稽なバカップルだと思う。俺の手を弄ぶようにポンポンと掌の上で跳ね踊らせる礼ちゃんの仕草が可愛くて微苦笑が自然と浮かんだ。


「…礼ちゃんと始まった時の気持ちを、忘れたくないんだ。ちゃんと、戒めていかないと…俺は馬鹿だし不甲斐ないから、きっとすぐ易きに甘んじる」

「…修行僧みたいよ?」

「ただのドMだわよ、ミコちゃん」


 ここで登場するかぁ、姉ちゃん。何かもう、忌々しいほどのドヤ顔で場の空気 全部持って行ったね? ほら、三人とも奇妙な表情で笑ったものか神妙な流れをキープしたものか迷ってんじゃん。


「縛るのも縛られるのも好きなんて。私の弟はそんなに変態だったのか」

「……姉ちゃん」

「何よ?」

「……特に、お変わりなく?」

「何 言ってんのよ、あんた。お変わりあるわよー、お母さん達に何て報告しようか胸痛めてるっつーの」


 ごめん、と殊勝な表情に切り替えつつも、いやそういうことじゃなくてさ、と言いそうになって、止めた。姉ちゃんの向こう側にそびえ立つ心が苦笑いを浮かべ、何とも言い難い雰囲気を纏っていたから。

 気まずい事態にはなっていない。けれど、驚くほどの前進と変化は…起こらなかった、感じ?


「…神威さ」


 姉ちゃんは両手に提げたお土産の紙袋をよいしょ、と持ち直し、ショルダーバッグから切符を取り出すと電光掲示板で4番ホーム、と確認した。目線を逸らしたまま、姉ちゃんのほんの少し低い声は続いていく。


「私も人のことは言えないけどさ。成人してても私達、扶養されてる身で完全に自立してる訳じゃないからさ」


 あんまり心配かけんじゃないわよ。

 誰にか、ってのはこの場合、具体的に示されなくてもちゃんと分かった。昨日、礼ちゃんのレシピメールが無かったというだけで母ちゃんは随分とやきもきしていたらしいから。

 いっちょ前に世帯主なのに、俺。戸籍の筆頭者でもあるのに。何というか、実が伴ってない薄っぺらな自分を再認識させられた気分でヘコむ。姉ちゃんの簡潔で的確な言葉はいつだって胸に刻まれるんだ。


「…うん。本当に、ごめんなさい」

「美琴お姉さん、本当にすみませんでした。私が昨日、お義母さんへちゃんとメールすれば良かったのに」


 礼ちゃんは片方だけ、右の指先何本かで未だ俺と繋がってくれていてキュッと力を籠めながらそんなお詫びの言葉を姉ちゃんへ伝えた。そうやって、スルリと俺のヘコんだところを撫でて戻そうとしてくれる。礼ちゃんは、全く悪くないのに。こんな押しつけがましくない礼ちゃんの優しさに触れるたび、嬉しいやら情けないやらなんだよね。


「相変わらず甘やかすわねえ、ミコちゃん。だからこんな図体ばっかデカい甲斐性なしが出来上がるのよ」

「私も甘やかしてもらってますよ?」


 ハイご馳走様、と首を竦め笑いながら姉ちゃんは切符を改札機へ通し、寸分の躊躇いもなく後ろ手でバイバイと手を振った。

 あれ?  え、っと。心と、離れがたい雰囲気とか、は。


「あんた達、週末は帰ってくるんでしょ?」


 改札機の向こう側で振り向きざま、姉ちゃんは何てこと無い会話のついで、みたいに確認する。みんなしてコクコク頷くと、そ、と素気ない返事。

 ああ、でも。ね、礼ちゃんも武瑠も気づいてる? 姉ちゃんの目線。その先に佇む人物。


「…美琴って。やっぱ分かりやすいんだか分かりにくいんだか」

「…複雑な乙女心、でしょうか?」

「ミコちゃんにそれ訊かれてもオレ分かんない」


 今から果たし合いに出向くような毅然とした様で立つ心の目元は何となく熱を持っているように見えて。もう振り向きもせずホームへ続く階段を勇ましく上る姉ちゃんの背中は何となく笑っているように見えた。


 何事か話したそうな武瑠と何かしら物足りなさそうな心だったけれど、二人ともこれからアルバイトへ行かなければならない、と駅入口で解散することに。帰りは遅くなるらしい。


「明日さ、授業終わったらその日のうちに帰ろうよ!  オレ、口から何か出そう」

「あ、でも俺、明日はバイトあるよ?  礼ちゃんも…」

「最終には間に合うと思うけど。どうする?」


 礼ちゃんのどうする? はしばし物思いに耽ったままの心へ丁寧に投げかけられている。そんな憂いを湛えた思案げな表情も様になるなんて。複雑そうな心中を察すると申し訳ないけど、羨ましかったりするぞ、心。


「…ん。そうしよう。電車の中で話せるだろ…、いろいろ」


 いろいろ、がどこまで言及するのか。それは心と姉ちゃんのことだけじゃないのは明らかだ。最たるは、右京との面会の件。



 礼ちゃんはどうしたいのか、今どんな気持ちでいるのか。それはもはや礼ちゃんだけに係る話に留まらない。あの一件の被害者という意味では俺も、その酷な余波を少なからず受けた武瑠や心や姉ちゃんや俺達の家族も。面会を叶えようとずっと右京の親御さんへ働きかけてくれた葛西先生も。もうこれは、みんなの共有事案と言える。


 とは言っても、全員の意識を必ずしも一つに纏め上げなければならないとは思ってないんだ。俺がどれほど礼ちゃんを好きでも、礼ちゃんと俺の趣味志向は完全に合致しないし、だからこそ新たに掻き立てられる創造性もある。それは武瑠や心にも言えること。大切なのは、お互いが何をどう考えているか正しく理解しようと努めて、はなっから否定することなく歩み寄ろうとする気持ち。


 大丈夫。

 礼ちゃんと俺はもう三百日以上の休日を共に過ごしてきて、そのたびにしたいことも行きたい所も体調も抱えている課題も微妙に違っていたけど。それでも話し合って決めて、夜 寝る前には楽しかった、と心底言える過ごし方を重ねてきてる。


 事の重きは異なるだろう。でも大丈夫だ、って思える。ザワザワと総毛立ちそうな俺の弱さに言い聞かせてるんじゃない。信じるに足るだけの時間を共有してきてる。三年間、礼ちゃんも俺も、ただ漫然と“結婚してた”訳じゃない。


「じゃあミコちゃんも神威も、明日ね! バイト終わったらメールして」


 武瑠の明るい声に逸れていた思考が引き戻される。見れば心ともども、もう俺達へ背を向けかけていた。


「あ、うん、分かった。武瑠も心も、今日は本当にありがとう」


 何のこと? ととぼけた顔に笑みを浮かべる武瑠と、口の端を緩く引き上げ常と変わらず凛とした心と。二人共ほんの少し手を掲げただけなのに、それはもう見事に決まったバイバイになっている。


 何だろう。助けられてばかりだよな、俺。そう痛感するし、僅かな敗北感も胸に去来するけど。あんな格好良いのが二人も俺達の友達なんだよ、と。自慢したかったりも、するんだよね。


「…私は。神威くんも素敵だから、周りに集まる人も素敵なんだと思うわ」


 あれ。俺の胸の内はダダ漏れでしたか? 愛しの奥様。

 必殺技の上目遣いなんか繰り出されたら礼ちゃんが大好きなスイーツを買って帰らない訳にはいかないでしょ。俺は頬を緩ませながら礼ちゃんの小さな背中を押す。


「…礼さんや。それは身内の贔屓目ですよ」

「贔屓目じゃない、って今から分かるわ」


 瀬井くんとは面識のある礼ちゃんだけど、足立くんとは初のご対面だ。何 作ろう、と呟く礼ちゃんへカレー、とリクエストした。学食で何度か一緒になった時、足立くんが選んでたのは大抵カレーだった。礼ちゃんの超絶に美味いカレーを目の前にしてかぶりつかない健康男子はいないと思うし。

 不意に はい、と目の前に三本の指が差し出された。何? 三択なの? そんなニコニコ顔で背伸びまでしちゃってまた、可愛いったら。


「…これ、今度作り直すね」

「薬指? じゃあ、シーフード!」


 礼ちゃんの細い指へ俺のそれを絡ませ、どうか指輪が落っこちませんように、と願った。ちなみに他の二つの選択肢は? と訊くと、野菜とお肉だったんだって。


「ご飯、5合で足りるかなあ」

「瀬井くんはあんまり食べない子ちゃんだなあ。足立くんは分からないけど」

「遠慮されちゃったら寂しいから。副菜をボリュームあるものにしようかな」


 礼ちゃんと廻るスーパーすら、俺にとっては居心地が好い。カートに手をかけて海鮮コーナーで海老と睨めっこしている礼ちゃんの綺麗な横顔を見つめながら、俺達の日常を取り戻せたことに改めて安堵した。

 キス、は。一ヶ月、我慢なんだけど。そこは本当に、ため息なんだけど。



 ***



 ドアベルが鳴って玄関の戸を開けた先には瀬井くんの明るい笑顔があった。その隣にはちょっと表情が読み取りづらい足立くん。不機嫌ではなさそうだけれど、やっぱり突然のお招きは喜ばれなかったのかもしれない。


「…足立くん。今日は突然でごめんね?」

「いや。問題ない」


 奥さんのメシ美味いんだろ、と隣の瀬井くんへ目線を下ろし口角をほんの少し上げる。道々、二人はそんな話をしながら来たらしい、俺の背に隠れるように立っていた礼ちゃんがピクリと反応したのが分かった。


「あの、こんばんは瀬井くん…と、」


 はじめまして。

 礼ちゃんの綺麗な日本語が玄関に響く。スニーカーを脱ぎかけていた足立くんは動きを止め、今度ははっきり笑顔と分かる表情で どうも、と返した。並べていたスリッパはスルーして靴下のままリビングへ続く廊下へ立ってから、同じクラスの足立です、と頭を軽く下げ追加する。その飄々とした気負わない感じがいつもアウアウしてる俺からするととてもスマートに見えた。羨ましい、その持ち味。


「…噂通りの美人。というか可愛い」


 ボソッと囁かれた声は無意識のものなのか、俺へ聴かせようとしてくれた意図的な褒め言葉なのか。礼ちゃんを誰かに引き合わせる時、俺は情けないくらいに落ち着かなくなる。


「…攫っていかないでね? 俺、死ぬから」


 大袈裟な、と足立くんは薄く笑みを浮かべたけど、大袈裟じゃないんだよ、本当に俺、礼ちゃんの心が誰かに奪われてしまったら息すら上手く出来ないと思う。それまで当たり前にこなせてた何もかもを忘れてしまうと思うんだ。


「…仲良くなるのは、大丈夫なのか? 俺、今日はそのつもりで来たんだけど」


 足立くんの端的な言葉から何を言わんとしているか必死に探ろうとした。今ではもうすっかり薄くなった傷痕だけど、ジタバタと気持ちが落ち着かない時にはやっぱり少しだけ痒くなる。


「俺、好きか無関心か、しかない」

「…え、と」

「三人で頑張るんだよな? 山田くんの奥さんと仲良くできなきゃ俺、何も創れないと思って」

「…頑張って、くれる? 一緒に。これは、足立くんが望んだことじゃないのに結果的に…、」


 足立くんは切れ長の涼しげな目を眇めて俺を見た。何 言ってんだ、って一人勝手に怒られてるような気になる。


「…あのな。俺、あんま喋るの得意じゃない」


 うん。それは、知ってる。

 新学期が始まってからこっち、同じグループではあるけれど、打てば響くものの足立くんから積極果敢に話しかけられた覚えはない。柳井は置いといて、足立くんと俺の仲介と中和を瀬井くんが引き受けてくれてた感じ。


「語弊がないことを祈るけど。山田くんと瀬井と一緒なら、俺は上手くやれると思うよ」


 だから今日、来たんだし。足立くんは俺の背後へ目を遣りながら、俺が指し示した位置へ腰を下ろす。見上げくる表情は柔らかく笑んでいた。


「とりあえず、食わして。カレー、だよね?」


 それまで押し黙って足立くんと俺の会話に聴き入っていた瀬井くんは、弾かれたように身を震わすと、ミコちゃん手伝うよ! とキッチンへ向かった。




 美味っ、てたった二文字半で足立くんは礼ちゃんの笑顔を難なく引き出した。ワオ。足立くんてもしやかなり男子力高い? 女生徒が少ない学部なせいかラブラブイチャイチャしてる姿なんて見かけたことなかったけどこう…、寡黙な感じで実は、という。ツンデレ?


「これ何ですか? レンコン?」

「あ、はい。挽き肉を詰めて揚げて味付けしてるんですけど…、大丈夫でした?」

「…タメ口オッケー?」


 礼ちゃんの方を向いていた、と思っていた足立くんの顔は一瞬で俺へと向き直っていた。あ、俺が訊かれてる? 俺とは既にタメ口だから、礼ちゃんと話す時、ってことだよね? 律儀だなあ、気遣わせちゃってる。見れば礼ちゃんも口元を緩ませ小さく笑っていた。


「礼、って呼び捨て以外はご自由にどうぞ」

「あ、そういやなんで“ミコちゃん”?」

「旧姓が御子柴なの。昔から大抵ミコちゃんと呼ばれてて」

「じゃあなんで瀬井はミコちゃん?」


 瀬井くんはシーフードカレーに入った海老を美味しそうに口に入れたとこだった。ゆっくり味わって良いのに慌ててモグモグゴックンとするところに瀬井くんの人の好さを感じる。


「山田くんの友達の影響。吉居くんがそう呼んでて、なんか良いなあ、って」

「そっか。俺も良いのか? そう呼んでも?」


 呼んでも、と許可を求める視線の先に俺がいて、思わず苦笑いが浮かんだ。ヤキモチ妬きで独占欲の塊だと自認してるけれど、礼ちゃんがどう呼ばれるか、くらいで苛立ったりはしないはず。それでも、いちいち感じられる足立くんの真摯な態度にその心根の実直さを感じる。物言いは多少ぶっきらぼうだけど、ともすれば表情の受け止め方にたじろぐけど、この先のつき合いが楽しみだと素直に湧き上がってくる感情がある。


「…俺は“山田くん”なのに。ミコちゃん、なんだ?」


 わざとらしく残念そうにため息を吐きながら話の矛を足立くんへ向けると、大口を開けたまま口元へ運んだスプーンをピタリと止めた。


「…俺の名前、知ってんの? 山田、神威くん」

「勿論。直生くん」

「…ナオでいいよ」


 フ、と目元を緩めてスプーンにてんこ盛りになったカレーをまた美味しそうに食べるんだ。嘘のない仕草に見てるこっちまで顔が綻ぶ。


「と言うことで、ミコちゃん。本当にどれも美味いんだけど、俺のこと愛人にしてくれない?」

「いや! ちょい待ちいきなりどんな展開それ?!」

「神威が主人だろ? 俺、側室で我慢する、こんな美味いメシ食えるならたまのお通りでも我慢する」

「ワケが分かりませんよナオ! 礼ちゃんも勢いに負けて頷こうかしないで!」


 瀬井くんがすっかり平らげたお皿を前にいいなあ、なんて言ってる。いや、呼んでいいなら瀬井くんのことも友成、って呼んじゃうけどさ。

 ああ、なんか。良いね、こういうの。男同士でも名前で呼ぶのってお互いの距離を詰めてく一歩なんだよね。心や武瑠とは、どうだったんだろう。もうはっきりと思い出せないほどの時間が経ってしまったけれど。

 今から始まっていく新しいトリオもずっと続いていくことを願った。




 礼ちゃんが描くカフェのイメージやワールドカフェとはなんぞや、という真面目な話を交わしていたのも束の間、気が利くうちの奥様が途中でビールなんて出してくれたもんだから、そこから加速度的にナオのキャラは崩壊していった。

 寡黙な好青年はどこいった?! 俺も人のことは言えないけど、グラス一杯で真っ赤になって、大口開けてガハガハ笑ってる姿はまるでオヤジだよ!


「瀬井もね、名前でいこう! 頑張ってくんだもんな? 俺達。ところで…何だっけ?」

「友成くん、だよ!」

「じゃあ、トモな? トモでいいな? いいよな? トモ! 頑張ろうな!」

「うわぁ、酔うと面倒くさい男だねぇナオ」

「酔ってねーよ、何言ってんだ、神威。俺はね、楽しいだけ」


 ああそう、って呆れた俺の声に礼ちゃんとトモの笑い声が重なる。そんなの、楽しいのなんて、俺だって同じだよ。


「ナオのイメージがもう…」

「なんだよ?」

「グチャグチャ」


 確かにー、と礼ちゃん共々 食後のデザートへ手を着けていたトモが同意を寄越してくれる。憮然としていたナオだったけど、不意に目をパチリと瞬かせて礼ちゃんを見据えた。


「ミコちゃんは?」

「え?」

「ミコちゃんは、そんなことないだろ? 俺とは初対面で変に先入観持ってないもんな?」


 急に話を向けられた礼ちゃんは慌ててフォークを置くときちんと座り直し、視線をピタリとナオへ合わせた。


「…申し訳ないけど、先入観は持ってた」

「え。神威から何か聴かされてた?」

「ううん」


 その先の言葉を俺達は何となく待つ格好になった。礼ちゃんはアルコール摂取してないのに不思議なほど頬がほんわり色づいていったから。何なの、礼ちゃん。アナタ、自覚ないよね? その、バックに花がこぼれ落ちるほどの笑顔は、飲酒後の健全男子の理性を完全に狂わせる破壊力だよ?!


 神威くんの、お友達だから。

 その笑顔の愛くるしさに目を奪われてる最中、礼ちゃんの涼やかな声が俺達を包み込んだ。おっと。理性吹っ飛びそうだった。ナオの顔中が紅く熱を持っていそうなのは、もはや飲酒のせいか礼ちゃんの笑顔パワーのせいか、判別できない。


「…んー。友達には。今日、なれた感じだけどな」

「あ、そっか…そうなのね。でも、素敵男子には違いないと思ってた」

「なんで?」

「神威くんがお家に呼びたいと思った人だから」


 ふ、と切れ長の目尻が垂れて、ナオの表情は幼いものへ変わった。礼ちゃんから視線を逸らしながら熱くなった頬を冷ますように、手を団扇代わりに自身へ風を送る。ビールのグラスと並べ置いていた烏龍茶をクイ、と飲み干して唇を舐めた。何かを、言いたげに。



 確かに俺はナオを好青年だと思っていて、それは垣間見た礼儀正しい振る舞いやすっきりとしたノートの取り方、筋の通った話し方に柳井へも分け隔てなく接することができる態度とか。学食が混んでる時にさっさと食べ終わって席を譲ってくれたこととか。総じて心根の好さを感じ取っていた俺のレーダーが、このきっかけに極々私的なスペース=自宅へ招いて、もっともっと、と距離を詰めたいと、欲したんだ。勿論、トモも。礼ちゃんはきっと、そんな欲張りな俺の胸の内へ共鳴してくれてると思う。


「…イメージか」

「…ナオ?」

「…ごめんなさい、私、何か——」

「ああ、いや。ごめん、ミコちゃん」


 違うんだ。

 ナオは両の掌を冷えピタのようにあちこちへあてがいながら笑みを浮かべた。俺達三人へそれぞれ丁寧に視線を置いてほんの少し遠い目をする。


「…神威達のことは。ずっと前から、気になってた」


 ナオの言葉を脳内で反芻して、その深意の理解に時間が止まる。三人共が同じ様に奇妙な表情を晒していたんだろう、ナオがクククと押し殺した笑い声をたてた。


『神威達のことは』って。“達”って、礼ちゃんと俺、ってこと? それとも武瑠や心まで指してる? それなら瀬井くんやユノちゃんは?


『ずっと前から』って。一体いつから? 俺、教養課程の時もさほどナオと講義が重なった覚えが無いし。ましてそれ以前に顔を合わせた記憶はない…と、思う。自信なくなってきたけど。


『気になってた』って。自分が、決して良い側面だけで気にしてもらえる存在ではないと分かっているだけに、どんな風に気にされてきたんだろう。俺だって、ナオの存在は気になってたけど。その気になり方は根本が違うかもしれない。


「…あれ? 俺、そんなに変なこと言ったか?」


 斜向かいに座る礼ちゃんの大きな瞳がパチリともせずナオへ据え置かれたままなもんだから、見つめられすぎたナオの頬はまた紅く染まっていく。やめて、礼ちゃん。気持ちはよく分かるけど。俺の方 向こうか、今すぐ。ほら、ナオが顔の前で掌ブンブン振ってるってば。


「…足立くん? それは、どういう——」


 意外にも、瀬井くんより俺より先に口を開いたのは礼ちゃんだった。ナオの声音は笑いを含んだ軽やかなものだから、続く言葉は俺達にとって不快なものではないと信じるに足るけど。それでも礼ちゃんは恐る恐るといった風。


 分かるよ、俺も人との関係を紡いでいくのは得意ではないし、礼ちゃんも苦手分野だよね。でも、変わったね。礼ちゃん。想いをちゃんと口に出して言えてるじゃん。


「…ナオでいいんだよ、ミコちゃん。そこに線引きはいらないんだ。きっとあの…タケルくんとかシンくんとかも名前で呼んでほしいって思ってるんじゃないの?」


 え、と言ったきり礼ちゃんはしばし動きを止めた。瀬井くんも俺も顔を見合わせて眉根を寄せる。ナオが本当に伝えたいことは何だろう。悲しいかな、迷走中だ。


「…喋るの得意じゃないと、損だな。俺も、ミコちゃんのイメージに仲間入りしたかったんだけど」

「…ごめんなさい、あの。私がよく、理解できてないから」


 何なの、この。はにかみ屋さんな二人は。ナオも礼ちゃんも俺にヤキモチ妬かせて焼死させたいの?


「あ、すっげ。神威のヤキモチ、間近で見た。すっげえブサイク!」

「…もう。ちょっと、口を慎んでもらおうか」


 ローテーブルの下に脚を伸ばしてナオの膝を蹴った。暴力反対、なんて笑う口元に白く綺麗な並びの歯が見えてまた幼さを助長していく。


「うーん。どこから話そう。俺ね、一年浪人してんだ」

「…申し訳ございません、人生の先輩に」


 足蹴にしたことを詫びながら何となく正座すると、また大きく口を開けて笑われた。瀬井くんもその情報は知らなかったのか、そうなの? と小さく確認している。


「…そ。出身高校は、神威もよく知ってるはず」


 告げられた学校名は確かに記憶にあった。耳にしたのは、何年前だ? 俺達の実家の隣の市にある、有名男子校…。


「葛西先生が、前にいた学校…、」


 またしても俺より先に答えを声に出したのは礼ちゃんだった。ナオの話の帰着点はどこなんだろうと、微かな不安が見て取れる礼ちゃんの瞳が切なくて、俺は思わず身を寄せる。瀬井くんがそんな俺の動きに口元を緩めた。


「俺が1年の時、3年の先輩に真坂、ってのがいた。葛西のことも、知ってる。真坂の弟が、兄貴以上にどうしようもないヤツだ、って話も」

「…知ってるんだ…? あの、事件のことも」


 ずっと前から、とはそういう意味で。気になってた、ともそういう意味なのか? そう、野次馬的な、という。

 俺は知らずあの古傷へ手を伸ばしていて、きっとナオはその傷の理由を知っている。まだ早い。ナオは、喋るのが苦手なんだ。穿った見方なんて、したくない。結論づけるのは、まだ早い。


「…ナオ。その話は、今日すべき? せっかくの決起大会なのに」


 一気に下降線を辿りそうだった場の空気を、瀬井くんは懸命に持ち直そうとしてくれている。明るい声も柔らかな表情も無理をしていない素直なものであるだけに、申し訳なさが先に立った。


「…うん。今日、だから。話したい。…いいか? 神威」


 神威、と、名を呼ばれるのは、いまだ手に出来ない力を授けてもらえるようだ。イエスかノーか、涼しげなナオの目元は弧を描き優しく細められていて、投げかけられたクローズ質問には頷く以外の選択がなかった。




 あの事件は、確かに地元のメディアに取り上げられはしたものの、全国規模で報じられたわけではない。大抵の記事は、息子がこれまで働いてきた悪事の責任を取って政治の世界から去る真坂市議のこれからについて言及され締めくくられていたはず。姉ちゃんが大量に買い込んできていた週刊誌やタブロイド紙の数々を思い出す。礼ちゃんや俺の実名も写真も報道されてはいなかった。つぶさに視線を巡らせてくれていた姉ちゃんは、だけど右京の写真が目元を黒くつぶされて掲載されていたページには悪態をついていたっけ。


「…喋るの下手で、申し訳ないけど。俺の母親はね、学生の頃の事故を未だに引きずってる」


 ナオが口にした事故、とは俺も薄ら記憶にあった。確か、戦後に起きた様々な事件を振り返ろうという趣旨のテレビ番組の中で目にしたのか。海外へ修学旅行中の高校生が現地で爆破事故に巻き込まれ多数の死傷者を出した、というもの。あの頃、高校生だと報じられていたあの生徒達は、今や大学生の親になっているんだ。年月の流れを不思議に感じる。セピア色の写真は制服姿のあどけない笑顔のまま年をとってなかったからね。


「…行けなかったんだ、うちの母親は。風邪ひいて長引いて肺炎になって…まあ、だからこそ俺はこうして生を受けているわけだけど」


 あるクラスでは急に主を失った机と椅子が半数を占めたし、女子生徒のすすり泣く声はしばらく日常のあちこちで聞かれた。心理カウンセラーがPTSDの対応に奔走したけれど当時は絶対数が足りず、充分なケアが施されないまま感情の無い時間をやり過ごす生徒も多かったらしい。


 あちこちで報道される友人達の名。かなりの有名進学校だったから将来を一瞬で断たれた優秀なクラスメイトの夢や進路先が、自分達もよく知らない背景まで勝手に肉付けされて連日キャスターから読み上げられていた。悲劇に、悲劇を、塗りたくって。

 そうして。ほどなく別の凶悪犯罪がメインニュースを取って代わり、それからの時間など誰からも見向きされることなく忘れ去られていった。


「…実体験してなくても、その場に遭遇したクラスメイトの生々しい声を聴いて想いを巡らせて感情を添わせすぎて。うちの母親は、それ以来バスに乗れないよ。血の気が引くし理由もなく涙が出るし身体の震えが止まらないらしい」


 馬鹿馬鹿しいと思わなくなかった、と自嘲気味の笑みはナオを仄暗く見せる。打って変ったその様子が悲しくて、そんなことない、と喉の奥から絞り出した。

 体験を経なければ、この世に起こりうるさまざまな事象の真実を本当に理解するのは難しいと思う。

 例えば。この前も武瑠や心と四人でテレビを観ていた時、幼児虐待のニュースが報じられていたけれど、俺達にはその経験が無いから“酷い母親だ”と簡単に口に出来なかった。実態は、大変なのかもしれないから。そうしてその大変さを想像できるだけの情報も持ち合わせていないから。

 智くんのお世話をかいがいしくしてきた礼ちゃんなら“酷い”と言う資格があるんじゃないかと思ったけど、でも礼ちゃんが小さな声で呟いたのは“私も少し間違えば”だった。そういうことって、きっと俺達が知らないだけで、まだまだたくさんあると思うんだ。


「…神威達の名前は、ネットで目にした。隣の市だから…親戚が神威と同じ学校に通ってるってんで、写真も…、」

「まさか、俺達に逢いたくてこの大学 入ったの?」


 そうであるように充分配慮したつもりだったけど、ちゃんと冗談っぽく伝わる声が出てくれて、俺は正直ホッとした。ありがと、俺の声帯。

 だってさ、ナオの表情がこれでもかというほどに苦しそうで、何をどう話したらいいのか言いよどんでるからかもしれないけど。輪をかけて苦しめたくはないんだ。


「それは、違う。そこは…、断じて違う。ただ、入学式で神威を見つけて、その隣に可愛い女の子も見つけて。ちょっと離れたとこにいた二人のデッカイ男も見つけて」


 ああ、アイツらだ。

 一年間の浪人生活を経てもなお、詰め込んだ英単語や公式の奥底から脳は容易に読み聞きかじった事件の情報を呼び起こす。何かへ興味関心を寄せることがさほど強烈に無かったそれまでの自分を顧みると、これほどまでに目が離せないのは何故だろう、と。桜舞い散る中、正門付近でボンヤリしてたんだ、と目を瞑るナオの整った顔を眺めていた。


 それは浅ましい好奇心だったと思う。そう紡ぐナオの声も表情も苦しそうだ。早く、話を終わらせてあげた方がいいんだろうか、また続きは今度にする? とか言って。それでもさっき、頷いたのは俺だ。今日だから話したい、そんなナオの切なる想いを受諾したのは俺自身だ。

 俺の膝と腕が接している隣の礼ちゃんは、前のめりになりかけた俺に気づいたんだろう、勿論、その理由も。聴いてあげましょう、とでも言うように礼ちゃんは小さな手を俺の膝の上へ置いていなした。


「…悲劇の行く末を、俺達は知らされない。それは史実にでもなって後世に残らなければ無理だろ? それすらどこまでが真実なのか判別できないし。加害者が被害者へ負わせた深手はどれほどのものか。果敢に立ち向かった被害者少年Aがクスリ漬けになったという噂は? 少年Aが庇った恋人は実は加害者の元カノだったという話は? 一体、何が真実なんだろう、って」


 メディアやそれに係る媒体は時に残酷だとナオは言う。確かに俺達は溢れかえる情報から必要な真実を取捨選択し、それは常に生きていくことの傍らにあったけど。呈されるその全てにきちんとした根拠がある訳じゃなく、何を以て是とするかは俺達に委ねられてるよね。


 喋るのが得意じゃない、なんて言ってたけど、そうと一概に断ずることはできない真面目さがナオの言葉には力としてあった。本当に、自分が考えている本当の想いを分かってもらいたくて、気持ちを振り絞ろうとしてるからかな。


「そうして、考えてた。この、被害者少年Aは、恋人は、危険を顧みずクラブへ救出に向かったという友人二人は、その後どうしているんだろう。ごく身近な街で、ひとつ下の高校生に起きた事件だ。葛西、って関わった存在もあったし。真坂のことをなまじ聞きかじっていただけに、余計に気になった」

「…そうなんだ」


 ナオの表情はますます苦渋に満ちていくけれど、俺はそれと反比例するように嫌悪感など微塵も抱かなかった。俺は口をさして挟まない代わりにさっきから口元に笑みを浮かべてるんだけど。ナオ、ちゃんと気づいてくれてる?


「…ずっと前から、気になってた…って、こういうことだよ神威。根掘り葉掘り古傷を抉るようなマネはさすがに最低だと思ってた。それでも、お近づきになれないかと、チャンスは窺ってた」


 野次馬根性丸出しだ、酷いだろ、なんて、す、と整った顔に翳が宿る。何が酷いの。どこが酷いの。ナオは苦手な喋りをたくさん重ねてそれでも、これから先を一緒に頑張ろうと思ってくれたんだよね?

 本物と本質。

 礼ちゃんのそれをちゃんと見極めることができたように、俺は今から得られるであろう新しい友情も目を見開いてきちんとこの手に掴みたい。

 それに俺は、さっきから違和感を覚えてる。ナオ、俺達とあの事件の話をするだけなら、どうしてお母さんの話をしたの?


「…ナオ、くん」


 落ちた沈黙を破ったのは礼ちゃんの小さな声。鈴を転がすような愛らしい声が、ナオの名を呼んだ。ヤバい。小さく芽生えそうだったヤキモチを必死に押し殺す、それでもじっと俺達を見守ってるトモには気づかれたらしい。バツが悪くて俺はほんの少し首を竦めた。


「…ねえ、そんな。違うわ、そんな…、苦しそうな顔で嘘つかないで?」

「だよねえ? 礼ちゃん。あー良かった、俺、飲みすぎて正常な思考が出来てないかと思っちゃったよ」


 いや別に仲良しさんアピールのつもりはないけどね? 礼ちゃんと同じ様なこと考えられてたんだなあ、って思うと、自分を自分で褒めてやりたくなった。心優しい礼ちゃんと、同じなんだよ? 俺も優しい認定受けたみたいで嬉しい。


「優しいね。お母さんのこと、気になって仕方がないんでしょう?」

「…何の話を」

「礼ちゃんに優しい嘘は通用しないよ、ナオ。もうこの人が総本山みたいなもんだから」

「…神威くん。何だろう、その奇妙な喩え」


 立ち上がり、新しいグラスへ冷たい烏龍茶を注いできた礼ちゃんはみんなの前へコースターを敷き、苦笑しながら綺麗な所作でそれらを置いていった。トレーの空いた所へ平らげられた皿やカトラリー類をまとめシンクへ持って行こうとする。すかさずトモが手伝って、俺の出番は失われた。


「…別に、母親のことは」

「関係なくないでしょ? 俺たちのことが気になってた、のはつまるところ。お母さんをバスに乗れるようにしてあげたい、って、そんな想いがあったからだよ」


 うちの奥さんもそう申しております。礼ちゃんを仰ぎ見ながらそう言うと、柔らかな笑顔が返ってきた。ああ、大正解いただきましたよ!


「…そんなこと、ない」

「あのね? ナオ。簡単じゃ、なかったよ。いろんな意味で、普通に戻るのは。トモも…平気かな? 見ても」


 左頬を縦に下りる一本線の方が随分と薄く、たぶん骨格が上手く邪魔をしてくれたんだろう。それは衆人の知るところで、気の毒そうな視線を浴びせられたのは一度や二度じゃない。


 あの日、右京の手に握られていたナイフ。銀色の光を日常生活に見つけるたび、微塵もたじろがないかと問われれば答えに詰まるけれど。それよりも俺の単細胞な男気は、礼ちゃんを守れたんだと誇らしげな感激の方が強かったりする。綺麗ね、と礼ちゃんから言われたことのある額には、未だに真一文字、ぶつけられた理由なき悪意が横たわる。下ろしている前髪を右手でかき上げ、ナオとトモの前へそれを晒した。


「…!」

「…肉体的に受けた傷は、時間が経てば薄くなっていく。それは分かってたし、俺は別に自分の見てくれに頓着しないからどうでも良かったんだ、ここは」


 問題は、内なる心。俺達はどうやって蘇ることができたんだろう。


「…でも私はね、この傷を…ちゃんと見ることが出来なくて。…逃げて。もっと、神威くんを傷つけたの」


 俺の言葉を引き受けるように静かに流れた礼ちゃんのセリフはとてもネガティブなもので。トモの視線もナオの視線も同じように、俺の額から礼ちゃんの顔へと移っていった。


「…逃げた、って…、」


 恐る恐るといった風に沈黙を破ったのはナオだ。表情に不快な色はないけれど、マイナスイメージが先行する言葉に完璧な理解は難しいらしい。トモもミコちゃん? と言葉じりを上げ、そのまま胸中を表現している。


「…私は本当に弱くて卑怯だったんだけど。でもね、辛かったら、たまには、逃げても良いんだと思う」


 そうっと宥めるように紡がれた礼ちゃんの言葉に多少なりとも異論が生じたんだろう。ナオは一旦見開いた目を眇め礼ちゃんを見つめる。


「…お母さんの、心を。逃がしてあげても、良いんだと思うよ」

「…そんなの…、」


 よく分からない、とナオは俯き呟いた。そうだね、俺の理解は及んでるけれど、それはきっと同じ様に経験したからだ。刃がつけた表層の傷よりも、見えない傷の方がずっと深くて癒えにくい。持て余しながらでも自分が自分である限りつき合っていかなくちゃならないけど。独りきりより分かち合える誰かがいれば施される術はずっと多くなる。


「…どうしてバスくらい乗れないの? って疑問は、自分が普通に乗れるから浮かんでくるのよね。…家族には、こうあって欲しい、なんて理想を押しつけがちになっちゃうし」

「………」

「…ナオくんが、一緒に乗ってあげれば良いんだと思うよ」


 ナオはす、と俯けていた顔を上げ礼ちゃんを凝視した。一緒に、って小さく唇が動く。たぶんまだ、足りない、ナオの納得には。だから、と俺も勢い込んで先を繋げていく。


「俺達はね、二人して傷痕を舐め合って、生きて…ああそんな、やらしいもの見るような目つき止めて」


 良いとこだったのに、とトモがブブブと噴き出している。ナオの眉間にはすっかり深い皺が刻まれていて、俺は雰囲気をぶち壊したのだと正しく空気を読んだ。ごめんなさい、俺、二十歳超えてもボキャブラリーの貧困さは変わらない。


「や、だからね! 思うにナオのお母さんはきっとクラスメイトに共感して共鳴して、そうして誰かのことをバスに乗れるようにしてあげたんだよ」

「…そう、か?」

「誰かの痛みまで引き受けてあげたんだよ、お母さん凄いじゃん。今度はナオが傍についててあげれば? 頑張って乗ってよ、じゃなくて隣にずっと座ってるよ安心して、って言ってあげれば…ね?」


 礼ちゃんはそれはあえかな笑みを浮かべていて、その視線の先に座るナオへ妬いてしまいそうだ。今度は礼ちゃんがあのね、と俺のセリフを次へと継いで。何だかこの共同作業が妙に心地好い。思えばあの事件を、全くの第三者へこんな風に明らかにしていく時間なんて、持ったことがなかった。


「私が逃げても、神威くんは掴まえに来てくれた。そうして、ずっと傍に居てくれてる」

「…ノロケ?」

「誰か、って必要なのよ。人間は独りきりで生きていけないんだもん。誰かにとっての大切な誰かは自分かもしれない、ナオくんのお母さんに寄り添ってあげられる誰かはナオくんかもしれない」

「…そんな風に、考えたことなかったな…。つーか」


 それ母親に、じゃなくて彼女とかが良い。

 ブツブツと口元で囁くナオの頬にさっきまでの歪みはなく端整な顔立ちに笑みが広がった。


「…誰か、かあ」


 目線を上に向けたり下に向けたり、口元は笑っているだけにナオの整った顔はやけに可愛らしく見える。トモはそんなナオの揺れる頭をニコニコしながら見つめているし、きっと礼ちゃんも家へ入ってきた時のスマートさとはまた違う色合いのナオの一面に微笑んでいる。

 えー、もう何なの。このほのぼのさ。


「ミコちゃんのさあ、カフェのイメージには。誰か、がいるんだよな」

「そう、大切な人達。ナオくんもトモくんもいるけど」

「「「えっ」」」


 見事な三重唱が奏でられたよ、礼ちゃん! いいよ、ナオもトモもいてくれていいけどさ、俺は俺?!


「れ、れいちゃ…、俺は…、」

「あれ? お義父さんと神威くんの事務所ってカフェのすぐ隣に作る予定じゃないの?」


 そうだけど、って応えた声は掠れていて、それはアルコールのせいなのか感情が昂ぶっているせいなのか分からない。ほらこうやって俺は、礼ちゃんの一言一言をよくよく咀嚼して反応する前に反射で行動してしまうんだ。悪い癖。でもなかなか改められない。


「山田くんも面倒くさい人だね。むしろカフェに来る人を一緒にウェルカムしてくれるオーナー側でしょ、いて当然じゃない、ってミコちゃん言ってんのに。ミコちゃんの口から言わせたいの? いちいち」

「おもろー、トモが若干キレ気味」


 いや、トモの表情はいつも通り柔和で優しかったけど、かなり毒吐かれた。そう、ごめんね。傍で見聞きする人には不愉快なのかも。俺、いちいち言わせたいんだ。


「…だって。決めつけたくないんだよ、礼ちゃんの…、心の中までは、俺。そこまではがんじがらめにできないから」


 不安なんて、消せやしない。こんな俺でいいのか、とか。礼ちゃんはちゃんと幸せか、とか。また俺の前からいなくならないで、とか。誰かが日常を脅かさないか、とか。


 礼ちゃんの綺麗な瞳にいつも嘘は無くて、よそ見もなく真っ直ぐに見つめてくれてるのは今もこれから先も俺だけだと容易に信じられる。だから、あげたい。一度は信じられなくなった俺の“絶対”ってやつを。

 だけど今回みたく些事に揺れる自分もいる。ただ歳を重ねていけば大人になれるんだと漠然と考えていた自身の奥底に気づいて愕然とする。矛盾なんてのも、消せやしない。

 そんな風に切れ切れに語る俺の言葉は半ば支離滅裂だ。だけど三人とも、不思議なほど身じろぎもせず耳を傾けてくれている。


「…本当に。本当の意味で普通、になんて、戻れてないと思うの」


 観てもいないのにつけていたテレビから大爆笑が流れてくる。礼ちゃんの声が静かに響き渡った場に似つかわしくなくて、俺は手近にあったリモコンをそっと取り上げると電源ボタンを押した。


「…神威くんが抱える不安は私が逃げたことに端を発してるんだろうし、神威くんの傷は完全に消えてなくなる訳じゃない。記憶と同じ様に、その時の感情って、残り続けていく」


 でも、と言いかけた礼ちゃんの言葉を引き継ぎたいと思った。寄り添ってくれる誰かがいれば、共に悩み共に考え自分と同じように感じ苦しみ歩いて行こうとしてくれる誰かがいれば。


「…たくさんの人がね、家族とか友達とか先生とか。手を差し伸べてくれたんだよね」


 礼ちゃんの頷きを隣で感じながら、俺は思い出す。家族が、心や武瑠や妹尾さんが、葛西先生が。言葉に上手くできない胸の内を理解しようと力も時間も割いてくれて、一緒に考えてくれた。下した決断に、背中を押してくれた。俺達へ、この先ずっと続く未来をくれた。礼ちゃんなんて、永遠ってオプション付きでまるごと全部、俺にくれた。


「…私は、自分がそうしてもらって嬉しかったことを、他の誰かにつないでいきたい。傲慢かもしれないけど…、でも神威くんが作ってくれるカフェが、そんな場になったら良いなと思ってる」

「傲慢とか…そんなことないよ、ミコちゃん。そんな風に…、すごいよ」


 胡坐をかいたナオは指を組み合わせた手を顎に添え、噛みしめるように丁寧にすごいよ、と繰り返した。


「…リハビリ? かも。今日の、ナオくんのお母さんのお話も聴かせていただいて、良かった」


 顎に添えられていたナオの手はおでこへと移動し、まいったな、と伏し目がちに照れ笑いが漏れた。もう、ほんと、何。恋が芽生えそうじゃん、そこ。憮然とする俺の表情の矛をいち早く見抜いたトモがまたキシシと奇妙に笑う。


「…薬、処方してもらった感じ。俺、母親のこと責めすぎてたかもなあ、なんで乗れねんだバスくらい、って」

「一緒に、傍に乗ってあげてるだけで、ごめんね、は伝わると思う。…私、逃げちゃったけど、神威くんは許してくれた」

「…ミコちゃん。ノロケは要らねーし、うちの母親とおたくのデレデレ旦那が同じくくりってのはどうなのかな…」


 柳眉をひそめ呆れるナオは、同じ様に肩を竦め笑う礼ちゃんと俺を眺めシニカルな笑みを口元に乗せた。そうしてナオは、んんんー、と大きく腕を伸ばし上げるとそっかあ、と、吐き出した息と共にやけに嬉しそうな感嘆を上げる。


「…いるのか。いていいのか、俺ら。ミコちゃんカフェのイメージの中に」


 礼ちゃんは綺麗に笑ってふふ、と声を漏らした。この大好きな笑顔を見るたびに、失いたくない、と俺の傍らでずっと枯れず咲いていてほしい、と心に決めたあの日が蘇る。


「勿論、私達にとっても大切な存在だし。訪れてくれる誰かにとっても大切な存在になってくれるといいな」

「…ミコちゃん。僕、男の人が好きなんだけど」

「トモ、くん」


 呼んで、礼ちゃんは弟の名前が“智”だから慣れるまで時間かかりそう、と笑った。

 この前送られてきた幸さんからのメールには、ランドセルを背負った凛々しい智くんの姿があって、俺、老け込んだ気になってしまった。客観的に呈示される周囲の成長ぶりも、自身の不甲斐なさを痛感させられる材料だったりして。


「憶病なトモくんでいてもいいと思うけど、」

「…けど?」

「私のカフェでは、“何が普通か、当たり前か”なんて決める人はいないわ。だからそのままのトモくんで過ごして欲しい…そんなお店が出来るように、これからよろしくお願いします」

「お願いします!」


 きちんと正座し頭を下げた俺達へ、二人とも止めてよ、と慌てふためくトモの声が聞こえた。ナオはまたオヤジみたくガハハと笑って仲間入りできて良かったあ、と破顔し、わざとのように頬を両の掌でパンパンと包み込む。


「よしっ! また飲み直す? 仕切り直す? ごめんミコちゃん、まだビールある?」

「僕、明日1限からだよー」

「わー、料理酒しか無かった…」

「よーし、キッチンドランカー!」

「意味違うでしょ!」


 そこでお開きになるかと思われた奇妙な決起大会は、神威ー? とレジ袋に入ったアルコールを手にうちの玄関を開けた武瑠と心の登場で、結局 賑やかな二次会へと突入した。空気読もうよ、みんな。俺、そろそろ礼ちゃんと二人きりになりたいってのに。



 ***



 俺史上超速でお風呂から上がったけれど、寝室のドアを開けて目に入って来たのは、スマホ片手に横向きで小さく丸まっている礼ちゃんの姿だった。


「……遅かったか」


 部屋の明かりは点いたままだから、礼ちゃんが先に寝る気でいた訳じゃないんだと思う。布団にも入ってないもんね。ベッドの上へぽすんと座って、スマホ弄っててそのまま眠気に押し倒されちゃったんだろう。


「う……、生殺し」


 聞かせるつもりはない。起こすつもりもない。昨夜、礼ちゃんは寝不足のはずで今朝の目の腫れぼったさの原因はつまるところ俺だし。今日だって、楽しかったねと言ってくれたけど、結局遅くまでつき合わせちゃったし。余計な音を立てないよう出来るだけ静かにベッドの上へ移動した。


「…可愛いなぁ」


 そういえば俺、礼ちゃんの寝顔って久しぶりに見るかも。礼ちゃんの方が早起きだし、一緒に布団に入っても眠りにつくのは大抵 俺が先だと思う。長い髪の毛が横たわる身体に隠れておでこも丸見えで、不意にショートカットだったあの頃の礼ちゃんを思い出させた。


 礼ちゃん。礼ちゃん。礼ちゃん。

 声に出さずとも胸の中で繰り返し名前を呼ぶだけでこんなにも好きだって気持ちでいっぱいになる。見つめてるだけで顔が綻ぶ。気持ちが和んで笑顔になる。幼くて稚拙な愛情表現でぶっ飛ばし続けてきた俺だけど、やっぱりそこは変わりようがないみたい。


「…やば」


 礼ちゃんの寝顔見てるだけで、ってどんだけ飢えてんの、俺。いや、飢えてるけど、俺。駄目でしょ、キスは駄目だからね、マジで。だから、ごめんね礼ちゃん。ちょっとだけ、触らせて? ごめんね、一方的で。

 知ってしまったら、もう、知らない頃になんて戻れないんだ。

 この髪の柔らかさも。この肌の肌理細かさも。この唇の触感も。その下の―――。


 はああ、駄目駄目。これ以上自分で自分を火照らせてしまったら、それこそ放出の方法に困ってしまう。フルフルとかぶりを振ると、俺は礼ちゃんの下に広がったままの掛け布団をそうっと引っ張った。そうして中へ潜り込み、礼ちゃんの身体へ寄り添うようにもぞもぞと体勢を整える。


 無駄に大きく育ってしまった体躯を持て余し気味にため息したこともあったけど、こうしてちっちゃな礼ちゃんを抱きかかえる時は本当に良かったと神様に感謝する。腕の中にすっぽり収まる礼ちゃんの温もりは、俺を泣けそうなくらい幸せな気持ちにさせてくれる宝物で。大切にしたい、って、そんな真っ直ぐで純粋な感情を何よりもくっきりと浮かび上がらせてくれる。都度、迷いなく、そう想える相手に早々に出逢えた俺はラッキーでしょ。ただ、大切にしたい、そんな想いの延長が壊したくない、壊されたくない、奪われたくない、誰にも渡さない、って、泥沼サスペンスみたく展開していくエゴに辟易するのは相変わらずなんだけどね。


 俺って、成長できてないなあ。

 手元のリモコンで部屋の照明を消しながら、俺はすん、と鼻を鳴らし苦笑を漏らした。

 礼ちゃんは、もうそれは癖なのか、身体を丸めて眠るんだ。寒がりで冷え性って訳でもないらしい。そんな恰好で寝てるから大きくなれなかったんじゃない、なんて冗談めかして言ったのに、額に縦線何本も書いてある勢いで落ち込んでたっけ。ホントのところ、寂しがり屋で甘えん坊の深層心理礼ちゃんがそうさせてるんじゃないか、なんて俺は睨んでいたりする。


「……か…い…?」


 礼ちゃんの身じろぎに起こしちゃったかと小さな罪悪感に襲われた。次の瞬間、むしろその方が良かったと目を瞑り眉間にシワを寄せた。

 えええー、何なの何なのこれ! 礼ちゃんにピッタリ寄り添われてるんですけど! 俺の胸のとこに礼ちゃんの頬がすり寄せられてるんですけど! 無いな、無いね、無かったね今夜まで! こんな、何ていうか“モロ甘えられてる”みたいな体勢ってね! 寝息が首元にかかってまんじりとも出来ないこの状態って何かの修行ですか?! こんな我慢プレイが世の流行りですか?! やっばいな、この無意識! 無意識小悪魔降臨だよ! 夢見てんのかな? 礼ちゃん! 良かったら、申し訳ないけどもし良かったら、起きてくれませんかね?!


(えーーーーー! ほんとなにこれ…?)


 うん、俺。二日連続ウサギ目腫れ目決定ね。明日…というか今日の夜には実家に戻るんだから、欲求不満も決定ね。


「……あれ……? かむ、い…くん……?」

「……礼ちゃん?」

「……ん…」


 あああ、もうヤバい。眠たそうに目をコシコシとこすってる様とか! 開けてるんだけどなにも捕らえてないボンヤリした大きな瞳とか! いやまたその瞳が潤んでるわけよ! ポヤン、って擬態語付きで半開きの唇が誘ってないとは言わせたくない!

 なあんて妄想族としてはどこまでも爆走しそうだけど。あふ、って小さく漏れた礼ちゃんの欠伸に理性を引っ張り戻す人間らしさは残ってる。今日は疲れさせちゃったよね、礼ちゃん。疲れた、なんて気安く言ってくれても良い本音を簡単に口にしない礼ちゃんは、いつもいつも気を遣いすぎてんじゃないかと心配になる。


「……寝てた? 私──」

「寝てた。はい、そのままおやすみ、ね?」


 疲れたでしょ? なんて同意を求めても、そんなことないよ、って笑顔で翻される。具体的な態度や選択肢を提示しないと礼ちゃんの優しい嘘は覆らないんだ、それは生活を共にして分かってきたこと。分かるたびに俺は、本当に礼ちゃんを大切に出来る術を与えてもらったようで嬉しくなる。


「……いやだ」


 あれ? 世にも珍しい、礼ちゃんの反論?


「……神威くんに、触りたい…」

「え、えっ?!」


 なんっ、何っ?! 何かのドッキリとかじゃないよねっ?! 俺、風呂入ってる間に何か仕掛けられてるんじゃないよねっ?! あれ? これ、本物礼ちゃんっ?!


「……ごめんなさい、寝ま──」

「ちょ! ちょい待ち! 待ってっ!! 駄目! 取り消し不可っ!」


 ああああ、どうしよう。ビックリしたー! 礼ちゃんが俺に“触りたい”なんて! そんな、そんな誘い文句みたいな! 初めてだし! 礼ちゃんって俺以上に淡泊っつーか肉食系じゃないっつーか興味関心があまり無いんだと思ってたから! したいしたい、ってガッついてんの、いつも俺からだったから!

 ああもう、どんな態度をとったらいいのかマニュアルなんて知らないし、俺は本当にスマートさに欠ける。


「ご、ごめ…礼ちゃん、ちょっと、ビックリ…や、あの嬉しかったりして」

「…神威くんは。寝るつもり、だった? その、大人しく…」


 あ、礼ちゃん、パジャマの襟元から見えてる首まで真っ赤っかだ。寝ぼけ半分で甘え任せに出た言葉じゃないんだね。頬も口元もみるみる緩んでいく。コクリと鳴る喉が恨めしい。


「…礼ちゃんてばさぁ。俺がどれだけ、早く二人きりになりたいなあ、なんて不埒なこと考えてたか知らないでしょ?」


 ふふ、と礼ちゃんは甘い微笑みを零す。うわ。ベッドの中で密着しててのそれ、って。自制心吹っ飛ばしてくれちゃうな、まったく。


「……神威くん?」


「……ごめ…ちょっと…言うこときかないムスコが…」


 俺の鎖骨あたりにある礼ちゃんのおでこがじんわり熱を持つ。キスは、唇には、我慢の一ヶ月なんだけど、俺はそろりと腕を伸ばし礼ちゃんの小さな掌を取った。

 今日も魔法みたくおいしいご飯を作ってくれた、その一本一本に口づけていく。薄暗く落とした照明の下でも、礼ちゃんは目の縁を朱に染めながら俺のその仕草をじっと見つめていた。馴れないんだけど、それでも下心ありで。啄むようなそれではなく、もう少し深く長く“その気”を籠めて。足りない分を埋めたくて埋もれたくて。


「……食べられる…」

「アタリ。全部、食べてもい…?」


 うん、と聴こえたように思えたけど。確かめるより先に礼ちゃんの空いた手が俺の背中へ回って、キュ、と小さな力でスウェットが掴まれて。


「大好きだよ、礼ちゃん」


 私も、と今度は間違いなく聴こえた。

 背中へ更に加わった力で、俺の全部は掴まれた。

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