第6話

 うちは男女のきょうだいとしては割と仲が良い方だと思ってきたけど、成長してからもそれは変わらない。寧ろ歳を重ねるにつれ、共生していこうとする傾向は強まってきてるかも。両親に何かあったら、共に考えなくちゃならない相手は神威だし。……いや、ミコちゃんのほうが実のところ頼りになるか。



 私の弟は、小さい頃からそれはそれは美少年で。可愛い、とおおむね評されてきた私に比して、綺麗な子、とされることが多かった。

 正直、羨ましくもあった。男のくせにそんな綺麗で何の役に立つのさ、という差別感だとか、弟さんに渡して欲しい、と見知らぬ女からモノや手紙を押し付けられる気まずさだとか、仄暗い感情をまったく抱かずに生きてこられた訳じゃない。


 それでもあの子は、私だけのお母さんだったのに、と憎さを幼さと共にぶつけても、ねえちゃんねえちゃん、と私の後を追いかけてきた。トテトテと覚束ない足取りで、転んで、泣いて、膝から血を流しても。ねえちゃん、と。


 何でも、私の方が先に出来た。お姉ちゃんだから当たり前だ、と軽く扱わなかった両親に感謝したい。

 それはそのまま神威にも受け継がれて、姉ちゃん、凄いね、と結果、誰よりも私を高く評価してくれるのは神威になった。

 そのうち、あんたのほうが凄いじゃない、と痛感させられることが多くなっていった。

 それでも一番凄いのは、あんなに良く出来た嫁をゲットしたことかな。



 ***



 姉として働く第六感と母親のそれとでは違うらしい。お母さんはその夜、美琴、と私の名を呼んだ。お姉ちゃん、ではなく。何かしら心配事を抱えているのはそれだけで分かった。


「どうしたの? 病院から何か言ってきた?」


 つい先日のことだ、お母さんを定期検診へ連れて行ったのは。その時は何も懸念事項は無いとお医者様は仰ったけど。


「違うの。お母さんのことじゃなくて。……ミコちゃんのことなんだけど」

「ミコちゃん?」


 山田の姓になってからもう三年が経とうというのに、私達はなかなか馴染んだ愛称から離れられないでいる。本人もそちらに愛着があると言うし。ってな話をしていたら「礼ちゃんと呼んでる俺だけ優越感」なんて、アホな五・七・五を作っていた神威に呆れた。ほんっと時々どうしようもなくおバカだ、アイツ。


「今日ね、お料理教室のはずなのよ。いつも出来あがった作品をメールでくれるのに…。何となく、気になって」

「…急に予定が変わった、とか?」


 口に出しながらそれは無いな、と分かっていた。予定が変わったなら——例えば教室が急にお休みになったとか。或いは具合が悪くなったとか。ミコちゃんはきっと、きちんと連絡してくるはずだ。


「センター問い合わせしてみた?」

「何度もしてる。センターの人が迷惑なくらい」

「大丈夫。センターに人はいないから、お母さん」


 何だろう。神威からの連絡も特に無いけれど、それでも拭えない嫌な感じ。お母さんの“何となく”が侮れない点は、一度死線を彷徨った人だけに軽視しないことにしている。私のスマホが鳴動したのは、そんな時だった。


《美琴か? 心だけど》

「分かってるわよ、ちゃんとディスプレイに出てるわよ名前」


 いちいち真面目か、と突っ込んだ。ふ、と漏れるような心の薄い笑いがスピーカー越しに耳に届く。本当にあの子は感情表現の幅が狭いと思う。


「珍しいじゃない、心が私に電話、って」

《こんな話、神威の口からは出来ないだろうから》


 代行、とあまり抑揚のない声でそう言うと、心は一旦、言葉をのんだ。これは私が先を促すべきか。そうよね、そうだろう、神威に起きた某か、であれば、それは少なからずミコちゃんへも関係する。そうしてお母さんの心配にも、きっと。だってこのタイミングだ。


(…お母さんの心配を払拭できるのか、深めるだけなのか分からないけど)


 弟、って存在はいつまで経っても弟なのよね。いや、当たり前なんだけど。

 私達の体内を流れる同じ父母から受け継いだ遺伝子は、神威が家を出、成人し、離れた場所で何をしてようと、やっぱり幼いころから出来あがった関係性を忘れさせることがない。


 何かにつけて思い出す。

 膝から血を流し、いたいよねえちゃん、と泣く神威に駆け寄って、だいじょうぶなの、ばかねあんたはしるから! と。なくんじゃないのおとこのこでしょう! と。やたらお姉さん風を吹かせていた自分。私だって子どもだったのに。神威に無理して走らせてたのは私のちょっとした意地悪心からだったのに。


 なんとかしてあげなきゃかむいはおとうとなんだから。

 おとうさんもおかあさんも、かわいがってあげてね、といってた。


 あの頃芽生えた勇ましい姉としての使命感は未だ燃え尽きることを知らないらしい。


《……神威。変な女に言い寄られてな》


 またか、と反射のようにため息が漏れる。世の倫理に反する行為を平気でしやがる女は後を絶たない訳ね。中高生の時ならまだしも。


《誤解するなよ。神威は全く気にも留めてない》

「当たり前よ。気に留めようもんなら姉弟の縁切って、金輪際ミコちゃんに逢えない絶海の孤島に追放してやるわ」


 流石、美琴。

 心がクツクツ笑っている。そう言えば心がお腹抱えて笑ってるとこって見たことあったっけ?


《弱点の突き方が的確だ》

「……いや、アンタ。そういう話 したかった訳じゃないんでしょ。本題に入りなさいよ」


 ん、と同意すると心は恐らくコクリと唾を飲んだ。喉仏を嚥下していく音がやけに響いて聴こえる。何をそんなに言い淀んでんのさ?


《……神威、な。無理やりキス、されたんだ。その女に。……御子柴の前で》


 瞬間。

 私は何故か崖っぷちにいて、サスペンス劇場のあの音楽が頭の中で大きく鳴り響いた。

 あああ、ごめん神威! ごめんミコちゃん! 私、緊張感が足りませんでした! いや、だってね!


「な、んでまたそんな…、神威、何してんのよ…」


 巻き込んで悪いな、と。心はボソリと言った。私は何言ってんのよ、と即座に返した。恐らくは、声音に瞬間沸騰した怒りが混じっていたと思う。


「今さらそんな他人行儀なこと言ってんじゃないわ! へこますわよ? たとえ心がディベートに長けてようと私、口で負ける気がしない!」

《俺だって美琴に口で勝てるとは思えない》


 悪かった、と静かな声でそれでも心は重ねて言った。次いで あのな、と切り出す。絶妙の、間。私は黙って心の言葉を待った。


《……武瑠や俺は神威と御子柴の傍を選んだんだから。してやれることがあるのならそれは自分達の手で、と。軽々しく美琴や葛西に頼るのはどうかと思ってた》


 葛西、と挙げられた名は確か神威の高校時代の恩師。私の卒業後に着任したイケメン教師。お母さんがえらくお気に入りだった。


《……久しぶりに、開かないか? 男子力向上委員会》

「……よし。詳しく話して」


 男子力向上委員会、なんて銘打って神威の恋の行方を見守っていたあの頃が懐かしく思い出された。緩みそうになる口元を慌てて押さえ、心の話に耳を傾ける。恋、じゃなくなったはずなのに。永遠という名の絶対を互いに信じていくためにあの二人は、そうそうに結婚したんだからさ。

 解散はしてない。そう、これからもずっと神威達と共にあるのだと言ったのは、私。それにしても。


《神威を悩ませているポイントは二つある。一つは、元凶であるあの女の存在。二つ目は、担任の教授》


 正確には准教授だがな、と追加された心の言葉の意味を図りかねた。学生にとって教授か准教授か、は、呼ぶに当たっては些抹な違いだ。いちいち“〇〇准教授”なんて呼びかけやしない。結局のところ、大概まとめて“先生”なんだから。


「……意味ありげね。教授になりたがってんの? その准教授とやらは」


 心は電話の向こうでまた ふ、と薄く笑った。私の言わんとするところは当たりか。それでも委員会開催の理由には程遠い。


《親父と同じ大学の出でな、その立川、って准教授は。…なかなか、不遇の憂き目に遭ってるらしい》

「誰でもそう思ってるんじゃないの? 准教授どまりで、大御所の隠居を待ってる人達は」


 確かに、と相槌を打ちながら先を続けようとする心の声は、その神威の担任とやらが不遇から脱しようと何か事を起こす気であると指している。


 いや、大体大学の担任、ってそれまでの学生時代ほどの親身さはないと思うんだけど。自らの研究やら論文発表やらそれこそ出世やらに力入れてる人も結構いて、教え授ける、って冠するのはどうなのアンタ、と思う輩も少なくない。ゼミ室に入り浸って気に入られたら別なのかもしれないけれど。

 でも神威はそんなタイプじゃないし(入り浸る時間があるくらいならアイツはミコちゃんとイチャコラしたいだろう)。そんな私の逸れた思考の中へ、心の穏やかな声が入りこんでくる。


《結婚、というか見合いを。しようとしてるらしい…出世のために。力持ってる教授の娘と》

「奥様方が喰らいつきそうな王道的展開じゃない。なかなか欲望にまみれてますこと」

《まあ、考えた末だとは思うけどな。いわゆる適齢期はとうに過ぎてるし》


 年齢を問えば47歳だと言う。うちのお父さんとあんまり変わらないじゃないの。娘の方はよく分からないんだが、と至極真面目に奇妙なことを口にする心。それ、必要な情報なの?


《画像もらったんだ、親父に。その、見合い相手の写真。うちの親父がそこの教授と懇意にしてるらしくて》


 相変わらず交友範囲の広いパパさんだ。あのパパさんなら教授になれたのも分かる気がする。醜い学閥争いに巻き込まれたのもその人づきあいの良さ所以だろうけど、後押しがあったのもまたそれ所以だ。ご長男へは範囲の広さは受け継がれなかったようですがね、残念ながら。


《……似てるんだよな、美琴に。愛らしいお顔立ちがそっくり》

「怖っ」


 なんとなーく見えてきた話の展開よりも、あんたのその感情が籠もってないお世辞が怖いわよ、心。


「具体的に言いなさいよ。あんた、私をどうするつもり?」


 口にしてから相手が心でなければかなりこっ恥ずかしいセリフだった、と考えた。つか実際、言ったことあるような。酔った勢い若気の至り、ってやつ。いやもう、考えるより先に言葉に出てしまう悪癖ってなかなか治らないのよね。


《いや、美琴は。ただ、俺の傍に、いてくれるだけでいいんだ》

「…………」

《美琴? 明日なんだけど、無理か?》

「っ、ぬあああああ! なあんで電話の相手が心なの!」

《?…悪かったな。その言葉を投げつけられる理由が分からないぞ》


 あああ、私って枯れてる! 本当に枯れてる! いくら勉強ばっかしてて彼氏いない歴が三年近くになろうとしているとはいえ! 心の他意なき言葉にキュンとしてしまうなんて!


「……ごめん。勝手に妄想が暴走した」

《流石に姉弟だな。神威はマイナス面に超特急で暴走しがちだが》


 コホ、と気を取り直すように咳払いをする。この紅潮した頬も落ち着けばいいけれど。


「……で、明日。どうすりゃいいの? そっちへ出向いて来い、ってこと?」


 そう、と心は笑いを噛み殺したような抑えた声で応えた。いや、いっそ笑ってくれて構わないよ、心くん。神威の戸籍謄本持ってな、とつけ加えられた声にも笑いが含まれているような。ただしそれは、黒い類の。


「……何するつもりなの、心。私、退学するような事態は避けたいんだけど」

《そんな大げさなことじゃない。ちょっとした悪戯》


 二十歳超えたイカつい大男が“悪戯”って。いや本当に。大丈夫ですか。そこに犯罪臭はいたしませんか?



 ***



 私は、一旦就職活動し出したものの、結局、迷いに迷って両親に相談した挙句、大学院へ進んだ。

 ごめんね、お父さん、お母さん。私、このご恩は働いて返します。生涯独身だとしても立派に一人で生きていきます。大丈夫、パラサイトにはならないわ。



 保育士の資格を活かせる先を見つけることは出来た。出来るはずだった。

 子どもが好き。保育士を目指そうとしたのは単純にそんな理由から。しかも資格を持つというのは女性が生きていく上で不利に働くことはまず無いし。私以上に子ども好きでありながら、神威以降の子を望めなかったお母さんの代わりに、みたいな真面目長女にありがちな、親の夢の代行実現、という側面も、あったかもな、うん。



 私は、三年前のあの場所で、血まみれの神威も、連行される右京という子も、しっかりと直視することはなかった。泣き叫び半狂乱のミコちゃんを抱えるのに必死で、必死で私の車に押し込み、警察の人から言われるままに病院へ向かった。それが反って、いつまでも胸の内に引っかかっている原因なんじゃないかと思う。


 きっと、誰もが、大なり小なり某かの影響を受け、某か囚われている。私も、そう。すんなりと保育士になろうと思えなくなってしまったのは。

 何故、あの右京という子はうちの大事な神威を傷つけなければならなかったのか。きっと、その心の闇に私自身が触れて納得できている訳じゃないから。神威からポツポツと聴かされたとはいえ、複雑な家庭環境がその人格形成に影響を及ぼしていたとしても、ミコちゃんと根っこの部分で通い合えなかった感情を持て余していたとしても。


 子ども、には変わりない。私はスクールカウンセラーになりたくて、そのために臨床心理士の資格を取ろうと日々、勉学に励んでいる。

 でも明日は、サボリだな。他ならぬ神威のため。とは言いつつ、お正月の帰省時にゆっくり話もできなかったから私がミコちゃんに逢いたいだけ。3コマある講義の代返とノートを頼もうと、スマホのアドレス帳をスクロールする。


 ソファーの背にもたれ天井を見上げた。お風呂上がりのお母さんから、美琴、と名前を呼ばれる。顔だけクルリと回転させると、心配をそのまま表情に乗っけたお母さんと目が合った。


「……ミコちゃん、どうかしたの?」

「ぶ。実の子の心配よりミコちゃん?」

「ミコちゃんだからよ」


 うちのお母さんは、ミコちゃんが神威のお嫁さんになってから、時々囁いている。あの小さな身体の耳元へ、身を屈め、優しく微笑みかけながら。


『ミコちゃん。まだ、子どもでいて、いいのよ。急いでお嫁さんにならなくていいわ』


 その様は、神威とそっくりだ。

 神威はもともと美人のお母さん似。ちょっと恥ずかしいそのセリフも仕草も、何となく許されるんだ。私とお父さんには、無理だけど。そんなの。


「……何か、悲しい目に遭ってるんじゃないの? 神威は、どうしてるの?」


 我慢ばかりを強いられてきた子は、その欲求の吐き出し方を知らない。知らず己の内側に蓄積された鬱憤はいつか暴発するのかもしれないし。緩やかに浄化するように優しく抱きしめる誰かに出逢えるのかもしれない。


「大丈夫よ、お母さん」


 私はポンポンとソファーの座面を叩き、私の隣へ座るように促す。流石に見知らぬ女からチュー、だなんて刺激的すぎるわよね。私は誤魔化しているとすら悟られないように、とお母さんの目を覗き込みながら何と伝えようか脳内を高速回転させた。


「神威にちょっかい出してる女がいるんだって。私、明日ちょっと行って退治してくるから」

「何か、されたの? 二人とも無事?」

「無事よ。てか冒険出てんじゃないんだから」


 だってお姉ちゃんが退治って言うから。

 無意識か意図的か、私はお姉ちゃん、といつも通りに呼ばれたことに安堵する。それ以上の追求を避けたくて私はお風呂入ってくるね、と立ち上がった。



『……別件で。相談したいことがあるんだ』



 廊下をゆるゆる進みながら、さっきの心の言葉を忠実に繰り返していく。週末はどのみち帰るつもりだったんだ、もうすぐゴールデンウィークだろ。そうも、言っていた。



『……なあ。美琴は、どう思う?』



 あまりに漠然としたオープン質問に応えようがなかった。歯切れの悪い心。そうしてそれは良からぬ未来をもたらしそうな不気味さがあった。



『……今さら、と言うべきか。今だから、と言うべきか。真坂 右京と面会できるらしい』


 そんなの私の一存で決められることじゃない。是も非も。諾も否も。私の一存だけが決定要因じゃない。けれど求められている意見。



 クレンジングと洗顔料を取り出すために開けた洗面台の三面鏡は意図せず向い合せになっていて、ずっと深く奥まで続く闇に無限の私を映し出していた。



(ミコちゃん、泣いたかなあ…)



 浴槽に首まで浸かり、天井の結露が膨らんで引力に逆らうことなく落ちていく様をボンヤリ見つめる。神威のことよりそこがまず気になった自分に苦笑が浮かんだ。どんだけミコちゃん好きなんだ。



 義理の妹、という関係より先に、ミコちゃんと私の間には、弟の初カノ、という関係が成立していた。直接的でなかったそれは、私が強引に押しつけた連絡先によって、友達へと変わった。

 友達、という括りの中でも最上級レベルに相当する大切さを私はミコちゃんへ抱いている。血の繋がりはなくとも家族だしね。それは武瑠や心とも共通する。だけど共に過ごした時間が他より圧倒的に少ないし、それに併せてミコちゃんが時々垣間見せる儚さ、というか心もとなさがなお心配を募らせる。

 平気だったとは思えない。犬に噛まれたようなものだと軽く受け流せるような恋愛観を持ち合わせているとも思えない。


 ミコちゃんには悲しい想いをさせないこと。可愛い笑顔をずっと守り続けること。私達家族が神威へ誓わせたことなんて、そんなシンプルなことだったんだけど、シンプルだからこそ多面で奥深い。芯を強く保たないと、他からの醜い力で歪んでしまう。


「……ほんと。良い歳してんのに」


 親にとって、子どもはいくつになっても子どもで、姉にとって、弟はいくつになっても弟なんだ。知らず漏れた呟きにまた苦笑しながら、私は勢いよく浴槽を出た。



 ***



「……ミコちゃん」


 1コマ目へ出席する神威を見送った後、私達はカフェテリアに来ている。神威と二言三言、確認するように言葉を交わしていた心は、普通にしてろ、と背中へ声をかけ送り出していた。神威の目は縋る仔犬のようにただただミコちゃんを追ってたけどね。


 昨晩、明らかに泣き腫らしました、と体現している瞳が切ない。それでも呼びかけににっこり笑って応えるこの小さな存在が可愛い。人間の身体は耐性をつけることで強く鍛えられていく箇所があるのかもしれない。

 それでも、と思う。辛いことなんか、悲しいことなんか無くても、ほのぼのしてる二人の姿を目にするに付け、ああこの子達は何があっても大丈夫だと確信できる温かさ、ってあっても良いと思わない? それともぬるま湯に浸かってると感覚が鈍るから痛点は適度に刺激されなくちゃいけない?


「美琴お姉さん。朝早くから…すみません、ご心配おかけして」

「いいのよー。心に貸し作っとくと後々役に立ちそうだし」

「美琴のそういう理由付け、嫌いじゃないなーオレ」

「分かりやすくて助かる」


 サンドイッチをパクつく私以外の三人は、朝食を軽く済ませてきたと言う。さて、と言いながらスマホを取り出した心は、とある画像を表示させ私達へ掲げ見せた。

 私こんな服、持ってたっけ。瞬間、そんなことを考えてしまった。よくよく見れば自分じゃないと分かりそうなものなのに。


「…え、と。美琴? これ」

「何だか、雰囲気違いますね」


 心の手元を覗き込み、それから私へと視線を向ける二人もいくばくかの不可解さを孕んだ言葉を漏らした。


「私じゃないわよ、それ。その…、そっくりさん」


 何だったっけ。誰だったっけ。

 肝心な相関図が抜け落ちている私に心はうっすらと笑みを浮かべた口元で、神威の担当教授の見合い相手、と的確に応えた。

 うん、そうだった。そうしてその言葉はそのまま武瑠とミコちゃんへも向けられ、二人はポカン顔を心へ返している。


「神威が困ってるこの現状を、俺なりに何とかしたいと思ってる」

「弓削くん…?」


 心、あんたいろいろ端折り過ぎよ。ミコちゃんが心配しちゃって顔色悪くなっちゃってる。武瑠もそれに気づいたのか、詳しく教えて、と心に説明を求めた。



 凛とした姿勢で、これから自身が行おうとする動きを簡潔にまとめ伝える心。ああ、それなら確かに私はあんたの傍にいりゃ良いだけだわね。食べ終わった空の皿を返却口へ戻しながら、大きな窓へ無機質に広がる灰色の建物を眺めた。



 神威。あんたって。幸せ者だね。ちゃんと分かってる? 分かってなかったら鉄拳制裁だよ?


 私の弟は、人に恵まれている。愛される何かを持って生まれている。額を寄せあい話を進める三人の姿を俯瞰しながらそんな風に思った。


 過剰な注目を浴びてきたが故に形成された、一見無愛想な神威の印象は、時に頑強な鎧のように厚く硬くあの子を覆う。だからか、その内側に横たわる真っ直ぐさや柔らかさにまで本当に辿りついてくれる友達が少ないんじゃないか、って心配したこともあったんだけど。

 勿論、神威がその素質に甘えて何の働きかけも何の気配りもしていないとは思わない。あの子もあの子なりに心や武瑠へ発信し続けているものがあるんだと思う。ミコちゃんへは言わずもがな。それでも、さ。自分以外の誰かへ何の見返りも求めず動こうとするその気持ちって、どこから湧き出てくるんだろう。

 私は…“姉ちゃん”だから。それに尽きるんだけどさ。


 行ってくる、と心は教授(准教授か、正確には)を呼びに立ち上がった。つられるように武瑠とミコちゃんも自身のキャンパスへと向かう準備をする。


「美琴、今日は助演女優賞でね」


 ああ、出しゃばるな、ってことね。武瑠。分かった、の意を籠めサムズアップ。

 ふふ、と零れるミコちゃんの溢れんばかりの笑顔は、確か神威が絶賛していた“バックに花背負ってる”というやつで、私は、安堵で両肩が下がった。


 ミコちゃん、本当にありがとうね。ヘタレな弟を見限らないでいてくれて。でも、ミコちゃんなら気づいてくれたよね? 神威、唇の皮剥けて血が赤黒く滲んでた。



 心も、武瑠も。本当に、ありがとう。口に出しては、言わないけど。言えないけど。それも、分かってくれてるよね。



 ***



 申し訳ありません、先生。

 私と同じ空間へターゲットを招き入れた心は、第一声そう言って話を切り出した。


「…弓削くん、と言ったか。キミ、法学部なんだよね? 相談、って転部か何か?」


 細い声がボソボソと応じている。私は優雅に——心の指示通り——紅茶を飲みながらカフェテリアの窓際の席を陣取り、顔だけ窓外へ向けている。


「いえ、転部のご相談ではありません。実は…、先生のゼミで問題となっている件について僭越ながらご進言差し上げたいと」

「問題?」


 細い声が神経質そうに尖った。上手いな、心。あの准教授、一介の学生にすっかりペース持ってかれてんじゃん。


「…あ。ご存知では、ない?」

「…何の話? 何の件だ? 心当たりが…、」


 チラ、と横目で二人を視界に入れる。ああ、何だか悪い人じゃなさそうだけど、うだつが上がらないという表現は的確かもしれない。良くも悪くも“いいひと”で終わってしまいそうな男性。芸術なんちゃら部、に属しているとは思えない風体。立川准教授の第一印象はそんな感じ。いや、本当のお見合いじゃなかったわ、私。顎に手を当てる仕草が内なる不安感を示している。心がそれに気づいていないはずがない。


「実は、私の父の関係で小耳に挟んだものですから」


 父、と語尾が下がった声が自身の記憶の蓄積へ思考を巡らせていることを伝えてくる。次いで弓削って、と紡がれた控えめな言葉。答えを待ってるよ、心。安心させてあげなよ。


「ああ、申し遅れました。私の父は先生と母校を同じくする弓削 真人と言います。そこは、ご存知かと」

「ああ、やっぱり! 弓削先生の、」


 心の持って回ったような芝居がかった物言いも、今は場の空気を圧するのに効果てきめんだ。


「父も、案じておりました。このようなデリケートな問題にどう対処なさるおつもりか、と」


 焦らすなあ、心。デ、って言いかけたみたいだったよ、立川先生。状況を把握できない苛立ちが革靴の先をコツコツと上下させる小刻みな揺れに繋がってる。


「先生のゼミで不法行為が為されている、と。問題視されているようですよ」


 不法行為、とますます尖っていく声は心の言葉をそのままなぞる。不安感が滲み出る声音は暗に先を急げと心に縋りつくかのような。その反芻が示すものは、心への共感というよりも被支配だ。



 神威も言っていたけれど、心の声には不思議と場を圧する力がある。低すぎず張りのある耳触りの良い通る音。法曹界の何を目指しているのかは知らないけれど、弁護側にせよ検察側にせよ判決を下す立場にせよ。心自身が持つ素養としてそれは大きな武器になるような気がした。


「ご覧になっていただけますか?」


 心はジーンズの後ろポケットからスマートフォンを取り出す。そういう所作が妙に学生じみていて私は妙にホッとした。心が心のようで、心でないような。しかもこの互いの顔がハッキリ見えるか見えないかの距離——心の指示だから仕方ない——が、常ならば事態をきちんと把握しコントロールしたがる私にはいても立ってもいられないんだ。



 いくつかの操作を終えた後、心はこれを、と言ってディスプレイを立川先生の方へ向けた。流れ出した映像を見るや 山田くん? と訝しげな声が私が座る場所へも届く。ええええ、私の可愛い弟ですよ。



 見ておくか? と事前に問われたけれど、私は首を横に振った。神威がミコちゃん以外と、という映像は、たとえそれが迫られたもので抗いようがなかったとしても、私の内側へ記憶として微塵も残しておきたくなかった。


「……授業中、なのか? これは」


 依然、顎に片手を添えたままの立川先生はディスプレイに示された日時を確認しているのだろう。どうして、と疑問そのままを口にする。


「先生は教務課から呼びだされご不在だったようですよ。このような行為はこれが初めてではなく複数回に亘って行われているとゼミ内の生徒から苦情の声が上がっていますし、サイトへの書き込みも」

「え…、そんなことが?」


 ああ、立川先生。話は最後まで聴かなきゃ。書き込みが、どうなのか、って。されたのか、これからされるのか、心は何も言ってないでしょ。


「この…山田、という学生ですが。既婚者であることはご存知ですか?」


 神威との関係性に適度な距離を保ちながら話を続ける心。私が手渡していた戸籍謄本をカサ、と先生の前へ広げると確認してくれとばかりに沈黙する。


「本当、だったのか。いや、最近の子は結婚してなくとも“うちの嫁”なんて使ってるし。二十歳そこそこで…」

「そうですね、先生。心情お察しします。私もこれを確認するまではなかなか」


 心は、巧みだ。ディベートで鍛え上げられた論理的思考ゆえ? 嘘をつかず、時に誤魔化し最後までを口にせず、相手にそこから先の話の取りようを委ねる。委ねながらも支配しているのは心だ。


「……ああ、だから“不法行為”なのか。いやしかし騒ぎ立てるような程度とは」

「自宅の方へも関係を迫る手紙が届いているようで、物的証拠もあり奥さんが気に病んでおられます。このままでは体調や日常生活へも影響が出かねない」


 自身の言葉を途中で遮られかぶせるように滔々と語られた立川先生は、苦笑を浮かべたまま意味なく頷いている。心は身を乗り出し、また声を改めて続けた。


「学生ですからね、法に訴えるにはどうしたら良いのかと…、我々のゼミへ相談があったんです。ちょうどそういった民事案件が専門分野の講師陣もおりましたし」

「法に…って。裁判沙汰に、ってこと?」


 心は直接それには応えず、スマホと折りたたんだ謄本をまたジーンズの後ろポケットへしまい込むと、先生、とトーンを落とした。


「……大きく、なりそうですよ。この件。先生側のこれまでの対応も問われかねない。今は、大切な時期でらっしゃるのでは?」


 矛先を美琴の方へ向けるから。俺の声にずっと耳を傾けて。そうして振り向いて笑ってくれ、と。また勘違いしたくもないのに妄想が暴走しそうな言葉で指示を出された。心は、気づくべきだ、その声が、意外と甘さを含んでるってこと。恐ろしい子。



 私はゆるりと顔の向きを変えた。若干、俯き加減から瞬きをしつつ立川准教授を視界へ入れる。ちょっと逆光っぽくてよく見えないけど。

 私、ちゃんと笑えてる? 私なりに極上に分類できると思う笑顔なんだけどね。まあ、椅子をガタン、と鳴らして立ちあがった姿を見ると大丈夫、っぽいな。私は軽く頭を下げ、また窓外を見やる。勿論、耳だけは心へ傾けて。



 この立川先生との件では、私の出番はきっともう終わり。後は心が上手いことやるんだろう。要は、神威とその元凶の女とが同じグループでなくなればいい。もっと望むなら立川ゼミを排斥処分に付されれば、と聡明さが湛えられた瞳をほんの少し伏せ気味に心は言っていた。


(……私は、結局……)


 心が手がけた台本通りに動いているだけだ。この後、例の女とも対決するのだと心は苦々しく口にしていた。私はその舞台でも某かを演じることになっているらしい。



 何だろう。何なんだろう、この。モヤモヤした感じ。

 心をチラ見してもそこに答えなんてあるはずもなく、かえって立川先生と目が合ったような気がしただけ。私はもう一度、ニコリと笑って頭を下げた。


(気に入らない、のかな…)


 別にいつだってみんなの中でイニシアチブを取りたい訳じゃない。そんなガキ大将じゃない、けれど。あんな風にいきいきと、私は神威の役に立ててない。心、みたいには。


(……私は結局、何にもなれてない)


 迷いのない凛とした心の姿に抱くのは、見当違いの嫉妬なのかもしれない。大学を卒業してもなお学生の私は目指すものがあっても遠く、中途半端な身。目に映る学部棟のくすんだ色が私の気を滅入らせて、美琴、と呼ばれた穏やかな声にしばらく気づかなかった。


「……美琴? どうした?」


 何度目なのか分からない。やっと耳に入ってきた心の声は、小さなため息の後に続いていた。ああごめん、と返す変哲のない言葉は私にしては歯切れが悪い。


「……具合が悪い? 眠い? 腹減った? 気に入らない?」


 テーブルの向かいに座り頬杖を気だるそうにつく心は、相変わらずの穏やかな声で私に幾つもの選択肢をぶつける。気に入らない、を最後に持ってきて。それまでのはブラフなの? 心。


「何でもない、はナシだぞ、美琴。何年のつき合いだと思ってるんだ」

「……何も答えてないのに」


 紙コップの中に残っていた紅茶を私はクイ、と飲み干した。空になったそれを私から奪うと、心はベンダーの近くに据えられたゴミ箱へ器用に投じる。乾いた音を立て綺麗に吸い込まれた紙コップ。私は何故か眉をひそめた。


「……心って。何でもそんなに器用だった?」

「……何の話だ?」


 いや、器用だった。神威よりも武瑠よりも、いやもしかすると私よりも心は賢くて何でも出来て卓越してた。そんなの、知ってたはずなのに。


「……心が。心じゃないみたいだった」

「……ああ。だから気に入らなかったのか」

「そんなこと言ってない」

「美琴は分かりやすいんだよ」


 だから助かるんだ。

 向けられた伏せ気味の横顔はうっすら笑っているらしい。あんた、分かりづらいわ それ。何がよ? と努めて平淡に聞き返しても心はそれに直接応えることなく、まあ歩こう、と何気に誘う。


「……ヒーローぽかったか? 俺」

「そうね。長谷川平蔵親分、みたいな」


 ああ、やっぱり和風なのか。そう言って心はまたうっすら笑う。私の言葉はいつもみたく立て板の上を滑らかに流れていかなくて、半歩前を行く心との物理的な距離がリアルで、その背中も妙に広く見えて。

 私、何がこんなに気に入らないんだろ。神威のために動いてくれてるのに。

 そっとついたため息を、心に聞かれたくなかった。




 立川先生は、私のことをお見合い相手だと勝手に勘違いしてくれたらしい、それこそ心の思う通りに。心は、嘘を吐いてない。ただ、何も伝えてないだけ。本当のことを。

 知り合いなのか、と問われてそうだと頷いた心。そこも嘘じゃない。学内を案内するんですよ、と告げれば何か言いたげな立川先生の顔がそこにあったんだって。


「お見合いなさるそうですね、と話を向けたら。何もかも、いろいろこの話に賭けてるんだと言っていた」


 心の声音に苦々しいものが混じったせいか、私の頬もわずかに引きつった。なかなか教授になることが叶わず藁をも掴みたい男。勝負のコマみたくお見合いに駆り出されるお嬢さん。結婚、ってのは、世の中の全てのケースが神威とミコちゃんのようにキラキラしてる訳じゃない。打算も妥協も無関心も、そこにある。


「……悪い噂を立てられたくない、と。言われて、そこにつけ込んだ」

「………」

「流石にゼミから追い出してもらうのは無理だったけれど、今日から同じグループではなくなるはずだ。まずは接点を減らさないとな」


 ありがとう、って言うべきなのか。神威のためにありがとう、って。でも、気に入らないんだ、私。


「……美琴?」


 違う。気に入らない、んじゃなくて他にやり方があったのかも。そこを考えようともせず、ただ話に乗っかった自分が不甲斐ない。だって心が一人“つけ込んだ”なんてネガティブな気持ちを抱く必要はないのに。


「どうしてよ? どうしたのよ?」

「美琴? なに…」

「ヒーローぽかったけど…ぽかったけど! でも! そうあって欲しいなんて全然…っ!」


 私が何にもなれてない間に、心は。いや、もしかすると神威も武瑠もミコちゃんも、みんな。私のこと追い越して何かになっちゃってるの?


 授業中だから学内を行く学生の数は多くないけれど、それでも私が上げた少し大きめの声に、振り向いた顔は見て取れた。マズイ。私は今、山田美琴であってそうじゃなかった。学内をお知り合いの弓削くんに案内してもらってる立川先生のお見合い相手、だった。


「美琴…、」

「ごめん、何でもない。行こう、次のとこ」


 入手した連絡先を頼りにファミレスで待ち合わせをしているのだと言っていた。神威にチューしやがった不届き者と。そこでも私はただ心の隣に座っていれば良いと言われただけ。


「何でもないはナシだと言ったはずだぞ、美琴。お前の考えてることが分からないなんて、この俺が。許せるか、そんなの」

「どこの俺様よ」


 本当に心は己の秘めた色気とか力とかに気づくべきだ。おそらく無意識なだけにタチが悪い。ほんの少し眉をひそめ、切なげな瞳は何かを探ろうと私から微塵も逸らされない。でもへの字に歪んだ唇がどこか幼くて。


 心、ってこんなだったっけ。いつの間にこんな、大人になってたんだっけ。いや私が、成長してないだけなのか。今までつき合ってきた年上お姉様方は心のこういうとこに惹かれたのか。母性本能をくすぐる、ってやつ?

 そうやって思考を逸らし苦笑を浮かべ目を逸らさないとざっくり絡め捕られてしまう。私は“神威の姉ちゃん”でしかないんだから。


「心が一人カッコつけてんのが気に入らなかっただけ。私のことわざわざ呼び出したんだから、もう少し活躍できるのかと思ったら」


 そう言い置いて心の脇を通り抜けようとした。…抜けられなかったけど。嘘つくな、なんて、睨まないでよ、腕 掴まないで。


「嘘じゃないわよ。あんた一人、ネガティブな感情抱く必要なんてないじゃない。そんなんでヒーローなんて切ないわ」


 傍から見て奇妙な痴話げんかの類だと思われたくない。私は声を抑え心をきちんと見上げ表情をできるだけ和らげながら言った。だから、そんな、強い眼力浴びせられても。


「……じゃあ、どうすれば。どうすれば良かったんだ? 誰かを守るために一人前じゃないガキが出来ることなんてたかが知れてるじゃないか」


 教えてくれ、と私を揺さぶる心の表情には悔しさも切なさも綯い交ぜで。いや、そんな顔したいのは私の方だから。そう思えば下唇をきつく噛んでいた。


「…美琴。血、出るぞ」


 出る訳ないでしょ、と零れ落ちそうだった言葉は、ツイとなぞられた心の長い指が遮った。おかしい。心との至近距離接触なんて何度もあったのに。あんた、早く離しなさいよ、その指。


「ガキじゃ、なかったわよ。心が、大人に見えた…きっとそれが悔しかった」

「悔しかった?」

「そうよ。その役回りに近いのは、私だと思ってたから」


 だけど、違ってた。そんな気がした。物理的に離れたこの三年間、最も身近にいたはずの私は、神威のことも武瑠のこともミコちゃんのことも。そうしてこの、心のことも。年に数回、帰省の折に触れ合うだけで分かったつもりになっていて、変わらないね、なんて常套句で済ませて。本質の成長と変化に気づけずにいたんだ。


「大人に…見えたか、俺」

「昔からフケてんのは変わらないわよ」

「その自覚はある。そういうことじゃないだろ」


 茶化すな、といまだ視線を据え置かれたまま丁寧なお叱りを受けた。離れていく指は昔からそんなに男っぽかったか。本当に、おかしい。心が、心じゃないような場面を目にしてしまったからかな。私は心を、昔から知ってる神威の友達の心だと正しく理解できてないらしい。


「女一匹、23歳。いろいろあんのよ、考えごと。…ごめん」

「この期に及んで突き放すような言い方するな。美琴のごめん、はそれ以上踏み込むなってことだろ」


 何よ、この若年寄り。図星指されると人間苛立つものなのよ。私は目を眇めて心を見る。


「何なの、あんた。教授譲りの読心術かなんか?」

「美琴のことは俺が一番よく分かってる。たぶん神威よりもな」


 分かってないわよ。何、笑ってんのよ。

 私のこのハリウッドオファーが来てもおかしくない演技力を以てして演じきってる“神威の姉ちゃん”を簡単に引っぺがされてなるものか。だから私は隠しごとをしない。当たり障りのないところはね。


「私の方が、人生の先を行ってた。二つ上で、先に中学生になって高校生になって大学生になった。…でも、今は同じ学生」

「……そうだけど」

「私はまだ、途中。中途半端で何にもなれてない。それなのに心はちゃっかり親分になんかなっちゃってて」

「ヒーロー、な」


 またご丁寧に訂正してくれたわね、心さん。でも、とその先に何を続ける気? 私には心の言葉の先が読めないのに。


「美琴は。ずっと神威の姉ちゃんだろ。そこは誰も取って代われない」

「羨ましいの? この立ち位置」


 ふい、と合わせていた目線を逸らし先に立って歩き始める。ちょっと不自然なんだけどね、私はその待ち合わせ場所である近くのファミレスとやらを知らないんだから。それでも心の半歩前を行きたかった、いつもと変わらぬ自分であると主張するかのごとく。すぐに追いつかれて隣に並ばれてしまうけど。


「永久で、絶対的なポジションじゃないか」

「まあね。つか心、なに言いたいの? 私だって神威の大切な友達には取って代われないわよ」


 それにさ。あんたの口から“神威の姉ちゃん”と改めて口に出されると胸の奥の蠢きがやけに騒がしくなるワケ。分かっちゃくれないだろうけど。もとい、分からせないけど。


「……昨日は神威、落ちまくってた」

「……申し訳ございません。相変わらずのヘタレ弟で」


 それでもやっぱり可愛い弟なんだよね、と苦笑しながら口には出さず私の中だけで秘める。何だろうね、この姉気質。私がいなくたって神威はちゃんと生きていけてる。可愛い嫁もいることだし。私を闇雲に追いかけてきて転んだりしない。なのに。


「武瑠も俺も…、どうすべきか分からなくて。浮かんだんだ、美琴と葛西の顔が。咄嗟に」

「うん…、ん?」


 声音はほんの少しの悔しさを孕んでいた。何気なさを装ってても、わずかにひくつく心の頬の筋肉が私にそう伝えてくれる。ここは、見て見ぬフリをすべきなんでしょうか、年上のイケてる女子としては。


「勿論、安直に頼ろうと思った訳じゃない。それでもどうしても、三年前のことを思い出して」


 コク、と心の喉が鳴り、その骨ばった箇所が色っぽく上下する様を見上げていた。ん、と私も喉の奥で応え、大きな背中をポンポンと撫でる。時々、思い出す作業はきっと必要なことなのだ。完全に忘れ去ってしまうという行為はあまりに不自然で不健康だから。


「……美琴や葛西だったらこんな時どうするんだろう。何と言って神威へ声をかけるんだろう。どう対処するんだろう。悔しいじゃないか、俺は美琴に勝てる気がしない」

「口では、ってことでしょ?」


 違うよ。

 そう言って心は不意に、私の身体が向かう先を長い腕で遮った。


「危ないぞ、美琴」

「!っ、ああ…、」


 気づけば正門前までたどり着いており、風のごとく疾走してきた自転車野郎から轢かれるところだった。ああ、それでね。守るように庇ってくれたのか。ボンヤリしてるな、私。ありがと、と返すお礼に鼓動のボリューム音なんて聞かせちゃいかん。


「“ヒーロー”なんて言いながら。実は憧れはずっと身近にあった」

「何の格言? それ」

「美琴は分からなくていいよ」


 は? と片眉だけつり上げる私を残し、心はクツクツと笑いながら横断歩道を先に行く。だから待ちなさい、ってば。あんたの話は何だか哲学めいていて、いや、深層心理を試されている気すらして。賢い子と会話するのは大変だ。



 ***



 ファミレスの店内をぐるりと見回したところで、待ち人らしき女の子はいなかった。まだか、と低く呟く心の声がいらっしゃいませ、と響く無駄に元気な挨拶でかき消される。女の子、としたところにいくばくか残る私の優しさを感じてほしい。

 何か深いワケありで神威にキスしちゃったのかも、って本人を目にするまで断定できない私は、八方美人なのかもしれない。

 許しがたいものは許しがたい。でも、先入観を持たないフラットな精神状態ってカウンセリングには必要なの。


 ウェイトレスのお姉さんから案内された窓際の席へ、私と心は移動する。真向かいに座るものだと当然のように思っていた私は、心にもう少し詰めて、と言われ思わず顔を見上げた。


「なぜに?」

「隣しかありえないだろ」


 いや、真正面という選択肢もありますが。私の訝しむ視線を余所に、心はまたクツクツと笑いながらドリンクバーでいいよな? と確認を取る。

 何なのかね、昨日の電話から。萌えちぎれそうな発言がチョイチョイ出てくるんだけど、この心の口から。私、彼氏いなくてそんなに寂しかったのかね。


「美琴は、俺の隣にいてくれればいい」


 ほら、また。勘違いしそうになる私の脳を叱咤し、こみ上げる苦々しさに口元が歪む。笑顔のウェイトレスさんへドリンクバーを注文し終えた心へ、コーヒーお願い、と頼んだ声はやけにぶっきらぼうだった。


「スマホで録音してくれ、この会話。美琴は法学部の講師、って設定」


 私の分と自分の分と、注いできたコーヒーカップをテーブルへコトンと置きながら心は言った。ありがと、とお礼を言い、分かった、と形ばかりに頷く。量産された茶色の液体がやけに苦く喉を通った。


「専門的な話になる? 私、法律関係はあんまり」

「いや、そこは俺が。第三者の立会いのもと、警告が行われたという事実が残せればいいんだ」


 私に傍にいろ、なんつっといて。結局、何でも心がやっちゃうつもりなんじゃん。朝早くからやって来たっつーのに、私の胸の内にはまたモヤモヤしたものが広がり始める。


「そう面白くなさそうな顔するなよ。美琴じゃなきゃ出来ないことなんだぞ」

「そんなことないでしょ。ただあんたの隣に座ってりゃ良いなんて誰だって出来るし、やりたがる子は募集でもすりゃごまんといるわよ」


 具体的な役割が明確に示されない今日の私は、ただ心のお飾りみたいでムカついているのかもしれない。


「神威のために見返りも他意もなく動く人間なんて限られてるだろ」


 まあ、そりゃね。

 ふと、いつだったかバレンタインデーにチョコレートを段ボール箱いっぱいに持ち帰って来た神威の姿が浮かんだ。お返しなんてどうすればいいんだよ、と半ば泣きそうに歪んでいた神威の綺麗な顔を思い出す。

 他人から押しつけられる一方的な熱を持て余し、律儀に応えようとしてでも返せなくて、そんな自分を卑下してあの子は人づきあいが苦手になっていった。


「それに」


 声が私に向けられていることに気づく。私は窓の外、横断歩道を渡りこちらへ近づいてくる一際派手な女の子の姿に目が釘付けだ。


「募集したところで、俺が嫌なんだよ。気安く隣に座られるのは」


 美琴が、いいんだ。

 口元に寄せられたコーヒーカップの中へ沈む心の声。聞き返そうとしたけれど、いらっしゃいませ、の大きな声に遮られた。



 心の言葉に気を取られて、私はその子を認めるのが一瞬遅れた。もう一度問うて、確かめたかったけど、深意を。今はそんな場合じゃない、と神威の顔を思い浮かべ無理やりにでも事を優先させようとする自分に苦笑した。…意識、しまくりじゃない、私。


「…昨日の人よね?」


 ウエイトレスのお姉さんへアタシも同じの、と頼むと向かいのシートへどっかり座ったその子。ド派手だな、こりゃ。神威の一番苦手なタイプ。オンナを前面に出してすり寄って媚びるタイプ。いや、激しく訂正するわ。私が一番許せないタイプだ。


「ねえ、何の話なの? こんなとこに呼び出して。山田クンに関係あること?」

「その前に。録音していいか? 今からの会話」

「はあ? 何のため?」


 何のためか、と理由を問い質したにもかかわらず、その女(いやもう女でいいでしょ、女の子とか優しさは要らんでしょ)はドリンクコーナーへカツカツとヒール音を響かせながら向かう。


 肉感的、って表現で合ってる? 仮にも専攻は芸術なんちゃら部なんだし、神威達と同じ大学ならそこそこ高い偏差値だと思うんだけど。個性というか我というか、それは嫌というほど感じられても、残念ながら品とか知性とかはアリの触覚ほども無いわね。

 まあ、隣で盛大なため息を漏らす心にホッとした。あのボンキュッボンに対する感嘆の吐息だったら今すぐぶっ飛ばすわよ。


「第三者の立会いのもと、俺は君へ警告を行った。その証拠とするべく、録音したい」

「警告って、何のよ?」


 アイスコーヒーへストローを差し入れる女の指先には真っ赤な地に金色のラメでラインアートが描かれている。家事とか、ロクにしてないんだろうな。そんな長い爪で挽肉こねたりできないよね。つか食べたくないけど、そんなの。ミコちゃんの美味しいハンバーグを思い出して、私はうっすら眉をひそめた。


「君の不法行為についての警告。録音していいのか? どうなんだ?」


 いいけど、とその女は口を尖らせながら不服そうに言った。

 ちゃんと、分かってんのかな。アナタはこれから物凄く言葉を選んで話さなきゃならないってこと。心はジーンズの後ろポケットから自身のスマホを取り出すと、幾つかアイコンをタップして録音を始めた。ピコ、と鳴る電子音に私一人が緊張している。


「不法行為、ってどういうこと? アタシ、山田クンにまだ何もしてないわよ?」


 まだ、って何だ。何もしてない、って。これから何する気だってんだ、この。

 フツフツとこみ上げる怒りをやり過ごさなければと私は椅子の上で軽く身を捩った。心は女の下世話な疑問は聞き流し、抑えた声で早速 質問を繰り出す。


「君の名前、生年月日、現住所を」

「……柳井 ほのか。てか、このヒト誰?」

「俺の先輩。立ち会い人。生年月日と現住所」


 私は出来るだけたおやかな、余裕を感じさせるような微笑みを浮かべ頭を下げる。うん、先輩ってのも嘘じゃないね。柳井ほのかは心の強制力ある声に応え、しぶしぶ生年月日と現住所を告げた。


 私のことを顎で指し気にしたのは、恐らく気勢を殺いで話を逸らしその隙に会話のイニシアチブをとりたかったからだと思われた。そんなの心が許すわけないでしょうが。


「山田 神威は結婚している。本人はそれを入学時から公にしているが耳にしたことは?」

「嘘でしょ? あれ。てか噂? とりあえずあんなチビで地味子が山田クンの彼女だなんて。アタシ的には、ないの」


 アンタ的な有無なんて聞いちゃいないんだけど。座り方が前のめりになりそうで自制し、無理やり背を背もたれに押しつけた。そんな態度は、後輩につき合わされてる第三者の先輩がとる姿勢じゃないと思う。相手へ傾倒する身体は、そのまま興味関心の度合いを暗示してるから。


「君に御子柴の社会的評価を害する権利はない。名誉毀損罪にも問われたいのか」


 心の声には明らかに怒りが含まれている。それは旧知の間柄だからこそ分かるくらいの隠しようだったけど。私は、と言えばたぶん毛穴から噴き出してる。柳井ほのかが私をいないもののように扱ってくれるのが逆に助かった。


「ほらあ、御子柴、って呼んでるじゃん。アナタもだけど、昨日いたもう一人の男の子もさ? 別に“山田”じゃないじゃん」

「御子柴、は旧姓だ」


 心はさっき立川先生へ提示した書類と同じものを柳井ほのかの前へ広げて見せた。今日初めて彼女が纏う戸惑いの空気。公的な書類が示す神威とミコちゃんの関係。それでも柳井ほのかは強気にフン、と鼻を鳴らし鷹揚な態度を崩さない。


「結婚してるから、って。恋愛まで禁じられてるワケじゃないでしょ? 例えばこの先、山田クンがアタシを好きになって奥さんに別れて欲しい、って言ったら、アタシ刑務所行き?」

「禁固刑もあり得るさ、刑法の名誉毀損罪に問われれば。損害賠償にも応じなければならないだろ」


 よく知りもしない相手から指摘を受けている悔しさから、なのか、心を挑発しているように見えた。冷静に応える心の動じなさに柳井ほのかは瞬間 鼻白み、それでも声高に怒りを露わにする。


「アナタさ、何様なワケ? ただ法学部って、山田クンの友達ってだけでここまでする権利あんの? 結婚してる人を好きになっちゃいけない、って法律なんかないはずよ?」

「確かに。日本国憲法は自由主義を背景に規定されているし、個々人は最大限に尊重を受けるべき、と解されている」


 立ち会い人、って一言も喋っちゃいけないんだろうか。何だってまた神威はこんな女に目を付けられたんだろう。いやでも私、これだけ怒り心頭だったら冷静な言葉なんて微塵も紡ぎ出せない。どうか、心。私の代わりに言ってやって。


「でしょー? だから自由じゃん、アタシが山田クンへどんなアプローチしようと。身体の関係持つのがヤバイことくらいアタシだって分かってるし、でもそれも証拠がなきゃ——」


 私はもう限界だと分かった、私自身が口を噤んでいるのは。その言葉を耳にした瞬間に感じた。だから背もたれから背を離した。座っているシートに右手をつき無意識に態勢を整えようとした。なのに。


「だからと言ってそれは放縦な他害行為を容認している訳じゃない。言ってる意味が解るか?」


 心はわずかに身を乗り出し、それまで膝の上に置いていた右手を静かにテーブルの上へ置いた。私が息をのんだの、気づいた? 心は私の右手を大きな左手で押さえつけた。



 待て、と言われたようだった。或いは口を出すな、だったのかもしれない。とにかくも心の目論見は容易く成功した。

 咄嗟のことに驚いた私はピクリと身じろぎしたものの、その後の動きは完全に断たれたんだもの。柳井ほのかの視点からは見えないだろう、私達の重なった手。


「あー、難しい言葉使ってたじろがせたいのね? そんなの全然効かないんだけど。あれでしょ? 何でもアリってワケじゃないとでも言いたいんでしょ?」

「その通りだ、賢いな。でも君がこの先どう立ち回ろうといずれかの罪には問われる。そのリスクまで十分理解しているのか? 親切心からの警告なんだぞ?」


 リスク、という不穏な響きを柳井ほのかは口の中で小さく呟いた。まだ残る自尊心がニイッと口端を上げようとしたんだろうに、陰った不安が不細工な表情を作っている。


「どういうこと? 山田クンが離婚するまでセックスは我慢するわよ? ああでも来月、ゼミ合宿っていう公認お泊りのチャンスがあるんだわあ」


 忘れてるんだろうか、この女。自分の発言は録音されてるんだ、ってこと。何が起こるか分かんないわね、なんて。でも結局、証拠能力は低いと考えてるんだろうか。不倫自体を裁く法律は無いから。だからどこまでも尊大で強気。


「君はもはや山田神威が独身ではないことを知っている。だから故意でなかったと貫き通すことはできない。神威と御子柴の夫婦関係はいたって円満で破綻の兆しすら見えない」

「……で?」

「連絡や交際を強要したり公衆の面前でキスしたり。御子柴が被る精神的苦痛はいかほどのものだろうな? ストーカー行為等規制法にも迷惑防止条例にも抵触するかもしれない。ああ、あくまで仮定の話だ。君が同じ様なことをし続ければ、という」

「麗しき友情ね? だったら浮気の一つや二つ甲斐性だとか思わないんだ? 生真面目だとしか言い様がないわあ、彼女以外、とか奥さん以外、とか楽しんだっていいじゃん。明日死ぬかも分かんないのよ?」

「神威はそんな刹那主義でも快楽主義でもないよ。人間の寿命は保証されたものではないが、愛する者との何年もの先にきちんとビジョンを据えている」


 意味分かんない、と言い放ち柳井ほのかはアイスコーヒーの残りを啜った。不機嫌さそのままにズ、と無様な音を立てる。


「君は同じゼミなら知ってるんだろう? 神威がどんな建築物に興味を持っているか」

「知ってるけど。山田クンなら意匠だって住宅建築だって都市空間設計だってすっごいセンスあるのに、カフェにばっかこだわってんの」

「御子柴との未来のためなんだよ」

「……なにそれ」


 気に入らないとでも言いたげに柳井ほのかは眉間に深い皺を寄せた。ガキっぽいと言われても構わない。神威はね、ぜえぇぇったいアンタになんか見向きもしないわよ!


「君は、本当に神威のことが好きなのか? ただ単に自分の魅力へ靡かない男が物珍しくて躍起になってるだけなのか?」

「何? その失礼な二択。好きに決まってんじゃん。だから手に入れたいんじゃん!」


 眉間だけでなく鼻の付け根にまで不愉快そうに皺を寄せた柳井ほのかは、心をじっと睨みつけている。威圧感で心に勝てるはずがない。こういう場では先に苛立ちを隠せなくなった方の分が悪いんだ。それでも最後までジタバタせずにはいられないんだろう。勝負、って訳じゃなくても己が非を認めてしまったら神威に近づけなくなると分かっているから。


「そういう綺麗ごとって超ムカつくんだけどアナタさ、恋愛したことないの? 好きだから振り向いて欲しい、手に入れたい、でもままならなくて悔しくて苦しくて歯がゆくて、もう少し早く出逢えてたらって恨めしくてたまんなくて、良くないことだって知ってても自分を止められない、みたいな気持ちってさ、分かんない?」


 分かんないんでしょうねー、と小馬鹿にしたようなせせら笑いと共に歪んだ口元から言葉が次々に繰り出される。道ならぬ恋に苦しむ世の女性の代表みたいに言ってくれたわね、あんた。分からなくはない、ほんの少し。経験者じゃないからよく分かるとは頷けない。でも、分かりたくない。コイツの言葉に微塵も同意したくない。


「それこそ、綺麗ごとじゃないのか? 君は今、自分自身でこの恋は苦しくてままならないとカテゴライズしたようなものだ」

「だったら何なのよ? 回りくどくてヤんなっちゃう」


 穏やかな口調は相変わらずのまま心はすう、と息を吸う。一気に吐露しようとするその身構えは、未だ繋がれたままの手に力も籠めた。


「一体幾つに分類されてるんだ? 君が言うところの“恋愛”ってやつは。幸せな恋、悲しい恋、辛い恋、秘密の恋。そんな分類法で間違ってないか? そうやってその時々で銘打ったタイトルの恋愛に酔いしれるのか? 俺は、」


 心は一旦、息をのみ言葉を閉じカップからコーヒーを口にした。その僅かな間は柳井ほのかへ身構えろ、と暗に示唆しているようでもあった。今からもっと“口撃”するから、と。


「あらゆる感情が綯い交ぜに襲いかかってこようと逃げることなく向き合って、そうしてその未来に穏やかな幸せを見つけていく。そういうのが本物の恋愛だと思っている。俺の恋愛観なんて押しつけるつもりはさらさらないが、神威と御子柴を見てきた結果、そう思う」


 苦々しく歪む柳井ほのかの表情は心と対極にある。神威のことを、ミコちゃんのことを脳裏に描いてるんだろうか。心の頬には柔らかい笑みすら浮かんでいた。でも指先から伝わる熱さは小さくトクトクと脈打っていて感情の昂ぶりが内側に存在することを教えてくれている。


「苦しくてままならない恋なんだ、だから、と。そう掲げておけば君の一連の行動は仕方ないと諦めてもらえるとでも思っているのか? 俺にはそう聞こえたし、それが子どもの我儘とどう違うのか教えてくれ」


 柳井ほのかの口の端は奇妙なひくつきを見せている。ワガママ? とわざとらしくゆるりと吐き出されるそれは、心にとって何の威嚇にもならない。

 柳井ほのかの口が動くのを心は暫く待った。私はずっと二人から視線を逸らしたまま傍観者を気取っている。


 全面的に否定はされない。けれど発した言葉を少しずつ捻り潰されていくような歯がゆい感覚を、この気位ばかり高そうな女はどこまで我慢出来るんだろう。ほら、今も、心は柳井ほのかの唇の動きを察知し、わざとのように機先を制した。


「子どもの頃、読んだ絵本で。人の手で作られた紙のロボットが実際動けるようになって。人間の幼稚園へ遊びに行くんだ」


 遮られた挙げ句、何を言い出すのかと柳井ほのかの目は恨めしく心を睨みつける。

 ごめんね、心。こんなマイナスの眼力、あんたが浴びせられるいわれはこれっぽっちも無い。なのに、ありがとう。私は無関心を装いながらひたすら胸の内で感謝と謝罪を繰り返した。


「積み木で遊んでいると、必要な形の積み木が足りなくなってしまった。辺りを見れば、まさにその積み木を使っている友達がいる。ロボットは“貸して”と言って積み木を手にする、友達の了承は得ないまま。はたしてその友達の作品は崩れてグチャグチャ、その子は泣き出す。でもロボットは言うんだ。“ボク、貸してね、って言ったよ”」


 ギ、と奥歯を噛みしめるような音が鳴った。不快なそれは柳井ほのかの頬を紅く染める怒りによるものだろう。前のめりだった身体をテーブルから離し、全身で表現しようとしているのは。

 興味は失せた? 意味が分からない? もう話は終わり? これ以上は我慢できない?


「君の行動は」

「もういいわ」


 柳井ほのかの人工的な爪がスイ、と伸びテーブルの上で静かに働いていたスマホのディスプレイを触る。画面との接点がカチカチと耳慣れない音を立て、ボイスレコーダーの動きを止めた。


「……ここまで、する? 友達だ、ってだけで」

「友達だから、だ。俺は友達だからこそ俺にしか出来ないことを神威と御子柴のためにしたい。ただ慰めるだけなら、昨日、あの場で傍観していたクラスメイトと変わらない」


 エクステなのか、不自然なほど綺麗に揃った睫毛を俯かせ、柳井ほのかは深く深くため息を吐いた。さっきからずっと変わらず歪んだ口の端。不愉快さはそこへ一点集中しているけれど、紡ぎ出す語彙は尽きたのかもしれない。


「まあ、結局。アナタ、アタシの行動を制限できるワケじゃないんでしょ?」


 残念ながら、とさして残念がる風もなく心は応じた。

 目線はさっきの操作の後、スリープ状態になった真っ暗なスマホのディスプレイへと落ちている。


「綺麗ごとばぁっかでムカつくし。恋愛観も友情も未来だの愛だの、シラけるし引くけど」


 別に止めようと思わない。

 きっぱり言い置いて柳井ほのかは席を立とうと小ぶりなバッグを手にした。


「じゃあ君はこれからも神威と御子柴への迷惑行為を止めるつもりはないと?」


 フン、と鳴らした小鼻がピクリと膨れた。柳井ほのかは自身で動きを止めた心のスマホを手にすると、ヒラヒラと奇妙に片方だけ上げた口角の傍で振りかざした。もう録音してないわよ、とでも言いたげに。


「止めないわよ。これだけ言われてさ、ムカつくじゃん? 逆にアナタへの当てつけも兼ねて止めないわあ。高尚なお友達様? せいぜい頑張って?」


 山田クンお気の毒。

 その言葉を最後に柳井ほのかは心のスマホをパタン、とテーブルの上へ置くと、意識しているのかしていないのか、腰高のプリプリした後姿をくねらせながらドアを乱暴に押し、店から出て行った。当然みたくレシート置いていきやがったわね。


 その後姿が完全に視界から消えると、私は立てかけられたメニューの後ろから“私の”スマホを取り出した。SDカードへ録音中だったそれは、未だ動きを止めていない。テーブルの上に置いた心のスマホとは別に、私のスマホは一部始終を刻み込んでいる。証拠集めの時には、録音端末を二つ用意するのが定石なんだとか。

 真実はいつもひとつクン情報なんだろうか。

 まあ、録音を拒否られるか途中で止められたとしても記録にはなる、と言っていた心の懸念は杞憂だったね。


 左手は利き手じゃない。上手く操作できない。私は心の掌が重なる右手に目をやり、心の顔を覗き込んだ。離すよ? いちいち確かめることでもないんだろうけどさ、あまりにも心が動かないから。

 自由になった右手の指でディスプレイをタップし、私はふう、と息を吐き出す。やっぱりそれなりに窮屈な気分だった。


「ありがとね、心」


 まず言いたかったのは、これ。それから、ごめんね、と続けた。


 話の方向がどう動くのか想像できない。それでも某か人として考え直すきっかけになって、神威と御子柴だけに向いている執着を逸らせればな。あくまで“警告”だから、今日は。

 私のスマホのボイスレコーダーへ、日時と私鉄沿線で人身事故があったという特定の時事ネタを静かに語りかける前、心の穏やかな声は今日の目的をそう教えてくれた。


「……どうしたんだ、美琴」


 らしくない、と口元だけで緩く笑われた。失礼な、私だっていい大人ですよ。御礼も詫びも出来るっつーの。神威のために、ミコちゃんのために。


「神威が。前みたく一身で傷を負わなくて済むように」

「そんな大層な考えは持ち合わせてない。ただ実践を経験したかっただけだ」

「そう。心は分かりづらいからね、そういうことにしておきたいならそうしとく」

「そうしてくれ」


 似合わないな、心にファミレスって。背景の喧騒から心だけがぽっかりと切り取られ浮き出ている。凛として姿勢良くコーヒーの最後の一口を啜る様は端整だけれど、峠の茶屋で薄茶に和菓子とかがよっぽどしっくりくるなあ。脇差し抜いて肘ついたりしてさ。


「…ありがとう、本当に」


 知らず、言葉はこぼれ落ちた。どんな理由であれ、何者かと真剣に対峙するのはきっと相当に力を要するはず。肉体的な力だけじゃない、精神的な内なる力も。

 それなのに心は、ぐったりと脱力するでもなく呆けるでもなく、いつもと変わらず飄々と淡々と所作を進めていく。御礼も詫びも要らないのだと言って。

 どうしてそんなに当たり前にしていられるのよ? 問いかけるように強い私の眼力は、心をゆっくりと振り向かせた。


「俺も美琴へ礼を言わなきゃな。助かった、ありがとう」

「?…私は、別に何も」

「傍にいてくれたじゃないか。今日はそうして欲しかったんだ、それだけで良かった」


 ふ、と目元まで緩まされれば、それまでの険しく一部の隙もない遠い雰囲気は途端に見慣れた弟の友達に変わる。うん、変わった。んだけど。


「……私、だけど」

「何が?」

「あんたの目の前にいるの」

「ああ、美琴だな? その認識は充分出来てるぞ。味覚と触覚以外の感覚で」

「甘言に惑わされそうになる」

「そこに味覚あったな。惑わされとけよ。ああ、触覚も」


 私の右手はゆるりと心に取られ、立ち上がれと促される。レシートを二枚掴んでレジへと進む背中。

 うわ、何だろう。帰りたい。手を引かれ今日このまま連れて行かれたら、私は神威の姉ちゃんでい続けられないかもしれない、そんな予感。


「まだ時間、大丈夫なんだろ? 昼メシ食おう、話したいことあるしな」

「話」


 ドク、と高鳴りそうだった自分の胸の内を叱咤した。バカだ、私。あれでしょ、真坂右京との面会の件。それ以外の話である訳がない。

 どうしたって今日は調子を狂わせられている。


「非日常性を演出して関係を変えようとするのは効果的なのかはたしてリスクが高いのか」

「何? てか手 離して。歩けるから」

「いや、これも実践経験」


 さっきからブツブツと何を言ってるんだろう、心は。賢い子との会話って大変。堅く繋がれた手を見やり私は肩を落としながら引きずられた。

 私のこと分かりやすい、って言うんならさ。とっとと察して、生き惑う私に神威の姉ちゃん以外の道を教えなさいよ?


 心は背が高いから腕も長い。ついでにガタイも良いから並んで歩くと細い歩道で道行く方々の邪魔になる。自然、引きずられるような格好に。

 意味分かんない、何の実践経験だ? 補導? 連行? 任意同行?…は、警察の人の仕事か。


「何時の電車で帰るんだ?」

「16時。ミコちゃんの顔見て帰りたい」

「神威じゃないのか、そこは」

「見飽きてる、そこは」


 なあんて言いながら気にはなるけど、まあミコちゃんがいれば大丈夫でしょ。神威、まだ捨てられそうじゃなかったし。

 ニコリと笑って神威くん、って家族の前であまりデレデレと展開されない(その点、神威は所構わずだ。本当にアイツはバカか欧米か)その控え目な仕草が私は好きだ。作り付けたような中身のない女子力の披露とは違う、ミコちゃんの人間味を感じられる温かな幸せがそこにある。


「……美琴の未来に、俺はいるか?」

「え、何? 突然。神威と友達やめるの? ついにお見限り?」

「いや、やめたいのはその関係ではなく」

「あ、違うの? ならいるでしょ。私、ミコちゃんのカフェに入り浸る予定だから、心も遊びに来るでしょ」

「そうか…、じゃあ俺達、ずっと笑って生きていけるな」


 何それ。俺達、の括りが分かんない。どこの誰までを含んでるのさ? 共に笑い生きていけるシーンなんてそりゃあ簡単に描けるけども。それはあんた、さっきの話の定義の中じゃつまり…。


「ああ! 実践って!そういうこと? 何、いつ誰にするのよ? プロポーズとか!」


 いやいやいや! 早計に失するとこだった! そうよね、そうそう。心が言ったんだ。私は“神威の姉ちゃん”だ、って。だからこっちからその関係性をぶち壊すような失態は演じられないのよ。心から滲み出るような甘さに酔って大いなる勘違いをしそうだった。


「……積年の食い違いはどうしたら正せるんだろうな」

「積年?! あんたそんな長いことウジウジしてるの? らしくないわね!」

「……いや、自覚したのはここ3年、……もういい」


 何なのよ、って小突いても、歯切れの良い心にしては珍しくそれ以上を口にしなかった。ミコちゃんと武瑠のキャンパスへ着くまで口元に苦笑を浮かべて、でも相変わらず私の手を離さない。信号待ちの横断歩道で、時間はまだまだあるからな、と向けられた言葉は私をくすぐったけれど気づかないふりをした。


「時間? 分かんないわよ? 私の方が先にするかもしれない」

「……何を」

「プロポーズ」


 だって、今さら共に笑い共に生きていける、なんて確認は必要ないんじゃないの? 私達はそうやってきたんだし、これからも当たり前のように続いていくんだわ。


「……俺にしておけよ」

「ナニソレ」

「萌えるんじゃないのか……、」


 美琴にはいろいろ通用しないな。

 ため息混じりにまた苦笑を漏らす心の手はずっと温かく、これからもずっと温かいんだろうと私は迷いなく信じられた。

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