第5話

 いつ以来だろう、こんなに緊張するの。


 大学受験の時? いや、入籍の日? いやいや、初めて学内で礼ちゃんを見失った瞬間? そんな直近じゃないか。告白した後の間、がたまらなかったかもしれない。

 そのどれとも違う奇妙な感覚を抱いて俺は礼ちゃんの電話番号をスマホのディスプレイへ表示させた。



 俺の心細さにつられて身体まで震えそうなのが許せない。相手が出てくれるまでのこの数秒。昔から電話が苦手なのは変わらない。

 朝7時より少し前。いつも6時半に起きている礼ちゃんのアラームは『繰り返しあり』に設定されている。1限目の授業はなかったはずだけど。


《……神威くん?》

「……うん」

《……おはよう》

「うん…おはよう、礼ちゃん」


 いつも通りの朝の挨拶が礼ちゃんの口から出てきて、俺はそれだけで情けないくらいにホッとした。たぶん、礼ちゃんへも聞こえたんだろう、マイクが拾った盛大なため息にふふ、と苦笑が漏れる。


《ご飯…ちゃんと、食べてくれた?》

「心と武瑠が…食べてくれた」

《……神威くんは?》

「……ね。食べられる訳ないよ」


 そうね、と呟いた礼ちゃんの小さな声は瞬時に悲しい色を帯びた。表情も、きっと。泣き腫らした顔、してるのかな、今。



 直接見なくても容易く想像できる。俺は自信を持って、そう言える。だってそれくらいに礼ちゃんだけを見て俺だけ見てくれるように狭い世界にがんじがらめにして。そうやって。それが。俺なりの守り方だと、思ってきたんだから。


「……礼ちゃん。あの」


 滑らかに先を繋げることが出来なくて噤んだ口を、いつだって解けさせてくれるのは礼ちゃん。なあに? って訊いてくれるだけでいい。たった、それだけ。


「……来てるんだ、今」

《……きてる? 何が?》


 彗星か流星群かが近づいてきてるような物言いに、俺の口元はほんの少し緩む。緊張が顔の筋肉を麻痺させているのかも。


「大河内さん、の。アパートの前」


 え、と一語だけ大きく吐き出された驚きは、数瞬後に8枚あるドアの一つから礼ちゃんの実態を飛び出させてくれた。二階の一番右端。さすがに何号室なのかまでは知る術がなかったから、記憶しておこう、と思ってから、いやこんなとこが俺のおかしなとこだ、と反省する。


 コンコン、と階段を降りてくる音。見たことのないサンダルは、そのサイズの不釣り合いさから大河内さんのものだろうと思われた。


「神威くん……」

「……ごめんね、礼ちゃん」


 ごめんね、嫌な想いさせて。ごめんね、泣かせて。

 神威くんは悪くないわ、っていつもながら綺麗な響きの礼ちゃんの言葉を格好の言い訳にしたくない。だってやっぱり、目の縁が赤く腫れぼったいから。俺は小さな礼ちゃんをすっぽりと腕の中へ抱きしめて、もう一度、ごめんねと囁いた。

 腕の中に収まる礼ちゃんの身体は心なしか強張っている。うん、無理もない。大丈夫、へこみそうだけど、まだ想定内。


 礼ちゃんがどんなに笑顔を向けてくれても。どんなに平気よ、と口にしても。それを鵜呑みにしちゃいけない。ここに来るまでの道中で、俺は何度も自分自身へ言い聞かせてきた。礼ちゃんは、ものすごく上手に優しく嘘をつく。それは時に、残酷だ。


「……礼ちゃん。平気?」

「?……何、が?」

「俺が、礼ちゃんに、触っても」


 腕の中から顔を上げ、どうして、と問い質しかけて礼ちゃんは口を噤んだ。俺の質問が何に基づいているのか、分かっちゃったみたいだ。

 ああ、駄目だな、俺。深意なんて、いや真意なんて、オブラートに包んだつもりだったのに。


「……ごめんね? 神威くん。頭の中では分かってるつもりなのに」


 ただ、ちょっと。

 声を落とし視線も落とす礼ちゃん。それだけで不安になるちっぽけな俺。


「……血が、滲むくらい。ゴシゴシ擦っちゃったんでしょう?…そこ……一目見て、分かったのに。私…」


 そうだったのか。大河内さんに逢うかもしれないと思って、髭だけは剃ってきたんだけど唇なんて、見てなかった。

 いや、昨日のあの瞬間以来。俺の身体の一部であってそうじゃない感覚のそこから、俺は意識して目を逸らしている。子どもの頃に母ちゃんや父ちゃんからブチュブチュされた記憶とか、姉ちゃんからもチュッチュされた記憶がうっすらあるけど、そういった家族の親愛熱烈アピールを除けば、俺は礼ちゃんとしかキスした経験が無い。


 何の感情も抱かない無関心な相手との皮膚の接触。日常的に他の部位でならどこででも誰にでも起こり得ること。なのに。

 怖い。もう神威くんとはキスしたくない、とか。口に出さないまでも礼ちゃんが深層心理でそう思ったりしないかとか。それがさっきの身体の強張りに表れてるんじゃないかとか。

 あああ、駄目だ。マイナス思考はマイナスの結果しか生まないよ、と武瑠から言い聞かされたのに。


「……礼ちゃん…その。大河内さんと、話せるかな?」

「……大河内さんと?」

「そう…あの。間接的に、ご迷惑をおかけしたのでお詫びを」


 一旦こうと決めたことを簡単に曲げたりしない俺の性分を礼ちゃんなら理解している。ここで大河内さんの真の都合も訊かず無理よ、とか、迷惑をかけたのは私よ、と切り返すのは難しいと礼ちゃんなら理解している。


「……ちょっと、待っててくれる? 寒くない? ここで」


 大丈夫だよありがとう、といつも通りに笑顔を浮かべたいけど、未だ続く緊張感からか、ぎこちない礼ちゃんとのやり取りが俺の心に暗く影を落としているせいか。口元が悲しくひくつくだけだ。

 ドアの中へ吸い込まれた礼ちゃんが再び姿を現すまでの短い間、俺は目を閉じ両の掌で頬を覆いゴシゴシと上下へ動かすと、深呼吸を繰り返して心中をフラットへ正そうと念じた。


「……大河内さん、ね。その…。女の子の日、なので…ご機嫌が…」


 戻ってくるなり、部屋へどうぞ、と大河内さんの言葉を告げた礼ちゃんは、躊躇う俺を階段の方へゆるりと促しながら言いよどむ。

 気を遣ってくれてるんだね、ありがと。大河内さんのご機嫌が良かろうと悪かろうと、俺があまり好かれていないという事実に変わりはないと思うんだけど。


 謝りたい、なんてのは。真実ではあるけれど、その全てじゃない。本当に、礼ちゃんを返してくれなかったら、って、よく知らない相手の真意を図れず焦ってるだけ。

 新聞記者の夜討ち朝駆けみたいだって分かってる、奇襲攻撃だよね、これじゃ。更に輪をかけて嫌われるんじゃないかと思えば、自然と眉はへの字に下がる。だって、礼ちゃんの友達なんだから…、


「……あれ?」

「え? 何、礼ちゃん」

「……弓削くんと、吉居くん、」

「え」


 礼ちゃんの視線を辿っても俺の背後に人の姿は見えなかった。……けど。眩しい朝の光が作る黒く長い影が二つ。さっきまで俺が傍らにつっ立っていた電柱の後ろに見える。


「……大河内さんの部屋に、みんな入るかな…」

「……どうかな…圧迫感あるよね俺ら…、」


 俺達の呟きはあの二つの影へ聞こえたかな。本当にどこまで誰にまで心配かけてんだろ。ヘタレな俺に成長の痕なし! って、姉ちゃんから怒鳴られそうな気がする。いや本当に簡単に想像できる。

 さっきから浮かぶのは苦笑ばかり。俺はそうっと電柱へ近づき、おはよう、と声をかけた。




 礼ちゃんだけが先に部屋へ入り、俺達は玄関ドア前で待機中。周辺住民の皆様を慮って、小声でごめん、と言ってくる心と武瑠。


「どうして? 心強いのに。というか…、こっちこそごめん」


 俺、心配かけてばっかりだね。

 そう追加すると両脇から小突かれた。水臭いこと言うな、って心の言葉が頼もしい。そう感じてふ、と琴線が緩んだ瞬間。


「……うわ。マジか。マジだ」

「……え。え?!」


 開いたドアから覗く黒髪のショートカット、すっきりとした無駄のない顔立ちがどこか妹尾さんを思わせる。

 この人が、大河内さん?


「……あ、の。はじめまして…山田、神威です…」

「……トンチンカンな挨拶しますね。はじめましても何もないっすよ。ちょ、はい、階段降りて下さい先輩方」


 ああ、そうだ、一応 先輩だ俺達。何だか一瞬で気圧されちゃったけど。思わず身を引いたスペースへジャージ姿の大河内さんは登場し、その後へ礼ちゃんが続き現れた。


「この近くに24時間営業のファミレスがあるから。そこで…話しましょうか、って」


 家の鍵をガチャガチャと閉める大河内さんの背中をチラ、と見ながら、礼ちゃんは穏やかな表情を覗かせてくれた。俺のこともきちんと見つめてくれる。こんな小さな“大丈夫”が重なっていって元に戻れると信じたい。時間が、かかっても。


「……はよ 進んで下さい」

「……すみません。あの、本当にこんな朝早くから」

「いやマジでなかなか常識外れてます。何の作戦ですか」

「……ヤ、ヤシマ作戦?…」

「れいちゃんだけに、ですか。何のひねりもないっすね」


 俺は至って真面目で、それどころか初対面の緊張感と先入観たっぷりの苦手意識が心拍をこれでもかと上げてるってーのに。大河内さんはサラサラと辛口コメントを繰り広げる。

 ちょっと、そこの三人。笑いごとじゃないんですよ。



 ***



 何故だか俺が集団の最後に一人ポツンと付いてファミレスのドアをくぐる。俺達とあまり歳がかわらなさそうなウエイトレスさんは大河内さんの顔見知りらしい、いつもの席? なんて、訊かれている。俺は大河内さんの背中へ声をかけた。


「……よく、来るんですか? ここ」

「そうっすね。ミコちゃん先輩のご飯が無い時はここに籠もって漫画描いてます。てか敬語使わんでいいっすよ」


 あたしのが後輩なんで、って言われればそうだったと思い出す。とは思えないんだけど。なんでだろう。やっぱ迫力負けしてるから?


 でもちゃんと、会話してくれる。そのことが最後の一葉みたく俺の心に希望として残ってる。嫌われてばかりじゃ、ないかもしれない。人の感情がそう簡単に動くものではないと自分自身になぞらえてよく解ってるけど。どうせなら、仲良くしたい。大切な礼ちゃんの大切な友達なんだから。


「……え。なんで、この並び?」


 6人がけの大きなテーブル席へ通してくれたのはいいけれど、左側の椅子には心と武瑠、右側の椅子へ先に座っていた礼ちゃんの隣へ迷いなく陣取った大河内さん。やゆよトリオで座るの? 狭いんだけど…。


「マジ申し訳ないんすけど。写真、いいっすか?」


 さして申し訳ないという表情でもなく、むしろニヤリと片方の口角を上げながら大河内さんはジャージのポケットからスマホを取り出しディスプレイをタップしている。


「ええっ?! な…?!」


 俺、写真嫌いなんですけど! 武瑠、条件反射みたくピースとかしないで! もうペース乱されてばっか!


「……大河内とやら。何のためなんだ?」


 おお! よくぞ訊いてくれた! 心! さすが状況把握力日本一!


「参考資料と自慢です」

「なるほど」


 って何だよ! って誰もつっこまないの?! 結局、撮られてるし!

 だからね、礼ちゃん、笑いごとじゃないんですよ…。


 スマホの液晶を見ながら大河内さんは器用に片方の眉を上げて笑っている。西高の王子とアイドルとサムライが勢ぞろいだ、って。

 えーっと。昨日、電話で俺“王子”って呼ばれた覚えがある。ということはおのずと、アイドル=武瑠、サムライ=心、ってことになるよね。


「サムライだって、心」

「武瑠。そこはあえて触れないのが男気だと思わないか」

「いや! かっけーな、と思って!」

「必死でフォローするな」


 礼ちゃんのスマホへ強引に共有を終えた大河内さんは顔を上げ、何にしますかと俺達へ訊きながらもピンポンを押す。いや、押すの早くない?

 そんでね、礼ちゃん。そんな穴があきそうなほど見つめたって俺の無表情は変わらないです。


「……俺、あんまり食欲…」

「無いとか言わせませんよ。日本男児が。朝メシ食わずして力出んでしょ」

「……はい」

「そんなんであの唇オバケやっつけられると思っとんのですか」


 さっさと決めて下さい、と目の前に差し出されたメニューの見開きページは『ボリューム満点!ステーキ定食』をおススメしてる。

 いや、無理無理。今の俺には。


「神威くん、これにしよう?」


 ね? と笑いかける礼ちゃんだって、きっとそんなに食欲ある訳じゃないだろうにね。俺は笑いながら礼ちゃんへ頷き返すと、注文を取りに来たウェイターさんへパンケーキとドリンクバーをお願いした。



 あまり代わり映えのしない内容の朝食が五人分テーブルへ並べられると、さて本題です、と切り出した大河内さん。ホットコーヒーが入ったカップを口元へ運びながらチラと右隣の礼ちゃんを意識したのが分かった。ああ、この人。本当に礼ちゃんのことを想ってくれてるんだな。


「あの唇オバケは何者っすか」

「待て、大河内とやら。その前に唇オバケとは何者だ」

「おお、武士っぽい喋り。あのド派手女のことっすよ! それにね、大河内とやら、じゃなく大河内で。大河内 真百合と申します」

「……欲張り過ぎだな、お前」

「ああ、漢字三文字カタカナ四文字の弓削 心先輩にとっちゃたまらんでしょ」


 武瑠。指折り数えなくても。大河内さんは漢字六文字カタカナ八文字もあるね。


「……えーっと。俺と、同じゼミの、」

「あああ、名前なんぞ訊いてません!」


 大河内さんは俺の回答を先読みしたように手で制すると、かじりついたトーストを一旦皿の上へ置いて身を乗り出してくる。


「あたし、思ったんですけどね。要らんのですよ、あの女に関する細かな個人情報は。ミコちゃん先輩にとっては、要りません!」


 そんなことを礼ちゃんが大河内さんへ打ち明けたのかと思ったけど、礼ちゃんのキョトンとした表情を確認する限り、そういう訳でもないらしい。


「……王子の嫁は、優しすぎます」

「……はい。それはもう」

「アホですか。ノロケろ、っつっとんのじゃないっすよ。ミコちゃん先輩を追いかけて来てまであの唇オバケ。何つったと思います?」


 もう、どっぷり大河内さんのペースだ。

 眉間にシワを寄せ、昨日のそのシーンを思い出したのか不機嫌さを露わにした大河内さんの口から吐き出される言葉は何だろうかと。見れば俺達は三人とも滑稽なほど、身を乗り出して耳を傾けていた。


「……山田くんの、才能の邪魔をしてると、思わないの? とこうきたんすよ! あの女! いやあたしは実際その場にはいなかったんすけど!」

「な、…んだよ、それ…、」


 やや長めにとられた間の後で大河内さんが俺達へ向けた言葉は、怒りを身体の隅々にまで浸透させるのに充分すぎるほどだった。滾りそうなそれは何とか鎮めたけど。だってここは、公共の場。俺達はもう二十歳を超えてる成人だし。大声出さない分別くらいは、持ち合わせていると自分を信じたい。


「同じ専攻だから、分かり合えることがある、って。そうなんすか? そんなもんっすか?」

「そんなこと…!」


 俺は大きくかぶりを振る。ろくに話もしたことないのに。同じグループになってしまったから、しぶしぶ図面やら空間配置のことやらで多少会話は交わしたけど、本当にただそれだけなのに。


「ねえ、どこから否定すれば? 本当に、根も葉もない…! 人がお互いを分かり合うためにはかなりの理解と情報が必要だよね? 前提として! 俺そんなのまっったくこれっぽっちも無いから! あの人との間に!」

「神威くん、落ち着いて。ね?」


 俺はいつの間にかテーブルへ身を乗り出し弁論台で演説するみたいに両手をペタリとついて主張を続けていた。

 礼ちゃんへ? それとも大河内さんへ? ややもすると立ち上がりそうなその勢いを止めてくれたのはシャツの裾を引っ張る心と武瑠の優しい力、それに礼ちゃんの声。と、手。


 俺の骨ばった手の上に柔らかく重なる礼ちゃんの小さな掌。

 あああもう! このでっかいテーブル邪魔! 星飛雄馬のオヤジみたくひっくり返して今すぐ礼ちゃんをギュウギュウにしたいのに!


「大丈夫。大丈夫よ? ね? 私なら、平気」

「礼ちゃん……駄目だよ…そんな嘘は、駄目だ…」


 平気なわけないでしょ? 大丈夫なわけないじゃん。そんな赤い目で綺麗に笑われても信じないよ。俺がいないとこでどれだけ泣いたの?


「……これは。先輩方には普通な光景ですか」


 あ。俺、礼ちゃんしか視界に入れてなかった。ヤバい、みんないる。てか大河内さんもいる。そしてここは朝のファミレス。


「これ、とは? 大河内」

「手に手を重ね見つめ合うバカップルのことを意味します、弓削先輩」

「おお! 辛辣ー! でも日常茶飯事だよね、これくらい。もっとレベル高いのも毎朝繰り広げられてるし」

「マジすか? 何すか? それ」

「行ってきますのチュー」

「わ! バカ丸出しっすね!」


 礼ちゃんと俺は途端に気恥ずかしくなってゆるりと手を離すとそれぞれのソファーへ深く背を凭れさせた。そんな動きをチラリと確認した大河内さんはコホ、と小さく咳払いをする。


「……まあ。王子の言うとおり。嘘はいかんです、ミコちゃん先輩。平気なわけがない。大丈夫でもない。みんな分かってますし王子が悲しむだけやないですか」

「「大河内さん……」」

「素敵にハモるのやめてもらえますか」


 礼ちゃんは、良い友達に恵まれてる。こんなにも心底 礼ちゃんを心配し慕ってくれる味方。妹尾さんや湯乃川さんだけじゃなく。


 だからこそ、だ。だからこそ、大河内さんの言葉は俺へ厳しく向けられる。そう思えばありがたくて、俺の口元は緩やかに綻んだ。俺の口元へ目を遣った大河内さんはマジすか、と呟く。


「ここにきてニヤリっすか。意味分からんすね、王子」

「……すみません。あの」


 俺は凭れさせていた背を正し、大河内さんを正面から見据えた。黒い瞳に宿る強い力は、礼ちゃんを好きであることに一切の妥協は許さないと。暗に、示されているような。


「……俺、あまり大河内さんから気に入られてないことは、分かってます」

「ああ、そこは空気読めるんすね」

「う…」

「大河内さん…」


 大河内さんは礼ちゃんへ冗談ですよ、とニタリ笑顔を向けると手で俺へ先を促す。本当に、冗談ですか。本気に、聴こえましたけど。


「……でもそれは。礼ちゃんを好きで好きで、大切な友達だと思って下さってるからなんだと思うと嬉しくてつい…。厳しさは、その…俺が、礼ちゃんには。見合ってないから、というか」

「ああいや…王子に卑下してもらわんでも」


 なんつーか、と言いながら大河内さんは両の手をテーブルの上へ置く。掌を自分の方へ向け、片方をミコちゃん先輩、もう片方を王子、とした。


「あたしが考えるミコちゃん先輩をここだとすると、ヤキモチ妬きで独占欲が強いわりに自身に隙がある王子はここ。開きがあるんです」

「……はい」


 甘んじて受けとめよう。その、上下十センチくらいの空間。


「王子が卑下してしまったらこの開きはさらにデカくなる。欲しいのはそういう展開やないんです。レベルアップして欲しい」


 テケテケテッテッテーン、と某RPGの効果音を口ずさみながら大河内さんは口元へコーヒーを運ぶ。


「うーん、でもねー、大河内さん?」


 パンケーキの最後の一切れをモグモグと口内へ押し込むと、それまで黙していた武瑠が口を開いた。


「オレ達はまだあんま大河内さんのこと知らないじゃん? だからどうしても神威の肩も、持ちたくなっちゃう」


 いや、どこで鍛えたんだか、武瑠。本物アイドル並みの笑顔に添えられるキラキラというスターな効果音。メガネズルイ、って大河内さんの小さな呟きの意味が分かるような分からないような。


「神威だってね? ミコちゃんが大好きで大好きで頑張ってる意識もないくらい頑張ってるよ? 今回の件は神威ばかりに非があるとは言えないとオレは思う」

「元凶はあの女だ。それは絶対だ」

「……ありがと。二人とも」


 俺は礼ちゃんの柔らかな表情を見つめ大河内さんへとまた視線を移した。テーブルの上へ組んだ腕を乗せ、彼女は俺の言葉を待っている。


「……本当に友達ってありがたくって。不甲斐ない俺の代わりに怒ったり泣いたり考えたり庇ったりしてくれる。心や武瑠が昨日の俺にそうしてくれたように、大河内さんもそうだったんだろうな、って思うと…やっぱり。嬉しい、です」


 ついでに俺とも仲良くなってくれると嬉しかったりするけど、それは高望み、ってもんだ。ああこんな考えを持つのも俺が空回りしてるとこか。


「礼ちゃんを傷つかせたくない泣かせたくない、って俺の想いばっか先走ってるのは分かってる。分かってるけど。礼ちゃんが傍にいてくれる、ってだけで俺は。それが原動力なんで。だから」


 返さない、とか。言わないで下さい。


 半ば掠れた俺の声は言葉は、ちゃんと大河内さんへ届いただろうか。


「……何すか」

「……は」

「……ちょ、何なんすかそれっ! リアル?! や、マジ、みっちゃん! 鉛筆と紙!」


 唖然とする俺達の前で大河内さんは“みっちゃん”と呼ばれたウエイトレスさんが慌てて持って来たコピー用紙にシャーペンで何やら書きつけ始めた。

 漫画? の…何かな。物凄く大雑把なんだけど人の顔らしきマルとか吹き出しみたいなのとか。真っ白な紙が芯先の黒で埋まっていく。


「……これネーム? 大河内さん」


 礼ちゃんは大河内さんの迫力に臆することなく彼女の指先を覗き込みながら訊いている。下書きみたいなものなのか。


「や、ネームというか…あ、しまった。こんなシーン、あたしの頭の中だけで上手く残せんっすよ! 何なんすか、王子は! 何で素でこんなん言えるんすか!」

「え……怒られてる?」


 ああもう! ってが入り過ぎているのか、大河内さんはシャーペンの芯をボキボキ折ってはカチカチと出し直し、だから鉛筆っつったのに、と舌打ちを繰り返している。……あ、でも笑ってる。楽しそう?


「怒るワケないっすよ! 何でですか! もうこれはね、感動です! あの時みたい! ああワケ分からんですよね? いいんです、いいんですけど! 漫画のセリフでも、さっきみたいなの無いっすよ、なかなか! ああもう、画力が! 追いつかない!」


 俺の口は え、の形のまましばらく放っておかれた。シャ、と紙の上を滑っては描きだされていく鉛色のラフな線は、きっと俺であったり礼ちゃんであったり。俺が吐いたセリフそのままをその吹き出しマルの中へ書き込まれるのは物凄く恥ずかしいんですけど。それでももうみんな、何となく目が離せずに、大河内さんから迸る力に圧されて指先へ魅入っていた。


「……あたしが、西高へ入学した時。やゆよトリオは既に超有名でした」


 大河内さんはチラ、と真正面に居座る俺達三人へ視線を上げ、だけどまたすぐに白い紙の上へ落とし粗い線で人物らしき形を三つ並べていく。もう本当にすっかり大河内さんのペースで、俺は結局のところ礼ちゃんを返してもらえるのかどうかの返事が宙ぶらりんなまま、気にはなるものの言葉を挟めずにいる。


「……特に、王子は。神威先輩は。女嫌いで基本 無愛想、無関心無表情のクールビューティー。ドS俺様なんて属性もありましたかね、でもいっつも武瑠先輩と弓削先輩とツルんでたからつまるところそっち系か、とか。腐がつく女子の皆さまにとってはたまらんオイシさだったりして」

「……ぶ。勝手な」


 大河内さんの独白に咄嗟に反応してしまった俺の小さな呟きに、彼女の口元は明らかに分かるほど緩んでいく。嫌みのないその反応に、俺はほんの少し嬉しくなった。


「そう、勝手っすよね、本人差し置いて。あたしも、勝手やったなあ、って。今、猛省中です」

「……どうして」


 余計な音を立てないように静かに立ち上がり、みんなの分のカップを集めて手に持った礼ちゃんは、ドリンクバーへ向かっていく。手伝いたいと背中を目で追いながら、それでも今は大河内さんの話に集中しなければと視線を戻したところで目が合って笑われた。

 ああ、きっと。俺の目の動きを、追われてた。でもその笑い顔に怒りや嫌悪の色は…なさそうな。


「……マジ、いっつも見てるんすね」

「……こういうとこが、気に入らない?」


 独占欲強すぎて、と自嘲しながらつけ加えた。うん、充分分かってるから自分でも。

 でももう、習い性のようなこの動きは身につきすぎて今さら簡単に改められるものでもないんだ。


「……王子が、誰のものでもない高嶺の花的存在からミコちゃん先輩だけの王子になった時。あたし、思ってたんすよ。自分の立ち位置分かってねーな王子、って」


 これまた勝手っすけど、と大河内さんはシャーペンをクルリと器用に回しながら言う。


「でもミコちゃん先輩と知り合って仲良くなって、そしたら納得できました。ああ、こんな素敵女子やったら王子に見つけられるわな、と。神様はこの世におって、ちゃんと見てるんじゃん、って。ああ、ミコちゃん先輩がいかに素敵女子かについての話はまたのちほど」

「!………」


 俺、なんか思考を先読みされた。一旦、身を乗り出した俺は大河内さんに手で制されて元の位置に戻ったその横で武瑠と心が小さく笑う。トレイを手に戻って来た礼ちゃんは俺達の前に同じ飲み物を優しく置いていった。

 ありがと。


「でも。いかんせん、ミコちゃん先輩とだけ仲良くなりすぎた。王子のこと、偏った目で見とったんです、あたし。それはフェアじゃなかった。勝手やった。……って。猛反省中、です」


 妹尾と同じ様なことを言う、と心が薄く笑い、ああそうかも、と武瑠が大きく頷く。キョトン顔の大河内さんの隣で、礼ちゃんも頷きながら愛らしい笑みを浮かべていた。


 あたしは漫画描くしか能がありません、と笑う大河内さんの手元にはいつの間にか俺達三人とおぼしき絵が完成している。流石プロ、というべきだよね? シャーペン一本で出来あがったそれは線の強弱も陰影も濃淡もあり、いつか美術室で見た立派なデッサンのようだ。


「……この、吹き出しに。『好き』って言葉を書いて相手への想いを表現する。いや、漫画ってそもそもそういうもんかもしれません。でも、それだけじゃあまりにも平淡すぎる」


 見つめる瞳の強さとか。熱さは温度で表せないけど潤みとか揺れとか瞬きとか。触れる手の優しさとか。言葉だけじゃなく語る要素を人間はたくさん持ってる。


 そう言いながら大河内さんの魔法の指先が描いていくのは、今度は礼ちゃんだ。

 ああほらあの、俺を見上げる時の角度。それ完成したらください、是非に。


「あたし、賞をもらった作品で。背の高い男の子が好きな女の子の話を一言一句聴き洩らさないように、膝を曲げてその女の子の口元まで耳を寄せる、ってシーン描いたんすよ。読者さんの受けがマジ良かったらしいです」

「……うん。…ん?」


 何か言いたげに俺を見る大河内さんの深意が分からない。同じ様な視線を向けられた礼ちゃんは紅茶を啜りながらコクリと頷き笑っている。

 あ、何か分かってるの? 俺だけ分かってないの?


「自分では分からんもんだろ。俺達なんかは後ろを歩くから気づいちゃいるが」

「でもそんな計算なしの無意識行動だからいいんだよね? 大河内さん」


 そうっすね、と大河内さんは礼ちゃんの長い黒髪に艶をつけながら笑った。


「王子なんすよ。王子とミコちゃん先輩のそんなシーンを、あたし見たまま描かせてもらったんです。行動とか仕草とか視線とか身体全部で人間は想いを表現できるんだ、って。あたし、王子から教わったんだった」


 すみませんねノーギャラで、なんて言いながら大河内さんはまた器用にシャーペンを回転させた。


「……返すも何も。ミコちゃん先輩の全部は王子のもんっすよ」

「大河内さん……」

「またこの人、全然嫌がってないし」


 クイ、と親指で指された礼ちゃんはタイミング良くにっこりと笑う。

 可愛い、礼ちゃん。大河内さん、その礼ちゃんの絵に花描いて下さい、花。ほころんでるでしょ、周りで。


「……何すか、その手」

「……ハッ。どうしたんだろう、俺。無意識に礼ちゃんの方へ」

「昨日一晩離れとっただけでどんだけ欠乏症なんすか」


 呆れたように笑う大河内さんのジャージを緩く引っ張りながら礼ちゃんは大河内さん、と声をかけた。


「ねえ、伝わった? 神威くんがどれだけ素敵男子か。本当はこんな事態じゃなくて、もっと早くご対面して欲しかったんだけど」


 礼ちゃん、真顔で何てことを。いや、超が何個もつくほど嬉しいんだけどね? 今、この状況下で。ああほら、大河内さん、目細めてるし。手放しの賛同は得られないかと。


「うーん、ま。それでもまだあたしはミコちゃん先輩の方が好きですけどね。ああそこ、恨めしそうな目線やめて下さい」

「あ、駄目よ? 神威くんは私の旦那様なので、好きになるのは」

「何すか、この可愛い生き物は。いや、好きに、って。玉砕覚悟にもほどがあるやないで…ああもう、その目線も鬱陶しい」


 礼ちゃんと大河内さんと俺との三角形で繰り広げられる会話に、心と武瑠は伸びをし首をコキコキと鳴らし笑っている。そこへ大河内さんのすみませんね、という控えめな声が差し込まれた。


「……本当は。王子を一目見て、分かってたんすよ」


 ココ、と言いたげに大河内さんの人差し指は唇へと添えられた。視界に入る礼ちゃんも眉をひそめる。俺の、唇? ああ、腫れてるとか言われたっけ? 礼ちゃんから。


「……血が。出るくらい擦って擦って。王子も泣きたかったんやろうな、と。泣いたのかもしれんな、と。分かってたんすよ」


 でも、とまで言って大河内さんはため息を吐く。眉をひそめたままの小さな礼ちゃんを見つめて、ファミレスの天井を見上げ俺を見た。


「ミコちゃん先輩も、昨夜たくさん泣いたんすよ。あたしはそれを見てしまった。それなのにこの人は、王子にだけ冷たい飲み物を持って来る」

「……うん。礼ちゃんは、そういう子」


 唇が切れて腫れて痛いだろうから。熱い飲み物はやめておこう。なんてことを普通に考えられる子。その原因が何であったかということを思い出せば舌打ちの一つも出そうなものなのに。


「……たまたま、よ? 神威くんカルピス好きかなあ、って」

「ほらそうやって。ミコちゃん先輩の大いなる我慢の上に成り立つ嘘は、悲しいんですよ」

「そうだよ、礼ちゃん。優しいんだけど、悲しくなる」


 大河内さんはパタ、とシャーペンをテーブルの上へ置き全くだと言うように俺の言葉に頷いてくれた。


「あんな女の事情なんて、思いやってやる必要ないんですってば! それでご丁寧に話聞いて嫌な思いさせられて! 優しすぎるんすよ、ミコちゃん先輩は!」


 そうだな、と心が呟いた。そうして口元に寄せていたカップを下ろすと、御子柴、と礼ちゃんを見つめ言う。


「お前は被害者だぞ、今回。加害者側の心情にまで配慮する無理は求められていない」


 流石に法学部、と言うべきなのか。被害者・加害者という法律用語は心の口から何の抵抗もなくこぼれ落ちる。日常的に使用しているのであろう心だからこそ、妙に力強い。でも、と言いたげな礼ちゃんを制し更に続ける。


「大河内がさっき言ったこと。あの女の名前とか知る必要ないって言葉だが」


 武瑠と俺は心の隣でコクコクと頷いた。大河内さんは心を見据え、礼ちゃん一人が眉間にシワを寄せ、未だ何か言いたげに視線を彷徨わせている。


「……例えば。あの女が不治の病に侵されていて余命いくばくもなかったとしよう。仮に、だぞ、御子柴。間違えるなよ、仮に、だ」


 心の言葉はみんなに聞こえているけれど向けられているのは右斜め前に座る礼ちゃんだけ。眉間のシワはやや深まり、それでも重ねて強調された言葉を真摯に噛みしめ頷いている。


「だから思い出作りに一度だけ、山田くんとキスしたかった。……そう、言われたとしたら? あの、キスの理由を」


 御子柴は許してしまうんじゃないのか。

 心の穏やかな声は礼ちゃんの小さな身体の隅々にまで浸透し、最後には口元をキュッと固く結ばせた。


「……あたしが言いたいのも。そういうことです。あの女のことを知れば知るほどミコちゃん先輩はきっと。何とかしてこじつけて許そうと」


 するんやないっすか。

 大河内さんはそう言い置いてゆるりとシャーペンを手にすると、白い紙の余白へマルや星を描きつけ始めた。


「右京のことだって。結局、そうだよなあ、ミコちゃん。いや、神威もだけど」


 結局、許しちゃってんじゃん、と武瑠が暗に示唆するのは刑務所内の右京とやり取りしている礼ちゃんの手紙のことか。

 ああ、面会の件も話さなきゃな、きちんと。


「……暗くて醜い気持ちを持ち続けるのは、容易いことじゃないから。吉居くんだって、知ってるでしょう?」


 瞬間、武瑠と礼ちゃんの間だけで灯台の光のように何かがチカ、と点る。お互い、片親同士のこの二人にしか分かり合えないことがあるらしいんだ。それにね、と礼ちゃんは続ける。目の縁がほんのり紅く染まっている気がするんだけど。

 何か、こみ上げてるの? 礼ちゃん。大丈夫?


「平気、って口に出したのは、まるっきり嘘じゃないわ。だって、些細なことなのに…みんなこんなに」


 そうだね、礼ちゃん。礼ちゃんが言いたいこと分かるよ。本当に平気な訳がない、って。そこは譲れないけど。良い友達持ったよね、俺達。


「私が上手く怒れない分、みんなが怒って憤りを露わにしてくれる。私がそれにどれだけ救われてるか」


 みんな、きっと知らないわ。

 両の口角を綺麗に上げ、それは優美に礼ちゃんは笑った。

 もう何か。ここ、朝のファミレスって気がしない。ベルサイユ宮殿とか…、


「……素敵ダンナがアホ面しとりますよ」

「……おかしいな。何故か顔がゲル状に」


 ふふ、って俺の大好きな礼ちゃんスマイルまで重なれば、俺の表情にまるっきり緊迫感が無くなるのは無理もないと諦めてくれないかな。

 無理してるのかどうか、とか分からなくなるくらい救われてる。礼ちゃんは重ねて言う。

 そうやって紡ぎ出される言葉達に追随するように、礼ちゃんの瞳には深く黒い揺らぎが見えて。情動の高まりを知らせてくれる。


「でも。みんなに、ね。マイナスの感情を押しつけて私一人、清らかでいようなんて思ってる訳じゃないから」

「ぶ。そんなの、誰も考えてないよ?」


 そうやって礼ちゃんはどこか人に譲り、人より自分を低く置こうとする。どうやったって礼ちゃんが生きてきた道は変えられないけど、でもね。礼ちゃんは俺達の誰よりもちっちゃな身体で多くのことを背負ってきたはずなんだから、感情の一つや二つ、俺達に任せてくれればいい。

 俺はいつの間にか暑苦しいほど礼ちゃんへ熱弁を奮っていて、大河内さんの失笑を買っていた。


「……俺を誰だと思ってるの? 礼ちゃんの未来、全部強奪したダンナなんだよ?」

「知っとります。改めて言わずとも誰もが知っとりますよ!」

「俺のこと、許して。でも、許さないで」

「いや、どっちすか!」

「えーっと、そろそろ学校…、」


 王子のせいでワケが分からん話になった、と大河内さんはご立腹だ。でもその表情はほんの一時間ちょっと前に目にした硬いものとは違っている…と思う。いや、思いたい。そう自嘲しながらひとまず立ち上がる。



 言葉を、時間を。交わして、重ねて。

 解り合いたい人がいる。解り合えない人もいる。解りたくない人もいるな。

 同じ教室内にまたあの顔を見なくちゃならない。学校を憂鬱に感じたのなんて長い学生生活で初めてだ。そんな俺の憂いの色を見つけてくれたのか、席を立った俺の肩へ心の大きな掌が乗ってきた。


「あの女と教授の件は、俺に任せてくれ」

「……心?」

「俺なりの考えがある。試させてくれ」


 そうして 一緒に行こう、と俺の背をゆるりと押す。その心の手の大きさに温かさに強張る筋肉が緩みそうな自分が情けない。



 端整な顔立ちに浮かぶ笑みは、それだけでとても頼もしく、絶対的に俺に足りない要素だと痛感させられて切なくなる。だって、俺に向けてかけられた言葉なのに。大河内さんも礼ちゃんも武瑠も、みんなきちんと耳を傾けていて何となくホッとしてる。その詳細は聴かずとも。いつになったらその境地へ達せるのか、俺。せめても、と、伝票を手の内へ隠しレジへと向かった。


「ゴチになっていいんすか」

「わっ?! あ、はい、心おきなく…いやむしろ奢らせて欲しいです」

「じゃ遠慮なく」

「ああ、俺そういう人好きです」


 ボディバッグから財布を取り出しながら何気なく口を出た言葉に、大河内さんは前を行く足を止め俺を振り返る。


「大体が王子は素直なんすね」

「……は。そう、かな。まあ、あまり駆け引きとかは」

「うん、そういうのはやっぱ、賢い弓削先輩担当っすね」

「……俺、バカ?」

「バカでしょ? ミコちゃん先輩バカ。バカップル万歳」

「……意味分かんないよ」


 レジのお兄さんへ 御馳走様でした、と頭を下げる俺に、大河内さんはぶふふ、と笑いをこぼす。

 何なのさ。何がツボなの?


「まあ。意味分からん会話が交わせるくらいには、あたし達。仲良くなれたんやないっすかね」


 我が耳を疑ったけど、いや、間違いないらしい。手に持ち帰るコピー用紙を満足げに見つめる大河内さんへ、ありがとう、と声に出して告げた。ニヒヒと笑う大河内さんへ笑顔を向けている俺。そんな奇妙な様子に気づいた礼ちゃんが振り向き、どうしたの? と問いかける。



 朝一番に顔を合わせた時に残っていた、身体への力の入り具合だとか気遣い半分ぎこちなさ半分の話し方はどこかへ去り、ああ礼ちゃんだ、と嬉しくなる。


「……何 ペタペタ触りよるんですか」

「いや、礼ちゃんだなぁ、って」

「どうしたの? 神威くん」

「いや、拒めし! そこ!」


 公衆の面前ですよ、と厳しいご指摘をいただいたけれど、まあそんな人通りも多くない場所。手を繋ぐのくらい許して下さい。


「大河内さんがね、俺のこと仲良し認定してくれたんだ」


 俺の言葉を聴くや、礼ちゃんの大きな瞳は綺麗な弓なりのお月様みたく細められる。私も嬉しい、って。ああ、本当に俺にも大河内さん並みの画力があったなら!

 この笑顔残して常にスマホのホーム画面に…いや、二次元がそれって…あ、そうか、写真に残せば…。


「……神威くん?」

「……気を確かに、王子。何を朝から嫁にカメラ向けよんですか。それにまだ、すっかり仲良しになったワケやないっすよ」



 俺の口元は、え、の形で止まる。上げて落とすんだな、大河内さん…。その意地悪そうな微笑みの先に続く言葉は何ですか?!


「とりあえず28日間はミコちゃん先輩とチューせんとって下さいね?」

「なっ、なんでっ?! 無理だよ!」

「お肌のターンオーバーはそれくらいの周期で行われるからです。あの唇オバケの感触が残ってそうなそこと、あたしの大事なミコちゃん先輩が接触するのは許せません!」

「うああああー…いや、ごもっとも! …ではあるけれど…っ、」


 俺は思わず頭を抱え込む。今朝は元からグシャグシャの髪の毛をさらに掻き乱した。一緒に暮らし始めてから毎日毎日触れてきたのに。手を伸ばせばすぐ傍にあるのに! 夜寝る時なんて目の前だよ! なのに駄目、って! どんな拷問?!それ! いやいやいや! でも! 分かる! 大河内さんの気持ちも、というか彼女の今の言葉はきっと、少なからず礼ちゃんの胸の内を代弁してくれているのだと思う。昨夜、礼ちゃんの涙を目の当たりにしたのは他ならぬ大河内さんなんだから。

 だからこそ、ニヤリと引き上げられた彼女の片方の口角が、冗談混じりだと告げているようにも解釈できるけど。真摯に紳士でありたいと、思ってしまう。


「真面目だ、王子」

「そうなの。素敵なの」


 私には勿体ないくらいの旦那様なの。

 そう言って顔を綻ばせる礼ちゃんへ大河内さんは、ミコちゃん先輩が言うと違う旦那様に聞こえますね、とまたニヤリ顔を向けている。


「こう言ってても、大河内さんが四六時中 私達と一緒にいられる訳じゃないでしょう? 本当に遂行されてるかなんて確かめようがない。それなのに」


 神威くんは、誤魔化しも嘘も自分に許さずやり遂げようとするわ。

 大河内さんの気持ちも、私の気持ちもきちんと考えて尊重して。


「……こんな神威くんを嫌いになれるはずがないの。好きになっていくばっかり」

「……っ、大河内さんっ…後ろ向いててくれない?!」

「言ってる傍からっすか!」


 嘘だよ、ちゃんと我慢するよ。

 でもちょっとだけ、ギュウってさせてね? 礼ちゃん。


「…王子、暑苦しい」

「…あと1分だけ見逃して」


 ふふ、と俺の腕の中で礼ちゃんが笑う。ああもう本当に。腰から砕け落ちそうだ。どうなるんだろうと不安にばかり駆られていた昨夜。ネガティブ思考を絶とうと思ってもなかなか上手くいかなかった。


「やっぱり俺。礼ちゃんが傍にいてくれないと全然駄目だ…、」

「人として終わっとるやないですか。これからもミコちゃん先輩、うちに泊まらせたいのに」

「えええー、駄目! 俺、礼ちゃんいないと眠れないもん」


 もん、って! と大河内さんから目を細められた。私ってジェインのもうふみたいね、と聞こえてきたのは礼ちゃんの涼やかな声。口に出されたそれはおそらく本のタイトルか、それに纏わる何か。



 ああ、俺ね。こういう時、本当にもっと本を読んでおけば良かったのに、と思う。本好きの礼ちゃんと、もっとどれほど共感し合えたのかと考えれば、もんのすごく人生で損してる気がするんだよね。


「『ジェインのもうふ』…」

「そう…あ、読んだことない? 神威くん。ごめんね? 知らないこと話されるの嫌な感じだよね」

「そんなことない」


 そんなことないよ、ともう一度繰り返す。そうして繋いだ手に少し力を籠める。ゆるゆると歩き始めた礼ちゃんと俺の数歩先を行く大河内さんが耳だけこっちに傾けているであろうことは分かっていた。


「……礼ちゃんだって。俺の話、何でもきちんと聴いてくれるでしょ?」


 どこそこの美術館に行きたいとか、あの建造物を見に行きたいとか。興味の方向性が完全に合致しないはずの礼ちゃんと俺なのに、俺はかなりの時間を礼ちゃんにつき合ってもらっている。

 礼ちゃんは優しい嘘をついちゃう子だけど、屈託ない笑顔はいつも真実。どんな話をしようと、休日どこへ行こうと、ニコニコとついてきてくれるから俺は嬉しくてしょうがない。


「でも…神威くん、それは。嬉しくてしょうがないのは、私もだから」

「どうして?」

「いつか、造ってくれるんでしょう? 私のカフェ。神威くんが見つめてる先には、それがあるのかな、って思ったら」

「いや、俺が見つめてるのはいつだって礼ちゃんだけなんだけどね」

「よー、素でそんなん言えますね?! あたしの居場所も確保して下さいよ、そのカフェ!」


 大河内さんは笑いながら口を挟んでくるけれど、それは冗談ではないと思った。俺の頭の中でまだ様々に形を変え、間取りを変え、壁の色や素材を変えている礼ちゃんカフェに…大河内さんも。


「…ロフト造るかなあ」

「あたし、隔離っすか」

「え、行き詰まったら大河内さん、消しゴムかす飛ばしたり突然叫んだりするんじゃないの?」

「何故それを…あ、ミコちゃん先輩か。もちっと良いとこチクってくれませんかね」


 肩を竦める大河内さんと顔を見合わせて綺麗に微笑む礼ちゃん。よし、決まり。礼ちゃんの愛らしい笑顔がさらにキラキラ輝くのならどちら様もいらっしゃいませ、だ。


 チラ、と掠めたのはアイツの顔。いや、三年前より随分と変貌を遂げているだろうけれど。俺はキュ、と目を瞑り一旦 思考を保留した。


「で、どんな話? 『ジェインのもうふ』って」


 ジェインのもうふ、ってね。

 そう言って柔らかな笑みを横顔に湛える礼ちゃんは丁寧に丁寧に俺に話し出してくれる。俺は礼ちゃんの一言一句も聴き洩らしたくなくて、自然 目線の高さを下ろすんだ。ああ、大河内さんが言ってたのって。この姿勢のこと?


 ジェインは女の子で、赤ちゃんの頃から大好きなピンクのフワフワ毛布があるの。ミルクを飲む時もお昼寝の時もずっと握ってて離さない。それを“もーも”って言ってるんだけどね、ジェインは。赤ちゃんの時に“もうふ”って言えなかったから。ちょっとそこがたまらなく可愛いの、って話す礼ちゃんがたまらなく可愛い…。


「…神威くん? どうかした?」

「どうもしない。ごめんね? 礼ちゃんが可愛くて」

「いやどうかしてますよ、その受け答え」


 可愛いな、って思ったら反射で繋いでる手に力が入ってしまった。極度の不安が解けて安堵へとじわり変貌を遂げた今、俺の反動ったら簡単に振り切れてしまいそうなんだ。礼ちゃんに引かれないようにしなければ。にこりと礼ちゃんを覗き込んで、話の先を促す。


 成長して大きくなっても、やっぱりジェインはその毛布がないと安心できなくて、新しい黄色い毛布では代わりにならない。ぼろきれみたいになった毛布。もうジェインの身体をくるむことができなくなってもそれでも握ってるだけで安心して眠れる。

 でもある日、気づくの。毛布なしで過ごしていたこと。毛布なしで眠れていたこと。


「異議ありだよ、礼ちゃん。俺、一生無理だからね? 礼ちゃん無しで過ごすのなんて」

「ちっとは大人しく話を聴かんですか、最後まで」

「…スミマセン」


 小さな布と化してしまった大好きなピンクの毛布。どう使おうかと窓辺に置いていたところ、青い小鳥が降りたって一本ずつ糸を引き抜いて行くの。巣作りに使っていたのね。やがて出来た巣でジェインの毛布は新しく息づいていく。それを見ていたジェインのパパはジェインへこう言うの。

“ジェインが毛布のことを思い出す時、毛布はまたジェインのものになるんだよ”


「俺が礼ちゃんのことを思い出す時、礼ちゃんはまた俺のものになってくれるのかあ。や、というか俺、常に礼ちゃんのこと」

「そういう置き換えは驚くほど早いっすね」

「…どうしていちいち茶々入れるの、大河内さん」

「王子の暴走を止めねばと思いましてね」


 いたって真面目に礼ちゃんを庇おうとする大河内さん。そうして言うんだ。礼ちゃんと俺を交互に見つめながら。深呼吸して あたし、と。


「昨日から考えてたんすよ。何が出来るんかなあ、って。ミコちゃん先輩のために。いっつもお世話になってばっかりなんで」


 そんなこと、と眉尻を下げ困ったように礼ちゃんは否定する。俺は大河内さんの先の言葉が気になって仕方ない。


「ミコちゃん先輩は、自己評価が低い上に自己表現が下手っぴ。泣き虫ではあるけれど怒ったりとか憤りの吐き出し方なんて知らんでしょ?」


 あたしが代わってあげられるかな、とニヤリじゃなくてとても爽やかに大河内さんは笑った。ジャージ姿の気負わなさが潔い彼女の雰囲気をより引き立てていて、なんか格好良い。

 礼ちゃんと手を繋いでいるのは俺だけど、何となく霞んでない? 俺。


 礼ちゃんと俺の言葉はこの上なく綺麗にハモった。

 ありがとう、大河内さん。

 顔を見合わせて微笑む俺達を見て目を細め複雑そうな表情なんだけど何故?


「出来ることなら。もちっと王子の愛の呪縛から解き放ってあげたいんすけどね」

「絶対反対! 断固拒否!」

「大丈夫よ、大河内さん。私、そういうプレイは趣味ではないので」

「……礼ちゃん、あのね?」


 前を歩く武瑠と心が肩越しにクツクツと笑っている。逆ハー楽しんだらいいのに、という大河内さんの言葉にまた噴き出してるし。


「逆ハー?」

「逆ハーレム! ミコちゃん先輩、やゆよ絶賛独占やないすか! まさに眼福! なんたる壮観! ありがとう神様! 目の保養に心の洗濯! ああ、別に王子はもうどうでも」

「や、やゆよっつったよね?!」

「ちょ、武瑠先輩? 『もうオレにしときなよ』って言ってみて下さい!」

「……もうオレにしときなよ?」

「ああ萌えるー! 黒縁眼鏡キタコレ!」

「武瑠、言わされちゃ駄目だよ!」

「弓削先輩は『俺の嫁にしてやる』の方向で!」

「拙者、じゃなくていいのか?」


 笑顔、って、表情筋の動きなんだけどそれだけじゃない、心理的な作用力が多分に潜んでると思う。何かが弾けて広がって俺達を包み込む。


 だから今日は、昨日と同じ気分を引きずらずに頑張れそうだと思った。



 ***



 大河内さんのアパート前で彼女と別れ、そのまま四人で大学へ向かうことに。繋がれたまま離そうとしない礼ちゃんと俺の手を呆れたように見つめため息を吐くと、近々またミコちゃん先輩を貸して下さいね、と宣言された。


「ミコちゃん先輩のご飯がないと創作意欲が湧かんのですよ」

「分かる分かる俺もそうだもん…、って言うとこ?!」

「ノリツッコミ、下手っすね王子」

「……得手不得手あるよね、人間」


 一瞬見せたニヤリ顔ののち、大河内さんは腕を組み首をコキコキと鳴らして続けた。


「弓削先輩の考えとやらは気になりますが。まあ、あの人に任せておけば安心かと」


 うん、それは。心との長いつき合いで安直なことを軽々に口にしない性分くらい分かっている。それがゆえに生じる安心感。俺もそういう要素が欲しい。


「でも…王子も。自分の身は自分で律していきませんと。今でも充分、なのかもですがミコちゃん先輩がまた泣くようなことがあればその時は」


 大河内さん、と穏やかな礼ちゃんの声がほんのちょっとかぶせ気味に彼女の言葉を遮った。大丈夫よ、もう泣かない。そう言って隣に並ぶ俺にだけ分かるくらいの僅かさで、俺の腕へ身体を寄せてくる。

 見下ろした礼ちゃんの横顔。まだほんのちょっと腫れぼったい瞳に喉の奥がク、と詰まった。


「礼ちゃんの。泣かない、は…それは、どうかと」

「王子、今はあたしとミコちゃん先輩の会話です」

「…スミマセン」

「まあ、今回の件ではもうこれ以上、ってことでしょ」


 コクン、と頷き、ふふ、と笑った礼ちゃんの小さな身体がまた俺の腕へすり寄って来る。ねえ、礼ちゃんも。昨夜、寂しいと思ってくれてた? あの空虚感なんて、何が代用でも埋められるはずなんてない。


「……寝言で。あんなにダンナの名前を連呼する嫁を初めて見ました」

「え?」

「貸し出すのが嫌なら王子も付いて来たらいいっすよ。何か手伝わせますけど」

「神威くん、絵描くの得意よ? 私よりよっぽど」


 知ってますよ、と俺達に早くも背を向けながら大河内さんは言った。俺、大河内さんの前でそんな腕前披露した覚えがないけど。ああ、それすらも。高校時代は噂になってた?


「美術部を、間借りしてたんすよ。あたしらの漫画研究会。美術部員だった弓削先輩の“オレンジの血”って名作が、実は神威先輩の手によるものだってことくらい。あたしらは、知ってます」


 じゃあどうも、と後ろ手を振りアパート脇の階段をノロノロと上って行く大河内さん。腰を押さえ気だるそうに…そういえば、具合悪い日だったんだ。大河内さん、ごめんねありがとう、と大声で手を振りその背に上手く伝わるようにと願った。


「……良い子だったでしょう? 大河内さん」


 ゆるりと身体の方向を変えながら礼ちゃんの手は改めて握り直される。俺はうん、と頷いた。もっと早くに知り合っていたかった。もっと早くから知ってもらっていたんだから。


「礼ちゃんみたいな良い子の周りには、良い子が集まって来るんだよ」

「……何が欲しいの? 神威くん」

「行ってらっしゃいのチュー」


 四週間後にね、と大きな黒い瞳をキラリンとさせながら礼ちゃんは俺を見上げた。我慢できるのかな、俺。唇以外にならいいんだろうか。そうやって狡い抜け路を何とか探そうとする自分の不埒さを見透かされないように、俺はキュ、と眉根を寄せた。




 逢わせたい人間がいるんだ、と心は言う。逢わせたい人間、と俺はそのままなぞる。

 よく知ってるヤツ、と心は言う。よく知ってるヤツ、と俺は反芻する。

 こんな時だから、と心が言ったところで、逢いたいと想う人達の顔が幾つか浮かんだけれど、まさかね、と打ち消した。


 心の表情は何かの企みを隠し持っているとは思えないほど爽やかだけれど、俺はやっぱりちょっと不安で、声音に潜んだその感情を礼ちゃんはそうっと和らげようとする。


「神威くんのキャンパスまで一緒に行こう? 私、2限からだから」

「あ、オレも!」


 心ははなから授業に出るつもりはないのか。後ろを歩く礼ちゃんと俺を穏やかに見やると、また黙々と武瑠と歩き出す。


「礼ちゃん。無理しないでいいんだよ。俺のキャンパスへ来る、ってことは…、」


 あの女と遭遇してしまうかもしれない。そんな可能性がゼロじゃないなら、俺は礼ちゃんをそんな目に遭わせちゃいけないと思う。


「神威くんがすぐ傍にいてくれたら大丈夫」

「あら。そんなヘタレ野郎で大丈夫なの? 私だっているわよー、ミコちゃん!」



 わー。とってもとっても聞き覚えのある声だ。

 そうして正門に凭れ大学名さえ霞んで見えるほどに偉そうなオーラを放っているあの姿は。


「……姉ちゃん。なんでここへ」

「朝イチの電車よー、あんた、眠いったら」

「手段じゃなくてね?! 理由だよ!」


 ピラリ、と肩から提げていた小さめのバッグから姉ちゃんは何やら紙切れを取り出した。そうしてまた偉そうに俺に掲げて見せる。戸籍謄本だ。俺の。


「これと、私が必要だ、って。心が言うもんだから。超多忙スケジュールの合間を縫って駆けつけてあげたというワケ」

「……恩着せがましくもありがとうございます」

「ちょ、心! お腹空いたわ! 呼び付けたからには奢りなさいよ? 武瑠でもいいけど!」

「何なの? そのオレの“ついで”感?!」


 カフェテリアへ行こう、と、心は姉ちゃんを促す。大人フェロモン出過ぎでここの学生じゃないってバレない? なんて真剣な顔で心配そうに言う姉ちゃんの背中を武瑠がハイハイ、と押す。

 ああ、姉ちゃんだ。二十歳を超えても大人になっても。姉ちゃんは、姉ちゃんだ。逢いたい顔に浮かんだんだよ、さっき。シスコンか、俺は。


「……神威くん? 大好きよ」

「えー…、今ここでその発言?! 俺、公然わいせつ罪で捕まっちゃうよー」

「夫婦だったら罪に問われないんですって。弓削くんが言ってた」


 ふふ、と笑う礼ちゃんに手を引かれるように俺は正門をくぐり前を行く三人の背中を追いかけた。

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