第4話

 本当に。何をやってんだか、王子は。


 いや、そもそも許せないのはあの女、ド派手ミニスカ露出狂のクチビルお化け。あたしの漫画に出てくんのか、ってくらいヒール野郎じゃん。ミコちゃん先輩を。あたしの可愛いミコちゃん先輩を! こんなに泣かせやがって絶対許せん! あの時、もうちょっと言ってやればよかった!

 やっぱあたしネーム苦手だから。ボキャブラリーが貧困なんだよね、担当さんからも言われるけど。


 締め切りが近くなると、あたしの部屋は本当にゴミだらけになる。人として生存可能な状態にしてくれてるのはミコちゃん先輩のおかげだ。何かと気にかけてくれてメールや電話くれるし、不躾に呼び出しても可能な限り応じてくれるし、作ってくれるご飯は本当に何でも美味しいし、ついでにトーン貼りとベタだけじゃなく、網かけも集中線も資料見ながら背景描くのも上手だし(いやマジで最近アシスタントについた千津ちゃんより上手い。時々遠近感がおかしいけど)。


 嫁に欲しい、ミコちゃん先輩。いや、あたし性的志向がそっちって訳じゃないけど。いつかミコちゃん先輩がオープンするであろうカフェに、あたしが漫画描くスペースを作ってくれんかな、王子。……などと真剣に考えたりしている。


 いっつも、温かな気持ちをいただいてるばかりだ。ミコちゃん先輩があたしの前でこんなに感情を曝け出したのは初めてだ。驚きもしたけど嬉しかった。今あたしは王子よかミコちゃん先輩の近くにいる。ああいや、張り合うつもりは毛頭ないんだけど。


 何か、してあげたい。何ができるんだろう、あたしに。

 漫画描く以外、能が無いあたしに。



 ***



 6月号に掲載予定の短編読み切りを仕上げたばかり。そのタイミングで生理が来た。助かった、あたしの生理痛はハンパなく酷いから。でも肝心の生理用品が残り少ないことに気づいて仕方ない、久しぶりに外の空気でも吸いに行こう、と鎮痛剤を飲んで効き目を実感するまで待って重い腰を上げて。結果、良かった。ミコちゃん先輩を救えた。


 プロデビューしたとは言え、貧乏学生であることに変わりはない。賞金はママに預けて学費の足しにしてもらってる。一作品仕上げる毎にいただく報酬は、定期的にバイトしてる暇が無いもんだから生活費へと即 消えていくし。


 だから、普段だったらお値段高めのコンビニで生活必需品を買うなんてことしない。ちょっと遠いけどディスカウントストアまで足を延ばしてまとめ買いする。でもその日は、結果、何もかもが良かったんだ。


『―――……なの?』


 何て言ったのか分からなかったけど、やけに甘ったるい声が耳についた。……いや、鼻についたって言うの? ふわ、とそいつの周りの空気が語気の荒さとともに運んできた香水の匂いが相当きつい。何だこれ。フェロモンまき散らしてんのか? いかにもオンナを強調してる系。生理でイライラしてるからいつにも増して癇に障る。

 あたしには無縁だけど大抵こんなん付けてる女ってブサイクだったりするんだよ。中身で勝負出来ないからさ。


『……あれ? ミコちゃん先輩?』


 姿を目にするなり反射のように口をついて出た。あたしん家の近くではあるけれど、ここ。泣きそうな顔して、何してんすか?

 相対する二人の間に漂う空気が清浄なものでないことくらい、対人スキルに欠けるあたしにだって分かる。あたしは敢えて、ド派手女を視界に入れないようにした。タイプじゃないからね、全くもって。


『どうしたんすか、こんなとこで。あ、うち来るつもりでした?』


 だってミコちゃん先輩の右手には、締切前の切羽詰まったあたしが食べたいと駄々をこねたコンビニスイーツの箱が握られている。きっとあたしのために。あたしが好きだって言ったから。


 何らかのサプライズの後にこみ上げる喜びは、いかに相手のことを想い考え事前準備し嗜好を探り志向を先読みしてくれたかっつーさり気なさによると思わない? だってリアルじゃ漫画みたいにドラマチックなことってそうそう起きないんだもん。でもね、ミコちゃん先輩プレゼンツ天然思いやりは、さり気にサプライズ度満点なんだよねー。


 あ、ヤバヤバ。痛みを紛らわそうと思考が飛んだ。あたしは完璧に女の前に立ちはだかり、ミコちゃん先輩を隠した。ちっこいミコちゃん先輩はあたしにだって隠せる。


『え、誰? いきなり。アタシ、その人と喋ってんだけど』


 どこの誰か、なんてその時のあたしには知る由も無かったけど、なんつーか、その僅かな言葉の吐き方だけで、ああ無理、と直感した。周波数が合わない。


『あんたに名前教える義理はない。てかクッサいよ! 香水つけすぎ! 中世ヨーロッパの貴族か! スメハラって知らんのか!』


 ああクソ! イライラが先に立って言葉が滑らかに続かない。それでもその女のHPはそこそこ奪えたみたい。あたしはミコちゃん先輩の左手を取って家へと歩き出した。


『ミコちゃん先輩、友達は選んだ方がいいっすよ』

『……友達、じゃ…ない…』

『分かってますよ、冗談です! あ、うちの冷蔵庫 何も入ってないんで』


 ああ、しまった。結局、コンビニ入らなかったからナプキン買えてないし。ご飯作ってくれますか? っていつものノリで訊いてみる。コクリと頷いたミコちゃん先輩を確認してから決めた。スーパー寄って帰ろう、そこで買おう。


『……今日、泊まっても、いい…?』

『ああ、はいはい。いいで…ええっ?! 泊まっ…て?! え、うちに泊まるんすか?! 正気?! 本気?!』

『……駄目なら…』


 もはや泣き出す寸前といった感じのミコちゃん先輩を覗き込みながら、あたしは慌てて頭を振った。あたしが言いたいのは良いか駄目かという点ではなく!


『お、王子は…許したんすか』

『……』

『……何か、あったんすね』


 間違いない。王子と喧嘩…いや、喧嘩したことあるのかな? このバカップルは。ちょっとした諍いの原因なんて、あの独占欲丸出しヤキモチ妬き王子の一方的な早とちりがほとんどなんだし。


 喧嘩じゃなくとも、何かがあった。あの女も一枚噛んでんだろうか、コンビニの前に放置してきたけど。え、まさか王子が浮気?!……ああいや、ないな。それこそ。あり得ない杞憂に苛まれてる器の小さい男なんだから、王子。第一、あんな女子の反感買いまくり女を相手に選ぶ男なんざ下の下だよ。あたしはあんまり王子を評価してないんだけど(何様?)浮気、はないだろう、うん。

 何なんだ、この嫌な感じ。俯き黙りこくったままのミコちゃん先輩とあたしは、それでも何とか買い物を済ませ帰路についた。



 うちのアパートのキッチンはすごく狭い。二人並んで何か作るなんて無理。まあ、女子一人暮らし用の部屋なんてこんなもんだろうけど、それを良い理由にあたしは全く手伝わない。

 料理は慣れ、とミコちゃん先輩は言うけど、あたしは先天的なセンスだって大いに必要だと思ってる。最近じゃお味噌汁を上手に作れるようになったらしい王子もそこそこセンスはあったんじゃね? IHのコンロひとつ、電子レンジも併用しながらミコちゃん先輩は器用にご馳走を生み出していく。

 相変わらず黙りこくったまま。もともと口数は少ない人だけど、今日は口を開けば涙が溢れそうなんだろな。下唇を噛みしめてる。


『……大河内さん?』

『ご飯の前にしますか? 後にしますか?』


 どれほどじっと見つめていたのか、あたしの視線に気づいたミコちゃん先輩が料理の手を止め顔を上げた。あたしはそれほど気が長くない。このただならぬ物々しさを一刻も早く解消したいんだけど。


『……どっちでも…私は』

『はい、じゃあ今すぐ。ここ座って下さい』


 ミコちゃん先輩は律儀にコンロのオフ状態を目視確認して、あたしの目の前に座った。原稿用紙やコピー用紙、雑誌や漫画が雑然と周囲を取り囲むけどとりあえずゴミはないし座れるだけの空間はある。


『時系列で、順序良く。ミコちゃん先輩の主観は要らんです。まずは、事実を教えて下さい』


 ミコちゃん先輩の可愛い顔は苦笑で覆われた。困ったな、って全身で語ってる。……や、違うかな。嫌悪感? ため息の先に続く言葉は重く低く灰色だ。


『……昨日、洗濯する時に見つけたの』


 あたしは、途中で何かを挟むことなく最後まで聴き届けようと決めていた。

 ミコちゃん先輩と知り合ってから二年ちょっと。あたしは傍にいることを許してもらえてる気兼ねない一員として、ここにきて初めて真価を問われてるような気がしていたから。

 ひとしきり話し終わったミコちゃん先輩は、大きく大きく深呼吸をした。あたしは、体操座りで聴いていたけど、ちょっと腰を上げて頭なでなでしてあげた。こぼれ落ちそうだった下瞼の水分は、必死で表面張力と闘っていまだ引力に逆らっている。えらいじゃん、泣き虫だっつーのに、ミコちゃん先輩。や、一回泣いてきたからまだ耐えられるのかもしれないけど。

 と、思ってたのに。それが引き金だったか。頬をポロポロと雫が伝わり落下した。


 漫画で泣いてるシーンを描く時って、大抵丸い雫がポロポロという効果音と共に落下する。ツツーッ、とかね、細い線引いたり。よほどの劇画タッチでない限り、頬をダラダラとは伝わらないし、実際は鼻水だってズルズル……あああ、あたしって。こんな時にまで漫画だ。ダメ人間だ。


 いや、だってね。本当にミコちゃん先輩の泣く姿は漫画のワンシーンみたく綺麗だなあ、って。頬っぺたに潤いが充分満ち満ちているからでしょうか。それともあまりに大量の涙が涙腺から放出されているからでしょうか。肌理細かな肌の上を弾むように落ちスカートのコットンへ歪な染みを作っていく水分を、あたしはボンヤリ見ていた。


『……そんな泣き方で不完全燃焼じゃないっすか?』

『……』

『いいんすよ、誰にも言いませんから。うーっ、とか、うわーん、とか声出せばいいし。神威くんのバカー! とかでも』


 フルフルとかぶりを振るミコちゃん先輩。自分のことより神威王子への言及には反応しますか。流石、溺愛バカップル。……な、だけに。ショックも大きいだろう。


『……っ、か、神威…くん、っは』

『はい。聴こえてます、ちゃんと』

『…っ、ひ、が…被害者…でしょ、うっ…』


 うん。まあ。望んでされた訳じゃないだろうからね、そのチュー。でもこの心優しいちっこい先輩は分かってない。


『……違いますよ。本当の被害者は、ミコちゃん先輩っすよ。その女は、ミコちゃん先輩に渾身の一撃を喰らわせたくてその場で最高に有効で卑怯な手段を選んだんすよ』


 そんないやらしいことをする意地悪女は漫画の中だけじゃなくリアルでも結構存在する。アニメの専門学校へ行った塚ちんも、校内で有名な略奪好き女に合コンで良い感じになった男子との仲を邪魔されてダメになったと号泣してたし。


 基本的に女子は、他人の不幸ネタは我が身の幸せだと思う。それを肴にスナック菓子3袋はイケるでしょう。ワイドショーやゴシップ満載の雑誌が存在を消さないのも、韓流ドラマや13時半からの昼ドラが奥様方に大ウケなのも、そういう理由からでしょ? あたしの偏見?


『……か、神威、くんは』

『自分のことより王子のことすか』

『…っか…かわいそ…』

『はあぁ?』


 いやいやいや! 今! この状況で! 一番可哀想なのは間違いなくアナタですよ、ミコちゃん先輩! 何をか以て王子が可哀想だと?! 意味分かんね!


『……前の…ね。事件、の時も』


 あたし、初めてだ。今日は初めてがたくさんだ。初めて、目の前で泣かれた。そんで初めて、ミコちゃん先輩の口から噂の真相を聴く。アイドル武瑠先輩が否定して回っていた内容を耳にはしたけど、当事者から語られるそれはあまりに胸が痛かった。


『……だからって。王子が可哀想ってこと、ないっすよ。王子だってそんな風に思われたく…』

『私っ―――』


 ひいっく、と盛大なしゃくり声が聞こえて。本当に堤防を決壊させて襲い来る波はこんな感じなんだろうと想像できるくらい、ミコちゃん先輩の大きな目からはどんどん水分が溢れてくる。


『……私…何すか?』

『すっ、好きで…ず、と…好きでいたい、だけ、でっ…た、たった…それだけ、なのにっ…! ど、うして…っ!』


 本当に、どうして。こんな可愛い人を泣かせるような残酷な人間がいるんだろう。あたしはミコちゃん先輩の生い立ちまでは詳しく知らないけど、これまた噂で結構な苦労人だと情報を得ている。


 もう、いいでしょうが、神様。ミコちゃん先輩は、本当に何の心配も不安もなくただただのほほんと幸せに溺愛されてればいいでしょうが。

 こんな試練の、意味が分かんね。




 ワンルーム内に悲しく響いていたミコちゃん先輩のすすり声は次第に音量を下げていった。寝入ったんだろう、あたしは薄いブランケットを小さな身体に掛ける。


 立ちあがったついでにキッチンのご馳走を眺めた。小鍋にお吸い物が出来あがっていて、ハンバーグを焼いてる途中で手を止めさせたらしい。……ミコちゃん先輩が起きてからレンジでチンすればいいか。一人暮らし用の小さな冷蔵庫を開ければ、ボウルの中にマカロニサラダがちょこんと置いてあって、その隣にはコンビニスイーツの箱。ああ、怒りが再燃。


 男女問わず、好きな人が泣いてる時にしてあげられることとかかけてあげられる言葉って、そう瞬間では思いつかないもんだな。かといってシミュレーションしとくもんでもないし。やっぱりあたしって、現場適応力に欠ける。まあ、大体が原稿用紙と向き合ってきた人生だから、絶対的な経験値不足。RPGなら一晩で超レベル上げたり出来るんだけど。


 王子なら、こんな時どうするんだろう。いや、重ねて誓うけど張り合うつもりはない。

 けど。何やってんだよ、って、カンタンにチューされる、とか。避けられなかったのかよ、って。無理難題を押しつけたい気持ちがある。

 だって、目の前であんなに泣かれたら、ミコちゃん先輩を好きなあたしとしては、この得も言われぬ気持ちの向きようは、あの女と王子に対して、になってしまう。括ってしまうのは申し訳ないけど。


 フローリング伝いに電子的な振動音を感じた。なかなか止まないそれの原因を探ればミコちゃん先輩のバッグからだ。勝手ながらスマホを取り出しディスプレイを見ると、今の今まで思考の大半を占めていた人物の名前。


 ほんの一瞬、躊躇った。けど、あたしは知ってる。このスマホは、ミコちゃん先輩だけのモノじゃない。王子のモノでもあるんだ。きっとGPS機能を使ってミコちゃん先輩の位置検索は済ませてあるはず。だから、バレてるはずだ、ミコちゃん先輩がうちにいること。まだ顔を合わせたこともないあたしの名前くらい、王子も知ってる。


「……もしもし」

《あれ? …礼ちゃんじゃ、ないね》


 おお。

 もしもし、の四文字だけで愛しの嫁ではないことが分かるのか。やっぱスゴいな、バカップル。伊達にバカップルじゃないんだな。そんな驚きに苦笑を浮かべながら、あたしは大河内 真百合です、と名乗った。


《…あ、えっと》

「ミコちゃん先輩はうちに来てます、もうとっくに位置検索してご存知でしょうけど。ああ、イヤミっぽく聞こえたらすみません、イヤミなんで正真正銘」


 いかんな、あたし。冷静な日常会話が出来てないな。どうしても王子に見当違いな八つ当たりをしてしまってる。


「……マジで。何やってんすか。僭越ながら事情は伺いました、あたしも無関係ではございません。王子の唇を奪った女と偶然対決したんすよ、うちの近所のコンビニで。ミコちゃん先輩を追いかけてきたんでしょうかね、マジムカついたんであたしなりの罵詈雑言を浴びせました」


 今後の学生生活に支障をきたしたらすみません、と申し訳程度に謝った。いえ、と短く否定する王子。立派に他人行儀だな。大体、もとから愛想ないもんな、王子。


「事情を聞き出して、今は、泣き疲れて眠ってます。今夜は、うちに泊めます」


 もはや決定事項で勝手な変更は許さない、というこれまた勝手な想いを籠めて告げた。ややあって、はい、と低い声が耳に入る。


「……あたし。王子のことは知ってます、高校時代から。直接お逢いしたことはないけど、ミコちゃん先輩通じて勝手に山田神威像をこしらえてました」


 また、はい、と繰り返される。適当に聞き流してる訳じゃないんだろう。その単語以外に何かを伝えたいという息遣いくらいは感じ取れる。それでもあたしは間髪入れず でも、と続けた。


「こんな状況を招いてしまうほど頼りない旦那だとは思いませんでした。ミコちゃん先輩の世界を狭めてる代償に、王子ももっと身を律する必要があったんやないすか?」


 ああ、常日頃から薄々感じていることならすらすらと口を衝いて出るのか。ごめんね、王子。あたしだって悪いと思ってる。こんなん、こんな時に言わんでもいいのに、って分かってる。顔も合わせたことない相手からここまで勝手にムチャクチャ言われてムカついてるよね。怒りださずにじっと耳を傾けてくれてるところは、ミコちゃん先輩が言う“神威くんの素敵なところ”だと思うよ。それでも止められない。あんな、グッシャグシャの泣き顔見ちゃったら。


 これが、ミコちゃん先輩のためにあたしがしてあげられること? 何か、ちょっと手ごたえ違うんだけど。それでも止められない。


「……迎えに来られても。すんなりお返しすると思わんで下さいね? あたしはミコちゃん先輩の味方なんで。間接的であれ、ミコちゃん先輩を泣かせた王子を。あたしは簡単に許せません」


 許せない相手に“王子”って間が抜けてるじゃないか。やっぱり慣れないことをしても決まらないもんだ。他人に負の感情をぶつけると己へも反ってくるな、と実感する。スマホのディスプレイはいつのまにかスリープ状態になっていて、真っ黒な画面にうつろなあたしの表情が映っている。

 あたしも充分ヘタレじゃね? 前向きで生産的な話なんて出来なかった。ごめんね、王子。


 人気者に恋すると辛い。前途多難だし背負い込まなくていい感情達もついてくることになる。それは漫画でもリアルでも同じだ。いくら自分が真っ直ぐな想いだけでもって信じ続けたいと願ってても、熱い視線を送る不埒な輩は大勢いる。圧倒的多数の前にあっては自分なんていう個の存在感のなさを痛感して、意味なく泣きたくなったりする。邪魔は入る、試練は襲い来る、波乱万丈、のほほんなんつーのんきでのどかな形容詞は一生使えない。


「……やめちゃえば…、」


 いやいやいや! ごめん! 神様! 今の心の声、無かったことにして! 具現化しないで! あたしが悪かった! 安直な方法を選んじゃった! あり得ないのに!


「……か、むい、く…」


 そう。あり得ない。ミコちゃん先輩が王子を好きでいることをやめちゃうなんて。あり得ない。そんな前提がないの、話を聴いてると。それは王子だって同じだろう。


 さっきから何度となく繰り返される寝言。いや、もはや寝言なのかどうかも怪しい。すんごいハッキリしてるし。つか、見れるの? そんな簡単に。好きな人の夢。あたし、佐藤健に出てきて欲しい! って願っても願っても無理なんだけど。今度、そのスキル伝授してもらおう。

 悪夢にうなされてる、とかじゃないといいな。いや、夢の中で王子、超土下座してたりして。……うん。それは正夢になりそうだ。

 あたしは何か飲もうと立ち上がりキッチンへ向かった。




「……ごめんね、大河内さん」

「何言ってんすか。あたしがミコちゃん先輩に食べさせてもらった米粒の数に比べたら! 何のこれしきですよ」

「……米粒…」


 ふふ、とこぼれた笑みはいつもの調子じゃなかったけど。まあオッケーとしよう、口角を上げられるようになったってのは大事。


 もともと大きなミコちゃん先輩の二重瞼は散々泣いたせいか妙に腫れぼったく、ちょっと彫りの深い異国人のようになっている。見るにつけ、噴き出してしまう…ごめんなさい、失礼ですあたし。床にぺたりと座り込み温めたタオルを顔全体に無造作に当てている。相変わらずの化粧っ気なしが、あんな唇オバケを見た後では余計に清らかに感じられた。


「……私。バカみたいじゃない?」

「……今に始まったことではないのでは? バカップル」


 あー、うー、とタオルを膝に落とし次に繋げるべき言葉を吟味してる最中のミコちゃん先輩も可愛い。あんまり饒舌じゃないミコちゃん先輩は、あたしみたくポンポンと軽々しく言葉を吐かない。よくよく考え取捨選択するそのピタリ賞のフレーズや響きは、だから周囲に愛されるんじゃないかと思ってる。


「……その。キス、くらい、で。お、大騒ぎ、してしまって…」

「無理せんでいいっすよ。キス、と、くらい、の間にあった0コンマ0何秒かが全てを物語ってます」

「……う」

「まあ、実は神威王子もあのド派手女も外国人であれは挨拶のチューだったのよベイビー、ってオチなら。あたしだって、そう騒ぎたてなさんな礼さんや、って言ってますよ」

「……私、国際結婚はしてない…」

「そうでしょー、戸籍は日本人のままでしょー…そんじゃあやっぱ。単なる肌と肌との接触以外の意味を持つんやないすか」


 言葉に詰まったミコちゃん先輩はまたあのシーンを思い出したのか目元と鼻の付け根にクシャリとシワを寄せ、その小さな指を数本、唇に当てため息を吐いた。しばらくの沈黙の後、大河内さんは、とミコちゃん先輩が切り出した。あたしは何が語られるのかとじっとその口元を見つめる。


「……その。何人かの人と…キス、したこと、ある?」

「……いちいち“キス”って単語に照れんでくれますか、ってかあたしのことバカにしてんすか、先輩。あたしは所詮、二次元大妄想世界の住人です! リア充爆死しろ! があたしと千津ちゃんの合言葉ですよ!」


 鼻息荒くそう一気に吐き出すとミコちゃん先輩の顔にはまたさっきより従来のそれを取り戻した笑みが広がった。よしよし。別に意識した訳じゃないけど良い傾向。ああ、でも。無理してんじゃないのかな、優しいから。


「……私…神威くんとしか。……したことなくて」

「ああもう! 音声を一部変更してお届けしたい昼下がりの団地妻告白みたいになってきたやないすか! はい! 先続けて!」

「え…続け、るの」

「いいっすよ! モザイクかかってます!」


 いや、モザイクはなかったか。ミコちゃん先輩が猥褻物扱いになってしまう。そんな下品な冗談でも、苦笑を浮かべ噴き出しつつ何とか言葉を見つけようとするこの人が、少しでも話しやすくなってくれればいいんだけど。


「……気持ち悪い、と。思ってしまった。その…これから。神威くんと、キス、する…唇は。あの…」

「ああ、そうですね。あの唇オバケと間接キスですね」


 言いにくそうな吐露を引き継いだ先の答えは正解だったのだろう。ミコちゃん先輩はまたその可愛い顔を若干歪ませ、頷いた。


「……目の前で。見ちゃってますからねえ…」


 困ったな。経験が無いことって、アドバイスの仕様がないんだもん。拭き取れば、その汚された箇所は確かに元に戻るんだろう。でもそれは、汚れが付いた原因までも拭き取り無かったものにする、って訳じゃない。そういう行為じゃない。ミコちゃん先輩の心に巣食ってる黒い想いはそういうことでしょ?


 潔癖症か! って。ツッコミ入れたくなる気持ちもほんのわずか0.01ナノミクロンくらいあったりするんだけど。まあ、あたしの思考回路は8割方 少女漫画のデータベース依存で構成されているので。やっぱごめんね、王子。隙があった王子のが悪いと思っちゃうんだよ、あたし。で、あの唇オバケの正体が分からん現状では、その苛立ちの矛先は全て王子へ向かってしまうというワケ。ああ、王子の熱烈純粋ファンの皆さまからは袋叩きにされそうだ。


「……電話、ありましたよ。王子から」


 かける言葉が見い出せないな、と一旦諦めたあたしは話を逸らすことにした。気にしない方がいいですよ、なんつー安直なことは言いたくなかったし。現にミコちゃん先輩、もんのすごく気にしちゃってるんだし。

 勝手に出ちゃってスミマセン、と。頭を下げ丁寧に詫びる。上げた顔の先にはミコちゃん先輩の柔らかく緩んだ口元があった。あああ、ほらね。気遣わせちゃってるよ、あたし。

 あたしがあまり王子へ良い印象を持ってないことはご存知だ。ミコちゃん先輩のスマホに施された諸々の設定がもつ意味にあたしはブツブツ文句をつけたから。


「……いいの。気を遣わせちゃって、ごめんね」

「……今日は泊らせます、って伝えました。あの調子じゃ、明日学校終わってからソッコー迎えに来るんじゃないっすか」

「……神威くん…。ちゃんと、ご飯…、食べてくれるかな」


 どうでしょうね。ご飯なんて、喉通らんのじゃないですか。今あの人は、いてもたってもいられなくて髪の毛ぐしゃぐしゃにかき乱してますよ。まあ、そうさせるようなことをボロクソ言ったのはあたしです、スミマセン。

 いよいよ直接対決か。いやいや張り合うつもりはマジないんだって。でも。



 あたしが勝手に作り上げてる山田神威像。

 高校時代に見聞きした情報と、大半はミコちゃん先輩からの賛辞溢れるエピソードで出来あがってる。嫁の贔屓目を差っ引いてもおよそ素敵男子だと思われるそれは、時々裏切られる。

 スマホの件も。今回の件も。あたしが抱いているこの乖離は、本人を目の前にすれば埋められるんだろうか。



 それから眠りにつくまで、ミコちゃん先輩は変わらず口数少なめで、出来るだけ、うちに来た時のいつもと変わらないように過ごした。少なくとも、そう、見えた。いや、見せられた、って言うべき? そうして時折じっとスマホのディスプレイを見つめていた。


 ご飯のタイマー大丈夫だったかな、とか。お風呂の洗剤 切れてなかったっけ、とか。明日ゴミの日だわ、とか。……それら小さな呟きは王子へ電話をかける何でもない理由に打ってつけ。かけちゃえばいいのに、気になるなら。それでもその都度、唇に指を当て眉をひそめるミコちゃん先輩が、最終的に受話器のアイコンをタップすることはなかった。


 うん、あたしにも分からない。吹っ切り方なんて。忘れるのが一番なのかな。無かったもの、見なかったものと自己暗示かけるとか。寝ちゃえば忘れられ……


「……一度、記憶されたことってなかなか消えないのよね。私の海馬体は至って正常に機能してる」


 あたしとミコちゃん先輩は暗がりの中、天井を見上げながらほぼ同じことを考えていたらしい。あたしは馴染んだベッドの上。ミコちゃん先輩はフローリングを片づけて布団の上。千津ちゃんの匂いがすると静かに笑っていた。


「……心理的なストレスを受け続けると萎縮してしまうらしいけど。大丈夫、って、こと。……覚えてしまってる」


 覚えてしまってる、か。覚えてるのは、或いは覚えておくのは本意ではないってことね。


「……脳ミソが、ってことでしょ? 大丈夫なのは。そことハートは別問題やないすか」


 あたしが…いや、あたし達、にしとこうか。心配でたまらないのはそこっすよ。


「……そういや。何 言われてました? あの唇オバケから。あたしが立ち入った時、何ぞ言われよったでしょ?」


 また黙り込んだミコちゃん先輩へ慌てて、言いたくないならいいです、と追加したけど、ふ、と小さく聞こえた後に言葉は続いた。トーンが沈んでて、ああわざわざ思い出させちゃった、と激しく後悔したけどもう遅い。空気読めないあたしに“思いやりの羽衣”とか“優しさの聖水”とかアイテム下さい!


「……山田くんの。才能を、邪魔してると、思わないの? って」

「……何すか、それ」


 またこみ上げる怒り。あたし、今夜は眠れないかもしれない。

 何なんだ! あの女! この胸くそ悪い感じは何だ! 何 王子の理解者ぶった発言してんだ! いやあたしもよく分かってないけどさ! 何かムカつく!


「……同じ専攻だから。分かり合えることが、あるんですって。……聞かされたのは、そこまで」

「……律儀に聞く必要なんてなかったのに」


 うん、でも。

 ミコちゃん先輩は心身ともにくたびれちゃった今日一日だったせいか、トロンとした表情が目に浮かびそうな声でゆるりと言葉を繋げる。普段なら誘眠効果がありそうだけど、今のあたしは興奮物質が出まくりだ。


「……何か……事情が、ある…のかな…て」


 ミコちゃん先輩。いつ何時でも自分以外の相手へ向けられるその優しさは、思いやりは、その時、要らんかったと思います。そうやって結局、しっちゃかめっちゃかにされたんやなかったですか? 高校生の時。

 あたしは闇に慣れてきた目を開けたまま、刑務所の中に入ってる元同級生とやらの話を思い出していた。



 ***



(……話し声…?)


 眠れぬ夜を一人明かさなきゃ、と思っていたはずなのに、あたしはいつの間にか爆睡してたらしい。生理中ってやたら眠いんだった、とか、自分自身へ訳の分からない言い訳をかましてみる。

 何時だ?……7時前だ。ぼんやりしていた頭と視界がハッキリしてくると、スマホ片手に通話中のミコちゃん先輩が目に入った。漏れる声であたしを起こさないように気を遣ってくれてるのだろう、口元を掌で覆い隠しちょっと猫背気味の奇妙な格好。表情をきちんと窺い知ることは出来ないけど、ものすごく会話が弾んでる様子には見えないな。


 受話口の向こうにいるのは、何となく王子だろうと察しがつく。ミコちゃん先輩からかけたのか、王子からかけてきたのか、分からないけど…や、王子の発信だろうな、うん。途端に聞こえてきた、え?! と吐き出すような驚きの音。



 ミコちゃん先輩があたしへ目を向けた。あたしは寝転がったまま虚ろな視線をミコちゃん先輩へ据え置いていたから、自然目が合った。瞬間、迷いの表情が見て取れたけど、先輩はそのまますっくと立ち上がり稀に見る機敏な動作で玄関へ向かう。ドアが開く音がして、また閉まった。


(……出てった…?)


 いや、動けよあたし。ゴロゴロしたままで分かるはずもない。いくら狭いワンルームだといっても、ここからじゃ玄関は直視できない。起きなきゃ、と自分を景気づけて思いっきり伸びをした。うーん、という自分の声だけしか聞こえない数秒の世界。


「……大河内さん…」

「……ふあ?」


 恥ずかしいくらい変な声が出た。あたしのどこから出た? さっきの萌え声。


「……神威くんが、来てるの」


 あたしはしばらくミコちゃん先輩を見つめたまま、やるな王子、と心の中で悔しいながらも感服の声を上げた。


「……来てる?」

「……このアパートの、前に」


 そう言ってミコちゃん先輩は玄関の厚いドアの向こう側を一旦 振り向いた。



 こういうの、機先を制される、って言うんだっけ。いや、出鼻を挫かれる? あ、でもあたしが出ばってる訳じゃないか。いずれにしてもあたしが臨戦態勢じゃないことは確かだし、昨日 王子へ暴言を吐いた時ほど興奮もしてない。7時前だぞ。早起きだな。


 実はかなりの使い手かもなー、王子。人畜無害な草食系と思いきや、それなりに行動派の策士かもなー。


「……大河内さんに、謝りたい、って。言ってて…その。一度言い出すとなかなか引かないの、神威くん。あの……良かったらちょっと外で」

「……いいっすよ。別に。ここに、呼んだらいいですよ、王子を」

「……え?」

「立ち話もなんですし。ダルいんで、身体」


 あたしが生理中であることと、その時の不調さを思い出したのか、ミコちゃん先輩は急ぎ頷くとまた機敏な動きを見せた。ドアの開閉で流れ込んでくる、マイナスイオンが若干混じってるような清々しい朝の空気。


 あたしはボサボサ頭へ指を梳き入れ地肌を掻きながら、ふあ、と欠伸をする。王子の作戦かなー、このご対面。昨夜、悶々としながら練ったんだろうか。

 ……謝りたい、って。いやむしろ、失礼を詫びるのはこっちだと思うんだけど。王子の第一声は何だろうかと、てんであさってなことを考えながらあたしはベッドの上へ起き上がり気持ち程度、布団を整えた。

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