第3話


「待て、神威」


 その場に残された俺へと走り寄って来た神威の右肩を押さえた。分かるだろう、神威なら。俺が籠めた力の意味を。今、お前が御子柴を追いかけたとして某かの益ある会話が成立するのか?


「……心。……無理だよ、落ち着いてなんか」


 小さく震える声と身体が神威の心情を如実に物語っている。無理もない、御子柴に、あんな場面を見られたとなれば。行かせて欲しい、と懇願するように神威は肩に置かれた手を見、俺を見る。


「……授業はもう終わりなのか? お前のとこの教授はどこだ?」


 コクリと頷く様はまるで頼りない。授業は終わりだ、ということなのだろう、さっきまで作業場にいた神威のクラスメイト達は散り、僅かに目を離した隙にあの女の姿も消えていた。神威の呟きによれば、教授は授業の途中、至急の要件で教務課に呼び出されると、そのまま自習となったらしい。


「……どうして、ここに?」


 至極もっともな質問だ。俺は神威を促しながら作業場の方へ歩を進める。神威はテキストもリュックも置きっぱなしなんだが、きっとそんな些末なことを気に留める余裕はないだろう。

 いや、かと言って俺が冷静な訳ではないんだ。未だ手に持ったスマホが動画撮影中であったことに気づき、画面をタップしてアプリを止めた。


「……何となく、気になった。悪かった、断りもなく」

「……ごめん。責めてるつもりじゃないよ。…そう聞こえたんなら、ごめん」


 御子柴がのり移ったようにごめん、と繰り返す神威。

 心配して来てくれたんだよね、とこんな場面でも優しく思いやりのある言葉をサラリと口に出せるその天性に驚く。だらしなく身体の脇へ伸びたままの両腕へテキストとリュックを手渡した。


「……どこから、見てた?」

「……しつこく昼メシに誘われてるあたりから」


 神威はテキストを無造作にリュックへ突っ込むとそのまま肩から提げた。両手で顔を覆い、深く深くため息を吐く。

 情けない。

 そう、盛大に漏れた空気の中へ混じっていた。


 葛西。教えてくれ。お前ならこんな時、何と言って神威の心に寄り添うんだ?

 もしくは、武瑠。御子柴を追っていったお前は、追いついて掴まえた御子柴へ何と言ってる?

 それとも、美琴。ここまで落ち込んだ神威を浮上させる最良の手段は何だ? 御子柴の笑顔は、今使えないんだ。


 神威はきっと、御子柴しか知らない。御子柴としかキスはしていないだろうし、セックスも勿論だ。何人かの女と重ねてきた俺の感覚とは、きっと、違う。


 だから、気にするな、とも、事故みたいなもんだ、とも、ましてや、役得だな、とも、或いは、上書きしろ、とも。言えない。そのどれもが正しくない。神威は、御子柴しか、要らないんだから。その他を、欲してはいないのだから。


「……メシは?」

「……無理」


 苦笑し、また吐息を漏らした神威は、帰るよ、と小さく言った。心はどうする? と。その瞳は俺を映してないだろうに懸命に笑みを浮かべようとする口元が痛々しい。


「……無理するな、神威。泣きたいなら、泣け」

「……礼ちゃんが。俺の分まで泣いてるよ」


 ああ、そうなんだろうな。武瑠がきちんと追いついて、独りで泣いてるのでなければいいが。

 力なく歩く神威に付き従えば、正門の脇に構えてある駐輪場へと向かう。愛車ルノーの施錠を解き、手元へと愛しく引き寄せる仕草は、きっといつもならもっと溌溂としていただろうと容易に想像できた。愛する嫁の元へ帰れる、その流れの動きなんだからな。

 サドルに跨ることなく僅かな腕の力と惰性で押し始めた神威に並び歩き始めた。



 神威の大きな身体には似つかわしくない折りたたみ自転車だ。でも御子柴にはちょうど良いのだ。

 礼ちゃんでも持ち運びできそうだよ、とスマホの液晶画面へ額を突き合わせるようにして見入り選んでいた二人の姿を思い出す。二人共、同じスマホを使っているのだから、それぞれで見ればいいじゃないかと提案した俺に、御子柴は考えつかなかった、と妙に感心し、神威は余計なことを言ってくれるな、と訴えるが如く眉をひそめたんだった。

 春らしいパステルカラー。水色。気の持ちようか、寂しくくすんで見える。



 武瑠は御子柴へ何と声をかけたのだろう。今夜俺達はいつものように“ご飯出来たよ!”とメッセージを受け取ることは出来るのだろうか。


「……礼ちゃん。家へ帰ってきて、くれるかな」


 俺の心中は神威の口からため息と共に溢れ出た。

 そうだな。人間はどうしても過去の経験則に基づいて行動予測を立てがちだから、御子柴が取る対応策は“逃避”なのかもしれない、と。神威が危惧するのも、解る。


 いや、前歴がなくたって逃げ出したくなるだろう。

 あの場で、あの女へ。立ち向かえと? 詰め寄って手を上げるとか? そう出来なかった御子柴は、弱いのか? 俺はそんな自問に独り、否、と首を振った。


「……神威は。どう思うんだ?」

「……少なくとも、今日は。どうなんだろう、待ってみるけど…や。……正直、合わせる顔が無い」


 どうしてこんなことに、と嘆く神威。思考を整理する余裕はないんだな。その脈絡も論旨もめちゃくちゃなさっきの言葉はもはや反射の域だと思われた。一歩ずつを何とか踏み出し、帰る方向を間違ってないのも無意識下だろう。


「……午後の授業、良かったのか?」

「……うん。どうせ今日は、あと1コマだけだったし。瀬井くんが気を利かせてくれてると思う」


 瀬井。確か神威と同じグループにいたな。苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた理由を察するに、あの女の言動に辟易していたクチではないか。二、三度飲みに行った覚えがあるが小まめに気のつく男だった。そうであって欲しいと暗に願った。


「バイトは? 家庭教師の」

「風邪引いた、って連絡があった。今日はお休み」


 こんな日に限って、極めていつも通りに過ごせる要素は削られていくのか。あのアパートで独り、壁に凭れ膝を抱えて御子柴を待つ神威の姿は想像したくなかった。


「……なあ、神威」

「何?」

「お前…結婚してる、ってこと、」


 俺が問い質したいその先を読んだのか、神威は実に苦々しく ああ、と口に出した。次いでまた漏れる大きなため息。人々のストレスが地軸をずらし地殻破壊を引き起こしそうだ、なんて説を今なら俺は信じられるかもしれない。


「……信じてもらえてないんだ、未だに。一部の人にだけ、だけど」


 左手の薬指は、今ドキ男子に珍しいものではないのか。結婚してるんだ、とサラリと言ってのける神威の言葉は概ね真実として驚きと共に受け容れられたが、単なる女避けとして“彼女”から言わされているのだと目を細められたりしていた。入学当初でこそそんな感じで、だが二人が可能な限り行動を共にしている姿や、その仲睦まじい様や、登校し帰る場所が同じである裏付けが、疑わしさを払拭していったと思っていたのに。


「いっそ背中に貼っとくか? 戸籍謄本」

「……それが最善で最良の策なら、ね」


 信じてもらえない、のではないんだ。きっと、あの女のように。大半は分かってはいるんだ。

 本当に結婚しているのかもしれない。自分が入る余地はないのかもしれない。それでも邪魔して割り込んでやりたいとする黒い心は、何故巣食って行動を起こさせるのか。俺は女心というやつが本当に分からない。


「教授も今イチ信じてくれなくて。だからグループ決める時も…異性視点があった方が良いから、とか何とか」


 また、ため息。過去に遡ってみても何ら現状は変えられない。それが分かっているだけに身の置きようがなくもどかしいのだろう。

 黒髪に指を梳き入れガシガシと掻き毟る神威に差し伸べる手立てが無い俺自身も、もどかしい。


 ただ、家へと帰っているだけ。そこに日常が、いつもの風景が、温かい御子柴のご飯が、待っていてくれやしないかと、淡い期待を抱いているだけ。


「……ごめんね、ってどれだけ謝っても。どうにもならないよね」


 それは神威の独り言なのか。それとも俺へ同意を求められているのか。逡巡した挙句、俺は応える。すまない、神威。これが今の俺の精一杯だ。


「……これから何をどう出来るか。一緒に考えよう、神威」


 ありがとう、と神威は微笑もうとするけれど表情筋の動きはぎこちない。神威に限っては、五大栄養素だとか必須アミノ酸だとかの他に神威を形成する要素として“御子柴”というのが確実に入っているな。欠乏すると、まず笑顔と生気がなくなる。ひいては呼吸の継続すら危うくなる。経験済みだ。


「……礼ちゃんは、可哀想だ」

「……何故、そう思うんだ?」


 可哀想じゃない。そう否定するのは簡単なんだが。苦しそうに漏らした神威の深意を聴きたいと思った。


「……俺に、好かれちゃったから。辛いことばっかりだ」

「そんなことはない」


 神威の言葉へ被せるように否定した。今度は。そうしてもう一度重ねた。そんなことはない、と。


「辛いことばっかりかどうかなんて御子柴が決めることだ。そもそもあいつがそんな風に考える訳がない。安直に慰めてるんじゃないぞ? 俺の言葉は事実に基づいている。何なら逐一聴かせてやる、そう考えるに足る根拠を詳細かつ明確に、」

「心、……ごめん」

「お前、何かと謝り癖が…御子柴に似てきたな。仲の良い夫婦は似てくるなんて言うが。とは言っても今さら御子柴の背は伸びないか」


 神威はきっと気づいている。俺がいつになく饒舌であること。ただ、やっと神威の口元に苦々しいながらも笑みが浮かんだから、俺はもう少しこのやり方を貫こうと思った。


 葛西や美琴にすぐ連絡をとって対策と指示を仰ぐのも手かもしれない。でもそれじゃあ、あまりに成長がないよな。俺達はいつまでも高校生のままではない。男子力向上委員会は未だ解散していないとは言え、臨時会合を召集するにしても各メンバーはそれぞれにきちんと案を練り持ち寄るべきだろ?


 俺の思惑の方向性は分かっている。心優しい神威も御子柴も、あまりそれを望まないことも分かっているけれど。


「神威」

「ん?」

「俺はきっと、こういう時のために法学部を選んだんだ」


 神威は少ない俺の言葉から真意の手がかりを探ろうとしている。そう、そもそもは。親父と同じ心理学を専攻しようと何となく進路を定めていた俺は、最終の面談で法学部を口にし、葛西をこけさせた。あれは、笑えた。あいつ、頬についてた片肘ごと机から落ちたんだ。


『……理由はきちんとあるんだろうな? 弓削。何となく、なんて流行らないぞ』


 銀縁眼鏡の奥の穏やかな瞳は、どの生徒に対しても公平に真摯に向けられる。武瑠が葛西になりたい、と豪語する気持ちは分からなくない。……なれるかどうかは、また別の話だが。


『……葛西は。ヒーローなんていない、と言った』

『……ああ、うん。言ったね』

『それでも俺はヒーローになりたいんだ』

『……ドラマの影響?』

『まさか。神威の影響だ』


 神威。御子柴。お前達には打ち明けていないから知らないだろうけれど。神威が死んでいるように生きて御子柴の行方を必死で探している時、俺は武瑠と、何度堂々巡りの話をしたか知れない。俺達は神威へ、そして神威が見つけたたった一人の御子柴へ、何が出来るのだろう、と。


 小学5年のあの時。

 神威は武瑠へも俺へも、何の見返りもなくただがむしゃらに動いてくれた。見返り、なんて感覚はたかだか11歳の男子になかっただろうし。


『母ちゃんが病気で』


『寂しくて八つ当たり』


 後からポツポツと聴かされた言葉は、さも俺はヘタレだろ? と。自身を悪し様に詰るものばかりだった。


 でもな、神威。俺達のかくも暑苦しい友情は、確かにあの時から始まったんだ。お前の動きに魂まで動かされたんだ、きっと。

 俺は思う。人間は何かに直面した時にさほどしなやかに動けないものだ。それが出来るヤツを、強くて優しいと称するべきじゃないか。


 高校生だったあの時も。俺はお前に何が出来た? 具体的な何かと言えば、御子柴を迎えにあの島へ一緒に行ったことくらいで。あとは、自分の憂さを晴らすがための行動と言えなくもない。


 俺が大切に想う人達を守るには。救うには。悲しませずに済むには。笑顔の絶えない安寧な毎日を今もこれからも脅かさないためには。

 そうやって、考えた。日本は法治国家なのだから、俺達はそうとは意識せずとも法と共に暮らしているのだから。


 武瑠が葛西のようにみんなの心に等しく優しく寄り添う姿を目指すのならば、俺はより具体的にみんなを強く熱く守りたい。そうやって、決めた。決めて選んだ進路を、俺は悪くないと思っている。

 仮面なんとかにもナントカジャーにもなれないけれど、大切な人のピンチがいつだって変身のタイミングなんだろう?


 それが今でなければ、いつだと言うんだ。


「……関わり合いになることないよ。あんな、」


 あんな女、と。日頃はソフトな物言いの神威だが、流石に怒りの沸点はとうに超しているのだろう、思い出しただけでも腹立たしいとばかりに唇を噛み、乱暴に言葉を吐く。


 御子柴がいたならば。神威くん、と呼んで、ただそれだけで神威をたしなめ、乱暴な口調を訂正させるに充分だ。御子柴が口にする神威の名には実に豊富な彩りがあり、実に多岐に亘った効能がある。


「関わり合いにはならないさ、こっちから願い下げだ。ただ、アイツはルールを侵している。そこは、知らしめてやらないと」

「……心、が。そんなこと、」

「人のものを盗ってはいけません。親なりコミュニティ内の大人なりに真っ先に教わるだろう?……分かってないヤツに親切丁寧に教えてやるだけ」

「……放っておこうよ。俺、視界に入れるのも嫌だ」

「そうだ。教授も説得しなきゃな。そうでなければ明日からもお前の視界は汚される」

「……心?」

「分かってるだろう? 神威」


 俺は立ち止まり、神威を見据えた。

 俺の怒りは迸っているだろう? きっと大河内の漫画なら俺は赤い炎をマントよろしく纏っているに違いない。アシメトリーな髪型が神威の端整な顔へ陰を作った。コクリと頷く様はまた一段と生気を失いつつある。


「……ありがとう…そんなに。俺達のことで、怒ってくれて」

「当たり前だ。アイツは御子柴を泣かせたんだぞ。お前の嫁で、俺達の友達でもある御子柴を」


 ちょっと、子どもじみていたか。ヒーロー見参のセリフとしては。まあ、良しとしよう。ありがとう、と口にした神威の頬に笑顔が浮かんだように見えたから。


 それから俺はアパートに着くまで、御子柴の話をした。他愛ない話だが、今の神威には歩を進める力くらいにはなるだろう。



『なあ礼ちゃん、それ癖なん?』



 あの日は、御子柴と同じゼミの湯乃川も交えて四人で学食にいた。A定食を食べ終わってまったりしている頃、湯乃川の関西弁が人気の少なくなってきた食堂内に響く。


『癖?』

『そ。よう触ってるやん、指輪。礼ちゃん、最近痩せたやろ? サイズ合わへんのちゃう?』


 え、そうだっけ。

 無自覚なようで御子柴はまじまじと左手薬指を見つめる。次いで柔らかく微笑んだかと思うと落ち着くからかな、と湯乃川へ応えた。ああ、この笑顔は。神威が誰にも見せたくないとする類だ。


『……またけったいなことを。ブカブカやから落ち着かへんやろ?』

『神威くんがね、作ってくれたの』


 これ、と湯乃川へ翳して見せている御子柴の指は、確かにまた一段と細くなったのかもしれない。毎年、神威の手により生まれ贈られるその指輪は、年ごとに形を変え今回で三個目だ。


『ご本人にオサワリ出来ないからせめて、って』

『……なんやもう。ノロケかいな』

『ふふ。モクモク出てきてくれたら嬉しいんだけど』

『……怖っ、てかキショ! 魔法のランプちゃうで? 気ぃしっかり持たな、礼ちゃん!』


 おー怖っ、と湯乃川はもう一度大仰に身震いをし、武瑠はユノちゃんツッコミ上手ー、とニコニコしながらコーヒーを飲み干す。御子柴は愛しそうに午後の柔らかな陽射しに映える銀色の光を見つめていた。そんな風に揺るぎなく確かに、御子柴は神威を想っている。武瑠や俺は、実は本人以上に御子柴が囁く神威への想いを耳にしているんじゃないか。



「……礼ちゃん、この前風邪引いてから確かに痩せたなと思ってたけど。……そこまでとは」

「神威には言わないでくれと念押しされたぞ、俺達。夜中にドーナツ食べさせられる、って」

「…だって、ね…折れそうなくらい細いから。もとの骨格が華奢というか」

「牛乳は飲んでるらしいじゃないか。まだ望みは捨ててないんだな」

「望み…ああ、背が伸びるかも、って? 心、恨まれるよ? そんなこと言って」


 こうやって普段通りの会話を重ねて。日常が戻ってきてくれたらと思う。何もかも無かったことになればと願う狡い自分。

 ただ一方で。そう簡単にいかないと理解している自分。

 だから出来ることを、行動を起こして事態をコントロールしたい。静観、などという体の良い逃げに走ることなく。


 経験者だからな、俺達は。忘れる、なんて。そう容易にいかないものだ。記憶からそこだけをぽっかりと取り去ることが出来るはずもない。細かく細かく、そうと気づかないくらいに切り刻んで、別の情景に隠すことは出来るのかもしれない。自分の内から完全に排除することが出来ないのならせめて、自分で自分を上手に騙して騙されて。


 今日の今日で、御子柴が。あれを忘れることが出来るはずもない。神威だって。

 だからその日、昼過ぎにアパートへ戻ってきた武瑠が一人だった時。俺は神威ほどには大きな吐息を漏らさなかったんだ。



「神威」



 部屋へ入ってくるなり武瑠はペタリと座り込んで胡座をかき、柔らかく色素の薄いフワフワの髪の毛をかきむしった。


「……分からなくて。オレ…ミコちゃんへ何て声かけていいか。……でも」


 無理やり連れ戻すのも違う気がして。

 そう苦しく漏らしたが最後、武瑠は俯き押し黙ってしまう。力なく壁に凭れていた神威は急ぎ身体を起こし、のそのそと四つん這いで武瑠へ近づいた。


「……ごめんね、武瑠。武瑠がそんな苦しむことないのに」

「……夫婦して謝りすぎだよー…」


 俯けていた顔を少し上げ、神威と俺を交互に見た武瑠は一つ大きなため息を吐くと、あのね、と自身を仕切り直すように切り出した。


「……あの後、走って追いかけて。ミコちゃん、意外と足速くて。でも、立ち止まってくれたから追いつけた」

「……御子柴が? 自分で立ち止まったのか?」


 武瑠が声をかけたからじゃなくて?

 神威も不思議そうに問い質す。情景を思い浮かべているのか、眉間にはうっすらと皺が寄せられているが。


「声は、確かにかけたと思う。けど……吉居くんは自分を責めないで、って」


 言われて、泣かれた。

 神威のキャンパスへ行くと決めたのは自分。大丈夫だと言ったのも自分。なのにあの場から逃げ出して。吉居くんが気に病んでしまうことをしてしまった。


「……オレなんだ。神威のキャンパスへ行って、何が起きてるのか実際この目で確かめようとしたの。真っ先に。一人で…でも」


 ミコちゃんにバレちゃって。

 胡座をかいた両膝へ両肘をつき、合わせた掌の中へ武瑠は顔を埋める。


「……責められる方が楽に感じることってあるんだね。それって、エゴなんだろうけど。吉居くんが行ってみようなんて言わなきゃ、とか…や。ミコちゃんがそんなこと言うわけないんだけど」


 武瑠の言葉も支離滅裂だ。それはそのまま武瑠の気持ちの揺れを表しているようで、決して誰もが冷静とは言えない現状で、揶揄することなど出来なかった。


「……これ、ミコちゃんから」


 武瑠のジーンズのポケットから出てきた小さな紙切れには、御子柴の几帳面な字で“神威くんへ”と書かれてあった。自然と目を逸らしたけれど、一通り目を走らせた神威は、低い声で読み上げる。


「……夕飯を作ってあげられなくて、ごめんなさい。ご飯はタイマーセットしてきたので18時に炊き上がります。昨日の煮物をチンして下さい。冷凍庫の鮭を解凍して焼いて……吉居くんと弓削くんにも、ごめんなさいと伝えて…」

「昼はね、弁当あるから」


 昼飯とするには遅い時間だったが、武瑠は御子柴が手にしていたはずのバッグから何も言わずに弁当箱を取り出した。眼力だけで食べようと促され、神威も俺も何となくテーブルを囲む。蓋を開けてみれば中身の配置が乱れていて、それが何故なのかを考え、あの時かと思い当たってため息が出た。


「……神威。ミコちゃんの行き先、心当たりある?」


 ウインナーを口へ運びながら、武瑠は神威へ静かに訊ねる。オレ、訊けなかったんだ、と。大丈夫だからと言われ、それ以上追求出来なかったと表情を歪ませた。


「……うん。分かる。分かってる。さっき、調べた」

「……調べた?」

「……心も武瑠も。ごめん、ちょっと。聴いてくれる?」


 一旦手にした箸を置いて、俺は真正面に座る神威の口元を見つめた。躊躇いの仕草を何度も見せるそこから、一体何が語られるのかと訝しみながら。


「俺もう…、頭おかしいならおかしいって、はっきり言って欲しいんだ」

「……神威? 言いたいことが分からない」

「あのね」


 勢いに任せて全てを打ち明けたいとするように、神威はほんの少し声を震わせながら一気に言葉を紡ぎ出した。



 礼ちゃんのスマホは俺の名義で契約したんだ。俺がショップに行って全部手続きして同じ機種にしてなんならキッズ向けの現在地を調べられるオプションにも加入して。アカウント登録も初期設定もして礼ちゃんへ手渡した。この意味、分かる? と。


「…え、あ。だからの“調べた”か。居場所は分かってるんだね、ミコちゃんの」


 ああ、安心した。

 武瑠はそう言ってまだ何か言いたげな神威から強い視線を受けている。

 受けている、が。気づかないふり、か? 無論、俺もそうなんだが。


「……スマホ。同期とろうと思ったらとれるんだ」

「そうだね、同じアカウントだったら出来るよね」

「おかしくない? 俺。不安が過ぎて、おかしくなってきてない? 礼ちゃんの、そんな細かなプライベートまでガッチガチにがんじがらめにして…なのに」


 俺は何をやってんだ、とテーブルへついた両手の中へ頭を埋める神威。俺とは違い箸を黙々と進めていた武瑠は、でもさ、と変わらぬ調子で続けた。


「実際、同期とったことないでしょ?」


 コクリと頷く神威を確認して俺も口を開いた。神威は何を案じているんだ。御子柴がそのことを知らないとでも思っているのか。


「神威。御子柴の友達の大河内。知ってるよな?」

「……名前は。逢ったことはない、けど」

「ああ、俺達も逢ったことはない。高校の後輩らしいが逢わせる顔がないらしい、あの腐女子向け漫画の件で」


 さして可笑しくもない話題だと分かっている。神威の逼迫した表情と、武瑠や俺の空気が相いれないものであるのも分かっている。答えが掴めずにもどかしいのだろう、神威の眉間に皺が寄せられた。


「大河内が気づいたんだそうだ。御子柴のスマホをいじってて。神威の意図に」

「……え」

「御子柴は知ってるよ。自分のスマホは、ほぼ神威のものだということ」


 そしてそれに嫌悪感など抱いていないこと。寧ろ御子柴は安心だと言っていたんだぞ。自分がどこにいてもどこへ行っても神威くんの目が届いているのね、と。


「なあ。神威のその想いは…、確かに行き過ぎた束縛なのかもしれない。でも俺達はあの一件を傍で見てきたから、そうしたくなるお前の気持ちも分かる」

「でも、神威も分かってなくちゃ。ミコちゃんの気持ち」


 あ、武瑠。良いところを持っていくな。頭のどこかでそんなことを恨めしく思いながら穏やかに響く声に耳を傾けた。


「きっと神威がどれだけの想いをぶつけても、どれだけの力でギュウギュウに抱きしめても。足りないんだ、ミコちゃんには。ちっちゃな頃にそうしてもらえなかったから、大人になった今でも絶対量が」

「……信用と信頼の違いかとも思うんだが。俺は」


 卵焼きをもぐもぐと頬張りながら武瑠は、先を続けてワケ分かんない、と言う。お前、汚いぞ。その出汁巻き卵は残しておけよ。


「御子柴は、自分を過小評価しすぎだ。神威も常々言っている通り」


 容姿にしても内面にしても。それは御子柴の無防備さに繋がっているとも俺は思っている。


「ゆえに、という訳じゃないが。神威に自身全部を差し出してると思わないか、御子柴は」

「……そうか。信頼」


 憂鬱そうに眉をひそめたまま掌に顔を預けていた神威は、そこで大きくため息を吐くと居ずまいを正した。


「……礼ちゃんは。そうだね、信じてほしい、って。だから俺に未来を預ける、って。本当に、手放しで、無条件で」

「そう。あいつは白紙の小切手バンバン振り出してるようなもんだ、神威にな」


 でも、俺のはちょっと違うね。

 そう呟いた神威の声は掠れていて、ちょっと切なくなった。どうして。どこから。俺は何を間違ったんだろう、と。


「……信じてる、礼ちゃんのこと。でも、信用なんだね、俺のは。信用の裏側には、不信がある。俺はきっといつまでも」


 怖いんだ。周りに人が多くなって。環境が変わって。成長させられて。色濃くなる想いと見失いそうな想い。法的に礼ちゃんを手に入れて、安心だけが増していくのだと根拠もなく考えていた。


「……また、礼ちゃんがいなくなってしまったら、って。ずっと、どこかで囚われてる」


 こういうのは、女々しいというのだろうか。たとえ言うヤツがいても全力でブチのめすが。

 件の話をした時からテーブルへ置きっぱなしだった神威のスマホは、突然そのディスプレイに今一番 話をしたい人間の名前を映し出した。


 話をしたい、のは俺か。神威が待っているのは、いつだって御子柴からの連絡が第一なんだろうし。特に、今は。


「……あ」


 ディスプレイが知らせる名前を目を瞠り確認すると、それでも神威は素早い動きで画面をタップした。次いでスピーカーにしたところに神威の優しさを感じてしまう。武瑠も俺も、そんなに凝視していたか。


《神威? 今 話せる?》

「……葛西先生…」

《ね、お前達 喧嘩したの? それとも離婚の危機?》


 何てことを、と苦笑しながら応えた神威の声は低かったせいか聞き取りにくかったのだろう。葛西は、御子柴と一緒じゃないよね? と重ねてきた。


「礼ちゃんに電話したんですか? それとも礼ちゃんが」

《俺がかけたんだけど、右京のことで…ね、これ何? スピーカーにしてある? やけに声が響くね》

「悪い、葛西。武瑠と俺もいる」


 俺達の存在を告げると葛西は数瞬 黙り込んだ。

 いつだって思うが、電話はもどかしい。それでも今はこれが葛西と繋がる最たる手段で、こちらから頼るのは躊躇って控えたとは言え、舞い込んできた声に確かな安堵と喜びを覚えている。……耳に入った“右京”という名が気になるが。


《……ちょっと、場所変えてかけ直す。3分待ってて》


 時間の長短に関する感覚は自身の感情に大きく依存すると言われる。その時の3分、は存外に長く感じた。歯磨きは3分間しなさいよ、なんて子どもの頃に言われたけれど、あのじれったさったらなかった。早く口をゆすぎたいのにあと少し磨かなければならないのかもしれない。時計を凝視している訳でもないから分からない。


 いや、神威は。黙りこくったまま左腕の時計を見つめていた。3分を正確に測るためなのか。御子柴から贈られたそれに御子柴の姿を見出そうとしているのか、分からなかったけれど。



 それでもふいと神威が顔を上げた途端にスマホは鳴動し始めたから、葛西は几帳面な部分も持ち合わせているのだと思った。自称、大雑把なO型だったはずなのに。


《神威? ね、何があったの?》

「……先生。……礼ちゃん、泣いてました?」

《いや、泣いてはなかったけど…、泣くようなことが、あった?》


 その問いかけは、神威だけに向けられたものだったのか。或いはスピーカーになっている点は既知だから、神威が言えないのならお前達が説明して、と暗にあの穏やかな瞳を向けられているようでもあった。


「……センセ。オレがやらかしたんだ」

《吉居?》

「武瑠、それは違う。先生、俺が…、俺に隙があったんです」


 神威は言い辛そうに口を開く。四月に入ってから同じクラスの女子にしつこく付きまとわれていること、服に付けられた口紅、バッグにしのばせてあった連絡先、挙句の果ての今日の出来事。そのどれをも、俺が不甲斐なくてとする類の言葉を前置きにする。どんな感情も自分が抱く資格はないと言いたげにただ淡々と語った。


《……うん。事実は分かった。吉居は? 何を気にしてるの?》

「オレ、見に行こうと思ったんだ。その女をね、一人で。これからの傾向と対策を立てたくて。けど、ミコちゃんを巻き込んじゃって…、泣かせた」

《吉居が泣かせた訳じゃないでしょ? みんなちゃんと分かってるよ》


 葛西はそこまでを言うと、神威、と愛しい教え子の名前を呼ぶ。力よ宿れ、と。神の子へ強く念じているように。それは時に羨ましく感じられる。


《……御子柴はね。泣いては、なかった。でも、苦しそうだった。声が》

「……そう、ですか」

《何かおかしいと思って、神威と喧嘩したの? って訊いても曖昧に笑ってるだけ。……先生、また逃げたらみんなに迷惑かけますよね、って言い出すもんだから。当初の電話の目的も忘れてしまって》


 そこで電話は切れ、直後にかけ直しても留守番電話サービスがメッセージを預かるというアナウンスが無情に繰り返されるばかりだった、と言う。言葉を失ってしまった神威に代わり武瑠が“当初の電話の目的”を問い質す。神威の他愛ないヤキモチ妬きぶりを知る葛西が、まず事を御子柴へ先に連絡するというのは珍しく思えた。


《……真坂右京に、ね。やっと面会できる日が決まって。それを、伝えようと思ったんだよ》


 俺は、アイツの底意地の悪そうな黒い笑顔しか知らない。それしか知らないから、咄嗟にそれしか思い浮かばない。それはこの三年という月日が変化をもたらしているのかもしれないのに、ほんの少しアンフェアな気がした。



 御子柴は確か、島から戻って間もなく、葛西に連れられ神威と共に少年刑務所を訪ねた。以後、真坂の親へ葛西を通じてコンタクトを取り、面会の申し込みもしている。……ただ、今日までなかなか叶うことはなかったのだけれど。

 それにしても、何故このタイミングで。そう感じたのは俺だけではなかったらしい。


「……面会…どうして今になって…」

《……そうだね。もうすぐ出所できるからかな。やっと親御さんが動き出したってとこ?》


 葛西はしばらく沈黙を保った。

 御子柴が真坂右京へ面会を申し込んでいる、それは神威も納得ずくで周知の事だ。心優しい彼女を持つと、そしてその未来までまるごと頂くことになると、御子柴の何もかもを受容するのが大変なのだと苦笑していた姿を思い出す。……しかも、御子柴は。


《……ね。御子柴はまだ真坂と文通中?》

「あ…はい。二週間くらい前にも来てました」


 そう。獄中から検閲されて山田家へ届く白い封筒の中は、真坂右京の何てことのない日常が綴られているらしい。それを嬉々として受け取る訳でもない御子柴は、淡々と丁寧に返事を書いていると聞く。ただ、それだけだ。文章を通わせているだけだ。心情までじゃない。それでも俺には理解が正確に及ばず寧ろ驚きでもって事を眺めている。御子柴と右京の間には、あのニ人にしか持ち得ない何かがあるのだろうけれど。俺達の知らない何か。


《……今、御子柴と真坂を面会させるべき、なのか。……神威は、どう思うの?》

「……正直、分かりません…。礼ちゃんが、面会して。直接、右京へ言いたい言葉があるんだろうって…ずっと、知ってます。でも」


 今の俺は何もかもが怖い。

 そう吐き出した神威の掠れた声は上手く葛西へ伝わっただろうか。


《……怖い、か。何もかも》

「……ヘタレもいいとこでしょ? 姉ちゃんがこれ聴いてたら絶対スネ蹴られます、俺」


 やや自嘲気味だった神威の言葉は、美琴が登場したあたりで柔らかな響きとなった。美琴、には。まだ情報共有してないな。

 妹尾へも。時差を考えると、武瑠はおそらく連絡を入れていないだろうと思われる。あの二人の辛辣だが優しさの籠められた物言いを懐かしく思い出した。


《ぶ。蹴られないでしょ。……怖いのは、神威が臆病者だからじゃないよ》

「……え」


 葛西には見えないだろうに手も首も振りながらいやだって先生、と言いかけた神威へ被せるようにあの良い声が聞こえた。ちゃんとしようとしてるから、と。


《面倒くさがらずにちゃんと御子柴のこと想って大切にしようとしてるから怖いんでしょ。……一足飛びに一方的に御子柴を探して見つけて連れ戻して俺を信じろ、って言うんじゃなく》


 それはとても神威のキャラではないが、ああ一般的に簡単な解決法なのかなと思った。でもまるで御子柴の気持ちを置いてけぼりにしていやしないか。見えない気持ちを信じるのはその言葉ほど容易い行動ではない。それでも、と続く神威の言葉。


「……本当に、ちゃんとしてたら。こんなことには…。俺、気づいてたから。あの女が飛ばしてくる視線にも感情にも」


 また、大きなため息。

 神威は昔からその秀でた容姿のせいで過剰に注目を浴びてきた。女が苦手になった一因でもある。


「……あの類は本当に、無理で。あの、下心ありきで近づいてくる人」


 自意識過剰かもしれないけど、と慌ててごにょごにょ付け足す奥ゆかしさが神威らしいか。武瑠も同じ様に感じたらしく、苦笑が漏れるタイミングが重なる。自意識過剰ではなく、それが事実だよ。


 そしてみんな分かっている。御子柴はそういう他意なくいつの間にか神威へふわりと舞い降りて。だから神威はストンと恋に落ちたんだ。


 スピーカーはカツカツと規則的な金属音を拾ってくる。葛西はどこに居るんだろう。大方、あの校舎の屋上か。小洒落た室内履きであの錆びた手すりを蹴り鳴らしているんだろうな。


《……御子柴の行き先は分かってるの?》


 問われた穏やかさと同じくらい静かに、神威ははい、と応えた。どうやって分かったのか、その手段と包囲網に罪悪感を覚えているのだろう、眉根を寄せている。


《……ね、今週末から世間はゴールデンウィークなんだけど。帰ってこないの? お前達》


 また飛んだな、急に話が。だけど瞬時に理解できる。葛西がその先に続けようとしている優しさ。アイツもきっと、電話が苦手なタイプだ。


「帰るよ、センセ。みんなで帰る」


 返事を躊躇う神威を前に先に声を出したのは武瑠だった。ね? とニコニコ顔で同意を求められて、素気なく拒絶できる神威じゃない。


《じゃあ、待ってるから連絡して。面会のこともその時 話そう? 俺、申し訳ないけど電話で全て解決出来るほど器用じゃない》


 葛西の声は不思議とささくれ立った心を平らかにしていく力がある。あと二日ばかりを意味あるものにして過ごせば、そこに安堵できる顔ぶれが広がるはず。部屋を覆っていた重く暗い空気がうっすらと澄んだ気がしたのは俺だけじゃないだろう。


 でもやっぱり葛西の言葉を、手を。期待している子どもっぽい自分自身を再認識すれば、若干の情けなさが残るのも確か。アイツは“話そう”と。あくまで俺達と共に、俺達の考えを尊重するように仕向けてくれるが。


《御子柴も、勿論 一緒にね? 神威。欠乏症なのはお前だけじゃないよ》


 スマホのディスプレイは通話終了を告げたのだろう、神威はゆっくりと顔を上げ武瑠を見、俺を見た。


「……みんなで、帰る」

「そう。みんなで帰ろう。神威だけじゃ駄目。勿論この三人だけでも駄目」


 意味分かるよね?

 言葉は柔らかく、けれど強い力を眼に籠めた武瑠は神威を覗き込むように確認する。俺にはそれが、お願いだよ、と哀願する様に見えた。オレは追えなかったけど神威は迎えに行けるでしょ、と。


「……結婚する時。誓い合うんだろ? 生涯の愛を、互いに。健やかなる時も病める時も。何が二人を別つんだ?」

「……“死”」


 その短く端的な単語は、神威の口元を綺麗に笑みの形に変えてくれた。

 良かった。やっぱり葛西の声には何かの成分が含まれているんだろうな。


「勝手だと思うだろうが、神威。俺達は神威と御子柴には誰かの醜い思惑に揺らぐような二人であって欲しくない」


 それが、どれほどの力を要するのか、当の本人達以外には分からない。せめて冷たく大きな波風に無闇に曝されないよう防波堤になり得ればと願うくらいで。それでも神威は、ありがと、と静かに呟き頷く。


「……ちょっと。礼ちゃんに電話してもい?」

「席 外すか?」

「ああ、いや。いいよ。今日は…帰って来たくはないんだろうから。明日、迎えに行くね、って」


 それだけ。伝えたいだけ。

“言いたいだけ”ではなく“伝えたいだけ”と神威は言葉を紡いだ。想いまで届いて欲しいと心底願っている、本当に心根の優しい男だ。


 御子柴がテレビ電話に出てくれればな。御子柴は神威にこんな表情をさせたくないんだろ。勿論、御子柴が悪いんじゃない。御子柴だってまだ泣き続けてるのかもしれない。


 ああ、俺は二人共の味方だ。妹尾へもそう断言した。二人共の傍に平等に居られないのなら、元凶を潰すために動きたい。俺は最近の履歴にも残らない親父の連絡先をスマホのディスプレイへ呼び出すと、逡巡した挙句、メールを作成する。講義中かと思ってメールを選んだのに、程なくして着信があった。俺は神威と武瑠へ、親父、と断りを入れベランダへ出た。神威もスマホを右耳へ当てている。御子柴とちゃんと話が出来ると良いが。


《珍しいじゃないか、心から私に相談とは》

「緊急事態だからな」

《お前自身の、ではないな。神威くんか? それとも武瑠くん?》

「神威だ」


 息子の数少ない友達の名前は覚えているらしい。そして我が子があまり周囲に頼らず事態を収拾し或いは解決してきたという過去も覚えているらしい。


《また犯罪にでも巻き込まれた? 神威くんは…、結婚した美少年の方だよな?》

「親父の記憶倉庫は情報の整理が足りないぞ。何だか整然としない…合ってはいるが」


 ハハハ、と耳に沁み入る懐かしい笑い声に一瞬、親父の書斎を思い出した。あの古めかしい革張りのソファに座って最後に何かを相談したのはいつだったか。

 いや、あれは。相談というより事後報告だった。心理学部ではなく法学部を受験する、と。あの時も親父は今のように笑っていた。


《で? 何だ、相談事。お前がわざわざ私に連絡してくるくらいだ、是非ともお役に立ちたいがね?》

「うちの大学の立川教授を知ってるか? 親父と同じ大学出身だ。ここでは芸術工学部にいるんだが」


 しばしの沈黙の後、あの立川くんかな、と低い声が聞こえ。幾つか投げかけられる確認の質問は、全て神威が所属するゼミの教授を指していく。よし。埋めるべき外堀の一つはこれでクリアだ。


 ほんの少し気分は高揚し、知らず口元が緩む。ふとベランダの窓越しに室内へ目を遣れば、親父との会話中に柔らかく笑みを浮かべた俺の姿を見て、文字通り目を丸くする武瑠の頓狂な顔があった。



 頭の中でシミュレーションを行いながら、有益な情報をもたらしてくれた親父へ礼を言い通話を切断する。神威本人の真剣な願いが届かず、あんな女と同じグループにされてしまった現状はよろしくない。まさか神威へ専攻を変えろ、などと無体なことは言いたくないし、第三者が出しゃばりすぎるのも良くはないが。相手へ不快な思いをさせず話の流れを自身へ向けさせる。ディベートで学ぶのは何も言い負かす術だけではない。


(動画もある。不法行為の実態を目にすれば…お偉い教授の娘との結婚も近いらしいしな、立川“准”教授)


 俺を凝視している武瑠へどうした、と苦笑を向けながら部屋へ入る。武瑠はだって、と俺を指しながら…いや違うか。スマホを指しながら親父さんでしょ? と問われた。


「オレ、心が親父さんと話す時って眉間にシワ寄せてるとこしか見た覚えないんだけど」

「…そうか? 良かったな、俺の新たな一面を知れて」


 他愛ない会話を交わしながら武瑠も俺も横目で沈痛な面持ちの神威を見遣る。スマホを耳に当ててはいるが唇を噛みしめたまま声は出ていない。受話口の向こうにいるのは、御子柴ではないのかもしれない。


「……御子柴と、話してるのか?」

「……や、何か…怪しい雲行き」

「怪しい?」


 神威はほとんど声を発せず、ただ聴き入っているだけなので、類推するに足る材料がない。ただ、通話の始まりが、耳を傍立てていた武瑠によると。


『…あれ。礼ちゃんじゃ、ないね』


 誰に何を言われてるんだ、神威。見る間に顔色が悪くなっていくが。神威はのろのろとディスプレイをタップすると眉間に深いシワを寄せたまま、はあ、とため息を漏らした。次いで浮かぶ苦笑。


「……大河内さん、だった」

「……ああ」


 未だ顔を見たことのない謎の女・大河内。一学年後輩の美大生は、プロの漫画家としてデビューしたらしい。ちゃんとしたアシスタントが付くのだろうに、それでも御子柴へちょくちょくバイトの依頼が入っている。御子柴曰わく、ご飯係らしいが。


「……叱られた。何やってんすか、って」

「……うん」

「……武瑠と、別れた後。礼ちゃん、大河内さんとこへ向かったみたいでね」


 大河内が近所のコンビニへ買い物に出かけた時に、御子柴を見かけたらしい。ただし一人ではなく、ド派手な女から居丈高に何事かを酷く言い募られている場面。


 アイツ。御子柴を追いかけたのか。本当にどんな性格をしてるんだか。武瑠は柔和な顔をしかめ、ごめんね神威、と悔やんだ。武瑠は悪くないよ、と静かに否定すると神威は先を続ける。いや、神威だって悪くないんだぞ。


「……大河内さんが割って入って家へ連れて帰って。事情は何とか聞き出したけど、今は泣き疲れて眠ってる、って」


 膝を抱え込んで座る神威は頭を埋め うー、と低い呻き声を上げる。迎えに行きたい、心配、けど、と妙な逡巡。長い指は黒髪をぐしゃぐしゃに乱していく。


「……迎えに、行けばいいじゃないか。いずれにしても、明日。そのつもりだっただろう?」

「……そんな頼りない旦那にはお返しできません、って。あたしはミコちゃん先輩の味方ですから、って。いや、俺ほんとにヘタレだし情けないし怒られて当然だし仰るとおりなんだけど返さない、って。……あああー…どこまで本気なんだろう、大河内さんって…」


 大河内に美琴や妹尾と同じ匂いを感じるんだが気のせいか? 御子柴は、その容姿のせいもあってか同性の妬み嫉みを買いやすいが、一旦 好かれると手離したくなくなるらしい。



 泣き疲れるほどに涙した御子柴は、あの女からどんな言葉を投げつけられたのか。やはり一度は対峙する必要がありそうだ。俺の友達を傷つけた代償は大きいからな。

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