第2話

 オレは「敏い」なんて時に言われるけど、それは偏に人間観察が好きだからだと思うんだ。心もよく言ってる。身体の表情や不意の仕草は意外と心中を語ってる、って。


 まあ、でも。あれには負けるな。神威のミコちゃんに対する熱い視線。何でもかんでも見抜きたい、って、知らないことがあるなんて許せないってなくらい超必死。ミコちゃん、そのうち焼け焦げちゃうんじゃないかと真剣に心配になる。


 だからその朝も、神威の様子が変だな、って心より先にオレが気づいた。ミコちゃんと喧嘩した訳じゃないらしい、いつも通りの熱い抱擁が繰り広げられ、名残惜しそうにミコちゃんへ視線を置いて出かけて行く神威は、それまでになく気だるそうに大きくため息を吐いて自転車へ跨った。


「……あれ、どうしたの? ミコちゃん」


 あれ、って。と指差した先に小さくなる神威の後ろ姿を一緒に眺めながらミコちゃんは笑った。す、と差し出されたのはぐしゃぐしゃに丸められた…メモか何か?


「……神威くんのね、リュックにも入ってた。連絡ちょーだいね、のメモ」

「……マジ?」


 マジ、と似つかわしくない相槌で少しは気を紛らわそうとしているのだろう。ミコちゃんがいつも以上に小さく見える。


「……テキスト入れてる時に気づいたみたいで。朝からもうご立腹。絶対メンバー変えてもらう、って意気込んでたけど」

「メンバー?」


 いつしか心も玄関先へ出てきてミコちゃんが訥々と語る昨夜の話に耳を傾けていた。メモの話はしなかったらしいからジーンズのポケットにまで突っ込まれてたと知ったら怒り倍増だろうな。


「……御子柴、それも預かっておく」


 ミコちゃんは出来るだけ触りたくないと言いたげに細い指の先だけで器用にそれを摘まんでいる。広げられた心の掌へポトリと落とすと、お願いします、と頬を歪ませた。



「……メンバー、かあ」


 心に続いて部屋へ入りながら神威の怒りの矛先に想いを寄せた。難しいんじゃないかな、変更してもらうの。上手くいくと良いけど。


「……神威の学科は」

「ああ、心も同じこと考えてた?」


 学校へ行く準備をしながら、オレは苦笑まじりに心と視線を合わせた。つい先だって、係る話を聞かされたばかりだったから。



 神威が選んだ学科は来年度つまり4年生の卒業研究に物凄く力を入れている。学部全体での展示会も一般客に広く公開される。だからか3年生の今のうちからゼミ内のグループ毎に設計やデザインの実習や発表やコンペ出品が頻繁に行われていくらしい。

 オレとかミコちゃんにしてみれば、グループで何か発表する、なんて機会がほぼ無いから想像が難しいやらちょっとだけ羨ましいやら。心は…、ディベートとか大人数でやってるな。


『卒業研究まで同じメンバーかもなぁ』


 そう、憂鬱そうに神威は言ってた。メンバーに女子が一人いるのだ、と。神威が属するゼミは総勢16名で4人の女子がいるから、自ずと4グループに一人ずつ割り振られたらしい。どんな女子なのか訊きもしなかったけど(どうせよく見てないと言われるのがオチ)きっとそいつがちょっかい出してきてるんだな。



 ミコちゃんが物理的に神威の傍にいられない3年生になった途端、だ。口紅野郎め。オレはそこに卑怯さを感じてしまうぞ。

 まださ、オレや心を通じて『人数足りないから山田くんも合コンに参加してくれないかな』と遠回しに誘ってきてた子達の方が無害な気がするよ。


 まあ、誰に何と声をかけられようと神威がコンパっぽい飲み会に参加したことはないな、オレが知る限り。男だらけであることを重々確認して、途中 女子が呼ばれようもんならそそくさと帰ってきてるみたいだ。


 そこまでやるか? と呆れかえる男性陣を前に、神威は黄門様の印篭よろしく、左手薬指に光るリングをみんなにかざしながら言っていた。ちょっと、あれ。おバカな芸能人の結婚発表記者会見みたいで笑えたけど。


『俺はね、もう見つけたの! 大切な人! 嫌われるようなことは絶っっ対しない!』


 潔いと思うんだけどな、オレは。それに万葉ちゃんへ忠誠を誓ってるワンコなオレとしては分かるような気がするし。


 見られてようが見られてまいが、関係ないんだ。好きな人に対してはいつだって公明正大でいたい気持ち。神威は暗にそれをミコちゃんへ強いてると考えてるから、自分もそうあろうと努力してる。


 それなのに。いやそれだけに、今回のは許せなかっただろうなあ。自分の隙を悔いたことだろう。


「……オレ、今日、見に行ってみようかな。なぁんか、気になる」


 玄関を出る時にふと漏れた言葉。心は先に靴を履きながら、オレを振り向き見上げる。ああ、良いよ。その眉間の皺だけで分かった。一緒に行きたいけど行けない、ってね。


「心は良いよ。オレだけ行ってくる。神威のキャンパス」


 ミコちゃんと心といつものように大学へ向かう。法学部の心が属する学部棟の前でまずバイバイ。それからオレらの二学部分を収容する、さらに大きな学部棟へ。いつものように教室へ入るミコちゃんを見届け、ニコニコ顔で手を振り別れた後、オレはまた正門から学外へ出た。


 神威が通うキャンパスまではアパートから自転車で15分といったところ。ここから歩くとかなりかかるよな。オレは滅多に利用しない市内循環バスを利用しようかとバス停に向かう。


 今日の午前中は休講だし、ボールでも蹴りに行こうかと思っていたところだった。神威と同じゼミにサッカーのサークルメンバーがいる事は調査済み。いや、調査済みとかって。ちょっと少年探偵団のノリになってた。そんな呑気な雰囲気じゃないのに。


『オレ、午前中休講なんだけどこっちのグラウンド来ない?』


 歩を進めながらスマホの画面を手繰り、そうお誘いのメッセージを送ってみる。頻繁にやり取りをする相手じゃないだけに、すこーし不自然かもしれない。でもミコちゃんに神威の時間割を訊く方が不自然だよね。今更ながら神威の時間割も把握しとくべきだったのかなとちょっと悔いた。


 ほどなくして返信アリ。午前中はめいっぱい実習があるから無理ー、と動く泣き顔が三個も付いてる。俺は苦笑しながら残念と返信し、バスの路線図を確認した。


「……吉居くん?」


 あーあ、隠しごとって。そうそう出来ない流れになってんのかな、なんか。きっと多くの疑問符が、微かに上がった語尾に籠められてる。背中へ聞き慣れた声を受け、オレは小さくふ、と笑いを零した。


「……ミコちゃん」

「……何も、訊かない方が良い?」


 そうだね、と言った途端、ミコちゃんは口をつぐみ疑問の色を引っ込める。つくづく我慢体質だなー。息あがってるし。必死こいて走ってきた?


「……ミコちゃんは、どうしたの? 授業 始まってるでしょ?」

「……お弁当、作ったんだけど渡し忘れたから。追いかけたんだけど、追いつかなかった」


 だからここまで来て今こうしている、と説明を訥々と紡ぐミコちゃん。オレの行動の行方が分からないせいか視線を逸らし気味だ。

 神威の言葉によれば脳内妄想が暴走して自己完結しがちなミコちゃんは、今 何を考えてんだろ。ネガティブな何かじゃなきゃ良いけど、と思っているうちにミコちゃんはますます俯いてしまった。


「……吉居くん」

「何かなー?」

「質問はNGでも事実確認はOK?」

「……ふは」


 空気を吐くみたいに噴き出してしまった。いろいろ考え巡らすなー。それじゃあ結局、ミコちゃんが欲しい答えを提供してしまうよ、オレ。


「……降参。神威のキャンパスへ行こうとしてます」


 オレは両手を胸の前へ掲げ、それらしいポーズをとる。ミコちゃんはやっぱり、と呟いて眉尻を下げた。こうなると心へ連絡をとらない訳にはいかない。

 一緒に行く行かないは別として、この展開を知らせておかないと帰ってから論理的思考とやらできっと徹底的に説教されてしまう。オレはミコちゃんへ笑顔を向け、チノパンのポケットからスマホを取り出した。


 授業中にも関わらず、心からは超速で返信が届く。1限目が終わるまで待って欲しい、と。オレはミコちゃんへ文面そのままを告げ、カフェテリアで待つことにした。返信、っと。


「ミコちゃん?」

「……はい」

「……大丈夫?」

「……深いね」


 そうだよ、と出来る限り自然な笑顔であるように祈りながら言った。本当に、一緒に行って大丈夫? オレの言いたいこと、分かってる?


 指に冷たい百円硬貨を投入口へ押し込んだ。ベンダーの紙コップがカタンと音を立てる。カフェテリアにほとんど人はおらず、動作一つひとつの反応が大きく耳に入ってきた。オレはミルクティーが注がれたそれをミコちゃんへ差出し、自分の分のコーヒーが出来あがるのを待つ。

 ありがとう、とミコちゃんはいつだって礼儀正しい。名は体を表すんだよね、確か。


「……昨日さあ、考えてたんだけど」


 流線形の大きめの椅子へ、ミコちゃんと斜向かいに座りながらオレはつと切り出した。



 部屋の明かりを消して、静かに眠りに落ちるはずだった。でも閉めたドアの隙間から細く明かりが射し込んできて、心が起きていることを知らせてくれた。さっき、おやすみ、って言ったはずなのに。


 オレは何となくその光を無視できなかった。気づかなかったふりをして大人しく寝入るなんて無理だ。そう考えて身体を起こす。

 心、と声をかければちょっと目を見開かれ、心が淹れた玄米茶を湯呑に分けてもらった。チョイス渋いよ、心。


「……結局さあ。寂しいのも不安なのも、ミコちゃんだけじゃないんだな、って。四月入ってからこっち、心もオレもずっと不思議な感覚持ってて。何だろうね、って話してたんだけど、そういうことなんだよね」


 だってね、小学5年からのつき合いなんだよ、と。特に自慢するつもりは無かったけれど、ミコちゃんは羨ましい、と微笑んで零す。そうなんだよね、好きな人が出来たらさ、相手のどこまでも昔に遡ってその頃の同じ時間を過ごしたいなんて。……思っちゃうよね。

 オレもバカみたいにホイホイ女の子とつき合う前に万葉ちゃんと出逢ってたかったな、って思うもん。


 特に神威は写真を撮られるのが嫌いだったから、家のアルバムには勿論オレ達も、ほとんど画像データとしての神威を残してこなかった。

 オレ達は良い。山田家のみなさんも。

 きちんと記憶に焼き付けてるんだから脳裏だか網膜だかからその時その時の神威をほぼ正確に呼び起こすことは出来る。


 でも、ミコちゃんにとって客観的に神威を知るための過去情報が少ないというのは、ひどく残酷な気がした。口でどれだけ伝えても、リアルな再現力って限界あるよね。


「夏休みとかは別にしてさ、学校、って名のつく場所で、こんなに神威と離れたのって初めてだから。オレ達も落ち着かないんだ」


 居心地の好い三角形は最初に形を成してから、もう十年を超えた。

 心優しく真っ直ぐな神威。賢く強く達観している心。

 お互いがお互いをどう想っているか多少のズレはあるだろうけれど、オレは二人とキャラが被らないような位置で安穏と楽しく過ごすことが出来ている。


「……オレ、基本的にポジティブなんだけどね。今回は、」


 オレ達がよく知らないところで起きていることだから。根拠が足りないんだ、この、得も言われぬ胸騒ぎを収めるだけの根拠が。

 そう言ってオレはちょっと俯き、ミコちゃんは静かにミルクティーを口へ運んだ。


「……吉居くん」


 呼ばれて顔を上げれば、伏し目がちの瞳に優しい色を添えてミコちゃんが言った。ごめんね、と。


「……いっつも心配してくれて。ありがとう、本当に」

「お。ミコちゃん、成長したね」


 オレはいつからか葛西先生になりたいと思ってきた。葛西先生みたいな先生、ってんじゃなく。葛西先生に。今は傍にいないから、みんなにとっての葛西先生になりたいんだよ。ま、力量不足は否めませんけども。


 だからすぐ思い出した。

 ご迷惑をおかけして申し訳ありません、って言うんだよ、御子柴は。

 かけたのは心配だよ、と何度諭してもミコちゃんの口からはお詫びと迷惑という言葉が告げられた、と。あの件を振り返る時、葛西先生は目を細めてそう言っていた。


「葛西先生にも聞かせてあげたいよ、今のセリフ」

「……いきなりハグされるかもしれない」


 ミコちゃんはふふ、と小さく苦笑を洩らした。それはそのシーンを思い描いて、というのではなく、きっとそれを目にした神威がどれほどのヤキモチを妬くのか容易に想像できたせいだろう。ミコちゃんの時折ボンヤリする視線の先には、存在はなくても神威がいるんだ。


「神威のね、ミコちゃんに対する気持ちにこれっぽっちも揺らぎは無い。今までもこれからも、アイツの真っ直ぐさは良くも悪くも傍で見てきたから。……でもね」


 狙い、という言い方は核心をついているのか外しているのか。神威の気持ちを直接手に入れようとしてる訳じゃない気がするんだ。あのメモ。シャツに付いた口紅の痕。誰が目にするんだよ、って話。


「……私、よね。私の気持ちが、揺らげばいいと。そう考えてる人が、いるのね」


 オレは、そう思う。

 ミコちゃんから目を逸らさずに言った。ミコちゃんもオレから目を逸らさなかった。ちょっとずつ、ミコちゃんが強くなろうとしているのは分かってる。場を覆ったある種の緊張感を解くように、ミコちゃんはふふ、と頬を緩ませ肩を竦めた。


「……女の子が、ね。好きになった男の人を略奪したい場合。男の人を性的に攻めるか、女の子の気持ちを揺さぶって仲違いさせるか、二パターンあるって」

「……穏やかじゃない話だねえ」

「ユノちゃんが言ってた。“うちやったら、礼ちゃんとこのダンナ攻めてもあかんから弱っちそうな礼ちゃん揺さぶって亀裂入ったとこにつけ込むわあ”って」

「うん、関西弁の出来がイマイチ」


 そしてそれは仲良しの言うことなのか? ユノちゃん。湯乃川 華子ちゃんは1年生の時からミコちゃんと同じクラスで、数少ない仲良しさん。残念ながら王子様みたいな神威を旦那に持つミコちゃんはもうそれだけでやっかみを買いやすく、加えてミコちゃん自身がやたら可愛いもんだから、もう輪を何重にもかけて女の子の友達が出来にくいみたい。


 やゆよトリオの由来よろしく、山田 礼ちゃんの隣の席が湯乃川 華子ちゃんだったというワケ。結局ゼミも同じとこ。関西出身のユノちゃんは、ミコちゃんの話の中にたびたび登場するんだけど、その時々で引用されるなかなか辛辣なユノちゃんの口真似はミコちゃんの下手くそな関西弁で語られる。そこに成長の痕は見られないね、残念ながら。


 まあ、いいか。重くなった空気を変えようとしたミコちゃんの目論見は見事に成功だ。

 ジリリリと1限目の終わりを告げるベルが鳴る。もうすぐ心が姿を見せるだろう。そうしてきっと訊く。御子柴、大丈夫なのか? って。




「……御子柴、大丈夫なのか?」


 カフェテリアに姿を現すなりオレが想像した通りを口に出す心を見て、笑いを抑えるのに必死だった。心に回れ右を促し、オレ達はバス停へと向かう。


「……正直、大丈夫じゃないのかもしれない。こう…、何かの場面を目の当たりにしたら」


 揺らいでしまうのかもしれない、と寂しそうに悔しそうにミコちゃんは言う。ミコちゃん、そこ神威と比べちゃ駄目だからね?


「ね、ユノちゃんがダンナ攻めてもあかんから、って言う根拠って何だと思う?」

「根拠? って?」

「ダンナ攻めても、って何だ?」


 オレはさっきのミコちゃんの話を手短に心へ伝えると、オレを見上げてくるミコちゃんを見降ろし雑踏に負けないくらいの大きめの声で話を続けた。


「神威さ、ミコちゃんのクラスの飲み会とか催し事とか、かなり付いて行ってるよね?」

「そう…かな。そうかも」

「特に女子から引かれてない? 嫁を束縛する嫉妬深い亭主関白な男、ってレッテル貼られてない?」


 瞬間 目を見開いた後、オレから気まずそうに視線を逸らしたミコちゃんは、んんんー、と訳の分からない呻き声を上げた。いや、もう。それだけで答えは分かったよ、ごめん。


「……え、と。入学した当時ほど、王子様っぽくは思われていないというか何というか」

「まあ、基本的にやり方は高校の時と変わってないだろ」


 心が穏やかに口添えをする。バスの時刻表を見れば、あと5分くらいで直行便がやって来るはず。


 心の言う“やり方”っていうのは万葉ちゃんの言葉を借りると“自己犠牲”。大学は、高校の比じゃないくらい人が多い。限られた校舎の中でバカップルぶりを見せつけていた神威は、大学生になって口コミを利用するようになった。それは概ね成功していて、神威に貼られているレッテルはまさしく神威が望んだもの。ただツラが綺麗なだけの面倒くさそうな男になんて、さほど女子は寄ってこないでしょ。


「成功してるんだ。ダンナは攻めてもあかん、って思われるくらいには。……でも」


 ミコちゃんのことは、多分。神威は隠し過ぎたのかもしれない。

 オレ達はやって来たバスに乗り込み、最後部のシートへ並んで座った。




 ちっちゃくて弱そうで逃げ気質。でも何事をも独りで淡々とやってのける強さも持ってる。外見の可愛さだけじゃないミコちゃんの意外性の魅力は触れてみないと分からない。

 大の親友が初めて自分から好きになった女の子、はいつしか彼女になり、オレ達の友達にもなって奥さんになった。その過程のただ中にいたオレ達も、きっと知らない一面がある。神威だけに見せる顔、とかさ……当たり前か。


「ミコちゃんはスルメイカだからねぇ」

「……噛めば噛むほど味わい深いってことだぞ、御子柴」

「……あ、ああ…。フォローありがとう、弓削くん」

「武瑠、もっとマシな喩えはないのか」

「あれ、スルメイカ嫌だった? オレ、結構 好きなんだけど」


 ミコちゃんは小さく笑うと、褒めてもらってるのかな? と照れくさそうに呟いた。

 見慣れない風景が窓外を過ぎていく。説明のつかない感情は他愛ない会話で誤魔化していくしかない。そう考えているのは心も同じなんだろう。


「御子柴は、神威にキスマーク付けたりしないのか?」

「……キッ、…え?」

「神威は御子柴に付けないのか?」


 付けない付けない付けられたこと無い、とミコちゃんは長い髪がもつれそうなほど頭をブンブン振り回し否定している。一体何を言い出すんだか、心。


「そうか。神威のあれだけの独占欲はそんな現れ方はしないのか」


 緩やかに笑みを浮かべる心を右側に見上げながら、ミコちゃんの頬は朱に染まる。何事かを思い出すように視線をぐるりと巡らせた後、いつだったか、と口を開いた。


「……私は“モノ”ではないから。そういうことは、しない、と。ただ、したい気持ちは…」


 山々だ、と…ゴニョゴニョと口ごもりながらミコちゃんは自身を掌で扇ぎ俯く。

 まったく、神威は。どんな顔してそんなクッサイこと言ってんだ。スッゴいな。オレも万葉ちゃんに言ってみようかな。まあでも、流石だ。


 キスマークは独占欲の証。世間一般の見解としてはそれが妥当? 相手の肌をきつく吸い上げ紅く痕を残すその行為は、この人は自分のモノだと所有権を知らしめる、積極的な愛情表現。と、プラス要素大で受け止められているんだろうか。


「……でもオレ、そんなん神威やミコちゃんがしてたら。……引くな、多分」

「……神威くんも、そうじゃないかな、って言ってた」

「そうだ。俺が付けられてた時も二人は引いてたな」

「ええっ?!」


 時折、停車案内のアナウンスが流れるだけの静かな車内へミコちゃんの驚きの声が響きわたる。慌てて口を押さえ、誰にともなくすみません、と頭を下げる様は思わず噴き出すのに充分だ。


「や、心はほら、年上彼女が多かったから。よく、お姉様がたからそういうことを、ね?」

「……あ、あー…ご、ごめんなさい」

「……相手は葛西だと思ったのか? そりゃ大河内の漫画の話だろ」

「……う」


 御子柴、アシスタントのし過ぎで洗脳されてるぞ。

 心はそう言って片方の口角だけ器用に上げた。すみません、とまた詫びているミコちゃんは顔中真っ赤だ。


 二人が与え欲しているのは、目に見えない絶対という想い。神威にもミコちゃんにもペンで名前を書くわけにはいかないけど、それは白い肌に散るシルシじゃないんだよね。付けられてるのをこれみよがしに見せつけられるのも辟易しちゃうけど、付ける方の神経もどうかと思ってしまうから。独占というよりもう、征服欲なんじゃないだろうか。


 そんなんなくても、仲良し。神威とミコちゃんはね。これからもずっとそうであって欲しい。見てるこっちも幸せ気分になるから。



 そんな何でもなさそうな話を交わしながらバスは目的地へオレ達を運んだ。ノロノロと降りたバス停から少し歩く。狭い歩道を三人横並びなんて世間様の邪魔になるような真似はしない。オレがミコちゃんと並んだり。心がミコちゃんと並んだり。顔を前後に向けながら一人ずつ並んだり。勿論、神威がいれば自ずとその隣は決まっている。その時々で位置関係は違う。特にこう、と型や枠にはめなくても上手くいくことってあるんだよね。気持ちが通い合っていれば。


 俺達が過ごすキャンパスより若干こじんまりとした正門をくぐる。場所は、とオレへ問い質す心へ、ミコちゃんがこっちだったはず、と道案内を買って出た。確かミコちゃんは神威に連れられて、一度だけ来たことがあるんだよね。


 昔はさぞ白かったんだろう壁は年季の入り具合を語っていて、所々に絡まる蔦がちょっと物々しい。授業中ということもあって人通りの少ないキャンパス内をゆったりと進んでいくと、左手に人の話し声が聞こえてきた。その中に混じって聞こえてきた馴染みのあるよく通る声。神威だ。


 まるで秘密裏に行われている偵察みたい。……ダメだな、どうしても少年探偵団のノリじゃん。工房みたいな造りの建物内で、熱心にクラスメイトと語る神威の姿を遠目に見守る。運が良いと言おうか、植栽と大きな木の陰になっているオレ達の姿は神威側からは目に留まりにくいと思われた。


 ミコちゃんも心もオレも、特に事前の打ち合わせなしにその場へ放り込まれたけれど。もう一度、よくよく確認した方が良かったんじゃないだろうか。


「……ミコちゃん?」


 オレのヒソヒソ声に合わせるように、ミコちゃんも小さく細い声ではい、と応える。大丈夫? しんどくない? と。フィジカルよりメンタルの意味を深く籠めて訊いた。


「……大丈夫よ、ありがとう」


 本当のことが、真の現実が分かれば。得られる安心も、払拭される不安も、さらに深まる神威への想いもあるはず。そう思っていた。いや、そう思いたかった。何の保証も無かったのに。むしろその逆の効果だって。心ならきちんとフロー図を作れたんだろうか。


「もうヤダ、山田クン聞いてた?」


 突然甘ったるい声が耳に触った。あれ、地声?

 オレがそんなくだらないことを考えていると、ミコちゃんの小さな身体がさらに小さく縮こまった。……ああ、何か。感じたんだね。ミコちゃんを挟むようにしてオレの向こう側に立つ心も何かを感じとったのだろう、じっとミコちゃんを見下ろした後でその声の主へと冷めた視線を移した。


 第一印象が良くなかった。

 化粧が濃いな。何層構造だ、その皮膚。ちゃんと笑えんの? ひび割れたりしない? 今日は確かに天気が良いけど、そんな露出しなくてもよくね? てか作業中だろ? 何か作ってんだろ? 他の女子、ジャージだぞ? 何でミニスカ? 何アピール?

 あああ、何だろう、なんでだろう。ここまでオレがイライラしている理由はどこにあるんだ。


 あまりにも違いすぎるからかもしれない、と思った。ミコちゃんと。

 もうオレの脳ミソは、神威の隣にミコちゃんしか認められないような仕様に出来上がってるんだ、きっと。そうしてそれ以外を無意識に排除する向きで働いている。ボンキュッボンなの強調すりゃいいと思ってる思考の浅はかさが許せねー!


 神威の隣に在って、笑ってていいのは、甘い声で囁きかけていいのは、しなやかな身体に触れていいのは、オレ達の友達、ミコちゃんだけだ。法律だって、それを認めてる。


 距離が近い。クラスメイトのそれじゃない。明らかに意識して神威のパーソナルスペースに入ろうとしてる。他の男子と共に身振り手振りでああでもないこうでもないと熱く語っている神威はどこ吹く風なんだけど。傍から見れば、それがとても気に入らないと女の全身から溢れ出てるのは容易に見て取れた。


「ね、山田クンってば! この後、ランチに…」

「授業中」


 投げかけられた言葉を受け流し、吐き捨てるように神威は言った。

 ああ、天晴れだよ! 神威! そんでお前が今、超絶に機嫌が悪いのはよーく分かる! 何故だかほんの少し爽快感を覚えたオレは目線が同じ高さの心を横目に見た。


「……心、何してんの?」

「証拠集め」


 心は片手にスマホを持ち液晶画面に見入っている。あのマークからして動画撮影中なんだろう。……でも。


「……デジタルものの証拠能力は弱いとか言ってなかったっけ?」


 そう、昨夜。心は神威のジーンズのポケットから抜き去ったあの例のメモを忌々しく見つめながら言ってた。こういうアナログ証拠は後からの改竄がしにくいから重要、と、さすが法学部、何だか弁護士みたいだと思ったんだ。


「……俺の腕時計はアナログだし日付も分かる。それを撮影した流れで神威達を撮ってる。その一連性は確かだ」


 オレは久しぶりに耳にする低く物々しい感情を押し殺した心の物言いに身震いすら覚えた。……平たく言うと 心、物凄く怒ってる。


「……弓削くんがそんなに怒ってくれなくても」


 ミコちゃんも心のほとばしる怒気にあてられたのか、苦笑しながら心を覗き込む。私なら大丈夫よ、と言い添えて。でも、気づいてる、オレも心も。ミコちゃんの顔色は、あまり良くない。


「ねえ、もうすぐで授業終わるし! せっかく同じグループになれたんだからもう少し」


 もう少し。何だっての? 未だ無視し続けている神威に痺れを切らしたように、聞くに鬱陶しい声は神威を追いかけ回す。

 あ! 気安く神威のシャツ握りやがって! うわ、もう! オレだって実態として目の当たりにしてしまうとこれだけムカつくのに。ミコちゃんはどれほど……や、もう連れて帰ろう。精神衛生上、よろしくない。


「……御子柴。帰るか?」


 心は視線もスマホも神威達に据え置いたまま、ミコちゃんを深く気遣うように言った。オレも逆サイドで頷く。


「……そう、ですね。もうそろそろ」

「神威の相変わらずさはよぉく分かったし」


 ね? とミコちゃんへ相槌を求め、ミコちゃんがゆるゆると頷いたのを確認した。その時だった。


 オレ達には背を向けて立ち、グループメンバーを変えてもらうから、と冷たく言い放っている神威。みんな真面目にやってるのに、と不真面目で他意に溢れる授業態度を窘める言葉も続いている。その向こうで懲りない媚びた視線を神威へ向けている女の姿。


 気のせいかと思った。でも気のせいじゃなかった。オレはその女と目が合った。


 オレは。フェミニスト、だったはず。基本的に女の子へは、紳士的な態度をとってきたはず。感情だって、そう。あからさまな嫌悪感なんて、たとえ抱いたとしても初見の相手に見せたことはなかったはず。神威ほどには。神威の方がよほど身も蓋もない態度をとるんだから。


「……よし。さっさと帰ろ?」


 オレはぎこちなく口だけを動かした。あの女の視線はミコちゃんも心も捕らえてしまっただろうか。遮って庇えるものならそうしたい。神威から、武瑠 何やってんの!? って怒鳴られたとしても、あんな好戦的な視線に、ミコちゃんを晒したくないと思った。


 何故だろう。やっぱりオレは、ミコちゃんを弱い子だと思ってるから? それは酷く失礼なことのように思われた。あるいは、何かが起きたとして、またみんなして胸の奥深くが引きちぎられそうな想いをするのはイヤだと暗に防衛本能が働いたから?


「ねえ、山田クン! どうしてぇ? 別にランチくらいどうってこと、」


 しつこい。神威、嫌がってるじゃんか。

 グループ毎に大まかに分かれ、ミニチュアの街みたいなのを作ってる他のクラスメイトからも、そこそこ冷たい視線が飛んできてるのに。大体、教授はどこにいるんだ? 作業場といった感のそこは外部から丸見えだけど、それらしい年長者の姿はない。


「迷惑なんだ。俺、本当に結婚してるし」


“本当に”の使い方に違和感を覚えながらも、オレはミコちゃんの両肩に手を添えてクルリと回れ右をさせようとした。


「———あ」


 それは、誰の声だったのか。神威は不意に腕を掴まれ肩を引き寄せられ強引に顔を向き直させられたかと思うと。



 ———唇を、奪われた。



「…っ、おまっ! 何すんだよっ!」


 誰よりも反応が速かったのは、神威だった。


 女を突き飛ばすのではなく、自分が身を捩り退いて距離をとった神威は、やっぱり優しい。オレは妙に、妙なところを感心していた。何か全く別のことを考えたかった。オレが手を離せずにいるミコちゃんの肩が小さく震えているのが分かってたから。


「……ミコちゃん、あの…、」

「……御子柴、」


 名前を呼んだものの、何と続ければいいのか分からない。目の前で起きたことに茫然としているのはみんな同じだ。


 女が何事かを神威へ囁く。授業の終わりを告げるベルが鳴り響き、内容までは聞き取れなかったけど。女の、意地悪く光る視線はオレ達へ投げかけられ、つられるように、神威も同じ光景へ焦点を合わせた。口元をシャツの袖口で何度も何度も拭っていた手が止まる。驚きの、ただ一色が宿った見開かれた瞳。


「……ミ、コちゃんっ?!」


 突然 置き場所を失ったオレの手は空を切り、ちょっとだけよろめく。すぐに体勢を立て直すと転がるミコちゃんの荷物を手に取り走り出した。


「……心っ! ごめん! 神威 頼む!」


 分かった、と低く応える心の声と、礼ちゃん! と叫ぶ泣きそうな神威の声。

 背中に響く二つの声がオレを押す。転がるようにもつれるように。もっと速く、動いてくれ! オレの脚!

 小さく遠ざかっていくミコちゃんの背中。

 それはもう、遠近感のせいなのか、オレの心情ゆえなのか。なかなか縮まらない距離に焦りばかりが募った。


「ミコちゃんっ!」


 止まって。そうお願いするのなんて無理だ、絶対。分かってる。だから全力で疾走して追いつかないと。


 ごめん、ミコちゃん。本当にごめん。やっぱり、オレ一人で来ればよかった。連れてくるんじゃなかった。あれは、当てつけだ。あの女はオレと目が合った。……だけではなく。見たんだ、ミコちゃんの姿も心の姿も。見せつけて、神威へ言ったんだ、きっと。『見られちゃったわね』とか何とか。


「……くっそ!」


 午前中の講義が終わり、それぞれの学部棟から溢れ出してきた学生の姿が小さなミコちゃんを見えづらくする。意外と、瞬足だ。ミコちゃん。そう思っていたのに。途中から遠近感がおかしくなってきた。ミコちゃんの姿が大きくなっていく。……立ち止まって、くれてる?


「……ミコちゃん…っ…!」


 追いついたオレは心の中で一生懸命 言い訳をしていた。ちょっと待ってね、息整えてから話すから。でも本当は、違う。最初の言葉が見つからないだけ。


「……ごめんなさい、吉居くん」


 オレを仰ぎ見るミコちゃんとミコちゃんを見下ろすオレだけが騒がしい世界から遮断され隔離されていて。今この場には不思議なことにオレの荒い息しか聞こえない、そんな心地だった。不意に耳に入った言葉に対し、脳は容易に理解を示さない。


「……は。な、んで…?」

「……私が、こんな風に逃げ出したら。吉居くんは、自分を責める。連れて来なきゃ良かった、って」


 ミコちゃんは零れ落ちる寸前の涙を必死に堪えようとしている。何度も何度も息を吸っては吐き、大きく肩を上下させて。下瞼の縁に溜まっている水分がギリギリのラインにあるのが分かる。あれは、瞬きをした睫毛が触れた途端、きっと。


「そんなこと、ないからね…。私が、行く、って決めた。大丈夫、って言ったんだから…っ、だから、吉居くんは」


 自分を、責めないでね。気にしないで。

 オレは転がり落ちていく水滴を見つめながら、無理だよミコちゃん、と呟いた。


「……ごめん、っ…ごめんなさ…、」


 ミコちゃんが泣き虫だというのは知ってる。何度か実際、目にしたし。何もかもが愛しくて堪らないという風にミコちゃんを語る神威から何度も聞かされたし。


 ああ、でも。こんなにも間近で大粒の涙をこぼされたのは初めてじゃね?

 正門近く、行き過ぎる数人から訝しく見つめられていることに気づけるくらい、視界が戻って来た。迷った挙げ句、オレはミコちゃんの右腕へポンポンと軽く触れると、とりあえず歩こうと促す。


 泣いている女の子を前に、男がしてあげられることって何?

 ハンカチは、ミコちゃんが持ってるし。抱きしめて慰めてあげるという行為は、神威へも万葉ちゃんへも罪悪感が残る。うん、迷うくらいなら止めておこう。


 行き先は、決めていない。バス停へと向かってはいるけれど。

 このまま家へ帰る? 寝ちゃえば忘れられる? それともオレ達のキャンパスへ? 普通に過ごせば無かったことになる?

 そのどれもが正しいと思えない。


「……ごめんね、吉居くん…、」

「……ミコちゃん。いいんだよ、オレのことは。……今は、自分のことだけで…、」


 言葉に詰まる。なんて、オレらしくない。


 先生。葛西先生。教えて。オレが今、ミコちゃんへしてあげられることは何ですか?

 オレはまだ、葛西先生になりきれてないから。どうしたらいいのか、分からないよ。

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