恋する男子力II

Lyra

第1話

「……“三年目の浮気”って映画がなかった?」


 四月。

 澄んだ蒼い空に頼りなげに浮かぶ雲をボンヤリ眺めていたら、ふいにそんな不穏な言葉が零れ落ちてしまった。数段低い声音で。洗濯物がよく乾きそうだと思ってしまったからだろうか。


「……ミコちゃん?」


 しまった、と思った時にはもう遅い。この二年、ほぼ私に寄り添ってくれているこの優しい二人に下手なごまかしは効かないというのに。

 ほら、黒縁眼鏡の奥にある吉居くんの薄茶色の瞳には瞬時に敏い何かが広がった。


「それは懐メロだ、御子柴。映画は“七年目の浮気”。……どうしたんだ?」


 弓削くんの“どうしたんだ”は、ただその言葉の深意を問うものではない。何故その言葉が私の口から零れ落ちたのか。その背景を論理的に余すところなく説明しろと暗に働きかけてくる。


 午後の講義が始まるまでのゆるりとした休み時間。私達はカフェテリアでまったりとコーヒーを飲んでいた。大きく広がる採光用の窓から射し込む春の陽は眠気を誘いそうなほどに温かく、もうすぐ光化学スモッグ注意報が発令されるんじゃない? なんて。島でも住んでいた地元でもあまり耳にしなかったそれも二年も過ごせば一年の風物詩みたく感じられるね、なんて。麗らかな陽射しにも似たほのぼの会話を紡いでいたというのに。


「……御子柴。どうしたんだ? 神威と何か、あったのか?」


 ああ本当に。神様がもしいらっしゃるのなら、私に時間の巻き戻し方を教えて下さい。もしくは不用意な言葉を二度と漏らさぬ唇をお与え下さい。


「……何でもありません」

「信じると思うのか」

「思いません、すみません」


 弓削くんは決して怒っている訳ではないのに。子どものようにそんな気分になる。首を垂れてかしこまってしまう。

 私の声に表情が宿り目が据わった時、智もこんな居たたまれなさを感じていたんだろうか。


「……口に出すのは、怖いの」

「じゃあ筆談するか? メールでもいいぞ」


 私の逃げ口上を素早く察知した弓削くんは、それをいなすように極めて現実的な対処法を口にする。有無を言わさぬ物言いに苦笑したのは私だけではなく吉居くんも。この調子なら胸の内を吐露し尽くさない限り、午後の講義どころか家へだって帰れないかもしれない。


「……些細な不安、って。口に出すと具現化しそうで怖くない?」

「オレ、深く考える前に口にしちゃうタイプだからね。いつまでも独りでウダウダしてると無意味にネガティブになりそうだし?」


 なんて軽口を叩くけれど、吉居くんが他者の気持ちの変化や揺れに人一倍敏いのはもう知っている。今だって、少しでも私が話を切り出しやすいように気持ちを解そうとしてくれているのが分かる。とりあえず言っちゃおうか、ミコちゃん、って。


「……私の邪推だと思うの。醜い嫉妬」

「それは起承転結の起、なんだな? 御子柴」


 弓削くん、この前 時代劇で観たお奉行様みたいだ。法学部なのだからあながち違わないな。私、上手いこと言った。

 私の逃げの本質が思考をどこかに逸らそうとするのを修正しながら、ふと漏れた笑いは苦々しかった。


「……神威くん。一人だけ別のキャンパスに通うの本当に寂しがってて不安そうで。でもそれは、私も同じで」


 それは見ていれば分かる、と弓削くんは腕を組み深く頷いている。特に神威くんの部分に頷いているのだろう。

 春休み中、特に三月も末にさしかかると吉居くんと弓削くんは神威くんが口を開く前に分かったから、と応えるくらい何度も頼みこんでいたから。礼ちゃんをお願い、って。


「同じ、なのかな? ミコちゃんの寂しさと不安は。神威のそれとはちょっと異質じゃない?」


 身を乗り出すようにしてニコニコ顔をこちらへ向けてくれる吉居くん。その姿勢全部でちゃんと私の話に耳を傾けてくれている。万葉にも見えたら良いのに、吉居くんのこの日常的な真摯さ。私はそうやってまたどこかへ思考を逃避させる。


「神威はね、ミコちゃんが力ずくで他の男に奪われちゃうかも、ってのを不安に思ってる。……未遂、あったしね?」


 私はコクリと頷く。足りないのは警戒心か自戒か緊張感か。いずれも事が大きくならなかったのは神威くんがいてくれたからだ。大きな手と下卑た声に攫われそうになっても、ちゃんと駆けつけて守ってくれたから(その後もしかするとひょっとしてボコボコにしてたのかもしれないけれど、吉居くんにいつも回れ右をさせられていたから分からない)。


 時にそれは吉居くんや弓削くんで、本当に私は三人の大きな壁に守られて暮らしている。旦那様である神威くんはじめ、吉居くんや弓削くんにも申し訳ない。二十歳を過ぎたというのに、真の自立には程遠い自身の危うさが情けない。

 だからせめてご飯をたくさん作ってたくさん食べてもらって、美味しいと言ってもらえることにいつも感謝し、それが本当にほんの少しでも、恩返しの“お”の字くらいになってくれやしないかと切に願っているんだ。


「神威は、あんな図体だよ。そんじょそこらの女の子に力ずくでどうこうなんてあり得ないでしょ?」


 だから違うよね、って。神威の不安や寂しさと、ミコちゃんのそれは違うよね、って。吉居くんは優しく諭した。弓削くんも腕組みをしたまま深く頷く。

 その圧倒的な威圧感とふわふわの笑顔。全くもって対照的な二つの存在感は私に先を、と促すに充分すぎるほどだ。


「……地球上に存在するのは。自分が大好きな人達だけでいいのに、と思ったことはない? そう考えるのは不健康で不健全極まりない?」


 そんなことはないさ。

 私の言葉の後半部分に対する弓削くんの即答はありがたかった。

 でもな、と続けられるその内容をすんなり受け容れられる。回りくどい私の話を我慢強く聴いてくれる二人には感謝しっぱなしだ。


「……そこは果たして楽園か。ぬるま湯に浸かったまま何の成長を遂げることもできずにただ朽ち果てていくだけの。……実は、地獄か」


 そうか、地獄か。

 何の成長も遂げられないのは嫌だ。私達は描いていた未来図にまだペン入れすら出来ていないというのに。


 口に出したら、本当のことになりそうで、それこそ言霊が宿ってしまって、不安が、妄想が、現実になったら。それがとても怖い。

 きっと取るに足りないこと。でも、そう笑って吹き飛ばしてしまえないほど、私は神威くんに溺れて甘えて頼って守られて生きている。もう、神威くんを知らなかった頃になんて、戻れない。

 私は二人の渋い表情を改めて見つめ、ごめんね、と呟くと居ずまいを正した。


「……口紅が、ね。付いてたの。神威くんが昨日、着てたシャツに。香水の…、残り香、っていうのかな、それも」


 あ。二人とも動きを止めてしまった。同じ様に目を見開いて、白目が大きくなって黒目が小さく遠くなっていく。

 なるほど、だから“目が点”って……ああ、駄目。すぐに別のこと考えたくなっちゃう。


「……それ、ミコちゃんの、ってことは…無いよね。うん、ごめん。希望的観測だった」


 何かを切り出したかったんだろう、苦笑した吉居くんの気遣いは痛いほど分かって、そんな気分にさせてしまったことが本当に申し訳ない。だって、吉居くんとはついこの前、あまりメイクをしないその理由を話したばかりだ。私は週に数回、バイトの傍ら製菓の教室へも通っていて、どうしても人工的な香料を身に纏うと嗅覚が鈍りそうな気がしてならないの、なんて。


「……満員電車の中でついた、というありがちな展開は、」


 弓削くんにしては珍しく口調が重い。

 私はごめんね、ともう一度繰り返し、険しい表情を俯けた弓削くんを覗き込んだ。


「神威くんは自転車通学、です」

「……ああ、知ってる」


 そう、みんな知ってる。

 ここ半月、大抵私達三人より早く家を出る神威くんは、とってもとっても憂鬱そうにため息を吐きながらアパートの自転車置き場から愛車を出し、サドルへひらりとまたがる。

 私はその後ろ姿が小さくなるまで玄関から外に出て見送る。神威くんは知らないだろうけど、時々吉居くんや弓削くんも見送っている。今日もまたダルそうに出かけたな、なんて言いながら。


 そう。

 神威くんが愛車を走り出させる前に、アシメトリーなサラサラの黒髪をフルフルと振って自身を奮い立たせるように顔を上げ前を見つめる姿を、私はどこかしら安堵した気持ちで眺めていた。

 ああ神威くん、私達と一緒にいたいと、私と一緒にいたいと、思ってくれてるのかな、って。


「神威は…、気づいてなかったの?」


 ほんの少し眉根を寄せて、心配そうに吉居くんが問い質す。私はコクリと頷き、吉居くんへ自分の首の後ろを示した。ココ、と。


「自分からは見えない場所についてた。脱いだら洗濯機へポイ、がうちの基本なので…、そんな場所、こまめにチェックしないと思う」


 じゃあ御子柴はどうして気づいたんだ、と至極当然の疑問が投げかけられた。

 本当に、それは偶然。神威くんのお母さんのご指導のお陰で、洗濯物を裏返したまま洗濯機へ入れることはなくなってきた神威くんだけど、それでもごくたまに、長い袖がぐしゃりと伸びきってないままだったりするのよね。

 今朝も、そうだった。手にとって、そこで気づいてしまった。


「……気づかなければ良かったと思った。でも目にしちゃったからあれこれネガティブなことばっかり考えてしまって。些細なこと、大したことない、って自分に言い聞かせようとしてるんだけど」

「……けど?」


 ありがとう、吉居くんも弓削くんも。こんな話、聴いても何にもならない。なのに友達夫婦のくだらない話、だなんて僅かにも感じず、感じさせず向き合ってくれる。


「……神威くん、あんなに背が高いのに首の後ろに口紅だなんて。しかも、かなりくっきり唇の形だったし。香水も…、どれだけ近づいたら香りが移るものなの?」


 束の間、静けさが訪れた。私はふいに居たたまれなくなる。じり、と何かしら身動きをしてその居たたまれなさを紛らわそうとする前に、吉居くんが怖いね、と言った。


「不安だね、ミコちゃんも。ごめんね、神威と異質だなんて言っちゃって」

「吉居くん…」

「そうだな。力づくか如何かは問わない。何かの意図があって近づく誰かの存在はいつだって穏やかさを脅かす」


 こうしている間にも、何かが変わっていきそうな気がして怖い。私達は変わらなきゃいけない。成長していかなきゃいけない。

 でもそれは自身で望む方向へ自身の意思で決めて動いていきたいのに、他者からの好奇や悪意で動かされていい類のものではないのに。翻弄されたくないと願っても、いつだって地球上に知らない誰かは存在し、大好きな人達だけに囲まれて生きていける訳じゃないんだ。


 見に行ってみる? と吉居くんは訊いてきた。神威のキャンパス、行ってみる? と。


 その行為で絶対の安心感は得られるんだろうか。答えは分かってる。否、だ。だから私は首を振った。

 神威くんは私に向けられる視線に気づき不機嫌になるけれど、いくらボンヤリな私だって気づいてる。神威くんへの熱い視線by女子大生のお姉さま方。色を着けるとすれば間違いなくピンクか真っ赤。神威くんが既婚者だろうと関係ないんだ。時にそれは略奪してしまえば、というインモラルなものも含んでいるのかもしれない。


 そうして、また気づく。化粧っ気のないほぼすっぴんの童顔は、長く伸びた髪の毛がかろうじて“女の子”を主張しているけれど、ますます不思議な美しさを標準装備とする神威くんとは反比例し不釣り合いだと、私に対する世間の目を、自覚させられる。


「御子柴、普通にしてられるのか? 神威の前で、いつも通り」

「…う、ん。大丈夫だと思う」


 何回も続いてる訳じゃないし。

 そう言って笑って吹き飛ばそうとした。毛孔から沁み込んできそうな暗く黒い気持ち。


「……もし、ね。もしもね? また同じ様なことがあったらすぐ言って? オレ達に」


 ね? と吉居くんは何度も念押しし、半ば強引に私の右手小指を摘まんで指きりさせた。約束だよ、ミコちゃん独りで抱え込んじゃダメ、と、そこにほんの少し万葉の姿が見えたような気がして、知らず頬が緩んだ。


「まさかとは思うが、神威の気持ちは疑うなよ?」


 弓削くんの控えめな諭しは天からの啓示のように聴こえる。私は笑みを浮かべ、分かってる、と頷いた。


「まあ、疑いようがないだろうけどな? あんなベタ惚れぶり。神威の目には御子柴以外がどう映っているのか、俺は本当に気になる」

「もうさ、視界にすら入れてもらってないんじゃないかと思う時あるよね? あ、武瑠そこいたの? とかオレしょっちゅう言われるし」

「玄関先で御子柴を熱く抱擁してるんだぞ? アイツ。毎朝。しかも日々長くなっているような」

「……そういうの、見て見ぬふりしていただけますか」

「行ってきますのチューとかされてんの、ミコちゃん?!」

「……それは、」

「ないこともない。俺は見たことがある」

「ここ日本!」


 神威は本当にミコちゃん大好きだもんなー、なんて、二人とも本当に優しいんだから。安心して大丈夫だよ、って、神威くんの愛情にこれ以上ないくらいの品質保証をしてくれるよね。勿論それは私だって分かっているのだけれど。


「今夜のご飯、何が良い? 何でも良い、は無しで」

「焼そば食いたい! あれ、ホットプレートでやろうよ!」

「じゃあ、俺の仕切りだな」

「え、きっと神威くんもやりたがるよ」

「お好み焼きで成功を収めたからってさ、神威 調子に乗ってんだよ」

「みんなちゃんとメニュー言ってくれるから本当に助かるなあ」


 そう、ただ日々は穏やかに。ゆるやかに静かに流れていってくれればいいのに。



 ***



「礼ちゃん?! 危ないよ! パチッて飛ぶよ!」

「……神威くん、油入れ過ぎ」


 豚肉から油出るよ、と諭すと神威くんは本当に悔しそうな表情を滲ませた。またやってしまった、みたいな。お好み焼き作る時にも同じ様な注意したもんね。負けず嫌いだなあ。


 一人っ子でおばあちゃんと過ごす時間が多かった吉居くんも、歳が離れた双子の弟がいる弓削くんも、実は実家でそこそこ家事のお手伝いはやってきたらしく、本当に目玉焼きひとつ作れない、という状態は大学生になった当初、神威くんだけだった。

 それがよほど悔しかったらしいのと、私がなまじサンジとゾロではサンジ派だと言ったせいで、神威くんは何かにつけ“料理を作る”ということに関して手伝おうとしてくれる。


 センスが無い訳じゃない。神威くんは、基本的に器用だ。とは言え正直、独りでやった方が早いな、と思う時もある。神威くんのものすごく真剣な表情を見るともう何も言えなくなるけれど。


「これ、キッチンペーパーで拭いて? 油が跳ねないようにお野菜被せてね?」

「……了解」  

「頑張って、神威くん」


 真っ直ぐに見つめれば、必ず真っ直ぐに見つめ返される。結婚してから確実に二年が過ぎ、幾ばくか色褪せるのだろうかと思っていた瞳に宿る感情の濃さは、変わらないことにいつも驚く。


「待っててね、礼ちゃん! とびきり美味しいの作るから!」

「神威! 喋ってる間にこびりついちゃうよ!」

「手を動かせ! 神威!」


 吉居くんも弓削くんもお父さんみたいなおおらかさで若干ぎこちない神威くんの手捌きを見守っている。私はすぐに手を出したくなるのだけれど、二人は決して神威くんを甘やかさない。指導育成の方法が異なるのは神威くんの成長を妨げてないのかな。


「神威、塩コショウとソース」  

「オレ達の胃袋に入るんだよ? 責任持ってね? 分かってる?」


 分かってる、と応える神威くんは、人口密度の濃い室内で額に汗して懸命に菜箸を動かしている。麺を数本掬い、味見をしている姿も真摯で真っ直ぐ。


「礼ちゃん、味見して?」


 小皿に麺を入れ私へ差し出す神威くんの屈託のなさに、私の顔は自然と綻ぶ。だから神威くんを疑うのなんて全くもって馬鹿馬鹿しくて、でもそれだけに、あんな見せつけるほどに禍々しいことをする誰かの存在を、私は心底恐ろしいと思っていた。




 食べ残しもなく綺麗に平らげられたお皿やカップや箸を重ね、シンクへカチャンと置いた時だった。御子柴、と弓削くんの低い声が私の背へ飛んできた。


「洗うか、拭くか」


 手伝うことを前提に、さらにその先の具体的な行動の指示を促す弓削くんは、ホットプレートの後始末を神威くんと吉居くんへ任せてきたらしい。いつものようにジャンケンで決めたのかな。じゃあ、拭いて下さい、と私はスポンジに食器用洗剤を染み込ませ泡立てながら笑った。

 だって、実家ほど広くないキッチンに私と並ぶのが三人のうちの誰であっても圧迫感はあるのだけれど、一番大きい弓削くんがふきんを手に水滴のついたお皿を待っている姿は何度見ても…。


「そろそろ慣れろ、御子柴。顔にしまりがないぞ」

「ねー、本当に。ごめんなさい」


 私はもうずっとそうしてきていたせいか、ややもすると家事全般を全て独りで仕切ってしまい、神威くんだけではなく吉居くんや弓削くんからもお叱りを受けてしまう。


“礼ちゃんだけに負担かけたくない”

“頼られると嬉しくなるんだよー”

“俺達も成長させてくれないと”


 三人三様の気遣いはとてもありがたかったけれど、ほんのちょっと困った。私は元来、人へ何かをお願いしたり、頼ったり、おねだりしたり、大抵の女の子なら生まれながらに持ち合わせているような可愛いスキルに欠けていたからね。


 手伝おうか、と訊かれるとよくよく考えるまでもなく、いいよ大丈夫、と脊髄反射の域で応えてしまう。社交辞令的なものかもしれない。本意も真意も分からない。周りの大人達の顔色を窺いながら、出来ることはギリギリのラインまで常に自分でやってきた寂しい子どもの成れの果ては、変に意固地で可愛いげが無い。


 でも、神威くんは。

 あれは、いつ頃のことだったっけ。生活を共にし始めて間もなく、あちこち掃除をしていた時。


『礼ちゃん、手伝うよ』

『ううん、いいよ』


 にべもなく断ってしまった。悪いことをした、とは咄嗟に感じなかった。寧ろ手伝わせることの方が気の毒で悪いと思っていて、手伝うよ、の言葉に手伝いたいんだよ、という想いが籠められているとは知らなかった。

 それに気づいたのはふとトイレの床を拭いていた手を止め、私をじっと見下ろす神威くんとカチリと視線が合った時だった。

 どうして? そんな寂しそうな顔。


『……神威くん?』


 駄目なんだな、この言い方じゃ。

 確か神威くんは眉をひそめてそう言って。思い直したように柔らかな笑顔で私に問うてくる。


『えーっと、礼ちゃん。床を拭き掃除したいんだけど、このシートを使えばいいんだよね?』


 ウェットタイプのフローリング用シートと専用のワイパーを持ち出してきた神威くんは、シートをワイパーの固定穴へ押し込むと、長い手脚を伸びやかに動かし始めた。


『……ありがとう』

『あ、良かった! よし、こういう感じか』


 何が“こういう感じ”だったのか。ありがとう、の後の神威くんはそれはそれは綺麗な顔をくしゃくしゃにして笑っていたから、訊きそびれてしまったけれど。


 たぶん、きっと、それ以来。手伝おうか、という抽象的で応えにくい訊かれ方は無くなったように思う。それは吉居くんと弓削くんにも伝染し、私は具体的な択一をするだけに甘やかされた。



 そんなことを懐かしく思い返していると知らず口元が綻んでいたらしい。


「…御子柴。思い出し笑いなのか? それは」

「…あ。だらしなかった?」


 いや、だらしないというか。

 緩やかに否定してくれた弓削くんは、テーブルを拭き終わり一仕事終えた感で捲り上げていたカットソーの袖を下ろす神威くんを顎でクイと指す。


「神威に睨まれる。二人で楽しそうだ、と」

「そんなこと」


 見上げると弓削くんの表情は曖昧に歪められていて、さっきから何度チラ見されたと思ってる、と呆れたようなため息を吐かれた。


「……そうなの?」

「そうなんだよ、御子柴。だから、神威は、気づいてない」

「……その真理への筋道を教えて欲しいんですけど」


 弓削くんはほんの少し逡巡し、でも結果、全てのお皿を拭き終わりふきんを置いた手をパーカーのポケットに入れると、小さな紙片を取り出した。


「……武瑠が、見つけた。神威のジーンズの後ろポケットに入っていた」


 悪事が暴かれる瞬間に差し出される証拠、ってこんな感じなんだろうか。

 いえ、私は悪いことはしておりませんが。それでも何となくドキリと胸が音をたてたのは何故?


「……それは?」

「ケータイ番号とSNSのID? が書いてあった。“山田くんへ連絡ちょーだいね”」


 わざとなんだろう、弓削くんの間延びした口調。きっと書かれてあった字体やそこから滲み出る耽美なニュアンスを如実に私に伝えてくれようとしている。私が紙片を手に取らないから。

 ううん、弓削くんも四つ折りにされた5センチ角ほどのそれを、敢えて手渡そうとはしないから。


 神威くんはちょうどお風呂に入る準備をしている。そのタイミングを見計らっての情報共有だ。三人だけになったさほど広くないリビングに、テレビからお笑いの声が流れてくるけれど、きっと吉居くんも観てはいない。遠くにシャワーの音が穏やかに聞こえていた。


「……口紅野郎と同一人物かな。そのメモ、オレが四つ折りにした。見せつけるみたいにポケットに入ってた」


 誰に対しての見せつけか、なんて、分かるわ。分かってる、吉居くん。吉居くんがそんな泣きそうな顔しないで? 野郎、って似つかわしくない乱暴な言葉を使わせてごめんね? このメモは、神威くんへ働きかけられたものでもあり、私へその存在感の近しさを猛烈にアピールしているものでもあるのよね。

 ジーンズの後ろポケット、って。ねえ、女の子がそういう行動をとっても痴漢行為には間違われないのね?


「神威の態度に変化は見られない。いつものように御子柴を見、つまらないヤキモチを妬く。アイツはきっとこのメモに気づいてないんだろう。……本人に確認するか?」


 左耳は吉居くんと弓削くんの静かな声を聞き取り、右耳は水流が止まり蛇口をキュッと閉める甲高い音を捉えた。一旦、お終いにしなくちゃ、この話。


「確認の仕様が…分からないわ。こんなの初めてだし。大丈夫、まだ普段通りでいられると思う」

「……これは、俺が預かっておく。不法行為の証拠」


 瞬間、漂った不穏な空気を素早く隠すには意味のない行動をとるのが一番手っ取り早い。そうでなくとも神威くんは察しが良いのだから。私は冷蔵庫を開け買い置きのチェックをするふりをした。でもしくじったと瞬時に後悔した。私、昨日お買い物して帰って来たのに。




 じゃあな、といつものように軽く挨拶を交わし、吉居くんと弓削くんは隣のドアへと吸い込まれていく。玄関先の共用の廊下へ神威くんと二人で出て、後ろ姿を見送るのもいつも通り。


 でも、その先が違った。礼ちゃん? と語尾が上がった問いかけるような神威くんの静かな声は、伸びてきた両腕と共に私を絡め捕る。


「……何か、あった? いや、違うな。何が、あったの?」


 神威くんの少し速い心音を頬の辺りで感じながら、何故そう思うの? と訊いてみた。うん、訊いてみた、だけ。パフォーマンスだと見破られているのは百も承知。

 自分自身よく分からなかったけれど、私は時間稼ぎをしたかったのかもしれない、何せ、こんなの初めてなもので。

 私はゆっくりと神威くんから剥ぎ取られ、両肩に温かな手を置かれたまま、とても近くで顔を覗き込まれる。少し寂しげで少し切なくて、でもそれ以上に心配の色が濃くその綺麗な瞳に潜んでいる。


「ねえ、そんなの通用しないよ? 俺がどれだけ礼ちゃんばっかり見てると思ってるの」


 飽きてもおかしくないのに。愛情を小出しにしていかないと天寿の全うまで持たないかもしれないのに。神威くんは本当に私をよく見てる。私がよく脳内で独演会を開いて自己完結させる所以。

 そんな傾向の変化を求められない。口に出せと強制もされない。その代わり自身に出来ることは何かと常に問いかけ考えて行動してくれるのが神威くんなんだ。


「……分からないの。どう、言えば良いのか」

「……け、検査薬とか、つ、使っ…、」

「ああ、神威くん。そういうことなら寧ろ躊躇わずに言えるわ」


 検査薬、って。瞬間、目の縁を紅く染めながらカミカミで切り出した神威くんが可愛くて堪らない。こらえ切れずにふふ、と噴き出すと、え、じゃあ何? と声のトーンが若干落ちる。


 うん、本当に。そんな話題だったら飛びついて報告しちゃうわ。ああ、いやいや。学生の分際で手放しで喜べる訳がないか。結局のところ、結婚したとは言え、両家の親の庇護下にあるんだから。


 玄関の傍に立ちすくんだまま数瞬 顔を見合わせる私達。私は神威くんのしなやかな体躯を柔らかく180度回転させると、あっちの部屋へ行こう、とテレビの音が未だざわめくリビングを指す。途中、バスルームに寄って洗濯機の上の棚から神威くんのシャツを手に取った。


「……ねぇ、礼ちゃん。本当に…その、こ、こど…」

「うん、違うわ。それなら悩まないし、二人にまず相談したりしない。旦那様へ真っ先にご報告いたしましてよ?」


 肩越しに私を見つめていた優しい瞳に宿っていた微かな陰りは、私が告げる言葉毎に本来の澄んだものへ戻っていく。ああ、やっぱり。そうだったんだ。子どもが出来たのかも、と早とちりした神威くんは、何故打ち明けてくれないんだろう、何故二人とコソコソしてるんだろう、と。何故? の嵐に苛まれていたんだって。


「……俺ね、こと礼ちゃんに関しては思考があっちこっち飛躍するので」

「ごめんね? しなくても良い心配だったのに」

「いや、いいんだ。すぐ慢心してしまうから」

「いいのに、慢心して」


 俺を甘やかすなあ、礼ちゃんは。

 神威くんはそう言って笑うと、センターラグの上に座り込んだ。私の手を取って引き寄せ座らせようとしたのだろうけれど。生憎、私の両手は背後に回っている。


「……礼ちゃん。本題は?」


 何だろうな。上手くいかないな。

 遠くへ向かって投げたフリスビーみたいに、見当違いな方向へ飛んでそのまま戻って来なくていいかも、と思った話題だったのに。ブーメランでしたね。戻って来ちゃった。


 他に、無いんだろうか。こんな、物的証拠を突きつけて神威くんに迫り訴える、みたいなやり方以外に。ただ、私が気にしなければいいだけのことだったのに。でも、いつかきっと見透かされるのよね。そんな私の挙動不審ぶり。


「……神威くん」

「……はい」

「……魔の手が、近づいて、ます…」

「……はい?」


 切れ長の瞳をまさしくパチクリさせて、私の言いたいことがよく分からない時、神威くんは私をじいっ、と見つめる。誰かを見つめていても考えてることまで分からないでしょう? よほどつぶさに観察すれば見いだせるのかしら。ボンヤリの私には無理であろうことも神威くんは時にやってのける。


「……えーっと、何か、それは……ファンタジー、的な?」

「……ごめんなさい。面白くなかった。しかも訳が分からなくなったわ」

「ぶ。面白くしたかったの?」


 私はラグの上で胡座をかきほんのり笑う神威くんの真正面へポス、と力なく正座する。もうもう、本当に。どういう風に切り出せば? 視線の定め方に戸惑っていると神威くんはつい、と身を乗り出し私の肩口へ顎を乗せ、さっきからずっと後ろ手に握りしめているコットンのそれを覗き込んだ。


「そのシャツ、どうかした? あ! 俺、また裏返しにしてた?!」


 フルフルと首を振る。私の髪の毛が神威くんの頬を掠めた。神威くんだってこの妙な空気を感じているはずなのに、変わらぬ態度をとってくれている。私が話し出しやすいように。


 ため息を一つ。私が背中から前へと伸ばした腕はすぐに掴んでもらえる。そうよ、子どもの頃とは違うの。空っぽで薄っぺらい私を埋めたくて伸ばしたこの手の先にある確かな存在。

 神威くん。ねえ、誰も。お願いだから私から、神威くんを奪っていこうとしないで。どんな些細なことにだって私はビクビクしてしまうから。お願いだから、どうか穏やかに過ごさせて。脅かさないで。


「……ここにね。口紅が…、ついてた。洗ったけど、落ちなくて。だから」


 クリーニングに出すね、と言いかけた言葉は最後まで音になることはなく、ごめんね、と抱きすくめる神威くんの強い力にかき消された。


「あっ! いやっ! ごめんと言ってもね?! あの、疚しい事実があるからではなく!」


 ごめんね、と共にキュウと柔らかな力が籠められていた腕は慌てたような口調の後で解かれる。私の両肩へそれぞれの手を置いた神威くんは、痛いほどに真っ直ぐな視線を私に向けゆっくりと言った。


「……嫌な想い、したよね。そこが、ごめんなさい」


 神威くんは私の手からシャツを取り上げると、これ捨てる、と呟き立ち上がろうとする。はた、と神威くんの腕を掴み動きを止めた。


「神威くん、そのシャツお気に入りだったんじゃ…、」

「俺、礼ちゃん以上のお気に入りなんてない」


 それなのに、と神威くんの端整な顔立ちは複雑に歪む。


「……魔の手、か。うん。でも、気づけないなんて。駄目だ、俺。こんなところがヘタレなんだな、未だに」


 シャツに僅かに残ってしまった紅い香料の痕。繊維の奥にまで染み込んでしまったのか、生々しく唇の形こそ留めないけれど、私の記憶には毒々しいあの色も形も残り続ける。

 あまり良い気分でないのは確か。それでももっと確かなのは、神威くんにこんな表情をさせたかった訳じゃないということ。あ、また目が大きく見開いた。今度は何に気がついたの?


「……これ、やっぱり裏返しで洗濯機へ入れてた? 手に取らなきゃ分かんないよね? 俺がちゃんとしてたら…、」

「袖が、ほんのちょっとだけよ。ごめんね、気がつかなければ良かったのに」


 礼ちゃん、謝っちゃ駄目だよ。

 神威くんはため息混じりに苦笑しながら言った。怒るとこでしょ、と。


「……神威くんに対して、怒るの?」

「そうだよ、勿論。駄目亭主でしょ? こんなみっともないことされてるのに気づけよバカ! 軽々しく他の女 近寄らせてんじゃねーよ! こんなの見せられて不愉快なんだよ! とか」

「……無理そうだと、思わない?」

「……うん。無理、っぽいかな」


 ふ、と神威くんの口元が緩む。私は吸い寄せられるように、笑みが浮かぶ神威くんの唇へ自身のそれを重ねた。


「……礼、ちゃん?」

「……こういうこと、直接出来るのは。私だけ。……ですよね?」

「当っったり前ですっ!」


 立ち上がりかけた腰を下ろし、私を立てた膝の間にゆるりと囲んだ神威くんはゴチンとおでこにおでこを当ててくる。地味に痛いよ? これ。


「もうっ! 何言って——あ」


 神威くんは本当に指が長い。ちょっと骨ばってて爪も細くて長く、神様は神威くんを創るどんな工程も手を抜かなかったんだな、としみじみ感心する。その指が、掌が、私の頬を包み込んだ。静かにそうっと、吸いつくように。


「……嫌に、なった? や、そりゃなっただろうけど、…あの」


 ごめんね、と神威くんはもう一度声に出した。少し掠れてる。神威くんは良くも悪くも感情が昂った時に低く色っぽいそんな声になることを私は知ってる。


「……神威くん?」

「……駄目だよ。別れないよ」

「……え。そんな話に何故」


 また飛躍し過ぎだよ、と笑う私に反比例して神威くんの表情は沈みなかなか回復しない。私は心地好く添えられた両の手に、私の掌を乗せた。そのあまりの大きさの違いは自分の頼りなさを痛感する一瞬でもあるけれど、神威くんを一番近くで独り占め出来ていると妙に安堵する瞬間でもある。


「私の方こそ、ごめんなさい。些細なことにビクビクして。神威くんが、誰かに心奪われるかも、って考えたら。気にせずにはいられなかった」


 奪われる訳ないじゃん、と即座に否定された。何言ってるの? 礼ちゃん、と。


「俺もうかれこれ三年以上、礼ちゃんに心奪われっぱなしなんですけど。伝わってない? そういうの。もしそうならもう少し伝わる方法を、」

「ぶ。大丈夫よ? 充分伝わってる。だからこそのごめんなさい、なの」


 私のこれからは、未来は全部、神威くんのものなのに。そんな絶対の安心と揺るぎなさを受け取って欲しくて早々に結婚した筈なのにね。


 そう伝える一語ずつに神威くんの頬や目の縁がじんわり紅く染まっていく。重ねていた私の手は逆に絡め取られ、指の間に指を差し込まれると神威くんの顔へ添えられた。ほんの少し、熱い。射抜かれるような視線も、熱い。


「……最近、ね。デザイン文化論の実習でレンガ使ってアーチ造ったりしてるんだけど。四人グループで、女子が一人いて」


 講義の時よりみんなとの距離が近くなる、と神威くんは言った。心理的な距離の話ではないだろう、物理的な話。その、同じグループの女の子だと考えているのだろう、吉居くんの言葉を借りれば“口紅野郎”さんは。

 は、と短くため息を吐いた神威くんは、気をつけよう、と自戒するように呟いた。私に聞かせたい訳ではなく。次いでメンバー変えてもらえないかな、とも漏らし、同じゼミの人達の顔を思い浮かべているのか目線を宙にさまよわせる。



 メモの件までは、話さなかった。それ以上、話したくなかった。今はまだ名前も知らないその人がどんどん実態化していきそうで、私はやっぱり落ち着かなくて。指定ゴミ袋にシャツを放り込む神威くんへ、勿体ないよとは言えなかった。




 身体の大きな神威くんに合わせて購入したダブルベッド。お風呂から上り寝室へ入ると、そのベッドの上の大半は神威くんに占領されていた。布団の上に身を投げ、膝を曲げた両脚をプラプラさせながら静かな空間にページを捲る紙の乾いた音だけが鳴っている。覗き込んで本のタイトルを見ればお洒落なのか小難しいのか分からない。


「『錯乱のニューヨーク』…?」

「わ、礼ちゃん。何? 俺、誘われてる?」

「ううん、何読んでるのかと思って」


 神威くんの反応に至極真面目に答えると憮然とした表情を向けられた。そこ、誘ってるって言って欲しい、って。いえ、誘えるほどのスキルはございません、と苦笑い。


「いやでも、そのお風呂上がりのすっぴんで無防備な感じは誘ってるとしか思えない」

「……ネグリジェでもスケスケでもないのに」

「……やめて。想像だけで鼻血出るかも」


 神威くんは柔らかく笑いながら読みかけの本をパタンと閉じ、他の数冊と併せてベッド脇のローテーブルへ放った。『空間・時間・建築』とか『建築をめざして』なんてのも混じっている。レポート提出しないといけないんだ、って。憂いを含んだ表情も綺麗。


「礼ちゃん」


 おいで、と手を引かれベッドの上へ。神威くんが立てた両膝の間に囲まれるように向い合わせで座る。乾かしたばかりの私の髪へ長い指を通し優しく梳き通すと、匂いを確かめるように鼻の近くへ寄せている。


「……髪、伸びたね」

「そうね、三年は切ってないから」

「……三年かぁ」


 時々、思い出すようにしてるんだ。

 神威くんは私の肩へシャープな顎を乗せると耳元で呟いた。苦しげに、こみ上げる何かを堪えるように。


「人間は忘れる生き物なんだ、って心が言ってた。辛いことや悲しいことは記憶から薄れさせていくことで生きていけるんだ、って」


 でも俺は、あれは忘れちゃいけないと思ってる。

 そう言って神威くんは私の背中へ両の腕を回しキュ、と力を籠めた。そうね、あの時もこうやって。神威くん大好き、って言った途端、骨が折れそうな勢いで抱きしめられたんだった。


「……あんな想いの、ね。二度目なんて、要らないんだ」

「……うん。欲しくない」


 でもね、神威くん。世界中に存在するのは私達だけじゃないの。だからね、きっと。


「……葛西先生が、言ってた。世界は広がっていく。味方はいても、ピンチの時にタイミング良く助けてくれるヒーローはいない、って、知って。いつか、悪意と、隣り合わせになるんだ、って」

「神威くんはいつも助けてくれてるわ、私のこと」


 そう。講義が終わって待ち合わせ場所へ急ぐ私の前にたとえ誰かが立ちふさがっても、それを押しのけて私を救いだしてくれたのは、ほぼ神威くんだ。


「……2年までは、ね。何とかなった。武瑠も心も協力してくれたし。礼ちゃんのバイト先も料理学校もすぐ行ける範囲内」


 俺はそうやって礼ちゃんをがんじがらめにしてるんだ。そうすることでしか守れる術を見いだせないから。自嘲する神威くんが切なくなる。


「そんなの…、私は何とも思わないわ。私の未来は全部 神威くんのものよ? 知ってるでしょう?」

「そうだとしても」


 俺は礼ちゃんが考えている以上に礼ちゃんの行動を知ってる。神威くんの言葉は私の耳元で囁かれ、それはある種 麻薬のように私の細胞を麻痺させていった。


「礼ちゃんの一日の行動は勿論だけど、クラスやゼミで仲の良い女の子とかも把握してる。家庭教師のバイトも生徒が女の子しか駄目だとか。料理学校も近くに行かせるようにしたし。……礼ちゃんの生活環境を小さく狭く制限してるんだ、俺」


 それは、未来もかも、と神威くんの声が掠れてきた。顔の見えないこの姿勢が悲しくて、私は少し身を捩り神威くんを見上げる。


「……ねえ。そんな風に考えたことないわ」


 結局、私が一人でもしゃんとしていないから。万葉が傍にいたらきっとデコピン5連発だ。山田にばかり自己犠牲を強いちゃ駄目だ、とアメリカへ旅立つ前に念押しされたのに。


「……礼ちゃんがそう考えてなくても。傍から見たらそうなんだよ。みんな、口に出さないけど俺の盲目が過ぎてる、って思ってるはず。……でも逆に」


 俯けていた顔を上げ、神威くんは私にきちんと視線を合わせた。長い睫毛までハッキリと確認出来るこの距離は心臓に悪い。何度間近で見つめたって、身体を重ねるという恥ずかしい行為を経てもなお、ドキドキする。


「俺だけが安心を得て。そんな状況に安穏としてた。礼ちゃんは、俺の行動なんて分からないのに。見えない、知らない所で何が行われてるか想像もつかない、って…酷く、心がすり減っちゃうよね」


 そうだったのか。話の帰着点はここだったのか。神威くんはまたごめんね、を繰り返す。


「……あんなの。ね、今日が初めてだった? 今までに何度もあった?」


「……初めてよ。だから、二人に相談しちゃったの。ううん、本当は相談するつもりもなかったんだけど」


 どうして? と問うてくる神威くんの瞳が揺れる。一人で抱え込もうとしてたのかと心配されているのは分かる。


「神威くんのこと。信じる、って言ったのよ? 私。ダメでしょう? 完璧に信じてないから相談しちゃった訳でしょう? 信じていられるのならこんな些細なこと、笑い飛ばせるでしょう? ああ、満員電車の中でつけられちゃったのね、って」

「ぶ。俺、チャリ通学」


 知ってる、という言葉と共に上げた口角はその形のまま、神威くんの唇に柔らかく啄ばまれた。


「……礼ちゃんが、安心して俺のこと信じてられるようにしたいのに」

「ごめんね、神威くん。本当に、ごめんなさい」

「……だから。礼ちゃんが、謝っちゃ駄目」


 気づかなければよかった。でも気づいてしまったから。

 我慢していればよかった。自分の心の奥深くにしまい込んで、眠って忘れて何もなかったことに出来ればよかった。

 私はきっと神威くんに、みんなに甘やかされているから、独りでやってきた頃のやり方を忘れてしまっている。


 神威くんの耳元へ私は指を梳き入れた。神威くんと私の同じ香りが近くなる。指でなぞる。額から頬へと繋がる細い細い線。


「……嫌いに、ならないで」

「なれる訳ないでしょ? 本当に分かってないなあ、礼ちゃん」


 今度はさっきよりも強く下唇を食べられた。上の唇はペロリと舐められ私の頬はあっという間に熱を持つ。私の手に手を重ねたまま私との距離をゼロにした神威くんが遠ざかり、その頬が私と同じように紅く染まっていることに妙に安心を覚えた。


「俺がどれだけ礼ちゃん中毒か。一晩かかって良いなら熱く語るよ? 寝かさないし、トイレは前もって行っといてね」

「ふ。病院行く?」

「……あのねえ。いや、礼ちゃんがリアリストだというのは今に始まったことじゃないけど」


 後頭部へ神威くんの両の掌が置かれ、私は緩く固定される。神威くんの瞳に映るちょっと間延びした私の姿。見つめていれば自然とこみ上げる甘い言葉。


「……私の方が。神威くん無しじゃ生きていけないと思うよ?」

「……礼ちゃんは。あれなの? 俺のトリセツでも持ってんの?」


 熱っぽく潤んだ神威くんの瞳にそれ以上ないくらいの優しさが宿る。持ってないしむしろ欲しい、と答えると嘘つき呼ばわりされました。


「絶対持ってる。俺の胸キュンポイントがどこか分かってて的確に撃ち抜いてくるもん」

「む、胸キュンポイント…」

「あーあ。今日はやめとこうと思ってたのに。そんなの、言われたら、もう俺、健康な成人男子なのに」


 神威くんは私の首筋にぽすんと頭を埋めた。

 くすぐったいです、神威くん。ひょっとして本能と闘ってらっしゃる? 昨日もしたし、とか。嫌な話 した後のなし崩し的な感じが駄目、とか。心の声がダダ漏れなんだけどな。


「……ね。引かない? いや、すでに引いてる? 俺ばっかいっつもサカってるよね? そうだよ、礼ちゃんからエッチしたいとか言われたことない…!」

「え。え? な、えっ? 神威くん?! どうして? そんな落ち込むとこ?」


 何年経っても、って聞こえてきた。キュウ、と抱きしめられれば私も神威くんの肩口へ顔を埋める格好になる。トクトクと脈打つ音が奇妙に落ち着かせてくれた。

 だからちゃんと聴こえてるよ。小さく切なくため息のように吐かれる神威くんの言葉。俺ばっかりが好きすぎてる、だなんて。そんなの決めつけないで?


「……ごめんね、神威くん。私がすぐ、自信なくすから」


 絶対の“好き”を、揺るぎない想いを、永遠に続く未来を、はい、と差し出すだけじゃ駄目で。形無いものだから磨き続けていかないとすぐに霞んで分からなくなってしまうのに。

 神威くんにこんな顔させて。私、何やってるんだろう。


「…謝り合ってばっかだね、俺達」


 神威くんはクス、と笑うと頭をもたげ私を覗き込む。寝ようか、と。

 本能には抵抗した、と言うから今夜はしない、ということなんだろう。となれば、私も未だに慣れない行為の恥ずかしさと自信の持てない貧相な身体ゆえに誘ったりはしない。部屋の明かりを落とせば、カーテンの隙間からほんのりと射し込む月明かりにくるまれた。


 神威くんは曲げた片手に頭を乗せ私の髪の毛を指で掬い、落とし、頂きから撫で、そのゆるゆるとした動作を何度となく繰り返す。礼ちゃんここにいるね、と確かめられているような気持ちの良さ。


「……俺だって。礼ちゃんへ“絶対”をあげたいんだ。だから」


 もっと自重する、隙もつくらない。

 そんな戒めの言葉を呟く。私も、と続こうとした私の決意は神威くんに遮られたけど。


「礼ちゃんはねぇ。もっと、自己評価を上げていこうね」

「うー、ん?」


 横向きに寝てても神威くんの顔って崩れないんだわ、なんて思考をちょっと逸らしていたから、意味が分からなかった。自己評価?


「うん。礼ちゃんの自己評価はめちゃくちゃ低い。それだけ可愛いんだからさ、いや、外見の可愛さだけじゃなくてね? 笑顔とかさ。凄いよ? 礼ちゃんの笑顔の破壊力。優しいのも、滲み出てるし。そんな子が一日の大半 傍にいて他の誰に靡くのかっていう」

「……何か欲しいものでもあるの? 神威くん」

「うん。礼ちゃん」

「……そんな。人をはないちもんめ、みたいに」

「わ、古っ!」


 曲げていた手を伸ばしそれをそのまま私の頭の下へそっと差し入れる神威くん。もう片方の手で私の後頭部を引きよせ、おでことおでこをコツンと合わせられた。

 明日からも頑張ろうね、と囁かれる。何を、とは訊かない。私達はいろんなことに頑張らなくちゃいけない。それくらいは、ボンヤリの私にも分かってる。


「……俺、脳内メーカーとかしたら全部“礼”で埋まるんじゃないかなあ」

「……それは、いかがなものかと」

「礼ちゃんも“神威”で埋まればいいのに」

「……あれ一文字だよね?」


 そんな他愛のない話をしながら私達は心地好い眠りへ吸い込まれる。せめて神威くんより少しでも長く起きていて、腕枕を外してからにしなきゃ、と重くなる瞼と闘いながら私は考えていた。



 明日は、良い日になるといいな。ううん、ずっと良い日ばかり続けばいい。

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