冷えた夜の待ち人・弐

僕は彼にアールグレイを淹れる。さっきまで飲んでいた珈琲はお預けだ。どうやら外はかなり冷え込んでいるらしい。彼の唇が藤色に染まっている。

柑橘系の香りが漂うカウンター席で、彼は非常に浮かない顔をしていた。今にも何かに押しつぶされてしまいそう。


「何かお悩みですか?」


淹れ終えた紅茶から揺らめく湯気を眺めながら、その顔の原因を尋ねる。その人に合った飲み物とともにこの言葉を投げかける。そういう決まりだ。

彼は驚いた様に僕を見た。目が酷く揺れている。まぁ仕方ないことだろう。僕だって急に話しかけられたら驚く。

彼が息を吸う。話してくれるのだろうか。それとも拒絶だろうか。しかし彼の口からは言葉ではなく、吸った息がそのまま出てきた。やはり簡単にはいかないようだ。


「ゆっくりで良いですよ。残念ながら時間は有り余っていますからね。そうでしょう?」



彼は何も言わない。頷きもしない。でも目の揺れ具合で何となくわかる。図星だ。


「い、いや、時間はきっとそんなに無い、のかも……」


小さくか弱い声が発せられた。しかしこの言葉だけでも、色々な悩みが伝わってくる。具体的には何か分からないけれど、とても重大で、苦しい悩み。


「俺は、唯莉ゆり先輩、あっ恋人を、待っているんです」


彼は言葉を選ぶようにゆっくりと、呟き始めた。僕は黙って続きを促す。


「職場の先輩で、とても優しくて、俺の事を気に掛けてくれて。俺は気付けば、彼女に惹かれていたんです」


よくある話だ。男性は、特に不馴れな環境で不安な男性は、自らに優しくされると、容易く惚れる。勿論例外もあるが、大概はそうだ。ちなみに僕は例外の方。まず異性との関わりが全くない。


「何度か食事にも行って、意を決して告白したんです。でも、返事はまだ貰えてなくて」


その待ち人は慎重派らしい。その場の空気に流されず、ちゃんと将来を考えようとしている。断り方を考えているだけかもしれないが。


「それで、一昨日メールが来たんです。返事がしたいと。でも、昨日、待ち合わせ時間になっても、彼女は来ませんでした……」


なかなか酷い話だ。呼び出しておいて放っておくとは。ただ、それもありふれた話。


「連絡もなく、彼女も来ない。僕は拒絶だと、思いました。でも、諦め切れなくて。何となく、家に帰りたくなくて、ふらふらと彷徨っていたら、ここに辿り着いたのです」


そして今に至る、か。


「失礼ながら、メールを見せて貰えますか?」


「あ、はい、どうぞ」


今となってはあまり見かけなくなった、二つ折りの機種だ。懐かしい気持ちでメール画面を開いた。






──大輝くん。久しぶり。ごめんね。長い間仕事休んじゃって。教えたいことはまだまだいっぱいあるんだけど、ちょっと体調が優れなくてさ──


──いつだったっけね、私のこと、好きだって言ってくれたよね。本当に嬉しかった。初めてそんなこと言われたんだもん。びっくりもしたけどね──


──少し前、私、振られちゃってさ。凄く悲しくて、自棄になってた。そんな時、君は言ってくれたんだ。「あなたが好きです」ってね。思い出すだけで幸せ──


──君は光をくれた。恩返ししないとなぁって考えたら、返事してないって思い出したの。告白された時は嬉しさでいっぱいで、返事なんて考えられなかったよ──


──だからさ。明日、返事してもいいかな。勿論、君の仕事が終わってからね。場所は、君が告白してくれた、あの橋にしよっか──


──余生を君の隣で過ごせたら、どれだけ楽しいかなぁ。今までも幸せな夢をありがとう、大輝くん──






なるほど。これを読んで僕が彼に伝えるべき事は。


「お客さん。諦めるにはまだ早いよ」


探偵でも何でもないが、この話の結末が分かった。

彼は現実に耐えられるだろうか。もしかすると、耐えられないかもしれない。そこは、彼次第だ。


「僕の考えがもしも当たってしまっているのなら、お客さん、あなたはある場所に行かなくてはならない。でもそれはきっと、あなたが知らない彼女の秘密を知ることになる。彼女が隠したかったそれを知ってでも、あなたは彼女を愛せますか?」


突然何を言い出したのかと思っているのか、彼は呆けた顔をした。


「先程あなたは言いました。拒絶されたのだろうと。しかし恐らくそれは違う」


彼が首を傾げる。


「あなたは彼女に愛されていますよ。恐らく、あなたが思っている以上に」


「じゃあ、何で昨日約束を破ったのですか?」


彼の目に僅かに光が宿った。


「それは、僕からは言いません。この物語に終止符を打つのは、まだ少し早いですから」


そう言って笑いかけてみたのだが、彼は困惑の色を浮かべるばかり。


「では、長い長いエピローグのプロローグへ、ご招待しましょう」


そう言って僕は玄関扉をノックして、彼を送り出した。

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