第十七話 マコ
「本当にここで寝るの?」
カウチに座ってホットミルクをすする僕に、父さんが訊ねる。
「うん。ダメ?」
「ダメなんかじゃないよ」
父さんは自分のベッドを貸すと言ってくれたのだが、僕は断った。
「もしかして俺、オジサンくさい?」
「違うって」
むしろ、ものすごくいい匂いがする。
シャンプーなのか、着ている服の柔軟剤なのか、それともなにかつけているのか。
僕もこんな香りをさせて歩きたいと思ったけれど、言えるわけがない。恥ずかしい。
「そうじゃなくてさ、僕この暖炉が好きなんだ」
父さんが、ああ、という顔をする。
「さっき色々と、燃やしてたけど?」
父さんはいたずらっぽく、品の良い唇の端を歪めて言った。
ほんのちょっぴり意地悪されて、僕は一瞬ジト目で父さんを見上げたあと、先ほどのやり取りを思い出し、サッと首を横にふる。
「いいよ、もう。あれは。……っていうか、色々疑ってごめん」
正直なところ、僕は焦げたクマを見つけた時、父さんを疑った。
まずは、父さんが結衣を
僕や世間から隠れて、ふたりで恋人みたいに生活しているかもしれないって。
ちょっと飛躍して、地下に監禁なんていうのも考えた。映画の観すぎだったかもしれない。
この家に地下室があるなんて話は、きいたことがないけれど、あってもおかしくないような雰囲気が──この家というよりは父さんの方に──漂ってるし。
僕の考えていることがなんとなくわかったのだろう。
父さんは、声を立てて笑い出した。
「な、なんで笑うんだよ……っ」
「
耳がこそばゆくなるような台詞を吐いているのに、父さんはあくまでも爽やかだ。
凪のような慈愛の眼差しを、僕に向かって止めどなく注ぎながら、
「いいんだよ、真琴。落とし物をわざわざ燃やすなんて、俺も少し大人げなかったからね」
「そ、そう……かな」
僕は曖昧な返事をした。
あのクマは結衣の落とし物だった。
捨てていったわけでもないのに、ゴミとして廃棄するどころか暖炉に投げ込むなんて、確かにやり過ぎだとは思う。
でも結衣のやったことが本当なら、無理もないかもしれない、とも思うのだ。
僕は結衣の事情を知っているから受け入れられているけど、父さんからすれば、見た目は可愛くてもただのストーカーだ。
さぞかし気持ちが悪かっただろう。
ただでさえ迷惑していたのに、僕が紹介なんてしてしまったものだから……。
本当に、申し訳ない。
がっくりとうなだれたい気分だったが、そんなことをしたら、また父さんに気を遣わせてしまう。これ以上、心配を掛けたくないので、うつむく代わりにカップに口をつけた。
結衣も無事だったことだし、僕は話題を変えることにした。
「それにしても、久しぶりだなあ。こんな時間にここでこうして
「そうだね。真琴が小さい頃は、よく泊まりに来てくれたけど」
「ずっと来られなくてごめん。でもこれからは、もっとここに来るから」
照れくさくて顔を見られなかったけれど、父さんが目を閉じて微笑むのがわかる。
僕はカウチから立ち上がり、やや早足で庭を見渡せる大窓に近付いた。
窓にはサラサラした素材のカーテンが引かれている。
先ほど暖炉の光が外に漏れていたのを見ると、あまり遮光性は高くないらしい。
そういえば、父さんは朝が苦手だってモーニングルーティンの動画で言っていた。
だから朝の光を浴びて、強制的に身体を叩き起こすのだと。
そんなことを思い出しながら、僕はカーテンに手を掛けた。
「星とか見えるかな。僕さ、この庭の景色もだ……」
いすきなんだ。
そう続ける前に、目と目が合った。
すぐ近くに、ぼんやりと浮かび上がる白い顔。
「……え?」
見覚えがある。
よく知ってる。
頬にうっすらと、緑の痣が残る美しい顔を。
だが、そんなはずはない。
硝子の向こう、夜の闇に潜む大きな
身体が強張った。
足がすくみ、息を吸うことも吐くことも出来ない。
窓ガラスにぴったり沿うようにして、悪意に満ちた目が僕を睨んでいる。
「な……」
切りつけるような鋭い音を立てて、カーテンが閉められた。
いつの間にか傍に父さんが立っている。
僕はその場にへたり込んだ。
バァン!!
大きな音がして、僕は引き攣った悲鳴を上げた。
窓を思い切り叩かれたのだ。
「出てこい……出てこいマコォ!」
腹の底から絞り出すような、ドスの利いた女の声。
一瞬、誰のものかわからなかった。
でも、この呼び方は……あの姿は。
<つづく>
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