シェロの赤い首輪

神庭

序 白猫の思い出

 汚れ一つない白い家の外壁が、強い陽射しを照り返していた。

 メルヘンな赤い屋根が波打つように輝いて、時折目を開けていられなくなる。


 姿は見えない小鳥たちのさえずりが聞こえた。


 よく手入れされた庭の芝生の温かさ。

 色々な花と、新鮮な水のにおい。


 ぼくはねこと遊んでいた。


 比較的自由に育った大小の庭木にぐるりと囲まれた、光の湖みたいな陽だまり。


 特別な者だけが入ることのできる――と、あの頃のぼくは信じていた――スポットライトの中に陣取って、シェロと一緒に駆け回る。


 シェロというのはねこの名前だ。

 ぼくがつけた。ぼくのねこだ。


 真っ白なポワポワの毛並み。少し垂れ下がった耳。

 宝石のような青い目。柔らかい筆の毛先みたいな先細りのしっぽ。

 肉球とお揃いのピンクの鼻は、眩しい陽光でグミみたいに透けている。


 シェロは、世界一可愛かった。


 ぼくは夢中になって、大好きなシェロを追いかけた。

 シェロが四本の棒みたいな脚で素早く跳び回るのを見るのが面白かった。

 真っ赤なボールを追う後ろ姿がたまらなく愛おしかった。


「つかまえたっ」


 小さな体を抱き上げる。

 シェロが高い声で短く鳴いた。


 抱き締めるとミルクの香りがする。

 シェロの体は、柔らかくて温かくて、ちょっとだけ湿っていた。


真琴まこと


 不意に、背後から名前を呼ばれた。

 心をそっと包み込み、ほどき、とろかすような優しい声だった。


「あっ!」


 ぼくが顔を上げるよりも先に、腕の中のシェロが暴れ出した。

 小さなか細い爪に思いっきり引っ掻かれ、ぼくは咄嗟に手を放してしまう。


 芝生の上に飛び降りたシェロは一目散に逃げていく。


 置いてけぼりにされ、お腹の底がすうっと冷たくなるのを感じた。


「おっと、びっくりした。元気だな」


 再び、穏やかでのんびりとした声。


 振り返ると、パパがシェロを抱き上げていた。

 その傍らに置かれた白いテーブルの上には、清涼飲料水の青いボトルがある。


「真琴、そろそろ水分補給をしないと」


 シェロが肩によじ登るのを意にも介さず、パパはボトルを取って近付いてくる。


 ぼくは手の甲を押さえてうつむいた。

 笑顔のまま凍っていた表情筋が、ほどけて無表情になる。


「……どうしたんだ。その傷は」


 パパが息をのんだ。


 こんな小さな怪我くらいで、パパはいつも大袈裟だった。

 身を屈めて、大きな手を伸ばしてくる。


「さわんないでよ!」


 ぼくは鋭く叫んだ。

 力いっぱい、パパの手を振り払う。


 パパの瞳に、“悲しい”の感情が広がった。

 子供がちょっと反抗したくらいで、本当に大袈裟だ。


「真琴……?」


「なんでパパにばっかりなつくんだよ!」


 ぼくは大声で怒鳴った。

 生まれて初めて、お腹の底から声を出したと思う。


 パパは驚いている。


 おろおろと長い両腕を広げたものの、ぼくが拒絶したため、大きな手は所在なさげに宙をさまよっていた。


「シェロはぼくが連れてきたのに! ぼくが名前をつけたのに!」


「ごめん。ごめんよ、真琴。パパが悪かった。気を付けるから……」


 パパが謝る。何度も、繰り返し詫びる。


 パパの声は、聴く者の心を優しく撫でるような、穏やかで落ち着いた音色だった。

 しかしこの時は不安と悲しみに、やや揺れていたように思う。


 ぼくがそうさせた。

 わかっていたのに、止まらなかった。


「どうしてパパばかりが一緒にいるの!? どうしてパパのことばかり好きになるの!?」


「真琴……」


「ずるい! ずるい!」


 悔しかった。


 シェロは、ぼくが命を助けた特別なねこだった。


 もちろん一緒に暮らしたかった。

 でもママが極度のアレルギーを持っていたので、無理だった。

 それで、ぼくたちと別々に暮らしているパパの家に連れて来たのだ。


 シェロはまだ子供だ。


 小さくて弱くて、ぼくがいなくちゃ生きていくことができない。

 シェロにはぼくが必要なんだ。それなのに。


「もう帰る。パパもシェロも大っ嫌い!」


 全速力で走り去るぼくを、パパは追いかけようとした。


 けれど、シェロが邪魔したみたいだ。

 困ったようにシェロをたしなめる声が聞こえて、それもまた優しい。


 一瞬だけ振り返ったパパの顔は、足元に絡みつくシェロに向けられていてよくは見えなかったけれど、たぶんひどく傷ついていた。


 ひとりで家に帰ると、ママが固定電話の白い受話器を置いたところだった。


 肩で息をしているぼくを見るや、


「怪我したんだって?」


 ママの電話の相手はパパだったのだ。

 

 パパの顔を思い出し、またお腹が冷たくなった。

 ママが心配そうに近付いて来て、ぼくの体をあらためようとする。


「やめてよ。ねこに引っ掻かれただけだから」


 素っ気なく答えて、台所の流しで手を洗った。


 傷口はうっすらとみみず腫れになっていたが、消毒までする必要性は感じられない。

 もっとも、あのままパパのところにいたら、消毒どころか包帯を巻かれていたかもしれないけれど。


 手についた水をはらうぼくの背中に向かってママが言う。


「お父さん、またおいでって」


 ぼくは答えなかった。


 ママもそれ以上、なにも言わなかった。


 翌日、パパからシェロが居なくなったと連絡が来たけれど、僕はそれも無視した。


<つづく>

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