第3話 2本目の鋏

 コンコンッコンコンコンッ!!!

 鼓太郎は布屋に着いて裏口へ周った。戸を必死で叩くと慌てたような足音が聞こえてくる。

 ガラガラ、と戸が開いた先にはぽつんと雪が立っていた。

「鼓太郎さん……? こんな夜分にどうかしたんですか……?」

「時枝さんは!?」

「時枝さんはまた出ています。まだ帰らないと思いますが……」

 鼓太郎は先ほど見た事実にひどく焦っている。母親とテツは何も感じていないようだが、一刻を争う気がしてならなかったのだ。

「何かあったのですか?」

「テツの母親がまずい、糸が巻き付きすぎてこの世のものとは思えないほどだ!!!」

 勢いよく鼓太郎は見たものをそのまま話していく。病縁かもしれない、泥のようなものが垂れていた、と途切れながら言い続けた。

 鼓太郎も状況が整理できていないことを自覚しているが、なりふり構っていられない。必死な鼓太郎の言葉に雪はみるみる血相を変え、テツの家へ走り出した。

 必死で駆けて、あっという間に2人はテツの家に着く。テツは雪が来たことに驚き、少し嬉しそうにした。お茶を出すから待っていて欲しいと言って家の奥に消える。それを見送って2人は母親が眠る部屋を覗き込んだ。開きっぱなしの戸から禍々しい糸と母親が見えている。

「これは……ひどい」

 そう呟いて雪は後ずさる。その顔は酷く青ざめていて、今にも倒れてしまいそうだった。病との悪縁が根強く、ここまできてしまうと、人力で治すのは難しいという。

「病縁は見えやすいと言われています。綾瀬家と関わりがない鼓太郎さんに見えたのは何故なのかわかりませんが、気がつけて良かったです。……一刻も早く、……っなんとかしなくては」

「雪……?」

 雪の声は震えていた。おぼつかない手で懐に手を入れる。そしてそっと音を立てずに一挺の鋏を取り出した。それは銀色に水色を乗せたような色をしており、時枝の縁切り鋏と同様に刃の先まで装飾が入っている。

「それは……」

「……」

雪は何も言わずにテツの母親の傍にしゃがんだ。

「はぁっ…はあ、……っ」

息を詰まらせながら雪は鋏の刃を開いて糸を切る動作をする。

シャキン、……。

「あ……」

「切れていない……」

しかし糸は切れることはなく、母親に巻きついたままだった。雪は何度も切るが、状況は変わらない。鋏はただ空を切り、鋭い音が鳴るばかりだった。

「ゆ……き」

ガシャン、湯呑みが割れる音がして2人はその方向を向いた。縁に集中しすぎてテツの接近に気が付かなかった。彼は青ざめた顔で呆然とこちらを見ている。

「なに……すんだよ。はさみで……かあちゃんをきるつもりか…っ……」

「違う、これには理由が――」

「でていけっ!! でていけ!!!!」

「いっ!!」

 その辺にあるものをテツは一心不乱に投げ始めた。雪と母親に当たらないよう、鼓太郎が一歩前に出て盾になる。

「テツっ!!」

「今は何を言っても無駄だ。母親に怪我をさせないよう、ここは引こう」

 隙を鼓太郎は雪の手を引っ張って抜け出した。2人とも黙ったまま、夜の街を走っていく。雪は最初に糸を見た時よりさらに青ざめ、少し放心していた。

 見慣れた看板は目に入り、鼓太郎は少し安心したように息を吐く。出るときに雪が鍵をしたはずの布屋の裏口の戸はすんなり開き、中は少し明るかった。2人はそのまま布屋へ入る。

「雪、こんな夜にどこに行って……って鼓太郎も一緒だったのか」

「時枝さん……帰ってきていたんですね」

「帰ったら雪がいないから心配したんだよ。それで……何があったんだい」

 2人の様子を見て時枝は何かを察し、真剣な顔つきになる。鼓太郎は話そうとして口を噤んだ。テツの母親の病縁については雪に口止めされていたからだ。

「雪」

 時枝は雪に目線を合わせて静かに名前を呼ぶ。その一言だけで、時枝が状況の説明を求めていることは鼓太郎にも雪にもわかった。

「すみません、時枝さん……僕はまだ……っ」

 雪は涙ぐんで拳を震わせていた。その手に握られた鋏を見て、時枝さんは落ち着いた様子で雪の頭を撫でる。

「使ったのか。……しかし切れなかったんだね?」

「すみませんでした。僕が半人前なばかりにっ」

 ボロボロと雪は泣き出してしまう。その様子を心配そうに見る鼓太郎に時枝は少しだけ微笑んだ。

「この子は縁が見えるけど触れないんだ。だから、切りたい縁を切ることはできないんだよ」

「……そうだったのか」

 あの縁を切りたいと雪はずっと思っていただろう。普通は見ることができない縁を切るという、人ならざる力が働いているのだ。きっと簡単なことではない。鼓太郎は気軽に提案をして、雪を困らせてしまったと酷く後悔した。

「それで、何を切ろうとしたんだ」

「それは……」

 泣いてうまく話せない雪の代わりに鼓太郎はテツとテツの母親について話をした。鼓太郎に病縁が見えたという事実を聞いて一瞬時枝は息を呑んだが、状況把握が先だと話を優先する。話が落ち着く頃には雪も涙が止まってきており、話ができるようになっていた。

「雪。何故言わなかったんだい」

「…………っ」

「雪」

 時枝は諭すように雪の名を呼ぶ。雪は力無く目を伏せて静かに告げた。

「テツのお母さんの病縁は、1,2本ではありません。全身にかなりの本数が繋がっておりました」

「なるほどねぇ……」

「それ故、時枝様にお頼みすることは出来なかったのです」

 鼓太郎は口を挟めず、ただそのやりとりを聞いていた。切る縁の本数に何か意味があるようだが、2人で話が進んでいるようだったので、黙っているにとどめた。

「それでも、悪縁を見たのなら報告は必要だったよ。アンタの気持ちはわかるけれど、裁ち屋の人間として見過ごせない失態だ」

「……すみませんでした」

「とにかく縁を早く切らないとねぇ。誤解も解かなければいけない」

 時枝は上着を羽織り、ささっと支度を整えた。そして部屋の奥から少し大きい包みを取り出す。包みは鼓太郎が持つことを申し出て、受け取った。それは両手で包めるほどの大きさの包みだった。いくよ、と雪に時枝は声をかける。雪は青白い顔のままテツの家に向かう時枝の後ろを歩きはじめた。

「雪。そんなに辛いなら休んでいた方がいいんじゃないのか?」

「いえ……僕はちゃんと見届けなければいけませんから」

 その言葉の意味は鼓太郎にはわからなかった。しかしその決意を尊重しなければいけないと本能的に思う。かすかに、雪の震えた声が聞こえてきた。

「……綾瀬家の血も縁切り鋏もここにあるのに……っどうして……」

「…………」

 口を一度開いて、何も言えずに閉じた。自分より幼い子供が難しいことを悩み苦しんでいるのに、鼓太郎は声をかけられない。そんな自分を、とても無力に感じていた。



ーーー

「ここだねぇ」

 テツの家に着くまでさほど時間はかからなかった。時枝はトントン、と小さく戸を叩いて扉が開くのを待っている。テツは扉を少し開けてすぐに閉めようとした。

「ちょいと。待ってごらんよ」

「いやだ!!! 母ちゃんを傷つけようとしたくせに!!!」

 戸を閉める手を時枝が止めて優しく微笑む。テツは一瞬手を緩めてすぐに鋭い目つきに戻った。

「鼓太郎。包みをこちらに」

 時枝に呼ばれて鼓太郎は持っていた包みを時枝に差し出す。重さと感触から鼓太郎には中身は何か大方見当がついていた。時枝に目配せされ、鼓太郎が包みを開く。そこには淡い桃色の着物が入れられていた。ところどころは強い色で濃淡がしっかりしており、可愛らしい花びらが端に描かれている。

「これはお母様に。きっと似合うよ」

「こんなの買う金なんてない」

「贈り物さ。お代は取らない」

 テツは何度か警戒するように着物と時枝を見る。時枝はテツから視線をはずさなかった。

「次着替えるときに着たらいいよ。ただ、今の着物がほつれているみたいだねぇ……これで少し直してもいいかい?」

「……いいよ」

「お邪魔するよ」

 懐から金色の鋏を取り出し、時枝はテツに少しだけ見せる。絶対に傷付けはしないから、という言葉を眼圧だけで時枝は伝えてしまった。了承を得ると母親のそばにそっと座る。

「すぐ終わるからねぇ」

 シャキン、シャキンと音を立てて時枝は病縁を切っていく。切られた瞬間、縁と縁から垂れているように見えた液体はすうっと空気に消えていった。

「はい。終わりだよ。またほつれたら持ってきておくれ」

 最後の縁までささっと切り、時枝はみんなに向き直る。縁の数は20ほどに見えた。鼓太郎が本数を数える間も雪は鼓太郎の後ろで震えている。

「すごいな、あんなに美しいのか」

 時枝のその手際の良さに鼓太郎は見惚れてしまっていた。気がつくと奥の方にいたテツが近くに寄ってきている。申し訳なさそうに俯く雪の顔を覗き込んだ。

「雪はなおそうとしてくれたのか?」

「……えっと」

 なおす、とは着物のほつれを指していることだろうが、雪がなおしたかったものは違う。言葉に迷っていると肯定と取られたのかテツが頭を下げてくる。

「ごめんっ!! オレ、ずっと間違いばっかだ」

「違うよ、テツ。僕こそ悪いんだ」

 2人は謝りあって仲直りをする様子を、鼓太郎はぼうっと眺めていた。鼓太郎が雪くらいの歳のことを思い出し、懐かしい気分になる。その側でテツの母親は穏やかに眠っていた。

「完全に切れている。医者が力を尽くせば、母親はきっと元気になるよ。もう大丈夫。だから、帰ろうか」

 そう言って微笑む時枝の様子は、鼓太郎にとってとても頼もしく見える。縁を切る力はやはり特別で、それを持つ人間はこんなにも力強く、余裕に溢れているのかとただただ感心していた。


ーーー

 後日、テツの母親が例の着物を見に纏い、店に訪れた。臥せっていない彼女は陽の光の下で溌剌としている。桃色の着物がとてもよく似合っていた。

「あの日から徐々にですけれど、楽になってきまして。こうやって出歩けるようにまでなりました」

「それは良かったねぇ。着物、とてもよく似合ってるよ」

 彼女はテツの手を引き、店を回っている。テツは恥ずかしそうで嬉しそうだった。

「テツ。また学舎でね」

「おう、今日も頑張れよ!」

 2人の関係は良好のようで以前よりもお互いを分かり合えるようになったと雪は嬉しそうだった。

「雪、鼓太郎。少し真面目な話をしようか」

 テツと母親を見送り、静かになった店内で、時枝はいきなり切り出し始める。雪は表情をこわばらせ、鼓太郎も真剣な目を向けた。

「あれほどの病縁はな、自然にできるものではない」

「…………」

「つまりは誰かしらが意図的にあそこまで育てたということになる」

「そんな……縁に関われる人が、2人の他にもいるってことですか?」

「綾瀬家の人間は何も私たちだけじゃあないよ。まあ無関係だろうがね。……縁に関する歴史はとても古い。だから全てを語ることは今はできないけれど、私達のように縁を切る業があれば、紡ぐ業もある。もうしかしたら紡ぐに携わる誰かが、今回の悪縁に関わっているのかもしれないねぇ」

「縁を紡ぐ……」

「裁ち屋は悪縁を切り、紡ぎ屋は良縁を紡ぐ。それが本来あるべき姿だけれど、当主の考えよって常にそうとは限らないのさ」

 縁を切る裁ち屋の現当主は時枝だ。時枝はもちろん縁について悪事を働いてはいない。

「それと鼓太郎。綾瀬家でもないアンタに病縁が見えたとなると少し厄介なことが起こるかもしれない」

「厄介なこと……? 俺に見えるからと言って何か影響があるんでしょうか?」

「何がってことは今はわからないけれど、ちょいと注意が必要になるだろうねぇ。紡ぎ屋にちょっかいを出されるかもしれないし、見えるということ自体が普通であれば有り得ないことだから」

「そうですね……。記録に残っている昔の話ですが、縁が見える無関係な血筋の人間が、裁ち屋と紡ぎ屋の片方に増えると取り合いになったり、足の引っ張り合いになったりしたこともあったようです」

雪が考えるような仕草をしてそう言った。時枝も黙って頷いていることから、何かしら文献が存在するのだろうと鼓太郎は理解する。

「縁が見えることしか今はわからないが、鼓太郎は何か特別な意味を持っているのかもしれないよ」

「特別な意味……」

鼓太郎は自分の手元を見て首を傾げる。ただ平凡に生きてきただけだった鼓太郎には俄かに信じ難い話だった。

「そうだ。縁切りの新しい依頼が来ていてねぇ、鼓太郎にもいてもらいたいんだけど、明日の夜にここに来てもらってもいいかい?」

時枝は一枚の紙切れを見せて鼓太郎にそう告げた。ひょんなことから踏み込んだ世界はものすごい勢いで広がろうとしている。鼓太郎はもちろん、と頷いた。

「2人の力に……なるかはわからないけれど、縁のことや知らない世界についてもっと知りたいです」

「よし、決まりだね。……ただ、その道中は慎重に行動するんだよ。もうしかしたら何か悪いこともあるかもしれない」

時枝のその言葉が数度、鼓太郎の中で響いた。その意味の深さを全く感じ取らないまま、鼓太郎は明日の夜のことに意識を向けていた。


続く

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