第16話 ピアノの怪談って怖いというよりロマンチックだったりする。
階段を上り、ふと空を見た。月が綺麗だ。
そういえば、こっちの世界も夏なんだな。そんなことをふと思う。学校の怪談といえば夏だもんね、と心の中で呟いた。
音楽室に近づいていくと、もうピアノの音が聴こえる。「随分主張が激しいな」と伯父さんが呟いた。確かこの曲は、『運命』だ。たぶん上手なんだろうが、とにかく主張が激しい。
ドアを開けると、そこには普通に男子生徒がいた。
「おっそーい!! なんでこんなに遅かったの!? 花子ちゃんの時からスタンバってたのに!!」
ピアノの音が止み、代わりにそんな声が響く。
私たちは呆然とし、口を半開きにした。「もうほんと手痛くなったぁ。何回ダダダダーンしたと思ってんのよ」と男子生徒が嘆く。私たちは更に目を丸くした。
「何、その顔。アタシの顔になんかついてるわけ?」
「おとこ……の、こ?」
「そうよ! 何よ、悪い? アタシは男だけど、心は女なの!」
「失礼しました」
一旦ドアを閉める。伯父さんは顎に手を当てて「花子さんのくだりからずっと弾いてたのか。悪いことしたな、先にこっち来ればよかった」と話した。それどころじゃないですよ、と父が眉をひそめる。
「何でしょうか、今の」
「何でしょうかってそりゃあ、そういうことだ。本人が言ってたろ」
「とりあえずもう一回開けるね」
もう一度音楽室に入ると、男子生徒は「なんで一回閉めたの?」と怪訝そうな顔をした。私たちは「気にしないで」と口々に答える。
「えーっと、お名前をお伺いしても?」
「十文字頼太郎」
「ありがとう」
じゅもんじらいたろう、とオウム返しして父がびっくりしていた。伯父さんはナチュラルに「頼太郎、まず出迎えにピアノ聴かせてくれてありがとうな」と言っている。
「いいのよ。アタシ、ピアノ好きだし」
「上手いな、ピアノ」
「わかるぅ?」
頼太郎くんがつかつか歩いてきて、伯父さんをまじまじと見た。それからいきなり指さして、「あなたは絵を描くのが好き」と当ててみせる。伯父さんはびくっとして、「ああ……まあ、昔はな」と歯切れ悪く肯定した。
「どうして描かなくなったの? 描けなくなっちゃったの?」
「…………」
「あなたの絵、好きだったのに。『彼女』」
突然口元に手を当てた伯父さんが、一歩後ずさる。頼太郎くんは伯父さんを追い詰めるように一歩前に出て、「何をそんなに怯えているの?」と尋ねた。伯父さんはまた後ずさる。
咄嗟に私は二人の間に入って、「頼太郎くんは私たちに何かお願いがあるの?」と訊いた。頼太郎くんはぽかんとして、「ないわよそんなの」と言う。
「ああでも」と言ったその顔は意地悪そうな色を帯びていた。
「あなたの絵、アタシに一つちょうだい。それでクリアにしてあげる。お題は……あなたが描きたいものなら何でも」
そう、伯父さんを指さした。
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また美術室に戻ってきた私たちは、とりあえず何も描いていないキャンバスを探し出してスタンドに置く。
「絵を描けって言われてもな……」
「大丈夫だよ、伯父さん! 伯父さんならできる!」
「お前、俺の絵なんか見たことないだろ」
残念ながら見たことがあるのだ。さっき、たぶん伯父さんの若いころの夢を見た。その時にしっかり伯父さんの絵を見たのである。
しかし伯父さんはひどく自信なさそうに腕を組んでいた。まあ上手な人ほど簡単に描けるものじゃないのかもしれない。
「何を描くんですか?」
「何でもいいんだろうから、無難に……この美術室でも描くか」
別に求められていないが、暇つぶしに私も描こうとその辺の画用紙を持ってくる。「全員で描く流れですか?」と言いながら父も筆を持った。
私は力作を作り上げ、ふと父の画用紙を見て吹き出す。「やばー、何それ。何? ヤギ?」と問えば「犬ですが」と返答があった。どれどれ、と覗いた伯父さんが「ひどすぎる……」と絶句する。
「佳乃子も孝利もひどすぎる。そんなに絵心がなかったのか……。正直、目くそ鼻くそだぞ」
「嘘でしょ!? これよりはいいって絶対!!」
「佳乃子ちゃんも、絵上手ですね」
「一気に自信なくなっちゃった」
それから私たちは伯父さんのキャンバスを覗き込んだ。
「うわー、奥行きがある」
「平面の世界から来たのか?」
「遠近法って格好いいですよね」
「遠近法は格好いいからとかそういう理由で使う技術じゃない」
黙っていてくれ、と伯父さんは顔をしかめる。私と父は顔を見合わせ、口の前に人差し指でばってんを作った。
どうやらひと通り描き終えたらしい伯父さんが、「つまんない絵だな」と呟く。私にはひどくよく出来た絵に見えたので、ちょっと首を傾げた。
「まあ、いい。とりあえずこれを提出してこようか」
「頼太郎くん、別に何も指定してないしね」
私たちはいそいそと音楽室へ戻り、頼太郎くんに会いに行く。頼太郎くんはやはりというか、ピアノを弾いていた。
「もう出来たの? アタシ、不合格にする気満々だけど大丈夫?」
「大丈夫じゃないんですけど。せめて見てから言って」
「どれー」
私たちは伯父さんが描いた絵を頼太郎くんに見せる。頼太郎くんはそれを「ふむふむ」と見て、後ろの方へ投げ捨てた。
「ハイ不合格ー!」
「理不尽では??」
「凡作凡作。価値がない」
「言いすぎだって!」
「そもそもアタシが出したお題、全然クリアしてないし」
頼太郎くんは伯父さんに近づき、「『あなたが描きたいもの』ってアタシ言ったの、聞いてた? あれがあなたの描きたいものなの?」と問う。伯父さんは珍しく震えた声で「お前は」と頼太郎くんを睨んだ。
「お前は、弾きたい曲を弾いているのか?」
頼太郎くんは目を丸くし、それからムッとして何か言い返そうとする。しかし思い直したようで「中学生に当たるなんて正気?」と伯父さんを煽った。
「何はともあれ不合格です。バイバーイ」
頼太郎くんが手を振った瞬間、床がなくなる。あまりに突然のことだったので、私たちは悲鳴を上げながらそのまま落ちた。
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蝉の声が聞こえる。むせかえるような潮の香り。どこまでも高い青空に、両手を広げてもそれより大きな白い雲。
『一緒に帰ろ、江良くん』
アイスキャンディーを片手に、少女がそう言った。
自転車を片手で押しながら少年はペットボトルの飲み物を口に運び、それから口元を雑に拭う。返事はしなかった。ただ、少女の横を歩く。
『江良くんって、ほんと授業中ずっと寝てるよね』
『だからなんでずっと見てるんだよ』
少女ははにかんで、『好きな人だからだよ。ずっと、あなたが好きだからだよ』と話した。『知ってたでしょ?』と少年のことを見る。
少年は自転車にまたがって、『悪い、今日用事があった』と漕ぎ出そうとした。少女はそれを察知して、素早く自転車の後ろに乗り込む。それからぎゅっと少年の腰に抱き着いた。
『バカっお前……ここ、坂だぞ』
そう言って少年が必死にブレーキを握りしめる。
『返事は!?』
『なに!?』
『告白の、返事は!?』
言葉に詰まった少年が『君の親御さん、怒るだろ』と言った。少女は少年の腰を抱きしめる腕に力を込める。
『江良くん』
『なんだよ!』
『私のこと、好き!?』
『だから……』
『江良くんは、私のこと好き!?」
ブレーキの利き始めた自転車は、それでも風のように坂を下っていった。少年と少女の髪を揺らす。
少年は自棄になったように口を開き、『好きだ』と叫んだ。
『好きだ、奈津。大好きだ』
軽やかな少女の笑い声が響く。『やったー!』と叫んだのを、少年が呆れたように、だけどひどく幸せそうに聞いていた。
「世界で一番幸せな日だった」
そんな声が聞こえて私は振り向く。少女の面影を残した女性が、微笑んでふっと消えた。私は「待って」と手を伸ばす。蝉の声が、潮の香りが、少しずつ遠くなっていった。
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目を覚ます。例のごとくと言うか、一番最初の教室だった。伯父さんと父も起きていて、「久々に死んだなぁ」と呟いている。
「ここは一度、彼に話を聞くべきじゃないでしょうか」
「ああ……美術室の絵の女性みたいに、話を聞いているうちに色々条件が出てくるパターン?」
「そうかもしれないな」
言いながらも、伯父さんはどこか『そうじゃないだろう』という顔をしていた。本当は何をするべきかわかっていながら、だけどそうしたくないのだという表情だ。私はそれを珍しく思いながらも、一旦父の提案に乗ることにした。
音楽室に行き、頼太郎くんに声をかける。
「あら……もう出来たの?」
「ううん。頼太郎くんと話そうと思って」
「あっそ。でもアタシからのお題はたった一つよ。あなたの描きたい絵。それ以外に指定は何にもないの」
残念だったわね、と言いながら頼太郎くんはピアノの前に座った。私は困惑しながらも「じゃあ頼太郎くんのこと聞かせて」と頼む。
「アタシのこと?」
「うん。頼太郎くんってどうしてここにいるの? この世界に、ってことだけど」
「ああ……大体察しがついてるでしょうけど、アタシって死んでるのよね。学校でイジメられて自殺したの」
「聞いちゃってごめん……」
「別にいいのよ。アタシ、死んだあとでイジメてきたやつ全員祟り殺したし」
「こわすぎ」
私は伯父さんを見て、「命の重さについて教えてあげて」とお願いした。伯父さんは眉をひそめて「俺の持ちネタみたいに扱うのはやめてくれ」と言う。
「アタシと話しててもいいけど、あなたたち自分の身体に帰りたくないの? まあ身体が死にかけてる人は別としても、後の二人は自分の身体が心配じゃないわけ? 魂抜けてんのよ?」
「それって何かまずいのかな」
「そりゃまずいでしょ。身体の方になんかあったら、もう戻れないんだからね?」
頭を掻いた伯父さんが、「そりゃあ困るな。描いてくるから早いとこ合格点をくれ」と言って音楽室を去って行った。私たちも追いかけようとしたが、頼太郎くんが「ちょっとはあの人のこと、一人にしたら」と言ってくる。でもペナルティがあるかも、と言ったら「それは今ないわ。アタシのステージなんだから信じてよね」と頼太郎くんは頬杖をついた。
「ずっと一緒だったんでしょ、あなた」
「うん」
「ずっと一緒でも知らないことがたくさんあったでしょ」
「……うん」
「それってあの人が、一時も気を抜かずにそれをあなたたちから隠してたってことよ。ずっと取り繕って。それってすごいしんどいと思わない?」
「…………」
「ずっと一緒にいることが愛の証だと思っているなら、いつまでもお子ちゃまね。愛っていうのは時に手放すもんなのよ」
「頼太郎くんって中学生じゃないの?」
「中学二十年生ぐらい」
私はちょっと納得して、そのまま音楽室で伯父さんを待つことにした。父もかなり気まずそうな顔をしながら私の隣にいる。頼太郎くんは簡単そうに何か曲を弾きながら、「あなたたちも不思議な関係ね」と言った。
「頼太郎くんってさ」
「なぁに」
「弾きたい曲が、あるの? さっき伯父さんが言っていたから」
ふっとため息をついた頼太郎くんが、「あなたの伯父さんがクリアできたら、アタシも本当に弾きたい曲を弾いてあげる」と話す。
それから私たちは頼太郎くんのピアノを聴いた。頼太郎くんは色んな曲を聴かせてくれた。私たちはそのたびにパチパチと拍手をする。「もっと盛り上がっていいのよ」と頼太郎くんは昔流行ったようなJポップなんかも弾いてくれた。父が「懐かしいですね」とコメントして少し機嫌が悪くなる。
「伯父さん、遅いなー」
「さっきよりずっと時間がかかっていますね」
そんな話をしていると頼太郎くんがくすくす笑って、「何かを表現するって大変なことなのよ」と言った。
数時間が経ち、頼太郎くんも「疲れたからお菓子食ーべよ」とクッキーを出してくる。私たちにもくれた。
さらに数時間、頼太郎くんは音楽室に布団を敷く。私たちもその場で寝ころび、すっかりリラックスしてしまっていた。
「なんでこんなに時間かかってると思う?」
「手の抜けない作品ってあんのよ、絵描きには」
「それにしたって、って感じじゃない? これ、現実世界でどれぐらい時間経ってるのかな」
「あなたが思ってるほどではないわね。最初に『彼女』から言われなかった? ほんのちょっとの時間稼ぎなんだって。たぶん……十分にもなってないんじゃないかしら」
「マジ??」
父は正座で「それじゃあ……まだ時間稼ぎとしては足りない可能性もありますか」と真面目な顔をしている。「だからってずっとここにいるわけにもいかないでしょうね」と頼太郎くんは呟いた。
「あなたたちはこの状況のデメリットについて正しく認識していないけれど、たとえば魂の抜けた身体に別の魂が入っちゃう可能性だってあるわけ。時間がかかるほど魂と肉体の繋がりって希薄になるしね」
「そうなんですか……」
「あなたの伯父さんに関しては身体が死にかけだから、わざわざそこに入ろうとする魂もいないだろうけど。でも彼には別の問題があるわね」
「何?」
「それほど強く、帰りたいと願ってない」
私はちょっと黙って、「それは私も薄々感じてた」と白状する。何でなのかな、と思わず頼太郎くんに相談してしまった。
「あなたはその理由を見ているんじゃない?」
「……前からなんだよ。前から、伯父さんって自分のことなんかどうでもいいみたいに言うし、自分のことなんかどうでもいいみたいなことするんだよ」
「自分のことなんかどうでもいいんでしょう」
「なんで」
「さあ……だけどそこの人みたいに、人生の長い時間を自分のことばかり考えて大切なことに気づけなかったのと、どっちが幸せかわからないわね」
突然話を振られた父がうなだれて、「僕は不幸なのではなく、ただの馬鹿です」と自己申告した。私はちょっとでも父のことを肯定するようなことは言いたくなかったが、仕方ないので「だけど自分のことも大切にするべきだよ」と言う。
「ねえ、あなたの言う『自分のことを大切にする』ってどういうことなの?」
「えっ……」
「自分のやりたいことをやるってこと? 夢を叶えるとか?」
「それもそう」
「じゃあ伯父さんがすごく危ないことだけど、夢だから絶対にやりたいんだって言ったら賛成する?」
「う、うーん……」
「案外そういうことが生きがいになる人なのかもよ」
「それはちょっと……どうだろう……」
「じゃあ伯父さんに長生きしてほしいの? 生きがいも何もなくて空っぽでいつも無気力で、それでも長生きするならいい?」
「そんな質問、意地悪だよ」
「じゃあもう一個意地悪なこと聞いちゃう。伯父さんが、『もうお前たちの面倒を見るのは疲れたんだ。離れて暮らそう』って本心から言ったら、どうする? あなたは伯父さんに、自分のことを大切にしてほしいんでしょ?」
「……伯父さんはそんなこと言う人じゃないよ」
「でも、言ったら?」
あたふたしながら、父が「あまりいじめないでいただいて」と頼む。頼太郎くんは「あなた黙ってて」と父に人差し指を突き付けた。
どうだろう、と私は思う。私の中で自分を大切にする、というのは『あまり無茶をしない』とか『健康に気を遣う』というレベルの話だった。たとえば伯父さんが、私たちのいないところで生きがいを見つけたりして、そうして私たちを重荷に感じたら。たとえばの話でなく、すでに私たちは伯父さんにとって重荷なんだろうか。
否、重荷でないわけがなかった。
私は、言えるだろうか。あなたは私たちを置いて行っていいのだと。あなたは私たちのことなんか何も気にせず、自分の幸せだけを考えていいのだと。
そんなことすら言えないくせに『自分のことを大切にして』なんて言えてしまうのは、あまりにも幼稚で愚かなことのように思えた。
不意に音楽室のドアが勢いよく開く。どうやら走ってきたらしい伯父さんが、ぜえぜえ言いながら入ってきた。
「佳乃子! どうして泣いてるんだ!?」
「……何でもないよ!」
あら、と顔を上げた頼太郎くんが「出来たの?」と尋ねる。「できた」と伯父さんは答えてキャンバスを伏せながら頼太郎くんに差し出した。
頼太郎くんはそれをひっくり返して見て、「ふうん」と呟く。それからちょっと離して見たりして、けらけら笑った。
「これにこんな時間かけたの?」
「…………」
「どんな力作が来るのかと思った。さっきの絵の方がよほど大変だったんじゃない?」
「……描けなかったんだ。お前の言うとおりだ。俺は絵が描けない。それでも何とか描けたのがそれだ。まともに描けるようになるまで描き直すか?」
「そうしたい?」
虚を突かれた様子の伯父さんが「そうしたい? って……」と呟く。頼太郎くんはちょっと意地悪そうに笑って「この絵が合格か不合格か、あなたが決めていい」と言った。
「……そんなこと言われたら、大抵の絵描きは不合格と言わざるを得ないだろうな」
「そう? アタシはアタシの演奏を、いつも合格百点満点って思ってるけど」
「合格と言ったら本当にそれでクリアできるのか」
「できるわよ。でも、ねえ……あなた、自分が何時間これ描いてたかわかる?」
伯父さんはきょとんとして、「そんなに経ってたか」と私たちに尋ねる。何と答えていいかわからず、私と父は顔を見合わせた。
「あなたはずっとそうしたかったはずなの」
「何の話だ」
「この夢から覚めたらあなたは死ぬかもしれない。最期に描く『彼女』が、これでいいの? あなたの頭の中にある、一番綺麗な『彼女』はちゃんと表現できた?」
見るからに狼狽し、伯父さんは視線を彷徨わせる。「いいのよ、アタシは。いつまでだって待ってあげる。ここではあなたのやりたいだけやっていいのよ」と頼太郎くんが伯父さんを励ました。
伯父さん、と私は呼びかける。私だっていくらでも待つが、それはそれとして伯父さんの挙動が少し不安だった。
「……あの世でやるよ」
ふと、伯父さんはそう言った。自嘲気味に笑って、「佳乃子を家に帰さなきゃならん。早くクリアさせてくれ」と瞬きをする。
「久しぶりに絵を描いたのは楽しかった。しんどくて楽しかった。俺は描きたいものを描いたよ。ずっと描きたかったものだ。満足のいく出来じゃなかったのは確かだが、だからといってそれが駄作だとは思わない。それは彼女だ。全て愛しい」
「……あなた、いつだってそういう選択をするのね」
一瞬目を閉じた頼太郎くんが「いいわ。案外ロマンチストなのね。合格にしてあげる」と笑った。
ピアノの前に座った頼太郎くんは「約束だし、アタシが好きな曲を弾いてあげるわね」と言う。やがて流れ出した曲に、父が「ああ……G線上のアリアだ」と呟いた。私も聴いたことがある。確か、中学の卒業式で流れた。
「アタシ、好きな男の子がいてね。昔はよく遊んだの。この曲は小学校の最終下校時刻に流れる曲で、そうするとアタシたちは帰らなきゃいけないからちょっと寂しかった。それから小学校の卒業式にも流れたわね。アタシとその子は、中学に行っても友達でいようねって約束した。アタシは本当は友達じゃない関係がいいって思ったけど、そんなこと言えないじゃない? そういう、切ない思い出なのよ」
美しい音色が響く。優雅で上品で、少しだけ不安定だ。
私は思わず、「ねえ」と話しかけてしまう。「演奏者に話しかけるなんて」と頼太郎くんは眉をひそめた。
「いじめっ子を祟って殺したなんて、嘘なんだよね」
「……どうして?」
「だって頼太郎くんは優しいもん」
「馬鹿みたい。そんなことしそうになくても、するのが人間でしょ」
「でもやってないと思う。やらないプライドを持ってる人だと思う」
頼太郎くんは吹き出して、「プライドとか!」と笑う。「そんなもんないわよ」と。ひとしきり笑ってから目尻を拭い、「はぁ……意味わかんないこと言われてびっくりしちゃった」と肩をすくめた。
「アタシをいじめてる中に、アタシが好きだった男の子がいた。小学生の頃はあんなに仲が良かったのに。その子のこと、祟って殺してやりたいと思った。でも出来なかった。そんな力、元々なかったの。それだけ」
ひどい話ですね、と父が真面目くさって言う。「あなた喋んない方がいいわよ」と頼太郎くんが指摘した。
「でも、会いたいって思うのよ。そんな子でも、好きだったから。何か訳があったのかもしれないしって思うわけ」
「……何か訳があったとしても、きっとその子は頼太郎くんにふさわしくないよ」
カラッと笑った頼太郎くんが「ありがとっ」と言う。それから、伯父さんの方を見て「あなた、本当に色んなことが不器用だけど子育ての才能だけはあったんでしょうね」と片目をつむった。伯父さんはため息をついて「これはこの子が持って生まれてきたものなんだ」と私の頭をぽんぽんと叩く。
「バイバイ。伯父さん、助かるといいわね」
「ありがとう頼太郎くん。色々……話も聞いてくれて」
「? 何の話をしたんだ」
「女の子同士でしか話せないことだよ」
「そういうわけでもなさそうでしたが……」
「あなたは黙ってて」
はい、と言いながら父はしょげていた。「伯父さんに言えない話って、彼氏か?」と伯父さんは目を見開いている。これに関しては伯父さんも黙っていてほしかった。
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