第15話 ギミック壊すと、「詰んだか?」って思うよね。
随分歩いてきたはずなのに、宿直室に戻る扉はすぐそこだった。伯父さんを先頭に、また足場を上っていく。
「こっちの声、聞こえてたりしてないよね?」
「ああ。ただ何らかの修羅場を迎えていたのはわかったよ。佳乃子が見たこともないほどキレてると思ってたんだ」
「そりゃキレるよ。言っとくけどずっとキレてるよ」
「…………」
そんなことを話しているうちに、宿直室に戻ってくることができた。正直最初に虫の大群が現れた時が一番怖かった。
「ここで二つ消化したとすると……あと三つか」
「ちなみに、七不思議の七つめって何だか思い出した?」
伯父さんと父が顔を見合わせる。
「うち、二宮金次郎像ないしな」
「『深夜の学校に行くとある教室で死んだ教師と生徒が授業をしている』という話があった気がします」
「七つめにしては弱いよね」
「まあ順番は俺が適当に言っただけで、花子さん辺りが七つめだったかもしれんからな」
「それはそっか」
じゃあ次はどこへ行こうかと話しながら廊下に出ると、何かカタカタと物音が聞こえる。しかも、すごい速さで近づいているようにも思える。
三人同時に音の方を見て、目を凝らした。
「人体模型が」
「走ってきている?」
「…………走れ!」
私と伯父さんが走り出す。一瞬遅れて父も私たちを追いかけてきた。
ちょっと振り向いてみたが、人体模型は想像以上のスピードで走ってきている。「やばい! 速い!」と叫んだ。
「どこまで逃げればいい!?」
「わからん。とりあえず校舎三周してから考えよう」
「無理だって!!」
走りながら考えている様子の伯父さんが「人体模型ってことは理科室か? そこに何かあるといいが……」と呟いている。伯父さんはランニングに余裕があるようだ。私はいっぱいいっぱい。父に至ってはどんどん遅れてきた。
「おい酒蔵のせがれ! 体力がなさすぎるぞ!」
「いつも経理しかやってません!」
ついに人体模型に腕を掴まれた父が、悲鳴を上げながら押し倒される。人体模型が馬乗りになり、父は「やめて……痛くしないで……」と泣いていた。
舌打ちをした伯父さんが方向転換をし、人体模型の方に走っていく。そのままの勢いで父の上に乗っている人体模型を、何の迷いもなくぶん殴った。
鈍い音が響いて、人体模型はバラバラに崩れ散らばっていく。そして動きを止めた。
「おい、立てるか」
伯父さんが父に手を差し伸べる。父はそれを呆然と見て、なぜか虚ろな目をし、「ああ」と呟いた。「ひどい気分だなあ」と。
私もようやく追いついて、肩で息をする。
「壊した!?」
「……壊れた」
「その言い訳はさすがに無理がある」
父はうつむきながら、「バラバラになってしまった」と人体模型の残骸を見る。
「どうして僕を、助けたんです」
「どうして?」
ぽかんとした伯父さんが、「ああ」と合点がいったように手を打って「お前に刺されたんだったか。忘れてた」と言った。
「いや、まあ……どうしてってことでもないだろう。お前だからどう、ってことでもないし。『お前のことだけを助けない』ってほど俺はお前を憎んではいないしな」
ちょっと長めのため息をついた伯父さんが父を助け起こしながら「人づてに、お前が仕事を辞めたと聞いたとき」と話し始める。
「正直、ざまあみろと思ったよ。俺も若かったからな」
「…………」
「今この歳になれば、あれも全て俺の自己満足だったとわかる。お前の話もそれなりに聞くべきだった……聞いても殴ったろうが……」
「結局、殴ったんですか」
「殴ったろうな。まあでも、時と場所があったと今では思うよ。そしてそれ以降一切和解しようとしなかったのも大人げなかった。ここまで至ってしまったのは、俺の責任でもある」
伯父さんの肩を借りて立ち上がった父が、放心の顔をして伯父さんを見た。伯父さんはそんな父を見て、「なんだその顔は」と笑う。
「……あの頃、お前も知っての通り俺と七美は二人きりで暮らしていた。親もいなかったしな。結婚する前、お前は言ったんだぜ。『七美さんを大事にします』『幸せにします』と。もうお前は覚えていないかもしれないがな」
「……いえ……そうです……」
「そして俺はお前に、『妹を幸せにしてやってくれ。こいつはずっと我慢を重ねてきたんだ』と言ったはずだ」
父が言葉に詰まり、唇を噛む。唾を飲み込む音がした。
「お前は、親もなく金もない家の女だから七美を女中のように扱ったのか?」
「それは違っ……」
「本当か? 本当に、七美を下に見ていなかったと断言できるか?」
淡々と、伯父さんは問いかける。父はひどい顔をして、ただ黙っていた。ふっと目を逸らした伯父さんが「今のお前にあの頃のお前のことを聞いても実際のところはわからんな」と呟く。
「あの頃お前は余程のことがなけりゃ食いっぱくれない家だったし、周りからは玉の輿だって言われたもんだ。それで『何があっても我慢しないと』と誰より考えていたのは七美だろう」
「……そうなんでしょうか。そう……なのかもしれない……」
「あの時、お前は『夫婦の問題だ』と言った。俺が殴り込みに言った時だ。お前からすれば、嫁に来た以上七美は自分の家の者になったという認識だったかもしれない。だがそれでも、俺にとって七美はたった一人の家族だった。だからそれが……自分でも不思議なくらいに腹立たしかった。そして今に至るまで俺はお前のことを、女を殴るクソ野郎とだけ思ってきた。そこにお前の境遇や環境というものを一切加味してこなかった。七美はずっと『あの人はただ弱くて臆病なだけ』と言い続けていたが、俺はそうは思えなかった。弱くて臆病なだけの人間がなぜ女を殴るか理解できなかったからだ。ただ……」
伯父さんが何か迷うような素振りで口を閉ざした。父はもうずっとうつむいている。「ただ、」と伯父さんはようやく口を開いた。
「そういえばお前は、俺に殴り返しては来なかったな。七美のことを殴っておきながら、俺のことは。そうして今日、お前は丸腰の俺に包丁持って突っ込んできた。それで……その時、お前のことが少しわかった気がしたよ。そうか、弱かっただけなのか……孝利。お前は、弱くて臆病で、そしてそれを今に至るまで誰にも許されなかったのか。だから必要以上に攻撃的で、被害的になってごまかしていたんだな。なんだ……それがわかっていれば、俺たちはもっと話が合ったかもしれないのにな」
父の嗚咽が漏れる。「すみませんでした……ごめんなさい……すみません……」と弱々しい声が響いた。父の背中を軽く叩いた伯父さんが、「こんな話が十七年前に出来ていればもっとよかったが」と話す。
「俺たちはみんな若かった。お前も、俺も七美もだ。致命的なほどに若かった。もうこれで終わりにしよう……佳乃子も、わかるな。たとえ俺が死んだとしても、こいつを憎んだりするな」
私は何も言えなかった。でも伯父さんの言うことだから、頷いた。
「あ、あなたは……死ぬんですか? この夢が覚めたら、あなたは」
伯父さんはきょとんとして、「そんなもんわからん。運の話になるだろう」と肩をすくめる。
「俺は死ぬかもしれん。まあ……『これじゃあもう助からないだろうなあ』とあの時思ったしな。どちらにせよ、お前はこれからかなり長い時間を塀の中で過ごすことになるだろう。お互い、痛すぎる教訓になったもんだな。怒りや憎悪でよく考えずにやったことは、必ず自分から
「……死にます」
「ん?」
「刑が確定する前に……死にます……裁かれるまでもない。僕に生きる価値なんてない……本当はあなたも、そう思っているはずだ」
沈黙が辺りを包んだ。伯父さんは父に向き合う形で父の両肩に手を置いて、深い深いため息をつく。それから、父を殴り飛ばした。
「知るか、そんなもん」
私はこの話の流れでいきなり父が殴り飛ばされたこと、そして伯父さんが今までになくハキハキと滑舌よくなったことに驚く。父も転がって頬を押さえながら呆然としていた。
「ちょっと目線を合わせただけで甘ったれやがって。何が『僕は死んだ方がいい、あなたもそう思っているんでしょ』だ。知らん、そんなもん。勝手にしろ。いいか? お前が命を絶とうと、罪を償った後でのうのうと幸せになろうと、俺には関係ない。そんなことで俺の生死は変わらないからな。好きなようにしろ。俺を理由に使うな、自分で決めるんだ」
伯父さんは片膝をついて父の顔を見ながら「孝利」と叱りつける。「お前の今後のことなんて俺は知らん。ただ、逃げるな。自分でやったことには自分で責任を取れ」と顔をしかめた。
「いいか、孝利……いいか。俺の目を見ろ。お前は長い間塀の中で過ごすことにはなるだろう。だが、たとえ俺が死んだとしてもそれで死刑なんかにはなるまい。どうして人を殺してもただちに死ぬことにならないかわかるか? なぜ命に命で贖うようになっていないのか。お前は生きていて、生きている命はそれだけで誰のだって重いからだ。お前が他人の可能性や将来性ごと殺しても、お前自身の可能性は死んでない。お前は命の重さってもんがわかってなさすぎる。事ここに至って、お前が死んで解決する話なんてもうないんだぞ。それでも死にたいなら勝手にしろ。さっきも言ったが……お前が死のうが生きていようが、何も俺たちのためにはならないんだ」
もう一度ため息をついた伯父さんが、父に右手を出す。「お前を殴るのも立たせるのも、結構疲れるんだよ」とちょっと嘆いた。父はぐずぐずに泣いていて、ただ伯父さんを見上げている。
「俺も、お前の立場なら死ぬしかないと思うだろうな」と伯父さんは言った。「そうしたいならそうしろ。ただ、『それで誰も救われない』ということだけは覚えておけ」と続ける。父は唇を噛んでうつむき、「はい……」と答えた。
「立たないと置いて行くぞ」
「何も言わずに置いて行っても……いいのに」
「何度も言わせるなよ。お前だけを置いて行く理由が俺にはない」
父が、伯父さんの右手を掴んで立ち上がる。「いい大人がそんなに泣くなよ」と笑う伯父さんとめそめそ泣いている父は、どこか兄弟のようにも見えた。
私は――――正直、納得できないでいた。私はたぶん、父のことを許せないだろう。伯父さんが死んでしまったら尚更だ。私はきっと父を許さない。いつかどこかで父が幸せに暮らしているということを聞いたら、それをめちゃくちゃにしたいとすら思うだろう。それじゃあ父と同じだ。『やっぱり私はこの人の娘なのかもな』と今更思う。伯父さんのように到底笑って許せない。そのことが私をひどく暗い気持ちにさせた。
「どうした、佳乃子」
「……嫌なこと考えてた。私って嫌な子だから」
「そんなこと言うなよ。お前はいい子だよ。なんてったって、俺の可愛い姪っ子だぞ。手塩にかけて十七年だ」
「ね。だからいい子なはずなのにね」
伯父さんは私の髪を撫でて「いい子だよ、お前は」と囁く。私は泣きそうになりながら伯父さんの服をぎゅっと掴んだ。
「でも、伯父さん」
「たとえ嫌なことを考えていても、それをしないのがお前だ。それに、お前はここまで俺を助けたいとばかり言っている。優しい子だな。嬉しいよ」
私のことを抱きしめて、伯父さんが「心配するな。大丈夫だよ。いつか、『こんなこともあったね』って笑えるさ」と言う。
「でもさっき、伯父さんが自分で『もう助からない』とか言ったじゃん……! やめてよぉ、やだよぉ……」
「よーしよしよしよしよし」
「よーしよしよしじゃない」
なぜか父の方を振り向いた伯父さんが「そんなこと言ったっけ、俺」と尋ねた。父は心底答えにくそうにしながら「はい……」と言う。
「落ち着け、佳乃子。もう十分時間は稼いだろう。今頃救急車が到着して、病院に運ばれている頃だ。そうすればもう助かったも同然だし、何も心配することはない」
「気休め言うならせめてもっと本気の顔して。半笑いで言うのやめて」
「いや本当に。俺も別に死にたくはないしな」
そう言った伯父さんが私の背中をさすり、「だから帰ろう、佳乃子」と笑った。私も涙を拭って、何とか頷く。
「でもね、」
「ああ」
「一つ問題があるじゃん? ずっとこの長い時間放置してきたけど」
「なんだ?」
私は床に散らばった人体模型を指さし、「七不思議の一つ、壊れてんだけど」と言い放った。伯父さんが明らかに『やべ』という顔をして、「つまり『何もしていないのに壊れる人体模型』という七不思議だったんじゃないか」と言い出す。どうにか器物損壊の容疑を免れたいようだった。
「これじゃあクリアできないんじゃない?」
「これでクリアってことにならんか……」
「ならないと思うよ。伯父さんは一回洋館でRTA失敗してるからね。慎重になった方がいい」
「あーるてぃーえー?」
腕組みして考えていた伯父さんだったが、「一旦後回しにしちゃダメか」と言う。私もちょっと悩んで、「まあステージ移動したら復活してるギミックかもしれないしね」と肩をすくめた。「そんなことあるんですかね……」と父は不安そうにしたが、私はホラゲにはちょっと詳しいのだ。
「じゃあ、どこ行く?」
「とりあえず場所が定まっているのは音楽室だろうな」
「夜中にひとりでに鳴っているピアノ、ですか」
「もう今更ピアノが鳴っているぐらい何も不思議じゃないよね」
そう言いながら歩いて行く。音楽室は二階にあるらしい。
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