第14話 怖くないよ。怖くないけど精神衛生上問題があるよ、虫は。
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「ボッコボコにされてたけど大丈夫?」
「子どもってのは容赦がない」
ボールをぶつけられたらしい左腕をさすりながら伯父さんは肩をすくめる。「まあ、あいつらも遊び方がよくわからなかっただけなんだろう」と言った。それで済ませることができるレベルかと私は首を傾げる。
「さて、次は……」
「すぐそこに宿直室がありますが」
「ああ。開かずの扉か」
立ち止まり、私たちは『宿直室』というプレートを見上げた。「宿直室って何? 先生が泊まるの?」と私は尋ねる。
「ああ……今は宿直室自体ないことも多いよな。俺たちの頃も、部屋があるだけで実際には使われていなかったように思うが」
「たまに試験期間なんかで家に帰れない時に使う、と言っていた教師はいましたよ」
「五十年や六十年も前には学校の先生が泊まって警備したって話だけどな」
「そうなんだ」
伯父さんはガラガラと引き戸を開けて、宿直室に入る。「で、この部屋の奥には絶対に開かない扉があるって噂だったんだ」と言いながらどんどん奥へ進んでいった。
寝床らしい和室を横切ると襖で区切られた部屋があり、確かにその奥に景観にそぐわない金属の扉がある。伯父さんは躊躇いなくそのドアに手をかけた。
以前洋館で自分の人形を引きちぎった時もめちゃくちゃびっくりしたけど、トライアンドエラーが過ぎるんじゃないかと私は思う。
扉は開いた。その瞬間、何か黒光りする小さな虫が何百と解き放たれ、畳を這い回る。
「ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!! 違うじゃん!! 虫でびっくりさせんのは話が全然違うじゃん!!」と私はその場に尻餅をつきながらキレた。
隣で父も腰を抜かして「虫だ! 気持ち悪い!」と叫んでおり、私は思わず「虫ぐらいでビビるんじゃない!」と怒鳴る。伯父さんが顔をしかめて「佳乃子、そんな至近距離でブーメランを投げるのはやめなさい」とたしなめた。
ドアの向こう側に床はなく、ただ底の見えない空洞だった。足場らしきものはあるので、下に降りろということらしい。
「今日イチ行きたくない。主に衛生面の問題で」
「しかしはぐれればまたペナルティがあるかもしれません」
「行くしかないかぁ……」
「…………」
「同時に俺の方見るのやめろ」
仕方なさそうに、伯父さんが一番手で降り始める。私は父を睨んで、「伯父さんを助けるためのゲームで伯父さんを頼りきるなんてことしていいのは姪っ子の私だけなんだけど」と言い放った。父はちょっとたじろいで、「僕は別にあの人が助かればいいとは思っていないので」ともごもご言う。私が「は?」と言うのと同時に伯父さんが「喧嘩してないで降りてこい」と冷静に声をかけてきた。
二人で降りていくと、伯父さんは「色々言いたいことはあるが、とりあえず佳乃子はこいつに突っかかるのをやめなさい」とたしなめる。「伯父さんはもっとこの人に突っかかった方がいいよ。毎秒『何でいるの?』って問いただすぐらいした方がいい」と私は真剣に言った。
「さて、ここは……なんだ?」
目の前に現れたのは、長い長い廊下である。壁にはこれまた長く続く鏡が設置してある。
「とりあえず歩いていけばいいのか」
「終わらないやつだったらどうする? ループ系の」
「一番嫌だなそれ」
言いながら、しかし伯父さんは迷いなく歩き出した。私は何となく鏡に触れる。この暗い道で、鏡だけは妙に明るく見えた。
不思議な感覚だった。鏡は妙に生暖かく、液体のような感触がある。「利香!」と言いながら父が腕を掴んできた。「だから私は利香なんて名前じゃないんだって」と言って腕を振りほどこうとした瞬間、私と父は一緒に倒れ込んだ。
起き上がると、鏡はそこにあったが伯父さんしか映っていなかった。もう一度触れてみたが、冷たいし固い。
「あれ、私たち映ってない。映ってるの、伯父さんだけだ」
私は振り向く。父がどこか唖然とした顔で鏡を見ていた。しかし、そこに伯父さんの姿はない。
鏡の中の伯父さんが、戸惑いながら鏡を叩きまくっている。私は咄嗟に「伯父さんがどっか行っちゃった」と呟いた。父が「いや、違う」と私の手を掴んで立たせる。
「僕らが鏡の世界に来たんだ」
「あ、そういうこと?」
「七不思議の一つ、『異界に通じる鏡』なのかな」
「あー……それかぁ」
伯父さんはこちらに向かって何か話していたが、諦めてジェスチャーで『とりあえず先に進むぞ』と伝えてきていた。
私はちらっと父のことを見る。正直、最悪な気分だ。よりにもよって、この人と二人きりになってしまった。
「か、佳乃子」
「呼び捨てやめてくれます?」
「佳乃子……ちゃん」
まあよかろう、と私は父をじろじろ見てから鼻を鳴らす。ふと鏡の方を見ると、なんか伯父さんがウケてた。こっちのやり取りが聞こえていたわけではないだろうが、おおよそ察しがつくような光景だったのだろう。それにしてもなぜこの状況で笑っていられるのか。
「なんだ、あの人は。頭がおかしいのか?」と父が言うので、さすがに一発殴るよと言いそうになった。また伯父さんの育て方が、と言われるとムカつくので何とか堪える。
「あのさ、さっきから自分の立場わからなすぎじゃない? そもそも伯父さんのこと悪く言う資格ある? あなたが今まで何してたか知らないけど、私はここまで伯父さんとお母さんに育てられたし、私のことちゃんと愛してくれてたのはあなたじゃなくて伯父さんだよ。絶対」
伯父さんに聞こえていないなら気を使う必要なんて全然ない。私は徹底抗戦の意思表示をする。父は一瞬ぽかんとして、「愛? あれが愛なんですか?」と見当違いなことを言い出した。
「あれが、世間で言う『愛』なんですか? 誰もがああじゃないといけないんですか? 本当に?」
「何言ってんのかわかんないんですけど」
「僕から見ればあの人のは意地だし狂気だ。あるいは、誰かを幸せにしなければならないという呪いだ。気持ち悪いと思わないんですか?」
怒りより呆れの方が勝って、私はちょっと言葉を失う。それから何とか口を開いて、「自分の奥さんすら大切にできなかったくせに、伯父さんのこと悪く言わないでよ」と父の足を蹴った。
「いてっ……。僕も、ここに来て少し認識を改めた。君はきっとあの男に大事にされてきたんだろう。でも、だからこそ気持ちが悪いじゃないか。誘拐犯だぞ?」
「何が誘拐犯だ! まだ言ってんのか! 現実見ろ!」
「いてっ、いてっ……あの男がしたことは行き過ぎた正義感だと思わないのか!?」
「あなたが人を刺すようなヤバいやつだってわかった今、やっぱり伯父さんの判断は間違ってなかったんだって確信を持ってますけど??」
父は言葉に詰まり、分が悪いと判断したのかそのまま黙る。まだ言い足りない私も、鏡の向こうで伯父さんが『巻き』のジェスチャーをしているのを見て萎えた。巻きって何? 別に遊んでるわけじゃないんですけど?
終わりの見えない廊下を延々と歩く。本当にループしているんじゃないかと思い始めた。伯父さんの方でもそんな考えがちらついているようで、時々後ろを振り返ったり辺りを見渡したりしている。
「あなたも本当はわかってるんでしょ?」と私は口に出していた。父は黙って私を見る。
「伯父さんを刺したの、間違いだったって。とんでもないことしたんだって」
立ち止まった。私も父も、その場でじっとお互いを見る。たぶん、伯父さんが怪訝そうに見ていることだろう。
ふと先に目を逸らした父が「……刺すほどのことじゃなかったのは確かだ」と呟いた。「僕は間違えていたのだろうと思う」と、続ける。
「自分でも……どうしてここまで……僕は十七年ずっとあの人を恨んできたが、それすら見当違いの逆恨みだったのなら、頭がおかしくなりそうだ。僕が……僕が全て悪かったのか……? ただ、何かが変わると思ったんだ。あの人さえいなくなれば、人生は少なくとも今よりいい方に何か変わると思いこんでいた」
泣きそうになりながら、私は「病気だよ、そんなの。それで話も聞かずに刺したの?」と叫んだ。父は一瞬答えあぐねて、しかし「あの人だって、十七年前僕の話なんて聞かなかったじゃないか」と伯父さんを指さす。
「同じことだと思ってるの……?」
「…………。いや……いや……そうだ……僕が、僕が……悪かったのか…………」
うつむき、「話なんかしても無駄だと思ってた。ずっとあの人が怖かった」と父が言った。私は瞬きをする。涙がこぼれ、頬を伝った。
突如として、廊下に終わりがくる。行き止まりだった。それ自体は喜ばしいことだったが、しかし何もないというのが問題だ。私たちはここから出るすべを知りたかったのだ。
伯父さんはというと、どこか上の方をしきりに見て何か頷いていた。私たちの方には何もないが、伯父さんの方にはあるということだろうか。
そして伯父さんは右手をそっと鏡に当てる。私が首を傾げてみせると、伯父さんは自分の右手と左手を合わせ、それからまた鏡に右手を当てた。『わかるか?』という顔をする。私は自信がないながらも頷いて、伯父さんの手に重なるように自分の左手を鏡に当てた。
何も起こらない。伯父さんは『違う違う』というように首を横に振る。
「鏡だから、逆なのかもしれませんね」と言った父が右手を伯父さんの手に重ねた。
途端に鏡は歪み、液体のように波打つ。境界線が曖昧になり、私たちはまた鏡に呑み込まれた。
目を開ければ、倒れ込んだらしい父が伯父さんの腕の中にいる。私は咄嗟に立ち上がって「そこ私の場所なんですけど!?」と口走った。
「……まあ、その……何だ。とりあえずここから出るか」
「はい……」
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