第11話 そしてまた私たちはゲームを始めた。

23


 次の日、伯父さんは昼頃帰ってきた。「遠藤んちで寝てた……」と言いながらすぐさま布団にダイブする。母が呆れながら「もう一泊する?」と尋ね、伯父さんは頷いた。

「気持ち悪い……」

「もう若くないんだから、無理な呑み方しちゃダメよ。水飲んで」

「寝てていいか? 爺さんが呼んだら起こしてくれ」

「しょうがないなあ」


 母は私に肩をすくめてみせて、「というわけだから帰る用意はしなくていいわよ」と言われ、私は頷く。

「外、出てきていい? 色々見て回りたい」

「いいけど、暗くならないうちに帰って来なさいよ。ほんと真っ暗になるんだから、この辺」

「わかった」

 私は財布だけ持って外に出た。空はどこまでも青く、蝉がすごく鳴いてる。


 防波堤の上を歩けば、昨日泳いだ海が見える。穏やかな波とぽつぽつ人の足跡が続く砂浜。真っ青な空に飛行機雲。風が吹いて、私の髪を揺らした。向こうから自転車を押した小学生たちが歩いてくる。

 夏だな、と思った。無性にソーダ味のアイスが食べたくなるような、そんな夏がそこにあった。

 母も伯父さんも、こんな夏を何度も繰り返したのだろう。何だか羨ましかった。


 道中あったコンビニでソーダ味の棒付きアイスを買って、店の外で食べる。明日家に帰るのが惜しかった。


 しばらく歩くと、商店街がある。活気があるとは言えないが、シャッター街になっているわけでもない。私は肉屋でメンチカツなんかを買い食いしながら歩いた。

 お店の人に「久米酒蔵ってどこにあるかわかりますか?」と尋ねると、親切に教えてくれた。


 そうして私は、その酒蔵の前に立っていた。中に入るつもりはない。ただ、それらしい人物が顔を出さないかと覗いてみたりした。むしろ人の影が少しでも見えたらそれで満足しようと思っていた。

 しかし酒蔵から人は出て来ない。私は「うーん」と唸り、ただ待っていた。そのうち天気が怪しくなったことにも気づかなかった。


 数分後、雨が私の頬を打った。先ほどまでの晴天から一転、雨雲が太陽を隠している。天気雨だろうか、雨脚が強い。

 私は諦めて帰ることにした。しかし要二おじいの家まではちょっと遠すぎる。何とか途中で雨宿りしようと建物を探した。


「君! 君……利香か?」


 突然声をかけられて、私は本気で「いえ人違いです」と返してしまう。声をかけてきていたのは眼鏡をかけた男の人で、「あっ」と慌てた風に首を横に振った。

「佳乃子……だったか。そうだ。そうだろう? 君は、久米佳乃子というんじゃないか」

「……あなたは?」

「僕は……僕は君の」

 父親だ、とその人は言った。瞳に涙を溜めながら、ひどく感激した様子で言った。「どうだろうな。君は僕のことなんか何も知らないかな? 久米孝利というんだ」と早口で話す。

「……こんにちは。はじめまして」

「うん……大きく、なったね」

 ずっと会いたかった、と父は言った。

 私はどうだろうか。この人に、会いたかったのだろうか。


「どうかな、雨が上がるまでうちで。近くなんだ」

「ごめんなさい。母に言わないと」

「七美は元気かい?」


 私はちょっと黙る。「彼女とも、もう一度話がしたいな」と父は苦笑した。

「そんなに緊張しなくていいんだよ。君のおじいちゃんやおばあちゃんにあたる人もいるし……お小遣いとか、あげたがるんじゃないかな」

「間に合ってますんで……」

 今になって私は、母に言わずに父の家を探したことを後悔していた。この人は母を殴った人なのだ。もし尾行でもされて母の場所がバレたらどうしよう、と焦る。


 私は「ごめんなさい、ほんとに。急いでて」と言いながら背中を向けた。父は私の腕を掴み、「僕と君は親子なんだ。それで、こうして初めて会えた。やっとだ。話をしよう」と必死な顔をする。私はひたすら「ごめんなさい」と頭を下げた。


「いい加減にしろ」


 父の腕を掴んだのは──いつの間にそこにいたのだろう──久志伯父さんだった。

 私の腕を離した父が何とも言えない表情で伯父さんを見る。伯父さんは父に対して冷たい目を向けながら「二度とこの子に近づくな」と吐き捨てた。それから伯父さんは私の手を引いて歩き出す。

「くそ、頭が痛い……」

「ごめん……伯父さん、私……」

 伯父さんは持っていた傘を私に寄せながら「自分の父親がどんなだか見たくなるのは普通のことだ。ひと声かけてくれてたらもっとよかったけどな」と言った。それは私も反省していたので、「ごめん……」とまた呟く。


 不意に伯父さんが後ろから左腕を掴まれたようで、「しつこいぞ」と言いながら振り向いた。そうして咄嗟に目を丸くする。

「……は?」

 私もそれを見て、思わず「え……?」と呟いていた。


 伯父さんの左脇腹に、包丁が突き刺さっている。


 父が伯父さんの胸の辺りを掴んで、包丁をぐっと奥へ押し込んだ。伯父さんの手から傘が落ちる。

「っ……!」

 私は声も出せずにその光景を見ていた。伯父さんは自分の脇腹を押さえながら「お前……自分が、」と父を見る。

「何をしているかわかっているのか……?」

 父が包丁を抜いた。その場に血が落ちる。それは真っ赤な墨汁みたいだった。私はようやく「あっ……」と声を出す。それから父が、私の腕を掴んで引っ張った。


「佳乃子っ」


 伯父さん、と私は叫ぶ。伯父さんは一歩二歩と歩いて、その場に膝をついた。そのままゆっくりと横向きに倒れる。

「離して! 離してよっ」

 父は立ち止まり、「あの男が!」と怒鳴った。

「あの男のせいで僕は仕事を辞めることになった。その上、七美とお腹の子を連れていなくなったんだ。十七年もだぞ! 身内だからといって、そんなの誘拐だろう!?」

 私は呆然としてしまって、「何言ってんの……?」と言ってしまう。

「あんたがお母さんのこと殴ったからでしょ!?」

 力が緩み、私は父の手を振り切った。父は震えた声で「大袈裟なんだ……医者の診断書まで取って……」と言っている。私はそれを無視して、倒れている伯父さんに駆け寄った。


 伯父さんはかろうじて目を開けている。雨に打たれた身体が冷たい。呼びかけると微かに口が開いて、「ああ……」と返事があった。

「しっかりして、伯父さん」

「傘はどこだ? 七美のなんだ」

「あるよ。大丈夫。そんなことより、伯父さん」

「よかった」

 そう言って伯父さんは目を閉じる。それ以降、声をかけても身体を揺らしても反応はなかった。

 私は携帯電話を出して電源を入れる。雨が画面を叩いて操作しづらかったが、何とか緊急通報を押した。すぐに繋がって、私は「どっ……どうしよう、伯父さんが刺されちゃった。死んじゃう……死んじゃうかもしれない……」と訴える。

 死んじゃうかもしれない。私は自分の言った言葉で青褪めた。死んでしまうかもしれないのだ。これはゲームなんかじゃない。何が起きてもやり直しなんかできない。伯父さんはこのまま、死んでしまうかもしれない。

『落ち着いてください。救急ですね?』

 いきなり携帯電話を取り上げられ、私は「やめて! 返して!」と父の腕を叩いた。父は私の携帯電話をどこかへ放り投げる。私は泣きながら、「許さないから! 許さない、人殺し!」と叫んでいた。伯父さんに覆いかぶさって泣く。どうにか身体を温められやしないかと抱きしめた。


〈ゲームがしたいの、江良くんの姪っ子ちゃん。変な体質してるね……おかげで、ようやく干渉できた〉


 そんな声が聞こえて、私は思わず「へ?」と顔を上げる。そこには白いワンピースを着た女性が立っていた。不思議なことに、雨粒の一つ一つが動きを止め、その瞬間何の物音も聞こえなかった。ただ女性だけがにっこり笑いながらこっちを見ている。

「な、なんだ……これは……」と言った父が周囲をきょろきょろ見渡していた。


 女性は伯父さんに近づいて、〈老けたね江良くん〉と前髪をかき上げる。

〈今もいろんなものを背負いながら、戦ってるんだね〉

 私は瞬きをして、「あなたは誰?」と問いかけた。女性はそれには答えず、〈ゲームがしたいの、姪っ子ちゃん〉とまた聞いてくる。私は首を横に振って、「伯父さんを助けたいの」と答えた。

〈……私も江良くんのこと、助けてあげたいけど〉

 女性は困った顔をする。それから腕組みして〈うーん〉と考え込み、パッと顔を上げては〈じゃあやっぱりゲームをしよう、姪っ子ちゃん〉と言ってきた。


〈あなたたちの時間だけを止めてあげる。ほんの数分の時間稼ぎだけれど〉

「ほ、ほんとに?」

〈うん。でも、注意して。彼はきっとあの世界に囚われるから、あなたがちゃんと連れて帰ってね〉


 どういうことなのか聞く前に、世界は光に包まれる。やがてキンコンカンコンと鐘の音が聞こえてきた。


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