第9話 わたしのなつやすみ。

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 山での騒動があってから、私はすぐに夏休みに入った。伯父さんはといえば、今まで通り毎日毎日仕事に明け暮れている。

「ねー伯父さん」

「パンツで歩くんじゃない、佳乃子。ちゃんとズボンを履きなさい」

「今年の夏はまさか山行かないよね? もう山は無理。伯父さんが断然山派だって知ってるけど今年は無理。海行こうよ、海」

「……海か。まあお前たちだけで行ったらどうだ」

「何でそんなに頑なに海を避けるの? 泳げないの?」

「そういうわけじゃない。ただ俺は今年仕事を休みすぎているから、旅行なんて行けないな。お前たちだけで行くといい」

 私はぶうたれて、「お母さん!」と矛先を変えることにした。

「伯父さんが泳げないからって海に連れて行ってくれない」

「そんなこと言ってないだろ……」


 母はどこか遠くを見ながら頬杖をついて「そんなに海に行きたいなら連れて行ってあげるわよ」と言う。

「ほんと?」

「そりゃそうよ。海ぐらい、あんた……いつだって連れてくわよ」

「そうなの??」

「ええ。……要二おじさんのとこに行きましょう」

 私が何かを言う前に、伯父さんが立ち上がって「何を言っているんだ?」と口を挟んできた。


「お兄ちゃんは行かないんでしょ? 黙ってて」

「あの街には二度と帰らないって言ったろ」


 ため息をついた母が「この前BBQで要二おじさんに会ったでしょ」と肩を竦めてみせる。

「一年に一度ぐらい墓参りに来たらどうだ、って。私もそりゃあそうねと思ったのよ」

「あの人だってこっちの事情をわかっているだろうに……」

 お兄ちゃん、と母はなだめるように伯父さんの手を握った。

「もう十七年も経っているのよ。お父さんのお墓に行って、『これがあなたの孫ですよ』って挨拶したいじゃない。それで、『この街でお母さんと伯父さんは生まれ育ったのよ』って佳乃子に言いたいじゃない。ね? 佳乃子が大人になる前に」

 伯父さんは腕を組んで、一切拒絶のスタイルを見せる。伯父さんがそこまで頑ななところを見たことがなかったので、私はぽかんと口を開けてしまった。「いいですよ」と母は唇を尖らせる。

「佳乃子と二人で行きます。お兄ちゃんは死ぬまで故郷に帰らず仕事をしていればいいわ」

「……なんだってお前はそう、意固地になるんだ。お前たちが行くなら行くよ……決まってるだろ……」

 根負けした伯父さんが、本気でうんざりしたような顔をした。母はちょっと眉をひそめて、しかしすぐに「ありがと、お兄ちゃん」と言ってリビングを出ていく。どうやら伯父さんの気が変わらないうちに準備を始める気らしい。

 母を追いかけて行った伯父さんが「一泊だぞ! それ以上滞在しないからな!」と釘を刺しているのが聞こえた。



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 車のウィンドウを開け、私は「海だ!」と叫ぶ。ハンドルを切る伯父さんが「そんなにいいか? 海が」と小さく毒づいた。

「懐かしい。あの駄菓子屋、まだあるわよ」

「時が止まったみたいな街だな。何も変わってない」

 母ははしゃいで、伯父さんはどこか忌々しそうに言う。


 要二おじいの家に着くと、要二おじい本人や親戚の人たちが出迎えてくれた。

 ちなみに要二おじいは母や伯父さんのお母さんの兄、私にとっては大伯父ということになるそうだ。要二おじいには子供が五人もいて、孫は六人いるらしい。この日出迎えてくれたのは三家族だった。


「よー来たな。おうおう佳乃子。お前彼氏出来たか?」

「つい一か月前もそれ言ったよね?」

「一ヶ月もありゃあ、子供なんてすぐ変わるからな」

「そんなことないって」


 母が「伯父さん、お世話になります」と頭を下げる。「いいんだよ、こっちが来いっつったんだから」と要二おじいは大らかに笑った。

「久志も来たんかい」

「悪いか」

「いや、俺ぁ感動してんだよ。てっきりお前は来ねえかなぁと思ってたから」

「なんで今まで来なかったかわかるか?」

「もう昔の話だろうが」

 伯父さんはため息をつき、「いや……そうなのかもな」と肩をすくめる。

「世話になるよ。一泊だけどな」

「そう言うなって。夜通し酒飲んだら明日帰れやしないだろ」

「だから飲まない」

「飲めって」

 玄関先で押し問答を始めた要二おじいと伯父さんを尻目に、母は勝手に中に入った。私も母について行き、はとこなどに軽く挨拶する。


 私たちのために用意された部屋で荷物を下ろしながら、「なんで伯父さん、あんなに来るの嫌がったのかな」と尋ねてみた。母は「ああ」と呟き、エアコンのスイッチを入れる。

「それは孝利くん……あんたのお父さんを警戒してるのよ」

「警戒? とは?」

 母は言いづらそうにして、「まあいろいろあったから」と言葉を濁したが、私ももう十七だ。それに、以前洋館で見た伯父さんの記憶から何となくは察していることだった。

「お父さん、暴力振るう人だったんでしょ?」

「! どうしてそれを……お兄ちゃんがそう言ったの?」

「そうじゃないけど……私だってちゃんと、何があったか知りたい」

 母は目を伏せて、「まあ……そうね。そうよね」と頷く。


「彼、悪い人じゃなかったのよ。気の弱い人だったけど、優しかったし」

「すっごいどこかで聞いたことある。その台詞」

「でも職場で上手くいってなかったみたいで、毎日お酒飲むようになってね。それで、『君しかわかってくれる人はいないんだ』って泣きながら殴るようになって」

「最悪だ」


 ため息をついた母が、「それで久しぶりにお兄ちゃんと会った時」と続ける。

「『お前その痣はどうした』って言ってきて、私もつい『夫婦喧嘩で』って答えたんだけど、『殴り合いにまでなる喧嘩か?』って不審がって」

「そりゃそうだよ」

「そしたらお兄ちゃん、その場で私の服脱がせてね。ほんと、変なところ勘が良くて思い切りもいいから。そしたら『こんなに痣ができてる』って絶句してて、私もちょっとびっくりしちゃった。自分の身体にこんなに痣があるなんて思わなかったから。なんだか気が動転しちゃって、『痣はこんなにあるけど、実際はこんなに殴られてない』って言っちゃった。お兄ちゃんは私がおかしくなったと思ったみたい」

「……普通にDVじゃん……引いた……」

「それでお兄ちゃんはすぐ私を医者に連れて行って、その次の日には孝利くんの職場まで行って孝利くんのこと殴って帰ってきたの」

「そうなの!?」

「思い切りがいいのよ、お兄ちゃんは。良くも悪くも」

 私は若干聞かなきゃよかったと思いながらも、「それで離婚したの?」と確かめる。母は頷いて、「すぐ実家に帰ってお兄ちゃんと二人で暮らしてたのよ。でも」と自分の右頬に手を当てた。

「あの人……お兄ちゃんが仕事行ってる時に家に来て『頼むから帰ってきてくれ』って泣きながら押し入ろうとするもんだから、警察沙汰になってね。お兄ちゃんが『この町を出るぞ』って言ったの。それからずっと、こっちに帰ってきてない」

「伯父さんの思い切りの良さすごい」

「あの時は『何もそこまで……』と思ったけど、結果的にはよかったんでしょうね。あの頃はなんだか感覚が麻痺しててあの人に殴られても大したことじゃない気がしたけど、あの人は佳乃子にも手を上げていたかもしれないんだし」

「お母さん……」

 遠い目をした母が、「でも私、あの人のことを可哀想とも思うのよ。あの頃は本当に追い詰められていて、心の病気だったのかもしれないって。今ではそう思ったりする」と話した。

「……お母さんが気にすることじゃないよ」

「そうだけど、一度は夫婦にまでなったんだから。もしかしたら支え合っていけたのかもなって思うのよ」

 思い切り伸びをした母が「まあ、もう十七年も前の話よ。今ならばったり会ったって挨拶ぐらいはできるでしょう」と言う。そういうもんかな、と私は思った。

「じゃあやっぱり私ってこの町初めてなんだ」

「そうね。……あっ」

 思い出したように、母は目を見開く。それから口元に手を当てて、「そうね。そうよ、初めてよ」と言い直した。「あれ? もしかして来たことある?」と私は問い詰める。

「えーっと……」

「何? 何なの?」

「あんたがまだ赤ちゃんだった時、ね。なんでだかお兄ちゃんがこっちで警察に保護されて、あんたを抱っこしながら迎えに来たことがあったわ。まあ、ノーカウントね」

「何そのエピソード??」

「私にもよくわかんない……。迎えに来た時お兄ちゃんはびしょ濡れだったし、何も喋んなかったし、あの時は『この人、働きすぎておかしくなっちゃったのかしら』って怖かったけどお兄ちゃんも次の日からいつも通りだったし、今まで忘れてた」

「めっちゃ怖ない??」


 そんなことを喋っていると、「あのじじい、本当に元気だな」と言いながら伯父さんが部屋に入ってきた。

「お兄ちゃんどこに寝る? ドアから近い方がいい?」

「お前、俺を頻尿の老人扱いしたな……」

「だってお酒飲むでしょ?」

「飲まない」

 はいはい、と言いながら母はテキパキと荷解きした。伯父さんは逆に出かける準備をしながら「行くぞ、墓参り」と急かす。

「墓参り行って、海に行く。それで満足なんだろ」

「ほんと、忙しない帰郷だわ」

「ここら辺の海って綺麗?」

「衛生面の話してんなら、少なくともゴミとかは落ちてなさそうだったぞ」

「景観の話ならまあまあ綺麗よ。楽しみにしてなさい」

 私は水着を引っ掴みながら、楽しみにすることにした。

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