第8話 そして私たちはゲームをクリアした。
18
目を開ける。私と江良くんは『先生』の書斎の中でドアに手をかけ、硬直していた。
「……江良くん」
「ああ。俺たち、殺されたよな。あいつに」
「江良くんも覚えてるんだ」
私は深呼吸をして、「殺されたのは江良くんだけだよ。私は自分で死んだの」と申告する。「なんで?」と言われたので、「江良くんがいないとクリアできそうにないし」ときっぱり答えた。
私は今まで、あの人のことを伯父さんではない別人だと考えていた。しかし先ほどの反応から、それは間違いであるということに気付いた。あの人は確かに伯父さんだ。私のことを傷つけようとはしなかった。
「ねえ、江良くん」
「何?」
「どうして伯父さんは、江良くんのことを襲ったのかな」
江良くんはため息をつきながら、書斎の机の上に飛び乗って腰かける。「未来の俺のことなんか何も知らないよ」と瞬きをした。
「でも……何となくならわかる」
「教えてよ」
「俺さ、全部の記憶を知ってるわけじゃないって言ったろ? 本当は、いい思い出しか知らないんだ。たぶんな」
「伯父さんの……いい思い出だけ?」
「そう。言っても、他に比較対象がないからさ、たぶんこれって全部いい思い出なんだろうなって考えるしかないんだけど」
私は相槌を打ちながら先を促す。江良くんは少し考えて、かみ砕いた説明をしてくれた。
「漫画雑誌ってあるだろ。色んな漫画が載ってるやつ」
「毎週とか発売されるやつだ。連載の」
「そう。それで、『今週はほとんどつまんなかったけど、でも一つだけ神回の漫画があった』ってことがある」
「うん」
「雑誌は重いし嵩張るから、全部つまんなかったんなら捨てられるけど、その一作のせいで捨てられない。そんな時にさ、『いっそ全部つまんなかったらよかったのに』って思ったりする。だから……ちょっとだけわかるんだよ。あいつが俺のこと殺そうとするの。俺、本当にいい思い出しかないんだ。そしたらあいつはその逆かもしれないだろ?」
しばらく考えて、私は頷く。それからドアに手をかけて「江良くんはここで待ってて。私一人で伯父さんと話してくる」と言った。
ドアを開ける。「佳乃子」という声が聞こえて、伯父さんが近づいてきていた。思った通り、包丁を振り上げるなどの素振りは見せない。
私はすっと息を吸い込み、「問題です! ででーん」と宣言した。伯父さんは立ち止まり、目を白黒させる。
「私が生まれて初めて喋った言葉は何でしょうか!」
伯父さんは顔をしかめ、「何だ……急に」とちょっと後ずさった。
「いいから! 答えてよ」
「……どうして」
「制限時間つけるよ?」
「どうして……思い出せないんだ……」
瞬きをし、私は続けて「伯父さんが今までで一番楽しかった時のこと話して」とねだった。伯父さんは顔を歪ませて、「何もない」と呟く。まるで敗北宣言のようだった。
「俺は……本当に偽物なのか?」
私は首を横に振る。
「ひどいこと言ってごめん。伯父さんは偽物なんかじゃないよ。ただ、足りないの。私が絶対取り戻してあげる」
伯父さんは何か言いたそうにして、しかしすぐにうつむいた。私もちょっと目を伏せて、「でも教えて」と拳を握る。
「私と一緒にいて楽しかったことも嬉しかったことも覚えてないなら、どうして私のことを連れ戻そうとするの?」
顔を上げた伯父さんが、どこか遠いところを見るような目つきをした。それから困ったような顔をして「そうだな」と口を開く。
「確かに、お前との思い出といえば……お前が夜遅くまで帰って来なくて近所中探し回った時とか、お前が自転車でこけて膝を血だらけにして帰ってきた時とか、友達と喧嘩して泣きながら俺の部屋で眠った時とか、そんな日のことばかりだ。だけど……だからこそ、お前が危ない目に合うのを見過ごせるものか」
涙を堪えながら、私は「一時間待ってて。そしたら一緒に帰ろう」と言った。伯父さんは目を細めて、「そうか。俺は邪魔になるんだな?」と苦笑する。
「邪魔じゃないよ。どんな時も、私は伯父さん頼りだよ。今だって」
「ああ……いや、そうだな。わかった。俺はここで待っているよ」
伯父さんは目をつむり、「行きなさい。危ない時には呼ぶんだぞ」と言った。私は頷き、一度書斎に戻る。
江良くんは机に腰かけたまま私のことを待っていた。
「伯父さんと話した。今のうちに部屋を出て、二階に行こう。伯父さんが江良くんを見て襲ってくる可能性はあるから……もう秒で移動ね」
「了解」
私がドアを開け、江良くんが飛び出す。そのままわき目も振らずに階段を駆け上がっていった。私も伯父さんに「また後でね」と言って階段を上がる。
また、子ども部屋の探索を始めることにした。
「ねえ、江良くん」
「何だよ」
「私が生まれて初めて喋った言葉、知ってる?」
そんなことを十歳の子供の姿をした江良くんに訊くのはかなり恥ずかしかったが、江良くんは何でもないことのように「桃、だろ」と答えた。
「知ってるよ。お前が初めて立った日も、歩いた日も、俺に大好きだって言った日も。幼稚園の運動会も、小学校の入学式も、お前が作文で表彰された時も。知ってる。ってことは、あいつは覚えてないんだろうな。それってすごく可哀想な話だ。こんなに嬉しかったのに」
はたと私のことを見て、江良くんは「泣いてるのか?」と尋ねてくる。私はごしごしと目の辺りを拭いながら、「何でそうなんだろう、伯父さんって」と呟いた。
しばらくの沈黙の後で、江良くんはぽつりと「俺にはいい思い出しかないけど」と口を開く。
「あいつに刺された時、『ああ……色々あったんだろうな』ってわかったんだ。きっと色んなことが、上手くいかなかったりしたんだろうなって」
「うん……」
「だけど俺、早く大人になりたいと思うよ。こんなに嬉しい記憶があるんだからさ。俺、早く大人になりたいよ。それで、」
江良くんは喉を鳴らして笑った。「それで早く、お前の伯父さんになりたいよ」と言う。
「江良くん」
「ん?」
「将来の夢ってある?」
「あー……そうだな」
頭を掻きながら、江良くんは「絵描きになるのが夢なんだ」と小さな声で答えた。私は驚いてしまって、「絵描き!?」と聞き返してしまう。
「そう。俺、賞貰ったこともあるんだぞ。小学校のだけどさ」
「そんなこと初めて聞いた。伯父さんが絵描いてるところなんて見たことないし」
「……そうなんだろうな」
前を向き直した江良くんが、「まあ」と呟く。「これからなるんだろう」とバツの悪そうな顔をした。私は笑って、「そっか。これからなるのか」と何度も頷く。
いくつも子ども部屋を調べたが、そのほとんどが異変を持たなかった。最後に残ったのは、あのトムとジアという少年たちの部屋だ。私はあの日記帳を開いた。
キーンと耳鳴りがして、景色が変わる。
『ぼくたち、魔女の家に来ちゃったんだ! 父さんも母さんも洗脳されてた』
ある日少年たちは両親に連れられ、この館にやってきた。父も母も険しい顔をしていて、最後に女性に向かって『よろしくお願いします』と頭を下げて行った。少年たちはその様子を見て、じっとうつむいている。その日の晩、彼らは交換日記を始めた。『魔女は字を読むのが苦手なんだ。本当のことはこの日記帳で話そう』と言ったのはトムなのか、ジアなのか。
『トム。ぼくたちは魔女に食べられちゃうのかな。太らせて食べるつもりなんだよね?』
『ジア。その前に魔女を倒さなくちゃ!』
先生と呼ばれている女性はトムとジアを毎日叱った。それでも食事を用意してくれるのは、きっと太らせて食べるつもりに違いない。そんな空想を話しては、少年たちは二人で笑った。
『クメルが先生はとてもいい人だって。ぼくたちのことを魔女に告げ口するって言うんだ』
『あいつも魔女に洗脳されてる。気をつけろ、僕たちだって危ない』
新入りだった二人にも、優しくしてくれる子どもたちはいた。それでも二人が心を開くことはなく、拒絶し続けてやがて二人に話しかけてくれる子たちはいなくなっていった。ただ『先生』だけが毎日二人に声をかけ、大抵は叱るなどしていた。
『いつやる?』
『今日やろう』
『失敗しちゃったね』
『でも魔女はぼくたちのこと、殺さなかった。まだチャンスはある』
二人は『先生』のドレスに火をつけようと蠟燭を倒したが、火はすぐに消えて大事には至らなかった。
『ねえ、トム。ぼくは洗脳されちゃったのかな』
『ダメだジア! 早く魔女を倒さなきゃ』
あの日、蠟燭を倒した日に『先生』はひどく悲しそうに二人を叱った。私があなたたちを傷つけたのだろうか、と問いかける『先生』にジアは罪悪感を抱く。しかしトムはそれを振り切るように、次の作戦を立てた。
緋色の絨毯の上、『先生』がドレスを引きずりながら歩いている。トムとジアは息を殺し、彼女の背後に近づいた。彼女が階段を下りるときだ。二人はそっと近づく。
私は咄嗟に「ダメ! そんなことしちゃダメ!」と叫ぶ。
トムとジアは、彼女の背中を押した。彼女は目を見開き、『どうして』とだけ呟いた。
『お前たちのせいだ』
子どもの声が聞こえる。
『お前が』『お前たちが』『こんなことをしなければ』『お前たちがやった』『お前たちのせいだ』
二人は膝を抱えながら、『違う』『僕たちは魔女を倒したんだ』『家に帰りたかった』『父さんと母さんに会いたかった』と叫んでいる。
「魔女なんかじゃないよ。あなたたちの先生は、あなたたちのことを本当に大事に思ってた」と私は言う。少年たちが、こちらを振り向いた。
「あなたたちも本当はわかっていたんでしょう? 先生は魔女なんかじゃないって。あなたたちのこと、愛してた」
少年たちは立ち上がり、『うるさい』と怒鳴る。
『それじゃあまるで、僕たちが父さんと母さんに捨てられたみたいじゃないか』
私はぐっと黙ってしまった。ふと、隣の江良くんが「そうだよ」と何でもないことのように言ってのける。
「お前たちは両親から捨てられたんだ。本当はそれもわかっていたんだろ?」
『そんなことない! 魔女に洗脳されてたんだ』
「いいや。お前たちは捨てられたんだ。だけどお前たちは、ちゃんとお前たちのことを考えてくれる人に出会えた。出会えたのに、それを自分たちの手で台無しにしちゃったんだろ」
少年たちは黙って、ただ俯いていた。私は唇を噛み締めながら、「私も」と呟く。
「私も、すごくすごく大切な人を死なせちゃった。それはなかったことになって私の記憶の中にしかないけど、でも本当なら自分がやったことはなかったことになんかならなくて、『事故だったんだ』って言い訳しても大切な人は戻ってこないんだ。だから私には、あなたたちを責める権利なんてないよ。でも……」
一瞬目を閉じて、絞り出すように声を出す。「あんなにあなたたちを思っていた先生が、あなたたちにずっと魔女だなんて言われ続けてるの、悲しいよ」と拳を握った。
少年たちはびくりと肩を震わせる。『いいんだ』『あれでよかったんだ』と首を横に振った。
『だって父さんや母さんすら僕らを捨てたんだから』
『先生だっていつか僕らを捨てたに決まってる』
『だって僕たちは最悪なんだ』
『僕たち……ぼく……せんせい……』
『せんせい……ぼく……』
『死んじゃうなんて、思わなかったんだ……』
また耳鳴りがした。衣擦れの音が聞こえる。声を上げそうになる私の手を、江良くんが掴んだ。
女性だ。黒い影ではない。黒いドレスを着た女性が歩いてきている。
『あなたたち、こんなところにいたのですか』
少年たちは狼狽し、後ずさった。
『今日という今日は、先生も怒りましたよ。おやつは抜きです。夕飯まで、反省文を書いていなさい』
そうしてゆっくりと、女性も、少年たちも、霧散して消えていった。
いつの間にかオルゴールの音が聞こえなくなっている。私は放心状態で、「どうなったんだろう」と呟いた。江良くんが、「わからない。俺もこの後は知らないから」と言う。
突然、建物が大きく揺れ始めた。
「えっ? これ崩れるやつ?」
「こういうのも醍醐味だよな」
「醍醐味なわけあるかい! 早く逃げなきゃ!」
部屋を飛び出す。メリメリと嫌な音がして、床が裂けた。私は気が遠くなりそうなのを耐えながら、階段を下りようとする。ふと床の裂け目から一階が見えて、所在なさげに立っている伯父さんの姿を確認できた。
「もう! なんで伯父さんはあそこで微動だにしてないの!? 普通避難してるよね!?」
「別に……生存欲求がそれほどないんじゃないの。俺もないし。人っていいことも悪いこともあるから不安になるだろ。どっちかしかないと人生に対する本気度みたいなのが違うじゃんか」
「冷静に分析してる場合か??」
私は隙間から「伯父さん!」と声をかける。伯父さんは緩慢な仕草でこちらを見た。
床の裂け目はどんどん広がっていき、建物自体が真っ二つになってしまうんじゃないかと思うほどだった。一階はこのままぺしゃんこに潰されてしまうかもしれない。私は下に降りることをためらい、たとえば二階の窓から飛び降りた方がまだ安全なのではないかと思ってもいた。少なくともそれで死なないということは前回伯父さんが証明している。
「伯父さん! こっちに上がってくるか、玄関から外に出るかして! 私もすぐ行くから!」
伯父さんはただ不思議そうにこちらを見ているだけだった。何も周りが見えていないのだろうか。
ふと、江良くんが私を見て言う。
「なあ、俺のこと信じるか?」
「えっ?」
いきなりそんなことを問われて、私は前回のことを思い出していた。信じると言ったら伯父さんは一人で行ってしまって、結局その選択は間違いだったのだ。
私は咄嗟に口を開く。その前に江良くんが、「何が正解かじゃない。お前の気持ちだけが正解だよ」と静かに言った。私は瞬きをして、真っ直ぐに江良くんを見る。
「信じるよ。伯父さんのこと、ずっと信じてる」
うん、と江良くんは頷いた。それから急に助走をつけて、床の裂け目から一階に飛び降りる。下にいる伯父さんが呆気に取られた様子で江良くんを見た。
「俺の姪っ子、泣かせてんじゃねえぞ!!」
江良くんの姿はどんどん小さくなって、人形へと変わる。それすらポロポロ崩れ、中から鍵が現れた。
鍵は伯父さんの胸の辺りに刺さり、消える。
その瞬間に伯父さんはハッとしたように辺りを見渡し、「ここは……?」と呟いた。髪の色が黒に戻っている。私は色んな感情がごちゃ混ぜになって泣きながら、江良くんと同じように床の裂け目から飛び降りた。
「伯父さん!!」
「佳乃子……?」
一緒に潰れてしまっても構わないと思った。伯父さんは私を抱きとめる。そうして目も開けられないほどの眩しい光が辺りに満ちた。
『ごめんなさい、先生……ごめんなさい……』
『ぼくらのせいで……ごめんなさい……』
『泣くんじゃありません、男の子でしょう。あなたたちはこれからたくさんご飯を食べて大きくなって、たくさん勉強をして偉くなって、先生に美味しいものを食べさせてくれるのですから。泣いている暇はありませんよ』
黒いドレスを着た女性と二人の少年が、手を繋いで歩いていく。周りから『先生、先生』と子どもたちが増えていった。ゆっくり、ゆっくり、遠ざかっていく。
目を開ける。そこに崩れかけた建物などはなかった。あの時と同じだ。跡形もなく消えてしまった。
伯父さんはどこかぼうっとした様子で、「どうしてこんなところに来たんだったか」と首を傾げる。私はなんだか笑ってしまって、「帰ろっか」と立ち上がった。
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母は帰ってきた私たちを見るなり、「今警察に捜索願を出してきたところよ、馬鹿。電話にぐらい出なさい」と早口で言ってきた。私は腰を低くして謝り、「スマホ壊れてんのかな〜いきなり充電が切れて」と言い訳をする。
「あんたはもう……変なとこばっか伯父さんに似て。怪我ないの? どこ行ってたの?」
「全然大丈夫」
長い長いため息をついた母が、今度は伯父さんの前に立つ。
「いや……すまない七美。俺がついていながらその……あまりよく覚えていないんだ。恐らく迷ったんだとは思うが」
母はじっと伯父さんの顔を見て、不意に勢いよく抱きついた。
「おかえり……お兄ちゃん」
「なんだ、いきなり。お前は昔から大袈裟だな。ほんの数十分ぐらいだろう」
そのままぎゅっと抱き締め、「馬鹿ね。ずっと探してたのよ」と母は言う。伯父さんは困ったように私を見たが、私は肩をすくめるだけで何も言わなかった。
「怪我もほとんど治ったんだし、なんか趣味でも始めなよ伯父さん。絵なんて描いてみたらいいんじゃない?」
「は……? 絵?」
「あ、お兄ちゃん昔賞とったことあるもんね」
伯父さんは突然顔を赤くして、「そんなガキの頃の話、覚えてねえよ」と言う。私と母は顔を見合わせてにんまり笑いながら、「えー画材って何がいいのかな」「お店行くの楽しみ。私も始めちゃおうかな」と言い合った。
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