第3話 たとえなかったことになったとしても、私だけは忘れない。
9
目を開ける。また時間が戻っているようだった。
伯父さんがドアを開け、私の腕から伯父さんの人形が転がり落ちる。
私は唇を噛んで、人形を拾いに行った。化け物は私に向かって包丁を突き出してくる。私は人形に覆いかぶさり、何とか守ろうとした。
「佳乃子っ」
覚悟していた痛みはない。顔を上げると、伯父さんが素手で包丁を掴んでいた。血がぽたぽたと数滴落ちる。
それから伯父さんは化け物に手を伸ばすが、その腕はただ黒い影をすり抜けただけだった。その代わりに化け物は伯父さんの頬に手を当てて、顔を寄せる。
それは口づけに見えた。化け物は伯父さんの口元に近づき、そのまま吸い込まれるようにして消えてしまった。伯父さんは咳き込んで、その場に尻もちをつく。
「お、伯父さん……大丈夫……?」
「佳乃子、どうしてあんな危ないことをしたんだ」
「……この人形に傷がつくと、私たちにも同じ傷がつくの。そ、そういう夢を見たの」
伯父さんはさすがに信じがたいという顔をしたが、すぐに「お前がそう言うならそうなのかもな」と疲れたように言った。
「怪我、大丈夫?」
「大したことない。そんなに血も出てないよ」
「でも止血しなきゃ」
「心配するな。とにかくここから出よう」
どこか億劫そうに立ち上がり、「包丁だけ残ったな。一応持っていこう」と伯父さんは促す。
「どうもあの化け物に物理攻撃は効かないようだったが、まあないよりはましだろうから」
「私が持つの?」
「そうしなさい。何かの役に立つかもしれない」
私は血のついた包丁を恐る恐る拾い上げ、右手に握りしめた。そうして伯父さんの背中に隠れるようにしてぴったりついて行く。
先ほどの化け物が消えてしまったので私たちの脅威が去ったことを期待したが、現実はそう甘くはなかった。包丁を持った女の化け物はまだ出歩いている。そもそも一体ではなかったのか、消えたように見えたのが間違いだったかのどちらかだ。
「ねえ伯父さん、本当に大丈夫? 顔色が悪いよ」
「大丈夫だ。でもちょっと熱くなってきたな。どこかで少し……ああ、水を飲みたい。喉が渇いたんだ」
「伯父さんはここにいて。私、何かないか見てくるよ」
伯父さんの様子は見るからにおかしかった。疲れているようでもあるし、憔悴しているようでもある。
私は近くの部屋に入り、伯父さんをベッドの上に座らせた。伯父さんは眠そうな目つきで俯いている。その様子が先ほど死ぬ前に見た伯父さんと重なって、私はひどく不安になった。
「どこか痛い?」
答えがない。伯父さんの人形を見ると、右手が少しほつれていた。どうやら本人の傷も人形の状態に反映されるようだ。しかしそれ以外におかしなところはなかった。どこか見えないところを怪我したわけではなさそうだ。
待っててね、と言おうとしたその時。
伯父さんの髪が白くなっていくのが見えた。
「おじさん……? 髪が……」
髪だけじゃない。瞳の色も、どんどん薄くなる。
私は呆気に取られて、その様子をただ見ていた。そのうちに伯父さんは両手で顔を覆って、何かを言った。
「……して……」
「伯父さん? 伯父さん、しっかりして」
「どう、して……」
次の瞬間、私は伯父さんに組み敷かれていた。荒い息遣いの中で、伯父さんは「どうして」と今度は明瞭に言葉を発する。
「どうして俺たちを置いていったんだ、母さん」
その声には深い怒りと、絶望の色があった。初めて見る表情だ。まるで別人のようだった。
私は凍り付いたように動けない。ただ唇だけ「ちがう」と動かす。声が出ない。伯父さんは私の首に手をかけた。
「やめて、伯父さん……」
今まで伯父さんに貰った優しさや愛情を思い出していた。私はたぶん、泣いていたと思う。
『だけど、佳乃子。どこの家の父親より、お前のこと大事に思ってるよ――――』
違う。伯父さんはこんなことしない。こんな風に私のことを見ない。殺したいほど誰かを憎んだりなんか――――ねえ、伯父さん。殺したいほど誰かを憎んだことがあるの?
「やめて、伯父さんっ」と、今度ははっきり拒絶した。
ふと伯父さんの手が止まる。その隙に私は伯父さんを突き飛ばし、そのまま部屋を出た。
走りながら振り向くと、伯父さんはゆっくり追いかけてきていた。何とか正気に戻さないと、と考える。どうすればいいんだろう。このゲームをクリアしなければならないのか。あるいは。
ゲームをクリアしても元に戻らないのではないか。
そんな考えを、私は何とか振り払う。何としてでも元に戻ってもらわなければ困るのだ。
階段を下りようとして、私は足を踏み外す。「あっ」と言う間もなくそのまま転がり落ちた。
10
また夢を見た。いくつもの夢を見た。
よれたランニングシャツの少年は、まだ十五歳くらいだろうか。隣の母親らしき女性に、「今日からはあんたがお父さんの代わりになるのよ」と肩を叩かれている。母親は泣いており、少年に縋りつくようでもあった。少年は頷いて、小学生の妹の手を引いていた。
少年は学校に行く前に新聞配達をして、学校が終わると工事現場に行く生活をして、くたくたになりながら夕飯を食べ、風呂に入り、ほとんど寝ずに次の日の朝早くに出かけていく。自転車を飛ばしながら駆けていく姿は、少しずつ大人の体格になっていった。
中学を卒業し、高校にはいかず、工場勤めを始めた。大人ばかりいる中で、時には殴られながら毎日必死に働いていた。何も考えられなかった。ただその日、家族にご飯を食べさせることができるかということだけ。あるいは何も考えたくなかったのかもしれない。ふとした瞬間に、自分が何をやっているのかわからなくなった。
ある日母は少年に「あんたがいてくれて助かった」「あんたがいればもう大丈夫ね」と言い、その日の晩に家を出て行って二度と戻って来なかった。
中学生の妹は不安そうに「お兄ちゃん。これから私たち、どうなるんだろう」と話す。少年は何でもないような顔で「大丈夫だよ、心配するな。きっと上手くいく」と言った。本心だったかと言えば、恐らくそうだ。すでに少年は痛みに鈍感で、何が起きても心を大きく動かすことがなかった。良くも悪くも、そうして自分の心を守ってきた。
場面が切り替わる。妹の結婚式で、青年となった少年はただ安堵していた。喜びよりも大きな安堵で満たされていた。ようやく青年は、今までの自分の人生を振り返る。ほとんど何も残ってはいなかった。ただ『疲れたな』と思っただけだ。妹さえ幸せになればそれでいい。とにかくこれで、自分の役目は終わったのだと安堵した。
そしてまた季節は変わる。
青年は雨の夜道を、妹の手を引いて歩いていた。
「お兄ちゃん、なんであんなことしたの」と妹が嗚咽交じりに言う。
「妹殴られて黙ってる兄貴がいるか。あんなのは旦那じゃない」と言った青年は拳を痛めていた。
静寂が辺りを包む。ただ不意に妹が立ち止まり、「でもお兄ちゃん」と口を開いた。「お腹に赤ちゃんがいるの」と妹は言う。「産みたいの。だから、あの人のところに帰らなきゃ」と。
青年はハッとして、妹の腹に目をやる。それから怒りで顔を赤くして、「あの野郎」と呟いた。しかしすぐに情けないやら悲しいやらの顔をして、妹を抱きしめる。
「大丈夫だよ、七美。お前は強い。お前の子供もきっと強い。それに、お前の兄貴だってそれほど甲斐性のない男じゃない」
妹はその場で泣きじゃくった。
景色が変わる。病室だろうか。
青年はふっと苦笑して、「俺はお前を嫁に出した時、もう自分の役目は終わったと思ったよ」と静かに言った。ベッドの上の妹が、「ごめんなさい」とうつむいている。
目を細めた青年が、ぐずる赤ん坊を抱き上げた。
「いいや。また、生きる理由ができた」
11
私は目を覚まし、何とか体を起こす。階段から転がり落ち、てっきり死んだかと思ったが生きていたようだ。体の節々が痛いが、だからこそリセットされていないことがわかる。鼻血を拭って辺りを見ると、腕に抱きかかえていたはずの人形が数段下に落ちていた。
そして私は見た。伯父さんの人形に深々と包丁が刺さっているのを。
私は弾かれたように立ち上がり、それを慎重に抱き上げる。それから声にならない悲鳴を上げて振り向いた。階段を駆け上がると、胸の辺りを押さえた伯父さんがうずくまっている。
「おじさん……っ」
「かの、こ?」
「ごめんなさい……ごめんなさい、わたし……」
「あ……ああ、俺が……悪かった……こわがらせて……」
伯父さんは顔を歪ませながら起き上がり、何とか壁に背を預け座り込んだ。胸の辺りが真っ赤に染まっていた。どれくらい深い傷かは一見してわからないが、包丁は人形を貫いていた。それだけの傷だろう。
私は見動きも取れず泣いていた。事故だったのだと言いたかった。
ふっと笑った伯父さんが「おいで、佳乃子」と私を呼ぶ。「もう怖がらせたりしない。誓うよ」と寂しそうに瞬きをした。
「こっちに……できれば、隣に座ってくれ。支えが欲しいんだ」
そう言われ、私は恐る恐る伯父さんの隣に座る。伯父さんは「本当にごめんな。怪我はないか」と私を見る。私は首を横に振った。泣くなよ、と伯父さんが私の頬に触れる。
「お前がうまれてきた日のこと……、よく……覚えてる、よ」
「おじさん……」
「お前、小さくてなぁ……医者から、この子は……は、ぁ……この、子はダメ……かもしれんとまで言われて……」
伯父さんが口を開くと、涎の混じった血が一筋垂れた。うわごとのように喘いで、伯父さんは傷を押さえる。指の隙間から血が溢れて落ちるさまを見て、伯父さんは表情を変えずに瞬きをした。
辛そうに呼吸をしていたかと思えば突然がくっと俯いて、そのまましばらく動かない。私が伯父さんの手を握ると、伯父さんは小さな声で「大丈夫だよ」「心配するな」「七美」「俺は」「大丈夫だから」と短い単語を話す。それから顔を上げて、どこか遠いところを見た。
「でも、お前……初めて授乳した時、思いのほか……強く吸い付いて、さ。俺も七美も、泣いたっけなぁ」
伯父さんは眠たそうに瞬きをして、「お前が大きくなって本当に嬉しい」と言った。私は伯父さんの腕をぎゅっと掴んで、「ねえ、ひどいことを言ってもいい?」と尋ねる。なんだ、と伯父さんは優しく聞き返した。
「もっとたくさん話して。ずっとずっと話していて」
伯父さんは本当に心地よく笑う。「そうだな、何を話そうか」と目を細めた。
「お前、の……はじめての言葉は『もも』だったが、なな、みは……『ママ』だって言い張った。しん、じられるか? ママ、なんて自分でも言ってなかったんだぞ……?」
「うん」
「おま、え……お前、むかしっからもも、好きだもんなぁ」
「うん。好き」
「お前……がはじめて、立った日は……」
「うん」
「しゃしん、とり損ねてさ」
「うん」
「ずっと後悔……して、るんだ。おれ、も七美も感極まっちゃってさ」
「そっか」
「……佳乃子」
「なぁに?」
「お前の父親に、なろうと……思ったこともある。おまえに、『お父さん』と呼ばせるべきか、って。でもそれは……お前を、嘘つきにさせると思った。ごめんなぁ……かのこ。おまえ……おま、えが寂しがってるの……わかってたんだが」
「そんなの、いいよ。我儘ばっかり言ってごめん」
「ああ、そうだ。カノコユリ、って……知ってるか? あれは綺麗な花だが……『慈悲深い』って花言葉がある。人に愛情持って、優しく……することだ。なあ、佳乃子。お前は女の子だから……いちばんさいしょに、花を贈ろうと……思ったんだ」
私はぼろぼろ泣きながら、「うん。ありがとう。すごく嬉しい」と呟いた。
それから伯父さんは私の髪を撫で、「もう寝なさい、佳乃子……明日も早いんだぞ」と囁く。私は嗚咽を漏らしながら、何度も頷いた。
程なくして私の髪を撫でていた手は滑り落ち、伯父さんは私の肩に頭を乗せたまま動かなくなった。
私もそのまま動かなかった。やがて黒い影の化け物が目の前に現れたとき、私はただ静かに「いいよ」と言った。包丁が振り下ろされる。私は冷たくなった伯父さんの手を握り、目を閉じた。
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