第二十節  結婚の祝福

 それから暫くして、瞻仰せんぎょうの顔色が良くなってきた頃。間もなくエルサレムに帰る為の手筈を整えなければ、と言うとき、若枝わかえが家の外で泣いているのを見つけた。

若枝わかえ? どうしたの?」

「!」

 若枝わかえは私を見ると、顔を赤くさせて、ぷるぷると顔を振り、走り去ってしまった。何か喧嘩でもしたのだろうか。私は不思議に思いながらも、家に入った。中には、瞻仰せんぎょうがいた。

「ただいまー。」

「おかえり、きびす。ちょっと話があるんだが、大丈夫か?」

「何? 瞻仰せんぎょう。」

 まあ座って、と、促され、私は瞻仰せんぎょうの向かいに座り、差し出された葡萄酒を口につけた。議員の家のものともなると、流石に普段から飲める葡萄酒も美味しい。

「うん、もう決めたことなんだけど。」

「ああ、日取り? いつ帰るの?」

「いや、そっちじゃなくて。」

「じゃ、どっか行くの?」

「そっちでもなくて。」

「じゃ、何の日取り?」

若枝わかえの結婚の日取り。お前に嫁がせようと思う。」

 ブッ。

 私は盛大に葡萄酒を噴き出した。少し瞻仰せんぎょうの顔にもかかってしまったので、慌てて袖で瞻仰せんぎょうの顔を拭う。瞻仰せんぎょうは少し呆れたような顔をしながらも、続けた。

「今朝、確認した。若枝わかえは、お前に―――大王の家系に加われる家系の出だ。」

「か、家系? 若枝わかえ、家系が分かるの?」

 瞻仰せんぎょうは、推測だが、と、首を振って言った。

若枝わかえは、盲目の上に足萎えだった。それなのに、シロアムの池にいた。あそこは確かに、天使が池の水を動かしてくれ、その時に池の水に触れると癒やしてもらえると言われていた。」

 初めて知った。なら、私が癒やされなかったのは、池の水が動いていなかったからなのか。

きびす、さては知らなかったな?」

「………うん。」

「まあ、そうだろうな。知ってる奴は限られてる。エルサレムに住んでいるか、それなりの都市にいたか。いずれにしろ、ガリラヤ地方のナザレじゃあ、知らなくても無理はない。」

 …気のせいだろうか。何だか慰められている気がする。それも、私にとってあまりこのましくない方向に。しかし瞻仰せんぎょうは自覚がないのか、で、と、話を続けた。

「盲目で、脚も動かない。そんな乞食が、どうやってシロアムの池まで辿り着いたと思う?」

「どうやってって………。そりゃ、シロアムの池の奇跡を知ってる人が、若枝わかえをそこに置いていったんでしょ。」

「その通り。でも若枝わかえは、捨てられてからずっと、シロアムの池に辿り着けなかった。だって這いずることしか出来ないからね。その上、若枝わかえはシロアムの池の畔じゃなくて、すぐ傍の路地にいたんだ。だからあの地震の時、すぐに瓦礫に襲われなかったんだよ。」

「なんでそんなところに? 癒やされるように畔においてあげれば良いのに。人だって沢山通るんだから、乞食だってしやすいじゃん。」

「………。うん、そうだな、お前ならそういうと思った。」

 …気のせいだろうか。瞻仰せんぎょうは少し、悲しそうだ。

「まあ、大通りにいると、良いことも悪いこともあるもんだ。若枝わかえをあの場所に置いた誰かは、若枝わかえを『悪いこと』の方から護ろうとした。―――つまり、若枝わかえは、初めは母親といたんだ。本人は『捨てられた』としか言わなかったけどね。」

「父親じゃなくて?」

「父親だったら、娘に売春させて自分の食い扶持を稼ごうとするさ。母親が売春婦になっていたから、若枝わかえは路地にいたんだよ。」

「なんでそんな事分かるの?」

「………。身体を売る仕事のあれこれっていうのは、同性じゃないと分からないものも多いのさ。」

 …気のせいだろうか。まるで瞻仰せんぎょうは、経験者のようだ。

「まあ、何にせよ、母親は、ぼくが行ったときにはいなかった。若枝わかえはそれを『捨てられた』としか言わなかったし、『地位は捨てられた時に無くなった』としか言わなかった。無くなったんだから、有ったんだよ。」

「随分勿体ぶるな。要するに、若枝わかえはどこの家系の出なの?」

「…若枝わかえは、祭司の家の出だ。それも、エルサレムに住んでいるような、直系に近い、位の高い祭司の家系だと思うよ。」

 私はヒュッと息を呑んだ。つまりそれは、瞻仰せんぎょうと―――彼女と結婚しないと言った男こそ相応しい家系の出ということだ。

「普通の家系の女が売春婦になったなら、縁を切るだけで済む。だが、祭司の家の女が売春婦になったなら、その女の父親の名誉の為に、殺すように律法に書いてある。若枝わかえの父親―――いや、恐らく母親だな。母親の義理の父親が、祭司だったんだ。だから、忌み子を産んだと捨てられて、売春婦で娘を育てていたところを殺された。若枝わかえが無事だったのは、売春をしていなかったからだ。それが一目で分かる位置にいたからだ。路地の中にいたら、誰も買わないからね。憶測の範囲を出ないと言えばそれまでだけど、若枝わかえは言葉遣いもしっかりしていて、無教養な乞食とは―――きびす? お前、なんで泣いてるんだ? 若枝わかえに同情したのか?」

 違う、と言いたかった。違う、そうじゃない。だって、だってそれなら、それなら若枝わかえに相応しいのは。

「………だったら、相応しいのは瞻仰せんぎょうのはずだ。」

「なんでだよ。ぼくは大王の家系の子じゃない。…父さんがバラして、ぼくが暴露して―――。」

「だって瞻仰せんぎょうは本当はッ!」

 ―――秘密だよ。

 ひこばえの声が蘇る。まだ子供だった頃だ。まだ幸せで、何も知らなくて、知らなくて良くて、仕事のことと、雪と和と母が作ってくれる料理のことだけを考えていれば良かった時代の話だ。絶対に秘密、と、言っていた。

 理由がずっと分からなかった。でも考えることも無かった。考える必要が無かった。瞻仰せんぎょうはどんな家系の出だったとしても、私の家族だったからだ。

 まさか、ひこばえは、この日のことを言っていたのだろうか。祭司の家の娘を、私が娶ることが出来るように、絶対に秘密だと言ったのだろうか。

 ―――否や、違う。私はそんなこと、望んでいなかった。私はそもそも、結婚出来るとは思っていなかった。諦めていた。私は穢れているからだ。メシアひこばえにさえ、穢れを癒やしてもらえなかったからだ。そんな男の所に、大切な侍女を嫁がせようと言うのか。

「………本当は、瞻仰せんぎょうが、おいらの兄さんじゃないか。弟が先に結婚するのは、おかしい。」

「…ごめんな。でも、ぼくは結婚出来ないんだ。」

「なんで!? 父さんのことを愛しているから? 父さんと夫婦になってたから!?」

きびす、落ち着け。」

「死んじゃったじゃないか、父さんは! 瞻仰せんぎょうを傷付けて追い出して、サイテーな別れ方を―――。」

きびす!」

 だん、と、叩かれて、我に返る。瞻仰せんぎょうは顔を真っ赤にして震えている。

 迂闊だった。父とのことは、瞻仰せんぎょう自身一番触れられたくないだろうに、私はそれに、最悪の形で触れて、握り潰してしまったのだ。

「―――そうじゃない。そこじゃないよ、きびす。」

「せ、瞻仰せんぎょう、ご、ごめ―――。」

 悪かった。悪かったから、その先は―――。

「娘を、男娼に嫁がせようとする父親がどこにいる?」

「―――ウァアアアアアアア!!」

 私は瞻仰せんぎょうの胸元を掴み、横に引っ張って床に引き落とした。

「そんな言い方するなよ!! 悪いのは嗣跟つぐくびすじゃないか、恩啓おんけいじゃないか! あいつらが全部悪いんだ! おいらの兄さんをモノ扱いした、モノであるおいらじゃなくて、瞻仰せんぎょうを、人をモノに貶めた! 公の場で一人だけ裁判ごっこにかけて、危うく、危うくヒコ諸共殺される所だった! あれを助けたのは武都守であって、どっちでもなかった! 見境無く弟子を増やしてったヒコが悪いんだ、金欠の弱みにつけ込んだあの二人が悪いんだ、瞻仰せんぎょうは悪くない! 何も悪くない!」

きびす、落ち着け。苦しい……。」

「悪いのは買った方だ、売り物があっても、誰も買わなかったら商売にならないんだから! 道端に味のしない塩があっても誰も気にしない、それと同じだ!」

「…つまりお前は、ぼくの身体は塩気のない塩と同じで、地面に打ち捨てられて踏みつけられるようなものだってことか?」

「そうじゃない! なんでそんな風にひねくれるんだよ! もっと自分のこと大事にしてよ! おいらの兄さんなんだぞ、たった一人の兄さんなんだぞ!!」

 うわああ、と、年甲斐も無く泣く私の頭を撫でながら、瞻仰せんぎょうは溜息をついた。

「自分の事を大切にしていないわけじゃないよ、きびす。」

「じゃあなんで!!」

きびす、お前は石の長さを測るとき、定規が必要なくなるくらい、沢山練習したな。定規が必要なくなった後、定規の手入れを怠ったか?」

 私は少し落ち着き、ふるふると首を振った。

「それと同じだ。お前の道具が定規であったように、ぼくの道具は身体なんだ。ぼくはいつ客がきてもいいように、いつでも客好みになれるように自分を磨く。常に商品として完璧に近く、常に商品価値を上げる。大工が鑿や鉋を手入れするように、ぼくは自分の身体を手入れする。だって、時々道具の使い方を知らないバカがいるからね。そういうときどう修理するかも分かってる。ぼくはきっと、ナザレ派の誰よりも、自分の身体を大切にしているよ。」

「嘘だ! 男に生まれて男に組み敷かれるなんて、屈辱だ。それくらいおいらも知ってる! もし明るみになったら、あの裁判の時みたいに殺されるんだ、一人だけ!」

きびすきびす、良い子だから泣かないでくれ。ぼくはお前に、結婚の話を持ってきたんだよ。どうして喜んでくれないの? ぼくのこの世で一番大事な女を、この世で一番大事な男にあげるんだよ。どうして喜んでくれないの? ねえ、どうして、ぼくの身体のことにそんなに執着するの? 若枝わかえなら子供を産めるんだよ。お前が不能じゃなくなればね。」

「………。」

「ぼくは、自分の娘を男娼に嫁がせない。それは男娼が卑しいからじゃなくて、収入が不安定で、底辺だからだ。そんな男に、大事な娘を預けられない。だからお前がいい、きびす。エルサレム司教に任命され、謦咳からの信頼も篤いお前がいい。例えお前に何かあっても、お前の慕うもの達が、若枝わかえを護ってくれるから、心配要らない。」

「………。」

きびす。…結婚してくれるね。」

 その顔は、反則だ。

 私は涙を拭って、頷いた。

「おいらだって、慕ってくれるひとがる瞻仰せんぎょうが羨ましかった。―――全力で護るよ、瞻仰せんぎょうが自分の道具からだを大切にするより、大切にする。」

 瞻仰せんぎょうは笑った。


 その時の私は、何も分かっていなかった。

 穢れを持ったモノが、人並みの幸せを手にするということは、どういうことなのか。護るとはどういうことなのか。

 ―――何故、私のようなモノ達が、穢れと呼ばれ、社会に入ることを許されなかったのか。


 母は既に、女弟子達と旅立ってしまっていたので、婚約の儀は私と若枝わかえ瞻仰せんぎょう神授しんじゅだけで執り行った。若枝わかえは終始無言で、やはり瞻仰せんぎょうと結婚したかったのだろうが、最後には笑って、

「末永く、先生と貴方をお支えします。」

 と、言った。私はその芯のブレなさがとても愛おしく感じ、早く触れてもいい時期が来ないかと思った。瞻仰せんぎょうは、私達が慎みの一月の間、純潔をお互いに破らないと確信していたので、先にエルサレムに戻り、様子を見に行くことになった。

 私はてっきり、慎みの一月の間、アリマタヤにいると思っていたのだが、瞻仰せんぎょうから連絡が来て、三日ほど遅れてエルサレムに戻った。神授しんじゅが道中、私と若枝わかえが婚約したことは言わない方が良い、と言っていたので黙っていたが、実際そうだった。今まで気付かなかったのが不思議なくらい、共同体の女達や、娘を持つ寡達が、私に言い寄ってきていた。私が困惑していると、神授しんじゅ瞻仰せんぎょうが現れて、用事を言いつけてくれた。昼間、若枝わかえ瞻仰せんぎょうの元を離れず、寧ろ私を避けているように思えた。

 しかし、神授しんじゅの言いつけ通り、『司教に相応しい個室』で仕事をしていると、若枝わかえが人目を忍んで、入ってきた。

「………。」

「………。」

 婚約者という肩書き云々、というよりも、大事な瞻仰せんぎょうから、大事な女を任された、という事実に緊張していた。若枝わかえはそんなことはないのか、仕事を終えた私がすぐに眠れるように床を整え、さっさと寝てしまう。

 気のせいだと思うのだが、私が弟妹や母と寝ていた時よりも、若枝わかえの身体は温かい気がした。私は若枝わかえと禄に話すこともなく、慎みの一月が明けるまで、あと一日、という日まできた。


 事件は、その日の昼間、唐突に起こった。

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