第十九節  迫害の始まり

 ひこばえがまだ、メシアひこばえと呼ばれておらず、私達ナザレ派が放浪の身であったころ、迫害という者はパリサイ派や律法学者、サドカイ派など、外から来るものだった。だが、今は違う。迫害という形ではなく、対立という形で、迫害は霊によって起こっている。

 メシアひこばえが来た理由は、若いではなく対立の為だ、と言ったが、それは神の道に入るために一時的に、神から離れた者との間に対立が生じるということであって、既に神に所属している者同士の対立ではないはずだ。

 特に対立が激しかった、というより、意見のぶつかり合いに私がしばしば巻き込まれたのは、十二弟子のうち誰に仕えるのが一番いいか、という話だった。始め、それは私達が昔、誰が一番偉い弟子なのか、と争っていたことと同じことだと思っていた。だがそうではなかった。誰の元に着けば、自分の家系が役職につきつづけられるか、ということだった。私はそれに、強い嫌悪感を持っており、それを隠して仲裁することが出来なかったのである。

 それは、新しい祭司家系になろうという魂胆だ。本来十二弟子の中で位の高い家系に生まれたのは、瞻仰せんぎょうだ。だが今の瞻仰せんぎょうは、澹仰と名前が似ているというだけで、母からもらった名前を捨て、過去には同じ十二弟子から男としての最大の辱めを受けていた。祭司の家系になれば、安泰だというその浅はかな考えが、私には腹立たしい。更に言うなら、そのように考えている者達は、司教であり、メシアひこばえの血族である私に、娘を嫁がせようという魂胆はないのだ。何故なら私は、骨が足りない。つまり、生まれながらにイスラエル人として数えられていなかった。メシアひこばえの救いからこぼれ落ちた、救いようのない穢れた者だからだ。


「…ん?」

 隠れ家を移動した時だった。瞻仰せんぎょうに金の工面の手紙を書いてもらっている時、ことん、と、杯が置かれた。

「根を詰めすぎです、きびす司教、亜母さん。もう月が沈みますよ。」

桂冠けいかん、教団が沈みそうなんだ、資金不足で。」

 ちらっと杯の中身を確認し、瞻仰せんぎょうは書き続けながら答えた。それは分かりますが、と、桂冠は続けた。

「ですが、お二人は今やエルサレム教団の双肩です。どちらかが倒れられては、だれも代理が出来ません。もうお休みください。せめて亜母さんだけでも。文字は私も書けますから。」

「弟が起きてるのに、兄だけ眠れるかってんだ。」

「―――いや、亜母、寝ていいよ。おいら、桂冠に話が出来たから。」

きびす司教。」

「あ…っと、私、桂冠に話が出来たから。」

 よろしい、と、無言で瞻仰せんぎょうは頷き、背伸びをし、ふらふらと立ち上がった。

「じゃ、ぼくは少し休むよ。まあ、どうせあまり外に出られないからね、『亜母』が浸透するまで。」

 私への皮肉なのか、自分への嘲笑なのか分からない言葉を残し、瞻仰せんぎょうは寝床に歩いて行った。足取りはしっかりしているように見えるが、頭が揺れている。

 私が、瞻仰せんぎょうが座っていた場所に座るように促すと、桂冠は一言言って、座った。

「お、お話とはなんでしょうか。」

「いやあ、うん。今の気遣いで思ったんだけど………。桂冠、君に仲裁者を任せたい。」

「仲裁…? ヘブライストとヘレニストの、ですか?」

「血筋と伝統を重んじるヘブライスト、メシアひこばえの教えに従ってそれだけを重んじるヘレニスト。そこに寡だの女達だの、元パリサイ派や律法学者、更にサドカイ派までが加わって、もうしっちゃかめっちゃかだ。手紙の半分にも満たないけれど、おい…私は、各方面にいつも、『人を裁くな』『舌を戒めろ』と書いているよ………。同じことを自分の私生活も含めるここでもやりたくない。」

「お気持ちは分かります。ですが、私のようなものに勤まるでしょうか。私はヘレニストです。ヘブライスト達には敵視されています。」

「そんな事はない。彼等も君を認めているよ。何だったら、明日、くじを引こう。勿論、十二弟子も含めた、エルサレム教団全員でだ。」

「結果は見えていると思いますが…。きびす司教にそのようにメシアひこばえさまがお与えになった案なのですから、分かりました。」

 桂冠は、渋々、というよりも、怖々頷いた。自分が評価されると言うことは、誰でも思い起こす恐怖らしい。

 朝食の後、私は特に説明も無く、『最もきびす司教の補佐に相応しい、十二弟子以外の人物』とだけ言って、投票を求めた。桂冠が満場一致で選ばれたので、桂冠は恐縮しながらも、その役目を引き受けた。

 ちなみに、桂冠が始めに仲裁した喧嘩は、『ローマ人の青年とユダヤ人の寡のどちらが、きびす司教の右の席に坐っても良いか』だった。私を出汁に喧嘩をするのは、いい加減に止めてほしい。

 私は桂冠に助祭という役目を与え、他にも何人かの助祭を選んだ。桂冠が抜きん出た助祭の才能を持っていたが、それも長くは続かなかった。

 というのは、大規模なナザレ派狩りが行われたからである。桂冠の殉教は、その先駆けだった。しかも、その首謀者は、瞻仰せんぎょうに因れば桂冠が死ぬ間際まで気にかけていた、弟弟子だったと言う。

 なんという恩知らずな。なんという薄情な。神の名にかかれば、何をしても良いというのか。

 何が神の子だ。何がメシアひこばえだ。何が『迫害を喜べ』だ! 人の死を喜んでいられるのは、人の苦しみを讃えられるのは、それこそ悪魔の所業だ! 何故その死や苦しみを嘆くことを許さないのだ、あの神の子は!

 私が悪かったのだろうか。助祭などと、自分が楽をしたいと任命したから、神は私から、エルサレム教団から、桂冠というあまりに模範的な神の使徒を奪い去ったのだろうか。司教に任ぜられたからには、私は滅私奉公の精神を貫かなければならないのだろうか。日が沈んでから日がもう一度沈むまで、一日中、一日たりとも休むことなく? それは喜びなのかもしれないし、恵みなのかもしれない。それ以外を考えずに済むのなら。だが今の私達は違う。脆弱で、メシアひこばえを実際に見ていた者だけしか集まっていない。組織としても小さく、サドカイ派などの貴族や金持ちからの寄付、そしてそれらを分配してくれる大らかな心がなければ、やっていけない。それらを協力するための書面を考えて、どこかで争いや対立の噂がないか聞き耳を立てて、すぐに書簡を出さなければならない。

 私は血を吐いて倒れた。桂冠がいなくなった。またあの忙しく、休む暇のない毎日がやってくる、と、思ったら、胸が裂けてしまったらしい。今襲われたら、私は多少の尋問でも死んでしまうだろう。そう考えたらしい同胞達は、神授しんじゅに私を抱えさせ、サマリア地方アリマタヤまで逃れた。世話役として若枝わかえがついてきた。その一方、瞻仰せんぎょうは丁度その時、エマオの方へ駒桜こまざくらと宣教に行っていたので、合流することが出来なかった。エマオは、アリマタヤに行く途中で通ったのだが、出会うことが出来なかった。単なる入れ違いだ、と、若枝わかえを説得したが、若枝わかえは悪い想像ばかりをしては、泣きわめいていた。

何十日か後、瞻仰せんぎょうとも合流することが出来た。瞻仰せんぎょうから、母も無事エルサレムでナザレ派狩りを逃れたと聞いて、ホッとした。しかし、瞻仰せんぎょうから、私達が感じていた何十日もの期間は、たった三日三晩だったことも聞かされ、驚いた。


 隠れ家を移したところで、私達のやることは変わらない。嗣跟つぐくびすは相変わらず宣教に赴き、瞻仰せんぎょうも『亜母』として、別の所へ宣教に行く。アリマタヤはサマリア地方にあるので、敬虔なユダヤ人達は近づきたがらない。その意味では、隠れ家として最適だった。以前、ひこばえが人間として死んだとき、墓をくれた議員の家に居たのだが、いつまでもここに居るわけにはいかない。

 私は、エルサレム司教だからだ。夜、明日の予定を話終わった後の瞻仰せんぎょうの問いかけに、私は答えた。

「それについては、祈るしかないとしか言えないね。今おいらがエルサレムに戻っても、あの…ええと、なんて言ったかな、とにかくあのチビ助に食われるだけだ。」

「でも、先生のお疲れを取るのが第一では? エルサレムから歩いて三日なんて、とてもお疲れの筈です。しばらくは何も考えない時間も必要ですよ。」

「そうしてくれるとありがたい。エルサレムを出てくるときに、少し人を説得したから、まだ疲れてる。」

「え、何それ、聞いてない。」

 瞻仰せんぎょうが何か口を滑らせたらしい。嫌な顔をされたので、これに関しては黙っていることにした。

「まあ…。祈りはおいらの専売特許みたいなものだからね、その為に助祭を作ったんだから。亜母あおもは暫く休んでいて。身も心も疲れ切っていては、本当に動くべき時に動けないからね。それまでは…、どうする? 皆でお昼寝でもする?」

「馬鹿、若枝わかえは嫁入り前なんだぞ、たった一人で男どもの中に寝かせられるか。」

「えっ?」

 え?

「な、なんだよ。」

 瞻仰せんぎょうが逆に驚いていた。だって、だって、そんな事を言うなんて、まるで―――。

「いや…。てっきり、若枝わかえを娶るもんだとばかり。」

「んな訳あるかッ! 大体ぼくは―――。」

 反論した瞻仰せんぎょうが、すぐに口を噤む。見なくても、すぐ隣で、若枝わかえが傷ついているのが分かった。

 そりゃそうだろう。あれだけ近くに置いていたのだ。いつでも使いとして使っていたのだ。そして若枝わかえには、父がいない。瞻仰せんぎょうも、結婚相手を決めてくれる父がいない。瞻仰せんぎょう若枝わかえを娶る条件は、出来上がっていた。

「………。寝る。」

 気まずい空気のまま、瞻仰せんぎょうは床に寝そべってしまった。今にも泣き出しそうな若枝わかえが、パタパタと二階へ走って行く。私は追いかけることが出来なかった。

 何か、とんでもなくまずいものを見てしまうような気がしたからだ。


「ねえ、きびすちゃん。起きてる?」

 夜中、若枝わかえの消えた階段の方を向きながら眠れないでいると、神授しんじゅが話しかけてきた。

「起きてる。」

きびすちゃん、若枝わかえちゃんのことは気に入ってるのかい?」

「…ああ、瞻仰せんぎょう若枝わかえを娶らないって言った話?」

「そうそう。」

「おいらは別に、そういうのは気にしたことないな………。というか、あの宣言はおいらの方がびっくりした。なんで若枝わかえを娶らないんだろう。」

「おじいちゃん、思うんだけど、瞻仰せんぎょうちゃんは、若枝わかえちゃんをきびす司教に嫁がせたいんじゃないかな。」

「いや、それはない。」

 私は即座に否定した。そしてごろりと転がって、神授しんじゅの鼻先に自分の鼻先がくっつくくらいの距離になり、こそこそと話した。

「おいらは生まれついての穢れだ。若枝わかえが大切なら尚のこと、瞻仰せんぎょうはおいらなんかに若枝わかえを嫁がせたりしないよ。若枝わかえが穢れを産んだら、可哀相じゃないか。」

「いやいや、曲がりなりにもエルサレム司教でらっしゃるじゃないか、きびすちゃん。元乞食で後ろ盾がいない若枝わかえちゃんを、堅実な地位のある男に嫁がせたいのが、親心というものだよ。」

「………親なの、瞻仰せんぎょうって?」

「親子に、年の差なんて関係ないものさ。況して拾い子だからね。」

「そうかな。」

「そうだよ。」

「まあ…。もし、瞻仰せんぎょうがおいらに若枝わかえをくれるっていうんなら、………。」

「いうんなら?」

「………寝る。」

「おやすみ、ごめんね。」

 私は二の句が継げなかった。

 若枝わかえを気に入っているかいないかと聞かれれば、勿論気に入っている。瞻仰せんぎょうが目にかけている弟子だ。快く思わないはずがない。ただ、若枝わかえの後ろ盾は、確かに瞻仰せんぎょうだ。だから、瞻仰せんぎょうが父親の役割として、私に若枝わかえを娶れと言われたら、そうするだろう。

 だが、その前に答えてもらわなければならない。

 ―――どうして、瞻仰せんぎょうが娶ってあげないの? あんなにも君を愛しているのに。

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