第十七話 三百日分の香油
翌日、私達はエルサレムに入った。
エルサレム中が、私達を歓迎していたので、以前改心した取税人の家に女弟子達が、会堂長の家に男弟子達が集まった。過去、
食事も終わった後、村長の家に行っていたはずの女弟子の一人が、大きな瓶を持って現れた。むわっと、濃厚な香油の匂いがする。本来その香油は心地よい香なのだろうが、濃すぎて悪臭になっている。弟子達が顔をしかめるのにも気にせず、女は死者にするように、
「げほっげほっ…。なんだ、薄めてないのか?」
「それにしたって酷い! 死体につける香油だってこんなに臭くないぞ!」
私は雪の埋葬を思い出した。あの時につけた香油には、少しでも臭いがしただろうか。
当の
と、突然、すぐ隣でドンという激しい音がした
「あんさん何してはりますの! これはただの香油や没薬やない、ナルドの香油や! その壺の細工とこの量、合わせたら三百デナリはくだらない、最高級品ですえ! それだけの大金があれば、この街に乞食はおらへんようになりますのに! 計算の出来ひん
三百デナリ、と、聞いて、私は胸から鳩尾にかけて、ぎゅうううっと縮んでいくような気分になった。まるで薪のささくれが、竃に入れられて縮むように。
三百デナリを、私は二年半かけて集め、
それでも、彼は毎日、私が稼いだことにしてくれていた。
「
「おい、澹仰。なんだってそんなにみみっちい事言うんだよ。」
よりにもよってその相手が
「なんですのん、大食らいで大所帯のうちらの会計をあずかってるのは、うちです。お金に手厳しいのは当たり前です。何がおかしいんですのん?」
「シラばっくれるなよ。俺達が金勘定に詳しくなくても、福銭は元取税人だぜ。お前が、二割と偽って三割献金させてるの、知ってるぞ。」
思わず澹仰を庇おうとすると、私の服を澹仰が見えないように引っ張った。黙っていろ、ということだろう。
「へえ? うちを陥れる為に結託するなんて、
「話を逸らすな! 丁度良い、今日から過越祭だ。この中で唯一の罪人のお前を恩赦してやる。だから返せよ。福銭が気付いた辺りから計算したら、三百デナリはあるはずだぞ!」
「三百デナリなんて、この大所帯でわらわら移動しとったら、取税人に一日で取られてしまう額やわあ。エルサレムに入った時、不正なしの料金で、きっちり三百デナリ、払ったわあ。」
「嘘だ!」
突然福銭が叫んだ。止めに入ってくれないか、と、
「エルサレムに入った時、税は帳簿だけつけていた。金は受け取ったことにしてたんだ。だから今、澹仰が三百デナリ、どこかに不正をして隠しているはずだ!」
「あらそう思うん? なら、うちの荷物、片っ端から調べてええよ。どうせ無いから。」
そう、無いのだ。何故ならそれは、私がベタニヤで使ったからだ。
本当に
「それはそうと、ねえ、みんな。」
やっと
「前から言っていたとおり、この中から引き渡しの取引に行く者がいる。」
「さあ、行きなさい。道中、それをひとりで全部食べるように。」
「ええ、承りました。それじゃあ皆さん、あんじょうよろしゅう。」
「いってて、何だよ、あの男女、人の頭蹴飛ばしやがって。」
澹仰の不正は、謦咳も知っているらしい。嫌悪感をあらわにするので、
いつかはきっとバレる、とは、初めから分かっていた。私は、そうしたらきちんと私が説明し、澹仰が如何に私に心を砕いてくれたのか説明する、と約束した。それなのに、何故こんなことになっているのだろう。
「
「そうですかね? ラビ。俺としちゃあ、後世にボアゲルネスなんて小洒落た名前が残った方が良いな。だって本名『かかと』だし。」
それは私への嫌味なんだろうか。
名前の話で
「さて、
「ボクはもうそろそろ皆とお別れするけれど、ボクはずっと、皆が仲良くお互いを労りあって愛し合うように言いつけてきたよね。それはボクが居なくなっても守ってね。皆はボクに沢山尽くしてくれて、ボクをラビと呼んで慕ってくれた。だからボクは、皆を弟子と呼んだね。だけどボクはもう、皆を弟子とは言わない。だって、下男というものは主人のすることや物思いは知らないでしょ? だからボクは皆を友だちと呼びました。だって、ボクは父から聞いたことを、今日までで全て、教えきったからね。」
そして、天を見て、両腕を広げて言った。
「父さん、全て終わり、時が来ました。皆ボクと友だちになりました。ボクのものは父さんの、父さんのものはボクのもの。だから皆は、父さんの友だちです。ボクは先にお側に参ります。だけど皆はこの世に残ります。だから、皆を一つにしてください。ボク達が一つであるように。皆は滅びる事はなく、またこれからも滅びません。ただ、滅びるべきものだけが滅びました。父よ、私を貴方が愛したように、皆も私を愛しました。だから私は、皆の中にいるのです。」
真夜中になって、私達はゲッセマネの園まで歩いた。どうも
「澹仰、帰ってこないね………。」
「ん………。そうだな。ベテパゲまで、そんなに無いはずなんだけど。」
「ベテパゲ?」
「ああ………。晩餐の前に、ぼくと澹仰、二人呼び出されて…ベテパゲの商人を、呼んでくるようにっていう………お使いを………。」
晩餐の最中、澹仰が飛び出して行ったのは、商人を呼びに行ったのか。結局晩餐には間に合わなかったようだが………罪深い商人がいたのだろうか。だとしたら残念だ。折角の過越祭の晩餐だったのに。
「お使いって、何の?」
「………。」
「
「………。」
眠ってしまったようだ。これで起きているのは、私だけになった。私だけでも起きていて祈って居なければ、と、意気込んでいたが、だんだんと眠くなってきた。
と、遠くから、集団の軍靴の音がした。
驚いて目を開く。まだ眠くて、視界がぼやけているが、ローマ兵達が剣や棒を携えて、歩いていった。その先頭にいるのは―――あれは、澹仰ではないだろうか?
どういうことだろう。ベテパゲに商人はいなかったのだろうか。だが、澹仰は捕らえられた訳ではないようだ。
様子を見に行こうと立ち上がった時、まるで蛇に絡め取られたかのように、私は猛烈な睡魔に襲われ、倒れ伏した。
「ヒコ………。」
逃げろ。そっちに、ローマ兵が行っている。
ローマの軍勢が、ユダヤ人の王になるお前を、滅ぼしに来た!
「起きろ、この腑抜け共!!」
ぐらっと頭を揺さぶられて、驚いて目を覚ます。すわ、私達も捕らえられるのか、と思ったが、私達を起こして回っているのは
「ラビがローマ兵に連れて行かれた! すぐに別の家で寝てる弟子どもも起こして隠れろ! 腕に覚えのある奴はラビを助けに行く手伝いをしろ!」
「いやだよぉ!」
「あの数のローマ兵だよ? おまけに澹仰が裏切ったんだ! オレ達の顔も実家も何もかも、きっとローマ兵達は知ってる。」
「だから何だってんだ!」
「逃げるべきだ! 今は逃げて生き延びて、腕に覚えのあるお前や
「あ、あれ!?
目を凝らして見渡したが、その場には私を含めて十人しかいなかった。
まさか、
「おい、どうした、
「嫌だアアアアアア!! もうイヤだよぉぉぉぉ!! もう誰も死なせないでえええええ!!!」
お願いします、お願いします。もうおいらから、だれも奪わないでください。
その後の展開は、皆知っている通りだ。この辺りはもう、私たちの仲間で文字を書ける者や、記憶力が良い者達が、記した通りだ。散り散りになっていたので、多少の違いはあるだろうが―――。おおむね、その通りだ。
私が特筆為るべきことといったら、一つだけだ。
四十日後に与えられた神の力ですら、私の脚の骨は増やせなかった。
そして、もう一つ
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