第十七話 三百日分の香油

 翌日、私達はエルサレムに入った。

エルサレム中が、私達を歓迎していたので、以前改心した取税人の家に女弟子達が、会堂長の家に男弟子達が集まった。過去、ひこばえが生き返らせた男の家には、私達十二弟子と、ひこばえが着席した。

 食事も終わった後、村長の家に行っていたはずの女弟子の一人が、大きな瓶を持って現れた。むわっと、濃厚な香油の匂いがする。本来その香油は心地よい香なのだろうが、濃すぎて悪臭になっている。弟子達が顔をしかめるのにも気にせず、女は死者にするように、ひこばえの頭に香油を注ぎだした。途端に激臭が、部屋中に拡がる。やはり薄めていないのだ。

「げほっげほっ…。なんだ、薄めてないのか?」

「それにしたって酷い! 死体につける香油だってこんなに臭くないぞ!」

 私は雪の埋葬を思い出した。あの時につけた香油には、少しでも臭いがしただろうか。

 当のひこばえは、目を閉じて油を受けている。雪のことを考えているのだろうか。香油がつぎ終わるまで、目を閉じて、祈っているように見えた。ひこばえは、この激臭が気にならないらしい。私は鼻をひくひく動かして、強烈な臭いに驚き、硬く縮まった筋肉を解した。

と、突然、すぐ隣でドンという激しい音がした澹仰せんごうだ。

「あんさん何してはりますの! これはただの香油や没薬やない、ナルドの香油や! その壺の細工とこの量、合わせたら三百デナリはくだらない、最高級品ですえ! それだけの大金があれば、この街に乞食はおらへんようになりますのに! 計算の出来ひん女子おなごはこれやからいかんのや!」

 三百デナリ、と、聞いて、私は胸から鳩尾にかけて、ぎゅうううっと縮んでいくような気分になった。まるで薪のささくれが、竃に入れられて縮むように。

 三百デナリを、私は二年半かけて集め、瞻仰せんぎょうの売春を止めようとした。毎晩毎晩買うことは出来なかったからだ。まとまった金でなければ、瞻仰せんぎょうの売春を止めることは出来ないと考えていたからこそ、だった。そして私は、皆よりも稼ぐのが遅かった。足萎えであることを理由に、あまり縁の無いと血では、仕事を貰えなかったりしたからだ。

 それでも、彼は毎日、私が稼いだことにしてくれていた。

澹仰せんごう、良いんだよ。これは必要なことだから。彼女はこの先のボクの為に必要なことをした。今しか出来ないことだからね。」

 ひこばえが穏やかに言う。怒り心頭の瞻仰せんぎょうは、文句を言いながらひこばえの頭の掃除を始めた。その一方で、嗣跟つぐくびすが澹仰に突っかかってきた。

「おい、澹仰。なんだってそんなにみみっちい事言うんだよ。」

 よりにもよってその相手が嗣跟つぐくびすだったことが、澹仰の癇に触ったようだった。

「なんですのん、大食らいで大所帯のうちらの会計をあずかってるのは、うちです。お金に手厳しいのは当たり前です。何がおかしいんですのん?」

「シラばっくれるなよ。俺達が金勘定に詳しくなくても、福銭は元取税人だぜ。お前が、二割と偽って三割献金させてるの、知ってるぞ。」

 思わず澹仰を庇おうとすると、私の服を澹仰が見えないように引っ張った。黙っていろ、ということだろう。

「へえ? うちを陥れる為に結託するなんて、ひこばえさまの評判を下げるようなこと、するんやねえ。なんや? この言葉遣いが気にいらんか? 北部訛りのあんさん方に合わせない、気取り屋言うんか? 嫌やわあ、本家の嫡男だっていうのに、随分と狭量だこと!」

「話を逸らすな! 丁度良い、今日から過越祭だ。この中で唯一の罪人のお前を恩赦してやる。だから返せよ。福銭が気付いた辺りから計算したら、三百デナリはあるはずだぞ!」

「三百デナリなんて、この大所帯でわらわら移動しとったら、取税人に一日で取られてしまう額やわあ。エルサレムに入った時、不正なしの料金で、きっちり三百デナリ、払ったわあ。」

「嘘だ!」

 突然福銭が叫んだ。止めに入ってくれないか、と、瞻仰せんぎょうひこばえを見ると、瞻仰せんぎょうは女弟子を罵りながら、ひこばえの頭を拭き、床を掃除していた。こちらの騒ぎには気付いていないらしい。

 ひこばえは、瞻仰せんぎょうと何かしら話しているようで、やはり気付いていないらしい。

「エルサレムに入った時、税は帳簿だけつけていた。金は受け取ったことにしてたんだ。だから今、澹仰が三百デナリ、どこかに不正をして隠しているはずだ!」

「あらそう思うん? なら、うちの荷物、片っ端から調べてええよ。どうせ無いから。」

 そう、無いのだ。何故ならそれは、私がベタニヤで使ったからだ。

 本当に嗣跟つぐくびすと福銭が探しに行こうとして、私は震えが止まらなかった。不審な動きをするな、バレる、と、澹仰は強く、私の手を握る。二人が席を立って背中を向けようとした、その時だった。

「それはそうと、ねえ、みんな。」

 やっとひこばえが、口を開いてくれた。私達の口論に気付いているのか居ないのか、何人かの弟子は、互いに足を洗っている最中だっ。ひこばえは、葡萄酒の入った杯に、余っていたパンを突っ込み、葡萄酒を吸わせた。それはまるで、血の滴る肉のようだった。

「前から言っていたとおり、この中から引き渡しの取引に行く者がいる。」

 ひこばえが、私の目線の少し横に、瞻仰せんぎょうと澹仰の目の前に、それを差し出す。瞻仰せんぎょうが手を出すより一拍早く、、澹仰がそのパンを受け取った。

「さあ、行きなさい。道中、それをひとりで全部食べるように。」

「ええ、承りました。それじゃあ皆さん、あんじょうよろしゅう。」

 澹仰せんごうが何を言っているのかは分からなかったが、嗣跟つぐくびすと福銭は、折角の追及の機会を奪われて不服そうだった。晩餐で腹は膨れているだろうに、澹仰はパンを口の中に押し込み、噛みしめる。その姿が何故か凜としていて、そして鬼気迫っていて、思わず黙ってしまった。澹仰せんごうはにっこりと、努めてにっこりと笑い、一体いつから洗足を怠けていたのか、転た寝する謦咳けいがいの頭に躓きながらも、靴を履かずに飛び出してしまった。

「いってて、何だよ、あの男女、人の頭蹴飛ばしやがって。」

 澹仰の不正は、謦咳も知っているらしい。嫌悪感をあらわにするので、ひこばえが諫めた。

 いつかはきっとバレる、とは、初めから分かっていた。私は、そうしたらきちんと私が説明し、澹仰が如何に私に心を砕いてくれたのか説明する、と約束した。それなのに、何故こんなことになっているのだろう。

謦咳けいがい澹仰せんごうだよ。男女じゃない。みんなも名前は大切にしようね。相手のもそうだけど、自分のもだよ。名前はその人そのものだ。名前を忘れたら、その人の人格まで忘れてしまう。家系図なんかそうだろう? おじいちゃんのおじいちゃんの性格は名前や渾名から何となく分かるけど、おじいちゃんのおかあさんの名前すら伝わってない。その人が正妻なのか後妻なのかもわからないんだ。そんなのはとても寂しい。」

「そうですかね? ラビ。俺としちゃあ、後世にボアゲルネスなんて小洒落た名前が残った方が良いな。だって本名『かかと』だし。」

 それは私への嫌味なんだろうか。

 名前の話で嗣跟つぐくびす瞻仰せんぎょうをからかうと、瞻仰せんぎょうは酷く気分を害したようだった。それに気付いたのか、ひこばえはそっと瞻仰せんぎょうに寄り添い、そして皆に言った。

「さて、澹仰せんごうもお使いに行ったことだし、ちょっと大事な話するから、みんな聞いてね。」

 瞻仰せんぎょうの声色が変わる。気のせいで無ければそれは、涙声だった。


「ボクはもうそろそろ皆とお別れするけれど、ボクはずっと、皆が仲良くお互いを労りあって愛し合うように言いつけてきたよね。それはボクが居なくなっても守ってね。皆はボクに沢山尽くしてくれて、ボクをラビと呼んで慕ってくれた。だからボクは、皆を弟子と呼んだね。だけどボクはもう、皆を弟子とは言わない。だって、下男というものは主人のすることや物思いは知らないでしょ? だからボクは皆を友だちと呼びました。だって、ボクは父から聞いたことを、今日までで全て、教えきったからね。」

 そして、天を見て、両腕を広げて言った。

「父さん、全て終わり、時が来ました。皆ボクと友だちになりました。ボクのものは父さんの、父さんのものはボクのもの。だから皆は、父さんの友だちです。ボクは先にお側に参ります。だけど皆はこの世に残ります。だから、皆を一つにしてください。ボク達が一つであるように。皆は滅びる事はなく、またこれからも滅びません。ただ、滅びるべきものだけが滅びました。父よ、私を貴方が愛したように、皆も私を愛しました。だから私は、皆の中にいるのです。」

 ひこばえが、年相応の言葉遣いをしたのは、三年間の放浪生活で、これが最初だった。


 真夜中になって、私達はゲッセマネの園まで歩いた。どうもひこばえは、特別一人で祈りたいことがあるらしい。謦咳、嗣跟つぐくびす恩啓おんけいの三名は、少し傍に行くことを許されたが、少し後をつけてみると、四人で円になって祈っている訳ではないようだ。ひこばえはいつものように両手を上に上げ、神からの言葉を待つようにではなく、俯せて、肩も震えている。まるで、何か神に懺悔するかのようだった。私は大丈夫かと声を欠けようかと思ったが、預言者が神と対話しているのを邪魔するのも、と、思い直し、有象無象が転がる茂みに戻った。皆、祈っているようにという言いつけを忘れて、眠ってしまっている。瞻仰せんぎょうだけが、辛うじて目を開けていたが、今にも座ったまま眠りそうだ。

「澹仰、帰ってこないね………。」

「ん………。そうだな。ベテパゲまで、そんなに無いはずなんだけど。」

「ベテパゲ?」

「ああ………。晩餐の前に、ぼくと澹仰、二人呼び出されて…ベテパゲの商人を、呼んでくるようにっていう………お使いを………。」

 晩餐の最中、澹仰が飛び出して行ったのは、商人を呼びに行ったのか。結局晩餐には間に合わなかったようだが………罪深い商人がいたのだろうか。だとしたら残念だ。折角の過越祭の晩餐だったのに。

「お使いって、何の?」

「………。」

瞻仰せんぎょう?」

「………。」

 眠ってしまったようだ。これで起きているのは、私だけになった。私だけでも起きていて祈って居なければ、と、意気込んでいたが、だんだんと眠くなってきた。

 と、遠くから、集団の軍靴の音がした。

 驚いて目を開く。まだ眠くて、視界がぼやけているが、ローマ兵達が剣や棒を携えて、歩いていった。その先頭にいるのは―――あれは、澹仰ではないだろうか?

 どういうことだろう。ベテパゲに商人はいなかったのだろうか。だが、澹仰は捕らえられた訳ではないようだ。

 様子を見に行こうと立ち上がった時、まるで蛇に絡め取られたかのように、私は猛烈な睡魔に襲われ、倒れ伏した。

「ヒコ………。」

 逃げろ。そっちに、ローマ兵が行っている。

 ローマの軍勢が、ユダヤ人の王になるお前を、滅ぼしに来た!


「起きろ、この腑抜け共!!」

 ぐらっと頭を揺さぶられて、驚いて目を覚ます。すわ、私達も捕らえられるのか、と思ったが、私達を起こして回っているのは嗣跟つぐくびすら三人だった。

「ラビがローマ兵に連れて行かれた! すぐに別の家で寝てる弟子どもも起こして隠れろ! 腕に覚えのある奴はラビを助けに行く手伝いをしろ!」

「いやだよぉ!」

 嗣跟つぐくびすが発破をかけていると、謦咳が情けない声を出した。

「あの数のローマ兵だよ? おまけに澹仰が裏切ったんだ! オレ達の顔も実家も何もかも、きっとローマ兵達は知ってる。」

「だから何だってんだ!」

「逃げるべきだ! 今は逃げて生き延びて、腕に覚えのあるお前や瞻仰せんぎょうなんかが―――あれ? 瞻仰せんぎょうは!?」

「あ、あれ!? 瞻仰せんぎょう? 瞻仰せんぎょう!?」

 目を凝らして見渡したが、その場には私を含めて十人しかいなかった。瞻仰せんぎょうの姿がどこにもない。

 まさか、瞻仰せんぎょうは既に………?

「おい、どうした、きびす。身体が震えて―――おい、きびす、しっかりしろ!」

「嫌だアアアアアア!! もうイヤだよぉぉぉぉ!! もう誰も死なせないでえええええ!!!」

 そそぐけい、父さん。

 お願いします、お願いします。もうおいらから、だれも奪わないでください。


 その後の展開は、皆知っている通りだ。この辺りはもう、私たちの仲間で文字を書ける者や、記憶力が良い者達が、記した通りだ。散り散りになっていたので、多少の違いはあるだろうが―――。おおむね、その通りだ。

 私が特筆為るべきことといったら、一つだけだ。

 四十日後に与えられた神の力ですら、私の脚の骨は増やせなかった。

 そして、もう一つひこばえ、否、メシアひこばえは、とんでもない置き土産を置いていった。

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