息子篇 彼こそは神の子

第十六節 三百日分の対価

 過越祭が終わって、暫くの間、私達はまた各地で伝道活動をした。ひこばえは中風の男を立ち上がらせさえもしたが、やはり私の片脚は萎えたままだった。

 私はあの裁判の後、澹仰とやりとりをした。そして、私も断食をし、節約に勤しんだ。瞻仰せんぎょうはすぐにそれに気付いたようだったが、最早何も感じていないのか、それとも私がそんな事を考えているとは思っていないのか、何も言わなかった。裁判の後、流石に行動を改めた弟子は何人かいたようだったが、やはり何人かは続けているらしい。私が意図的に瞻仰せんぎょうを真夜中までつなぎ止めていると、瞻仰せんぎょうはもう開き直って、

「じゃ、ちょっと仕事に行ってくるから。」

 と、あっさり席を立ってしまう。行かないでくれ、と、泣いて縋っても、

「じゃあ、お前がぼくを買ってくれる? あいつらより高く?」

 そう言われてしまったら、私は何もできなかった。家が違うということを確信したとはいえ、ずっと兄弟として育ってきたのだ。家族というものを私に教えてくれた人だ。どんな理由で、その彼に値段などつけられようか。ローマの国庫全てを差し出されても渡さない、大切な唯一の兄だというのに。

 昼間は何かと反感を買うひこばえを護るために喧嘩をこなし、夜は瞻仰せんぎょうの心変わりを信じて、毎晩無駄話や思い出話、時には泣き落としにもかけてみたが、瞻仰せんぎょうは色々な言葉で私の心をぼきんと折ってくる。

 その様子を知っているはずのひこばえは、何も言わなかった。瞻仰せんぎょうが蛇蝎の如く嫌っている薬光やっこうなどは、兄離れしろだの、自分の限界がどうのこうのと、見当違いな説教をしてきたが、気にしない。そんなことより、私は続けなければならないからだ。


 そんな暮らしが二年ほど続いた。私は何度も睡眠不足と過労で倒れたが、諦めずに断食と夜更かしを続けた。無論、そのうち一度たりとも、瞻仰せんぎょうが私を朝まで介抱してくれたことなどない。

昼頃、休みに来ていた瞻仰せんぎょうと、何時ものように瞻仰せんぎょうと机で向かい合う。瞻仰せんぎょうは説得する私には応じないものの、嫌な顔一つせず、聞いてくれている。

「はい、これ。」

「ん?」

 その日は過越祭が近く、私達はベタニヤ村に泊まることになっていた。既にこの村では、数年前蘖ひこばえが腐りかけの死者を生き返らせていたので、とても持てなされた。私は良い日に、この村のご馳走を食べることが出来た。何故なら、今夜からは断食をする必要が無いからだ。

「これ、ムナ金貨じゃないか! しかも三枚! 一枚百デナリ(約四十八万円)はする、ローマ高官の金だぞ! 何して手に入れた!?」

「盗んだんじゃないよ。分かりやすいように、高い両替料払って、三枚にしてもらった。」

 瞻仰せんぎょうの顔が、強張っている。本物なのか、偽物を掴まされていないか、心配なのか、品定めをする目つきが鋭い。ということは、瞻仰せんぎょうは、本物の銀貨を沢山みたことがあるのだ。

「それで買う。」

「え?」

瞻仰せんぎょうを買う。三ムナ(約百四十四万円)分、きっちり三百日。もう誰にも買われないで。三百分じゃ足りないなら、また追加で払うよ。だからもう、買われないで。」

「………。」

「お願い……。父さんだって、悲しむよ。」

 私が顔を覆って涙を隠すと、瞻仰せんぎょうが座り直して言った。

「………。きびす、これはお前に返す。」

 つまり、買わせてくれないということだ。

「なんでよ!! 足りないなら追加で払うって―――。」

「もう遅いんだ!」

 ダン、と、瞻仰せんぎょうが拳を握りしめ、唇を噛む。

瞻仰せんぎょう、血が………。」

「お前に初めて仕事を止められた時より、ぼく達は大きくなった。大きくなりすぎた。とてもじゃないけど、たった三百デナリじゃ、もう全員分のパンは買えない。なのにひこばえは、望む人間を全て迎え入れる。このままじゃ足りないんだ、きびす。全員の心を満たしたとしても、腹と納税はどうにもならない。」

「そんな………。じゃあ、せめて百日だけでも―――。」

「無理だ、きびす。大工の仕事と男娼の仕事は違う。客が飽きないように、客がいつでも欲情出来るようにしておくには、一晩だって欠けられない。根無し草のぼくを覚えていてもらうためには、僕自身だって犠牲にしなきゃならないことが沢山ある。たった四つの隅の親石を選べるようになるために、どれだけ時間をかけるか知ってるだろう? 同じだ。ベタニヤはエルサレムに近い。今のうちに、次の年の分まで、ある程度稼いでおかないといけないんだ。」

 エルサレムには、唯一のユダヤ人の神殿がある。あそこで働く祭司や、その関係者ならば、瞻仰せんぎょうのように美しければ、じゃらじゃら金を出すんだろう。だが私は、自分が二年半かけて、人にも協力してもらって貯めた三ムナで、瞻仰せんぎょうを救えないことが悲しかった。父のことをも考えると、胸が張り裂けて、その血が目から零れてくる。

「なんで………。どうしてそんなに、自分を大切にしないの? 瞻仰せんぎょうは「しょうせつ」のなんじゃ無いの!? 誰にも触られちゃ駄目なんじゃないの!?」

「………。そっか、割と早くから、お前も見てたんだな。なら尚のこと、止めてくれたらよかったのに。」

「とめる?」

 いきなり話が変わった。そして、瞻仰せんぎょうの顔つきも変わる。すっと椅子から立ち上がり、私のすぐ傍に近づいてきて、指先で頬を撫ぜる。

「気付いてたんだろう? 知ってたんだろう? だからそんな事が言えるんだよな?」

 あの夜のことだろうか。アレはどちらかというと、遭遇してしまったというのが正しいのだが。

 だが、瞻仰せんぎょうは信じられないことを言った。

「父さんがいない時、毎日ぼくがツィポラで大工たちに姦通されてたってこと。」

「………。え?」

 なにを、言っている。

 毎日? 姦通? 何を言っているのだ、瞻仰せんぎょうは。ツィポラで仕事をしていたあの時期と言えば、瞻仰せんぎょうは―――確か、十三歳だ。

 いや、待て、待て、待て。あの時、瞻仰せんぎょうは錯乱した。そして様々な言葉を父に浴びせ、罵って叩いた。その時何と言っていた? 何を言っていた? 思い出せ。駄目だ、思い出したら戻れない。

「まあ、仕方ないさ。実際ぼくは、そういう風に生きてきたからね。所詮他人から始まった家族、いつ壊れてもおかしくなかったとも。実際ぼくと漱雪は、父子でありながら夫婦のようなものだったしね。母さんが、神に操を立てていたから。漱雪は、母さんと夫婦になれなかったから。」

「待って、待って瞻仰せんぎょう、違う、おいらが言ってるのは―――。」

「お前も恩啓おんけいと同じだ。盗み食いを愉しんでおいて、後になって対価を払って、それでチャラにしようってか? ―――虫酸が走る。」

 何故だ。何故私が責められている。何故私は、犯してもいない罪で罵られている。瞻仰せんぎょうは男だ。女ではない。男が犯すのは、奪うのは、女だけだ。それは大王の時代からそうだったのだ。

 何故、男である私が、男である瞻仰せんぎょうを犯したことになっているのだ。

「でもまあ―――そうだな。三ムナもあれば、確かに安心は安心だ。買われてやるよ、きびす。何がしたい? どういうモノになってほしい? なんにでもなるよ。」

 そう言って微笑む瞻仰せんぎょうの顔を、私は絶望感に満ちた表情で見上げていた。何故ならそれは、夢で福銭に向けて見せていた笑顔と同じだったからだ。

 私は今、瞻仰せんぎょうに弟として見られていない。金と陰茎で暴力を奮う、腐った男として見られている。

「や、いやだ! 違う瞻仰せんぎょう、聞―――んっ!」

 瞻仰せんぎょうが素早く、私の声を掬い取り、舌の自由を奪った。口付けされたのだ、と、気付く頃には、私は腰砕けになっていて、椅子からずり落ちそうになっていた。瞻仰せんぎょうが片腕で私の腰を支え、自分の腰と密着させてから、床に私を寝かせる。その間、間違っても瞻仰せんぎょうの舌を噛まないように、私は大きく魚のように口を開けているしかなかった。唾液が泉のように湧きだし、ヨルダン川がいくつもいくつも溢れて流れる。舌が自分の意志とは違った動きをして嘔吐きそうだし、唾液が喉を逆らって行って気持ち悪い。頬を撫ぜる瞻仰せんぎょうの指先の心地よさがなかったら、どうなっていただろうか。私は瞻仰せんぎょうが息継ぎの為に、私の口腔に舌だけを残したその一瞬、唇で瞻仰せんぎょうの舌を締め出した。そして私の頬を撫でる指に縋り付く。怖くて恐ろしくて悲しくて、飲み込みたくない唾液と、流したくない涙で瞻仰せんぎょうの指を汚しながら震えた。

「はは、童貞にはちょっと刺激が強かったか? とりあえず筆おろしだけしておく? それとも一気に破裂したい?」

「や、やだ…やめて、せんぎょう………。おいらあやまる、おかねもあげる、だからもう―――。」

「もう入れさせて欲しいのか? ぼくはいつでもいいけど―――ん?」

 瞻仰せんぎょうが私の股間に触れ、何かに気付いたようだった。顔色を変え、真剣に私の股間を揉み込む。

「………。おい、きびす。」

「な、なに…?」

 瞻仰せんぎょうの声色は、もう違うものだった。瞻仰せんぎょうは、兄に戻っていた。ちょっと見るぞ、と、断って、優しく私の下着をたくしあげ、肌着をずらした。瞻仰せんぎょうに至近距離で陰茎を見られるのは、二度目だ。

 瞻仰せんぎょうは何か、あの時と同じように調べているようだった。撫でたり、擦ったり、何かで濡らしたり。

瞻仰せんぎょう…?」

きびす。お前、もしかして、射精したことないんじゃないか?」

「しゃ、しゃせい…? うん、したことない……。聞いたことしかない……。」

「………。」

 瞻仰せんぎょうは肌着、下着と元に戻し、今度は私の隣に座り、肩を抱いて、母親が赤子にするかのように、頭を撫で始めた。

瞻仰せんぎょう?」

「………ふふ、あはは………。あははははっ!」

瞻仰せんぎょう?」

「あー、良かった………。家族にヤられなくて。」

 よく分からないが瞻仰せんぎょうはホッとしたようだ。それに、家族と言ってもらえた。私は嬉しくて、私自身もホッとして、瞻仰せんぎょうの肩を抱き返す。

瞻仰せんぎょう?」

きびす、でも兄として、弟に言っておくぞ。男としても大事なことだからな。」

「?」

きびす。お前、不能だぞ。」

「ふのう?」

「今まで、男でも女でも、ぼくに欲情しなかったのは、年寄りと不能と、お前だけだ。お前はまだ三十六で年寄りとは言えない。寧ろ盛りだ。ということは―――。」

 瞻仰せんぎょうは、私の耳にはっきりと残るような声で、告げた。

「お前、不能だぞ。女が抱けない身体だ。きっと子供も残せない。」

 その時、私の心には、なにやらしっくりとくる、納得したような諦観のような、不思議な感覚が訪れた。

「そっか。」

「なんだ、悲しくないのか?」

「悲しむべきなんだろうけど……。だって、ほら。骨を数え間違えられたなら、機能を忘れられても仕方ないかなって。」

「………。ひこばえって、不能も癒やせるのかな? 足萎えやら手萎えやら、果ては中風まで治して見せたけど、萎えたちんこも癒やせるのか?」

「いいよ、別にどうでも。おいらみたいな奴に嫁がせたい父親なんて居ないよ。ひこばえは、王になった暁には沢山花嫁を娶るって言ってたけどね。」

「腰砕けちまうぞ、あんな事言ってたら。」

 アハハ、と、顔を合わせて笑っていると、ふと瞻仰せんぎょうが、いつの間にか腰帯の財布にしまい込んでいた三ムナを取り出して、しげしげと眺めた。

「しかしまあ……。よくこれだけ稼いだな。献金はしてたんだろ? 教団全体としては足りてなかったから、什一じゃなくて什二にしてたけど。」

「稼いだというか、節約したというか。」

「節約?」

「へへへ、瞻仰せんぎょうもよく知ってる人に、ちょーっといじってもらっちゃった。」

「…そっか。そんなに一緒にいたかったか。」

 『買いたかった』という表現をしなかった瞻仰せんぎょうに、酷く救われた気持ちになった。私は両手で抱きつき、子供の頃のように胸に頭をこすりつけて甘えた。

瞻仰せんぎょう瞻仰せんぎょう。もう誰にも、買われなくていいよね?」

「………。お前まで、ぼくの仕事を否定するのか?」

「じゃあ、じゃあ、おいらの知ってる人には、買わせないで。」

 もう驚かなかった。

「まったく………。悪い目玉だな、一体いつ盗み食いしてたんだ?」

「ね、約束して。買わせないで。買われそうになったら、おいらに言って。それより多く用意するから。一レプタ(約七十五円)だけかも知れないけど、多く払うから。だから、おいらの知ってる人には買われないで。」

 ひこばえの弟子同士で、そんなやりとりをしないで。

 ひこばえの弟子同士で、我欲によって金のやりとりをするのは、私と彼だけでいい。

「………。分かったよ、弟子の客は取らないようにする。」

 瞻仰せんぎょうが、大工の仕事と同じように売春の仕事にも胸を張っているというのなら、私はそれを否定したりはしない。例え律法が禁じていることであろうとも、瞻仰せんぎょうだけを処刑させたりはしない。

 自分を大切にしてほしい、というのは、きっと私の我儘で、身勝手な思いだ。瞻仰せんぎょう瞻仰せんぎょうで、きっと自分を大切にしている。

 その日、私達は昼間、仕事を休んでいる間、ほんの暫くの間、二人きりで兄弟に戻った。いつの間にか、瞻仰せんぎょうは眠っていた。穏やかな、寝顔だった。ずっと眠っていなかったからだろう。 

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