第十五節 姦通の■
杖をついていても、走る事は出来る。ただ、人より遅いことには変わりない。
中央に、赤い衣を被せられた人間が、引き摺られて突き出されていた。長く美しい髪と赤い衣で、顔だけは必死に隠しているが、背中を、太股を、腕を見れば、当然私には分かる。家族なのだから。
私が駆け寄ろうとすると、
「先生、貴方は律法を壊す為ではなく、完璧なモノにするために来たと、そう仰せになりましたね。」
すると、
「そうですよ。」
「では、こいつをどうするべきか、教えて下さい。先生、こいつは、たった今、姦通の現場にいた所を捕らえて参りました。こういう奴は、石で打ち殺せと、律法に書いてあります。預言者が石に律法を戴いた時から、我々はそのようにしてきました。何か間違っていますか? 解釈を間違えたりとかは?」
「いいえ、間違えていません。もし罪を犯したのなら、正義が為されなければなりません。そうでなければ、神の怒りが降り注ぐでしょう。」
待て、と言おうとしたが、その前に唾を撒き散らしながら畳みかける祭司に、喰われた。
「そして先生、貴方は何者にも、自分に対する負い目を赦すようにと仰っていますね。」
「ええ、言っています。」
では、
「では、こいつは正義のために、石で打つべきですか、打たないべきですか。それとも貴方が補完した新しい律法に従い、罪を赦すべきですか、赦さないべきですか。どうぞお答えください、神から来られた方! こういう姦通罪の者は、どうするべきですか!」
違う、違う、違う。そんなわけがない。そんなはずがない。姦通なんて、する必要が―――。
―――不義理を働いたんは
「………まさか」
本当に、売っていたというのか。七十二ディドラクマ分の節約じゃ間に合わなくて、節約を協力させるだけでは間に合わなくて、―――売春をしていたというのか。
―――ぼくはしょうせつのなの、だれもさわっちゃだめ!
あの夢を見たときのように、
すぐ目の前に、男達が持ち上げた石がある。それを奪ってやろうと思った。勿論投げるためだ。だが間違っても
客? 客とは誰だ。姦通は一人では犯せない。絶対に相手がいたはずだ。何故この場に引き出されているのが、一人だけなのだ!
今にも石の湯が吹きこぼれそうになった時、
「貴方方の中で、娼婦を買ったり、娼婦を生み出そうとしたり、そういう疚しいことがない人がいるなら、投げればよろしい。」
すると、言葉にならなかった罵声が、ピタッと病んだ。勢いづいていた男達の三分の二程が、勢いを無くし、互いに顔を見合わせ、ぶつぶつと何か言い合う。心当たりがあるのだ。
そして悔しそうに、年老いたものから去って行った。
どすんっ。
「きゃっ!」
大きな石が、
「僕は、落としました。石でくじを引くようにしました。ラビ、僕はまだ婚約者が生まれていません。その上実家も貧乏だから、買春する暇も余裕もないんです。唯一貴方の素晴らしい教えを聞くために、仕事の時間を減らして、より貧しい暮らしをしています。だから僕は、ラビの言うことはよく理解できます。僕は娼婦に疚しいことは何もありません。ですが、投げて明らかに殺すのは、ラビのご意向ではないと考えました。だから落としたのです。この売春婦がそれで死んでしまう事故が起きたのなら、それは僕の意志や、腕力のせいではありません。神が事故を引き起こしたのです。」
その、まるで未来に何が起きるのか分かっているかのような、いっそ清々しいまでの向こう見ずに、私は絶句した。驚嘆した。こんなバカがいるのか、と。
何故、不測の未来を考えないのかと。
「そうだそうだ! 俺には売女で遊ぶ金なんかねえ、これまでもこれからも、ずっと貧乏だ!」
少年があんまりにも自信満々に言うので、今にも去りそうだった中年の男達も自身を取り戻し始める。足下に置いた石をもう一度拾い、蛇が
まるで連中の一部にでもなったかのような、気色悪い体験だった。何人かの弟子や、尚も躊躇っていた善良で不真面目な人々も締め出され、愚昧な真面目人間だけがどんどん圧縮されていく。
ひょい、ひょい、と、子供におもちゃを投げるように、石が投げつけられ始めた。
「なんて丸くてけしからんケツだ。一体何人の男を咥えこんだのやら。そら。」
「乳もほとも見えなくても分かる。こいつは別嬪だぞ、肌と髪の感じだけで分かる。男を惑わず淫婦だ!」
「ラビを押し倒すという大それた事が出来るのだ。男慣れしたこんな穢れをもゆるしたら、イスラエル民族は神の守護を失う! 事故が起きるべきだ!」
どすん。こつん、ぱらぱら。どすっ。
「そうれ、売女、のぼっていけ! のぼっていけ!」
「なんだそれ、粋な掛声だな。ほうれ、のぼっていけ、のぼっていけ!」
民衆が、のぼっていけ、のぼっていけ、と、嘲笑いながら、石、否、小石や砂を放り投げる。命の危機がないからこそ、その光景は眩暈がするほど屈辱的だった。
「…
「うぷ…っ。」
悍ましさに身震いし、吐き気がした。本当に目の前の憎らしい正直者に、ひっかけてやろうかと思ったときだった。
「こらああああっっっ!!!」
誰かが遠くから怒鳴った。振り向くと、どこかでみたような男がいた。但し全裸で。上着と下着を両手でそれぞれ握り、片脚を挙げて挑発している。
この頃になると、もう十二弟子の弟子、つまり
全裸の孫弟子は言った。
「しっしっしっ!! 退け退け! 俺ァ知ってるぞ! お前等はいずれ不能になって、老いた妻よりも若者にぴちぴちさに浮気するようになるんだ! その時になって、こいつに石を投げたと後悔しても遅いんだぞ!! しっしっし! 帰れ帰れ! ほらお前もだよ、お前も! お前も! お前もだ! 全員年取って不能になるんだぞ!! 男なら皆そうだ! その時皆、娼婦に手を出すんだ! 未来にも罪を犯さない自信があろうと絶対そうなるんだ! 帰れ帰れ! 帰れっての!! しししししっ! しっしのしっ!」
しっしっ、と、民衆の頬を、両手の上着と下着が叩く。そして極めつけに二、三歩下がって、孫弟子は舌を顎が隠れるくらいに出して見せて、侮辱した。
「やーい! おまえらのちんこ、早漏短小~! 皮も被った偽イスラエル人~~!!」
すると今度は、長らく男性器の形に誇りを持って生きてきた、年を取った者の方から真っ赤になって全裸男に石を投げ始めた。
「神の民を馬鹿にして、この外国人め!」
「良く見ろメクラ! どっからどうみてもちょん切られてるっつの! おっととと! どこ狙って投げてやがる、暴発もお粗末だなぁ、娼婦でも相手にしないぜ!」
男達はもう、
「……兄さん、弟子の教育はしっかりしようよ。ラビの孫弟子になるんだよ、あの子。」
「……うん。」
肩を落とした
思い出した。あれは
いや、そんなことより今は
「痛くない? 大丈夫? にっちゃ。」
その時、漸く顔を伏せていた
「あ、待って、にっちゃ!」
「追いかけますか?」
なんでお前なんだ、
「ううん、ボクが行く。
なら、私も恐らくいない方が良いのだろう。私は微妙に納得していない
―――後に、この出来事は、
夕食を終えた頃、
「なあ、
少しムッとしたが、勤めて冷静に答えた。答える気にはなれないが、答えないと面倒だ。
「
「どういう意味?」
「ちょっと、おいらも疲れてるから、寝ようかな………。」
「兄弟三人だけで何か話事があるなら、寝室は俺等に渡せよな。あそこ、十五人は寝れるんだぞ。こっちは座るところも無くて数人立ってるのに。」
知るか。
「はいはい、じゃあそれ含めて、話してきますよ。」
なんだか疲れた。
「
「入ってきて。」
「なんだよ、なんか文句あるか。ぼくは仕事をしただけだ。」
「………
「何言ってる。ぼくが大工をしたら、お前の大工の仕事が無くなるだろ。」
「今日のことは、おいらのせいだって言いたいの!?」
「キビ兄違うよ! 落ち着いて!」
「お前のせいじゃない、お前らのせいだ! ぞろぞろぞろぞろ、ガキのションベンみたいにオトモダチお増やしやがって、どれだけの費用がかかってるのか、想像したこともないんだろ! それを工面して、
あの夢を思い出す。あれは夢なんかじゃなかったのだ。確かにあの場に私はいなかった。だから夢だ。だが現実だったのだ。全て、実際に起こっていたことだったのだ。
それも、あの時の会話も正しければ、幾度幾度、繰り返されていたことなのだ。
「とにかく、皆疲れてるはずだから、キビ兄、皆に寝るように言ってこよう。にっちゃ、話し合いをしよう。一応ついてきて」
「にっちゃって言うな。」
内心ホッとしていた。怒りも悔しさも悲しさもあるが、それを
「みんなー、ねえ、みんな。ちょっといい?」
私は笑顔で言えているだろうか。
「悪い、ちょっと
「えー? 抜け駆けか?」
「そうじゃないよ。今日ほら、危なかったでしょ? それについてね、兄二人からボクにお小言があるんだよ。」
「なーにがお小言だ、この向こう見ず。」
私は合わせて、わざとらしく鼻を鳴らした。しかし、皆納得してくれたらしく、ぞろぞろと素直に出て行った。ところが、
あの夢の通りなら、と、思うと、杖で殴り殺したくなってくるが、私はなるべく冷静に言った。
「どうしたんだよ、
教団から出て行け、と、私は戸口を指さす。
「いいよ、
―――が、意外なことに、引っ込んでいた
「あ、あの、せん―――。」
「ぼくがお前の金を入れた腰帯、戻ってきたら無かった。ヤり逃げの上に一人だけ晒し者にするとはね。皮も切ったばかりの童貞のくせに、随分と嘗めた真似をしてくれたもんだ。まあ、引っかかったぼくも、勘が鈍ってたんだろうけどサ。」
「え、お金は………。」
私はその時、対価に行動ではなく、金銭が使われていたことに衝撃を受けた。
しかも
「ナメたことしてんじゃねえぞ! ぼくはね、料金の話をしてるんじゃないんだ。お前が、ぼくという寝床の職人に、無償で、仕事をさせた挙げ句、この道で稼げなくするように
「にっちゃ落ち着いて!」
「
「そ、そんな、ボク…ボク………。」
「妄想童貞の暴走で随分と酷使してくれたじゃないか。エジプト一、輝いていたこのぼくの身体を! 必要も無く! そんな弩級の贅沢をしておきながら、いけしゃあしゃあと! 恥を知れ!! 乞食の方がまだぼくを大切にしてくれるってものだよ、金の価値をよく知ってるからね! どっかの愚弟の尻ぬぐいの次は、クソ童貞の上で尻踊りと来た! そうしたらその次は尻を見られながら石で殺されるとこだった! やっぱいいよ、ぼくはここから出てく! ヒコの尻ぬぐいも童貞の世話もしたくない!!」
「にっちゃ! 待って、落ち着いて!」
「ヒコ、お前も弟子にするなら、きちんと人を選べ。縁故で選ぶな! じゃあな!」
「にっちゃ、どこ行くのさ! 落ち着いて、話をしようよ!」
「生憎と、男娼ってのはどこでも引く手あまたなのさ、数が少ないからね! じゃあ、立派な先生になれよ!」
―――ぼくはしょうせつのなの、だれもさわっちゃだめ!
嘘だ、嘘だ、嘘だ。
「先生、すみませんが重いです、退いて下さい。」
この期に及んで、脳天気なことを言っている
「
「ほいほい。」
ことの重大さが分かっているのかいないのか、のたのたと嗣跟は出て行った。
ひとしきり泣いて、しゃくり上げるくらいになった頃、私は眠たくて仕方がなかった。
「落ち着いた?」
「にっちゃがね。」
「うん?」
「苦しんでるのが、苦しいの。」
「そうだな、兄弟だもんな。」
「ボク、皆が大事なのに、皆を大事にしてるのに、どうしてにっちゃはそれに気付かないの? にっちゃは絶対必要な人なのに。」
「伝わってないんじゃないかなあ。」
私は眠たくて、そんな生返事しか出来なかった。
「うん、伝わってない。今のボクじゃ伝わんない。もっと、命を賭けて愛してるって、示さなくちゃ。」
「…
「重くないもん、ほんとだもん。」
「はいはい、本当、本当。…って、それより、
「ボクが迎えに行く。」
「おいらも行こうか?」
「だいじょぶ。キビ兄、眠いんでしょ?」
確かに、目が乾燥して、瞬きをいくら繰り返しても、目元の違和感が拭えない。
「うん、眠い。」
「だから、ボク一人で行ってくる。大丈夫だよ、どこにいるか知ってるから。」
「流石預言者様。んじゃ、悪いけど任せるよ。心配だけど、気持ちだけ持ってってくれ。おいら、倒れそう。」
眠い、寝たい、と、頭の中がいっぱいになりつつ、ふと私は思い立った。
今度聞いてみよう………。
瞼を閉じてすぐに、鳥の声がする。構うものか、気の済むまで寝ていよう。
【続 神の愛した男(息子篇)―彼こそは神の子】
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