第十五節 姦通の■

 杖をついていても、走る事は出来る。ただ、人より遅いことには変わりない。若枝わかえに手を引かれ、転びそうになりながらも、私は人混みに向かって走った。

 中央に、赤い衣を被せられた人間が、引き摺られて突き出されていた。長く美しい髪と赤い衣で、顔だけは必死に隠しているが、背中を、太股を、腕を見れば、当然私には分かる。家族なのだから。

 私が駆け寄ろうとすると、若枝わかえが真っ青になりながらも引き留める。民衆の好奇と軽蔑の眼差しに、自分の兄が曝されているにもかかわらず、ひこばえは何も言わない。赤い布を握りしめた祭司が言った。

「先生、貴方は律法を壊す為ではなく、完璧なモノにするために来たと、そう仰せになりましたね。」

 すると、ひこばえは真っ直ぐに祭司を見つめた。そして重たい溜息をつき、転がっていた木の棒を拾って一言だけ答え、絵を描き始めた。

「そうですよ。」

「では、こいつをどうするべきか、教えて下さい。先生、こいつは、たった今、姦通の現場にいた所を捕らえて参りました。こういう奴は、石で打ち殺せと、律法に書いてあります。預言者が石に律法を戴いた時から、我々はそのようにしてきました。何か間違っていますか? 解釈を間違えたりとかは?」

「いいえ、間違えていません。もし罪を犯したのなら、正義が為されなければなりません。そうでなければ、神の怒りが降り注ぐでしょう。」

 待て、と言おうとしたが、その前に唾を撒き散らしながら畳みかける祭司に、喰われた。

「そして先生、貴方は何者にも、自分に対する負い目を赦すようにと仰っていますね。」

「ええ、言っています。」

 では、瞻仰せんぎょうは無事なのだろうか。否や、律法に逆らうことは、ひこばえはしないはずだ。兄として家族として、不甲斐いないことこの上ないが、ひこばえに神が智慧を授けてくれることを必死に祈った。

「では、こいつは正義のために、石で打つべきですか、打たないべきですか。それとも貴方が補完した新しい律法に従い、罪を赦すべきですか、赦さないべきですか。どうぞお答えください、神から来られた方! こういう姦通罪の者は、どうするべきですか!」

 違う、違う、違う。そんなわけがない。そんなはずがない。姦通なんて、する必要が―――。

 ―――不義理を働いたんは瞻仰せんぎょうはんのほうや!

「………まさか」

 本当に、売っていたというのか。七十二ディドラクマ分の節約じゃ間に合わなくて、節約を協力させるだけでは間に合わなくて、―――売春をしていたというのか。

 ―――ぼくはしょうせつのなの、だれもさわっちゃだめ!

 あの夢を見たときのように、瞻仰せんぎょうに誰かが触って狂わせたのか! 

 すぐ目の前に、男達が持ち上げた石がある。それを奪ってやろうと思った。勿論投げるためだ。だが間違っても瞻仰せんぎょうにではない。客にだ。

 客? 客とは誰だ。姦通は一人では犯せない。絶対に相手がいたはずだ。何故この場に引き出されているのが、一人だけなのだ!

 今にも石の湯が吹きこぼれそうになった時、ひこばえが地面から顔を遠ざけて、とんとん、と、注目させるように、地面を叩いた。誰も注目しない。ひこばえは大きく溜息をついて、言った。

「貴方方の中で、娼婦を買ったり、娼婦を生み出そうとしたり、そういう疚しいことがない人がいるなら、投げればよろしい。」

 すると、言葉にならなかった罵声が、ピタッと病んだ。勢いづいていた男達の三分の二程が、勢いを無くし、互いに顔を見合わせ、ぶつぶつと何か言い合う。心当たりがあるのだ。

 そして悔しそうに、年老いたものから去って行った。

 ひこばえの言葉の含蓄は分からなかったが、とにかく瞻仰せんぎょうが助かった。私が駆け寄ろうと一歩前に踏み出したとき、それより半歩早く、成人したばかりらしい少年が、近づいていった。助け起こしてくれるのかも知れないが、今の瞻仰せんぎょうにはあまり触れない方が―――。

 どすんっ。

「きゃっ!」

 大きな石が、瞻仰せんぎょうの背中に落下する。その様子を見て、瞻仰せんぎょうが唇を噛んだのが分かった。骨に日々が入ってしまったのでは無いかと言うほどの鈍い音に、女達と、それから何故か恩啓おんけいが悲鳴をあげる。

 ひこばえは慌てて瞻仰せんぎょうに駆け寄って、背中の傷に手を当てると、少年から護るように覆い被さった。そして少年を張り飛ばして叱りつけたが、少年は驚くべき言葉を言い放った。

「僕は、落としました。石でくじを引くようにしました。ラビ、僕はまだ婚約者が生まれていません。その上実家も貧乏だから、買春する暇も余裕もないんです。唯一貴方の素晴らしい教えを聞くために、仕事の時間を減らして、より貧しい暮らしをしています。だから僕は、ラビの言うことはよく理解できます。僕は娼婦に疚しいことは何もありません。ですが、投げて明らかに殺すのは、ラビのご意向ではないと考えました。だから落としたのです。この売春婦がそれで死んでしまう事故が起きたのなら、それは僕の意志や、腕力のせいではありません。神が事故を引き起こしたのです。」

 その、まるで未来に何が起きるのか分かっているかのような、いっそ清々しいまでの向こう見ずに、私は絶句した。驚嘆した。こんなバカがいるのか、と。

 何故、不測の未来を考えないのかと。

「そうだそうだ! 俺には売女で遊ぶ金なんかねえ、これまでもこれからも、ずっと貧乏だ!」

 少年があんまりにも自信満々に言うので、今にも去りそうだった中年の男達も自身を取り戻し始める。足下に置いた石をもう一度拾い、蛇が蜷局とぐろを巻くようにずりずりと近づいていった。その波に飲み込まれ、私と若枝わかえも二人に近づく。

 まるで連中の一部にでもなったかのような、気色悪い体験だった。何人かの弟子や、尚も躊躇っていた善良で不真面目な人々も締め出され、愚昧な真面目人間だけがどんどん圧縮されていく。

 ひょい、ひょい、と、子供におもちゃを投げるように、石が投げつけられ始めた。ひこばえは彼等を止める言葉を発すること無く、瞻仰せんぎょうの身体を自分の身体の下に押し込め、しまい込む。

「なんて丸くてけしからんケツだ。一体何人の男を咥えこんだのやら。そら。」

「乳もほとも見えなくても分かる。こいつは別嬪だぞ、肌と髪の感じだけで分かる。男を惑わず淫婦だ!」

「ラビを押し倒すという大それた事が出来るのだ。男慣れしたこんな穢れをもゆるしたら、イスラエル民族は神の守護を失う! 事故が起きるべきだ!」

 どすん。こつん、ぱらぱら。どすっ。

「そうれ、売女、のぼっていけ! のぼっていけ!」

「なんだそれ、粋な掛声だな。ほうれ、のぼっていけ、のぼっていけ!」

 民衆が、のぼっていけ、のぼっていけ、と、嘲笑いながら、石、否、小石や砂を放り投げる。命の危機がないからこそ、その光景は眩暈がするほど屈辱的だった。

「…きびすさん? 大丈夫ですか、酷い顔色!」

「うぷ…っ。」

 悍ましさに身震いし、吐き気がした。本当に目の前の憎らしい正直者に、ひっかけてやろうかと思ったときだった。

「こらああああっっっ!!!」

誰かが遠くから怒鳴った。振り向くと、どこかでみたような男がいた。但し全裸で。上着と下着を両手でそれぞれ握り、片脚を挙げて挑発している。

この頃になると、もう十二弟子の弟子、つまりひこばえの孫弟子というのが出てきていたので、恐らくそれの誰かだろう。かくいうこの隣の若枝わかえも、瞻仰せんぎょうの弟子だ。

全裸の孫弟子は言った。

「しっしっしっ!! 退け退け! 俺ァ知ってるぞ! お前等はいずれ不能になって、老いた妻よりも若者にぴちぴちさに浮気するようになるんだ! その時になって、こいつに石を投げたと後悔しても遅いんだぞ!! しっしっし! 帰れ帰れ! ほらお前もだよ、お前も! お前も! お前もだ! 全員年取って不能になるんだぞ!! 男なら皆そうだ! その時皆、娼婦に手を出すんだ! 未来にも罪を犯さない自信があろうと絶対そうなるんだ! 帰れ帰れ! 帰れっての!! しししししっ! しっしのしっ!」

 しっしっ、と、民衆の頬を、両手の上着と下着が叩く。そして極めつけに二、三歩下がって、孫弟子は舌を顎が隠れるくらいに出して見せて、侮辱した。

「やーい! おまえらのちんこ、早漏短小~! 皮も被った偽イスラエル人~~!!」

すると今度は、長らく男性器の形に誇りを持って生きてきた、年を取った者の方から真っ赤になって全裸男に石を投げ始めた。

「神の民を馬鹿にして、この外国人め!」

「良く見ろメクラ! どっからどうみてもちょん切られてるっつの! おっととと! どこ狙って投げてやがる、暴発もお粗末だなぁ、娼婦でも相手にしないぜ!」

 男達はもう、瞻仰せんぎょうには興味が無かった。瞻仰せんぎょうに落とさなかった石を銘々に拾い、殺意も新たに追い駆け出す。孫弟子は、悪霊に取り憑かれたかのように、上着と下着を振り回し、その場から走り去った。

「……兄さん、弟子の教育はしっかりしようよ。ラビの孫弟子になるんだよ、あの子。」

「……うん。」

 肩を落とした謦咳けいがいの恥ずかしそうなことと言ったらない。

 思い出した。あれは武都守たけつかみだ。瞻仰せんぎょうの友人らしいが、あまり話したことは無いからよく分からない。話によると、私たちがツィポラで治水工事をしているときにやってきたら絵描きだったそうなのだが、覚えていない。

 いや、そんなことより今は瞻仰せんぎょうだ。私は武都守たけつかみの奇行に皆が呆気にとられているうちに、なんとか杖で力強く地面を突いて、瞻仰せんぎょうの元へ走った。何故か恩啓おんけいまで走ってくる。

瞻仰せんぎょうは、恥辱のためか震えている。ひこばえは、何を言うよりもまずは、体についた泥を擦り落とし、抉れた傷に触れて癒していった。細かい掠り傷でも、重なればそれは深い傷になるし、砂をかけられれば熱病に取り憑かれることもあるからだろう。

「痛くない? 大丈夫? にっちゃ。」

 その時、漸く顔を伏せていた瞻仰せんぎょうが顔を上げた。顔にも血が流れている。痛そう、と、ひこばえがその傷を癒すのとほぼ同時に、瞻仰せんぎょうひこばえを引っぱたき、その場から走り去ってしまった。

「あ、待って、にっちゃ!」

「追いかけますか?」

 なんでお前なんだ、恩啓おんけい

「ううん、ボクが行く。恩啓おんけい、君は皆をまとめて、宿に帰っていて。ボクが連れて帰ってくるから。」

 なら、私も恐らくいない方が良いのだろう。私は微妙に納得していない恩啓おんけいに、文字通り後ろ足で砂をかけて、皆と私が起きた家に戻った。


 ―――後に、この出来事は、恩啓おんけいのみが、『姦通の女』として記録している。


 夕食を終えた頃、ひこばえ瞻仰せんぎょうが帰って来た。恐らく服を誂えて、宥めるのに時間をかけたのだろう。うっすら紫色のような気もする着物を着て帰って来た。食事は既に二人で済ませてきた、疲れたからもう寝たい、と、二人は一足先に寝室へ向かった。私も様子を見に行こう、とすると、嗣跟に呼び止められた。

「なあ、瞻仰せんぎょうってさ、特別ラビと仲良かったのか?」

 少しムッとしたが、勤めて冷静に答えた。答える気にはなれないが、答えないと面倒だ。

瞻仰せんぎょうと? どうだろうね。ただ、貴方がご存知のように、うちはちょっと複雑ですからね。瞻仰せんぎょうとヒコ……ひこばえ先生はおいらよりも付き合いが長いから、仲良いんじゃないんすか?」

「どういう意味?」

 恩啓おんけいに説明する気にはもっとなれなかったので、私は無視して立ち上がった。

「ちょっと、おいらも疲れてるから、寝ようかな………。」

「兄弟三人だけで何か話事があるなら、寝室は俺等に渡せよな。あそこ、十五人は寝れるんだぞ。こっちは座るところも無くて数人立ってるのに。」

 知るか。

「はいはい、じゃあそれ含めて、話してきますよ。」

 なんだか疲れた。


瞻仰せんぎょうひこばえ、おいらだよ。入ってもいい?」

「入ってきて。」

 ひこばえが答えたので、私はそっと中に入った。瞻仰せんぎょうは、眠気を通り越して眠くなくなったかのような目つきで、私をも睨んでくる。

「なんだよ、なんか文句あるか。ぼくは仕事をしただけだ。」

「………瞻仰せんぎょう、君は大工じゃ、なかったの。」

「何言ってる。ぼくが大工をしたら、お前の大工の仕事が無くなるだろ。」

「今日のことは、おいらのせいだって言いたいの!?」

「キビ兄違うよ! 落ち着いて!」

「お前のせいじゃない、お前らのせいだ! ぞろぞろぞろぞろ、ガキのションベンみたいにオトモダチお増やしやがって、どれだけの費用がかかってるのか、想像したこともないんだろ! それを工面して、ひこばえのやりたいようにさせてやる、それがぼく達弟子の仕事じゃないか! だから十二人のうちの九人は、断食をしたんだよ!」

 あの夢を思い出す。あれは夢なんかじゃなかったのだ。確かにあの場に私はいなかった。だから夢だ。だが現実だったのだ。全て、実際に起こっていたことだったのだ。

 それも、あの時の会話も正しければ、幾度幾度、繰り返されていたことなのだ。

「とにかく、皆疲れてるはずだから、キビ兄、皆に寝るように言ってこよう。にっちゃ、話し合いをしよう。一応ついてきて」

「にっちゃって言うな。」

 内心ホッとしていた。怒りも悔しさも悲しさもあるが、それを瞻仰せんぎょうにぶつけるのは間違っていると分かっていたし、それでも瞻仰せんぎょうにしかぶつけようがなかったからだ。


「みんなー、ねえ、みんな。ちょっといい?」

 私は笑顔で言えているだろうか。

「悪い、ちょっとひこばえ先生と打ち合わせしなきゃいけないんだ。夜遅くまでかかりそうだから、みんな悪いんだけど、もう寝室に行ってくれない? 代わりにおいら達ここで寝るからさ。ちょっと三人にして欲しいんだ。」

「えー? 抜け駆けか?」

 謦咳けいがいが言うと、ひこばえは笑いながら否定した。流石だ、完璧な笑顔だ。

「そうじゃないよ。今日ほら、危なかったでしょ? それについてね、兄二人からボクにお小言があるんだよ。」

「なーにがお小言だ、この向こう見ず。」

 私は合わせて、わざとらしく鼻を鳴らした。しかし、皆納得してくれたらしく、ぞろぞろと素直に出て行った。ところが、恩啓おんけいと嗣跟が残っていた。

 あの夢の通りなら、と、思うと、杖で殴り殺したくなってくるが、私はなるべく冷静に言った。

「どうしたんだよ、恩啓おんけい。従兄弟はだめだぞ。」

 教団から出て行け、と、私は戸口を指さす。

「いいよ、きびす。この二人は知ってるから。」

 ―――が、意外なことに、引っ込んでいた瞻仰せんぎょうが、恩啓おんけいを何故か、私達の話し合いに参加することを許可した。そして肌の粟立つような殺気を出しながら、恩啓おんけいの前に仁王立ちになる。

「あ、あの、せん―――。」

「ぼくがお前の金を入れた腰帯、戻ってきたら無かった。ヤり逃げの上に一人だけ晒し者にするとはね。皮も切ったばかりの童貞のくせに、随分と嘗めた真似をしてくれたもんだ。まあ、引っかかったぼくも、勘が鈍ってたんだろうけどサ。」

「え、お金は………。」

 私はその時、対価に行動ではなく、金銭が使われていたことに衝撃を受けた。

 しかも恩啓おんけいは、その未払いの金を払えば良いと思ったらしく、腰帯に手を伸ばす。当然のようにその行動は瞻仰せんぎょうの逆鱗に触れ、手と財布を蹴り上げた。後ろに用心棒のように立っていた嗣跟が出てこようとしたので、私は杖の長さを遣い押さえつけ、そのまま抱きつくように押しとどめる。ひこばえは、今にでも馬乗りになりそうな瞻仰せんぎょうを羽交い締めにして、ぽかんとしている恩啓おんけいを庇った。

「ナメたことしてんじゃねえぞ! ぼくはね、料金の話をしてるんじゃないんだ。お前が、ぼくという寝床の職人に、無償で、仕事をさせた挙げ句、この道で稼げなくするように嗣跟つぐくびすさまと計略を図ったことを言ってるんだよ!」

「にっちゃ落ち着いて!」

嗣跟つぐくびすさま、後で言って聞かせますから、ここは堪えて、堪えて!」

「そ、そんな、ボク…ボク………。」

「妄想童貞の暴走で随分と酷使してくれたじゃないか。エジプト一、輝いていたこのぼくの身体を! 必要も無く! そんな弩級の贅沢をしておきながら、いけしゃあしゃあと! 恥を知れ!! 乞食の方がまだぼくを大切にしてくれるってものだよ、金の価値をよく知ってるからね! どっかの愚弟の尻ぬぐいの次は、クソ童貞の上で尻踊りと来た! そうしたらその次は尻を見られながら石で殺されるとこだった! やっぱいいよ、ぼくはここから出てく! ヒコの尻ぬぐいも童貞の世話もしたくない!!」

「にっちゃ! 待って、落ち着いて!」

「ヒコ、お前も弟子にするなら、きちんと人を選べ。縁故で選ぶな! じゃあな!」

「にっちゃ、どこ行くのさ! 落ち着いて、話をしようよ!」

「生憎と、男娼ってのはどこでも引く手あまたなのさ、数が少ないからね! じゃあ、立派な先生になれよ!」

 ―――ぼくはしょうせつのなの、だれもさわっちゃだめ!

 嘘だ、嘘だ、嘘だ。

 瞻仰せんぎょうは愛しているはずだ。父を、漱雪しょうせつを愛していたはずだ。あんなに表情が違うのだ。あんなに言葉が違うのだ。引く手数多なのは本当なのかも知れないが、それは断じて、瞻仰せんぎょうの望みではない。本当なら、父以外に本来触られることのないはずの、ここに居たいはずだ。それなのに、背中は消えていく。突き飛ばされたひこばえの下敷きになっている重みが、まるで瞻仰せんぎょうの背負う苦しみのように重い。きっと私が知っている事よりも、聞いていることよりも、もっともっと、悲しいことを瞻仰せんぎょうは背負っているのだ。

「先生、すみませんが重いです、退いて下さい。」

 この期に及んで、脳天気なことを言っている恩啓おんけいを殴ろうかと思ったが、その前に、ひこばえが大声で泣き出した。慌てて私は、他の弟子達が起き出さないように、ひこばえを胸に抱きしめ、泣き声を封じる。ひこばえは私の上着の裾を掴み、赤子のように泣いた。

嗣跟つぐくびすさま、ここはおいらに任せて下さい、こんなに激しく泣いてる姿、他の人に見せたらラビとしての威厳に関わりますから、皆さんを寝室で抑え込んどいて下さい、お礼は後で考えます、とにかくすぐにお願いします!」

「ほいほい。」

 ことの重大さが分かっているのかいないのか、のたのたと嗣跟は出て行った。


ひとしきり泣いて、しゃくり上げるくらいになった頃、私は眠たくて仕方がなかった。

「落ち着いた?」

「にっちゃがね。」

「うん?」

「苦しんでるのが、苦しいの。」

「そうだな、兄弟だもんな。」

「ボク、皆が大事なのに、皆を大事にしてるのに、どうしてにっちゃはそれに気付かないの? にっちゃは絶対必要な人なのに。」

「伝わってないんじゃないかなあ。」

 私は眠たくて、そんな生返事しか出来なかった。

「うん、伝わってない。今のボクじゃ伝わんない。もっと、命を賭けて愛してるって、示さなくちゃ。」

「…ひこばえ、それ、家族以外に言うなよ。重いから。」

「重くないもん、ほんとだもん。」

「はいはい、本当、本当。…って、それより、瞻仰せんぎょうどうする?」

「ボクが迎えに行く。」

「おいらも行こうか?」

「だいじょぶ。キビ兄、眠いんでしょ?」

 確かに、目が乾燥して、瞬きをいくら繰り返しても、目元の違和感が拭えない。

「うん、眠い。」

「だから、ボク一人で行ってくる。大丈夫だよ、どこにいるか知ってるから。」

「流石預言者様。んじゃ、悪いけど任せるよ。心配だけど、気持ちだけ持ってってくれ。おいら、倒れそう。」

 ひこばえはごしごしと目元を拭い、うんっ、と、笑って見せて、バタバタと駆けだして言った。

 眠い、寝たい、と、頭の中がいっぱいになりつつ、ふと私は思い立った。

 ひこばえは、今年で三十一になる。私の事は幼い頃から『キビ兄』と呼んでいたが、子供だったからか、瞻仰せんぎょうの事は『にっちゃ』と呼んでいた。しかし、今でもひこばえは、このように家族しかいない場所では、『にっちゃ』と呼ぶ。時々、他の弟子がいても呼んでいる。あれはついうっかりなのだろうが―――私には少なくとも、わざとひこばえが幼児の真似を、瞻仰せんぎょうにだけしているようにしか見えない。

 今度聞いてみよう………。

 瞼を閉じてすぐに、鳥の声がする。構うものか、気の済むまで寝ていよう。


【続 神の愛した男(息子篇)―彼こそは神の子】

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