第十四節 百四十四枚の銀貨
その夢は、それから二度と見ることはなかった。けれども、あまりにもあの光景が恐ろしすぎて、私は一人で抱え込めなくなった。どこかで吐き出さないと、何かで吐き出さないと、と、考え、私は
その日は、エルサレムに入るのを明日に控え、近くの城下町の名士の家に泊まっていた。
「じゃあ、あの山で言っていた『自分の失敗を笑う』というのは、そういう意味ではなくて。」
「そう、くよくよしない、自分をいじめない、ということ。そういう失敗は、全て神が笑顔に変えてくれる。」
「じゃあ、じゃあさ。」
「うん?」
「…誰かの失敗の所為で、誰かが不幸になったら、どうすればいいんだ?」
私の脳裏には、幼い頃から虐げられて、挙句の果てに殺された弟妹のことが頭にあった。
穢れ、不完全、恥になる者。
そんな言葉を撥ね除けるほどに光り輝いていた、私の弟妹。誰の前に出しても恥ずかしくない、一族の恥さらしモノ。穢れた祖先の女が産んだ子供。
それらを引き取り、穢れに囲まれていなくなった、父と
誰かの失敗のせいで、弟妹たちは、不幸になった。その誰かを責めることなど出来ないから、不幸になった方が悪い、と、イスラエルは代々律法に記してきた。
何と言うのか。お前は裁くのか、実の弟妹も、自分の理想の為に裁くのか。
「そんなの、ボクが知るもんかい。」
「はぁー!?」
思わず立ち上がりそうになった私を諫めるように、だって、と、
「だって、その人達がどうやって幸せになるのか、ボク知らないもん。ボクが知ってるのは、父が知っているということだけ。」
「じゃあ何か? いつ報われるのか分からず、ずっと失敗したとばっちりを受けたまま、にこにこにこにこ暮らしてろってか?」
「にこにこしてたらそりゃいいけど、にこにこしてなくても、笑顔になる日は来るよ。」
「だから、それはいつだってんだよ! 失敗を押しつけられて何日後なんだ!」
「もうなってる。」
確かに、
「このバカ―――。」
ガシャーンッ!
私が
ピシャン、ピシャン、と、何かを引っぱたくような音がする。
「
「行ってきて。」
随分持ち上げられて、気位が高くなったもんだ、と、私は隣の部屋に行った。
―――その姿が、あの夢の中のようで。
「―――ウアアアアア!!
私は杖を真っ直ぐに投げて、
「
「………うるせえな。気は確かだよ。」
「なんて、なんてことすんだよ、おいらの、おいらの兄さんなのに!」
「なんてこと、は、コッチの台詞やわァ!! こんな、こんな………!!! この、おたんこなす!!! この商品、こんな値段で……!! 単価が安ければ誤魔化せると思たんか!? 大概におしやす、アホや! こんなん、もう見ておまへん!
「なら、ぼくも言うよ。お前がユダヤ地方を追い出された理由、見当がついてるからね。だって、その金額の内面を見抜ける男なんだから。」
何を牽制し合っているのかは分からないが、私はとにかく、あの気持ち悪い夢のことを思い出して、叫んだ。
「
「不義理を働いたんは
「なんでよ!
「なんも知らへんのはおまへの方や、
鞭のような一喝だった。私は
「あんたはん、生まれつきの穢れ持ちやな。杖持っとったら走る事だって出来る。よぉ頑張んなさったわ。うちは両脚ありますえ、どれほど血の滲む努力したんか分からへんよ。でもな、
「ほ…骨の、揃ってる奴が、何、世迷い言を!!」
「あんたはんは分かってない!! 自分の思い通りにすることがどれほど苦しいことか、分かってへんのや!!」
怒りも最大限だったし、それ以前に何を言っているのか、もう分からなくなっていた。私はとにかく、あの悪い夢の方のことしか頭に無くて、謝れ、謝れ、と、叫んだ。騒ぎを聞きつけて、次々人が、弟子達がやってくる。勿論嗣跟も、福銭も、
「おまえら全員、
「
私は目からも鼻からも、ぼたぼた垂らしながら、赤ん坊の引き付けのように暴れた。添え木が壊れた辺りまでは、意識があった。
その後の事は良く覚えていない。ずっと誰かが言い争っていたようにも思えるし、誰かがずっと傍に居たような気がする。歩きながら、ずっと泣いて喚いていた。そうこうしているうちに、エルサレムに入ったらしい。どこかの家で泣き疲れて寝ているところ、目を覚ましたのだ。
「…あ゛っ?」
酷い声が出た。相当泣き叫んでいたらしい。顔は目元ならず全体が熱くて痛い。頭が重くて、喉も痛い。部屋の中には誰もいなかった。恐らく
「あ、
「………なんだ、
手元に、私に飲ませる為の杯と、酢水か葡萄酒が入っているらしい小さな瓶を持って、にっこり笑う。
私はことの騒ぎが鎮まった後、一日暇を貰い、シロアムの池に行って脚を浸してきた。だが、骨が増えることは無かった。その証拠に、添え木を取って立ち上がろうとし、ぐにゃりと脚を曲げた姿を見て、乞食達に犬の糞を投げられた。当てつけるようにシロアムの池の水で顔を洗って、悔し涙を流しながら、女達に洗濯を頼んだ。
そういう経緯があったので、私は正直、
「
先生、とは、
「いや………。」
言葉を濁したところで、どうにもならないことは分かっている。しかし、だからこそ誤魔化したくて仕方がない。夢見が悪かっただけ、と言っても、
しかし、
「そうですか。言いたくないようなことなら大丈夫です。でも先生は、私を救ってくれたお方ですから、もし先生に何か危機が迫っているなら、教えてくださいね。」
それは間違いなく、
「そうだな、
「え?」
「シロアムの池と、
「……………。ああ、なんだ、そんなこと気に病んでたんですか?」
やっと思い至ったように言って、
「その時その時、一番いい時に、そのようになるんだって、ラビが言ってましたよ。よく分からないけど。」
「へー。」
葡萄酒に口をつけると、自分が存外、喉が渇いていることが分かった。一気に飲み干すと、すぐに
「皆は?」
「私と
「ふーん………。…なあ、
「え? ああ、十二弟子たちの間で、流行っていたアレですか? いえ、私達は
「それで、神殿に納めたのって、結局どれくらい?」
寡に納税義務はないし、その程度のちまちました節約で生まれる額など、たかが知れている。そうだ、
「確か、七十二ディドラクマ(六十九万一千二百円)。」
「ごほっ!」
私は盛大に葡萄酒を杯の中に吐き出した。慌ててそれを飲み直し、杯を空ける。
「で、ディドラクマ(約九千六百円)がないからって、ごっそりドラクマやデナリなんかを乱暴につかみ取りして、何人かで分けて持って行きました。」
「……そりゃそうだろな。」
ディドラクマと言ったら、二日分の給料だ。否、この大所帯だったら、確かに神殿への納入金はそれ程になる。律法の上では定められていない税金も取られる昨今だ。もしかしたらそれでも足りないかも知れない。
となると―――。
疚しいことはしていない、でも不義理を働いた。どういう意味なんだろうか。
「なんか……。」
「どうした?
「………様子がおかしいわ、見に行きましょう!」
私は嫌な予感がしながらも、杖をついて同じ窓を覗いた。
広場の方で、人集りが出来ている。その回りに、嗣跟や
「またヒコが何かやらかしたのか…?」
エルサレムに来てまで、面倒は止めてくれ、と、心底思いながら、私も素早く準備した。
実際は、面倒どころか、とんでもないことが起こっていた。
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