第十四節 百四十四枚の銀貨

 その夢は、それから二度と見ることはなかった。けれども、あまりにもあの光景が恐ろしすぎて、私は一人で抱え込めなくなった。どこかで吐き出さないと、何かで吐き出さないと、と、考え、私はひこばえに、誰よりも時間を多くとってもらい、学ぶことにした。もしかしたらその先に、あの夢の解き明かしをする知恵があるかもしれないからだ。

 その日は、エルサレムに入るのを明日に控え、近くの城下町の名士の家に泊まっていた。

「じゃあ、あの山で言っていた『自分の失敗を笑う』というのは、そういう意味ではなくて。」

「そう、くよくよしない、自分をいじめない、ということ。そういう失敗は、全て神が笑顔に変えてくれる。」

 ひこばえの屈託の無い顔に、まるでそれが真実だと言って憚らないその顔に、虫酸が走った。

「じゃあ、じゃあさ。」

「うん?」

「…誰かの失敗の所為で、誰かが不幸になったら、どうすればいいんだ?」

 私の脳裏には、幼い頃から虐げられて、挙句の果てに殺された弟妹のことが頭にあった。

 穢れ、不完全、恥になる者。

 そんな言葉を撥ね除けるほどに光り輝いていた、私の弟妹。誰の前に出しても恥ずかしくない、一族の恥さらしモノ。穢れた祖先の女が産んだ子供。

 それらを引き取り、穢れに囲まれていなくなった、父とけい。ちゃんと未だ夫を持てているのかすら危ういまさひこばえの話を聞きつけても、彼等が私達に話しかけてくることはない。ないのだ。

 誰かの失敗のせいで、弟妹たちは、不幸になった。その誰かを責めることなど出来ないから、不幸になった方が悪い、と、イスラエルは代々律法に記してきた。

 何と言うのか。お前は裁くのか、実の弟妹も、自分の理想の為に裁くのか。

「そんなの、ボクが知るもんかい。」

「はぁー!?」

 思わず立ち上がりそうになった私を諫めるように、だって、と、ひこばえは言った。

「だって、その人達がどうやって幸せになるのか、ボク知らないもん。ボクが知ってるのは、父が知っているということだけ。」

「じゃあ何か? いつ報われるのか分からず、ずっと失敗したとばっちりを受けたまま、にこにこにこにこ暮らしてろってか?」

「にこにこしてたらそりゃいいけど、にこにこしてなくても、笑顔になる日は来るよ。」

「だから、それはいつだってんだよ! 失敗を押しつけられて何日後なんだ!」

「もうなってる。」

 確かに、けいはいつも笑っていた。だがそれは、幸福だったから、恥と罵られても平気だったから笑っていたのでは無い。けいだって泣いたし、怒った。ただ、それらが全部、笑顔に見えただけの話だ。

 けいが幸福な生を送ったのか? 幸福な死に方をしたのか? 否に決まっている、そんなこと!!!

「このバカ―――。」

 ガシャーンッ!

 私がひこばえを打つより一拍早く、すぐ隣の部屋で、凄い音がした。隣の部屋では、確かまた瞻仰せんぎょう澹仰せんごうが、金の工面の話をしていたはずだ。明日は神殿に入るから、弟子達の分の納入金を賄わなければならず、小銭拾いをする子供までいたくらいだった。

 ピシャン、ピシャン、と、何かを引っぱたくような音がする。瞻仰せんぎょう澹仰せんごうが喧嘩をするなんて考えられない。となると、乱入者かも知れない。

ひこばえ、行かないのか?」

「行ってきて。」

 随分持ち上げられて、気位が高くなったもんだ、と、私は隣の部屋に行った。瞻仰せんぎょうの上に跨がり、澹仰せんごうが掌と手の甲で頬を叩いている。

 ―――その姿が、あの夢の中のようで。

「―――ウアアアアア!! 瞻仰せんぎょうから離れろ! この変態ッ!」

 私は杖を真っ直ぐに投げて、澹仰せんごう瞻仰せんぎょうの上から突き落とした。私は走れなくなったが、大股で脚を引き摺りながら、瞻仰せんぎょうを抱き起こす。

瞻仰せんぎょう! 瞻仰せんぎょう! しっかりして、瞻仰せんぎょう!!」

「………うるせえな。気は確かだよ。」

「なんて、なんてことすんだよ、おいらの、おいらの兄さんなのに!」

「なんてこと、は、コッチの台詞やわァ!! こんな、こんな………!!! この、おたんこなす!!! この商品、こんな値段で……!! 単価が安ければ誤魔化せると思たんか!? 大概におしやす、アホや! こんなん、もう見ておまへん! ひこばえさまに言います!」

「なら、ぼくも言うよ。お前がユダヤ地方を追い出された理由、見当がついてるからね。だって、その金額の内面を見抜ける男なんだから。」

 何を牽制し合っているのかは分からないが、私はとにかく、あの気持ち悪い夢のことを思い出して、叫んだ。

瞻仰せんぎょうに謝れよ!!!」

「不義理を働いたんは瞻仰せんぎょうはんのほうや! うちに謝る義理なんてないわ。…というか、なんであんさんがいるんや、きびすはん。あんたに付き合うてやれるような、柔な修羅場やないで。うち、ほんまに怒ってるさかい、今日は拳闘なしや。本気の殴り合いや。」

「なんでよ! 瞻仰せんぎょうは何も―――」

「なんも知らへんのはおまへの方や、きびすッ!!!」

 鞭のような一喝だった。私は瞻仰せんぎょうに隠れるように、瞻仰せんぎょうを抱きしめて口を噤んだ。

「あんたはん、生まれつきの穢れ持ちやな。杖持っとったら走る事だって出来る。よぉ頑張んなさったわ。うちは両脚ありますえ、どれほど血の滲む努力したんか分からへんよ。でもな、きびす。自分の意志でない穢れほど、救いのある穢れもないんやで。」

「ほ…骨の、揃ってる奴が、何、世迷い言を!!」

「あんたはんは分かってない!! 自分の思い通りにすることがどれほど苦しいことか、分かってへんのや!!」

 怒りも最大限だったし、それ以前に何を言っているのか、もう分からなくなっていた。私はとにかく、あの悪い夢の方のことしか頭に無くて、謝れ、謝れ、と、叫んだ。騒ぎを聞きつけて、次々人が、弟子達がやってくる。勿論嗣跟も、福銭も、双生そうしょうも、恩啓おんけいも、皆やってくる。私はざわめきの中に絶叫した。

「おまえら全員、瞻仰せんぎょうに謝れーーーーーーーッッッ!!!」

きびすきびす、落ち着け。鼻血出てるから。」

 私は目からも鼻からも、ぼたぼた垂らしながら、赤ん坊の引き付けのように暴れた。添え木が壊れた辺りまでは、意識があった。


 その後の事は良く覚えていない。ずっと誰かが言い争っていたようにも思えるし、誰かがずっと傍に居たような気がする。歩きながら、ずっと泣いて喚いていた。そうこうしているうちに、エルサレムに入ったらしい。どこかの家で泣き疲れて寝ているところ、目を覚ましたのだ。

「…あ゛っ?」

 酷い声が出た。相当泣き叫んでいたらしい。顔は目元ならず全体が熱くて痛い。頭が重くて、喉も痛い。部屋の中には誰もいなかった。恐らくひこばえは説教に、弟子達は仕事に、女達は買い物に行っている。…一人ぐらい、私を案じている弟子がいてくれても良かったんじゃないだろうか、と思うのは甘えだろうか。ふてくされようとしていると、誰かが入ってきた。

「あ、きびすさん、正気に戻られたんですね。」

「………なんだ、若枝わかえか。」

 手元に、私に飲ませる為の杯と、酢水か葡萄酒が入っているらしい小さな瓶を持って、にっこり笑う。

 若枝わかえは、十二弟子が選別される前、瞻仰せんぎょうが連れてきた女乞食だ。目が見えない足萎えで、シロアムの池の近くに捨てられながら辿り着けなかったのだという。ところが突然大地が揺れ始めて建物が崩れだし、咄嗟に瞻仰せんぎょうが彼女ごとシロアムの池に飛び込んで避難したところ、目が明るくなり、脚も治ったのだという。乞食の割に、私よりも丁寧な言葉遣いをするな、とは思っていたが、地頭は良くないのか、私でさえ分かるひこばえの話が理解できないようで、瞻仰せんぎょうの後をくっついている方が多かった。

 私はことの騒ぎが鎮まった後、一日暇を貰い、シロアムの池に行って脚を浸してきた。だが、骨が増えることは無かった。その証拠に、添え木を取って立ち上がろうとし、ぐにゃりと脚を曲げた姿を見て、乞食達に犬の糞を投げられた。当てつけるようにシロアムの池の水で顔を洗って、悔し涙を流しながら、女達に洗濯を頼んだ。

 そういう経緯があったので、私は正直、若枝わかえが苦手だった。遠い昔に覚えた、美しい嫉妬ではなく、激しく、蓋をされた竃から漏れる火のような嫉妬に駆られるからだ。ただそれは私の問題であって、若枝わかえの問題ではない事は重々分かっているつもりだ。私は若枝わかえに辛く当たらないように、なるべく避けていた。今は自分でも情緒不安定なのがわかるから、正直この人選は悪い。

きびすさんがあんな風に激しく取り乱すなんて、先生は何をされたんですか?」

 先生、とは、ひこばえではなく、瞻仰せんぎょうの事だ。彼女はひこばえの事をラビ、瞻仰せんぎょうの事を先生と呼び分けている。…何故そんなに、乞食が言葉を知っているのだろう。

「いや………。」

 言葉を濁したところで、どうにもならないことは分かっている。しかし、だからこそ誤魔化したくて仕方がない。夢見が悪かっただけ、と言っても、まさがそうだったように、ずっと問い詰めてくるに違い無いのだ。

 しかし、若枝わかえは意外なことを言った。

「そうですか。言いたくないようなことなら大丈夫です。でも先生は、私を救ってくれたお方ですから、もし先生に何か危機が迫っているなら、教えてくださいね。」

 それは間違いなく、瞻仰せんぎょうへの直向きな情愛から来る言葉のはずだ。だがそれよりも私の、臍の裏が焦げた。

「そうだな、若枝わかえは走れるもんな。目もよく見えるようになった。」

「え?」

「シロアムの池と、瞻仰せんぎょう若枝わかえの信仰の賜物だ。」

「……………。ああ、なんだ、そんなこと気に病んでたんですか?」

 やっと思い至ったように言って、若枝わかえは杯を手渡し、葡萄酒を注いだ。

「その時その時、一番いい時に、そのようになるんだって、ラビが言ってましたよ。よく分からないけど。」

「へー。」

 葡萄酒に口をつけると、自分が存外、喉が渇いていることが分かった。一気に飲み干すと、すぐに若枝わかえが注ぎ直す。

「皆は?」

「私ときびすさんの分も持って、神殿に納金に行きましたよ。私達は、都合良くなってからで、ですって。」

「ふーん………。…なあ、若枝わかえ、お前達、断食ってしたか?」

「え? ああ、十二弟子たちの間で、流行っていたアレですか? いえ、私達は澹仰せんごうさんに言われて、粗食を沢山作って節約したくらいです。」

「それで、神殿に納めたのって、結局どれくらい?」

 寡に納税義務はないし、その程度のちまちました節約で生まれる額など、たかが知れている。そうだ、澹仰せんごう瞻仰せんぎょうも、何か意味深な商売の話をしていたけれど、きっと―――。

「確か、七十二ディドラクマ(六十九万一千二百円)。」

「ごほっ!」

 私は盛大に葡萄酒を杯の中に吐き出した。慌ててそれを飲み直し、杯を空ける。

「で、ディドラクマ(約九千六百円)がないからって、ごっそりドラクマやデナリなんかを乱暴につかみ取りして、何人かで分けて持って行きました。」

「……そりゃそうだろな。」

 ディドラクマと言ったら、二日分の給料だ。否、この大所帯だったら、確かに神殿への納入金はそれ程になる。律法の上では定められていない税金も取られる昨今だ。もしかしたらそれでも足りないかも知れない。

 となると―――。

 瞻仰せんぎょうは、何を売って稼いでいたのだろうか?

 疚しいことはしていない、でも不義理を働いた。どういう意味なんだろうか。

「なんか……。」

「どうした? 若枝わかえ。」

 若枝わかえが、窓を開けて、広場の方を見ている。

「………様子がおかしいわ、見に行きましょう!」

 私は嫌な予感がしながらも、杖をついて同じ窓を覗いた。

 広場の方で、人集りが出来ている。その回りに、嗣跟や恩啓おんけい、人混みの中には、やたら良く光る頭もある。あれは神授しんじゅだ。

「またヒコが何かやらかしたのか…?」

 エルサレムに来てまで、面倒は止めてくれ、と、心底思いながら、私も素早く準備した。


 実際は、面倒どころか、とんでもないことが起こっていた。

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