第十二節  疑似家族

 ひこばえを案じる気持ちは皆同じで、私達は母を気遣いながらも、たっぷり七日は歩いた。

その頃、ひこばえがカペナウムにいると聞いたので、カペナウムの会堂に行った。そこは既に人手ごった返していたが、瞻仰せんぎょうは何か伝手があるらしく、ここで待ってて、と、私達を会堂の日陰に待たせた。

「シャクフ、シャクフ! おおい! ぼくだよ、瞻仰せんぎょうだ。」

 酌婦、とは一体どんな女なのだ、と、思わず影から顔を出す。瞻仰せんぎょうと親しげに話している男は、瞻仰せんぎょうと違い、髭ももみあげもしっかりしているし、なんなら臑毛や腕の毛もあり、指も太く筋肉質だ。…どういう名前なのかは分からないが、とりあえず『酌婦』ではなさそうなので、私は日陰に再び隠れた。

瞻仰せんぎょうさん! きっと来てくれると思ってましたよ、さあどうぞ、ひこばえ先生の説教を―――。」

 ああ、ナルホド、と、私は思った。

 恐らくこのシャクフという男は、瞻仰せんぎょうが追い出された先の、受惠じゅけい教団の関係者なのだろう。何事か話すと、シャクフは群衆の中に引っ込んでいった。もう出て行っていいか、と、身を乗り出すと、瞻仰せんぎょうは、まだ、と、手を振った。

 数秒経つと、何故か群衆がわっと盛り上がり、口々にひこばえを讃え始めた。その熱狂ぶりが、私には怖かった。

 シャクフが戻ってきたが、ひこばえはいなかった。瞻仰せんぎょうと何か話している。群衆の歓声で、何を話しているかまでは分からない。が、突然、瞻仰せんぎょうは群衆の中に飛び込んでいった。

「あ、瞻仰せんぎょうさん!」

 シャクフも慌てて追いかける。私も追いかけようとした。が、熱狂した群衆の中に、皮膚病を抱えたかず、首の曲がったきん、胸の悪い母を連れていくなど、例え骨が足りていても出来そうに無かった。

 歯がゆい気持ちで、指を弄びながら待っていると、くらくらしている瞻仰せんぎょうを、ひこばえが支えて出てきた。中で何があったのかは分からないが、特に怪我はしていないらしい。

「母さん、キビ兄、きんかず、久しぶり! 元気にしてた?」

 そう言って、ひこばえは私達一人一人をしっかりと抱きしめた。しかし、私達の質問には何も答えず、曖昧にはぐらかすだけだった。ひこばえは既に、晩餐を準備出来るほどの弟子がいるらしく、その中の何人かに、瞻仰せんぎょうの知己がいるらしい。シャクフ、否、杓夫しゃくふもその一人だっったという訳だ。家族として、私達も晩餐に加わりたいというと、ひこばえは笑顔で快諾してくれた。

 しかし、晩餐の場では、ひこばえの隣には嗣跟つぐくびすと、瞻仰せんぎょうの知己であるという謦咳けいがいという男が座っていて、私達は傍に行くどころか、ひこばえと弟子達の問答の中に誘われる事すらなかった。非常に空虚な時間で、母が報われなさ過ぎる。しかし母は、終始幸せそうに、ひこばえが問答する姿を見ていた。

 元々母が来たがったのだし、母が満足出来るなら、と、私達は無理矢理納得することにした。宿を探すために会堂を出ようとすると、会堂長が一晩泊めてくれるというので、私と瞻仰せんぎょうきんかずと母に分かれて、部屋を借りた。

 当然ながら、眠れなかった。ひこばえの事で、頭が落ち着かない。というより、ひこばえの傍に嗣跟つぐくびすがいて恩啓おんけいもいて、しかもあんなに親しげで、というのが、心配で心配で仕方がない。

 瞻仰せんぎょうも何か思うところがあったのか、眠れないようだった。私は瞻仰せんぎょうに起こしてもらい、少し夜風に当たった。少し寒いくらいの砂と湖の風が、今の私を冷静にさせてくれている気がする。

 正直に私の意見を言っても聞いてくれそうにない。私は少し話を作って、瞻仰せんぎょうに言った。

「あー、あの、あのね。ヒコの説教が、少し聞こえたんだよ。」

「へえ。」

「まあ、あんまり賛同は出来ないんだけどさ。」

 当たり前だ。実際は何も聞こえていなかったのだから。

「でもおいら、ヒコ、いや、ひこばえに可能性を感じたんだ。ひこばえにおいらはさ、瞻仰せんぎょう瞻仰せんぎょうよりもずっと後になってひこばえの兄ちゃんになったから…。だから、ひこばえが小さい頃、どんな赤ちゃんだったのか知らないし、だからこそ、その、多少の補正は入っていると思うんだ。おいらは…、―――おいらは、ひこばえは本当に、預言者になれると思う。」

「…きびす、でもひこばえは―――。」

瞻仰せんぎょう、おいらはひこばえがどうなるのか、傍で見たい。そして出来るなら、兄として力になってやりたい。でも、おいらは不完全だ。添え木が壊れたら、ひこばえがもし歩けなくなったら、おいらにはひこばえを助けてやれない。だから、だからね、瞻仰せんぎょう。おいらがひこばえを助けられるように、助けてほしいんだ。」

「………、つまり、一緒に一味に加われと?」

 瞻仰せんぎょうがあからさまに不機嫌になった。まあ、そうだろう。私はしかし、引かなかった。理由があったからだ。

「無理にとは言わない…って、言うべきなんだろうけど………。おいらは賭けてみたいんだ。穢れの中で育った、父親の知れない子だと言われて育ったひこばえが、どんな預言をされてるのか、見てみたい。きっとそれは、おいら達みたいなのを救ってくれる。」

「救う? 救うだって? あはは、そりゃないさ、だって―――。」

「だって?」

 何か確信があるかのように、鼻先で笑う瞻仰せんぎょう。しかし、私が問い直すと、ハッと口を噤んでしまった。こうなると瞻仰せんぎょうはテコでも喋らない。暫く黙っていると、瞻仰せんぎょうは根負けし、溜息をついた。

「…分かったよ、きびす。一緒にひこばえの弟子になろう。」

「!」

 私は正直、心細かったのだ。預言者は徴を示すのに、私の脚はずっと骨が足りない。その理由を、私や私の実母に罪があるからだ、と言われるのが。そして、村から禄に出た事がなく、一人だけ足萎えの私に、旅の歩幅を合わせてくれるのかも不安だった。荒野を行く途中、サマリア地方を通り過ぎて、エルサレムに詣でる途中、穢れを置いていこう、という雰囲気になったとき、私を護ってくれるのか。不出来で穢れた一人を置いて、大勢の弟子を導くのではないか。

 そのように導かなければ、預言者失格だ。ひこばえは預言者になれない。だが、私には妙な確信があったのも確かなのだ。ひこばえのズレた感性、言動は、もしかしたら徴なのではないか、という期待だ。

 無論、本当に信じてなどいなかった。何故ならひこばえは、私生児で、父親が分からないからだ。つまり、生粋のイスラエル人である保証がないのだ。

「ありがとう、瞻仰せんぎょう!」

 それでも、一緒に育った家族だ。もしひこばえが預言者として、家族の情を断ち切って先に進まなくてはならなくても、瞻仰せんぎょうならきっと私を置いてはいかないだろう。私は安堵して、飛びついて喜んだ。しかし、瞻仰せんぎょうはそれ以外にも何か気にかかることがあるようで、だけどぼくは、と、返した。

ひこばえを認めたわけじゃない。だからきびす、ぼくが弟子の身分を忘れて、横暴な兄に成らないように、きびすもぼくを護ってくれ。」

「うん、分かったよ、瞻仰せんぎょう。」

 元々初子として育ってきた瞻仰せんぎょうは、他の兄弟達に厳しい。その事を言っているのだろう。

「皆にはおいらから話すよ、またかずが騒いだらいけないからね。だから瞻仰せんぎょう、明日の朝一番に、ひこばえに弟子入りの話をしに行ってよ。」

「ああ、分かった。…じゃ、決まりだな。もう寝よう。明日、早いんだろ?」

 瞻仰せんぎょうがちゃんと乗り気になってくれたようで、よかった。私は心の閊えが取れて、安堵に微笑んだ。


「いーんじゃないの?」

 翌朝、家族だけにしてさしあげよう、と、気を遣われ、私達は母たちがいた方の部屋で朝食を頂いた。瞻仰せんぎょうは一足先に食べ終わり、ひこばえの所へ行っている。案の定、この場にひこばえは来なかった。かずは猛反対するかと思ったが、拍子抜けしてしまうほどあっけらかんと答えた。

「いいの? かず。」

「キン兄と母さんとアタシで、なんとかやってくよ。食い扶持が減って楽になるから、遠慮しないで行ってらっしゃい。」

「おいが、母ちゃんとかずを護るよ。だから二人とも、安心して行ってきて。おいだって、大工の端くれだし、男だし!」

 下を向いたまま、きんが胸を張った。

「母さん?」

ひこばえについて行きなさい。神が喜ばれる道だから。」

 よく分からないが、賛成してくれているらしい。私は感謝を言って、残っていた朝食を口に詰め込み、ひこばえがいるはずの会堂の出口に走った。丁度瞻仰せんぎょうは、ひこばえに抱きつかれながら、弟子とおぼしき数名の男達を紹介されているところのようだった。

瞻仰せんぎょう! 良いってさ!」

「わあ、兄ちゃんも来てくれるの!? わぁーい!」

 ひこばえは丁寧に私にも抱擁し、じゃあ最初から、と、弟子の紹介を始めた。

「この人は謦咳けいがいさん。受惠じゅけいさんの教団の人だったけど、うちにきたんだよ。その隣が弟の杓夫しゃくふさん。それから、ご存知本家の嗣跟つぐくびすさん、その末弟の恩啓おんけいさん、本家の奴隷だった駒桜こまざくらさん。そのお友達の神授しんじゅさん!」

 それぞれが歓迎の抱擁をしてくれたが、私は嗣跟つぐくびすとは最小限に、恩啓おんけいとはふわっと、ほぼ形だけの抱擁に留めた。

「皆、瞻仰せんぎょう兄さんの弟で、ボクの兄さんのきびす。少し脚が悪いけれど、パッと見るだけで、ものの大きさや長さが正確に分かっちゃうんだ。一緒に大工をしてたんだよ。」

 今でもその技術があるかどうかは、甚だ疑問だが、とりあえずそのように紹介してくれたのだから、そう名乗っておこう。

 こうして、少々特殊な思惑があったわけであるが、私達二人の兄は、弟の弟子になったのである。



 弟、もとい、ひこばえの求心力は凄まじかった。まず、話が分かりやすい。例え話が面白い。慕う男は勿論のこと、彼等に隠れて、女達も集まってきた。ひこばえは女達が隠れているので、良く聞こえないだろうと、積極的に彼女達を自分の傍に寄らせた。その姿に失望した男も多かったが、自分の妻や娘にも良い話を聞かせようとしてくれる、と、好意的に考えた者も多かった。

 そうこうしているうちに、弟子はどんどん増え、ひこばえはある時、その弟子の中から十二人を選び取り、『十二弟子』と、特別に面倒を見る、と言われた。当たり前のように、家族である私達と、不本意ながら親族である嗣跟つぐくびす恩啓おんけい謦咳けいがい杓夫しゃくふ駒桜こまざくら神授しんじゅなど、初期の六人と二人は選ばれていた。残りの四人は、澹仰せんごう福銭ふくせん双性そうしょう武右ぶゆうである。

 その中でも、澹仰せんごうという人物は、異様だった。否、異質だった。

 何でも彼は、南ユダヤのエルサレムの近くに住んでいたらしく、私達にはない訛りがあり、またしゃべる言葉もゆっくりとしていて、とても苛々する。

 だからか、いつも一人で過ごしていて、それなのに、名前の響きが似ているからか、瞻仰せんぎょうとはすぐに打ち解けた。私もその弟として、何度か交流に入れて貰っていたが―――二人の間にある何か共通するものが、私には無いようだった。


 ひこばえはことあるごとに、私達の他、行く先々で様々な人と会食をした。大体会場は、取税人の豪邸で、食事を作るのは奴隷や取税人の妻ではなく娼婦たちで、弟子を差し置いてひこばえの隣に座るのは、家主の取税人と、その仲間である事が多かった。会場を埋めるのは、その日の午前中に癒やして貰い、午後に祭司たちに『認定』してもらったばかりの、元聾唖者や元盲人、元足萎え、更には元死者までいた。目の前で麻布に巻かれ、香油を塗られた子供がむっくり起き上がった時は、弟子達全員の、脚の骨が無くなっていた。

「先生! 私は取税人になってローマ人の妻を貰い、勢いづいて、このエリコの取税人頭にまで上り詰めました。私に逆らう人は誰一人いませんでしたので、はい、正直に申しまして、二倍ほどだまし取りました。」

「いよっ! 流石はエリコの偽人! ろくでなし!」

 参加者の一人で、目が見えなかった男が野次を飛ばす。勿論本当に罵ってはいない。会場は笑いに包まれ、もっともっと、早く早く、と、家主を盛り立てる。

「しかし! これからは違います。私には有り余る財産があります。この財産の半分を遣えば、、今私を讃えてくれた元盲人のような乞食達に施し、家を建てる大工を手配して、田畑を買ってやり、仕事を与えられます。」

「こりゃ一本獲られた!」

「もう半分! もう半分!」

 今度は別の、一人息子を生き返らせてもらった寡がはやし立てた。家主はそこで、更に、と、胸を張って言った。

「この街の全ての人から、取税人頭としてだまし取りました。そして、この街を通る人からもだまし取りました。私はそれらの人の事も帳簿につけてありますので、彼等の所に行って、だまし取った分の五倍を返します!」

「あれ? 君、そんなに持ってたっけ?」

「………。駄目です、四倍までじゃないと。」

「よっ! 流石偽義人と呼ばれた男! オチがついたな!」

 再び会場が笑いに包まれる。恐縮している家主の傍に立ち上がり、ひこばえは言った。

「今日、偽の義人と呼ばれた人が、その名の通りの義人となって、生まれ変わりました。ボクが奇跡を起こしたからではなく、この人が神の愛に気付いたからです。この人は、自ら奇跡を起こし、自ら変わったのです。人は、神の愛に触れるだけで、生まれ変わるのです。」

 私には正直よく分からないが、弟子達の何人かは熱狂していたし、その場に招かれた人々は皆大喜びで、次々に弟子入りを志願してきた。その様子を見て、瞻仰せんぎょう澹仰せんごうは顔を見合わせ、苦笑しながら溜息をつく。

 ―――家族でも無いヤツと、一緒に夕飯なんか、食べないんだぞ。

 ああ、なるほど、と、思った。

 過去のイスラエルの預言者達がそうであったように、ひこばえはイスラエル人に遣わされた預言者では無いのだ。イスラエル人でなくなった人に遣わされた預言者なのだ。だから穢れに抵抗がないように穢れた子供の兄として育ったのだ。

 だが―――。


 ―――その時、足萎えは鹿のように跳ね、唖の舌は喜び歌う。


 元から、イスラエル人でないモノの元に遣わされてはいなかった。


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