第十一節  正気と狂気の狭間

 瞻仰せんぎょうは少しずつ回復し、一人で出歩けるくらいにまでなった。ただ、それはあくまでも「歩ける」だけであって、帰っては来られない。かずなど、そのまま帰ってくるな、と言いつつも、結局夕飯の分はきっちり五人分ある。きんが探しに行っても、広範囲を見渡せないので、瞻仰せんぎょうを探すのは専ら私の役目だ。というより、瞻仰せんぎょうの世話が私の役目だ。きんは食べ物を無心しにいくのに忙しい。そそぐの死の真相は言わなかったが、私はきつくきつく、「乞食だけはするな」と言い聞かせるだけにして、方法や場所は詳しく言わなかった。とにかく、日毎の糧を持ってこれる、今日を凌げる、それだけでいい。

 何より母が、それで満足しているようだったし、明らかに栄養が足りていないのに、瞻仰せんぎょうが帰ってくる前よりも咳が減った。その代わり、一回毎の咳は酷くなっているような気がするのだけれども。

「セン兄、とうとう村の外行ったの? もうすぐごはんなのに!」

 私が一人で家に戻ると、かずが金切り声を上げた。キーキー言っているし、眉もつり上がっているが、眼は正直で、心配している。

「うーん、さっき三人でちょっと多めに井戸水汲みに行くって言ってたから、入れ違いの可能性を考えて一度戻ったんだけど、そういうわけじゃ―――。」

 その時、瞻仰せんぎょう専用の寝室から、何かが割れる音がした。その後、母の声がする。母は瞻仰せんぎょうが見つからない時や、外へ出て行ってしまった時、いつも瞻仰せんぎょうの食べる乳粥を持って、あの部屋で祈るのだ。今回もそうだと思っていた。かずが見てくると言うので、私達は母が割ってしまったらしい乳粥用の新しい器を探し始めたが、かずが何事か叫んだ。

「おいが見てくる。」

 きんがそういうので、私は見送った。探している所にない。確か別の所に、来客用の比較的欠けていない皿があった気がする。正直瞻仰せんぎょうに使うのも勿体ない気もするが―――。

 と、きんも声を挙げた。私は心底騒いでいる弟妹にイライラしながら、部屋に入る。

「なんだ、騒々しい―――。」

 母さんに負担をかけるな、と、続けようとして、私は言葉を失った。


 瞻仰せんぎょうが、寝所で上着を掛けて、上半身を起こしていた。


母の足下には、砕け散った皿と乳粥が転がっており、瞻仰せんぎょうはきょとんとした顔で、母と私達を交互に見ている。無表情では無くなっていた。顔色こそ悪いが、表情がある。

「え、瞻仰せんぎょう!? 母さん、一人で瞻仰せんぎょう担いで寝かせたの? 一体どうやって!」

 私が村を半日探していなかったのだ。きんは一日ナザレ村の外にいたし、かずは家に引きこもって家事をやっている。となると、自由に動けたのは、母だけだ。

きんかずきびす。すぐにお肉を貰ってきて、瞻仰せんぎょうは食べなくちゃいけないから。それから凝乳チーズと乳粥も貰ってきて。今料理した奴落としちゃったから。」

「お母さん…。」

 喋った! ちゃんと、はっきりとした言葉を!!

瞻仰せんぎょう、もう大丈夫よ、もう大丈夫だからね。もう何もしなくていいのよ…。」

 母は、瞻仰せんぎょうの体調が良くなったことに満足していたようだった。体力こそまだ戻っていないが、この様子なら、もっと回復は早いだろう。


 私達は、本当に瞻仰せんぎょうの身体に戻ってきたのが本物の瞻仰せんぎょうの霊なのか、医者か祭司に見てもらおうと提案したが、母は絶対に許さなかった。涙を流し、瞻仰せんぎょうを抱きしめながら、

「この子は私の子よ。私が間違える訳ないじゃない。ずっと傍に居たのよ、ここにいない時も祈っていたのよ。」

 と、泣きつかれては、何も言えなかった。何度か話し合おうとすると、それを察知するのか、それとも瞻仰せんぎょうの様子を確かめに行きたい衝動に駆られているだけなのか、瞻仰せんぎょうの部屋に入ってしまう。瞻仰せんぎょう自身、自分が狂っていた間に何が起こっていたのか、全く分からないらしく、かずが冷たい理由も、きんが喜んでいる理由も、私が多分、顔に迷惑と書かれていても、何も言わなかった。寧ろ、家において貰えるだけ感謝しているらしい。

 はて、そうなると瞻仰せんぎょうは、今の今まで、どこで暮らしていたのだろうか? まさか、本家じゃあるまい。

 いずれにしろ、瞻仰せんぎょうには帰るところがないようだった。母はもしかしたら、それをも見抜いて、傍に置きたがったのかも知れない。

 しかしそんな母の心痛も知らず、瞻仰せんぎょうは母と話していると、随分緊張するようだった。母に何か負担をかけることを言わないか、私達は二人きりに、と、追い出されても、扉に耳を貼り付けて盗み聞きしていた。しかし、自分を毛嫌いしているかずと話している時よりも、会話がぎこちない。

「どういうことだろ? 母さんが一番の味方なのに。」

「気まずいんじゃないかなあ。」

「気まずいなら帰ってこなけりゃいいのに。」

かず、そう嫌ってやるなよ。瞻仰せんぎょうだってつい最近狂ってて、やっと正気に戻ったのに。」

 心底大変だったんだぞ、というのは飲み込んだ。

「キビ兄、セン兄はどうしてああなってたんだろ。」

 私は、門の所にいた、あの本家の息子の事を話そうかとも思った。しかし、本家の息子、というだけで、弟妹達は気を悪くするだろう。私は黙っていることにした。

「さあ、わからないな。」

 瞻仰せんぎょうを誰かが侮辱したのは分かった。恐らく悪霊憑きの女でも宛がって、瞻仰せんぎょうに無類やり抱かせたりでもしたのだろう。そうでなければ、あのようなよく分からない口付けをするとは思えなかった。

「こんなことなら、ヒコ兄が帰って来たとき、逃がすんじゃなくて匿うべきだったかなあ。」

きん、それは無理だよ。あれだけナザレ村を挑発したんだ。一年は帰って来れないよ。」

 ほんの一月ほど前の事だ。弟子らしい老人達を引き連れ、ひこばえが帰って来た。

 その日は安息日であったので、会堂で説教をする予定だった。ナザレ村はひこばえが、錦の旗を掲げ始めていた噂は聞いていたので、是非話をしてくれ、と、集まってきたのだが、その後が良くなかった。読み上げる箇所から、皮肉と嘲笑を混ぜた、文字通りの『お説教』をかましてきたので、ナザレ人達は酷く怒って、石を投げようとした。私ときんと、あと顔の知らない何人かの弟子で道を開け、なんとか逃した。しかし、家に帰ってはおらず、どうやら拠点にしているらしい別の町に戻ってしまったようだった。

 要するにひこばえは、故郷に戻ったのに、家族に挨拶もしないで帰ってしまったのだ。

 そしてあの日のひこばえの『お説教』は、『癒やし』についてだった。如何にも、私は癒やしの話が嫌いだ。だが家族を癒やしてくれるというのなら、話は別だ。

 初めから揃っていない、初めから壊れている私達と、今の瞻仰せんぎょうは違う。一番長く過ごした兄の危機であれば、ひこばえは家に寄るだろうか。ナザレ村の夜闇をかいくぐり、やってくるだろうか。

 好機にも、瞻仰せんぎょうが回復した頃、村に病人が現れた。病人の家を直したくない大工は沢山いるので、必然的に私の所に仕事が回ってくる。正直ありがたいことだった。きんの物乞いについて、瞻仰せんぎょうは何も気付いていないようだったが、私の稼ぎだけでは、母の胸が良くならないことは分かっていたらしい。理由を尋ねられ、咄嗟に、『まさの嫁ぎ先が援助してくれている』『まさはちゃんと妻として扱われている』と、嘘をついた。少なくとも前者は嘘だ。後者は願望だ。本当のところは、何も噂が流れてきていなかった。

 けれど、母を支え、息子を支え、手を取り合って、白昼に散歩するあの優しい世界を、壊す必要も無い、と思ったのだ。汗を流し、木陰で休み、一目を忍んで、傷付けられた息子に寄り添おうとする母親を、誰が貶められようか。

「………これで、いいんだ。」

 嘘で塗り固められたのなら、いつかはその嘘も暴かれる。でもそれは、瞻仰せんぎょうが本当に、元に戻ってからでいいはずだ。………そんな事より、もっと重要な事がある。


「こんにちは! 海女うなめさん、瞻仰せんぎょうさん。」

「こんにちは、恩啓おんけいちゃん。今日も元気ね。」

 あの時、瞻仰せんぎょうをおかしくさせた恩啓おんけいとやらが、うちに毎日魚を売りに来るのだ。かずも思うところがあるようだが、これできんは物乞いに行かなくても、私の大工道具を直すことができる。恩啓おんけいのことも殆ど覚えていないようだったが、瞻仰せんぎょうはどことなく、落ち着かない様子だったので、いつも家の奥に非難していた。しかしその日は、かずが癇癪を起こし、部屋を追い出されてしまったため、居間で恩啓おんけいの営業文句を聞かなければならなくなった。私は話をさせたくなくて、瞻仰せんぎょうに次々と話題を振り、視線を私に釘付けにさせた。またあんな風になったら、母はどうなってしまうのか。

瞻仰せんぎょうさん、きびすさん、何のお話してたんですか?」

 仕事しろ。きんだってあの身体で、馬具の直しをしに行っているのに。

「やあ恩啓おんけい。大した事はないよ、昨日の安息日の説教が難しかったって話だ。」

 瞻仰せんぎょうは少しほろほろとした顔で答える。明確に、ではないが、やはり少し、元気を無くすような気がする。

「安息日と言えば、最近、安息日を守らないラビ(教師)がいるそうですね。」

「そんな馬鹿な。ラビと呼ばれる人が律法を守らなくなったら、この世の終わりだよ。」

「ホントですよ。でも律法を守らないのに民衆に人気があるんです。」

「ハハッ! へえ、愈々いよいよ神の民も目が曇ったのかね。そんな気違いに関わってたら、祭司達も黙っちゃいるまいに。今に石で殺されるぞ? そいつ。」

 まさかひこばえじゃないだろう。あの子は律法については瞻仰せんぎょうと同じくらいよく知っていたし、あのナザレ村から叩き出された時も、律法に従って、安息日に会堂で教えていたのだから。

「石で殺される前に、頭がおかしくなっちゃうかも知れませんね。凄い人気だから、行く先々で民衆に取り囲まれてるんですよ。もうガリラヤ湖周辺の村で、知らない人は居ないんじゃないかってくらい。兄ちゃまも最近、話をよく聞きに行くんです。ボクも行ったことありますよ。」

「そりゃゴキゲンな跡取り息子さまなことで。」

「ちなみに、その人はなんて言うの?」

 悪手だった。私はそんな、自分の弟が、そこまで愚かだとはとは思わなかったし、そもそも恩啓おんけいひこばえに師事していると言うこと自体、信じていなかったからだ。

 一瞬―――恩啓おんけいは、ニッと口元をつり上げたように見えた。

「ご存じかも知れませんよ、ナザレ出身だそうですから。―――ひこばえさま、と仰います。」

 ガチャン!!!

 動揺した瞻仰せんぎょうが、卓上用の小さな瓶を壊す。母もきんも、顔が凍り付いていた。家の奥にいたかずが、音を聞いて飛び出してくる。また癇癪を起こしそうだったので、私は窘め、欠片を集めた。手が震える。瞻仰せんぎょうに至っては、硬直している。私達が思わず見せてしまった隙をついて、恩啓おんけいが畳みかけてくる。

ひこばえさまの説教は不思議な力がおありです。この前、兄ちゃまのお付きだった厩番と、その友人の乞食が弟子に迎えられたんですけどね。カナで奇跡を起こされて、その話をカペナウムでしてくれたんです。その他にもいろいろ、神様についてお話なさいましたよ。それを聞いて、ユダヤ教の指導者の、…ええと、なんて言ったかな、とにかく有名な人が、夜に一目を忍んでやってきたくらいなんです。その時も大層なお話をなさったそうで、…ああ、いいなあ、いいなあ。ボクも家の仕事が無けりゃ、あの人について行くのに、或いは、あの人からお声を戴けたら、きっと父ちゃまも許して下さるんだろうに、いいな、駒桜こまざくらは。禄に漁も出来なくてうちの厩番になったのに、真っ先に弟子になっちゃった。」

 そこまで話をさせて、私は怒りで欠片を握り潰しそうになりつつあった。恩啓おんけいひこばえと繋がっていることも不愉快だし、ひこばえがナザレ村を追い出されたことを反省していないらしいことは、もっと不愉快だった。

恩啓おんけい、母が魚を選び終わったみたいだ。この後残りを別の所に卸すんだろう? 長話してるヒマなんてないぜ。」

「じゃあ、また次回。毎度ありがとうございました!」

「ええ、恩啓おんけいちゃん、気をつけるのよ。」

「はーい! 海女うなめさんもお大事に!」

 気安く母の名前を呼ぶな!

 私はどういうことか分かっていない瞻仰せんぎょうに、ひこばえがナザレ村を追い出されたときの話をした。瞻仰せんぎょうはふんふんと聞いた後、大きく溜息をついた。そして、ぽつりと言った。

「…でもそれ、本当に頭がおかしくなってないのか、ヒコ。」

 もし瞻仰せんぎょうが行くなら、私も行かなくてはなるまい。私はすかさず、母に言った。

「母さん、おいらヒコが心配だよ、見に行ってもいい?」

それは事実だった。恩啓おんけいは碌な男じゃない。『ボクの瞻仰せんぎょうさん』なんて言って、それなのに弟の私の顔すら知らないような奴だった。ひこばえが一緒にいていいとは思えない。しかし、何か母は思うところがあるらしく、考え込んでいる。そこへ、話を聞いていたかずが、割って入った。

「ヒコ兄が心配なら、実際に会いに行けば良いじゃん。母さん、アタシ達に見に行かせてよ。」

 母は尚も悩んでいるようだった。瞻仰せんぎょうが助け船を出すと、かずが吼えた。

「なんでアンタが決めるのよ!」

かず止めなさい! 母さんを背負えるのは瞻仰せんぎょうだけなんだから! 母さん、ろばにだってもう乗れないんだぞ!」

 私がそう叱ると、ぐっとかずは唇を引き結んだ。。悔しいが、事実なのだ。母の胸の悪さでは、ろばに乗るのは耐えられないだろう。

きんの意見も聞きましょう。その上で、きんも行くと行ってくれるなら、皆で行きましょう。ああ、でも瞻仰せんぎょう、おんぶはしなくていいわ、手を引いてくれたら、歩けるから。」

「でもお母さん、カペナウムまでですら、歩くとしたら結構ありますよ。ガリラヤ湖の南の方にもし居たら―――。」

「アンタ、母さんの気持ちをフイにするの!?」

「少し黙りなさい、かず!」

かず、ありがとう、瞻仰せんぎょうも。でもいいのよ、私が歩きたいの。」

「でも………。」

 かずが続けようとすると、そこに何も知らないきんが帰って来た。何か深刻な話をしていることに気付いたきんに、私が理由を話す。私も、恐らく瞻仰せんぎょうも、反対してくれることを望んでいたが、きんはにっこり笑って、賛成してしまった。

 そういうわけで、翌日私達は急遽、旅支度をし、ガリラヤ湖へ向かうことにしたのである。


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