第十節 瞻仰(せんぎょう)の帰還

 瞻仰せんぎょうが帰って来て、私は長く重かった十五年間と、今のまさの状況を伝えた。

 どういう方法かは知らないが、瞻仰せんぎょうが一役買って出たので、慰安所の話は無くなったらしい。穢れている。明らかに大きな穢れが見えてしまうきんかずは行く事が出来なかったが、辞退した瞻仰せんぎょうの代わりに、ひこばえと母共に、まさのちゃんとした結婚を見届けた。途中、何か問題が起こったらしいが、式は滞りなく進んだ。

 というよりも、私はカナにこのような蓄えがあるということの方が、驚いた。

 結婚の宴は、七日間続く。それだけの間、客をもてなし続けることが出来なければ、宴の意味が無い。当然、それが可能になるために、様々な工夫がある。そのうちの一つが、『酔いに合わせて葡萄酒を悪くしていく』ということだ。酔っ払って鈍った舌なら、良いも悪いも分かったものではない、ということだ。ただ、私の舌だけでなく、嗣跟つぐくびすでさえも、最後に出された葡萄酒が一番美味かった。こんな太っ腹な夫に迎えられるなら、少なくともまさを悪霊憑きとして虐げることはないだろう。

 まさは、大王の子孫の子を産む娘なのだから。

 私はてっきり、瞻仰せんぎょうは家に戻ってきたのだと思ったが、瞻仰せんぎょうはその後、またもぷいっとどこかへ行ってしまった。ただ、それは七日ほどで、それは本当に、ある日突然、戻ってきた。

 ある朝、いつものように私が猟という名の泣き落としをしに行こうとすると、まるで家が私達を閉じ込めているかのように、扉が開かなかった。どうせ大工の家だから、と、きんも呼んで扉を壊すと、瞻仰せんぎょうが倒れていた。呼吸も表情も穏やかだが、何か強烈な胸騒ぎを感じ、私は瞻仰せんぎょうの肩を揺さぶった。

瞻仰せんぎょう? 夜遅く帰ったの?」

 瞻仰せんぎょうはうっすらと目を開き、瞳ほどの大きさの涙が出そうな顔をして、一言、

「みられた。」

 と言って、意識を失った。どこも怪我をしていないように見えるが、その声色は酷いものだった。私が本家で転がっていたときでさえ、こんな暗く淀み、低く沈んだ声を出した子供はいなかった。私はすぐにきんと協力して家に運び込んだ。かずも母もびっくりして、すぐに物置状態だった父の寝所を片付けた。母は私に医者を呼びに行かせた。ナザレ村にいる、たった一人しかいない医者は、私が来た事で渋い顔をしたが、瞻仰せんぎょうが、というと、すぐに仕度をしてきた。

 同じように忌み嫌われているはずの、医者ですら忌み嫌う、私の家。そんな中で、瞻仰せんぎょうが相手だと、誰でも好意的に動く。


―――お前も覚悟しておけよ。今は初子ういごでも、いずれぼくのように捨てられる。だってお前は、父さんの子じゃないんだからね!!


あの時の言葉は、ひこばえに向けられていた。だが誰しもが、私達は所詮遠戚で、実子ではないことを気にしていた。実際父は私達を捨てず、寧ろナザレ村、否、神から捨てられて、けいと共に殺され死体すらなくなってしまったのだが。

それでも瞻仰せんぎょうには、私達にはない何かがあるのだろうか。ひこばえが秘密だと言って明かしてくれた、瞻仰せんぎょうの本当の家。祭司の家系に産まれた者は、どんな者であったとしても、あのように愛されるのだろうか。きっとそうなのだろう。

何せ、神の正義を実践した者の子孫なのだから。きっと滲み出る品格が違うのだ。


 医者は母も一度部屋から出して、随分長いこと瞻仰せんぎょうと二人きりになっていた。『お体を見るので、入ってはいけません』『マア、気が滅入るでしょうから、おしゃべりでもして、気を紛らわしておいてください』と言われ、私達は不安に思いながらも、医師の診察を待った。本当になんとか喋ろうとしたのだが、なかなか皆、言葉が絞り出せない。というより、このような状況で、おしゃべりをしなさい、とは、どういう了見なのだ。瞻仰せんぎょうの医者嫌いが、なんとなく分かった気がする。

 それでも母は、母なりに私達を気遣っているらしく、何かと話題を振ったので、私達もなるべくそれに答えた。それでも生返事しか出来なくて、会話にならない。母が懸命に私達を励ましているうちに、診察が終わった。

 部屋から出てきた医師は、激しい運動でもしたかのように、少し汗をかいていた。…そんなに眠っている人間の背中を見るのが大変なら、言ってくれれば手伝ったというのに。

「身体の隅々まで調べましたが、瞻仰せんぎょうさんは、どうやら眠っているだけのようです。傷跡もいくつかありましたが、綺麗に治っています。夜中に帰って来たという割には、身体も冷え切っていない。ただ、心に神への信仰がないようです。このままでは悪霊が入ってきてしまっても追い払えません。暫く手ずから食事を与えて、言葉を掛け続けてください。そうすれば、彼の身体を神の霊が満たし、元の瞻仰せんぎょうさんに戻るでしょう。くれぐれも、家から出さないように。特に祭司に見せてはいけません。」

「本当ですか! 息子は大丈夫なのですね?」

 母はとても嬉しそうだったが、私達は複雑だった。何故なら、瞻仰せんぎょうがどうしてこうなっているのか、傷が治っているのなら知りようがないからだ。

「はい、大丈夫ですよ。時間はかかるでしょうが………。また来ます。」

 にこり、とも、にやり、とも、にたり、とも言えるような笑みを浮かべて、医者は帰っていった。母は咳き込みながら、乳を温め、蜜を入れた。すかさず、かずが言う。

「母さん! そんなに作ったら、明日の母さんの分がなくなっちゃうよ!」

「何言ってるの、子供を飢えさせたい親がいるものですか。貴方たちはいつもの量をちゃんと作って食べるのよ。明日から、母さんは瞻仰せんぎょうの為に断食を―――ごほっ」

「無理だよ、母ちゃん! 胸が悪くなってるのに断食なんて…。」

きん、貴方はしなくていいからね。ああでも、出来れば、荒野に行って、蜜を探すのを手伝ってくれると嬉しいわ。瞻仰せんぎょうに飲ませてあげなくちゃ。」

「こんな奴、お兄ちゃんなんかじゃないよ! 父さんもそう言ってたじゃん!」

かず! …ごほっ。」

 それまで穏やかに、二人の子供たちと話していた母が、かずを叱った。

「この家の子は、皆母さんの子です。母さんは、皆の母親です。」

 ―――今にして思うと、それは母の人生の覚悟だったのだろう。

 ともかくかずは、母を説得しようもないことに肩を落とし、布をかき集め始めた。

「キン兄、どこかにアタシが使ってた丸いお匙があるはずだから、探してきて。」

「そうだね、唇が切れないようにしなきゃ。」

「ったく、三十三にもなって、三歳児よりも劣るなんて! 世話の焼ける! …はい、母さん。部集めの布集めておいたよ。これに包んでおけば、母さん火傷しないし、冷めにくいよ。」

「ありがとう、かず。優しい子ね。」

 するとかずは、気まずそうにそっぽを向いた。

 こうして、母は、意識の無い瞻仰せんぎょうの世話をするようになった。時折私達も手伝ったが、母は瞻仰せんぎょうの名誉の為に、身体を拭いたり、蜜入りの乳を飲ませたりすることはさせなかった。私達が出来たのは、その日の報告くらいだった。

 三日ほど経って、瞻仰せんぎょうは目をうっすらと開けるようになった。だが、喋ることは出来なかった。それでも徐々に、私達が声をかけると目線を動かす、顔を動かす、ということが出来るようになった。そこまで、目を覚ましてから七日かかった。

 医者がまたやってきて、脚を鍛える為に、散歩をする準備を勧めてきた。何故か不機嫌だった。

 初めは抱き上げて座らせた。その内、自力で起き上がることが出来るようになり、手を引けば立ち上がれるようになり………。大体三日ずつくらいで、次の段階に移ることが出来た。回復は早いのかも知れないが、私は段階が多くてやきもきしていた。中風でもないのに起き上がれない、というのが、酷く情けなくて、私が散歩を担当するときは、無理矢理手を引っ張って立たせた。

 それでも瞻仰せんぎょうの顔色が変わることは無かった。私はその時初めて、瞻仰せんぎょうを哀れだと思った。

 瞻仰せんぎょうは、手を引いていれば、歩く事が出来た。すぐ疲れてしまうようだが、手を引っ張ると、文句も言わずについてくる。恐らくずっと眠っていたので、身体が鈍っているだけだ。足腰にも異常はないらしく、私がスタスタあるけばスタスタついてくるし、しゃがんで花や鳥を見つめれば、一緒になってしゃがむ。だが、無表情だった。本当に、この隙を突いて悪霊が来たらと思うと、恐ろしい。

「今日は風が気持ちいいから、門の方まで歩いてみるよ。」

「大丈夫? 遠いんじゃない?」

「いいのよ母さん! いつまでも甘やかしてたら、正気に戻んないわ!」

かず、セン兄は別に悪霊に憑かれたわけじゃないんだから………。」

「キン兄悔しくないの! 仕事も家事も出来ない、寝て歩くだけのノータリン! とっとと―――。」

 恐らくかずは、捨ててしまえ、と言いたかったのだろうが、母が気にせず、瞻仰せんぎょうの身支度を整えているのを見て、何も言えなくなったようだった。

 瞻仰せんぎょうは、名前を呼ばれればこちらを向くが、基本的に命令は出来ない。ただ、動かないから、『動かないで』と言う必要が無く、動かすときは手を引っ張ればいいので、あまり不自由はしていないだけなのだ。恐らく乞食にしても、一度も一アサリオンすら貰えず、餓死するのがオチだろう。それが分かっていても、かずは怒らずにはいられないほど、悲惨な家族の死を見てきた。母も、それが分かっているからこそ、何が何でも見捨てず、自分の食事をそのまま与えてまで、この家で面倒をみようとしているのだ。きんはどう思うの、と、以前尋ねたが、きんは二人に気を遣いつつも、一言だけ、

「………うれしい。」

 と、静かに笑った。それがきんの正直な気持ちなのだろう。

「身支度終わった? じゃ、行くよ、瞻仰せんぎょう。」

 そういえば、瞻仰せんぎょうが出て行った頃、私は瞻仰せんぎょうの事を『兄さん』と呼んではいなかったか。帰って来てからずっと、『瞻仰せんぎょう』と呼んでいる気がする。

 ああ、もう、彼は兄ではないのかもしれない。


 ナザレ村には、荷物を持ってくる馬が入ってくる大きな門と、人が出入りするだけの、『針の穴』という門がある。大きな門に行くと、村人のおしゃべりに巻き込まれてしまうので、私は針の穴の方へ歩いた。

「風、きもちいいなあ。」

「………。」

「今日は日差しがそんなにきつくないから、少し外にいようか。」

「………。」

 瞻仰せんぎょうはやはり答えなかった。だが、私が話していることは分かるらしく、洞のような瞳で、じっと見てくる。

「日陰だ。座ろうか。疲れただろ。」

「………。」

 私が座る分は無かったので、瞻仰せんぎょうを石の椅子の上に座らせた。形から見るに、大工仕事で使えなかった石を転がしてあるのだろう。

 その時、誰かが走る音と、声が聞こえてきた。

瞻仰せんぎょうさん―――瞻仰せんぎょう、さん!」

 誰だ。村の人間じゃない。商人だろうか。だがその割には、着ているものが、多分上等だ。有り体に言うと、見慣れない生地と染料を使っている。見慣れないだけで、見たことがない訳ではないのだが、どこで見たのだったか。

「うわ!?」

 青年は私を壁に立てかけた杖とでも思っているのか、凄い力で突き飛ばし、座っている瞻仰せんぎょうの前に跪いた。

瞻仰せんぎょうさん、ずっとお会いしたかったです。ボクを覚えていますか?」

 瞻仰せんぎょうは聞き慣れない声に反応していない。

「…瞻仰せんぎょう、さん? 瞻仰せんぎょうさん、聞こえていますか、瞻仰せんぎょうさん!」

 私が体勢を整えている間に、青年は勝手に盛り上がり、被り物が解ける勢いで揺さぶっている。瞻仰せんぎょうは視線を少しもずらさず、がっくんがっくんとされるがままだ。杖で叩いてやろうとした時、青年は瞻仰せんぎょうの腕を握って立ち上がった。

「おかわいそうに、こんな村じゃ医者もいないでしょうに、ボクが医者に診せてあげますから、一緒にカペナウムに行きましょう。」

「ちょっと待った待った、待った!」

 チッと面白くなさそうに、青年は私を見た。本当に私を路傍の石か何かだと思っていたらしい。

「なんなんだ、あなたは! 瞻仰せんぎょうから離れてよ!」

 普通の身体を持っている者であれば、すぐにでも瞻仰せんぎょうの腕を奪い返すのだろうが、私のように骨が一本足りないと、すぐには動けなくなる。根本的な、魂に訴えかけるような恐怖が、身体を僅かに鈍らせるのだ。

 しかし、私の反論は全く効かないようで、青年は興奮して言った。

「こんな状態でこんな田舎にいたら、良くなるものも治りません。ボクが連れて帰って、瞻仰せんぎょうさんを元の健康なお体に治して差し上げます!」

 いやいやいや。

「いやだから、それ以前に誰なんだよあんたは! 瞻仰せんぎょうは今休まなくちゃ行けないんだ、どっか連れてくなんて出来るわけないんだぞ!」

 そう言って、私は漸く身体が動くようになり、瞻仰せんぎょうの身体を引き寄せ、青年から離した。だが青年は、更に詰め寄ってくる。

「そういうお前こそ誰なんだ! ボクの瞻仰せんぎょうさんをこんな所で飼い殺しにしやがって!」

 何とも言えない嫌悪感と寒気が襲いかかってきて、私は思わず、自分の事を喋ってしまった。

「おいらのことを知らないで、なーにが『ボクの瞻仰せんぎょうさん』だ! おいらは瞻仰せんぎょうの弟だ。なんか文句あるか!」

瞻仰せんぎょうさんの弟なんて、ひこばえ先生しか知らないね!」

「ヒコはおいらの弟だよ! 瞻仰せんぎょうが長男で、ヒコは三男なんだ。で、おいらが次男! そいで誰だ、あんたは!」

 すると、青年は少し落ち着いたのか、フーッと深呼吸し、蛇が這いずるような目で睨みながら言った。

「ボクは恩啓おんけい。カペナウムの網元の嫡孫だ。ボクは兄さん共々、ひこばえ先生にお仕えしていて、お前達に魚を売りに来るように命ぜられたんだ。」

 それで、私はすぐに、この青年が身につけていた服の既視感を思い出した。

 本家だ。この青年は、本家の男だ。私達家族の親戚で、私を添え木で侮辱した、あの男の弟だ。そんな奴が、ひこばえに命じられてここに来た?

 あのバカ弟は、どこまで私達を踏みにじるつもりなんだ!

「はあ? ヒコに命じられた? チャクソン? ハン、あのホートー息子、何やってんだ、勝手に出て行って! 帰ろう、瞻仰せんぎょう。よくわかんないけど、悪霊憑きだ、こいつ。」

「なんだと、脚萎えのくせに!」

 恩啓おんけいと名乗ったクソガキは、人を嘲笑う時のように、指をさした。もう私は怖くなかったので、瞻仰せんぎょうの手をしっかり握ったまま、くるっと杖を裁き、その指を叩き落とした。骨が折れても構わない勢いで。

「おいらはきびす。この村の大工だ。とにかく、瞻仰せんぎょうを渡すわけには行かないんだ。とっととカペナウムに帰れ!」

ひこばえ先生のご命令なんだぞ!」

 すると、何度か繰り返されていた『ひこばえ』という言葉に反応し、瞻仰せんぎょうはふと立ち止まった。

瞻仰せんぎょう? どうしたの? おいらが分かる!?」

「ひ………ば、ぇ………。」

 瞻仰せんぎょうが、初めて言葉を取り戻したその瞬間だったのに、クソガキは指を庇いつつも回り込んできて、割り込んできた。

「そうです、ボクはひこばえ先生の弟子です! 瞻仰せんぎょうさん、ちゃんとした医者に―――。」

「み……た………。」

「え?」

「………みた、みた、ミタ、ミタ……。う、うう…っ!」

 何か恐ろしいものに襲われたかのように、瞻仰せんぎょうは悪霊憑きの子供のように、震えだした。そういえば、帰って来たときも、『みられた』と言っていた。瞻仰せんぎょうは何か弱みでも握られているのだろうか。今にも叫びだしそうな瞻仰せんぎょうの目の前にいるクソガキを杖で打ち払い、私は瞻仰せんぎょうの震える眼球を追いかけた。

瞻仰せんぎょう瞻仰せんぎょう! 大丈夫だよ、大丈夫だから、もう帰ろう、ね? 今日はラブヌンの塩漬けだった筈だから。瞻仰せんぎょう好きだろ?」

 瞻仰せんぎょうは言葉が分かるのか、頷きこそしなかったが、私の手を、少し強く握った。

 ………。というより。

「おい、なんで着いてくるんだよ!」

瞻仰せんぎょうさんの家の前で、穢れ持ちの女に扉で殴られて、荷物そこに置いて来ちゃったんだよ!」

 置いてきた? 商売人が商売道具を? なんて奴だ! こんな奴と関わっていたら、今よりも生活が苦しくなる。

 私は嫌悪感を剥き出しにして、唾を口の中に溜め込まないようにしながら言い捨てた。

「随分と道具を粗末にする職人だな。血統だけ良くても出世できないぜ。」

「ああ!?」

 分かっていないらしく、私は心底嫌悪感を隠しきれずに言った。

「その荷物とやら、拾ったらとっとと帰れ。お前を見ると瞻仰せんぎょうの具合が悪くなるみたいだから、もう二度と来るなよ。」

 今にも泣きそうな顔になったので、杖で強かに叩いて本当に泣かせてやろうかと思った。だが、それより瞻仰せんぎょうを連れて帰らなければ。この変な男の言う通りなら、かずにも何かやっているかもしれない。

 少し経って、勝手にあの男が泣き出した。すると、瞻仰せんぎょうが歩みを止めた。

瞻仰せんぎょう?」

「ないてる。」

「大丈夫だよ、お前とは関係ないから。」

「ないテる………。まきこマれた………。ぼくのせー……ぼくのせー……。」

「違うから! 瞻仰せんぎょう、とにかく帰るぞ!」

 すると、初めて瞻仰せんぎょうが身体を動かした。ヒッと息を呑み、膝を崩し、私に伏して頼み込む。

「もうしわけありません、おとうとにはみせないでください、おとうとはかんけいありません。しょうひんはぼくです。なんでもごほうしします、おかねはいりません。おとうとにはみせないでください、おねがいします、おねがいします………。」

 泣いているように、怯えているように、瞻仰せんぎょうは震えていた。

 そして私も震えていた。怒りによってだ。

 誰かが、瞻仰せんぎょうの仕事を買い叩いて、尊厳を踏みにじったのだ。

 確かに瞻仰せんぎょうは、他の兄弟達と比べたら、大工の技術は平凡だ。だが素人ではない。寧ろ玄人だ。初子であるままだったなら、きっと父の跡を継いでいただろう。

 何十年もかけて磨いたその技を、誰かが踏みにじったのだ。だから瞻仰せんぎょうは、こんな風に壊れてしまったのだ。

瞻仰せんぎょう、大丈夫だよ、何もしないから。」

 私が瞻仰せんぎょうを助け起こそうとすると、突然瞻仰せんぎょうは、今までの緩慢な動きから想像出来ないほど、素早く顔を上げて、私の頭に手を伸ばし、唇を塞いだ。

「ん!? んんっ!?」

「くちゅ…ちゅ……、くち、くちゅ……んむ…ふ…っ。」

 正直に言うと、この時の口付けが、私の初めての口付けだった。瞻仰せんぎょうは抗議しようとする私の唇のあわいから舌を滑り込ませ、唾液を舌で引き摺り出す。口から唾液が零れ、喉にも伝っていき、私は激しく噎せ込んだ。

 こんな口付けは知らない。父も母も、嘗ての瞻仰せんぎょうですら、こんな口付けはしなかった。私は恐怖に勝り、瞻仰せんぎょうを突き飛ばした。瞻仰せんぎょうはひっくり返り、私に追いすがった。

 それは、いつか見た『幸福の光景』と正反対のものだった。

 その姿は、『悲嘆』が形を取ったようなものだった。

「きもちよくさせます、だからおとうとは―――。」

「もういいよ、瞻仰せんぎょう。大丈夫だから、ええと、その、気持ち良かった? から。」

 それは正解だったようで、瞻仰せんぎょうはホッとし、また無表情になった。

 だが、私の手を握る力は、少し強いように思えた。

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