第十節 瞻仰(せんぎょう)の帰還
どういう方法かは知らないが、
というよりも、私はカナにこのような蓄えがあるということの方が、驚いた。
結婚の宴は、七日間続く。それだけの間、客をもてなし続けることが出来なければ、宴の意味が無い。当然、それが可能になるために、様々な工夫がある。そのうちの一つが、『酔いに合わせて葡萄酒を悪くしていく』ということだ。酔っ払って鈍った舌なら、良いも悪いも分かったものではない、ということだ。ただ、私の舌だけでなく、
私はてっきり、
ある朝、いつものように私が猟という名の泣き落としをしに行こうとすると、まるで家が私達を閉じ込めているかのように、扉が開かなかった。どうせ大工の家だから、と、
「
「みられた。」
と言って、意識を失った。どこも怪我をしていないように見えるが、その声色は酷いものだった。私が本家で転がっていたときでさえ、こんな暗く淀み、低く沈んだ声を出した子供はいなかった。私はすぐに
同じように忌み嫌われているはずの、医者ですら忌み嫌う、私の家。そんな中で、
―――お前も覚悟しておけよ。今は
あの時の言葉は、
それでも
何せ、神の正義を実践した者の子孫なのだから。きっと滲み出る品格が違うのだ。
医者は母も一度部屋から出して、随分長いこと
それでも母は、母なりに私達を気遣っているらしく、何かと話題を振ったので、私達もなるべくそれに答えた。それでも生返事しか出来なくて、会話にならない。母が懸命に私達を励ましているうちに、診察が終わった。
部屋から出てきた医師は、激しい運動でもしたかのように、少し汗をかいていた。…そんなに眠っている人間の背中を見るのが大変なら、言ってくれれば手伝ったというのに。
「身体の隅々まで調べましたが、
「本当ですか! 息子は大丈夫なのですね?」
母はとても嬉しそうだったが、私達は複雑だった。何故なら、
「はい、大丈夫ですよ。時間はかかるでしょうが………。また来ます。」
にこり、とも、にやり、とも、にたり、とも言えるような笑みを浮かべて、医者は帰っていった。母は咳き込みながら、乳を温め、蜜を入れた。すかさず、
「母さん! そんなに作ったら、明日の母さんの分がなくなっちゃうよ!」
「何言ってるの、子供を飢えさせたい親がいるものですか。貴方たちはいつもの量をちゃんと作って食べるのよ。明日から、母さんは
「無理だよ、母ちゃん! 胸が悪くなってるのに断食なんて…。」
「
「こんな奴、お兄ちゃんなんかじゃないよ! 父さんもそう言ってたじゃん!」
「
それまで穏やかに、二人の子供たちと話していた母が、
「この家の子は、皆母さんの子です。母さんは、皆の母親です。」
―――今にして思うと、それは母の人生の覚悟だったのだろう。
ともかく
「キン兄、どこかにアタシが使ってた丸いお匙があるはずだから、探してきて。」
「そうだね、唇が切れないようにしなきゃ。」
「ったく、三十三にもなって、三歳児よりも劣るなんて! 世話の焼ける! …はい、母さん。部集めの布集めておいたよ。これに包んでおけば、母さん火傷しないし、冷めにくいよ。」
「ありがとう、
すると
こうして、母は、意識の無い
三日ほど経って、
医者がまたやってきて、脚を鍛える為に、散歩をする準備を勧めてきた。何故か不機嫌だった。
初めは抱き上げて座らせた。その内、自力で起き上がることが出来るようになり、手を引けば立ち上がれるようになり………。大体三日ずつくらいで、次の段階に移ることが出来た。回復は早いのかも知れないが、私は段階が多くてやきもきしていた。中風でもないのに起き上がれない、というのが、酷く情けなくて、私が散歩を担当するときは、無理矢理手を引っ張って立たせた。
それでも
「今日は風が気持ちいいから、門の方まで歩いてみるよ。」
「大丈夫? 遠いんじゃない?」
「いいのよ母さん! いつまでも甘やかしてたら、正気に戻んないわ!」
「
「キン兄悔しくないの! 仕事も家事も出来ない、寝て歩くだけのノータリン! とっとと―――。」
恐らく
「………うれしい。」
と、静かに笑った。それが
「身支度終わった? じゃ、行くよ、
そういえば、
ああ、もう、彼は兄ではないのかもしれない。
ナザレ村には、荷物を持ってくる馬が入ってくる大きな門と、人が出入りするだけの、『針の穴』という門がある。大きな門に行くと、村人のおしゃべりに巻き込まれてしまうので、私は針の穴の方へ歩いた。
「風、きもちいいなあ。」
「………。」
「今日は日差しがそんなにきつくないから、少し外にいようか。」
「………。」
「日陰だ。座ろうか。疲れただろ。」
「………。」
私が座る分は無かったので、
その時、誰かが走る音と、声が聞こえてきた。
「
誰だ。村の人間じゃない。商人だろうか。だがその割には、着ているものが、多分上等だ。有り体に言うと、見慣れない生地と染料を使っている。見慣れないだけで、見たことがない訳ではないのだが、どこで見たのだったか。
「うわ!?」
青年は私を壁に立てかけた杖とでも思っているのか、凄い力で突き飛ばし、座っている
「
「…
私が体勢を整えている間に、青年は勝手に盛り上がり、被り物が解ける勢いで揺さぶっている。
「おかわいそうに、こんな村じゃ医者もいないでしょうに、ボクが医者に診せてあげますから、一緒にカペナウムに行きましょう。」
「ちょっと待った待った、待った!」
チッと面白くなさそうに、青年は私を見た。本当に私を路傍の石か何かだと思っていたらしい。
「なんなんだ、あなたは!
普通の身体を持っている者であれば、すぐにでも
しかし、私の反論は全く効かないようで、青年は興奮して言った。
「こんな状態でこんな田舎にいたら、良くなるものも治りません。ボクが連れて帰って、
いやいやいや。
「いやだから、それ以前に誰なんだよあんたは!
そう言って、私は漸く身体が動くようになり、
「そういうお前こそ誰なんだ! ボクの
何とも言えない嫌悪感と寒気が襲いかかってきて、私は思わず、自分の事を喋ってしまった。
「おいらのことを知らないで、なーにが『ボクの
「
「ヒコはおいらの弟だよ!
すると、青年は少し落ち着いたのか、フーッと深呼吸し、蛇が這いずるような目で睨みながら言った。
「ボクは
それで、私はすぐに、この青年が身につけていた服の既視感を思い出した。
本家だ。この青年は、本家の男だ。私達家族の親戚で、私を添え木で侮辱した、あの男の弟だ。そんな奴が、
あのバカ弟は、どこまで私達を踏みにじるつもりなんだ!
「はあ? ヒコに命じられた? チャクソン? ハン、あのホートー息子、何やってんだ、勝手に出て行って! 帰ろう、
「なんだと、脚萎えのくせに!」
「おいらは
「
すると、何度か繰り返されていた『
「
「ひ………ば、ぇ………。」
「そうです、ボクは
「み……た………。」
「え?」
「………みた、みた、ミタ、ミタ……。う、うう…っ!」
何か恐ろしいものに襲われたかのように、
「
………。というより。
「おい、なんで着いてくるんだよ!」
「
置いてきた? 商売人が商売道具を? なんて奴だ! こんな奴と関わっていたら、今よりも生活が苦しくなる。
私は嫌悪感を剥き出しにして、唾を口の中に溜め込まないようにしながら言い捨てた。
「随分と道具を粗末にする職人だな。血統だけ良くても出世できないぜ。」
「ああ!?」
分かっていないらしく、私は心底嫌悪感を隠しきれずに言った。
「その荷物とやら、拾ったらとっとと帰れ。お前を見ると
今にも泣きそうな顔になったので、杖で強かに叩いて本当に泣かせてやろうかと思った。だが、それより
少し経って、勝手にあの男が泣き出した。すると、
「
「ないてる。」
「大丈夫だよ、お前とは関係ないから。」
「ないテる………。まきこマれた………。ぼくのせー……ぼくのせー……。」
「違うから!
すると、初めて
「もうしわけありません、おとうとにはみせないでください、おとうとはかんけいありません。しょうひんはぼくです。なんでもごほうしします、おかねはいりません。おとうとにはみせないでください、おねがいします、おねがいします………。」
泣いているように、怯えているように、
そして私も震えていた。怒りによってだ。
誰かが、
確かに
何十年もかけて磨いたその技を、誰かが踏みにじったのだ。だから
「
私が
「ん!? んんっ!?」
「くちゅ…ちゅ……、くち、くちゅ……んむ…ふ…っ。」
正直に言うと、この時の口付けが、私の初めての口付けだった。
こんな口付けは知らない。父も母も、嘗ての
それは、いつか見た『幸福の光景』と正反対のものだった。
その姿は、『悲嘆』が形を取ったようなものだった。
「きもちよくさせます、だからおとうとは―――。」
「もういいよ、
それは正解だったようで、
だが、私の手を握る力は、少し強いように思えた。
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