第七節 死せるもの
結論から言うと、
しかしこちらも結論から言うと、父は何故か回復していった。あの日の
…と、いうよりも、残念そうに見えた。まるで、愉しみを奪われた道楽息子のようだった。…ああ、イヤだ。魚を売りつけてくるあの男を思い出した。
神が赦したのか、それとも母が許したのか、父は徐々に回復し、家の中でまず下着を自分で取り替え、身体を拭くようになると、カビも大分引いていった。
―――ぼくはしょうせつのなの、だれもさわっちゃだめ!
ああ、そうか、と、私は思った。
嘗て、老いて授かった息子を捧げた父祖のように、父もまた、最も愛している者を捧げたのだ。命は取らなかったが、彼にとって全てだったものを奪った。父祖がそうして祝福を得て今のイスラエル人の繁栄があるように、父もそうして祝福を得たのだ。
だが、神は父を愛したが、
否や、いなくなるべきだったのだろうか。本当に
あの光景は、幸福そのものだった。その幸福が、神によって破壊された。
あの光景を私は誰にも話していない。私の、あの美しく幸福な瞬間を神に否定されたという、私の大切にしたいものまでをも否定されたと言うことを、打ち明けられる者は誰もいなかった。
「父さん。」
「ん?」
「…兄さんのこと、どう思ってるの?」
「
「…そうなんだ。とても、とても愛しているんだね。」
「どうした、焼きもちか? 勿論お前のことも、皆のことも愛しているとも。」
「うん、知っているよ。」
だが、私はあのように、荒野で父と何事かを叫んだりはしないし、父もそのようにしようとは思わなかったようだった。やはり、
その幸福が、歪なものだと気付いたのは、父が外に出歩けるようになり、弟妹たちと二人ずつ順番に父と散歩に出始めたころだった。その日、私は
「よぉ、
「ああ、その声は。まあね、こうして歩けるようにもなったよ。」
「その両手の穢れの方を手放せば良かったのに。どうして
「
「
「ははは、そんなわけにはいかないよ。僕は知ってるからね。」
すると、大工はクククッと笑った。
「そうだな、オレ達は同類だった。」
「そうだね、でも、あの子から見たらどうかな?」
父が穏やかにそう言うと、大工は流石に口を噤んで、背を向けた。その時私は、どうしようも無い悍ましさを覚えた。
―――ぼくはしょうせつのなの、だれもさわっちゃだめ!
しかし、私はそれを父に問いただす勇気は無かった。もしかしたら、父は分かっていて、そして許しているのかもしれない、と、思ったからだ。
―――私はそう考えるくらいには、いなくなってしまった唯一の兄が持つ、絶対無二の美しさというものを理解し始めていた。
また、別の日、やはり
「起きて大丈夫なのか?」
「ああ、寧ろ走りたいくらいなんだけど、まだそこまで回復していなくてね。咳が出てしまうんだ。」
「
「ああ、修行に出したんだ。」
「どうして
「どうしてと言われても、それは家庭の事情という奴で―――。」
「あの子には世話になったんだ。お別れくらいさせてほしかったよ。それより、ご意見番として戻ってきてくれよ。新しい棟梁は尊敬できない。」
「ははは、無茶を言ってくれるなよ。もうじいさんだ。」
「ちゃんとした嫁を貰い直せばいいのさ。それで裸で寝てもらえばいい。大王のように長生きできる。お前は正しいが、あの女は正しくない。」
「そりゃ、お前の眼が正しくないよ。あれは司祭の家に嫁いだ親戚を持っているのに、司祭の家に嫁がなかったのが不思議なくらい、いい嫁だよ。」
大体、この二つのどちらかのようなことを言われた。穢れの話と、母の話。私も
目の見えない
「あのね、キビ兄。おら、もう父ちゃんは外に出ない方がいいと思うんだ。」
「でも家の中にずっといたら、弱ってしまうよ。」
「そうじゃないよ…。あ、そうか。キビ兄は聞こえなかったんだね。」
「何が?」
「最近、村の人達が、やたらと父ちゃんの穢れの話するの、気付いてる?」
「ん? まあ、母さんの話か、父さんの穢れの話しかしないな。」
私はその時、脳天気に答えた。
「あのさ……。時々聞こえてくるんだよ。」
「父さんのカビの原因が、母さんだってことか?」
「……キビ兄、気付いてる? この頃おら達、村のどんな行事にも呼ばれてないよね。」
「……そういえば、準備こそさせられるけど、本番に呼ばれないな。」
「一日の準備のお礼にもらう葡萄酒なんかも、格段に味が悪い。」
「それはおいらも気付いた。でも今年不作だから、仕方ないんじゃないか?」
「おら、思うんだ。セン兄のいないうちに、価値なんてないんじゃないかな。」
ざわ、と、私は全身が逆立った。その時の感情をなんと表現するべきか分からない。
憎悪だろうか。嫌悪だろうか。その時まだ、私が
「それに、その………。皆、おら達のことを、いなくなればいいって、言っているのが聞こえるんだ。」
「そりゃ、うちは穢れた子供ばかり押しつけられた、一族の最底辺だからな。」
「そうじゃなくて………。セン兄の代わりに、いなくなってたらいいのにって、言ってるんだ。」
「………どういうことだよ、つまり。
詰問するかのようなその言葉に、
「―――セン兄はさ、穢れがなかったじゃん。」
私は、
産まれた時から穢れている私達と、産まれてから穢され続ける
その言葉の意味が、当時の私にはまだ分からなかったのだ。
「でも、セン兄がいなくなって、父ちゃん、元気になったじゃん。だからね。」
「うん。」
「………。穢れであるおら達が全員いなくなっちゃえば、穢れてないセン兄が出て行くより、父ちゃんは良くなったはずだって、そぉ言ってるんだ。」
「………。」
「東のばっちゃん、この前死んじゃったじゃん。」
「そうだな、
「だから、この村にはもう、穢れを気にしない人間がいないんだよ。だから落ち穂拾いだって出来ないし、うちにお下がりに回ってきたロバが死にそうなのに、新しいロバの話が回ってこないじゃん。」
「………。」
それは確かにそうだった。人は皆老いる。だからといって、毎年毎年、穢れを気にしない寡が生まれる訳ではない。年老いた寡であっても、穢れに触れるよりマシだと言って、怪我をしながら暮らす者の方が圧倒的に多い。魚売りも、
「それでね、おらも働こうと思うんだ。」
「働くってお前―――。」
目も見えないのに、どうやって。
そう言おうとして、
「ツィポラで乞食をしようと思う。乞食同士仲良くなれば、食べ物は融通が利く。おら、頑張って物乞いして、小銭を貯めるから、それで、皆を養ってほしいんだ。」
「ま、待て待て待て! そんなこと出来るか!」
「お願い、キビ兄。ヒコ兄の稼ぎだけじゃ、おら達はともかく、父ちゃんにちゃんとしたもの、食べさせられないんだ。おら、父ちゃんと離れててもいいから、父ちゃんには長生きして欲しいんだ。」
真っ白な瞳から、透明な涙がぼろぼろと零れる。
だがそんな事は出来ない。弟を物乞いにするだの乞食にするだのではなく、路傍に放り出すということそのものが出来ない。家族なのだ。私達は家族なのだ。助け合い、支え合い、穢れについての中傷を慰め合って、そうやって生きていけばいい。少しくらいの空腹も、笑顔で嘘をつけば、両親はきっと騙されてくれる。騙すことは出来ないだろうが、騙されることはしてくれるだろう。
だが、そんな生活をしていては、老いていく両親を見殺しにするのも同然だ。真綿で首を絞めるように。
「おら、ツィポラの職人に引き取られたことにするよ。おら一人の食い扶持がなくなって、おらが小銭を集める。それをキビ兄、月に一度、取りに来て。ローマの取税が来る前に。ごはんが食べられなくなる前に………。」
その時の私がどれだけ惨めだったか、想像出来る人は恐らくいない。私は自分の持っている杖と、添え木がよく見えるように裾を破いた服を着て、如何にもな格好をし、ツィポラの住民を睨み付けながら歩いた。
こいつらは、ツィポラの住人は、今この街を流れる清らかな水のために、私達がどれほど長い時間をかけたのか、影でどれほど多くの道具を
あの醜い声は、
一月準備をし、家族を弟妹たちも騙しきって、私は
家に帰った頃、私の血塗れになった私の足先に布を巻いてくれたのは
ところが、ここで計算外のことが起こった。
突如として息子が巣立った事で、父の頭の中にもカビが生えだしたのだ。父に悪霊が取り憑いたという囁き声は、私にさえ届いた。
その頃になって、私はやっと、
父は、そんな現実から逃げたかったのだろうか。
一番まともな会話―――どころか、意思表示も禄に出来ない
それがどうにもこうにも恐ろしかったが、私は同時に、神はやはり、父を許さなかったのだ、と、思った。私は難しい事は分からない。律法だって禄に覚えていやしない。元から穢れている私が、イスラエル人として扱われないのは当然のことだ。律法を遵守したところで、私の骨は足りないままだ。
だから私には、あの幸福な光景が、何故罪なのか分からなかったが、あの光景こそが、許されない罪の理由だったのだろうということは分かった。
何故罪なのだろう。何故罪に定められたのだろう。あの二人は確かに、何か悲しいことがあったようだったが、誰かを悲しませてはいなかった。父は、
愛する息子が悲しんで、苦しんでいる。だから慰めた。それだけの話のはずだ。
私には分からなかった。何故父が狂い始めるように、神が悪霊を仕向けたのか、分からなかった。
―――否、分かるはずなどないのだ。だって私は、神が骨を数え間違えるほど、どうでもいい存在なのだから。神の御心など分かるはずがない。神が私の事を見ていないのだから。
父が誰と話しているのかと聞くと、父は息子の出世を喜ぶように、『弟子と話している』と答えた。
…父は確かに、大工としての腕前は確かだった。しかし、穢れを多く抱えた家の長である父の人間性を、好ましく思っている者は少なかった。だから、仕事を最低限教わる者はいても、弟子と呼べる人間はいなかった。父の弟子は、私達息子だけだ。
しかし、
―――後々思うと、確かに父は、弟子と話していたのだが。
父は
父は、明らかに頭がおかしくなっていた。けれども、本家の
日が暮れてから、まだ父が正気である事を期待して戻ると、父はどうにか正気だった。私達は、久しぶりに悪霊から解放された父を見た。
結論として、本家は父を見限った。緩やかに死にゆく、一族の末席に対する義務を全て放棄した。小さなナザレ村には、否、疎まれ者の私達の噂は、あっという間に広まり。一家の後ろ盾が明確になくなると、村人達は露骨な嫌がらせをするようになった。
それでも私達は、誰一人ローマに家族を奪われることは無かった。税金を納めることが出来ていた。からだ。ツィポラでも
そんな生活が、五年も続いた。否、五年しか続かなかった。
忘れもしない。あの年は雨が多かった。
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