第八話 その罪は雪の如く

 その年は雨が多く、不作や水害が多かった。その為、ローマ帝国領の修復のために、多くの税金が取り立てられた。私は取り立ての前日に、いつもそそぐから、油漬けや塩漬けを持って行って、小銭を貰いにいく。その時、そそぐが渡してきた金袋は、少し重かった。

「おらが乞食するようになって、五年だね。皆元気? 父ちゃんは?」

「うん、皆元気だよ。お前のお陰だ、そそぐ。」

 そそぐは笑った。

「そっか! なら、おらも頑張った甲斐があったよ。今回の取税はちょっと厳しいって聞いてたから、頑張ったよ。きっと足りると思う。」

「ああ、ありがとう。…さ、弁当にしよう。と言っても、今月はきつくて、塩漬けと油漬けの残りしかないんだ。」

「おら、魚大好き! 食べよう食べよう!」

 そう言って、そそぐはやせ細った歯茎と、黄ばんだ前歯を見せて笑った。

そそぐの言った通り、その月の税金は高かった。しかしそそぐのお陰で、私達はローマに、請求された分をしっかりと納める事が出来た。

 ところが、納められない裕福な家がいくつかあり、そのうちの一つが、娘を取られそうになった。ロバが暴れ、村は大騒ぎになり、その大騒ぎが治まった頃、まさがいなくなっていた。ロバに驚いて、どこかに逃げてしまったのかと村中探したが、いなかった。郊外も、まさが行ける範囲の荒野も探したが、いなかった。

 翌日の昼前だった。いつも井戸に水を汲みに来る女の数が減っていない。取られそうになった娘の身代わりにされたのだ、と気付いた。そして、まさと同じ素材の服を着ている娘が、一人多かった。

 どの家がまさを身代わりにしたのか、その辺りも見当がついた。だが、それを言うことは出来なかった。ひこばえは今や一家の大黒柱で、母も心労からか、この頃咳が出る。父は相変わらずだし、かずに『まさは金持ちの娘の代わりに売春婦として連れ去れた』などとは言えない。しかし抱えるには、あまりに大きく重い毒だった。日に日に自分が、ナザレ村の村人ではなく、もっと大きな、ナザレ村、ガリラヤ地方、イスラエルの国、と、より大きく大きく、憎悪の対象が膨らんでいくのを感じていた。

 それは、とてもとても苦しいことだった。私にはへたり込んで、泣くことしか出来なかった。もう老いたロバすら貸してもらえない私の家。仮に貸してもらえたとしても、私は馬に禄に乗れない。どこにもまさを探しに走る事は出来ないのだ。

 最も少ないものが、最も多いものに奪われた。嗚呼、だがそれはこの世の摂理だと、私は初めて本家に来た時に分かっていたはずなのに。あまりにも父と母が優しかったから忘れてしまっていた。


 この世の人々はあまりに醜く、神に取り入られることに必死で、他人ひとを見ないのだ。


 まさは今どうしているだろう。破瓜の痛みと動揺に泣いているだろうか。それとも悪霊憑きとバレて虐げられているだろうか。路傍に捨てられていないだろうか。占い師にさせられていないだろうか。売春婦として生きる生き方を教わっていないだろうか。

 私は日に日に意識を瞬間的に失う頻度が高くなり、遂には倒れた。心労ではない。怒りに耐えかねて、頭が文字通り沸騰したのだ。脳天から、シューッと音がするような気がして、魂まで抜けかかった。幸いだったのは、それが家の中だったので、誰にも悪霊憑きが増えたと思われなかったことだ。

 もう悪霊も愛想を尽かしたのか、父が語らう風は優しく、いつも父は穏やかだった。きっと、このまま、何が今起きているのかも分からないまま、穏やかに死んでいくだろう。

 ―――そう思っていた。否、そうなるべきだった。だが所詮は、この世の命だ。つまり、この世の人々はあまりに醜く、神に取り入られることに必死で、他人ひとを見ないのだ。


 あの日、まさの悪夢を強く見せられて、私は数日寝込んだ。なんとか幻を打ち破って目覚めたとき、むっとする臭いが、家の前に来ていた。

 家族が、何人もの乞食を入れて、泣いている。乞食達は、襤褸布に包まれた何かを、大切に持ってきていた。

 そそぐの死体だった。乞食達は皆、身体のどこかが悪い。恐らく必死になって担いできてくれたのだろうが、そそぐの死体は黒ずんで腐り始め、蛆が食い破り始めていて、腹は異常に膨らんでいた。そして私は、そそぐが偶然聞いた税金の取り立てのために、乞食の仲間を裏切り、そしてその報復を受けて殺されたことを聞かされた。

 あの日、重かった金袋には、そそぐの命そのものも入っていたのだ。

 あの日食べた油漬けや塩漬けが、あんな粗末な魚の切れ端が、そそぐに与えることが出来た、私の最後の―――。なんということだ。私は、そそぐが指先をぼろぼろにして小銭を拾い、唾を吐かれながら必死に集め、かっぱらったパンを分け合って食べていた、その生活に全く報いる事が出来なかった。その証拠に、そそぐは死んだ。

 私は何故死んだのか、乞食達に問い詰めたものの、誰も何も言わなかった。私は家の裏に、申し訳程度の獣よけと虫除けを施して、そそぐを一晩寝かせた。私達に墓を貸してくれるものなどいないから、墓は自分達で作らなければならない。棺も用意できないけれど、こんなに立派に家族のために働いたそそぐなのだ。墓に入れてやらなければ。でもその前に、頑なに乞食達が口を閉ざした、そそぐの死因を知りたかった。

 気になるのは、この異常に膨れた腹だ。飢餓の時でもこんな風な膨れ方はしない。私は何度も口に出して謝りながら、そそぐの腹に刃を当てた。

 そそぐの腹の中は、形が分からないくらいにぐちゃぐちゃになっていた。

 …もし馬に蹴られたのなら、こんなに執拗に、内蔵や骨が潰れて砕ける訳が無い。そそぐの仲間を疑いたくはない。だが、理由なら、犯人なら目星がついた。

 あの乞食達だ。あの乞食達は、無実の罪を着せられ殺された乞食たちの生き残りで、そそぐを殺した一人で、そして且つ、良心を持っていた一人だったのだ。それ以外に考えられない。乞食も金持ちも変わらないと言うことを、私はまさのことで知っている。

 翌朝、まだ日の昇る前から、私、きんけいひこばえの男手で、そそぐの遺体を担いで山肌まで行った。その山肌は、土地が痩せていて、硬いので、誰も持っていない山肌だった。私達が勝手に墓をこさえても、誰も表だっては文句は言えないのである。

けいけいなりに、そそぐが死に、腐り止めの香油もないことを理解しているらしく、唸りながら蝿を払っていた。ものの清濁の分からないけいが羨ましい。私は、弟を死地に送った身として、そして弟が死んだ理由を知っているただ一人として、そそぐの死体を見られなかった。

 母とかずは、日暮れ後、墓を掘り終わった後に合流し、香油を塗る約束だった。私は脚が、きんは首が、けいは頭が悪い。だがそんなことを言っている暇などない。けいが一人だけ、涙も流さず、そそぐに集るハエと、湧いてきた蟲を摘まんで放りなげていた。労力としては腹立たしい限りだったが、精神的にはとても楽だった。日が高くなり、荒野一帯から私達の影さえなくなっても、山肌を奥へ奥へと掘り進めた。

 出来ることなら、そそぐにはゆったりとした墓にしてやりたかった。腹を踏みつぶされ、悶絶しながら小さくくるまって死んだだろうに、墓の中でまで身体を折り曲げさせるなんて出来ない。それでも、間に合わなかった。そそぐとは本家にいたときからの付き合いだが、―――こんなに、大人になっていたのだ。大人になっていたのに。大きくなれたのに、小さく死んでしまった。この上、小さく葬るなんて出来ようか。

 酢水も飲み干して、飲み干した酢水を吐き戻して、それでもどうにか、大きく広く掘った。暗闇に目が慣れて、一心不乱に掘って行くと、太陽が沈んでいることにも気付かなかった。かずの呼びかけと、母の咳で、我に返った。随分奥深くまで掘れたと思う。これならそそぐも、ゆっくり眠れるだろう。

 全員で香油を塗り直し、そそぐを墓に入れようとして―――こん、と、何かに突っかかった。

「?」

「キビ兄、どうしたの?」

 きんが腰ごと身体を捻り、中を覗き込む。私は答えた。

「………。足りない。」

「何が?」

 ひこばえがそう聞いてくるので、私はそそぐの死体から手を離し、飛びかかってひこばえを殴りつけた。

「お前、サボったな!?」

「痛いっ!」

「キビ兄どうしたの、止めて!」

きびすきびす、止めて、止めてちょうだい。」

 泣いて掠れた妹と母の声は届かず、私はひこばえにのしかかって、頬を両方から引っぱたいた。

「おいら達は吐き戻してまで掘ったんだぞ!! お前が一番掘れたはずだろ、穢れがないんだから!!!」

「いたっいたっ! そんなことない! ボクだってちゃんと掘った! 三人で掘れるだけ掘ったんだよ!」

「そんな訳あるか! こんなんじゃ、丸めるしかないじゃないか、死んだときみたいに!!!」

きびすきびす止めなさい、早く葬ってあげないと、狼が寄ってきてしまうわ。」

「う…うう………っ。」

 母の言う通りだった。私達は、脆くなったきびすの手足を折りたたんで腹の前に寄せた。それでも入りそうになかったので、背中を丸めた。頭から入れると、頬が擦れて剥がれてしまいそうだったので、尻の方から入れた。ゆっくり、ゆっくり、と、入れて、少しだけ頭頂部が出た。そっと首を曲げると、漸くそそぐの死体は、穴の中にすっぽりと入った。

「赤ちゃんみたいだね。」

「は?」

 ひこばえが穏やかに言った。

「赤ちゃんって、今のそそぐみたいな格好をして、お母さんのお腹の中にいるんだよ。それで、頭から出てくるの。そそぐは、今、うまれる準備をしているんだね。」

 ひこばえまでも支離滅裂なことを言い始めた。私は頭が痛くなり、そそぐの頭を包むように、土を被せて、墓に蓋をした。獣が掘り返さないように、石で硬く封じた。

「んむ、むあ……。」

「どうした? けい。」

「うー、むー……。むああああああああああああーーーー!!!」

 けいが泣いていた。いつも同じ顔で、にこにこ笑っているけいが、泣いていた。何を考えているのか分からないようなけいが、泣いていた。いつも同じ事を繰り返すだけの日常を送るけいが、泣いていた。

 ああ、本当に、私は、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。

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