第六節 初子《ういご》の祝福
父の容態は相変わらず悪くなる一方だが、それは緩やかではあった。真綿で首を絞められていくような日々の中でも、父は調子が良ければ、食前の歌を歌った。
「
パンと葡萄酒の祈りを歌う時、声が掠れ、咳き込んで音楽が途切れても、私達は父が歌いたがるのを止めなかった。父は苦しそうに咳き込むが、すぐに嬉しそうに歌うからだ。病人から楽しみを奪うのは酷だ。手元の見えない父にパンを与えるのは母の役目だったが、だんだんと母を避けるようになり、
―――
そんな父の愛が伝わっているのかいないのか、母は隠れて泣くようになった。理由を聞くことなど出来ない。理由は分かりきっているからだ。
何かを感じ取っていたのか、
その時、潤んだ声の母が、父の部屋からやってきて言った。
「貴方たち、お父さんが呼んでるわよ。すぐにおいで。」
遂に来たか、と、私達は床を放って、父の部屋に飛び込んだ。
「お父さん!」
真っ先に枕元に駆けつけたのは
父が弱々しい声で私達を呼ぶので、私は父の最期の言葉を一言も聞き漏らすまいと、動いている父の唇を見逃すまいと、割り込んだ。
―――ぼくはしょうせつのなの、だれもさわっちゃだめ!
あの時の言葉が蘇る。一番大切な者は、最後にとっておきの言葉をかけるのだろう。―――そう思っていた。だが、父ははっきりと、誰にでも聞こえるように、言った。
「お前は、この家の子じゃない。」
私は何を言っているのか分からなかった。恐らく、誰もがそうだっただろう。何故なら、今名前すら呼ばれなかった彼は、父の
「お前は不完全になった上、どうしようもない不埒者だ。母さんの親戚に、
胸を患っているとは思えない程、淀みのない言葉だった。それこそ、神が力を与えているかのように。
「な、ぜ………? しょう、
か細い声だった。私はその時、漸く
「お前は、この家の
「じゃあぼくはなんだったって言うんだッ!!! なんのために貴方はぼくを抱いたんだ!!」
「にっちゃ、落ち着いて!」
「皆、こっちにいらっしゃい!」
父に跨がろうとする
あまりにも、兄が泣いているように見えたからだ。だが兄は涙をこぼさず、喉で泣いていた。
「貴方が求めてくれたから、応えたんじゃないか!! 貴方がエジプトでぼくを救い出してくれた時にはもう、ぼく達はお互いに愛し合っていたんじゃなかったのか!? 妻を奪われた貴方を受け入れたのは誰だ? ぼくじゃないか! 何度辱められても受け入れて慰めてくれたのは? 貴方じゃないか!」
「にっちゃ、待って、待って止めて! お母さんの前だよ!」
「どうしてそんな事を言うんだ!! 家系の分からないぼくに、家を与えてくれたのは、貴方じゃないか!! ぼくをイスラエル人だと信じてくれたのは貴方じゃないか!! 神殿男娼の愛を信じてくれたのは貴方じゃないか!! なんで今になって裏切るんだ、どうして今になって捨てるんだ、同じ子供を産まない妻なら、ぼくの方が余程妻に相応しかった!!」
それを聞いた母が、絶叫した。今まで子供達を庇っていた姿はなく、耳を塞いで泣いている。私はその声で我に返り、いつの間にか
「兄さん止めて! 父さんは病気なんだよ!」
「うるさい!! 産まれた時から穢れているお前達に、産まれてから穢され続けるぼくらの気持ちが分かってたまるか!!」
バシッと手の甲で、奴隷を殴るように頬を張られ、私は体勢を崩して倒れた。弟妹たちは、泣きじゃくる母に怯えて、ぶるぶると震えている。
「母さん、その、………。」
ただ、母に何を言えば分からなかった。
「きびす。」
「な、なに? 母さん。」
「………せんぎょうを、とめて。わたしはだいじょうぶだから。あのこを、とめて。」
母が立ち上がり、私を助け起こした。そしてそのまま背を向けて、顔を覆う。私は、父の身体の上で、もみ合っている
「止めろって言ってるだろ! 父さんの上から退け!!」
「………。」
フーッ、フーッ、と、激しい呼吸を繰り返し、未だに
だが、その前にその唇を、
「痛いっ!」
「お前達の魂胆は分かったよ!! 初めからぼくを嗤ってたんだろ!! 自分達だけ血の繋がりがあることを誇って、親の名前も覚えていないぼくを嘲笑ってたんだろ!!」
「にっちゃ、違う! そんなの違うよ! そんなの関係ないよ!」
「
「にっちゃ止めて、まだ言わないで! 落ち着いて!」
「どうせ
「にっちゃ! どこ行くの、戻ってきて!」
漸く私達は、
「ヒコ、父さん見てて。おいらが医者呼んでくる!」
杖を握り直して、家を出ようとしたとき、苦しむ父の、涙声が聞こえた気がした。
―――気のせいで無ければ。
『
その日のその後のことは、良く覚えていない。皆混乱していて、心がぐちゃぐちゃで、折り合いをつけるために口を引き結ぶので精一杯だった。
だが、私ももう十八になっていた。そんなことが本当にあるのか、と、思いつつも、いくつか応えに見当はついていた。だが、それを解き明かしてくれる人はいないし、正解かどうか見分けてくれる人もいない。
とにかく、一晩経ったら、
眠れない間、
翌朝になって、母は
「ヒコ、ちょっと。」
「ヒコ、
「………。」
「兄さんだけ血が繋がってないってどういう意味?」
「………。」
「ヒコ、お前も十五なんだからわかるだろ? エジプトの神殿に住んでた意味。そんな悍ましいのと兄弟として育てられてたんだぞ!? いちばん不誠実な騙し方だ! なんでそんなところに父さんと母さんが!」
「………。」
「お前も、エジプトで産まれたの?」
「違うよ。…ボク、ベツレヘムで生まれたの。にっちゃと同じ日、同じ所にいたの。」
「ベツレヘム? なんで?」
「お父さんが、大王の子孫だからだよ。ベツレヘムは大王の故郷だから。」
「そんなのおいらだって習った。でもお前が父さんの子じゃないなら、そこに行く資格ないだろ。大王の子孫じゃないんだから。」
「お母さんだって、大王の子孫だよ。」
「そんなの言い訳に―――いや、そうじゃない、おいらが聞きたいのはそうじゃなくて。」
「
すると
「家族だよ。一緒に育って、一緒に笑って、一緒に耐えた。」
「そんなの、本家の奴隷たちだってそうだったさ。そうじゃなくて、血のつながりは? 誰の家から産まれたの、
「………。」
―――今にして思うと、
「誰にも秘密だよ。」
「おん?」
「お母さんに言っちゃ駄目。お父さんになんてもっと駄目。例え本家の人達にだって、駄目だよ。」
「お、おう…。」
「……にっちゃは、祭司の家の出だよ。神を嗣業とするあの一族。」
「嘘つけ。」
私は反射的に答えた。祭司の家ならば、確かにイスラエル中に散らばっている。しかし、祭司の家の子供は、基本的に祭司の家同士でやりとりされる。つまり、祭司の家に生まれた男子が、跡取りの恵まれない家に養子に出され、その後夫婦の間に実子が生まれた、というのは、有り得ないのだ。
「祭司の家の子が、なんで大工にもらわれたんだよ。」
「元々にっちゃは、エルサレムに住んでたの。ボクの産まれた年、皇帝の住民登録があって、その時にっちゃと一つ年下の弟は、入り婿のお父さんの家に戻ってたんだ。そこがベツレヘム。ボクの産まれた村。」
疑いの目を捨てられないまま、私は
「その時の王様、ちょっと頭悪くて、二歳以下の男の子を皆殺しにしちゃったの。」
「なんでまた。」
「救い主が産まれたからだよ。」
―――その時の
「預言の? 大王の子の?」
「そう。で、ともかく、その時、にっちゃ以外は全員、その時の王兵に殺されちゃって、にっちゃだけが生き残ったの。お腹がすいて、助けてもらったのが、奴隷商人で、そのままエジプトに奴隷として売られちゃった。それから暫くした後、お父さんがにっちゃを神殿から引き取ってきて、お母さんがにっちゃに『
「………。ま、そういうことにしといてやるか。あー、暑い暑い。ヒコ、お前ついでだから井戸行ってこいよ。母さん達には冷たい水飲ませてやらないと。」
「そうだね、行ってくるよ。」
そう言って
「………。あのうそつきめ!!!」
暫くして、私は
母親の乳房以外を知る赤ん坊など、いるはずがないからだ。
そして、救い主が産まれたというのも、当然嘘だ。もし産まれたのなら、ローマ兵は駆逐されているはずだし、何より私の脚は牡鹿のようになっているはずだからだ。
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