第六節 初子《ういご》の祝福

 父の容態は相変わらず悪くなる一方だが、それは緩やかではあった。真綿で首を絞められていくような日々の中でも、父は調子が良ければ、食前の歌を歌った。

いただきますバールハタドナーイ。」

 パンと葡萄酒の祈りを歌う時、声が掠れ、咳き込んで音楽が途切れても、私達は父が歌いたがるのを止めなかった。父は苦しそうに咳き込むが、すぐに嬉しそうに歌うからだ。病人から楽しみを奪うのは酷だ。手元の見えない父にパンを与えるのは母の役目だったが、だんだんと母を避けるようになり、瞻仰せんぎょうに自分の世話をさせた。

 ―――瞻仰せんぎょう初子ういごなのだから当然の責任だろう、と思っていたが、今にして思うと、あれは父なりに、母の今後を憂いての行動だったのだと思う。

 そんな父の愛が伝わっているのかいないのか、母は隠れて泣くようになった。理由を聞くことなど出来ない。理由は分かりきっているからだ。


 何かを感じ取っていたのか、まさはその夜、私の添え木に絵を描く遊びをずっと止めなかった。やっとの思いで解放された頃には、もう灯火が必要なくらいに暗くなってきていたので、私達は急いで寝床の準備をしていた。

 その時、潤んだ声の母が、父の部屋からやってきて言った。

「貴方たち、お父さんが呼んでるわよ。すぐにおいで。」

 遂に来たか、と、私達は床を放って、父の部屋に飛び込んだ。

「お父さん!」

 真っ先に枕元に駆けつけたのは瞻仰せんぎょうだった。そしてすぐにひこばえが。その後に私達が続く。私はこの年になっても、弟妹達よりも早く走れなかった。

 父が弱々しい声で私達を呼ぶので、私は父の最期の言葉を一言も聞き漏らすまいと、動いている父の唇を見逃すまいと、割り込んだ。ひこばえが場所を譲ってくれたのだ。しかし父は、前へ譲られた私では泣く、ひこばえを手元に呼び寄せて、遺言とも取れるような言葉をかけた。私はその次に、そしてその次はそそぐに、けいに、きんに、まさに、そしてかずに言葉をかけた。

 ―――ぼくはしょうせつのなの、だれもさわっちゃだめ!

 あの時の言葉が蘇る。一番大切な者は、最後にとっておきの言葉をかけるのだろう。―――そう思っていた。だが、父ははっきりと、誰にでも聞こえるように、言った。

「お前は、この家の子じゃない。」

 私は何を言っているのか分からなかった。恐らく、誰もがそうだっただろう。何故なら、今名前すら呼ばれなかった彼は、父の初子ういごのはずで、父のもののはずなのだから。誰もが凍り付いて何も言えなかった。瞻仰せんぎょうの顔を見ることすら出来ない。

「お前は不完全になった上、どうしようもない不埒者だ。母さんの親戚に、受惠じゅけいという人がいる。ひこばえの従兄だ。ヨルダン川の近くの荒野に住んで、修行をしてるから、そこで身を清めて、真っ当な人間になるまで、ナザレに戻るな。」

 胸を患っているとは思えない程、淀みのない言葉だった。それこそ、神が力を与えているかのように。

「な、ぜ………? しょう、漱雪しょうせつ………、何を―――。」

 か細い声だった。私はその時、漸く瞻仰せんぎょうの顔を見ることが出来た。瞻仰せんぎょうは、私の知っている顔ではなかった。具体的にいうと、その時の瞻仰せんぎょうは、私の唯一の兄ではなかった。他の何か別者だった。

「お前は、この家の初子ういごじゃないからだ。この家の長子も初子ういごも、ひこばえただ一人。お前はひこばえを護る為に育てたのであって、跡継ぎに据える為に育てた訳じゃない。」

「じゃあぼくはなんだったって言うんだッ!!! なんのために貴方はぼくを抱いたんだ!!」

「にっちゃ、落ち着いて!」

「皆、こっちにいらっしゃい!」

 父に跨がろうとする瞻仰せんぎょうひこばえが止め、母が弟妹を引き寄せて部屋の隅に隠す。耳を塞いで、目を閉じて、と、言っているのが聞こえる。私も呼ばれているようだ。だが動けない。

 あまりにも、兄が泣いているように見えたからだ。だが兄は涙をこぼさず、喉で泣いていた。

「貴方が求めてくれたから、応えたんじゃないか!! 貴方がエジプトでぼくを救い出してくれた時にはもう、ぼく達はお互いに愛し合っていたんじゃなかったのか!? 妻を奪われた貴方を受け入れたのは誰だ? ぼくじゃないか! 何度辱められても受け入れて慰めてくれたのは? 貴方じゃないか!」

「にっちゃ、待って、待って止めて! お母さんの前だよ!」

「どうしてそんな事を言うんだ!! 家系の分からないぼくに、家を与えてくれたのは、貴方じゃないか!! ぼくをイスラエル人だと信じてくれたのは貴方じゃないか!! 神殿男娼の愛を信じてくれたのは貴方じゃないか!! なんで今になって裏切るんだ、どうして今になって捨てるんだ、同じ子供を産まない妻なら、ぼくの方が余程妻に相応しかった!!」

 それを聞いた母が、絶叫した。今まで子供達を庇っていた姿はなく、耳を塞いで泣いている。私はその声で我に返り、いつの間にかひこばえを振り切って父の上に跨がっていた瞻仰せんぎょうを止めにかかった。

「兄さん止めて! 父さんは病気なんだよ!」

「うるさい!! 産まれた時から穢れているお前達に、産まれてから穢され続けるぼくらの気持ちが分かってたまるか!!」

 バシッと手の甲で、奴隷を殴るように頬を張られ、私は体勢を崩して倒れた。弟妹たちは、泣きじゃくる母に怯えて、ぶるぶると震えている。瞻仰せんぎょうを止められないのなら、脚で踏ん張れない私が止められないのなら、こっちの方を護らなくては、と、私は爪先を引き摺って母の元に行った。

「母さん、その、………。」

 ただ、母に何を言えば分からなかった。瞻仰せんぎょうの言葉が半分も理解できない。

 瞻仰せんぎょうが悲しんでいることも、父が苦しんでいることも、母が嘆いていることも分かる。だが理由が整理できない。だから、何と言えば良いのか分からない。

「きびす。」

「な、なに? 母さん。」

「………せんぎょうを、とめて。わたしはだいじょうぶだから。あのこを、とめて。」

 母が立ち上がり、私を助け起こした。そしてそのまま背を向けて、顔を覆う。私は、父の身体の上で、もみ合っているひこばえ瞻仰せんぎょうの鬼気迫る様子に怯みながらも、杖を使って瞻仰せんぎょうを殴りつけた。

「止めろって言ってるだろ! 父さんの上から退け!!」

「………。」

 フーッ、フーッ、と、激しい呼吸を繰り返し、未だに瞻仰せんぎょうは我に返っていないのだと思った。私の渾身の殴打で体勢を崩し、ひこばえに引きずり落とされて、床に倒れる。皆怯えて、瞻仰せんぎょうに近づかない。ただひこばえだけが近づいていって、声をかけようとした。

 だが、その前にその唇を、瞻仰せんぎょうが弾いた。

「痛いっ!」

「お前達の魂胆は分かったよ!! 初めからぼくを嗤ってたんだろ!! 自分達だけ血の繋がりがあることを誇って、親の名前も覚えていないぼくを嘲笑ってたんだろ!!」

「にっちゃ、違う! そんなの違うよ! そんなの関係ないよ!」

ひこばえ、お前も覚悟しておけよ。今は初子ういごでも、いずれぼくのように捨てられる。だってお前は、父さんの子じゃないんだからね!!」

「にっちゃ止めて、まだ言わないで! 落ち着いて!」

「どうせひこばえ以外、神の民に相応しくない奴らだ。穢れが焼き払われる時にまた会おう。じゃあな!」

「にっちゃ! どこ行くの、戻ってきて!」

 漸く私達は、瞻仰せんぎょうの名を呼んで追いかけた。だが瞻仰せんぎょうは、ほんの一歩先に戸を出て行ったとは思えない程遠くを走っていた。ひこばえが追いかけようとしたが、その時激しく父が咳き込んだ。

「ヒコ、父さん見てて。おいらが医者呼んでくる!」

 杖を握り直して、家を出ようとしたとき、苦しむ父の、涙声が聞こえた気がした。

 ―――気のせいで無ければ。

 『瞻仰せんぎょう、愛している』と、父は繰り返していたようだった。


 その日のその後のことは、良く覚えていない。皆混乱していて、心がぐちゃぐちゃで、折り合いをつけるために口を引き結ぶので精一杯だった。

 瞻仰せんぎょうが何を言っていたのか分からなかった。全く分からなかった。弟妹達はそうだろう。

 だが、私ももう十八になっていた。そんなことが本当にあるのか、と、思いつつも、いくつか応えに見当はついていた。だが、それを解き明かしてくれる人はいないし、正解かどうか見分けてくれる人もいない。

 とにかく、一晩経ったら、瞻仰せんぎょうは戻ってくる、と、誰かが言った。そそぐが空気を読んだのか、かずが不安からそう言ったのか、それともけいが泣き咽ぶ父を見下ろしながら言ったのか。否や、或いは私が言ったのか。ともかく私達は、全員眠れぬ夜を過ごした。

 眠れない間、ひこばえの泣き声と、それをあやす母の啜り泣く声が聞こえていた。

 翌朝になって、母はきんかずを連れて、村を探しに行った。私とひこばえまさけいは留守番だ。まさけいが不安がっていたのもあったし、二人を見る誰かが必要だった。ならボクが、と、ひこばえが言ったので、私は脚と、昨日瞻仰せんぎょうに叩かれた所が痛いと、半分嘘をついて家に居残った。

「ヒコ、ちょっと。」

 まさけいとで、墨絵で遊んでいたひこばえを家の外に呼び出した。どうせ今は日中、誰も聞いてやしない。

「ヒコ、昨日瞻仰せんぎょうが怒鳴っていたのは、本当の事なのか?」

「………。」

 ひこばえはスンッと無表情で、私を見つめた。

「兄さんだけ血が繋がってないってどういう意味?」

「………。」

「ヒコ、お前も十五なんだからわかるだろ? エジプトの神殿に住んでた意味。そんな悍ましいのと兄弟として育てられてたんだぞ!? いちばん不誠実な騙し方だ! なんでそんなところに父さんと母さんが!」

「………。」

「お前も、エジプトで産まれたの?」

「違うよ。…ボク、ベツレヘムで生まれたの。にっちゃと同じ日、同じ所にいたの。」

「ベツレヘム? なんで?」

「お父さんが、大王の子孫だからだよ。ベツレヘムは大王の故郷だから。」

「そんなのおいらだって習った。でもお前が父さんの子じゃないなら、そこに行く資格ないだろ。大王の子孫じゃないんだから。」

「お母さんだって、大王の子孫だよ。」

「そんなの言い訳に―――いや、そうじゃない、おいらが聞きたいのはそうじゃなくて。」


瞻仰せんぎょうは、おいら達の家族じゃなかったの。」


 するとひこばえは答えた。

「家族だよ。一緒に育って、一緒に笑って、一緒に耐えた。」

「そんなの、本家の奴隷たちだってそうだったさ。そうじゃなくて、血のつながりは? 誰の家から産まれたの、瞻仰せんぎょうは。」

「………。」

 ―――今にして思うと、瞻仰せんぎょうと三つしか離れていないひこばえに、瞻仰せんぎょうの出自を聞いても仕方がないことであるのだが、その時、ひこばえは苦しそうに顔を歪めて、答えた。

「誰にも秘密だよ。」

「おん?」

「お母さんに言っちゃ駄目。お父さんになんてもっと駄目。例え本家の人達にだって、駄目だよ。」

「お、おう…。」

「……にっちゃは、祭司の家の出だよ。神を嗣業とするあの一族。」

「嘘つけ。」

 私は反射的に答えた。祭司の家ならば、確かにイスラエル中に散らばっている。しかし、祭司の家の子供は、基本的に祭司の家同士でやりとりされる。つまり、祭司の家に生まれた男子が、跡取りの恵まれない家に養子に出され、その後夫婦の間に実子が生まれた、というのは、有り得ないのだ。

「祭司の家の子が、なんで大工にもらわれたんだよ。」

「元々にっちゃは、エルサレムに住んでたの。ボクの産まれた年、皇帝の住民登録があって、その時にっちゃと一つ年下の弟は、入り婿のお父さんの家に戻ってたんだ。そこがベツレヘム。ボクの産まれた村。」

 疑いの目を捨てられないまま、私はひこばえを睨み付けて、その先を促した。

「その時の王様、ちょっと頭悪くて、二歳以下の男の子を皆殺しにしちゃったの。」

「なんでまた。」

「救い主が産まれたからだよ。」

 ―――その時のひこばえの表情は、どのようなものだっただろうか。

「預言の? 大王の子の?」

「そう。で、ともかく、その時、にっちゃ以外は全員、その時の王兵に殺されちゃって、にっちゃだけが生き残ったの。お腹がすいて、助けてもらったのが、奴隷商人で、そのままエジプトに奴隷として売られちゃった。それから暫くした後、お父さんがにっちゃを神殿から引き取ってきて、お母さんがにっちゃに『瞻仰せんぎょう』って名前をつけたんだよ。だから、にっちゃはイスラエル人だよ。本人も知らないけどね。」

「………。ま、そういうことにしといてやるか。あー、暑い暑い。ヒコ、お前ついでだから井戸行ってこいよ。母さん達には冷たい水飲ませてやらないと。」

「そうだね、行ってくるよ。」

 そう言ってひこばえは、ぼうっとしてのろのろ転がりに行った私を尻目に、玄関でパタパタと動き、出かけて行った。

「………。あのうそつきめ!!!」

 暫くして、私はひこばえの口車に乗せられたことに気付いた。

 母親の乳房以外を知る赤ん坊など、いるはずがないからだ。

 そして、救い主が産まれたというのも、当然嘘だ。もし産まれたのなら、ローマ兵は駆逐されているはずだし、何より私の脚は牡鹿のようになっているはずだからだ。

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