第五節 欠けゆくもの

 宣言通り、嗣跟つぐくびすは殆ど毎日来るようになった。私の家は、油漬けや塩漬けの魚を貯蓄するほどの瓶がない。必然的に、毎日十人分の魚や菜やパンを用意しなければならない。育ち盛りの子供が、上から下まで八人。食べていくのも精一杯なら、貯めるのも精一杯だ。

 要するに、嗣跟つぐくびすの売る魚を毎日買わなければ、私達は生きていけなかったのである。時々嗣跟つぐくびすの弟やらが見習いでついてくる事もあったが、基本的には嗣跟つぐくびすが一人で、籠を担いで売りに来た。

 その時、大抵私達は仕事に出かけているのだが、帰ってくると、母以外の、要するに弟妹達の表情は明らかに暗かった。それもそのはずで、弟妹達は本家であの男が、自分達をどのように扱っていたのか覚えているのだ。かずは流石に、嗣跟つぐくびすのことは覚えていないだろうが、心の奥底であの恐怖を覚えているようだった。

 その頃、家でそそぐきんも、父の道具を磨くなどの手伝いを始めた。というのも、ナザレの北の地方都市ツィポラの拡張工事が佳境にさしかかり、道具の手入れが私一人では賄いきれなくなったからだ。元々指先の鋭いそそぐ、下をずっと向いているきんは、そういう作業に向いているらしく、すぐに慣れた。しかし大工仕事というのは全体で進むものなので、予定が繰り上がることはなさそうだった。寧ろ、遅れる気配すらあった。

 というのは、瞻仰せんぎょうが長く熱に伏せった上に、その看病でひこばえが仕事を休んだのだ。ひこばえが『ちんちが痛い!!』と、大騒ぎをして、瞻仰せんぎょうがツィポラに行っていた医者まで連れて行ったのだが、何故か瞻仰せんぎょうがぐったりとして父に負ぶわれて帰って来た。当のひこばえはけろっとしていて、何があったのか、三人とも話そうとしなかった。ただ、瞻仰せんぎょうの熱は病ではなく、傷が化膿しただけとのことだったし、ひこばえが責任を感じているのか世話を一心に引き受けていたので、私は瞻仰せんぎょうの顔色を見るくらいしか出来なかった。

 工事が伸びた分だけ、瞻仰せんぎょうは伏せっていた訳だが、いざ復帰すると、工事はあっけなく終わった。長年の大規模な計画が終わり、私達は家で祝杯を挙げた。

 異変が起こったのは、それから一週間も経たない頃だった。

 その頃、私、瞻仰せんぎょうまさは十八歳、ひこばえは十五歳、そそぐは十四歳、けいきんは十二歳、かずは十一歳だった。

 

 その日は村の寡が死んだ日だった。夫に、『もうお前じゃ勃たない』と捨てられ、日々を祈りくらし、残してきた子供の事をいつも話していた寡だ。その寡は置いていたので、いつも井戸の水が組めなかった。きんは下をずっと向いていられるので、いつも人気の無い日の高い時間に、井戸で寡のために水を汲み、落ちた木の実や蝗や蜜を集めるなどしていた。とても仲の良い寡だっただけに、突然の死にきんは激しく泣いて怒った。

「昨日まであんなに元気だったんだ! この村の穢れだと言って、誰かがばっちゃんを殺したんだ!」

きん、止めるんだ! 人はいつか死ぬ、突然死ぬことだって当たり前にあるんだよ!」

「ヒコ兄はばっちゃんちに行ってないからわかんないんだよ! あの家に、落ちてくるものや落ちる場所なんて一カ所もないんだ! 絶対誰かがばっちゃんを石で殺したんだ! 価値がないと言われた女だったからだ!!」

 私は普段、村の人々が、私を初めとする穢れた人間にどういう扱いをしているのか知っていた。それだけに、きんの主張は全く否定できなかったし、寧ろ賛成だった。何せ寡には娘がいなかったから、泣女をやる者はなく、葬式で泣いていたのも、私達家族だけだった。私自身、涙を禁じ得なかったが、どうにか堪えて目の中にしまった。瞻仰せんぎょうは、なんだかずっとぼうっとしていたような気がする。

 尚も吼えるきんを、父は止めなかった。きんは最後には、最低限の処置だけして、何も喋らずに帰って行った村人達の背中に、寡が如何に良い老婆だったのか訴えかけたが、それでも誰も、振り向くどころか立ち止まりもしなかった。

 だからだろうか。神の前に価値のない者の為に、神の前に価値のある者を罵倒した罰だったのだろうか。翌日、父は体調を崩し、風邪を引いた。村の者たちは、ひそひそと、きんを止めなかった報いだと囁いているのを、そそぐが聞いた。そそぐが目の代わりに、耳や鼻でものを視ていることは、村の皆が知っている。そそぐに聞こえるように、そそぐだけに聞こえるように言ったに違いない。何故なら公の場で、同じ村の人間という『隣人』の悪口を言うと、生贄を捧げなければならないからだ。だから、

「そんな事は言っていない。もしどうしてもそそぐが聞いたというのなら、それは弟が呼び寄せた悪魔がそうさせたのだ。だから漱雪そそぐに言って、生贄を捧げて貰い、穢れを清めてもらうといい。そうすれば、そそぐにも取り憑いた悪魔は消え去り、ついでに目も開かれるだろう。もしそうならないのなら、神はお前達三人に罰を下し続けるだろう。」

 そんなことをぺらぺらと、エルサレムの山から風が下っていくように語るに違いないのだ。

 きっとひこばえは否定する。瞻仰せんぎょうも否定する。何故なら二人は、穢れていないからだ。産まれた時に穢れていなかった者に、私達のように祖先の罪を押しつけられた者の気持ちは分からない。

 父の風邪は、初めはごく普通の風邪だった。けれども、大工仲間からは排除されてしまった。ただでさえ、価値のない女のために、価値のある男たちを不快にさせた、そしてそれを窘めなかったのだ。穢れた人間の家族が、少しでも調子が悪いのなら、これを機に父を棟梁から追い落とそうとした連中もいただろう。ひこばえ瞻仰せんぎょうと私は、父の分を賄うべく、そして父の地位を守るべく、懸命に働いた。現場に行く事が出来ないそそぐきんも、家で道具を磨く手伝いをした。かずまさが父の看病をし、それまでかずそそぐが手伝ってくれていた家事は、全て母がやった。

 だが、どんなに看病しても、父の風邪は治らない。どころか、酷くなる一方だった。私達は仕事の合間に、急拵えの隔離部屋を作り、そこに父を寝かせた。

 本当なら、医者や祭司を呼びたいほどだった。だが、父ももう六十歳。父は、ただでさえ貧しい暮らしに、結婚の見通しの立っている子供が一人もおらず、そんな中、老い先短い自分のために金を使い込むな、と、拒否した。ならばせめて本家に、と、瞻仰せんぎょうが言うと、父は咳き込みながら言った。

「父さんは、一族で一番嫌われているから、誰も援助なんかしないよ。そんなことの為にお前達を使いに出すくらいなら、母さんを手伝っておやり。」

 瞻仰せんぎょうの眉間は切り裂かれて抉られたようになっていたが、決して涙は見せなかった。

 父の風邪は、なかなか治らなかった。病気であることが理解できないけいまさは、父に構って欲しくて父の身体を揺らす。父はその度に激しく咳き込み、時には吐き戻したが、決して二人を叱ったり、遠ざけたりすることはなかった。

 私は若いながらに、それが父の覚悟なのだと思うと、夜に泣いた。家で泣くと父や家族が起きてしまうので、村へ出て、郊外で一人寂しく泣いた。瞻仰せんぎょうもそうなのか、時折瞻仰せんぎょうは夜遅くに出かけ、明け方前に帰って来た。朝起きたとき、目元が腫れていないようにする為だろうか。髪はいつも濡れていた。瞻仰せんぎょうはそうして、私の前で涙を見せたことはなかった。…というより、私は瞻仰せんぎょうの涙を見たことがなかった。

 明日死ぬかも知れない父の咳を聞きながら、父とその介助をする母のいない食卓を囲むのは、とても重苦しかった。だが、同時に良いこともあったのだ。


 それは、そそぐがもうそろそろ十五歳の誕生日を迎える、という時のことだった。安息日だったので、私は日が高くなるまで眠っていようと思っていたのだが、弟妹達の歌声で目を覚ました。

「スン兄ちゃんが、おねしょした! 赤ちゃんみたいに、おねしょした! スン兄ちゃんの、目みたいに、白い白い、おしっこ漏らした!」

 なんの話だ、と、私が渋々起きると、かずきんそそぐをからかって歌っていた。そそぐが半べそを掻きながら、外で下着と上着を洗っているのが見える。瞻仰せんぎょうが慰め終わったらしく、家の中に戻ってきて、きんをごつんと殴った。

「いたーい! セン兄、おらの首曲がっちゃったー!」

「元からだろ! きんけい、お前らにも言っとくけど、お前達に明日来てもおかしくないんだからな、アレ!」

「なんでぇ?」

「なんでなんでぇ?」

 かずは自分だけ殴られなかったことも不思議だったようだ。が、瞻仰せんぎょうかずを置いて、けいきんを連れて、家の外に出た。

「えー!? おしっこ漏らすと、大人の仲間入りなの!?」

「シーッ! 声がでかい!」

 なんの話だろう、と、思い、私は杖を持って家の外へ出た。そそぐからは見えない位置ではあるが、確実に聞こえているだろう。

「いいか? アレは『精通』っていう、身体が大人の男になった、もう子供を産ませられる、っていう意味なんだ。」

「じゃあ、スン兄はおよめさんが来るの?」

「んむぁ?」

「うーん、それとこれとは別だけど…。とにかく、お前達もああなった、ああして自分で下着や寝床を洗うんだぞ。それから、ちゃんと抜くこと。」

「何を?」

「……悪い、口が滑った。」

「ねーねー、何を抜くの?」

「ほら、もうそろそろ朝ご飯だぞ。今日はマグダラ産の油漬けだぞ。」

「わーい! マグダラ村の油漬け! けい、行こっ!」

「んまぁ、んまぁい!」

 私のすぐ横を二人が駆け抜けていった。少し疲れた顔の瞻仰せんぎょうが、遅れて戻ってくる。

「ん? おはよう、きびす。」

「おはよう。……なあ、セン兄。」

「ん?」

「その、『せーつー』って、おいら、来た事無いんだけど……。」

 すると瞻仰せんぎょうは顔色を変え、厠の中に引きずり込んだ。そして何も言わず、私の帯を解き、いきなり下着を剥ぎ取った。

「ちょ、セン兄何するの! 止めてよ恥ずかしい!!」

「黙ってろ。ぼくはちんこの病気には詳しいんだ。」

「おねしょしないなら、それに超したこと無いじゃん! ―――やだ、そんなに見ないでってば! 顔近い! 恥ずかしい!!」

「いいから黙ってろ! ぼくは色んなちんこを見てきた専門家だぞ。」

 そう言って瞻仰せんぎょうは、私の陰茎を素手で触り、左右に裏側、割礼の傷から、太さに長さと、睾丸の裏に主さに厚みまで確かめた。それだけに飽き足らず、陰毛を書き分けて、恥部の皮膚まで見たし、顔を近づけて臭いまで嗅いでいた。私は恥ずかしくて恥ずかしくて、怒りさえ覚えた。それでも急所を握られているというのと、何かの病気かも知れないなら身内に見られた方がまだマシだ、という気持ちが勝った。

 散々観察したあと、瞻仰せんぎょうは大きな溜息をついて、私の陰茎と睾丸を下着にしまい込み、手を洗って帯を直し、上着を整えた。

「うん、大丈夫だ。病気じゃない。」

「セン兄なんか死んじゃえ!!! わあああああん!!!」

 私は恥ずかしさと、それを上回る情けなさで号泣し、瞻仰せんぎょうを突き飛ばして家の中に飛び込んだ。ぽかんとしている弟妹を無視し、父の部屋に飛び込む。

「父さあああん!!」

「…なんだい、きびす。……ごほっ、こほん。」

「セン兄がおいらのちんちん触ったー!!!」

 大泣きしながら絶叫したので、恐らく近隣の住民にも聞こえたことだろう。だがその時の私は、心という鍋から、色々なものを混ぜた吸い物が沸き上がって、蓋をしても差し水をしても、吹きこぼれるのが止まらなかったのだ。

「どうして?」

「わかんない! わかんないわかんない! わかんないよぉ! なんでセン兄、ぼくのちんちん触ったのー!?」

 冷静に考えると、瞻仰せんぎょうはちゃんと、『病気じゃない、大丈夫だ』と言ったのだから、瞻仰せんぎょうは私の身体を心配しての行動だったに違いないのだ。しかし私は、それ以前の混乱と羞恥が勝ってしまって、それしか言えなかった。

 父が泣いている私を宥めていると、瞻仰せんぎょうが入ってきた。

「こらきびす! 外まで泣き声が響いてるぞ。父さんは病気なんだ、大声で喚くな!」

「来んな! 変態っ!」

 ―――この時咄嗟に言ってしまった言葉は、悔やんでも悔やみきれない。

 しかし、その時の私は、どこで覚えたかも忘れてしまったその言葉で、瞻仰せんぎょうを罵った。涙と大きく開いた口で塞がれた目は、瞻仰せんぎょうの顔を写さない。が、少し遅れて、ぺんっと後頭部が叩かれ、正気に戻る。

「謝りなさい、きびす。兄に言って良い言葉じゃない。…ごほっ。」

「だって父さん!」

瞻仰せんぎょうは変態じゃないッ! 謝れ!! ―――がはっ、ごほ、…ひゅっ、…ひゅっ。」

「お父さん!」

 父が、胸を患った父が、怒鳴った。滅多に怒らなかった父が怒鳴った。瞻仰せんぎょうより怒らなかった父が怒鳴りつけてきた。

 私はその事に驚いて、涙が引っ込み、パタンと倒れ込んでしまった。それでも瞻仰せんぎょうは邪魔だったのか、私を蹴り転がして父との間に割り込み、噎せる父の背中をさすりながら、何か語りかけていた。

 その姿を見て、その慈愛に溢れた姿を見て、変態という言葉を知っていても、慈愛という言葉を知らなかった私は、本当に瞻仰せんぎょうに悪いことを言ったと悟った。

 少なくとも、私が発した変態という言葉は、私が見ている光景とは、結びつかない。それだけは分かった。

「せ、セン兄、ごめんなさ―――。」

きびす、ちょっと出てろ。」

「ご、ごめ―――。」

「怒ってるんじゃない。大事な話があるから、お前は出てろ。」

 父の咳はもう治まっていたが、呼吸が荒い。早く、と、睨まれて、私は杖を拾って立ち上がり、部屋を出た。

 が、どうしても気になり、戸を閉める音を出して、少しだけ隙間から除いた。

 瞻仰せんぎょうが寝ている父の顔の上にかがみ込んでいるのが見えた。父の呼吸はだんだんと治まっていき、そして瞻仰せんぎょうの上下する背中と父の呼吸が一致すると、漸く瞻仰せんぎょうは父から離れ、枕元に転がり、何か小さな声でひそひそと話し始めた。

 その顔を、私はどこかで見たような気がする、と、思ったし、同時にそれを思い出してはならないとも思い、戸を音もなく閉めて背を向けた。


 その後も、父の容態は芳しくなかった。寧ろ悪化していった。日に日に咳が酷くなって、呼吸も濁っていく。しかし父は塞ぎ込むことはなかった。床から動けなくなっても、座って食事を摂り、私達が寝る前と起きた後の挨拶や、食事を持って行く時などの僅かな時間でも、きちんと座っていた。恐らくそれしか、出来ないくらいに身体も弱っていたのだろう。厠に立つときは、母か瞻仰せんぎょうが付き添った。

 咳が酷くなり始めたころ、更に父に悪霊が襲いかかった。身体にカビが生え始めたのだ。それは瞻仰せんぎょうが気付いたのだが、目に見える穢れともなると、流石に祭司に見せないわけには行かない。

 しかしそれは、同時に父をこの家から追放し、道行く人々に、

「私は穢れています! どうか近づかないでください!」

 と、叫びながら暮らすことを強要することでもあった。父は胸を悪くしたのに、そんな大声で叫びながら、人々に蔑まれる種を自ら振りまきながら生活させるなんて出来ない。

 私達が泣いていると、父は皆を呼んで言った。

「生贄は、お前達の分だけ捧げてきなさい。……ごほっ、父さんはいいよ。どうせもうすぐ、いなくなるからね。」

 死ぬ、とは父は言わなかった。いなくなる、と言った。私達は、父がもう自分の命を諦めていること、そして私達はどの道穢れているので、今更一人や二人、穢れた人がいても誰も気にしないことを理由に、父を祭司に見せることはしなかった。瞻仰せんぎょうは何故か、医者を酷く毛嫌いしていたので反対したが、医者に診せることにした。医者はいつも私達に薬を渡すばかりで、父の身体の事は何も話さなかった。


 やがて、目の中にカビが生え、父の目から多くの光が奪われ、あの日がやってきた。あの、悍ましくも悲しい、運命の日が。


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