第五節 欠けゆくもの
宣言通り、
要するに、
その時、大抵私達は仕事に出かけているのだが、帰ってくると、母以外の、要するに弟妹達の表情は明らかに暗かった。それもそのはずで、弟妹達は本家であの男が、自分達をどのように扱っていたのか覚えているのだ。
その頃、家で
というのは、
工事が伸びた分だけ、
異変が起こったのは、それから一週間も経たない頃だった。
その頃、私、
その日は村の寡が死んだ日だった。夫に、『もうお前じゃ勃たない』と捨てられ、日々を祈りくらし、残してきた子供の事をいつも話していた寡だ。その寡は置いていたので、いつも井戸の水が組めなかった。
「昨日まであんなに元気だったんだ! この村の穢れだと言って、誰かがばっちゃんを殺したんだ!」
「
「ヒコ兄はばっちゃんちに行ってないからわかんないんだよ! あの家に、落ちてくるものや落ちる場所なんて一カ所もないんだ! 絶対誰かがばっちゃんを石で殺したんだ! 価値がないと言われた女だったからだ!!」
私は普段、村の人々が、私を初めとする穢れた人間にどういう扱いをしているのか知っていた。それだけに、
尚も吼える
だからだろうか。神の前に価値のない者の為に、神の前に価値のある者を罵倒した罰だったのだろうか。翌日、父は体調を崩し、風邪を引いた。村の者たちは、ひそひそと、
「そんな事は言っていない。もしどうしても
そんなことをぺらぺらと、エルサレムの山から風が下っていくように語るに違いないのだ。
きっと
父の風邪は、初めはごく普通の風邪だった。けれども、大工仲間からは排除されてしまった。ただでさえ、価値のない女のために、価値のある男たちを不快にさせた、そしてそれを窘めなかったのだ。穢れた人間の家族が、少しでも調子が悪いのなら、これを機に父を棟梁から追い落とそうとした連中もいただろう。
だが、どんなに看病しても、父の風邪は治らない。どころか、酷くなる一方だった。私達は仕事の合間に、急拵えの隔離部屋を作り、そこに父を寝かせた。
本当なら、医者や祭司を呼びたいほどだった。だが、父ももう六十歳。父は、ただでさえ貧しい暮らしに、結婚の見通しの立っている子供が一人もおらず、そんな中、老い先短い自分のために金を使い込むな、と、拒否した。ならばせめて本家に、と、
「父さんは、一族で一番嫌われているから、誰も援助なんかしないよ。そんなことの為にお前達を使いに出すくらいなら、母さんを手伝っておやり。」
父の風邪は、なかなか治らなかった。病気であることが理解できない
私は若いながらに、それが父の覚悟なのだと思うと、夜に泣いた。家で泣くと父や家族が起きてしまうので、村へ出て、郊外で一人寂しく泣いた。
明日死ぬかも知れない父の咳を聞きながら、父とその介助をする母のいない食卓を囲むのは、とても重苦しかった。だが、同時に良いこともあったのだ。
それは、
「スン兄ちゃんが、おねしょした! 赤ちゃんみたいに、おねしょした! スン兄ちゃんの、目みたいに、白い白い、おしっこ漏らした!」
なんの話だ、と、私が渋々起きると、
「いたーい! セン兄、おらの首曲がっちゃったー!」
「元からだろ!
「なんでぇ?」
「なんでなんでぇ?」
「えー!? おしっこ漏らすと、大人の仲間入りなの!?」
「シーッ! 声がでかい!」
なんの話だろう、と、思い、私は杖を持って家の外へ出た。
「いいか? アレは『精通』っていう、身体が大人の男になった、もう子供を産ませられる、っていう意味なんだ。」
「じゃあ、スン兄はおよめさんが来るの?」
「んむぁ?」
「うーん、それとこれとは別だけど…。とにかく、お前達もああなった、ああして自分で下着や寝床を洗うんだぞ。それから、ちゃんと抜くこと。」
「何を?」
「……悪い、口が滑った。」
「ねーねー、何を抜くの?」
「ほら、もうそろそろ朝ご飯だぞ。今日はマグダラ産の油漬けだぞ。」
「わーい! マグダラ村の油漬け!
「んまぁ、んまぁい!」
私のすぐ横を二人が駆け抜けていった。少し疲れた顔の
「ん? おはよう、
「おはよう。……なあ、セン兄。」
「ん?」
「その、『せーつー』って、おいら、来た事無いんだけど……。」
すると
「ちょ、セン兄何するの! 止めてよ恥ずかしい!!」
「黙ってろ。ぼくはちんこの病気には詳しいんだ。」
「おねしょしないなら、それに超したこと無いじゃん! ―――やだ、そんなに見ないでってば! 顔近い! 恥ずかしい!!」
「いいから黙ってろ! ぼくは色んなちんこを見てきた専門家だぞ。」
そう言って
散々観察したあと、
「うん、大丈夫だ。病気じゃない。」
「セン兄なんか死んじゃえ!!! わあああああん!!!」
私は恥ずかしさと、それを上回る情けなさで号泣し、
「父さあああん!!」
「…なんだい、
「セン兄がおいらのちんちん触ったー!!!」
大泣きしながら絶叫したので、恐らく近隣の住民にも聞こえたことだろう。だがその時の私は、心という鍋から、色々なものを混ぜた吸い物が沸き上がって、蓋をしても差し水をしても、吹きこぼれるのが止まらなかったのだ。
「どうして?」
「わかんない! わかんないわかんない! わかんないよぉ! なんでセン兄、ぼくのちんちん触ったのー!?」
冷静に考えると、
父が泣いている私を宥めていると、
「こら
「来んな! 変態っ!」
―――この時咄嗟に言ってしまった言葉は、悔やんでも悔やみきれない。
しかし、その時の私は、どこで覚えたかも忘れてしまったその言葉で、
「謝りなさい、
「だって父さん!」
「
「お父さん!」
父が、胸を患った父が、怒鳴った。滅多に怒らなかった父が怒鳴った。
私はその事に驚いて、涙が引っ込み、パタンと倒れ込んでしまった。それでも
その姿を見て、その慈愛に溢れた姿を見て、変態という言葉を知っていても、慈愛という言葉を知らなかった私は、本当に
少なくとも、私が発した変態という言葉は、私が見ている光景とは、結びつかない。それだけは分かった。
「せ、セン兄、ごめんなさ―――。」
「
「ご、ごめ―――。」
「怒ってるんじゃない。大事な話があるから、お前は出てろ。」
父の咳はもう治まっていたが、呼吸が荒い。早く、と、睨まれて、私は杖を拾って立ち上がり、部屋を出た。
が、どうしても気になり、戸を閉める音を出して、少しだけ隙間から除いた。
その顔を、私はどこかで見たような気がする、と、思ったし、同時にそれを思い出してはならないとも思い、戸を音もなく閉めて背を向けた。
その後も、父の容態は芳しくなかった。寧ろ悪化していった。日に日に咳が酷くなって、呼吸も濁っていく。しかし父は塞ぎ込むことはなかった。床から動けなくなっても、座って食事を摂り、私達が寝る前と起きた後の挨拶や、食事を持って行く時などの僅かな時間でも、きちんと座っていた。恐らくそれしか、出来ないくらいに身体も弱っていたのだろう。厠に立つときは、母か
咳が酷くなり始めたころ、更に父に悪霊が襲いかかった。身体にカビが生え始めたのだ。それは
しかしそれは、同時に父をこの家から追放し、道行く人々に、
「私は穢れています! どうか近づかないでください!」
と、叫びながら暮らすことを強要することでもあった。父は胸を悪くしたのに、そんな大声で叫びながら、人々に蔑まれる種を自ら振りまきながら生活させるなんて出来ない。
私達が泣いていると、父は皆を呼んで言った。
「生贄は、お前達の分だけ捧げてきなさい。……ごほっ、父さんはいいよ。どうせもうすぐ、いなくなるからね。」
死ぬ、とは父は言わなかった。いなくなる、と言った。私達は、父がもう自分の命を諦めていること、そして私達はどの道穢れているので、今更一人や二人、穢れた人がいても誰も気にしないことを理由に、父を祭司に見せることはしなかった。
やがて、目の中にカビが生え、父の目から多くの光が奪われ、あの日がやってきた。あの、悍ましくも悲しい、運命の日が。
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