第四節 訪れた思い出

 翌日、瞻仰せんぎょうは体調を崩した。風邪を引いたらしく、喉ががらがらで、何を言っているのかさっぱり分からない。父は、ただの疲れだと言って仕事に行ってしまった。私も仕事に行こうとしたが、どうしても瞻仰せんぎょうが気になって仕方が無かった。それは昨夜のこういの事というよりも、あの時聞いた言葉が、どういう意味か、確かめたかったのだ。

 ―――ぼくはしょうせつのなの、だれもさわっちゃだめ!

 昨夜は気付かなかったが、あれほど明確に拒絶したのだ。瞻仰せんぎょうに、瞻仰せんぎょうの意志を無視して、瞻仰せんぎょうの身体のどこかを触った奴らがいる。そしてそれは、私の思慮浅い頭で考えても、大工仲間以外に考えられない。触られたということが、どれほどの嫌悪感なのか、当時の私には分からなかった。私は触れてもらったことがなかったからだ。母の胎内で骨を数え間違えられた私。神に嫌われている私。初めは哀れな乞食の子供と思ってもらえても、私の不自然な脚の動きですぐに分かる。産まれる前から、骨の数を数え間違えられた、産まれる前から穢れた子供。そんな子供に触れてくれるものなどいない。だから私にとっては、触れられるというのは、最高に喜ばしいことだった。

 ―――あくまでも、当時の私には、だが。

 私は瞻仰せんぎょうが心配だったので、看病すると言ったが、またしてもひこばえに「だめ。」と言われ、渋々仕事に行った。

 何日も、瞻仰せんぎょうに聞こう聞こう、と思っていたが、ある時、突然何人もの大工が顔に傷を作った。その時私は、

 ―――ふうん。

 とだけ、思うことにした。私は瞻仰せんぎょうの身に何が起こったのか、結局分からず終いだったがそれでもよかった。瞻仰せんぎょうは彼等が怪我をした翌日には、仕事をする姿にも覇気が戻ってきたのだし、家でも以前のように笑うようになった。

 けれども、あの時のように笑うことはなかった。

 時折、父と瞻仰せんぎょうは、二人で打ち合わせをするために早く家を出たり、遅く帰って来たりする。次期棟梁とその初子ういごなのだから、当たり前だ。けれど時々、

「ああ…。」

と思うことがあった。ほんの少しだけ、瞻仰せんぎょうの顔色が違う。父の顔色が違う。

 それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。ひこばえも何か感じ取っているようで、私が聞きに行こうとするタイミングで、

「だめ。」

と、強く言われた。母は、瞻仰せんぎょうと父がそうやって爽やかに帰ってくると、良い仕事が出来たのね、とか、良い取引が出来たのね、とか、そんなことをいいながら、そそぐきんとで、豪勢な食事を作った。そして、いつも夜になると泣いていた。

瞻仰せんぎょうと父のあのこういが、母を傷付けている。それは理解できていた。でもなぜ傷つくのか分からない。どう慰めればいいのか分からない。

そもそも瞻仰せんぎょうと父が何をしているのかさえ、私は言語化出来ていなかった。瞻仰せんぎょうと父が幸せなら、家族が幸せなら、家族は全員幸せになれるものなのではないだろうか。私は分からない。それでも私達は、家族だった。どんどん家族になっていった。それが五年も続き、成人も間近になれば、もう本当の家族のようなものだった。この頃にもなると、私は瞻仰せんぎょうの事を『兄さん』と素直に呼べるようになっていたし、ひこばえのことも『ヒコ』と呼ぶようになっていたし、またひこばえ以下の弟妹たちも、私の事を『キビ兄』と呼ぶようになった。

私は、呼ばれる名前が増えて、とても嬉しかった。


そうこうしているうちに、ひこばえは十二歳を迎えた。私のような穢れた者でも、十二歳の成人の時にはエルサレムに入れた。父も嬉しいらしく、ますます仕事に打ち込み、母は祝いの品を用意してくれるのか、食事が少し粗末になった。かずも八歳になり、家の手伝いが一丁前に出来るようになったが、あの皮膚の穢れは水と塩を嫌うらしく、もっぱらかずの家事は、配膳や洗濯干しなんかのものだった。しかしそれ以上に、きんまさと一緒に留守番が出来るようになったのがありがたい。今まではかずの面倒も見なければならなかったので、この三人と組み合わせるのは誰にするか、とても悩んだものだった。かずも、自分が頼りにされていると思うと誇らしいらしく、期待に応えてくれた。………帰ってくると、家の中は大層な遊びの後片付けがしきれていなくて、大変なのだが。それでも外に出ると人に迷惑をかけてしまうまさけいを家にひとりぼっちにさせなくてもいいのは楽だ。

エルサレムに詣でる日、私、まさひこばえ瞻仰せんぎょう、そして父母は、くじで決めた留守番組に大量の食料を持たせて出発した。ナザレからエルサレムまでの成人の儀式に参加する大行列は、一週間かかる。私も杖を持つ手に肉刺が出来た。しかし、ひこばえの晴れの日だから、と、なんとか遅刻させまいと頑張って歩き続けた。が、やはり片脚と杖では限界があり、途中からひこばえに負ぶってもらうという大失態だった。

大行列に合流して五日後、へとへとになりながらエルサレムに辿り着くと、ひこばえは私を降ろし、喜びのあまりエルサレムの中へ走り出してしまった。

「お父さん、お母さん、きびすと居て下さい。連れ戻してきます。」

行ってらっしゃい、という気力も無くて、ひらひら手を振った。

きびす、大丈夫? お水を買ってこようか?」

「大丈夫、母ちゃん。少し疲れただけだし、途中から負ぶってくれたヒコがあんなに元気なんだもん、大丈夫だよ。」

「無理しちゃ駄目よ。太陽に中ったら怖いんだから。」

「うん。」

 その後、ひこばえを父が神殿に連れて行き、私と瞻仰せんぎょうと母は、弟妹たちへ土産を買い、弁当を買った。瞻仰せんぎょうが財布を持っていたので、まだ脚の重たい私を支えるのは母の役目だったが、なんとか買い物を終えて、貯水池の近くで涼みながら食べることにした。

「お前、きびすじゃないか?」

 その時、身も凍るような声がした。

「んっ!?」

 パンを詰まらせながら振り向く。村の者ではない。脚の骨がない私には、ナザレ村が全てだ。それ以外の人間に、大切な人にもらった「きびす」という名前を呼ばれたことが、非常に不愉快だった。

 見上げた男はそれなりにいい男なのだろうが、私は父と瞻仰せんぎょうの他に、尊敬する男はいない。

きびす、知ってる人か?」

 不審そうに私に視線を寄越す瞻仰せんぎょうは、それとなく背中に母を隠している。私は必死に頭の中を掻き回し、ふと、頭の中で自分を身も凍るような目に遭わせていた男のことを思い出した

「若様! お久しぶりです。」

 何故、何故、何故こんな所に。私は動揺を隠している自信もなかったが、とりあえず立ち上がって頭を下げた。母と瞻仰せんぎょうには、こいつはまだ会ったことがないらしい。私はすぐにでも返って欲しくて、手早く紹介した。

「母さん、兄さん。この方は嗣跟つぐくびすさま。カペナウムの網元の、礼物あやものの旦那様のご嫡男だよ。父さんと母さんに引き取られる直前、この方が、添え木を下さったんだ。若様、どうぞお座り下さい。」

 と言っても、その添え木はささくれていて、私の脚は血だらけになり、『骨はないが血はあった!』の笑いものにされたのだが。しかしそのお陰で添え木をつければなんとか立てるということにも気付いたので、その点は―――いや、その点を考慮しても微塵も感謝する気になれない。

「いやぁ、久しぶりだな。お前、いくつになった?」

「十三です、若様。」

「そうかそうか。末の妹が今年参拝だから、そんなもんか。」

「その後お変わりありませんでしたか。」

「ああ、この間穏女やすきめ母さんに末の弟が生まれてな。今日はその子を捧げに来たんだ。」

「それはお目出度いことで。お名前はなんとなされたのですか。」

恩啓おんけいだ。良い名前を貰ったもんだぜ、俺なんか『かかと』だってのによ。」

「でも、過去に神の祝福を勝ち取った方の名前ではありませんか。長男で初子ういごなのですから、これより素晴らしいお名前はないかと思いますよ。」

「お、よく知ってるじゃねえか。ちゃんと教育してもらえたのか?」

「ええ、こちらの兄が、とてもよく出来ていたので。」

 私は耐えきれなくなって、瞻仰せんぎょうに話題を振った。驚いて咳き込んだ瞻仰せんぎょうに、嗣跟つぐくびすが興味を持っている間に、おえっと感情を吐き出す。動悸が治まらない。呼吸が苦しいが、悟られてはいけない。瞻仰せんぎょう嗣跟つぐくびすが何かを話しているが、私はとてもじゃないがそれどころではなかった。

「あ、そういえばさあ。五年くらい前だっけ? お前が貰われてったの。」

 突然話題が戻ってきて、私は平常心をかき集めながら答える。

「七歳になる直前だったので、六年前ですね。」

「うちのおもうさんが、お前達をまとめてナザレの遠縁に渡した日の夜、珍しく女を買いに行ってさ。ずっと穏女やすきめ母さん一筋だったのに、いきなり外に買いに出かけたんだよ。なんでも聞いたら、お前の父親になった男が連れてきた子供が、自分に性器を見せて迫ってきて、良からぬ誘惑をしてきたらしいんだけど、お前、それが誰か知ってる?」

 それは一体どういう状況だったのだろうか。しかし、どうせ本当のところは、年端もいかない女児に性器を見せるように誘導したのだろう。あの家は、健康な男の子を産めない女は容赦なく捨てたし、気に入った女は月のものが無くなっても抱いたし、それでいて慈悲深い家だった。

「さあ、父からは何も…。」

「そうかい? もしお前達のところに、そんな身の崩れた奴がいるなら、渡した方としても気になるんだけどなあ。」

 すると瞻仰せんぎょうが、助け船を出してくれた。

「お気にすることなどありますまい。律法に背いたことなどしていないのですから。」

「そうか?」

「ええ、そうでしょう。」

 少々納得していない様だったが、嗣跟つぐくびすはなんとか納得が言ってくれたらしい。よいしょ、と、立ち上がって、欠伸をした。

「…ま、その内機会があったら、だな。」

「ナザレにいらっしゃるのですか?」

「ああ、今ツィポラで工事があるから、職人が集まるだろ。あそこまでうちの魚を運ぶ仕事でね。帰り道にお前の家に寄るかもな。」

 止めてくれ。

「昼間のうちに仰ってくれれば、晩餐のご用意をしてお待ちしておりますよ。」

「お母さん!」

「あら瞻仰せんぎょう、何か問題でも? お父さんのお昼ごはんを持ってきて下さる方なのに。」

「へー、お前、瞻仰せんぎょうっていうの。」

 そこで私は、初めて瞻仰せんぎょうが、先ほど私が心を静めている間に自己紹介をしていなかったことを知った。それくらい、瞻仰せんぎょうもこの男に対する嫌悪感があるのだろう。

漱雪しょうせつの長男の、瞻仰せんぎょうと申します。弟が世話になったとの由、初耳でした。」

瞻仰せんぎょうか。十二部族の一人の名前だ、いい名じゃねえか。お前とは随分格が違うな? きびす。」

「それは違います、若様。父はおいらの産みの両親の気持ちを尊重してくれただけです。」

「フーン。まあ、一度に五人も増えたそうだし、新しく名前を付けるのも大変だろうからな。」

 それを押しつけておいてよく言えたものだ。

「さて、オレはじゃあそろそろ行くかね。もううちのの参拝も済んでるころだろ。妹達に上着を見繕って行かなきゃなんねえしな。」

 よいしょと立ち上がって、嗣跟つぐくびすは伸びをした。少しだけ振り向いたが、すぐにその場を立ち去った。

「………はあ。」

 私以外からも溜息が出た。

「……母ちゃん、お土産探しに行こうか。まだ少し残ってるから。」

「そうだな、そうしよう。お母さん、今度はぼくがきびすを支えるので、財布を持って貰えますか。」

「ええ、いいわよ。かずちゃんのおままごとにも、大きくなっても使える良いお皿があるといいんだけど。」

「壊れたら、おいらが石を捏ねて直してあげるから大丈夫だよ。」

 そのように励ましたが、母は空笑いした。

 ……なんか、凄く、疲れた。

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