第三節 父子
父は、必死になって私達を井戸に突き落とした犯人を捜したが、結局見つからなかった。
それは、多くの善人がナザレに住んでいたという訳ではなく、誰もが互いにかばい合い、父の父親としての怒りを全く受け止めなかったからである。幼い私達には、『サタンが来て、お前達をいじめた。もういないから安心しなさい』と伝えられた。
そしてその頃から、私は父にとって恥ずかしくない、『良い子』であろうと努力した。
「生きていきたかったからだよ。」
その時は、何も考えなかった。ただ、生きる為には学ばなければならない、そして、私は今学べていない、と思っていた。
―――今にして思えば、なんと残酷で重たい答えだっただろうか。
父は、私が禄に歩いた経験がなかったので渋っていたが、どうしても仕事に出たい、父ちゃんの役に立ちたい、と駄々をこねると、なんとか仕事場に連れて行ってくれた。
その時、父の同僚や部下達が、一瞬嫌な顔をしたのを見逃さなかった。父は大人の対応で、私を淡々と紹介していたが、
私に与えられた仕事は、石の寸法だった。脚が一本、無いのと同じ私には、座って出来る仕事しかない。井戸に行くのが私では危ないと言うことになり、家では
定規の使い方からして分からなかった私は、とにかく色々なものを測り続けた。仕事用の石は勿論、道具の長さだって測る。家や塀に使われている石の大きさも測る。これがまた個性的なもので、恐らくそれは、家を建てたり塀を作ったりしたときの財力によるのだろう。ただ私は、計算は出来なかった。
だから、本当に目と腕の感覚だけが頼りだ。
私達は『家族』だから、特別な関係だ。だが、私は具体的に、家族とはどういう関係なのか、理解していなかったのだ。父親に愛されるために母を呪わなければならなかった実家と、食べて飲むことだけを考えなければならなかった本家しか、知らなかった私である。家族というものが、なんなのか理解できていなかったのだ。
愛されるには、理由が必要だと思っていたのである。
その焦りのお陰か否か、私の腕は見る見る上達していった。ただし、『ものを測る』ことについてだけだ。何十年と大工をやっている職人達でも辿り着けない領域に、ものの五年ほどで到達した。私を『定規しか使えない、石はおろか、木も切り出せない』と、バカにしていた大工達は、徐々に私を仕事仲間として認めていってくれたようだった。
ただし、昼食を共にすることは無かった。私は、昼食はいつも家族四人だけで食べた。即ち、父、
だが、
「…どうした?
私は何故、血の繋がった家族の中で、
「え? ううん、いらない。」
「じゃあ、父さんのをあげよう。さっき、早めに来てくれって言われたんだ。全部食べていいよ。」
本当に要らなかったのだが、父は私に、半身が残された
「………欲しいの? ヒコ。」
「うん、パンほしい!」
「こらヒコ、父さんは
「ええと…それじゃあ、半分、食べる?」
「わーい、半分も貰える!」
「?」
「ちょっとボクの方が多かったから、返すね。これで半分こ。」
その日の仕事は、私は治水工事に使う石を計りながら、職人達の鑿や鉋を磨くことだった。ただ、私は石に目印をつけて置いておいたのだが、時々私が現場に出てくるのが早い、と、気にくわない大工達が難癖をつけてくる。そんな時に、私を守ってくれる人は誰も居なかった。父は親方の所で修行に忙しいし、
と、言うより――
おいらが同じくらいの職人になっても、この脚じゃあ、神殿の修理なんて名誉、無理だよな………。
私は
仕事を皆が終えて、私と
「ごちっとしゃまでった。」
「よしよし、
「かぁか、かずちゃ、ぺんぺん。」
「はいはい、ごっこ遊びは皆が食べ終わってからね。」
「かぁか、ごちっとしゃまでった。」
産みの母親でもないのに、女というのは凄いんだな、と、感心する。私は隣で物凄い勢いで刻んだ菜と魚の油漬けを食べている
「はふっ、はふっ、むふっ。」
「
「もふっ、もふっ。」
聞こえていないらしい。それでも母は、何か感じ取ったらしく、にこにこ笑って、油漬けの油にパンを浸して食べていた。皿には、菜っ葉の太い茎が浮かんでいる。歯ごたえがあって、美味しいところだ。
「それにしても、
「だめ。」
「でも、遅いから心配だし………。」
「だめ。ちゃんと帰ってくるし、無事だから。」
妙な確信を持って言った
しかし、私はふと起きた。父と
村の中は静まり返っていて、どこにも起きている人はいなさそうだった。ツィポラに行く街道を少し上った所、岩場の多い場所で、何か物音がした。獣かも、と、岩陰に隠れたとき、はっきりと聞こえてきた。
「
雲が動いて、月が
私は、幸福というものが実体を持っているのだと思った。
そして、自分の中の何かが、ドロドロと濁って、砕けていくのを感じた。
「
「あ、あああ、―――やだ、おもいださせないで……。」
「…すまない。」
「しょうせつ、
「ああ、帰りたくなるまでここにいよう。」
「今夜、は、ここに、いる……っ! ぼくが、気を、やっても、ここにいて……。」
「うん、うん、いいよ。激しくイくといい。ここなら誰も聞いてやしない。」
私はそれを聞いて、よく分からないけれども、聞いてはいけないことを聞いたのだ、と、耳を塞いだ。ただ、目をそらすことは出来なかった。その光景が、涙が出るほどのものだったからだ。耳を強く塞いでも、虫や風の声が聞こえなくなったので、
「あ、いく、イッちゃう……、―――!? ちょ、しょ、つ…アァ、あっ、ああっ!」
「全部使ってあげるから、全部吐き出してしまいなさい。」
「だ、だめ、みっつ、どうじじゃ、だめ、ひび、ちゃうから、ひ…っ!」
「大丈夫、ここなら届かないよ。」
父の顔が移動し、
「ああっ、あっぁ、はーっ、はーっ、はーぁ、あああ、ふく、ふいちゃう、だめ、だめだめだめだめ! しょうせつ、しょうせつ! たすけて!」
「いいよ、言いたいこと、全部言ってごらん。」
「あァっ! きもちいぃ、しょうせつ、きもちぃ…っ、あいつら、きもち、わるいっ!」
それ以上は聞いてはいけないような気がして、私は去ろうとした。だが次の言葉が聞こえて、私は脚を止めた。
そう、脚を止めたのだ。私は聞かなければいけない、と、神が脚を引き留めたのだ。決してそれは、私の意志ではなかった。
「アッ、アァアッ! ぼくは、ッぼくは、ぁッしょうせつのなの! はーっはーっはぁっ、だれもさわっちゃ、だめ! だめ! だめ! アァ―――だめ、こわい、こわい―――あぁッ! 駄目―――もっとはだめ、だめったら、あああッイ、く、イくっイくっ、イク、狂っちゃう、くるっちゃうぅ!」
激しい呼吸の中に、私の理解できない言葉があった。だが神は、必要な言葉を私に良く届けてくれた。
「怖い気持ちも全部塗り替えてあげる。いってごらん、言いたいこと言ってごらん。」
「いやああっ! いやあぁぁっ! さわんないで! やだやだやだぁ! わあああああっ!」
「僕しか触ってないよ、大丈夫。」
「あっ、だめ、ふく、ふいちゃう、ひっ、ひぅ、―――うあああァァ―――んんんっ!!」
私は、二人のこういの意味も分からないのだから。
私は杖と左足の音に気をつけながら家に帰った。当たり前のように家には二人はいなかったが、母が起きて、戸口に立っていた。きょろきょろと見回し、遠目に私を見つけると、走り寄ってきて抱きしめる。
「ああっ!
「母ちゃん…。」
「いいのよ、何も聞かないわ。さあ、家に入りましょう。お腹がすいた? 凝乳と、あと油漬けの油が少しあるから、菜っ葉で炒めましょうか?」
「いや、いいよ。…ねえ、母ちゃん。」
「なあに?」
私は、先ほど見た光景をなんと聞けばいいのか分からなかった。男同士で行うことを、女の母が知っているとも思えなかった。私は、なんでもない、と、否定して、一足先に、母を一人占めして朝食にした。
皆が起きてくる少し前くらいになって、漸く父と
私は、あの場面ほど、美しく幸福に満ちた光景を、その後見ることはなかった。
そして私は、あの場面を見る前の自分には、もう戻れなかった。
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