第三節 父子

 父は、必死になって私達を井戸に突き落とした犯人を捜したが、結局見つからなかった。

 それは、多くの善人がナザレに住んでいたという訳ではなく、誰もが互いにかばい合い、父の父親としての怒りを全く受け止めなかったからである。幼い私達には、『サタンが来て、お前達をいじめた。もういないから安心しなさい』と伝えられた。

 まさは額面通り受け取っただろうし、ひこばえも恐らくそうだった。ただ、本家に転がされていた私達は、言語化こそできないけれども、父が私に嘘をついているということは分かった。

 そしてその頃から、私は父にとって恥ずかしくない、『良い子』であろうと努力した。瞻仰せんぎょうも、私が何をしたいのか分かったらしい。私と同じ年の筈なのに、沢山の物事を知っていた。それを惜しみなく与えてくれた。だが、私はそれに応えることが出来なかった。どうして瞻仰せんぎょうは、そんなに沢山の事を知っているの、と、劣等感と焦りで半べそを掻きながら聞いたとき、瞻仰せんぎょうはこう言った。

「生きていきたかったからだよ。」

 その時は、何も考えなかった。ただ、生きる為には学ばなければならない、そして、私は今学べていない、と思っていた。

 ―――今にして思えば、なんと残酷で重たい答えだっただろうか。


 父は、私が禄に歩いた経験がなかったので渋っていたが、どうしても仕事に出たい、父ちゃんの役に立ちたい、と駄々をこねると、なんとか仕事場に連れて行ってくれた。

 その時、父の同僚や部下達が、一瞬嫌な顔をしたのを見逃さなかった。父は大人の対応で、私を淡々と紹介していたが、瞻仰せんぎょうはそっと、私の手を握って励ましてくれた。

 私に与えられた仕事は、石の寸法だった。脚が一本、無いのと同じ私には、座って出来る仕事しかない。井戸に行くのが私では危ないと言うことになり、家ではきんが、水くみをするようになった。というのは、きんは真っ直ぐ歩くことは出来ないし、首も曲がっている。しかし、まさや私と違って、一人で歩く事は出来る。何より、下を向いた作業が得意だ。そうこうしているうちに、きんは村の老寡たちと、仲良くなったようだった。正直私は焦っていた。

 定規の使い方からして分からなかった私は、とにかく色々なものを測り続けた。仕事用の石は勿論、道具の長さだって測る。家や塀に使われている石の大きさも測る。これがまた個性的なもので、恐らくそれは、家を建てたり塀を作ったりしたときの財力によるのだろう。ただ私は、計算は出来なかった。瞻仰せんぎょうも、数は教えてくれたが、計算は教えてくれなかったし、父も仕事で使うような専門的な数の数え方しか教えて貰えなかった。

 だから、本当に目と腕の感覚だけが頼りだ。

 瞻仰せんぎょうは美しいし、長男だから父母に可愛がられていた一人っ子の時代があったはずだ。そんな彼と同じくらいに愛されるには、努力が必要だ。

 私達は『家族』だから、特別な関係だ。だが、私は具体的に、家族とはどういう関係なのか、理解していなかったのだ。父親に愛されるために母を呪わなければならなかった実家と、食べて飲むことだけを考えなければならなかった本家しか、知らなかった私である。家族というものが、なんなのか理解できていなかったのだ。

 愛されるには、理由が必要だと思っていたのである。

 その焦りのお陰か否か、私の腕は見る見る上達していった。ただし、『ものを測る』ことについてだけだ。何十年と大工をやっている職人達でも辿り着けない領域に、ものの五年ほどで到達した。私を『定規しか使えない、石はおろか、木も切り出せない』と、バカにしていた大工達は、徐々に私を仕事仲間として認めていってくれたようだった。

 ただし、昼食を共にすることは無かった。私は、昼食はいつも家族四人だけで食べた。即ち、父、瞻仰せんぎょうひこばえである。

 ひこばえはいつも、弁当を堪能して食べる。大きな口いっぱいに頬張り、唇を油や汁で汚しながら、ぺろりと平らげる。パンのひとかけらも残さない。それは父も同じだった。父は年の功からか、流石にひこばえほど汚くはなかったが、やはりパンのひとかけらも残さない。そして、棟梁候補として仕事があるからか、いつも食べるのが速かった。

 だが、瞻仰せんぎょうは違った。ゆっくり、丁寧に、小さく千切って食べる。ひこばえと父は、歯を見せて食べるが、瞻仰せんぎょうはその白い歯を見せず、舌で隠していた。頬張るということはせず、時間をかけてゆっくりと食べる。千切った数だけ、零れたパンの粉が、いつでも瞻仰せんぎょうの膝を汚していた。


「…どうした? きびす。足りないならぼくのを上げようか?」

 私は何故、血の繋がった家族の中で、瞻仰せんぎょうだけ食べ方が違うのか不思議だった。その気持ちが表れていたからか、ある日瞻仰せんぎょうが、そんな風に言った。

「え? ううん、いらない。」

「じゃあ、父さんのをあげよう。さっき、早めに来てくれって言われたんだ。全部食べていいよ。」

 本当に要らなかったのだが、父は私に、半身が残されたラブヌンの塩漬けと、三分の一程残されたパンを渡して、とっとと去ってしまった。ひこばえがじっと弁当を見ている。

「………欲しいの? ヒコ。」

「うん、パンほしい!」

「こらヒコ、父さんはきびすにやったんだぞ。我慢しなさい。」

「ええと…それじゃあ、半分、食べる?」

「わーい、半分も貰える!」

 ひこばえは器用に座ったまま踊った。私が目分量で、しかし正確に半分に千切って渡すと、ひこばえはそれを受け取り、ほんの少しだけ千切って、私に返した。

「?」

「ちょっとボクの方が多かったから、返すね。これで半分こ。」

 瞻仰せんぎょうは気付かなかっただろうが、石を目測出来るくらいにまで目を鍛えた私には分かる。私の目測が仮に間違っていたとしても、それでもひこばえの方が、合わせて見た時、僅かに少なかった。しかし、ひこばえはニコニコしながらパンを千切っているし、ひこばえの『半分こ』を無碍にするのも良くないと思い、ひこばえからもらった方のパンを先に口に入れた。同じ人が、同じ材料で作っているはずなのに、少し満足感が違う気がした。今にして思うと、それこそが家族の絆、家族の温もりと言うのだろうが、その時の私にはまだ理解できていなかった。

 その日の仕事は、私は治水工事に使う石を計りながら、職人達の鑿や鉋を磨くことだった。ただ、私は石に目印をつけて置いておいたのだが、時々私が現場に出てくるのが早い、と、気にくわない大工達が難癖をつけてくる。そんな時に、私を守ってくれる人は誰も居なかった。父は親方の所で修行に忙しいし、ひこばえの世話に忙しい。瞻仰せんぎょうはもう一端に仕事が出来るようになっている。私と瞻仰せんぎょうは同じ年だが、瞻仰せんぎょうの方が、父の仕事を手伝っている期間が長かったはずだ。何故なら父の初子ういごだからである。その分、私は不利だった。

 と、言うより――瞻仰せんぎょうは、他の大工達に取り囲まれている様にも見えた。瞻仰せんぎょうの仕事を私はすることが出来ないので、瞻仰せんぎょうがどれほどの腕前なのかは分からない。けれども、瞻仰せんぎょうが私に道具の手入れを頼む為に現場を離れることすら惜しまれているのなら、相当な腕前なのだろう。十二歳になって、エルサレム神殿に詣でる頃には、もしかしたら神殿の修理を任される程になっているかも知れない。

 おいらが同じくらいの職人になっても、この脚じゃあ、神殿の修理なんて名誉、無理だよな………。

 私は瞻仰せんぎょうが人気であれば人気であるほど、それだけ寂しくなった。瞻仰せんぎょうについて嫉妬も惨めさも感じない。ただ、私は恐らく、他の家族の誰よりも、瞻仰せんぎょうを愛していた。その時は、『愛している』という言葉すら知らなかったけれども、間違いなくあの時の、朝焼けのような感情は、愛だったと思う。

 仕事を皆が終えて、私とひこばえは先に帰った。父と瞻仰せんぎょうは、何やら明日の打ち合わせがあるだか、買い物の予定を組むだか、交渉に行くだかで、一緒には帰らなかった。夕飯も要らない、と言っていたので、少し寂しかったが、その日は母、まさひこばえそそぐけいきんかずと食べることにした。この頃和かずは、刻んですりつぶした菜の煮汁を飲む。母によると、飲んでいるのではなく、食べているらしい。

「ごちっとしゃまでった。」

「よしよし、かずちゃん、お腹いっぱいね。」

「かぁか、かずちゃ、ぺんぺん。」

「はいはい、ごっこ遊びは皆が食べ終わってからね。」

「かぁか、ごちっとしゃまでった。」

 産みの母親でもないのに、女というのは凄いんだな、と、感心する。私は隣で物凄い勢いで刻んだ菜と魚の油漬けを食べているまさを見やった。まさは食べ物に集中していて、私に見られていることなど気づきもしない。

「はふっ、はふっ、むふっ。」

まさちゃん、お代わりあるから、落ち着いて食べなさい。」

「もふっ、もふっ。」

 聞こえていないらしい。それでも母は、何か感じ取ったらしく、にこにこ笑って、油漬けの油にパンを浸して食べていた。皿には、菜っ葉の太い茎が浮かんでいる。歯ごたえがあって、美味しいところだ。

「それにしても、瞻仰せんぎょうも父ちゃんも遅いな。おいら見てきて―――。」

「だめ。」

 ひこばえが、私の足首を掴んで止めた。そこを掴まれると、片足を曲げられない私は、立ち上がることが出来ない。

「でも、遅いから心配だし………。」

「だめ。ちゃんと帰ってくるし、無事だから。」

 妙な確信を持って言ったひこばえの威圧感に負けて、私はその場は引いた。まさきんのお守りを任され、皆で片付けを行う。ちなみに子守は、当番制であり、その日、たまたま私だっただけだ。瞻仰せんぎょうの日もあるし、かずの次に年下であるけいの担当のときもある。その時見上げた月は、かずのふくふくした握り拳ほどに大きかった。遅いが、遅すぎると言うこともない。もうそろそろ寝る時間だし、別に私達が寝た後に帰ってくることも、頻繁ではないが珍しくはない。私達は父と瞻仰せんぎょうの無事を神に祈ってから、眠りに就いた。

 しかし、私はふと起きた。父と瞻仰せんぎょうは帰っていなかった。外を見ると、先ほどより少しだけ、月が縮んだような気がするし、高さも違う。そういえば、甘えん坊で、いつも兄弟皆でいたがるひこばえが、『迎えに行くな』と言ったことも不思議だった。私はひこばえが起きないように床から起き上がり、杖をそっと持って、外に出た。


 村の中は静まり返っていて、どこにも起きている人はいなさそうだった。ツィポラに行く街道を少し上った所、岩場の多い場所で、何か物音がした。獣かも、と、岩陰に隠れたとき、はっきりと聞こえてきた。

漱雪しょうせつ……ッ!」

 瞻仰せんぎょうの声だった。物凄い違和かず感を持った声だったが、それは確かに瞻仰せんぎょうの声だった。よく目をこらすと、申し訳程度に服を着た、否、服をかけた瞻仰せんぎょうの上に、逞しく大柄な男がのしかかっていた。漱雪そそぐとは、父の名前だ。ということは、あの影は父なのだろうか。

 雲が動いて、月が瞻仰せんぎょうの顔をよく照らした。


 私は、幸福というものが実体を持っているのだと思った。

 そして、自分の中の何かが、ドロドロと濁って、砕けていくのを感じた。


 瞻仰せんぎょうは、家でも仕事先でも、私と二人で喋っているときも見せたことがないような顔をしていた。目をうっとりと細め、その唇は笑っている。小さく開いたその隙間に、時々舌が見え隠れする。すると父は、瞻仰せんぎょうの顔を両手で包んで、深く口付けた。額と額を擦り合わせるように固定しながら、父の背中が上下に動く。私にはよく分からなかったが、その背中を良く見ると、背中の下の方、腰の上の方の辺りに、靴紐を一本も解いていない瞻仰せんぎょうの脚が絡みついていた。背中は岩場に押しつけられているのに、瞻仰せんぎょうは父にぶら下がっているようにも見えた。何故ならその腕は、父の脇の下を通って、背中に回っていたからである。

瞻仰せんぎょう瞻仰せんぎょう、怖かったな、すまなかった。僕が気付かなければならなかったのに。」

「あ、あああ、―――やだ、おもいださせないで……。」

「…すまない。」

「しょうせつ、漱雪しょうせつで、いっぱいにして、なんでもさせて、おねがい……。」

「ああ、帰りたくなるまでここにいよう。」

「今夜、は、ここに、いる……っ! ぼくが、気を、やっても、ここにいて……。」

「うん、うん、いいよ。激しくイくといい。ここなら誰も聞いてやしない。」

 私はそれを聞いて、よく分からないけれども、聞いてはいけないことを聞いたのだ、と、耳を塞いだ。ただ、目をそらすことは出来なかった。その光景が、涙が出るほどのものだったからだ。耳を強く塞いでも、虫や風の声が聞こえなくなったので、瞻仰せんぎょうと父の声がよりくっきりと聞こえた。

「あ、いく、イッちゃう……、―――!? ちょ、しょ、つ…アァ、あっ、ああっ!」

「全部使ってあげるから、全部吐き出してしまいなさい。」

「だ、だめ、みっつ、どうじじゃ、だめ、ひび、ちゃうから、ひ…っ!」

「大丈夫、ここなら届かないよ。」

 父の顔が移動し、瞻仰せんぎょうの掌が父の頭を抱え込んだ。まるでそれは、幼子を母が抱きしめるようにも見えたが、その光景は、かずと母とは全くかけ離れたものだった。

「ああっ、あっぁ、はーっ、はーっ、はーぁ、あああ、ふく、ふいちゃう、だめ、だめだめだめだめ! しょうせつ、しょうせつ! たすけて!」

「いいよ、言いたいこと、全部言ってごらん。」

「あァっ! きもちいぃ、しょうせつ、きもちぃ…っ、あいつら、きもち、わるいっ!」

 それ以上は聞いてはいけないような気がして、私は去ろうとした。だが次の言葉が聞こえて、私は脚を止めた。

 そう、脚を止めたのだ。私は聞かなければいけない、と、神が脚を引き留めたのだ。決してそれは、私の意志ではなかった。

「アッ、アァアッ! ぼくは、ッぼくは、ぁッしょうせつのなの! はーっはーっはぁっ、だれもさわっちゃ、だめ! だめ! だめ! アァ―――だめ、こわい、こわい―――あぁッ! 駄目―――もっとはだめ、だめったら、あああッイ、く、イくっイくっ、イク、狂っちゃう、くるっちゃうぅ!」

 激しい呼吸の中に、私の理解できない言葉があった。だが神は、必要な言葉を私に良く届けてくれた。

 瞻仰せんぎょうには、漱雪そそぐの他は誰も触っちゃ駄目。他ならぬ瞻仰せんぎょうが然う望んでいる。

「怖い気持ちも全部塗り替えてあげる。いってごらん、言いたいこと言ってごらん。」

「いやああっ! いやあぁぁっ! さわんないで! やだやだやだぁ! わあああああっ!」

「僕しか触ってないよ、大丈夫。」

「あっ、だめ、ふく、ふいちゃう、ひっ、ひぅ、―――うあああァァ―――んんんっ!!」

 瞻仰せんぎょうの絶叫が、父の口の中に木魂する。それはけれども、悲鳴だ、と私は思った。父の初子ういごとして、決して泣かない瞻仰せんぎょうが、心を許した父親にだけ聞かせる泣き声だ。だから、この声を聞くのは罪だ。私は耳で罪を犯している。この声がどんなに大きくても、耳に残っていても、脚が重くても、耳を塞いで離れなければいけない。

 私は、二人のこういの意味も分からないのだから。


 私は杖と左足の音に気をつけながら家に帰った。当たり前のように家には二人はいなかったが、母が起きて、戸口に立っていた。きょろきょろと見回し、遠目に私を見つけると、走り寄ってきて抱きしめる。

「ああっ! きびす、良かった、無事だったのね!」

「母ちゃん…。」

「いいのよ、何も聞かないわ。さあ、家に入りましょう。お腹がすいた? 凝乳と、あと油漬けの油が少しあるから、菜っ葉で炒めましょうか?」

「いや、いいよ。…ねえ、母ちゃん。」

「なあに?」

 私は、先ほど見た光景をなんと聞けばいいのか分からなかった。男同士で行うことを、女の母が知っているとも思えなかった。私は、なんでもない、と、否定して、一足先に、母を一人占めして朝食にした。

 皆が起きてくる少し前くらいになって、漸く父と瞻仰せんぎょうが帰って来た。瞻仰せんぎょうは『打ち合わせに夢中になって眠ってしまった』らしく、父の背中でくったりと寝息を立てている。その表情は柔らかく、幸せそうだ。あの幸福な時間が、二人の間ではまだ続いているのだ。私は、荒野で何をしていたのか聞きたかったが、眠っているはずの瞻仰せんぎょうの腕が、父の首を捉えているかのように見えたので、まだあの行為は続いているのだと思い、何も聞けなかった。


 私は、あの場面ほど、美しく幸福に満ちた光景を、その後見ることはなかった。

 そして私は、あの場面を見る前の自分には、もう戻れなかった。

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