第二節 家族

 義父と義兄は既に大工として働いていたので、朝早くから夜遅くまで、村のあちこちで仕事をしていた。私達は引き取られて暫くの間は、義母の傍で家を手伝っていたので、村の中に行く事はなかった。突然子供が増えた義母を支えなければ、ということと、今から家の構造を理解しておいて、家の中だけでも下働きが出来るようにならなくては、と、私ときんそそぐは必死だった。けいまさかずは、義母の周りで笑っていることしか出来なかったので、彼等の分まで私達が働かなくては、と、躍起になっていたのである。

きびす、貴方、井戸にお水を汲みに行ける?」

 太陽が中天にさしかかる、少し前のことだった。私はまさに強請られて、添え木に落書きをされていた。義母が泣き止まないかずをあやしながら、困ったように言った。私に拒否権は無かった。

「行けるよ。瓶一つ分くらいでいいの?」

「ええ、お願い。かずちゃん、喉が渇いたみたいなの。」

「分かった! まさ、おいら水汲みに行くから、続きは後でね。」

「あとっていつ。」

「…ああ、ハイハイ、じゃあ一緒に行こう。」

「うん。」

 まさと私は同じ年だったが、まさは明らかに、私達より四歳年下で、今二歳のそそぐよりも幼かった。同じ事はけいにも言えた。本家に居たときからそうだったが、まさきんは、どうも別の国の言葉を使っているような気がする。かずがちゃんと言葉を覚えてくれなくては、と、私は気が気ではなかった。

 そんな私の、一丁前に胃の痛くなる悩みとは裏腹に、まさは村の中が気になって仕方がない。杖をつき、瓶を引き摺るため、まさと私は腰を結んでいたのだが、ぴんぴんと引っ張られて、体勢が崩れる。

まさ、お願いだからちゃんと歩いてよ。」

「ねえ、あれ、なに。」

「後で見に行こうね。」

「あれ、なに。」

「あ、と、で! 今はお水汲むの!」

「おみず。」

「うん、お水。」

 これこれ、と、私は立ち止まり、引き摺っていた瓶を見せた。すると、まさの興味は瓶に移った。

「それくれる。」

「あ、持ってくれるの? うれしいな、お願い。」

 よいしょ、と、まさに瓶を渡す。まさが瓶に興味を持っている間は、この瓶は安全だ。なるべく早く井戸についてしまおう、と、私は歩を早めた。子供の足でも、井戸に行くのに太陽が動くほどの距離はない。しかしこのような時は、本当に井戸までの距離が遠い。それは大人になってもそうだった。

 井戸にやっとの思いで辿り着き、釣瓶を下ろした、その時だった。

「うわあ!」

「ぎゃあ!」

 突然背中を押され、私は井戸の中に落ちた。まさと私を繋いでいた腰紐が、私を井戸の中で宙づりにする。うつ伏せになってしまった私は、夜よりも昏く、底の見えない井戸に恐怖するばかりだった。足を突っ張るには、私の身体はあまりにも短い。

まさ! まさ、どうしたんだ!」

 まさではなく、井戸の底が私の言葉を復唱する。まさは激しく泣くばかりで、何が起こったのか分からない。

「誰か! 誰か助けて!! 誰かァー!!」

 井戸も一緒になって、悲鳴を上げた。すると、上から答えがあった。

「うるさい、子供の耳が穢れる!!」

 女の声だったと思う。すぐに後頭部に衝撃が来て、ついで吊るしていた帯の力が緩まった。否、まさが落ちてきたのだ。驚いて、まさだけでも守らなくては、と、身体を捩ったが、添え木のついている左足がつっかえて動けなかった。ばらばらと陶器の欠片が一緒になって落ちていく。一緒にまさが持っていた瓶を、まさごと井戸に放り投げたのだろう。

 顔面から水面に叩きつけられ、私はまさの下に沈んだ。どうにかそこから這い出して、何かに捕まろうとする。が、私が下ろしたはずの釣瓶は、遙か上の方に引き上げられていて、捕まることが出来なかった。私は井戸の壁に張り付き、何とか上ろうとした。けれども、片足しかない私には、そんなことは出来なかった。

「うわあああああん!!!」

 まさの泣き声が、私の冷静さをどんどん奪っていく。それでもどうにかして、誰か呼ばないと、と、いうことは分かった。

 昼間、普通の人は、外を出歩かない。日差しが強く、外出に向かないからだ。しかし、この冷たい井戸に夕方まで浸かっていては、本当に死んでしまう、ということは、なんとなく分かっていた。私は自分が兄らしく振る舞えている間に、凍える指で腰の紐を解いて、まさを自由にした。そして泣いているまさを抱きしめ、頭を撫でて落ち着かせる。耳元で大泣きしていたまさは、私の足の指先が無くなってくる頃には、しゃくり上げる程度になって、私が眠たくなってくる頃には、落ち着きを取り戻した。

「どうするの。」

まさ、お前なら井戸を上れるはずだ。両脚があるんだから。とにかく、何度でも井戸を上って、外に出てくれ。そしたら、母ちゃんを呼んでくるんだ。父ちゃんが帰って来てたら、父ちゃんの方が良い。」

「とうちゃんとかあちゃん、どっち。」

「どっちでもいいよ。」

「どっちってどっち。」

 こんな所で押し問答している場合ではない。私は怒鳴りつけたいのをぐっと堪えて、まさに言い聞かせた。

「家に居る人を全員呼んできて。」

「わかった。」

 幸いなことに、まさは愚鈍な頭の持ち主だったが、この時は身軽だった。あの子なりに、危機であることを理解していたのかも知れない。何度か、どぼんどぼんと落ちてきたが、こつを掴むと、ゆっくり、しかし確実に上っていった。遠く、影になっていたが、足の甲が見えて、ああ、這い出すことが出来たんだ、と、ホッとすると、途端に頭が痛くなってきた。

 ああ、死ぬんだな。

 私はぼんやりとそんな事を考えた。身体が重くて冷たくて、無くなっていた指先や爪先は痛みさえ覚えてくる。頭から流れてくる水は、温かいものと冷たいものとがあって、私は立ち泳ぎをするのを止めた。背中が凍るように冷たくなったが、代わりに呼吸が楽になったし、何よりも頭痛が軽くなった。どうせ死ぬなら、あんまり苦しくなく、微睡むように死にたい。私は死ぬことがどういうことか分かっていなかったが、すくなくとも身体を横たえて浮かんでいる時は、本家の蔵に居た頃を思い出したし、その床がふわふわゆらゆらした、心許ないものだと思えば、馴染みのある場所だ。

 井戸に突き落とされた理由も分かる。大方、真っ昼間、一目を忍んで井戸を使いたい誰かが、自分以上に穢らわしいものが、先に井戸を使っていたのが気にくわなかったのだ。

 骨が無いというのは、そういうことだ。

 人と違うというのは、そういうことだ。

 私は人間ではない。割礼こそ受けていても、イスラエル人の男として認められることは永久にない。何故なら、神は母の胎内で、私の骨を数え間違えたからだ。私の希望は、聖書の言葉だけだ。約束された、大王の家系から現れるという救世主。彼が来るとき、全ての足萎えは牡鹿のようになって、駆け回ることが出来るのだという。何度か、本家の子供達が暗唱しているのを聞いて、その部分だけを覚えたのだ。

 神は私のような、足の中身だけを創らないということも出来たのだ。足の中身だけを創るということも、お出来になるだろう。出来ることなら、その救世主が来るまで生きていたかった。

 

 気がついたとき、私は家にいた。助かったらしい、というよりも、混乱していた。てっきり死んだと思っていたので、何故死後の世界に家族がいるのか分からなかったのだ。

「ああ! きびす! よかった、よかったわ…!!」

 義母が泣いていた。弟妹たちも泣いている。かずだけが、訳も分からず、私を見つめて、ぺたぺたと頬を触った。燃えるようにかずの手が熱い。否や、私が冷たいのだ。ぼやけた視界がくっきりしてくると、弟妹たちは凄い汗をかいていた。それもそのはずで、竃から火が噴き出している。物凄い量の薪を突っ込んで、私を暖めようとしていたのだ。外は既に暗く、あれから大分時間が経っていた。義兄も帰って来ていた。

「このバカ! 母さんをこんなに泣かせて…!! どうしてもっと注意しなかったんだ!」

「セン兄、どうして…。」

「包帯にビックリして、親方達が仕事をさせてくれなかったんだよ。そしたら爪の剥がれたまさが、ずぶ濡れで大泣きしてるじゃないか。母さんがお前達は井戸にお使いに行ったっていうから、よくよく井戸を覗いてみたら、死体みたいにぷかぷかお前が浮いてて、ぼくは卒倒するかと思ったよ! 急いで父さんを読んできて、村の男達に釣瓶を持って貰って、父さんが引き上げたんだ。父さんはカンカンで、今会堂で犯人捜しだ。帰って来たら、ちゃんと言うんだぞ!」

「ご、ごめんなさいっていう…。」

「違うッ!!!」

 義兄に怒鳴りつけられ、私はビクッと身を竦ませた。義兄は溜息をつき、義母の隣に座って、私を手招きした。殴られると思い、きゅっと身体を縮こめると、義兄は寝台に乗り上がってきて、折り曲がった片足ごと抱きしめた。義兄は、汗の匂いすらも、不愉快ではなかった。否や、寧ろ冷たい水の中にいたからか、匂いのある水気が、とても愛おしく感じた。

「『ありがとう』って言うんだ。傷は医者が診たけど、どこか痛いところがあるなら言え。寒いなら寒いって言え。怖かったんなら怖かったって言っていいし、悲しかったんなら悲しかったって言え。家族なんだから、遠慮するな。」

「家族…?」

「………。あのな。」

 瞻仰せんぎょうは大きく溜息をついて、私の瞳を覗き込んだ。

「家族でも無いヤツと、一緒に夕飯なんか、食べないんだぞ。」

 その時、私は唐突に理解した。

 本家で芋虫のように転がり、犬も舐めとらないようなパン屑を拾い集めて食べるしか無かった私達は、生きる為に食べた。どんなものでも、口にしなければ死ぬことは、皆分かっていた。どんなに泣いても何も口にできない、皮膚病の赤ん坊の世話を、皆でした。馬鹿にされても|虐待さ(いじめら)れても、何でも口にした。

 でもここでは、必死になって食べ物をかき集める必要は無い。もう既に集まっている食事が出てくる。赤ん坊の世話をしながら、食べる順番を決めながらではなく、食べながら、話をする順番を、話し合って決める。喉を潤すのは水ではなく葡萄酒で、夜になった時、掛けて貰える上着がある。

 そして、朝になったら、名前を呼ばれて起きる。『瞻仰せんぎょうきびすまさひこばえそそぐけいきんかず、起きなさい。お父さんはもう起きているわよ』と。

「………セン兄。」

「ん?」

「うわああああん! ごめんなさい! うわあああああんっ!」

「………うん、心配したよ。でも目を覚ましてくれて、良かったって皆思ってるよ。生きててくれてありがとう、きびす。」

 その時、私は唐突に理解した。

 ――私達は、瞻仰せんぎょうは、きびすは、まさは、ひこばえは、そそぐは、けいは、きんは、かずは、兄妹なのだ。

 そして、今、私の真横で泣いている人は、母で、今ここにいない彼女の夫は、私の父なのだ。

 私達は、家族なのだ、と。

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