第二節 家族
義父と義兄は既に大工として働いていたので、朝早くから夜遅くまで、村のあちこちで仕事をしていた。私達は引き取られて暫くの間は、義母の傍で家を手伝っていたので、村の中に行く事はなかった。突然子供が増えた義母を支えなければ、ということと、今から家の構造を理解しておいて、家の中だけでも下働きが出来るようにならなくては、と、私と
「
太陽が中天にさしかかる、少し前のことだった。私は
「行けるよ。瓶一つ分くらいでいいの?」
「ええ、お願い。
「分かった!
「あとっていつ。」
「…ああ、ハイハイ、じゃあ一緒に行こう。」
「うん。」
そんな私の、一丁前に胃の痛くなる悩みとは裏腹に、
「
「ねえ、あれ、なに。」
「後で見に行こうね。」
「あれ、なに。」
「あ、と、で! 今はお水汲むの!」
「おみず。」
「うん、お水。」
これこれ、と、私は立ち止まり、引き摺っていた瓶を見せた。すると、
「それくれる。」
「あ、持ってくれるの? うれしいな、お願い。」
よいしょ、と、
井戸にやっとの思いで辿り着き、釣瓶を下ろした、その時だった。
「うわあ!」
「ぎゃあ!」
突然背中を押され、私は井戸の中に落ちた。
「
「誰か! 誰か助けて!! 誰かァー!!」
井戸も一緒になって、悲鳴を上げた。すると、上から答えがあった。
「うるさい、子供の耳が穢れる!!」
女の声だったと思う。すぐに後頭部に衝撃が来て、ついで吊るしていた帯の力が緩まった。否、
顔面から水面に叩きつけられ、私は
「うわあああああん!!!」
昼間、普通の人は、外を出歩かない。日差しが強く、外出に向かないからだ。しかし、この冷たい井戸に夕方まで浸かっていては、本当に死んでしまう、ということは、なんとなく分かっていた。私は自分が兄らしく振る舞えている間に、凍える指で腰の紐を解いて、
「どうするの。」
「
「とうちゃんとかあちゃん、どっち。」
「どっちでもいいよ。」
「どっちってどっち。」
こんな所で押し問答している場合ではない。私は怒鳴りつけたいのをぐっと堪えて、
「家に居る人を全員呼んできて。」
「わかった。」
幸いなことに、
ああ、死ぬんだな。
私はぼんやりとそんな事を考えた。身体が重くて冷たくて、無くなっていた指先や爪先は痛みさえ覚えてくる。頭から流れてくる水は、温かいものと冷たいものとがあって、私は立ち泳ぎをするのを止めた。背中が凍るように冷たくなったが、代わりに呼吸が楽になったし、何よりも頭痛が軽くなった。どうせ死ぬなら、あんまり苦しくなく、微睡むように死にたい。私は死ぬことがどういうことか分かっていなかったが、すくなくとも身体を横たえて浮かんでいる時は、本家の蔵に居た頃を思い出したし、その床がふわふわゆらゆらした、心許ないものだと思えば、馴染みのある場所だ。
井戸に突き落とされた理由も分かる。大方、真っ昼間、一目を忍んで井戸を使いたい誰かが、自分以上に穢らわしいものが、先に井戸を使っていたのが気にくわなかったのだ。
骨が無いというのは、そういうことだ。
人と違うというのは、そういうことだ。
私は人間ではない。割礼こそ受けていても、イスラエル人の男として認められることは永久にない。何故なら、神は母の胎内で、私の骨を数え間違えたからだ。私の希望は、聖書の言葉だけだ。約束された、大王の家系から現れるという救世主。彼が来るとき、全ての足萎えは牡鹿のようになって、駆け回ることが出来るのだという。何度か、本家の子供達が暗唱しているのを聞いて、その部分だけを覚えたのだ。
神は私のような、足の中身だけを創らないということも出来たのだ。足の中身だけを創るということも、お出来になるだろう。出来ることなら、その救世主が来るまで生きていたかった。
気がついたとき、私は家にいた。助かったらしい、というよりも、混乱していた。てっきり死んだと思っていたので、何故死後の世界に家族がいるのか分からなかったのだ。
「ああ!
義母が泣いていた。弟妹たちも泣いている。
「このバカ! 母さんをこんなに泣かせて…!! どうしてもっと注意しなかったんだ!」
「セン兄、どうして…。」
「包帯にビックリして、親方達が仕事をさせてくれなかったんだよ。そしたら爪の剥がれた
「ご、ごめんなさいっていう…。」
「違うッ!!!」
義兄に怒鳴りつけられ、私はビクッと身を竦ませた。義兄は溜息をつき、義母の隣に座って、私を手招きした。殴られると思い、きゅっと身体を縮こめると、義兄は寝台に乗り上がってきて、折り曲がった片足ごと抱きしめた。義兄は、汗の匂いすらも、不愉快ではなかった。否や、寧ろ冷たい水の中にいたからか、匂いのある水気が、とても愛おしく感じた。
「『ありがとう』って言うんだ。傷は医者が診たけど、どこか痛いところがあるなら言え。寒いなら寒いって言え。怖かったんなら怖かったって言っていいし、悲しかったんなら悲しかったって言え。家族なんだから、遠慮するな。」
「家族…?」
「………。あのな。」
「家族でも無いヤツと、一緒に夕飯なんか、食べないんだぞ。」
その時、私は唐突に理解した。
本家で芋虫のように転がり、犬も舐めとらないようなパン屑を拾い集めて食べるしか無かった私達は、生きる為に食べた。どんなものでも、口にしなければ死ぬことは、皆分かっていた。どんなに泣いても何も口にできない、皮膚病の赤ん坊の世話を、皆でした。馬鹿にされても|虐待さ(いじめら)れても、何でも口にした。
でもここでは、必死になって食べ物をかき集める必要は無い。もう既に集まっている食事が出てくる。赤ん坊の世話をしながら、食べる順番を決めながらではなく、食べながら、話をする順番を、話し合って決める。喉を潤すのは水ではなく葡萄酒で、夜になった時、掛けて貰える上着がある。
そして、朝になったら、名前を呼ばれて起きる。『
「………セン兄。」
「ん?」
「うわああああん! ごめんなさい! うわあああああんっ!」
「………うん、心配したよ。でも目を覚ましてくれて、良かったって皆思ってるよ。生きててくれてありがとう、
その時、私は唐突に理解した。
――私達は、
そして、今、私の真横で泣いている人は、母で、今ここにいない彼女の夫は、私の父なのだ。
私達は、家族なのだ、と。
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