父親篇 彼こそは愛する子
第一節 罪の落とし子
実父が言うには、私は実母を軽蔑し、罵りながら生きなければならないそうだ。
私の父方の祖先は、大王の息子である賢王に繋がっており、世が世なら、宮殿暮らしだったという。無論、実父のような家系出身の者は、イスラエルには五万といる。別に大した話でもない。ただ、父はそれをとても誇りに思っていたようだった。今一族で最も地位が高い男は、漁村を牛耳る網元で、その遠縁の男が一つの村を治めている、ただそれだけのことすらも、父は鼻にかけていた。
実母がそんな父に嫁いだのは、成人する年、誕生日の前だったという。父が年をとっていたので、子種が枯れる前に、と、結婚を急いだのだとか。
それが神の怒りに触れたのだろうか。私は長男として生まれながら、
赤ん坊だった私が、腹ばいのまま、ハイハイが出来ず、首が座っても掴まり立ちも出来ない。心配した両親が医者にかけると、私には生まれつき、左足の太股から先の骨がない事が分かった。医学的な説明をしたのかも知れないが、私にはそれを教えてはくれなかった。ただ一言。
お前の脚は、母方の先祖が盗んだ。だからお前は母親共々穢れている。
それだけをずっと繰り返された。
普通なら、そういう夫婦は離縁するらしいのだが、実父は実母を愛していたらしく、二人は離縁しなかった。私の持ってる幸せな家族の肖像は、五歳になる少し前まで続いている。どういう理由で父が母を愛していたのかは知らない。だが、実母が早世した後、実父は私が物乞いも禄に出来ないと分かると、本家に私を捨てた。本家は
私は本家で育てられるということもせず、その本家が蔑んでいたとある男の元へ回された。計算すると私は本家にそれなりにいたはずなのだが、食事や睡眠の記憶がない。ただ、その頃の私は、最早名前を呼んですら貰えなかった。
「
…不思議なことに、こんな風に考えると、後々大人になった今、思い出せる事が増えていく。知識をつけて合点がいくことが増えると、納得出来た出来事を思い出せるようになるらしい。
私はそんなわけで、幼少期の記憶は殆ど抜けている訳だが、六歳のある日から、私の、私達の人生は、突如として光り輝いた。それが、本家から引き取られた日だった。
「その若君は?」
何と言われて、その日は母屋にいたのだったか。私は何時ものように床とも地べたとも言えない隅に転がっていた。私は招かれざる客の気配に、なんとなく興味を持ち、顔を上げた。
すわ、天使かと思った。私の乏しい母との記憶の中にある、古代の族長達を導いた、神に近い者ら。昼だというのに、夜のように真っ暗な瞳には、月が一つだけ、凜と浮かんでいる。鼻筋は通っていて、全体的に細く、それは柳のようだった。唇は薄く、それは花片のようで、顔の造形など、大人になるまで泥団子を捏ねても辿り着けないように滑らかで、肌などは、私達よりも一回り薄い色をしていた。
その時の私は、冬の川に突き落とされた時のように震え上がった。だが、冬の川に落とされた時は恐怖で縮み上がったのに、その時、私の心は、否、魂は、否々、身体までもが、パンのように、温かく膨れあがった。あの時私は、初めて、食べ物や飲み物、より快適な布の巻き方と言った、衣食住以外の文化的な側面で、感動したのだ。あんなに美しく清らかな人間がいるのか、と。
それは正しく、私が『美』に、『文化』に、『御業』に、『神の存在』に触れた瞬間であり―――。
「―――ね?」
「…ああ、そんな必要はないぞ、
人間とは、かくもいくつも、渦を持っているのだと知った。
今にして思えばそれは、『愛』と同時に、『嫉妬』を知った瞬間だった。
私を引き取ったのは、一族中最下位の男と、その妻だった。既に子どもが二人いて、私には『美』こと、義兄
寧ろ私が混乱したのは、既に出来ていた、養父
その微笑みがとても美しくて、私は、義兄は特別な人なんだろうと思った。生きることしか考えなかった、否、『考える』ことすらしなかった生活に、『文化』をもたらしてくれたあの人は、きっと神の愛した人なのだ。美しくて、物悲しくて、私はこの人を通して、多くの『文化』に触れた。それは食器の使い方なんていうものよりも更に前、私が『座る』というところから始まった。『転がる』ではなく、『座る』。『もらう』ではなく、『共に食べる』。そんな当たり前のことさえ、私達はあの家で許されていなかった。
しかし何にも増して、私に与えられた素晴らしいものがあった。
「しぇんぎょー、きびちゅ、まちゃ、ひこあえ、しょしょしょ、けー、きぃ、かじゅ………。」
「違うよ、
「ちぇんぎょー。」
「せんぎょう。」
「しぇー…。」
私に、『
「セン兄。」
「どうした?
部屋の片隅で、
「これくれる。」
「この紐のことかい? 何に使うの? どれくらい残せば良い?」
「これくれる。」
「だから、どれくらい使うの?」
私は少し遅れて寄っていって、
「おいらの添え木が壊れちゃったんだ。そんで
「ああ…。
「これくれる。」
全く進展しそうにないので、
「じゃあ、出来上がったら呼ぶから、今、
「これくれる。」
「あげるよ、
私は、というと、
「あいてて…。ごめん、
「?」
「んー、刺さったのかな?」
「刺さってた! めっちゃ深く刺さってた! ごめんなさい、ごめんなさい!」
「いや、別に痛くないし。」
私はその言葉が、
引き取られた先で、大事な
「うわああああ! ごめんなさいごめんなさい、ゆるしてください、うわああああん!」
「ちょ、
「追い出さないでください、なんでもします、ゆるしてください、おねがいします!」
私は混乱して、とにかく思いつく限りの謝罪の言葉を並べ立てた。
「にっちゃ、どうしたの?」
「なあになあに?」
騒ぎを聞きつけて、
「ごめちゃい!」
「んむぁ、んまぁぅ!」
「???」
義兄と
「なんだなんだ、喧嘩か?」
「お父さん、弟達が、何故かぼくに土下座するんです。ぼく、怒ってないのに。」
「ん~? …って、お前! 目から血が出てるじゃないか!」
「針が刺さったんですけど、痛くないし、目玉も動くし、大丈夫ですよ。」
「いかん、失明したら大変だ。すぐに医者に行こう。」
「大丈夫ですってば。」
「母さん! ちょっと医者に
義母の答えを待たず、大丈夫と繰り返す義兄の手を引っ張り、義父は飛び出して行った。そーっと身体を起こし、ぐるんと背骨を曲げて土下座をする
「本当ににっちゃは、怒ってないと思うよ。」
「そんなわけないよ、あんなきれいな顔に傷をつけたんだ。おいら達、また追い出されるのかも。」
「どーしょぉ………。」
「ンむぁ。」
私達がこの世の終わりに取り残されたかのような顔をしていると、
「そんなこと心配してるの? なんで追い出すの? ボクたち家族じゃない。」
「―――ッ!」
私が言い返そうとした時、
「どーしょぉ、どーしょぉ………。」
「大丈夫だよ。とっちゃもにっちゃも怒ってないよ。家族だもの、一緒に暮らしてたら―――。」
「ヒコは父ちゃんの子だからわかんないよ!!」
殴りかかりこそしなかった。私は土下座からすぐに立ち上がれないからだ。だがもし全ての骨が揃っていたならば、私は殴りかかっていただろう。それくらいには腹が立っていた。幼かった私は、竃の炎よりも激しく燃え、井戸を覗き込むよりも恐ろしく身の竦むような感情を、どうすれば良いのか分からなかった。なので、それを全て、義弟にぶつけた。
「誰だって自分のほんとの息子が可愛いんだ! いちばん良く出来た息子が可愛いんだ! いちばん面倒みた子が可愛いんだ! いちばん長く一緒に居る
―――
その一族の中で最も権威があり、様々な決定権を持つ者が
逆に言うと、
ともかく、当代の
しかし、その事実ですらも切ないのに、私を後々無残に切り裂くような、あんな秘密が、この義父、否、義母にあったとは、思いもよらなかったのだ。
夕方になってもまだ大泣きしている私の所へ、治療を終えた義兄と義父が戻ってきた。義兄は物々しい手当をされていたので、私と
結局私達はその日、食事も喉を通らなかった。もしかしたら、最後の食卓になるのかもしれないというのに。状況を理解できていない
それから数日間、私は気が気ではなかったが、結論から言うと追い出されることはなかった。寧ろ、とある大事件によって、義兄たちとの絆は深まったのである。
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