5.茶番
「イレーナ様。こちらの服はいかがでしょうか」
「イレーナ様には、こちらのお色がよくお似合いだと思います」
「イレーナ様。やはりとてもお似合いです。お美しい」
シエルはイレーナの買い物に付き合ってくれた。そしてイレーナが悩んでいると、さりげなく助言をくれ、試着をすれば惜しみない称賛を与えてくれた。
――まるで夫みたい。
伯爵の代わり。ダヴィドの代わり。それをシエルは果たそうとしているのだろうか。優しいから。律儀だから。逆らえないから。
「いかがなされましたか」
はっと我に返る。試着やら採寸やらを終え、店の椅子にぼんやり座っていると、心配した眼差しでシエルがこちらを見ていた。
「ごめんなさい。少し、疲れてしまって」
イレーナがそう言えば、シエルはとたんに申し訳なさそうな顔をした。
「申し訳ありません。気づきませんで」
「あなたが謝ることではないわ」
気にしないで、とイレーナは首を振った。やはり夫というより、有能な執事が正しい気がした。
「お帰りになられますか?」
「……そうね」
正直、屋敷へは帰りたくなかった。帰って伯爵と顔を合わせることにでもなったら、また以前のようなことになったら――イレーナは恐ろしかった。けれどこれ以上シエルを付き合わせるのも悪い気がした。やはり大人しく帰るべきか。
「ダヴィド様ならば、最近はお忙しいようなのでこちらへいらっしゃる可能性は低いと思いますよ」
伯爵の名が出たことにイレーナは驚き、この青年にはすでに何もかもばれているのだと情けない気持ちになった。だが安心したのも事実だった。忙しい、というのはマリアンヌのことだろう。仕事なら、ここにシエルがいるのはおかしい。
――もう少しで、生まれるのかしら。
生まれるのは秋ごろだと言っていた。まだ暑い日が続いているが、この前冬が過ぎて春になって、夏がやって来たかと思えば、あっという間な気がした。
男だろうか。女の子だろうか。どちらが生まれても、伯爵は愛してくれるはずだ。ほんの少し、イレーナは耳を塞いで赤ん坊の声に耐えればよい。
「そうなの。では、帰りましょうか」
はい、とシエルは心得たように返事をした。
馬車に乗って家路へ着く途中、外の景色を見ていたイレーナはふと視線を感じた。
「なにかしら」
「いえ……その、」
「私には遠慮しないで、何でも言ってちょうだい」
今さら何を言われようが、腹を立てることはない気がした。
「イレーナ様の侍女から伺ったのです。奥様はあまりドレスや宝石に関心がないと」
ですが、と彼は続けた。
「今日ご一緒してみて、あなたもやはり女性であるのだなと」
どう返答しようかと迷い、イレーナは話を変えることにした。
「あなたの婚約者も、そういったことには興味があるのではなくて?」
婚約者の名前を出され、シエルはぎくりと固まった。彼は婚約者に、何と伝えているのだろうか。シエルの置かれている立場を相手の女性は理解しているのだろうか。
――そう言えば、忘れられない人がいると言っていた。
今思えば、あれはわざと自分の気を引くために言った嘘だったのだろう。ダヴィドに命じられて、イレーナに好意があるように振る舞った。普段夫に相手にされない妻が他の男に愛情を傾けるように……
けれどその駆け引きに、子どものイレーナが応じることはなかった。
――イレーナ様は子どもみたいな方ですね。
いつか彼が言ったことは当たっている。
愛とか、好きだとか、そういう感情は苦しく、辛いもの。イレーナはそんなの知りたくなかった。
「ねぇ、シエル。あの人から手を引くことはできないの?」
短い付き合いだが、シエルは優しいと思う。ずっと誠実であって欲しいと思う。そのためにはダヴィドには関わらない方がいい。そして自分にも。イレーナはそう思った。
「……私の家の事業はダヴィド様によってずいぶんと助けられたのです」
だから無理なんです。シエルは下を向きながら、絞り出すように言った。
――かわいそうなひと。
「婚約者のお嬢さんのことはお好き?」
シエルは何も答えなかった。どう答えるか迷うっているようにも見えた。
「シエル。大切にしてあげてね」
イレーナの言葉に、シエルがはっとしたように顔を上げる。
「あなたを縛り付けておいて、こんなこと言える立場ではないけれど……どうか、その人だけを愛してあげて」
瞼の裏に思い浮かぶのは、一人の女性。涙を流し、いかないでと縋る姿は今でも強く、イレーナの心を抉る。
「いつか、こんな茶番も終わるわ。そうしたら、あなたは本当に愛すべき人だけを愛してあげてね」
懇願するようにイレーナが言っても、シエルは何も答えてくれなかった。
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