【七節】済度 ─saido─


 生きるとは、一体どういうことなのだろう。

 コンコルディアに流れ着くまでの旅は長く、その道中では様々な出会いがあった。


 賑わう街並み。寂れた路地。活気ある商人たちの声に行き交う人並みと、走り去るボロを纏った子どもたち。

 頭の下がる善人にも、恐れを覚える悪人にも、数多く出会って来た。


 いつかは、偶然に答えと出会える日が来るものだと思っていた。

 ソワイエと交わした旅の目的、その指針はしっかりと胸にあったが、リュリュにとっては自身が抱く疑問の答えと出会う旅でもあった。


 だけれど、新しいものに出会う度に、その疑問はさらに大きく心に根を張っていった。

 やがて辿り着いたコンコルディアに腰を据え、小さいながらも切り盛りする店を持ち、仲間と呼べる人たちにも出会った。

 間違いなく、自分は今を生きている。


 だがそれでも、たまに一人考える時がある。



 リュリュは一人、店の中に立っていた。今までの目紛しい出来事が忘れられたかのように孤独な空間で、ともすればそれは、自分の心のようだった。


 外からは相変わらず狂獣の唸り声が聞こえる。もしかしたら、あの男はもう殺されているかもしれない。

 ここに残ると決めたのは自分自身だ。然りとて今の自分に何が出来るのだろう。無論、出来ることなら何だってする気概はあるものの、ソワイエのために一体、何をしてやれるのか。


 ──店を一歩でも出たら、もう目を背けることは出来ない。


 不思議と、もう帰って来れないような気がした。

 それが店に対してなのか自分に対してなのかは分からなかったが、それでも大きな深呼吸をひとつ、思い直してリュリュは店の外へと飛び出た。


「嘘でしょう。どういうことだ……」


 目に飛び込んで来た光景に、リュリュは肝を消して眉を寄せる。

 そこに見えるのは泥塗れでうずくまる狂獣と、汚れひとつなく切り株に腰を下ろす男の姿だった。思っていたはずの光景とは、まるで正反対だった。


「おい、姉さんに何をしたんだッ!」


「見ての通りだ。君の姉は一人のたうち回り、俺はただ、ここに座っている。君が危惧するような惨劇は起きていない」


 男は気の抜けたように悠々と答えた。

 確かに、狂獣は泥で汚れているだけにも見えて、怪我を負っているのかはっきりとは分からない。だが、それもまた妙だった。


 狂獣化したソワイエの怪力は凄まじく、屈強な男が三人がかりでも抑え込むのは容易ではない。ましてや目で追うには困難な俊敏性もある。

 とてもじゃないが、男一人でまかなえる相手ではないはずだ。


 ──やはり異能を駆使しているのか?


 相変わらず震えながら身をすくめている狂獣の様子から見ても、そうだとしか思えなかった。不敵な余裕を見せる男の素振りも、そう考えれば色々と合点がいく。


「さて、そろそろ片を付けねばな」


 そう言って、男はすくと立ち上がった。狂獣は依然として抱き締めた自身の肩に爪を掛けながら、低い唸り声で身震いをしている。


「待て、待てよ……」


 とてつもなく嫌な予感がして、リュリュはふらふらと男に歩み寄った。血が上るどころか、全身の血の気が引いていっているのが自分でも分かった。

 けれど、を止めようという思考には至らなかった。


 男はゆっくりと狂獣に近づく。距離にして凡そ10m。その距離が縮まるにつれ、リュリュの中には比例した以上の強い焦りが広がっていく。


「待てと言っているだろうッ!!」


 男がぴたり、と足を止めた。


「姉さんに、何をするつもりだ……」


「随分と狂信的だな。いや、君の場合は盲信的と言った方が正しいか」


「ふざけるなよ。獣の力は凶悪なんだ。あなた一人の手に負えるものじゃないんだ」


 そう言った声は、僅かに震えていた。

 本当は、男の中に秘策のような何かがあるのではないかと寒気立っていた。ともすればそれは狂獣を傷つけ、あやめてしまう力なのではないかと。

 リュリュはぐっ、と強く瞼を閉じ、レディーバードが牡丹のために激語しながらも、その手を震わせていたことを思い出した。

 しかし男は切り捨てるような冷たい口調で、「それは違う」と言い放つ。


「あれは凶暴ではあるが、凶悪ではなかろう」


「……どういう意味だ」


「そうだな、敢えて言葉にするのであれば、あれは酷く怯えている。だが獣が人を恐れるのは間違いだ。人が獣を恐れねばことわりが合わぬだろう。あれでは獣のためにも、人のためにもならぬだろうな」


 男の言っている言葉の意味は、正直意味がよく分からなかった。分からなかったが、やはり男が狂獣に対して何かをしようとしているということだけは、はっきりと分かった。

 言葉を返せないリュリュにため息をつき、男は再び背を向けて狂獣と向かい合う。


「させない……姉さんに手出しさせるわけには、いかないんだ……」


 リュリュは拳を握り締め、苦しくなって視線を泳がせた。

 足元には木片、食器の破片、そしてカトラリーがいくつか散乱している。狂獣が男に飛びかかった時に、一緒に外へ投げ出されたものだろう。


 そしてが目に止まった途端、感覚を麻痺させるようにぼうっ、と頭に血が上った。


 肩で荒々しく息を繰り返しながら、リュリュは無意識に──ともすれば自分の心に巣食う本能的な部分で──足元に転がるペティナイフを拾い上げた。


「させない、させないぞ……」


 呪文のように、自分に言い聞かせるようにして何度も呟いた。過呼吸間近の荒い息が耳に張り付いて、うるさくて仕方がなかった。


 ──ソワイエは、俺の全てなんだ。


 がいなければ、自分は今、こうして生きられてはいない。

 コンコルディアに来ることも、レディーバードや牡丹たちと出会うことも、その喜びや幸せを感じることさえ出来なかった。


 だからソワイエに救われたこの命は、ソワイエのものなのだ。

 脳にも心にも、体の芯にまでもべったりとへばり付いた呪いおもいに呑まれ、リュリュは浅い呼吸の中で眼鏡を取って捨てた。


 ──まもらなければいけない。


 ソワイエを守るためなら、如何なる犠牲もいとわない。そのためなら何もいらない。喜びも幸せも、何も。

 こんな自分を信じ、救ってくれた愛情を裏切りたくない。それだけは、絶対に譲れない。


「ソワイエは、俺の、全てだから……」


 ──殺さまもらなければいけない。


 頭の中で、何かがプツン、と切れた。


 風の中に溶けて消えるような声で何かを呟きながら、リュリュはひとつずつ歩を進める。視界はぼやけていたが、目的だけははっきりと鮮明に見えていた。

 視線は真っ直ぐに男の背中だけを見つめ、表情からは色が剥げ落ち、指先は氷水に浸けたかのように冷たかった。


 握る手の中には、それよりも冷たいペティナイフが鈍く光っている。それは最早料理を生む鮮やかさではなく、生命を脅かす冷ややかな色をしていた。


 次第に歩みが早まる。

 その音に気づいた男が振り返らんと身を翻したが、それでも構わなかった。

 リュリュは肺の底まで大きく息を吸うと、そのまま言葉なく押し切るようにして男にぶつかった。


「──っ」


 声にならない吐息を震わせながら、リュリュはさらに身体をぐっ、と押し込んだ。

 男は硬直したまま何も言わなかったが、その脇腹をしっかりとペティナイフの刃が切り裂いている。

 生肉に刃を入れる時とは違う、生きた組織を断つブツリとした感触が手から腕、そして脳にまで伝わった。


 自分は今、目の前の命を絶とうとしている。


 そう感じた刹那、はっ、と我に返った。

 自分が何をしたのか、何をしようとしているのかを改めて認識し、何度も瞬きを繰り返しながら、浅い呼吸を早くした。

 自分が自分でなくなる怖さ以上に、まるで自分がかのように思えて、震えが止まらなくなった。


「う、あ、ご、ごめ……でも、僕、ソワイエを、生きて、どうして……」


 支離滅裂に狼狽しながら自分で自分に怖気付いて、リュリュは固く握り締めていた手を解こうと力を緩めた。


「引くな」


 それまで沈黙していた男が鋭い表情で語気を強め、身を引こうとするリュリュの肩を強く抱き寄せる。


「ここで引いたら歪んでしまうぞ。引いては、ならん……」


 再びリュリュの手に、ブチブチと肉を断つ嫌な感触が広がる。リュリュは半端に開けた口を大きく震わせ、定まらない視線の中で慄いた。

 確かに自分がしたことであるというのに、情けなくも、その責任と恐怖の重さで今にも心が潰されそうだった。


「誰も、傷つけはしないさ。それでは俺の信条に悖る。そも俺が始めた遊興である以上、傷を負うはこの身ひとつで十分。つまりは全て、俺の才覚が成しうる技量の範囲内で行っていることだ」


 言って、男はゆっくりと自分から身体を引き剥がした。リュリュは凍りついた身体をさらに強ばらせ、ふらついていた視線を男に返す。


 ペティナイフは未だ深く脇腹に突き刺さったままで、男もまた、荒い呼吸に熱を持たせていた。

 当たり前だが、痛みをこらえ兼ねているのだろう。リュリュは蹌踉よろめいて後退あとずさり、瞬きを何度も繰り返しながら、浅くなる呼吸に溺れた。


「ごっ、ご、ごめんなさい。ごめんなさい、僕、その……」


「問題などないさ。これまでも、これからもな」


 男は苦しさを隠した顔で微笑んだ。


「表と裏、ふたつの君を知って、俺もようやくと思い至った。店主、君は救われた命に答えが欲しかったのだろう?」


 また、時が止まった。


「ど、どうして──」


 男が、知っているのか。

 誰にも話していない、誰も知っているはずがない胸の裡を言い当てられたことに、リュリュは青くなるばかりだった。

 それは最早、察するだとか感じるという次元の話ではない。違和感を超えた恐ろしさが超えた分だけ胸の奥をざわつかせて、同時にぐっ、と胃酸が込み上がってきた。


 知っていなければ分かるはずがないことを、何故──。


「いいか、覚えておけ」


 正鵠せいこくを射る口調が、リュリュを現実に引き戻す。


「救われたから意味があるのではない。意味があるから救われたのだ。その順序を見誤らなければ、君はまだ間に合う」


 リュリュは狼狽するばかりで、またも何ひとつ言い返せなかった。答えるよりも早く繰り出される言葉たちに、思考の暇さえなかった。


 今は男の顔さえ、まともに見れない。

 その苦々しさが悔しくて、今すぐ自壊してしまいたいほどに情けなかった。自分を責めることで律し続けていた心が、その反動で潰れてしまうような予感がした。


「姉を思う君は、やはり佳い顔をしているのだろうな」


 穏やかに男が言って、リュリュは膝から崩れ落ちた。

 ぽたぽたと地面にこぼれ落ちた涙が、じわじわと染み広がって心を絞り上げた。


「ど、どうして、避けなかったんですか……」


 ふと、言葉が口を衝いた。

 どうやったのかは知らない。だが、あの狂獣化したソワイエを相手にたった独り、傷ひとつ負わずに澄ましていたほどの男だ。こんな自分の、それもただ感情に任せただけの一撃を、避けられなかったはずがない。


 自分の求めている──そもそも何を求めているのかさえ頭では分かっていない──答えが返ってくるわけなどないと、極めて本能的な部分で理解している。それでも、聞かなければならないと思った。


「どうあれ君のような男がほぞを固めたのだ。ならばその一魂、避けてはならんだろう」


「わざと受けたって言うのか……」


 リュリュは嗚咽おえつを漏らし、爪が剥げ落ちるほどの力を込めて地面に指を立てた。

 しかしどれだけ力を込めたところで、硬い土は僅か2cmも掘れない。そんなどうでもいいことでさえ無力に感じ、言葉にならない遣り切れなさに心底嫌気が差した。


「何を、やっているんだ……俺は……」


 涙が染み込んだ地面を、リュリュは何度も殴りつける。

 その痛みが贖罪しょくざいに遠く及ばないことは重々分かっていたのだが、それでも、その痛みを受けている間は憂き身をやつす心が紛れているような錯覚がした。


 しかしリュリュは気づいていなかった。殴り続ける自身の拳から、血が滲み始めていることに。


「莫迦な真似はよさないか」


 男は少しだけ身を屈め、リュリュの腕を掴んだ。が、既に遅かった。

 三度狂獣の鼻先がぴくりと立ち。強ばっていた身体からだらりと力が抜けた。それも、それまでのように身を屈めて体勢を作るわけではなく、背を丸め、腕をぶらりと下げ、だらしなく脱力していた。


 リュリュは男越しに狂獣の様を視認し、そして壊れそうな恐怖の中に絶句した。

 元来瞬発力とは脱力からの張力、その伸縮の上昇差によって決まる。ただでさえ筋肉ダルマのように体が膨張している狂獣の脱力は、言わばスナイパーが装填前に行う深呼吸であり、剣士が剣戟を振るう直前に柄を緩く握るのと同じ。


 それは、今から目の前の命を確実にる、という口上に他ならない。


 ──終わりだ。


 全ての思考が一瞬にして停止し、白紙化していく頭の中でただ一言、その言葉だけが浮かんだ。

 元より姉に救われた命。そこにどのような意味があったのだとしても、姉によって絶たれるものならば、文句はない。それでいい。

 しかし、


 ──本当に、それでいいのか。


 男に毒されてしまったのか、真っ白な脳裏に再び思考が灯った。ぼんやりとした意識だったがしかし、はっきりとだった。


 本当に意味があるというのならば捨てるのではなく、使いたい。


 リュリュはふらりと蹣跚めきながら立ち上がると、すかさず男を越えてソワイエの前に立ち塞がった。


「姉さん、リュリュです。分かりませんか?」


 流れる涙に潰れながら、リュリュは此処を先途せんどと奮い立ち、両手を広げて言った。

 男の命を守ろうという思いより、人の命を奪ってしまうことから、ソワイエを守りたいという強い気持ちだった。それは正にたった今自分が感じたからこそ湧いた、自分の意思だった。


 人の性など、とどのつまり変わりはしない。けれど、それが分かっていても、リュリュは自分の命の意味を知るためにそうする他なかった。

 ただ捧げるばかりではなく、異能に苦しむ姿から助けるために自分はあるのではないかと。


 そうあって欲しい、それが自分のなのだと、強く願った。


「ソワイエ、一緒にうちへ帰ろう……」


 しかし、言葉は届かない。狂獣はグルグルと唸り声を上げながら、リュリュと男を交互に注視している。前傾の姿勢を決して崩さず、吊り上がった口角の端からは涎がだらりと糸を引いていた。


「やれやれ、難儀な日々が続くものだ。この街は」


 呆れたように言いながら、男は立ち上がってリュリュの肩を引いた。

 肩に乗るその手は大きく、リュリュはふと亡き父のことを思い出した。不安と郷愁が入り交じる、複雑な思い出だった。


 男はリュリュに顔を向けるとまたひとつ微笑み、それから脇腹に突き刺さるペティナイフを一気に抜き取った。

 どぷり、と鮮血が溢れ出し、服を赤黒く染めていく。


「だ、だめだ。そんなことをしては──」


 標的が変わってしまう。と言おうとしたリュリュの声を、迅雷の如き咆哮が流し去る。


「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛」


 耳朶じだを劈く中、男は手に握った土の塊をリュリュの胸に押し付け、リュリュは困惑しながらもそれを反射的に受け取った。


「店主、手間を取らせたな。君はここで退場だ。これより先の運命は、俺が預かる」


「待ってください、どういう意味ですか! 今度は何をする気なんですか! 何なんですかこの土はッ!」


 矢継ぎ早に強く聞き返したリュリュの胸に、男は無言で軽い掌底しょうていを当てた。

 途端にリュリュは体勢を崩し、引かれるようにして後方に吹き飛ぶ。


「待っ──」


「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛」


 狂獣は怒髪天を衝く咆哮と共に、電光石火の速さで踵を踏み込み、鋭い爪と牙を男に向けて飛びかかった。

 宙に浮かぶリュリュには最早、何をすることさえ出来ない。自分が地に落ちた頃には全てが終わっていると瞬時に覚り、弾指だんしかんの出来事にただ目を見開くだけだった。


とき長濤うねりは俺を推した。あとは乗るだけだ──」


 仁王立ちのまま嗤う男を、狂獣は振り被った鉤爪で思い切り殴り抜いた。

 その腕力を真正面からまともに受けた男は、つぶてを打たれたようにして吹き飛び、を切り裂かれて吹き出した血が霧の如く飛散する。


「オ゛オ゛オ゛オ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛」


 胸を開いて叫ぶ狂獣を横目に、リュリュは身体を地面に打ちつけた。

 言葉にならない痛みが走ったが、それどころではない。握っていた中からいくらか土を被り、血と汗と土で赤黒く染まった顔を、リュリュは必死で拭う。

 ざらざらと肌が痛んだが、そんなことに気を配る余裕は無かった。


 ──死んだのか? あの人は死んだのか?


 張り裂けそうな鼓動に心臓が痛くなって、身体中が一層小刻みに震え出した。一瞬の間に色々な出来事や感情が詰まりすぎていて、判断が追いつかない。


 ──何処に行った。生きているのか。いや、生きているわけが無い。なのに、何故嗤ったんだ。


 いくつもの疑問や考えが浮かんでは入り交じり、リュリュの頭は混乱していく。それ以上に気が動転して、順序立てて把握する余裕がなかった。

 それでも、追い縋るように視線を這わせ、男の姿を辿った。


 やがてアナグマキッチンから粉塵が上がっていることに気づいたリュリュは、そこに男がいるのだと思い、立ち上がろうとした。──が、立てない。


 膝はガクガクと震え、力が入らなかった。

 何度、何度と立ち上がろうとしても、膝を立てるくらいが精一杯で、腕にも腰にも力を込めることが出来ない。

 身体にべったりと滲んだ汗に風が吹き付け、底冷えするような悪寒にリュリュは再び崩れ落ちた。


「ソワ、イエ……だめだ……」


 同じく返り血を被る狂獣は、興奮の息を漏らしながら腕を濡らす血を舐めとり、グルグルと唸る。

 四つん這いで涎を垂れ流し、時折地面を蹴って辺りを見回すその姿は野生そのもので、知性の欠片も見て取れない。もしかすると完全に獣に取り込まれてしまったのではないのかと、泣きたくなるほどの恐怖が胸に湧いた。


 次は自分が殺されるのだろう。そう思うと、いよいよ涙が込み上がってきた。悲しいからではなかった。

 自分は結局何をすることも出来なかったという虚しさで、むしろ申し訳ない気持ちだった。


 姿形はソワイエであるのに、最早ソワイエではない野生の姿。

 欠片ほども残っていないと分かりながら、それでも、リュリュは狂獣に姉の面影を探していた。


「ごめんよソワイエ。本当に、ごめんよ……」


 痛々しく横たわりながら、消え入りそうな声が徒歩1秒の距離で消えていく。

 やがて目の前が霞み始め、ぼうっと白惚けしたように明るくなった。キッキッキッ、と笛を吹くような音が鳴り、次第に猛烈な睡魔が襲ってきた。


 すっ、と心に覆い被さる虚しさや寂しさが引いていく。

 温かくて、優しい何かが胸の中に入り込んでくる。嬉しさで溢れるその何かが、目の前でふっと形取って笑ったような気がした。


 ──姉、さん?


 夢とうつつが相半ばする視界の果てで、リュリュは幻影を見ていた。心の底から願っていたそれは、リュリュの胸の裡を温かく照らす。


 やがて伸ばした掌の上で、青白く何かが光った。

 キッキッキッ、と笛を拭くようにして震える、


「こお、ろぎ……?」


 リュリュの視界は、意識と共にゆっくりと閉じていく。それまでの後ろめたい何もかもが雲散霧消うんさんむしょうし、温かな幸福だけがじわりと身を包んでいった。

 その嬉しさに、瞳から一粒の涙が流れ落ちる。


 まぶたの裏で、ソワイエが優しく笑っていた。

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