【六節】帰命 ─kimyou─


 赫奕かくえきなる赤い瞳。殺意が識らせる生命への脅迫。

 狂獣化したソワイエ──或いはソワイエだった狂獣──には元来、人が持ち得るべき知性や感情の起伏といったものがなかった。


 剥き出しの野性と、たけり立つ憤激のみがそこに在る。それは狂獣を成す性向のひとつであり、言語を発することはもちろん、意思の疎通も不可能だ。

 敵味方の概念すらをも失っている故、恐らくは個人を判別することさえ出来ていない。


「みんなは裏口から逃げてください。ここは──」


 僕が、と言おうとしたところでレディーバードが笑った。


「それじゃあ、君が殺されちゃうだろう」


「ここに残っていたら全員殺されます!」


 叱りつけるように言い返したが、レディーバードは床を手で叩きながら、あっけらかんと子どものように笑うままだった。


「どうして分かってくれないんです!」


「どうしても何も、誰かを残して犠牲にするだなんて後味が悪すぎるだろう?」


「そんなことを言っている場合じゃないんだッ!」


 渾身の叫び声は、それでも届かない。自分の感情だけが通り抜けていく状況はまるで、ドーナツみたく真ん中だけが抜け落ちているようにも思える。

 一方で頭の中はもう、ぐちゃぐちゃだった。何もかもが目紛めまぐるしく展開していくばかりで、突発的な焦りや苛立ちがそこに都度つど混ざっていく。それは感情のごった煮にも思えた。


「リュリュは怪我をしているんでしょう? だったら無理は良くないよ」


 飯事ままごとのような口調で牡丹が言って、狂獣の鼻先がぴくりと引っ張られるように動いた。

 鋭い嗅覚が、何かを探している。


 ──何かを。


「そうか──」


 狂獣がきびすを踏む気配を察し、リュリュは慌てて血を拭った手拭きを握り締めた。そしてそれを表口の真反対にある、用具入れの扉に向けて思い切り投げ放った。


「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛」


 歪な咆哮を上げながら、狂獣はバネを押さえつけるようにぐりぐりと腰を屈めていく。

  ──伏せて。と言いかけたところで、男がはしゃぐ牡丹を抱き寄せた。

 しかし、男は伏せない。涎を垂らしながら突進して来る狂獣を、そのまま受け流す形で背負い投げた。


 男の背中で綺麗な放物線を描きながら、狂獣は弾丸の速度で用具入れに突っ込んだ。瞬きほどの一瞬がゆっくりに見えるほど、鮮明な一直線だった。

 牡丹の可愛らしい悲鳴をかき消し、激しい爆発音と共に粉塵が舞い上がる。加えてカウンター上の食器たちや男の楽器に至るまでが、衝撃であちこちに散らばった。


 頑丈な扉はその名残りを忘れるほどに粉砕され、箒やバケツの破片と混ざって瓦礫がれきの山が出来上がっている。その中に埋もれながら轟く咆哮が耳を劈き、キン、と強い耳鳴りがした。


「姉さん、やめてくださいッ!」


 殺戮が始まった、とリュリュは思った。

 事実ソワイエはコンコルディアに来てからこの半年程の間に、もう十人近くの命を奪っている。そのほとんどは野党や暴漢の類いであったがしかし、殺さなければ解決しないというほどの問題ではなかった。


 上手く立ち回れないもどかしさと不安に、リュリュは大きく息を呑んだ。しかし返事どころか、次の一手さえいくら待ってもやって来ない。

 繰り返される咆哮は次第にうめき声へと変わって、狂獣はガタガタと震える瓦礫がれきの中で身体を強ばらせている。

 それは、今までにないことだった。


 自身に直接害を成す者、また狂獣化する前にはっきり敵だと認識した者の命を奪い尽くすまで、怒涛の攻撃を繰り返す。

 とりわけ血の臭いには強い反応を示し、仮に敵と見定めた者がいる中にあっても、他の誰かが血を流せば否応なく其方に反応する。


 たとえるなら捕食中であっても次の獲物に飛びつく蜘蛛の獰猛さが狂獣の姿であり、それがソワイエに宿る異能だった。

 だからこそ、狂獣が身体を強ばらせていることが不自然に思えたのだ。

 そんな素振りは、今まで一度も──。


「もしかして、あなたの仕業ですか?」


 ひとつ間を置いて、リュリュは不安気に訊ねた。

 しかし男は黙したまま、まるで子を慮る父のように、牡丹の肩に被った木屑を優しく手で払う。


「急にどうしたの? 驚いちゃった!」


 男の膝からぴょんと降り立ち、牡丹はおののいた素振りさえ見せずに言った。その無邪気な笑顔を見て、何故だか無性に泣きたくなった。

 男は屈みながら悪いことをしたと、あやすような口調で牡丹の頭を撫でている。呑気なのか冷静なのかは知らないが、どこか莫迦にされているような苛立ちを覚えた。


「聞いているんです。答えてはもらえませんか?」


 語気を強めたリュリュに、男は小さなため息をつく。


「店主、君の姉も憤懣ふんまんに潮が差す頃だ。この場は俺が預かる故、君は二人を連れて店から出ろ」


「莫迦言わないで下さいよ。僕は姉さんを残してここを離れる気なんてありません」


 男はそうか、と冷ややかに返す。


謹厳きんげんな言葉で己が野心を伏せるは人のごうだな。君はあの姉がどれだけ危険で暴威を振るう者なのかを識っているが、その実、他の誰でなく姉の方を心配している。これもまた君の抱える矛盾だ」


 と思いながら、リュリュはその煽りに乗らぬよう、目を閉じ大きく息を吸った。それでも瞼はぴくりと跳ねて、そのわずらわしさにすぐ目を開いた。


「野心なんて何も無いですよ。ただ僕は、ここに居る全員に無事でいて欲しいんです。だから、逃げてほしいとお願いしているんです」


「では君も残る必要はなかろう。それとも、自分だけはその〝全員〟の勘定には入らないと?」


「誰かが姉さんを止めなきゃいけないんです。弟の僕が手を束ねている場合じゃないでしょう」


「君にその大役が果たせるのか?」


 言われて、リュリュはまなじりを決した。相変わらず視線は交わらなかったが、ここだ、と思うものがあった。


矛盾それもまた、僕なのでしょう?」


「なるほど、相応の大義を得るか。ならば俺も得心尽く故、君も好きにすると良い」


 男は時を得顔で──ともすればどこか満足気に──微笑んだ。不思議と、それまでのような嫌味ったらしい印象は受けなかった。


 そうとなれば、やることも決まってくる。


「そういうわけですからレディ、急いで二人で四区のかすがい墓園に行って、蜜さんをここへ連れて来て下さい」


 言い終えるより早く、レディーバードは床にべったりと付けていた背中をむくりと起こした。寝ていた犬が首だけ向けてくるような気怠けだるさと、嫌味っぽさがあった。


「どうして僕が、あんなヤツのところへなんか行かなきゃならないんだ。助けを呼ぶって言うなら、ダリアやアストライアだっているだろう」


 顔こそへらへらと笑っていたが、本気で嫌がっているのは直ぐに分かった。やはり普段のレディーバードからは掛け離れた、らしくない拗ね方だった。


「僕だって二人の仲は分かっていますが、でも今は本当にレディの他に頼めないんです。ダリアでは姉さんと殺し合いになりかねないし、ライアでは優しすぎてきっと攻撃することを躊躇ためらいます。そうなれば逆に殺され兼ねません。じゃなきゃ対処出来ないことくらい、レディにだって分かるでしょう!」


 レディーバードはバツが悪そうに口を歪ませると、キャスケットを取って頭を搔いた。蜜の袖にすがらなければ結果は推して知るべしだと、分かっているからこそに見えた。


「ねえ、私はあなたと一緒に居たいな」


 満面の笑みを携え、牡丹が無邪気に男の腰へと飛びついた。男は少し屈んで牡丹の背中を撫でながら、「それは困るな」と朗らかに笑う。


「どうして? 私がいると迷惑?」


「そうではないが、君の兄に斬られる理由が出来てしまう」


「蜜なら、私から言えば大丈夫だと思うけど」


「であるといのだがな」


 牡丹はぶうっと膨れた。


「なら、あなたも一緒に来て?」


「武家の娘が男と並んで歩いてはならぬだろう」


「そうなの? そんな話、聞いたことないけど」


 首を傾げて不思議がる牡丹に、男は重ねて笑う。


「それが東国とうごくでの習わしだ。兄の元へは、其処そこ猪口才ちょこざいと行くといい」


 指名され、レディーバードが手に持ったキャスケットで男の肩口を叩いた。


「待てよ。僕だって男だぞ」


「子どもは勘定に入らんのだ」


「なら牡丹だって子どもじゃないか」


「武家の者に年端は関係ない」


「それも習わしってか?」


如何いかにも。恨むのなら身分制度そのものを恨むのだな」


「何も恨む気なんてないさ、別に」


 にやけながらも不機嫌の口吻こうふんを洩らす姿が、一段と皮肉っぽく見えた。

 実際その思いもあるのだろうが、それ以上に男から諭されることの方が気に障るのだろうなと、リュリュは思った。


 言動から察するに、恐らくレディーバードにかかった男の異能は、少しずつだが解け始めている。解くための方法があるのか、単に時間制の異能なのかは分からないが、それは撥条ぜんまい仕掛けの玩具のように、じわじわと緩んでいくものなのかもしれない。


「君には君の務めがあるだろう。その娘子には君が必要だ。君が思っている以上にな」


「命令される筋合いじゃあないと思うんだけど」


 レディーバードがため息をついた途端、瓦礫の山がバラバラと崩れた。その中からずいっ、と狂獣が姿を現し、荒い呼吸を繰り返しながら身を捩らせる。

 未だ何かを堪えているように見えた。


「側杖を食ったつもりでいるのは構わぬが、そう時間はないぞ」


「それで脅しているつもりなのか?」


 そう言いながらも、笑うレディーバードの視線は絵画に目を奪われるような好奇心とは違う、明らかな警戒心を持ってじっ、と狂獣に止まっていた。


「何より君も分かっていることだろう。助けを呼ばねば、店主は死ぬかもしれないと」


「やっぱりおたくはいけ好かないな」


 レディーバードは狂獣に目を張り付かせたまま、牡丹の腕をそっと引き寄せた。牡丹はレディーバードの方へと体を向けながらも、もう片方の手で名残惜しそうに男の服を握っている。


「あのね、ソワイエさんはお友達なの。その、本当はとても良い人なの。だから……」


 言い淀んだ牡丹の手をそっと握り、男は微笑んだ。


「俺はただの吟遊詩人。殺生など柄ではないさ。案ずるな」


 牡丹は眉を寄せて少しだけ寂しそうに頷くと、男から手を離してレディーバードに身を寄せた。それからも名残を惜しむようにずっと、男の顔を見上げていた。


「リュリュやソワイエを傷つけたものなら、僕は絶対に許さないからな」


「覚えておこう」


 男は丁寧に頷く。そして顔を狂獣の方へ向けると、左手に着けていた薄い手袋をゆっくりと外した。


「店主、二人を裏から出せ。少しばかり時間を稼いでおく」


 言い終えた途端、男はリュリュの返事を待つどころか一切の躊躇なく、左手の親指の先をぶつり、と噛みちぎった。

 ひっ、と息を引く音がして、レディーバードが慌てて牡丹の目を手で覆う。


 やがて男の指先から綺麗な鮮血がとろとろと流れ出るや否や、それまで右に左にと体を捩らせ悶えていた狂獣の動きが、ぴたりと止まった。

 リュリュは血の気が引く寒さを背中に感じながら、大きく目を見開いた。


「そんな──」


 だめだ。と言い切る時間は無かった。

 大きな唸り声を上げた狂獣は疾風のように身を翻して男へ突進し、男はそのまま投げ出されるようにして狂獣と表口から飛び出ていった。

 見る限りとても受け身を取れるような速度ではなく、一瞬の出来事に声も出せなかった。


 それからの姿は逆光でよく見えなかったが、店の外からは狂獣の咆哮が繰り返し轟いている。永遠のような数秒の間、残された三人は呆然と立ち尽くしていた。


 頬に吹き当たる生温い風と、薄く聞こえる閻魔蟋蟀の脅し鳴きだけが三人を現実に引き留めていた。


「早く行こう」


 最初に口を割ったのはレディーバードで、いつもの冷静さを取り戻した声色だった。

 リュリュも慌てて我を取り戻し、急いで二人を勝手口から送り出す。


「二人とも気をつけて。でも、なるべく急いでください」


「分かってる、こっちのことは僕に任せて。リュリュの方こそ、絶対に死ぬんじゃないよ」


 牡丹の肩をぎゅっと抱き寄せながら、レディーバードは真剣さをなぞるように改まった口調で言った。


「僕のことはいいから、早く行ってください!」


「ちゃんと約束するんだッ!!」


 突然の怒声にびくっと肩を立て、リュリュはぎこちなく頷く。

 レディーバードの目が、真っ直ぐに自分を突き刺していた。


「わ、分かりました。僕も姉さんも、必ず無事で、二人にまた会うと約束します」


「あの男の人のことも、助けてあげて」


 か細い声でそう言った牡丹に、リュリュは眉を寄せながら頷き返した。レディーバードも小さく頷きながら牡丹を見下ろし、抱き寄せた肩を何度もさすっていた。


 これから何が起こるかなんて誰にも想像がつかない中で、嘘とも本当とも取れない約束をする。そんな鬼気迫る事相のただ中に自分たちは生きているのだと、改めて思い直した。


「必ずまた、生きて会いましょう」


 リュリュは強く約束し直し、二人の背中を見送った。

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