【五節】阿頼耶識 ─arayashiki─
「此度は
第二幕だと言って男が奏で始めた曲は、言葉通り拍節の速いものだった。
まるで鉄砲水のように流れる音の波は、その
牡丹は拳を握って激しく頭を振り乱し、レディバードは狂った高笑いの声を上げて膝を叩いた。
リュリュだけが、砕けんばかりに歯を食いしばっている。
──この雰囲気にあと少しでも身を委ねてしまったら、確実に堕ちてしまう。
激しい目眩の中で、水と間違えてウォッカを
「ちょっと、待ってくれ……」
そうして大きな
ここへ来て、ようやく男が言った堕ちるという言葉に確信が持てた。
──もう、堪えられそうにない。
それでもリュリュは、歯を食いしばり続けることを辞めなかった。
辞められなかった。
理性を捨てるということは、自分を捨てることにも等しい。〝普通であること〟という一点にしがみ付き、そのためだけに理性を保って生きてきた。それが無くなれば、自分は自分でなくなる。
幼い頃よりそう信じ、そう生き続けてきた。
そこには善も悪もない。誰かからの強制もない。
たとえばそれは、靴を右から履くのと同じ。
たとえばそれは、掛け違えのないようシャツのボタンを下から閉めていくのと同じ。
意識的に続けた結果の、習い性となったそれが当たり前であるという強迫的な無意識。
自らを形成するに至った激しい思い込みであり、今や心の中枢を担うものだった。
──パリン。
躍動する牡丹の腕がマグカップを弾いた。
冷たい音で砕け散った破片が、リュリュの足元に散らばる。牡丹もレディーバードもそれを意に介さず、言葉なのかも分からない声を上げて狂喜乱舞に没頭している。
臨界点を目前にした心臓はさらに強く脈を打ち、次に砕けるものが何であるかを示そうとしていた。
分かっている。たとえこの場に身を委ね、興に乗じたところで誰が何を困るわけでもない。牡丹やレディバードのように、少し羽目を外すくらいのものだ。
分かっている。むしろそれで楽しいくらいなのかもしれない。
──分かっている。
「そうまでして、己を殺すか」
男の言葉に、キンと耳鳴りがした。
速さを増していく旋律に全身が総毛立ち、白けていく視界にパチパチと星が飛ぶ。
それでも、
「少し、目眩がするだけですよ」
「いやはや、済度し難いな」
目を閉じたまま天を仰ぎ、男は不敵に微笑む。
「悦びに溺れることなく、激情に湧くこともない。快楽と苦難の狭間に
ぼうっ、と頭に熱が上った。
ほんの一瞬、言葉と意味が頭の中で乖離して、何を言われているのかがよく分からなかった。怒っているわけでもないのに、それに近い何かが心に覆いかぶさった。
言われた言葉に自覚は持っている。心の殺戮だと言われてしまえば、きっとそうなのだろう。現にこの状況に陥って尚、食いしばる奥歯を解くことが出来ずにいる。
だが誰に何と言われようとも、
もしもその解放を
他人から見ればきっと、
「もし、もし万が一、他の誰かがそんな生き方を選ぼうとしたのなら、きっと止めるに違いない。だけど俺は、そんな生き方しか出来ないんだ」
言いながら喉が
僅かな瞬きでさえ、今はひどく熱い。
「理性を飛ばさず心を開くとは、中々の腹構えだ。やはり君は
「かんい、何だって?」
「感心したのさ。君のような手合いは今までにも幾度か相対したが、共通するのは徹底して我を持たぬという、その一点だったのだがな」
「俺は、違うって言うのか」
「然り。君の心は度し難いほどに矛盾している。心を深く閉ざしながら、然して嫌悪という本音を剥き出すことに
「あんたに、何が分かる……」
眉根を寄せながら、リュリュは苦虫を噛み潰したような表情で悲憤した。と同時に、どうしてだか消え失せてしまっていた男への猜疑心が、再び湧き立った。
「何も分からんさ。故に知ることもある」
旋律が徐々に丸みを帯びて柔らかくなった。と同時に「自覚のないことならば聞き捨てるといい」と、男は浮かべていた笑みを潜める。
「自己の欠けた人間が辿る果ては、自己の闇に呑まれての破滅しかない。だが君が心根に起こした矛盾は今、その因果から僅か一歩ばかり外へ出た。それは人が人を成すための一歩とも言えよう。もしも自覚があるのならば、その感覚は胸に留めておくといい」
ひどく、重たい言葉だった。
カウンターを隔てて男の真正面に立ったまま、リュリュは微塵も動くことが出来なかった。聞こえていた音の全てが耳鳴りに変わり、それまでさんざ込み上がっていた熱は名残りだけを置いて引いていく。
店は、相変わらず騒がしい。
人が人を成す為の一歩。
その言葉だけが、ただ重く伸し掛かった。
──初めてそれを意識したのは、読み書きを覚え始めた頃だった。
その頃は今よりずっと身体が弱く、外を駆け回って遊ぶことさえ
それでも、調子を見計らって一生懸命に遊んでいた童心時代。
ある日、子どもグループの輪へ久しく顔を出したリュリュに、リーダー格の少年が声をかけた。
「おい、今日はせっかくだからリュリュのしたい遊びをしよう。リュリュ、お前は何して遊びたい?」
どこにでもある、何気ない問いかけだった。再会の気遣い溢れる嬉しい言葉、のはずだった。
「何をって、言われても……」
リュリュは困惑に唇を噛んだ。誰かに決定権を委ねられたのは、物心ついてから初めてのことだった。
目を泳がせ、言葉を詰まらせ、どうしたらいいのかを一瞬の内にいくつも悩んだ。
誰かが何かをしたいと言えば、リュリュはいつもそれに合わせて遊んだ。皆で遊べるなら、何だって楽しかった。皆のことが好きな気持ちにも嘘はなかった。
それだというのに、リュリュの頭には何も思い浮かばない。追いかけっこも、ごっこ遊びも、それまで楽しい思いをしてきたはずのことが何ひとつ出て来なかった。
いくら経っても、考えは答えにまで辿り着かない。
「普通に何したいかを言えばいいんだ。難しく考えなくたっていいんだぞ」
別の少年が出した助け舟に、リュリュの困惑は深めて骨髄に徹した。
自分の心を押し殺すことこそ普通だと思っていたリュリュにとって、それは血の気が引くほど残酷な現実だった。
──普通って、何だ?
「えっと、えっと……僕は……」
「最近な、バーレスク通りの外れに秘密基地を作ったんだ。ほら、
見兼ねたリーダー格の少年が言って、リュリュは不安そうに眉を寄せる。
「ホプキンス、さん?」
「そうそう。あの爺さんとこの裏に
それまでの
隠れた歪さに気づくこともなく、子どもたちはリュリュの笑顔に胸を撫で下ろし、そして何事もなくその日を遊んだ。
なんてことのない一日の、なんてことのない瞬間。けれどもリュリュにとっては、一生忘れることの出来ない傷痕。
まるで皆で大縄跳びを跳んでいる中にあって、自分だけがそこに入れないというような疎外感があった。それと同時に、そんな自分は普通ではないのだと改めて叩きつけられた絶望があった。
──誰かの喜びを自分の幸せに感じることは間違いなのか?
──自分の感じる喜びや幸せは、普通ではないのか?
──そもそも自分は、普通の人間になれてはいないのか?
あの日から、ずっと考え続けている。
今ではアナグマキッチンという居場所が出来たことで新たな出会いに触れ、そこで自作のメニューをいくつも考案した。
それは正しく自らの意思で、本心からやりたかったことだ。得られた客の満足は何物にも代えがたい幸せで、その思いに対する疑念は一遍たりともない。
だが、
「どうして、俺だったんだ」
抱え続けていた本音が、口を衝いて出た。言った瞬間にしまった、と肝が冷えた。
リュリュは何故先代が
周りの友人や客たちには、「胸襟開かずは聞くなかれですから」と、都合の良い心得を引き合いにして話を聞かなかったことを濁している。
けれども本当は、怖くてとても聞けなかった。
もしもそれを聞いてしまったら──そこで新たな普通を求められでもしたら──また、自分を騙さなければならないのではないか。
そう思っただけで、胸の奥底を縛り上げられているような気になった。恐ろしくて、息苦しくて、不安と罪悪感が一遍に込み上げて、身体の芯がとてつもなく冷たくなっていくような気がした。
息を荒らげ、リュリュは傷痕から逃れるように半歩だけ後退る。耳に障る音を立て、靴底が何かを踏んだ。悲鳴のような
判断も覚束無いまま、リュリュはそれに手を伸ばす。
「──っ」
割れたマグカップの
その感覚は、はっと深い眠りから目覚めた時に似ていた。
「
言葉と共に演奏がぴたり、と止んだ。
「目は、見えないんでしょう?」
リュリュは静かに言い返した。窓から射し込む鳥の子色の光が暖かく感じられるほどに冷静だった。
「表情など吐息のひとつもあれば分かるさ」
「だったら、今の僕が佳い顔じゃないことも分かるはずでしょう」
男は
「佳い顔というのはな、何も
「在り方在り方って、そればかりじゃないですか」
「悦びに心を躍らせることが人の在るべき姿ならば、苦難を噛んだ君の心もまた、そうあって然るべきだ。詰めればそれが君の行き着いたひとつの形なのだろうさ」
胸の奥がぎゅっ、と締まった。
「行き着いた、僕の形……」
まるで実感の無い言葉だった。そんなことなど、今までの人生の中で瞬きほどの時間すら考えたことがない。
ため息ひとつ見渡せば、牡丹は未だけたけたと笑いながらテーブルに突っ伏し、レディーバードは楽し気にぶつぶつと何かを呟きながら床に寝転んでいる。テーブルは食器と食べ物が踊り狂って、宴の翌朝のように散乱していた。
泣いて笑って、怒りと不安を煽られて、まるで情緒をいいように操られている気分がして吐き気がする。
だのに、不思議と嫌な気はしなかった。
「陰と陽、光と影、
「だから、あなたに何が分かるんですか……」
「無能には
「なんだよ、理由って……」
ぼろぼろと大粒の涙が零れる。握った拳の中で、血がぬるりと滑る。
リュリュはそれらを決して拭わなかった。
根付いた苦しさは依然変わらぬまま、しかし何かが少し浄化されていくような気がした。
それが何かは、分からない。
「リュリュ、泣いちゃってるよ」
場に不釣り合いな笑みを誇って、牡丹が愉し気に言った。寝転がったままのレディーバードも、気持ち良さそうに笑う。
「どうしたのさ、らしくないじゃないか」
「そう、ですよね……すみません」
鼻をすすりながら顔を伏せる。泣き顔を見られることはどうでもいい。今はただ、その笑顔たちを直視することが出来なかった。
「ねえ、またココアが飲みたいな」
言葉の代わりに何度か小さく頷き返す。零れる涙に少しだけ笑って、それから手拭きを取って血を拭った。
「少し──」
待っててね、と言いかけたところで、手拭きを待った腕を男が掴んだ。
「待て、
「な、なんですか、急に……」
男は掴んだ腕に力を込めたまま、扉口の方へ鋭い表情を向ける。
「悪鬼羅刹。いや、これは
言った刹那、神代杉の一枚扉が
皆が一斉に視線を送った先に、後光を背負った影が立っている。
ソワイエ・アンブローズ。リュリュの実姉だった。
「──姉、さん」
リュリュは訊ねるような口調で言った。脳が脈を打ち、熱くなる奥歯を深く噛み締めた。
そこに立っていたのは確かに実姉の姿なのだが、扉を押し破ったことを含め様子がおかしい。
ソワイエはリュリュの声に応答することなく、
陽光の中に塵が舞って、
「助けて、くれ……ソノ音ヲ、止メロ……」
ソワイエの口からこぼれた唸り声は、普段の声色とは大きくかけ離れて歪んだものだった。そしてリュリュは瞬時に状況を呑み込んだ。
──姉の異能が、発現しかけている。
「姉さん、落ち着いて。音なんて何も鳴っていませんよ」
言いながら、リュリュは男を睨んだ。男はじっ、と鋭い表情をソワイエに向けている。
──まさか、またこの男が?
そう思ったが、男の異能であろう怪光は完全に消え去っている。当然クロッグフィドルを弾いてもいない。
だったら、何故──。
「なんだよソワイエ、乱暴だなあ」
レディーバードが体に降り積もった木屑を払いながら笑った。牡丹も丸い笑顔を転がしている。
その違和感に覚る。レディーバードと牡丹にかかった異能は、未だ解けていない。効果に持続性がある異能なのか、はたまた永続的な異能なのかは分からないが、ソワイエも男の異能の受けていることは間違いない。
──店から漏れ出た音を聞いていた?
有り得ない話ではなかった。
ソワイエの異能──獰猛な獣の力──は後天的に発現するようになったものだが、その力を得て以来、ソワイエは常人を遥かに超越した聴覚や嗅覚、運動機能を有するようにもなった。
店に向かう道中で耳が音を拾った可能性は決して低くない。むしろ、それしか考えられない。
「ソノ音ヲ止メロォォッ!」
耳が裂けるほどの怒声を上げ、ソワイエは姿勢を低くする。それは正に異能が発現する前兆だった。
──このままではまずい。
「姉さん、音はもう鳴っていませんッ!」
なるだけ大声で言うが、届かない。
ソワイエの異能は恐ろしく凶悪で、一度発現すれば最後、それまでの優しい人格は完全に消え失せ、辺りを
ここで〝獣〟が発現してしまえば、確実に死人が出る。
そんなことは絶対にあってはならない。
「言葉のひとつ程度であれを収束させようと息巻くのは、些か自己過信に過ぎるのではないか?」
「そんなことを言っている場合じゃないッ!」
涼しく言う男に、熱を帯びた焦りぶつけた。しかし、既に遅かった。
外れることを祈り続けた予感が的中してしまう恐怖を、リュリュは瞬時に覚る。
唸り声と共に身体中の筋肉が膨張し、二の腕に巻いていた革製のアームガードが鈍い音を立てて引きちぎれた。
──誰かが、死ぬ。
「待って、だめだ姉さんッ! 姉さん──」
「オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛」
怒号が、
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