【四節】施無畏 ─semui─


 異能とは一種の概念であり、決まった何かを指す言葉ではない。

 たとえば降霊術のようなシャーマニズムをそう呼ぶ場合もあれば、重症を負っても立ち所に癒えてしまうような特異体質を指す場合もある。先天的に授かった者もいれば、後天的に得た者もいる。


 ひとつだけ確かなことがあるとすれば、異能者と呼ばれるに至った者たちは皆、入神にゅうしんの域に達したを持つ者たちであることだけは間違いない。



 水中に射す光のように蒼白く発光した男の手は、静まり返った空間に絶え間なく音を描き続けていた。

 それは霜枯れ時が明けて、芽吹く緑に春先をるような、美しくしなやかな音色だった。


 やはり人も無げに振る舞う男には不釣り合いに思えて仕方がない。だがその実、音を奏でるくらいのものならそれほど危険ではないのかもしれないと、リュリュは胸中に蓄積させていた含みを溶かしつつあった。


 何せ異能者たちの多くは凶暴な力を有していると云う話だし、その全てを見たわけではないが、少なくとも危険な話は多く耳目じもくに触れた。


 けれども端倪たんげいすべからざるただ中にあって、この男の力それ自体に危険は感じなかった。

 強いて言えば動悸のように鼓動が早まっている気がしていたものの、レディバードと牡丹の表情は和やかに綻んでいる。それだけで、どこか嬉しく思える。


 そうしていくらか聴き浸った頃、演奏の終わりとともに小さな拍手がひとつ飛んだ。


「驚いちゃった! なんて綺麗な曲なのかしら!」


 単葉たんように丸く溜まった朝露のように澄んでいたそれは、聞いたことのない声だった。

 リュリュは慌てて声の主を視線で辿り、目を見開いて絶句した。



 ──牡丹が、喋っている。



 その瞬間、リュリュの心に湧き上がったのは嬉しさでも驚きでもなく、度を失うほどの猛烈な戸惑いだった。


 早まる動悸のせいなのかもしれないが、頭が上手く回らない。〝牡丹はこんな声をしていたんだ〟と、間抜けな思いが浮かぶ程度だった。

 助けを求めるようにして見やったレディバードはへらへらと笑うばかりで、一体何が起こったのか、頭も心もまるで整理がつかなかった。


「私、こんなに素敵な音楽を聞いたのは初めて!」


 ぱあっ、と咲き誇った笑みを浮かべ、牡丹が言った。


「ねえ、今のは何という曲なの?」


「君の心にかなったのは何よりだが、曲に名はない」


「変ね、普通曲には名前があるものでしょう? あなたが作って、まだ名前をつけていないってこと?」


「いいや、これは花と香水の町──フィラデルゾアの曲だ。花々の香りが町中を彩り、自由の鐘が鳴り響き、人々を魅了し得るだけの情緒が広がっていたその町の、言わば忘れ形見だ」


「そう、きっと素敵な町なのね」


 牡丹はうっとりと幸せそうに言った。


「ところでどうだ。君は普通に話せているようだが」


 どこか得意気に聞こえる男の言葉で、牡丹の頬はみるみる赤らんでいく。


 ──無自覚で喋っていた? そんな莫迦な。


 リュリュは眉を寄せながら牡丹を見守っていたが、感じ入るにその表情には嘘がない。牡丹は恥ずかしそうに戸惑ってこそいるが、ともすればそれは肺腑はいふく悦びを隠せない表れにも見えた。


「なんだよなんだよ、喋れたじゃないか! 良かったなあ、あはははは」


 肩を寄せる牡丹の背中を叩きながら、レディバードがたのしそうに笑った。

 あまりにも、不自然な気の抜け方だった。


 牡丹の声を聞くのは、レディバードにおいても初めてのことに違いない。付き合いが長ければこそ、或いは自分よりも驚きに呑まれて然るべきなはずだ。

 それでなくともほんの数分前まで激高していたというのに、あまりにも情緒がブレている。


 間違っても、笑うはずなどない──と、リュリュは考えを改め直そうとした。

 しかし、何かがつかえる。本来ならば緊張感が増すべき状況なはずなのだが、ざわつく頭に心が伴わない。


 まるで危機感が胸の裡から少しずつ剥がれていくような、妙な感覚がリュリュを襲った。違和感を持たなければならないという違和感すら、心根から徐々に消え始めているようだった。


 せめてもの思いを込め、睨むようにして男を見やる。原因はこの男を置いて他にない。

 男は右手に持った木の棒をテーブルに置き、水の入ったグラスをそっと手に取る。そして傾けたグラスの影に隠れてにたり、と歪んだ口元をリュリュは決して見逃さなかった。


 ──間違いない。この男は


 疑いが確信に変わると同時に、鼓動がさらに早まった。

 牡丹が喋れるようになったことも、レディバードの様子がおかしいことも、間違いなく異能の力によって引き起こされたものだ。


 しかしそうなると疑問が残る。仮に牡丹が喋れるように何かしらの異能を及ぼしたというのなら、レディバードにまで力を行使した理由が分からない。

 それが口を挟ませないためなのだとしたら、何故自分にも向けなかったのか。単に相手にされていないだけなのか。


「不思議なのだろう、何もかもが」


 冷ややかな口調で男が言った。


「どういう、意味です……」


「普通はな、この段階で。然して人のそれには堅さがある故、君は堕ちなかった。ただ、それだけのことだ」


 言いながら男は右手をずいっ、と伸ばし、人差し指でリュリュの胸を突いた。リュリュは何も言い返せなかった。


 それ、が何を指しているのかは分からない。思考なのか感情なのか、はたまた人格そのものなのか。

 確実に言えることは、レディバードと牡丹は既に男の力に堕ちているということだ。


 それが分かった瞬間、背中にぞくりと寒気が走った。もしかしたらこの早まる鼓動の果てに、男の言う〝堕ちる〟が待っているのやもしれない。堕ちるとは即ち、普通ではなくなるということなのだろう。

 それは自分が、この世の中で最も恐れていることに他ならない。

 男へと向けた視線に、ほんの僅か力が宿った。


「不信抜きがたきに余る身ではあるだろうが、そう敵意を向けられるほどの愚行を君に見せたつもりはないのだがな」


「て、敵意だなんて、そんな……」


「物騒だなあ。どうしたのさ」


「いえその、勘違いを、させてしまって……」


 リュリュの目を見て、レディバードがもうひとつ笑った。

 何かがおかしい。だが、何がおかしいのかが分からない。


 盲目と言いながら睨んだことが分かるだなんておかしいじゃないかとも思ったのだが、気持ちを整えようと深呼吸を繰り返すうちに、別に気にするほどのことでもないように思えてきた。


 今なお喪われつつある猜疑心さいぎしんのただ中にあって、リュリュの中の違和感は泡立つようにいくつも込み上がり、そしてすぐに消えていく。


「気にしすぎですよ。お客さんに敵意なんて持ちようがないですから」


 男もレディバードも、それ以上は何も言わなかった。

 しかし心はどこか晴れない。頭の中もざらつきだけが僅かに残るばかりで、男の何がどう怪しかったのかさえ、霞がかかってよく思い出せなくなっている。


 ──あれ? そもそも、この人は怪しいのだろうか?


「ねえ!」


 ぱあっ、と咲き誇る笑顔に弾む声を乗せ、牡丹が男のインバネスを掴んだ。


、あなたのおかげなの?」


「異なことを言うものだな。それは元より君が持っていたものだろう。在るべきものが、在るべき場所へと還っただけのことだ。一時的ではあるがな」


 そう、と言った牡丹は、ぼろぼろと溢れる大粒の涙に笑顔を重ねた。いつもの泣き方とはどこか違う、優しくて温かい涙に見えた。


「私ね、こんなに嬉しいのいつぶりか分からない。本当に、本当に嬉しいの」


「それは何よりだ」


 男はどこか寂しげに微笑んで、牡丹の頬を指で拭った。


「もう、誰ともお喋り出来ないんだ。私はこのまま、誰にも本音を話せないのかもしれないって、ずっと、そう思っていたの……」


「君の本音が君を裏切ることなどあろうものか」


 男は言って、牡丹の頭を抱き寄せる。


「美しいものとは、時に世界から孤立する。故に己の在り方をゆめ見失うな。斯様かような小細工が無くともその心は美しい。なればこそ、それでいのだ」


 牡丹は返事の変わりにひとつだけ頷き、声を殺して泣いた。


「その、ありがとう、ございます」


 今度はリュリュが随喜ずいきの涙に目を熱くし、声を震わせた。


「礼にあずかるようなことなど何もしてはいないさ」


 ただ、と言い添えて男の口調が尖る。


「君たちはいつから、この娘子が喋れないと思い込むようになった?」


 リュリュはとつおいつしながら、結局何も言い返せなかった。

 意識してそう思い込んだことなど一度もないが、だからこそ、無意識には思っていたのだろう。いつか喋れるだろうとは思いながらも、日々を重ねていく中で生じた慣れが、その乖離かいりさせていたのかもしれない。


 レディバードは何やら考えている素振りをしていたが、その表情は相変わらずぽかんとしたままだった。


「二人は何も悪くないの。お願い、責めないで」


 掴んだインバネスに深く顔を埋め、牡丹は苦しそうに言った。男はその頭を優しく撫でる。


「誰をどう責め問う気もない。だが覚えておくといい、青玉は燃やされても灰の中に残るものだ」


「なんだよそれ。サファイアが燃えないだなんて初めて聞いたけど」


 好奇心を隠せない子どものような声で、レディバードが笑った。


「質の良い青玉は時に溶岩の熱にさえ耐えると聞く。それは恐らく、俺でも燃やし尽くせぬものなのだろうさ」


「何だよ、さっき言ったことまだ気にしてるのか? 気を悪くさせているなら謝るよ」


 男は冗談だと言いながら、レディバードにあわせて少しだけ笑った。


「だが青玉のそれは、万象に通ずるものだ。この娘子が失くしたものは、これより歩む道程で再び見つかる。その時、受け零さぬために必要なのは俺のようなまがい物ではなく、君たちの在り方だ。しかし目に映るものをうべなうばかりのそれは諦めと変わらぬ。それでは勿体もったいなかろう」


「そう言うけどさ、僕らにおたくのような真似が出来るかな」


 言って、レディバードは男に縋る牡丹を優しく抱き寄せた。

 牡丹は泣き濡れた中から、幸せに満ちた笑みをリュリュに送る。リュリュもそれを見て、なるだけ同じだけの笑顔を返した。

 不思議なことが続く状況だが、この幸せには嘘偽りのない温もりが多分に含まれているように思えた。


「僕たちに出来ることもまだある、ってことなんですよね」


「然り。適所に適材を置けぬことは間々あることだが、君たちの存在はそれを補って余りあるものだろう。焦らず、然して導きを怠らぬことが肝要だ」


「ま、僕に出来ることなんて知れてるけどね」


「そんなことないよ、大切なお友だち!」


 牡丹はレディバードの胸をぽかりと叩いて、レディバードは照れを隠せずにそっぽを向いた。

 リュリュは綻ぶ頬に喜びを噛み締める。店中を包む団欒が、また少し深まったような気がした。


「ところでおたく、名前聞いても大丈夫な人?」


 レディーバードがにこにこと楽し気に訪ねた。


「伝えたとて忘れる名だ。聞く必要もあるまい」


「そうかい。でも第三地区じゃ見かけない顔だと思ってたけど、異能者みたいだし四区民なのか? それとも身なり的に第一地区の信徒だったりして」


「さて、どうだったかな」


「はぐらかすなら信徒じゃないね。ってことはやっぱり四区民?」


 言った刹那、レディーバードはにこやかながらすっ、と眉を顰めた。


「待てよ、もしかしてじゃないだろうな……」


「神、堕とし?」


 リュリュが首を捻りながら訊くと、レディーバードは「ああ、そうだね」と頷き返す。


「君はまだ知らないかもしれないけど、第四地区にはそう呼ばれている過激派組織がいるんだ。元々は第一地区の宗教団体を、文字通り堕とすために出来た組織なんだけどね。今ではこの街そのものを標的にしているって話があるんだよ」


 すらすらと続く説明を聞きながら、リュリュはコンコルディアに巣食う根深い闇の一遍を感じ取った気がしていた。ゴロツキの痴話喧嘩が耳に触れる程度の第三地区は、まだ安全な方なのかもしれない。


「そんな人たちがいるなんて初めて聞きました。僕も気をつけないといけませんね……」


「まあ、過激派組織って言っても、幹部連中以外はその辺の野盗と然して変わらないから、別に今まで通りに気をつけていれば大丈夫さ」


 なだめるようにレディーバードが言ったところで、男がわざとらしく高笑いを上げた。


「おいおい、何がおかしいんだよ」


 レディーバードはテーブルの端に肘をかけ、穏やかに笑いかけた。

 男もにやりと口角を吊り上げながら、コツコツと指先でテーブルを叩く。


「人の弥栄やえいを望むのであれば、それこそ神仏などは無用の長物であろう。しかし人が救いを求むる限り、人に神仏など堕とせようものか」


 つまり、と付け加えて、男は顔だけをゆっくりレディーバードたちの方へ傾ける。


「君たちが言う組織とは、その矛盾故に成り立っているとも言えるだろう。神を堕とそうと息巻く連中は、神を堕とせていないからこそ存在し得る。斯様な道化に見られては、笑わずにはいられまいさ」


 レディーバードは「そういう考え方もあるのかもね」と言いながらも、相手にしていない素振りで笑っていた。


「そうだ! お礼にはならないかもしれないけど、良かったら何か好きな物を頼んで」


 ぱちんと空気を変えて手を叩く牡丹に対し、男は大袈裟に笑う。


「年端もいかぬ娘に札片さつびらを切らせているようでは信条にもとる」


「だってあなた、まだ何も頼んでないじゃない。それに私のご飯代は後で蜜が払ってくれるんだから、気にしなくて大丈夫だよ。リュリュの作るご飯はね、とっても美味しいの!」


「それはいい考えだね。あいつが払うなら泡銭みたいなもんだから、気にしなくてもいいし一石二鳥だよ」


「もう! またそういうこと言う!」


 へらへらと笑うレディバードの胸をぽかり、と小鼻を膨らませた牡丹が叩く。それを受けた男は観念したように頷いた。


「では、ありがたく伴食ばんしょくに与ろう」


 男がそう言ったところで、あ、と牡丹が首を伸ばした。


「その前に、ひとつだけいいかしら?」


「もう一度抱いて欲しいのか?」


 分かりやすくおどけた男の言葉に、牡丹は面映ゆそうにかぶりを振る。


「あのね、ずっと気になっていたんだけど、あなたのそのヘアバンド、色味も生地も私の帯揚げにそっくりなの。でも私の帯揚げは、私の家に代々伝わる貴重なものだから。あなたのそれはどこで見繕みつくろったものなの?」


「そうか。これは友人から譲り受けた物なのだが、奇妙な偶然もあったものだな」


 どこか寂しげな男に、牡丹は面白いねと無垢むくを返した。


「では店主、ラムをいただきたいのだが」


「待って、ラムってラム酒のことでしょ? お酒じゃない!」


 リュリュが答えるより早く、牡丹が男のインバネスを引きながら言った。


い音楽には良い出会いが必要だが、良い出会いには良い酒が必要なのだ」


 牡丹はそう、と微笑みを重ねる。


「あなたが満足してくれるならそれでいいよ。リュリュ、お願い出来る?」


 その答えは、言うまでもなく決まっている。


 その答えを言うために、自分がいる。


「はい、喜んで」


 アナグマキッチンは、束の間の安逸あんいつを貪った。

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