【二節】垂迹 ─suizyaku─


「好き嫌いなんてするもんじゃない」


 ずぶずぶと沈み込んでいたリュリュの意識をすくい上げたのは、レディバードのそんな一言だった。

 或いは心にあるつまずいたのかもしれない。


 それはちょうど崖から落ちる夢を見て飛び起きた時にも似ていて、ともあれリュリュは、一瞬戸惑ってから状況を理解した。


 牡丹の頬がむうっ、と紙風船のように優しく膨れている。不機嫌の原因は、目の前に置かれたモルトグラスだろう。

 皿に盛られた南瓜かぼちゃのクロケットは半分を残し、くし切りにして添えたトマトは跡形もなく姿を消している。しかしモルトグラスのピクルスだけは、未だ色鮮やかに盛りつけられたままだった。


「無理して食べなくてもいいんだよ」


「いいや、リュリュは牡丹を甘やかしすぎだよ。それじゃあ牡丹のためにも良くないだろう」


 腕組みをするレディバードは、色を正して子どもを諭す父親のような顔をしている。興味の対象はすっかり自分から牡丹へと移ろっているらしい。


「どうかな、ひとつくらいなら食べられそう?」


 リュリュは半熟卵の殻を剥く時くらい優しく言った。牡丹は口唇を引き結び、苦々しい顔で着物のおくみをぎゅっと握り締める。その瞬間、リュリュは今日も黒星だろうと確信した。


 牡丹の偏食癖を無くそうと秘密裡に結託した〝飴と鞭作戦〟は、今日に至るまでことごとく失敗している。

 十を過ぎた辺りから数えるのを止めてしまったので定かではないが、牡丹の食べられない物はピクルスを加え、十四個ほどになるはずだ。お世辞にも少ないとは言えない。


「ピクルスくらい食べられないと、蜜みたく性格のねじ曲がった大人になるぞ」


 牡丹はパシッと軽快な音を立ててレディバードの肩を叩いた。牡丹の兄である蜜とレディバードは、地獄の鬼でさえ仲裁に入るのではないかというほどの仲だった。


 コンコルディアに来てまだ日が浅いものの、二人の犬猿もただならぬ間柄は方々から聞く。その原因を訊ねてもまた方々で変わるのために、真相は分からない。

 裏を返せば、それだけ二人の関係には根深いものがあるのだろう。


「むしろパプリカを食べられるようになったら、牡丹ちゃんも蜜さんみたいになれるかも?」


「なら食べなくていい。牡丹がになると大問題だ」


 牡丹が再び肩を叩いたが、レディバードは掛け構いもなく笑っていた。


「うーん、パプリカは食べられないかあ」


 リュリュは額を指で掻きながら、ほとほと困り果てた。

 最近では偏食を無くすどころか、こうして新たに食べられない物が発覚していくことの方が多い。胸に残るのはいささかの罪悪感と〝真っ直ぐ目的へと進んでいたつもりが、気づけば遥か遠くへ離れてしまっている〟というジレンマばかりだ。

 率直に言って如何いかんともし難い。


 まるで友人たちの中で自分だけが成長出来ていないことに気づいた時の、あの遣り切れない焦燥感にも似ていると、リュリュは思った。


  ──このまま、牡丹の力にはなれないのだろうか。


 喉元で押し殺すため息は、やたらと熱い。こういう時の遣り切れない感情は、一体どこへ持っていけばいいのだろうか。


 いくつか間を置いて、リュリュは目顔で合図を送った。レディバードは大きく息を吸いながら、観念するように何度か頷いた。


「よし、じゃあまた次頑張ろうよ」


 急拵きゅうごしらえの笑みをたたえたリュリュであったが、それでも牡丹の顔には安堵の色が浮かんだ。たとえそれが擬い物の安らぎであったのだとしても、気が差す罪悪感を覚えれば暁光そのものにさえ見えた。


 リュリュはようやくと愁眉しゅうびを開き、併せて緊張を握り締めた拳を開いた。固まった関節が錆びた金具のように、ギリギリと唸った。

 誰かを傷つけてしまうかもしれない恐怖の裏には、自分が傷つく以上の不安が遣る方なく潜んでいる。

 掌をじっとりと濡らす汗の冷たさで、リュリュは次第に冷静さを取り戻していった。


「……ったく、しょうがないなあ」


 言ってレディバードがピクルスを頬張り、小気味のいい音を立てながら咀嚼する。液のついた指に口づけをしながら、


「僕は残飯係でいるんじゃあないんだからな」


 と皮肉をひとつ、その指で牡丹の鼻先を摘んだ。

 牡丹は嫌がる様子も、悪びれる素振りも見せず楽しげな笑顔を転がしている。気変わりの早さは子どもの専売特許だ。


 そんな二人の姿を見守りながら、リュリュはふと考えた。自分が同じ歳の頃は、どのくらい偏食をしていただろうか。

 ほんの十年ほどの昔のはずが、記憶には霞がかかったようで上手く思い出せない。今でもはっきりと覚えているのは、安い干し肉の食感がゴムのようだったことくらいだ。

 噛めば噛むほど靴底を食べているみたいで、あれはとても口に出来る物じゃなかった。思い出すだけでも、口の中が渋くなる。


「そう言えば、レディの好き嫌いなんて聞いたことないですね。いつも何でも食べてくれますし」


「まあ、僕は元々スラム孤児だったからね。食べ物をり好みするなんて発想自体、持っていなかったよ」


 レディバードはピクルスを齧りながら、さめざめと言う。牡丹の顔から一瞬笑みが引いたのを見て、リュリュは踏み込み過ぎてしまったのかと焦った。

 そんな気配を察してか、レディバードは慌てるようにでも、と付け加え、


「僕にだって得意じゃない食べ物くらいあるよ」


 と笑った。これには付き合いの長い牡丹もとても信じられないといった様子で、驚きに目を見開いている。

 リュリュはしかし、そういったレディバードの緩急宜しきを得る情理に、全幅の信頼を寄せていた。


 レディーバードは不思議なほどに面倒見が良く、責任感も一際強い。その姿を心から渇仰かつごうしている。牡丹の偏食をなくそうと話を持ち掛けた時も、迷わず嫌われ役を買って出たほどだ。その器量の大きさは感じ入るだけでは有り余る。

 であるからこそ連鎖的に、或いは反射的に、リュリュの胸の裡には強い思いが灯った。


「レディ、何が食べられないんです?」


「おいおい、そんなに凄むことないだろう……」


 苦み走ったレディバードは唸り、


「まあその、生肉は、そんなに得意じゃない」


 と、どこか俯き加減で言った。


「あれ。でもレディ、生魚は大丈夫でしたよね?」


「魚はほら、そこらの川でも獲れるからね。ただその、僕は肉なんて滅多に食べることがなかったし、生の味は、舌が慣れていないんだ……」


 レディバードは嘘の理由を言っている。リュリュは直感ながら確信した。けれど、それでいい。誰にだって事情はあるのだ。そしてどんな事情があったとて、自分のやるべきことに変わりはない。


「わかりました。ではレディが美味しいと観念するくらいの生肉料理、いつか必ず僕が作ってみせます。約束です」


 リュリュは、朗らかに笑顔で言った。


「き、急に何言ってるんだよ。そういうつもりで言ったわけじゃない。僕の好き嫌いなんて気にするほどのことじゃあないし、別に食べられなくたって、何が困るわけでもないんだ」


 ぱっと花が咲いたように会心の笑みを漏らす牡丹の隣で、レディバードは分かりやすく度を失った。これではミイラ取りが何とやらだが、恐らくレディバードは本当に、露ほども思い至ってはいなかったのだろう。


「だとしても、でしょう?」


 含みのある心得顔で、リュリュはいつぞやの台詞をなぞった。

 レディバードは少しだけ顔を伏せ、面映ゆさを呆れた風のため息で直隠した。もっとも、隠せていると思っているのは本人ばかりだ。


「調子狂うなあ、ほんと」


 青息吐息で言うレディバードの姿が、リュリュにはどこか誇らしかった。

 一方の牡丹は、すっかりと心中平らかだ。

 皿に残った南瓜のクロケットを箸で切り分け、揚々と口に運ぶ。幼い牡丹が操る箸はさながら、大人の持つ菜箸が如く見た目こそ不格好ではある。けれども蜜の躾の賜物か、或いは生来の才幹か、作法の美しさは大人顔負けだった。


「まだ食べたかったら言ってね」


 牡丹は嬉々と頷く。ふふっと柔らかい吐息を漏らし、ココアの入ったマグカップに口をつけ、それから頬っぺたが落ちないように両手で支えた。


 おおよそ本人は無自覚でやっていることだろう。しかしその愛嬌はどう控え目な言葉を見繕っても、天使のそれさえ優に超えている。奇天烈すぎる食べ合わせも全く気にならなくなるほどだ。


 リュリュは緩んだ顔を片手で覆いながら、横目でレディバードを見やった。頬杖をついたレディバードは呆れと満足を半分ずつ混ぜたような表情で、リュリュの視線に何度か頷き返す。言葉こそなかったものの、それ以上の答えと共鳴を得た気分だった。


「そう毎日クロケットばかり食べていて飽きないかい?」


 レディバードは喜びを噛み締めたような口調で言った。無論、その返事はリュリュでさえ聞かずとも分かっている。

 牡丹は両手を頬っぺたに貼り付けたまま、嬉しそうにかぶりを振った。


「そうかい」


 言って、レディバードは目を伏せた。リュリュはしみじみと大きく息を吐いた。小さなクロケットの切れ端を食べた牡丹が、幸せそうに顎を上げて微笑んだ。


 そうして感じ入る悦びに嘘はなかったがしかし、浮かべた笑顔の奥にはきずがある。

 牡丹は、言葉を交わすことが出来ない。徹底して話さないのではなく、そも話すことが出来ないのだ。詳しい理由は同じ第三地区の仲間たちでさえ、誰も知らない。唯一、兄の蜜だけは真相を知っているようだったが、誰も聞こうとはしなかった。

 それは決して興味がないからでも、知りたくないからでもない。


 様々な素性を隠す者たちが入り乱れるこの街には、〝胸襟きょうきん開かずは聞くなかれ〟という、暗黙の了解のような心得がある。それでなくとも、コンコルディアに住む者たちは皆、傷が纏う痛みの恐ろしさというものを深く知っているのだ。

 たとえばそれは、レディバードが生肉を好まない本当の理由を明かさなかったこと、そしてリュリュがその嘘を詰めなかった理由にも通ずる。

 過去を明かさず、また詮索しないという方法で、皆がお互いの立場を守っているのだ。何より、自分自身を。


 だがリュリュも何ひとつ知らないというわけではない。分かっていることも、ふたつばかりはある。

 ひとつは、牡丹が話せなくなった原因は先天性のものではないということ。そしてもうひとつが、心的外傷後ストレス障害──それが牡丹の疵に付いた名前だということ。幼い心が背負うには堪え難い病であり、息の詰まる呪いであるということ。


 従って、牡丹との会話は筆談と軽い手話で行うことが主だった。

 リュリュはレディバードにならい、声を使う際は牡丹が首を振るだけで済むよう、「はい」か「いいえ」で答えられる聞き方しかしない。


 リュリュは牡丹との会話に肝胆かんたんを砕きながら、そのやりとりを楽しんでもいた。筆談は会話が終わっても形として残る。店を閉めた後、紙に書かれた雑談の残り香に浸ることが、今では楽しみのひとつにもなっている。

 始めの内は梃子摺てこずっていた手話も、慣れてしまえば存外楽しいと思えるまでになった。


 肉声に頼らない辿々しい会話には、内緒話をしているような奥床しさがある。たまに愛らしい表情が見れた時には、どうしてだか自分まで声を押し殺して笑ってしまうこともしばしばだった。

 そんな心をむず痒くするほどの特別感が、リュリュは堪らなく好きだった。


「はい、これはサービスね」


 目の前に小さなタルト・オ・フロマージュを出され、牡丹は喜びに身をよじらせた。

 鮮やかな黄朽葉色きくちばいろに焼かれたそれは、見ているだけでも小気味よい歯触りと芳ばしさが分かるほどだ。

 食べるのを勿体なく思っているのか、牡丹は左右に何度も首を傾げながら、だいじそうに眺めている。


「だからリュリュは甘やかしすぎだよ」


「拗ねなくたって、レディの分もありますから」


 リュリュは得たりやおうと微笑んで、レディバードにもタルト・オ・フロマージュを差し出した。


「別に拗ねてなんかいないだろう」


 レディバードはぐっと眉を顰める。


「気にせずレディも甘えてくれていいんですよ」


「な、莫迦なこと言うなよ!」


 牡丹が、吐息の中でまた笑った。



 ──カラン。



 藹藹あいあいと続いたの団欒だんらんの途中、チャーチベルが客の来訪を告げた。


 開かれた扉口からゆったりと差し込む卵色の光が、年季の入った床板を撫でていく。

 リュリュは来客に視線を向けることなくキッチンへ向かった。手馴れた様子でオニオンスープの入った銅鍋を火にかけ、それから少しだけ頬を緩めた。


 昼時を過ぎてから来店する一番客は、いつも決まって同じ。しかいない。


 ランチタイムを長めに設けている理由も、日々の労働に困憊こんぱいする彼女をおもんぱかってのこと。

 強いて言うなれば、普段はもう少し遅くにやって来るのだが、きっと今日は早めに仕事が終わったのだろう。と、いつも察しの良すぎる弟は、一分の疑念さえ持たずに振り返り、慰労の微笑みを送る。


「いらっしゃい、姉さ──」


 迎えの言葉は最後まで続かず、空っぽに溶けた。


 扉口に立っていたのは最愛の姉──ソワイエ・アンブローズ──ではなく、全くもって見知らぬ男だった。


 向けた視線に自然と力が入る。リュリュは慌てて火を消し、カウンターへと踵を返した。

 遠目から見て顔には傷一つなく、褐色かっしょくの肌には張りがあるように見えた。

 恐らく、年の頃は30過ぎといったところだろう。

 しかし纏っている雰囲気からは、落ち着き払った大人のそれとは決して違う、嫌な重さが漂っている。


 極めて本能的な部分で、リュリュは男の容姿に心騒ぎを覚えていた。


 まるでどこかの神話に出てくる蛇のようだ、と。


 深緋色こきあけいろのヘアバンドで留めた髪は無造作に跳ね上がり、お世辞にも見栄えが良いとは言えない。空間をなぞり這わせる鋭い目つきも、左目尻に入った涙の粒を模したのであろう刺青も、どこか粗暴さを抱かせる。けれども民族衣装のような派手派手しい服装は、ともすれば目も綾な色気を放っており、重厚感に満ちた浅縹色あさはなだいろのインバネスや全身を飾る数多の装身具も、どこか宗教じみた悍ましさと荘厳さを感じさせた。

 背高であり強健そうな体躯にあって、杖と思しき棒千切り木を握っている点も不可解だった。


 その禍々しくも神々しくも見える矛盾を一言で表すのなら、異様と言う他にない。

それは美しい蛇が清く神格化される一方で、毒を持つ蛇こそが最も美しいという矛盾にもよく似ている。

 ある種の神々しさは禍々しさをはらむと、今まで読んできた書物の中にも覚えがあった。


 少なくとも、男からはその手の類のがする。


「い、いらっしゃいませ」


 嫌な空気を変えるべく、リュリュは勇を鼓して声をかけた。だが男は瞼を閉じたまま眉を顰めるばかりで、これといった反応を返さない。


 レディバードも横目で男を確認しながら、いぶかしげに小首を傾げている。牡丹は俯いてじっと黙ったままだ。

 もちろんこうして店を構えている以上、一見の客など何ら不思議なものではない。問題は男の片影にすら全く以て見覚えがないことだ。


 しかしコンコルディアはその性質上、見覚えのない人間には信を置きづらい。

 リュリュは一瞬の中にいくつもの思案を巡らせた。第三地区は二百程度の人口しかなく、その中で一度も顔を合わさずに暮らすことなど、互いに意識していたとしても至難の業だろう。

 第三地区で最も顔の広いレディバードの反応を見ても十中八九、男は三区民ではない。


 加えてリュリュは、男が四区民でないことにも確信を得ていた。

 アナグマキッチンは区内でも第四地区寄りの地帯に店を構えており、最近では徐々に四区民の往来も増え始めている。

 たとえばソワイエや蜜などがそうだ。


 そも第四地区は特異な力を持った〝異能者〟の集まりで形成された異数区画であるため、人口の少なさは第三地区の比ではない。何より、異能者と言えど容姿は普通のそれである者が殆どであり、こんなにも突飛な身なりの者など、見た覚えも聞いた覚えもない。


「チッ、チッ、チッ──」


 考究の渦にぐるりと落ちていたリュリュを、男の舌打ちが引き戻した。時計仕掛けでもあるまいに、よくも人前でそんなことが出来るものだと、リュリュはさらに眉を曇らせる。


 件の男は仁王立ちのまま、まるで何かを値踏みするかのように、一定のリズムで舌打ちを繰り返し続けた。リュリュが感じた胸騒ぎも、レディバードが視線に宿した敵意も、牡丹の怖気を震う不安をも意に介さず、何度も、何度も。


 そうしてようやくそれが止んだ頃、男は満足気に口唇を引き歪めた。


「……そうか、存外変わらぬものだな」


 男は何かを噛み締めながら呟く。リュリュたち三人が静まり返る中、辺りを払う威容さで男の足が動いた。


 ──来る。


 直感が流星のように肌を走り、リュリュは身震いした。革のブーツに踏まれた床板は、薄気味の悪い音を立ててきしむ。

 男の足元を埋める黒い影がぞろぞろと蠢くようにして、揺れた。


 ──男が、来る。


 鼓動はさらに高まり、心臓が不意に痛みを覚える。

 一つ、一つと歩む毎に艶めかしくひるがえるインバネスは、その耽美たんびにすぎる不気味さで傍観する三人に畏怖いふの念を抱かせた。


 然許さばかりリュリュは固唾かたずを呑んで額を濡らし、レディバードは疎ましげに片眉を吊り上げ、牡丹は当惑する自分自身に溺れかけているようだった。


 店の外では、閻魔蟋蟀が脅し鳴きを続けている。


 嫌な、予感がした。

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