【第一章】遊侠、招かれざる詩人

【一節】宿世 ─sukuse─


 極めて誠実である者はしかし、騙しの玄人である。


 夜が更け、雨はいっそう強くなった。大粒のそれを抱いた風が、鋭い音を立てて窓硝子を揺さぶっている。

 部屋には寝心地の悪いベッドと小さな本棚があるくらいで、他には何もない。家は疲れきった体を休めるだけの場所。それで十分だった。


 ──どうして、だったんだ。


 読んでいた本のページを戻し、ため息を挟んで閉じた。棚の本を含め、もう何度も読み潰して紙が柔らかくなったものばかりだった。

 読みやすさが増す度に、面白さは欠けていっているような気がする。それでなくとも、最近は集中に陰りがある気がしてならない。

 それが気候のせいなのか、それとも環境のせいなのかは分からないままだ。


 窓の外を見れば、朽ち果てたビルが並んでいる。

 月明かりで僅かに照らされた壁はモルタルが溶けだし、すすけたように黒ずんだ染みは強まる雨の中にあって落ちることがない。

 そんな廃墟群の、辛うじて住めそうな階にだけ、ぽつぽつと明かりが灯っている。この部屋もそうだ。


 この街の住人たちは皆、残骸の中に住んでいる。


 これから北部の侵食谷には雨水が溜まり、降りてくる霜に併せて静静と凍り始めていく。そうして空気がキリキリと締まり、雨粒が初雪に変わる日、街は冬を迎えるとう。

 リュリュ・アンブローズにとっては、初めて知るコンコルディアの冬だ。


 冬至前の肌に迫る寒さは、一段と厳しい。


【リュリュ・アンブローズ】


 昨晩からの車軸を流すような氷雨は、昼時を過ぎてようやく降り止んだ。

 流れ者であるリュリュが先代からの肝煎りで屋号を引き継ぎ、はや八ヶ月余り。今年の山茶花梅雨さざんかつゆの入りは、例年よりも幾らか早かった。


 異邦の女神の名を冠する都市──コンコルディアでは、応鐘おうしょうのただ中にやって来るその年二度目の雨季を指して〝忌泣ききゅうの雨〟と呼ぶ。その字が示す通り、この時期の凍てつく雨には凶兆が付きまとう。曰く、ひと度降れば人命を絶つ雨なのだと。

 古くは〝死の降る雨〟とも呼ばれ、都市の老輩たちの中には未だにその名で呼ぶ者も少なくない。

 そうして擦れば擦るほど、言葉には強いが宿り、語弊を担げば時に真実さえ霞む。口承とは正にその結実だ。


 たったひとりで切り盛りするアナグマキッチンにとって、これほど商売の無聊ぶりょうかこつ言霊は他にないのだろう。

 リュリュは厨房の倒し窓についた水垢を丁寧に拭き取りながら曇天どんてんを見上げ、眉をひそめた。


「頼むから、もう降らないでくれよ」


 諦めるように言って、言葉と気持ちの矛盾にため息をつく。反動でたらふく湿気を吸い込んでいた床板の、ゲオスミン特有の土臭さが鼻腔に広がった。

 店の外では閻魔蟋蟀エンマコオロギたちのかまびすしい脅し鳴きが、雨上がりの冷ややかな風をなぞっている。


 昔から、雨にはあまりいい思い出がない。人に言えない過ちを犯した日には、必ずと言っていいほど雨が降っていたからだろう。それが今では、〝雨が降れば過ちが起きてしまうのではないか〟と、逆説的な恐れを抱くまでになってしまった。

 反復とは、まるで呪いのようだ。


「ごちそうさま。今日も美味しかったよ」


 背中を声で撫でられ、リュリュは振り返った。

 カウンターに座るレディバードが、紙ナプキンで口元を拭っているところだった。その隣では着物姿のモダンな童女──牡丹がクロッシェハットを被り、お行儀良くホットココアを飲んでいる。

 リュリュは綺麗に畳んだ布巾を窓の膳板に置き、ふっくらと笑顔を作った。


「そう言ってもらえると、僕も作りがいがあります」


 茄子のペンネアラビアータが盛られていた皿は、その名残りを全く感じさせないほど綺麗になっていた。

 きっとこういうことを〝冥利に尽きる〟と言うんだろうな、とリュリュは思う。

 湧き上がる喜びが胸を満たし、作った笑顔がほんの少しだけ綻んだ。


「そういえば、今日のアラビアータには秋葵おくらが入っていなかったね」


 そらんじるように明後日の方を見ながら、レディバードが言った。


「今日は北部で採れた野菜が沢山入って来たので、秋葵の代わりに隠元豆いんげんを使ってみたんです」


「北部? 秋葵は北部じゃあ採れないもんなの?」


「ええ、秋葵は南部が産地の野菜ですから。ここ最近は雨季のせいで日照不足が続いているでしょう? そのせいで気温が下がって、南部では中々良い物が採れないんだそうです」


「そうかい。なら先に教えといてくれよな」


「もしかしてレディ、秋葵が食べたかったんですか?」


 リュリュの楽しげな口振りに、レディバードは思わずムッ、と口を尖らせる。


「別にそうは言ってないだろう。ただいつもあるものがなかったから、それで気になったってだけさ」


「それはすいませんでした」と言いながら、リュリュはどこか心得顔で微笑んだ。


 レディバードはトレードマークのキャスケットを目深に被り直し、バツが悪そうに口唇を引き結んだ。

 少し冷めた口調も、鎖骨まで伸びた蒼髪も、中性的な顔立ちにはよく似合っていた。しかし気持ちを隠しきれない表情には、まだ十代半ば、年相応の神色が見て取れる。

 そんなレディバードの横顔をぐいっ、とわざとらしく覗き込む牡丹が、煽り立てるようににんまりと微笑んだ。続くリュリュの笑い声に、レディバードはゴホン、と強い咳払いで抵抗する。

 晩秋にしてはいくらか温かい空気が拡がり、かんを尽くす笑い声はしばらく止まなかった。



「それにしたって、ここまで誰も来ないものですかね」


 リュリュはカウンターに頬杖をつきながら、門前雀羅もんぜんじゃくらを張る空席を惜しがった。


「そりゃあ忌泣の雨の真っ只中だからね」


 さも当然のように言って、レディバードはグラスに入った薄荷水はっかすいを一気に飲み干す。そのあまりの勢いに口の端から水が垂れる、と手拭きを取ったリュリュの危惧は、すぐに取り越し苦労へと変わった。


「何。どうしたのさ」


「ああ、いえ、なんでもありません」


「そう。ま、別にいいけどさ」


 まるで塩の抜けた海水のような口調だと、リュリュは思った。しかしこの鮸膠にべもないような分かりづらいところにこそ、レディバードの良さが隠れている気もする。

 たとえるのなら、香菜のようなものだろうか。

 癖があるからこそ美味しいと感じられる食材は、得てして栄養価の高いものが多い。好き嫌いもはっきり分かれる。


 思えば、コンコルディアはそんな人物ばかりだ。それも癖が強すぎて困ることの方が蓋然的がいぜんてきに多い。

「嫌だなあ、もう」ははは、とこぼれた独り言に苦笑し、リュリュは気づかれないように手拭きを隠した。

 レディバードは「はあ?」と訝しげに片眉を吊り上げている。その隣からは牡丹の聡い視線が刺さっている気配がしたが、リュリュは気づかないふりをして顔を逸らした。

 気まずさというよりは、いつもの空気感でそうした、と言った方が近いかもしれない。


 自分の気持ちが良くない方へと傾倒し始めている自覚はある。それも一昼夜べったりと肌に纏わり憑く嫌な予感に、心が落ち着かないからだった。

 ここ数日、三卓あるバニッシュの染みたテーブルには誰も座っていない。来客は全て、たった四脚のカウンターテーブルだけで事足りてしまう。この様子だと売り上げは先月の半分にも満たない。

 今は友人たちのおかげで何とか余喘よぜんを保ててはいるが、このままでは確実に経営破綻だ。そうなれば先代にも申し訳が立たなくなる。


 初めて迎える忌泣の雨の、胸のうちに風雲急を告げてはぞろぞろとうごめく不安と焦りに、リュリュはすっかりと怖気付いていた。


「確か、レディはこの街の生まれでしたよね。その、やっぱり、忌泣の雨って信じているものなんですか?」


莫迦ばか言うなよ。そんなもの信じていたらここへ来るもんか」


 レディバードはため息を吹くようにして続ける。


「でも僕や牡丹が信じていなくたって、他のみんなが信じるているんだ。無聊を託つのはアナグマキッチンだけじゃない。蟲屋だって、今月はずっと閑古鳥が鳴いているよ」


 呆れ顔の隣で、牡丹が深く頷く。反応から察するに、牡丹が身を寄せている雑貨店──Soleilソレイユも同様の状態であるのだろう。


 レディバードが店主を務める蟲屋むしやはその屋号通り、虫の販売を生業としている風変わりな小商いだ。

 扱う虫は観賞用から食用まで多岐に渡る。少し考えただけでも身体のあちこちが痒くなってくるが、店の看板たる〝煎蟲薬せんちゅうやく〟には凄まじい効能がある。

 頭痛、腹痛、貧血に二日酔い。とかく嘘のように何にでも効く。塗れば傷薬になり、水に少量を溶いて飲めば疲労回復にも効く。


 ただし、何の虫を煎じているのかが全く分からない点で言えば恐ろしさしかない。むしろこれを飲まない為に病気になりたくないほどだ。

 けれども薬剤としての信頼度の高さは、医師が処方箋に発注するほど確かでもあった。


「リュリュは初めてだろうから不安に思うかもしれないけど、コンコルディアじゃあ毎年こんなもんさ。ひと月といくらかすれば梅雨も明けるし、その頃には客足も元通りになる。それまでの辛抱だよ」


 穏やかな笑みを浮かべるレディバードが、無性に大人っぽく見えた。歳は自分の方が上なのにな、と思いながらも、リュリュはそれを恥じ入りはしなかった。


「レディがそう言ってくれるなら、僕も頑張らないとですね」


「逆だよ。リュリュの場合は輿望よぼうを担おうとしすぎだ。こういう時くらい肩の力を抜きなよ。牡丹だってそう思うだろう?」


 訊かれて、牡丹はまぶたを閉じ大きく頷く。それを確認したレディバードはほらね、と続ける。


「ここ最近は身内しか来てないんだから手の抜きようだってあるだろうに、君は莫迦みたくずっと店中を掃除しているじゃないか。テーブル席なんて、もう十日は誰も座っていないのにだよ」


「それはほら、急な来客があるかも、しれないですし……」


 途切れ途切れな自分に気まずくなったリュリュは、手で顔を覆い隠すようにして眼鏡を上げた。


「はあ、どうにも真面目すぎるんだよなあ」


 指先でこめかみを掻きながらレディバードは苦い顔をした。牡丹もきゅっと難しそうに八の字を寄せ、繰り返し頷く。

 馴染みの深い友人二人を以てしても、リュリュという稀有けうな存在は〝常識〟から大きく外れていた。


 どの世界にも、その世界の常識があるからだ。


 たとえばコンコルディアは、それぞれが独立した四つの区画に分けられている。その中でアナグマキッチンのある第三地区は、麻薬シンジケートに起源を有する組織〝眠る心臓〟が覇権を握る商業区である。


 街並みは旧歓楽区画の名残りを僅かに残すものの、治安が良いとは決して言えない。

 悪擦れが跋扈ばっこする土地では法と呼べる規範など無きに等しく、多くの場合において、量刑は暴力によって差配される。


 リュリュのような勤勉さが良識を語れるのは、あくまでも秩序ある世界での話だ。けれどもこの地ではどんなに屈強な者でも、瑣末さまつな争いひとつで明日の暮らしを失いかねない。

 絶対的な強者が根を張ることなく、その日暮らしが頸木くびきを争い続ける世界。荒廃都市コンコルディアにおける通念上の平素は、同時に決して揺らぐことのない〝常識〟でもあった。


「いつも真摯であり続けるっていうのは、リュリュの良いところだって思う。みんなそれが出来なくてこの街に住んでいるような連中なのに、君だけは瞬きするくらい簡単にやってのける。すごいことさ。でもだからこそ、たまに不安にもなるんだよ」


「何を言っているんですか。レディが僕を信じてくれているのなら、不安に思うことなんてひとつもありません。僕はずっと、僕のままですよ」


 リュリュは、少しだけ寂しそうに言った。


「だとしても、さ。風邪をひく人間はみんな、風邪なんかひかないと思っているもんだよ。でも信じているからこそ、僕は君よりも君のそれに早く気づける人間でありたいんだよ。君にすればただの掃除も、僕から見れば然れど掃除なんだ」


 思ってもいなかった言葉に、リュリュは思わず泣きそうになった。鼻根にツンとした痛みが走り、目頭はみるみる熱を帯びていく。

 レディバードは間を埋めるようにして、水差しポンプから薄荷水をグラスに汲んでいる。


 リュリュは結局、何も言葉を返せなかった。嬉しいからなのか、苦しいからなのか、自分でもよく分からなかった。

 ずっと掃除を続けていたのは、犬馬の労をとっていれば何からも責められない気がして、楽に思えたからだ。


 何かを行う上で〝傷つかずに済む〟のは一番に大事なことで、誰かに褒められることよりも、誰にも怒られないことの方が遥かに重要だった。かるが故に、レディバードからの指摘には青天の霹靂へきれきが如くと胸を衝かれた。

 頑張っているように見えるのは、傷つきたくない──それによって安心したい──という鎧を着続けた果ての、ただの副産物にすぎないというのに。


 アナグマキッチンとは言わば、そんなリュリュの人柄と、周囲からの誤解で成り立っている店だった。

 もちろん調理師としての腕前の高さは、衆目の一致するところではある。けれどもそれ以上に〝相手に敵意を抱かせない〟という言動と容姿こそ、この荒んだ都では人を惹く大きな要因となった。


 柔らかく癖のついた菫色の髪に、筋の通った小さい鼻。瑠璃色に澄んだ瞳も、縁の太い眼鏡も、相手に穏やかさを感じさせるには十分過ぎた。

 体躯は同年代──二十歳前の青年と比べ些か華奢ではあったが、それすらも冬眠から覚めたばかりのリスのようだと、柔和な印象の裏付けにされた。


 だが多くの人間がそうであるように、リュリュも表向きの印象だけで全てを語れる人間ではない。

 レディバードや牡丹が認めるように、リュリュは真面目だ。たおれて後已のちやむ勤勉さはまさに誠実だ。あだおろそかにしない性格にもいくらかの自覚はある。

 それでも、純潔だとは言い難い。

 本を読む際には必ず挟んだ栞の二頁前から読み直すといった、どちらかと言えば苦労性という言葉の方がよく似合う。


 そして問題のはその、もうひとつ向こうにある。


 って来たるところ、リュリュは皿洗いが好きだ。「綺麗に食べ終えられた皿は、自分の料理が美味しかったという賞状だから」というのが、表向きの理由だった。もちろん、それも嘘ではない。けれどもそれとは別にもうひとつ、胸の裡に秘めた異常性しんじつがある。


 至極当然の話として、洗えば皿の汚れは消える。そして皿は元の白さを取り戻す。だから、アナグマキッチンには白以外の皿が一枚もない。黒い皿をどれだけ洗ったところで、白くはならないからだ。


 飯物料理がすべからく白米から生まれるように、リュリュは白という色それ自体に〝それが当たり前であること〟を求めていた。

 掃除においても根幹となるものは同じで、リュリュはとがを受けない行動に〝それが普通であること〟を求めていた。それはほとんど病的だった。


 そうして辺幅へんぷくを飾りながら普通を得ていく度に、リュリュは美しいほど歪で、ともすれば救われたかのような安心感を抱いていた。


 心のどこかで、諦めた自分の願望を重ねながら。

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