第五話
──汝、いついかなる時も正義と善の味方となり、不正と悪に立ち向かうべし。
『騎士の十戒』
Book Cover for Leon Gautier's
"La Chevalerie"
王と王妃が去ってすぐ、実家から手紙が届いた。まるで見計らったような到着に、アネットは緊張しながら手紙を開けた。
──義姉がくる。
手紙には『父と母は残念ながら行けないがグレイスは喜んで行く』とあった。アネットはぎゅっと唇を噛みしめた。サー・ガウェインは返事を心待ちにしているだろう。
──言わなければ。
自分の気持ちを正直に伝えるために。
──サー・ガウェインに本当の気持ちで答えてもらうために。
覚悟を決め、ガウェインに「義姉がこの館へ参ります」と告げたのだった。
第五話
窓辺からみえる森は冬が近づいて少し灰色がかってみえた。アネットがきて早一ヶ月が経っていた。彼女がこんなに長く滞在すると誰が予想しただろう。
予想外の物語にもいよいよ終わりが近づいていた。晩秋の昼下がり、いつものように「頼み事はありませんか」と部屋を訪れた騎士に、アネットは手紙の内容を伝えた。
「では姉君は3日後に到着されるのですね」
「はい。サーのご好意に甘えて」
「ゆっくり滞在されると良い。レディ・アネットは──……」
ガウェインが言葉を呑み込んだ理由に、アネットは薄々勘づいていた。…サー・ガウェインは本来の目的のために義姉を呼んだのだ。きっとそのとき、私にいて欲しくないのだろう。
以前のアネットなら『やっぱり…』と思って終わっていた。だが冷静に受け止める心のゆとりが生まれていた。ギネヴィア王妃と話して、ガウェインには“王のために役立つ”という信念があり、そのために自分の感情を後回しにする人だと知ったのだ。
だからアネットは──自分を帰らせて義姉を迎え入れようとしている男に、勇気を出して立ち向かうことを選んだ。
不安がないと言えば嘘になる。でも信じてみたいと思った。ガウェインの尽くしてくれた優しさが本物であることを。利益や気まぐれではなく、真の心であることを。
もしそうならばアネットは宝石より尊いものを手に入れる。
「姉と入れ違いで私は帰ります」
アネットはぎこちなく笑顔を作ると言った。ガウェインが驚いた顔をする。何もなく実家に帰るということは、ガウェインの求婚が白紙になるという意味を持っていた。それをアネットから言い出したのだ。驚くのは当然だった。
「それは……レディ」
「ええ。サー・ガウェインの思われている通りです」
「理由を聞かせてくれますか?」
「はい。でも、私には分不相応だと思っただけです。短い間でしたが、こちらで過ごした日々はとても幸せでした」
アネットは笑顔を崩さなかった。ただ真っすぐな瞳が少女の固い決意を告げていた。どう返事していいかためらうガウェインを置き去りにして、彼女は言葉を続けた。
「帰る前に最後のお願いをしても良いでしょうか?」
「………」
ガウェインは少し口を開いて、アネットの決意をまだ受けいれかねる顔をした。だが女性に願いを乞われて、断るような男性ではなかった。
「……何なりと言ってください」
「有難うございます」
アネットはじっとガウェインを見つめた。何を言うのだろうと彼がこちらを見返す。深呼吸し、穏やかな表情になってから彼女は言った。
「帰る前日の夜……いっしょに過ごしてくださいませんか。ただ話すだけ、ゆっくり夜をいっしょに過ごしてみたいんです」
決意を固めた少女を前に、ガウェインは戸惑いを隠せなかった。
──彼女がこんなことを言い出すとは。
まったく予想できていなかった。いずれ王のために、アネットを帰さなければならない覚悟をしていたのに。どうやって言おうか二の足を踏んでいる間に、彼女から言い出したのだ。
( なぜ言い出したのだろう? )
嫌われるような事をしてしまっただろうか。だがアネットは、自分に嫌がらせをした召使いを許す優しい性格だ。では、本当に『分不相応だ』と思って言い出したのだろうか。…たぶんそれも違う。アネットは来た時より自分に自信を持つようになったし、分不相応という理由なら初めから断っていただろう。
──おそらくギネヴィア王妃に何か言われたのだ。
ガウェインは思い当たったが、王妃は企みを知らない。でもアネットは、姉にそっくりな王妃を見て思うところがあったのだろう。
「………」
そう考えるとガウェインは恥ずかしくなった。企みに気付かれているなら、アネットに気を遣わせたことになる。自分で『帰る』と言わせたのだから。
「分かりました」
こんなふうに決意を固めた願いをガウェインは断れなかった。なぜ言い出したのか、真相をアネットに聞きたかった。だが聞いてしまえば、こちらの嘘や企みを明らかにしなければならない。
──彼女はこんなにも勇気を出してくれたのに。
悩んだ末に言ったのだろう。なのに自分は黙ったまま。情けない気持ちで顔が赤くなった。幸いアネットには気付かれていない。
「他に差し上げるものはありますか?」
「いいえ、十分です。明後日のことを考えたいので、しばらく一人にしていただいて良いでしょうか」
「ええ。分かりました」
ガウェインは一礼して部屋を退出する。扉を閉めたが、彼女の部屋から去りがたかった。
扉の向こうでアネットはどんな表情をしているだろう。ほっとしている? 否、泣いているだろうか。
この数週間、ガウェインは彼女を実家に帰すことについて悩んでいた。どう言うか、どうすれば傷付けずに済むか。……それがあっさりと解決されてしまった。悩みから解放されたのに、ぽっかりと胸に穴が開いていた。
──これは喪失感だ。
ガウェインは冷静に自分の心をみつめた。彼女から言い出されて、大きな喪失感があった。なぜ決断できなかったか理解した。
もう認めざるを得ない。アネットの存在は、無視できないほど自分の中で大きくなっていた。
「………」
心の霧がうすれた気がした。だが、アネットを帰さなければならないという事実は変わらない。
サー・トリスタンに言われたように優先順位を間違えてはならない。たとえ彼女を傷付けたとしても、王への忠誠を優先しなければ。
──果たして、今のじぶんの行いは騎士として正しいだろうか。
ガウェインは石を投げつけられたような気持ちになった。王への忠誠。誠実さ。大切にしてきたもの全てが問われている。
──今の私にはためらいがある。
このまま彼女に真実を告げないまま返していいのだろうか。不誠実な行為ではないか。だが、明かしてしまえばアーサー王の名誉を傷付ける。忠誠よりも自分の罪悪感を優先してしまう。
ガウェインは胸が苦しかった。──円卓の騎士がなんというザマだ。きっとこんな心の弱さを見抜かれて、アーサー王に言われたのだ。
『ガウェインは自分の望むようにすればいい。アネット嬢を本物の婚約者にして、送り帰さなくて良いんだよ』
王のために役立ちたいのに。アネットを守る立場で居たいのに。
──二人に気を遣わせてしまった。
考えれば考えるほど、ガウェインはやるせなかった。
■□■□■□
やがて夜が太陽を飲みこみ、月が朝に追われた。そんなことが二度あって、義姉が来る前夜になった。
アネットは緊張した面持ちでガウェインを部屋に招き入れた。部屋の中でぱちぱちと暖炉の火が燃え、ろうそくが彼女を照らしている。ガウェインに暖炉の前の席を勧め、歓迎の盃を捧げた。
「サー・ガウェイン。私の願いに応えてくださって有難うございます」
アネットはガウェインの館に来たときと同じ、母のドレスを着ていた。
「レディ・アネット。そのドレスは……」
「はい。亡くなった母のものです」
ほつれた袖口は直され、汚れは丁寧に落としてあった。「古くて見栄えもよくありませんが、私にとって一番価値のあるものです。
…サー・ガウェイン。私の昔話を聞いてくださいますか?」
「ええ」
「少し長くなります」
そう言うと、アネットは椅子にすわって自分語りをはじめた。
実母が自分を産んで体を壊し、亡くなってしまったこと。父に罪悪感を持っていること。それでも父に愛されたくて『役に立たなければ』と思ううちに、疑り深く自信のない性格になってしまった事を。
「……でも、私は『好きな人から大切にされること』を夢見ていました。だからサー・ガウェインの求婚状が届いたとき、無理を言ってこの館に来たのです。もちろん初めから『好きになってもらえない』と分かっていました。
ところが、サー・ガウェインは私を大切に扱ってくださいました。レディと呼んでくれてたくさん願いを叶えてもらいました。貴方に出会って、私は“大切にされる”と、どんな気持ちになるかを知ったのです。じぶんで自分を卑下すると、どんなに悲しいかも……」
そこまで言うと、アネットは言葉をいったん切った。
──サー・ガウェインに感謝を伝えたい。
ずっと悩んだ末の気持ちだった。まずは彼に感謝を伝えたい。そして内容は知らないが、企みのせいで罪悪感を抱いているガウェインに、自分を招いたことを後悔して欲しくなかった。
「私は教えて頂いた“この気持ち”を忘れたくありません。
だからもう二度と、自分を粗末に扱いません。他の人からされなかったとしても、必ず自分だけは『自分を大切に』します……貴方がそうしてくださったように。」
そうして立ち上がり、深々とお辞儀をした。
アネットにとってガウェインは父と同じぐらい大事な存在──尊敬し、愛し、愛されたい人──になっていた。彼がしてくれたこと、彼への想いが自分を変えたのだ。その感謝を伝えたかった。
ガウェインにはアネットが一気に大人びて見えた。自らも立ち上がり、彼女の手をとって瞳を見つめた。
「私のしたことなど」
ガウェインは心に浮かんだ素直な言葉を口にした。「……貴女はとても美しくなった。まるで殻をやぶって、あなた本来の美しさが出てきたようです。騎士なら私でなくとも貴女を“レディ”として扱うでしょう。
もう殻はまとわないでください。貴女はとても美しく心の綺麗な人だから」
「サー・ガウェイン…」
アネットはあおぞらのような彼の瞳を見返した。ガウェインに褒められ、さらに勇気が湧いた。ろうそくの火がアネットの瞳に映り、丸みを帯びた目元が魅力的にかがやく。きらりと光るのは彼女の強い決意だった。
「もし本当に、私をレディとして扱ってくださるなら……お願いがあります。
わたしの騎士様──どうか自分自身を偽らず、嘘のない言葉で、“真実”を語っていただけませんか」
アネットの真っすぐな言葉が、ガウェインの心に迫った。
どうして自分は真実を隠したままなのだろう。こんなにも勇気を振り絞って、か弱い少女が立ち向かったのだ。私は騎士であるにも関わらず、この少女を見つめ返すことしかできない。
騎士としての誇りがガウェインを熱くたぎらせた。かれの脳裏に誓いの言葉がよみがえった。騎士に任じられたとき、アーサー王へ捧げた誓いを。
『──汝、敵を前にして退くことなかれ。
──汝、すべからく弱き者を尊び、かの者たちの守護者たるべし。
──汝、神の律法に反しない限りにおいて、臣従の義務を厳格に果たすべし。
──汝、嘘偽りを述べるなかれ、汝の誓言に忠実たるべし。
──汝、いついかなる時も正義と善の味方となりて、不正と悪に立ち向かうべし』
そうだ。彼女をレディとして扱うなら、自らも“騎士”として堂々たる振る舞いをしなければならない。己の戦いから逃げず、弱き者を守り、忠義を大切にし、嘘をつかないこと。不正と悪に立ち向かうこと。
だが、ガウェインは失敗を恐れて騎士の誓いをおろそかにした。すべては臆病な心が招いたもの。しかしアネットの勇気ある言動がガウェインを奮い立たせたのだ。
ゆっくりと深呼吸した。
自らを偽らず、信念を貫く方法をガウェインは知っている。それは、困難だと思っても立ち向かうことだ……アネットのように、自分の弱さと向き合って諦めないことだ。
「──マイ・レディ。お許しください」
ガウェインは膝を付き、頭を垂れて赦しを乞うた。もう逃げたり隠したりしない。自分の弱さやとまどいも。立派なレディになったアネットの言葉で、ガウェインは騎士としての尊厳を取り戻した。
「いつから気付いていたのですか?」
「きっかけは、貴方とサー・トリスタンの言葉を聞いてしまったからです。でも、クニス家に求婚状が届いたときから変だと思っていました。私を迎えたときの貴方の態度も。……確信したのは、義姉にそっくりな王妃様に会った時でした」
「すっかり気付かれていましたね」
それを情けないと思わず、彼女の成長を喜ぶガウェインがいた。
「はい。でも、何故かは知りません。どうしてこんなことをしたのですか?」
「それは……」
ガウェインは言い淀んだ。──この場で言ってしまうべきだ。だが真実を話せば、アーサー王の名誉を傷つけてしまう。
アネットに信じてもらいたかった。でも自分の誓いも守りたかった。迷ったあげく、厳しい表情で首を横に振った。
「大変申し訳ありませんが、お話しできません。これはアーサー王の名誉に関わることなのです」
と、言いつつ、ガウェインはおそるおそる彼女を見上げた。
「………」
アネットは黙っている。しかしガウェインと目が合うと、優しくほほ笑んだ。
「分かりました」
ほほ笑んだアネットには分かっていた。ガウェインが王への忠誠を何より大事にしていることを。そのために、自分の感情を後回しにする人であることも……。
彼の生い立ち、騎士としての誓い。今の彼を形作るすべてだ。アネットはガウェインのすべてを受け入れたかった。だからこそ、彼の“意志”を大切にした。
「でも、いつか私にも話してくださいね」
──優しく付け足した一言。
その言葉はガウェインの意志を尊重しつつ、自らの思いも込めていた。
「ええ、かならずお話ししましょう」
ガウェインはアネットの手を寄せて、誓いの口付けをした。そのまま彼女の手を握る。アネットの勇気ある言動は彼の心を揺さぶった。同時に、ふたをしていた感情にも揺さぶりをかけた。
アネットが真っすぐ迫ってくれたことで、自分の想いを素直に理解したのだ。
「サー・ガウェイン……」
アネットは最後の勇気を振りしぼり、本当に欲しかったものを手に入れようと騎士に問いかけた。
「もしも、です。もし私が、王妃様にそっくりな令嬢の妹でなかったなら。貴方に企みがなかったなら。
それでも私を、レディに選んで下さいましたか?」
ガウェインはまたもアネットの勇気に驚かされた。今夜は彼女に揺さぶられてばかりだ。でも今度こそ、自分も意思をきちんと伝えようと思った。
「レディ・アネット」
低く澄んだ声でやさしく彼女の名前を呼んだ。
「私が貴女をレディに選んだのは……令嬢の“妹”だったからではありません。自分に意地悪した召使いに許しを与えようとした優しいあなたを、それでいて自分をまったく大切に思っていない貴女を、騎士として守りたくて誓ったのです。」
アネットは満足げに目を細めた。──彼が捧げてくれた心は本物だった。それが分かったことで、彼女はずっと欲しかったものを得たのだ。
ガウェインは久しぶりに懐かしい呼び方をした。
「アネット嬢」
たった一ヶ月なのにもう懐かしくて耳がくすぐったい。アネットは、何でしょう、と笑って首をかしげた。
騎士が言った。「改めて、私に貴女への奉仕を許してくださいますか?」
「もちろんです」
ガウェインはひざまずいて胸に手を当てた。
あのときは寒空の下、周りに見られて緊張しながら彼を受け入れた。だが今は違う。夜の静寂に包まれて互いだけが証人だ。
「──マイ・レディ。どうか私の嘘を許してください。その上でもう一度、私を貴女の騎士に任じてください」
「サー・ガウェイン。私は貴方の奉仕を受け入れます」
「私の誓いを受けてくださった慈悲深い心に感謝いたします。この時より、私は貴女の盾となり、剣となりましょう」
ガウェインは決心した。──真実を告げないまま、それでも彼女は私を信じてくれるというのなら。
私もじぶんの思いに素直になろう。つまらない言い訳でごまかした心を。
自分の歳を忘れて、私は彼女に恋をしている。私が愛することで彼女に災いが降りかかるなら、すべての災いの盾となろう。障害をこの剣でなぎ払おう。
立ち上がったガウェインはアネットの頬に手をのばし、自分のけがれを唇にうつすことの許しを求めた。アネットは赤面しながらも頷く。
ふたりは笑いあい、喜びにうちふるえながら、何度も口づけを交わした。
あくる朝。クニス家の旗をかかげ、義姉一行がガウェインの館に到着した。アネットのときよりずっと立派な一行だった。
義姉のすがたを少し懐かしく感じながら、アネットは心の中で、昨夜ガウェインが言った事を思い出していた。
『どうか信じてください、レディ・アネット。すべてが終わったら必ず貴女に話します。
その代わり、どんな噂が聞こえてきたとしても私を信じて欲しいのです。私はしばらく姉君と過ごすでしょう。それでも私のレディは貴女であることを誓わせて欲しいのです』
義姉グレイスの美しさは輝いていた。きっと必死に磨きをかけたのだろう。ドレスも髪も化粧も整っていた。その義姉をサー・ガウェインが美しい笑顔で迎えいれる。
それを横目で見ながら、すれ違うように、アネットは実家へ戻る一行に加わった。
──不安がないわけではなかった。でも、信じてみようと思った。
信じるものがない人生はとても寂しいと、アネットは思うようになっていたから。
<終話へ>
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