第49話 ウンディーネ

女の名は瑠璃といった。

この女はいわゆる「トー横界隈」と云われる、ヘドロの掃き溜めのような場所の出身ではなかった。

アポロンとは対照的に、この女の出自は恵まれたものだった。

瑠奈の父は大学で教鞭を取り、日本文学を教えていた。

特に、森鴎外や樋口一葉といった明治時代の文学を専門に研究をしており、他人との会話の際には、事あるごとに古典文学の一節を抜き出して引用し、周囲を呆れさせる衒学的な趣向があった。

この父は、また独特の気性を持った極めて風変りな男で、ある時には天使のように優しく、またある時には、吹雪のように厳しかった。

こうした二面性は、彼の家庭に災害をもたらした。

専業主婦の母は、生まれつき片足に障害を持っており、よたよたと不安定に歩いた。

父親はこの母を、「不出来な操り人形のよう」だと侮蔑混じりにからかった。

そうかと思えば、彼女の歩行に手を貸し、甲斐甲斐しく労わることもあった。

母は、この父を何かある種の天才だと信じ込んでいた。

実際、客観的に見て彼が天才だと判断できる根拠がなかったわけではない。

この父自身も、自分を天才だと思っていたし、また、そう見せてもいた。

彼の神経質な面は、彼を必要以上に知的に見せていた。

この演出は勿体ぶった、演劇的で滑稽なものだったが、母はこの父に心酔していた。

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