第30話 残像
柿谷は、目を逸らして微笑した。
「いや~、人に見せるほどのものではないですよ」
青年は、急に柿谷が遠ざかったように感じた。
たった今、彼がこれまでの来歴を語ったときには、彼の存在が身近に感じられ、心が通ったような気がしたのに、青年の問いに対するこの答えによって、その距離はいきなり開いてしまったのだ。
距離の開きに焦りを覚えた青年は、柿谷を捕まえるかのように追撃した。
「しかし、ぜひ拝見したいんですがね。僕は芸術が好きで、絵を描く人に多大な尊敬を抱いているのです。柿谷さんの絵を見せていただければ、例えば僕と芸術的な連帯を結ぶことも可能だと思うんです」
「水無月さんは作曲をするんですよね。聴いてみたいな」
青年は、職業訓練校の自己紹介の場で、作曲が趣味だと言っていた。
柿谷は律儀にも、生徒全員の自己紹介をメモしていたのだ。
「返報性の原理」という言葉が青年の脳裏に思い浮かんだ。
この読書好きの青年は、心理学の本を読みかじって得た知識を実践することがあった。
心理学の本を読むのは、青年の対人コミュニケーションにおける苦手意識から来るものだった。
自分の創作物を見せることで、青年は柿谷の創作物が見られるのではないかと期待したのだ。
「今度持ってきますよ」
おお、と柿谷は驚いたように声を上げた。
しかし、それに続く言葉はなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます