第30話 残像

柿谷は、目を逸らして微笑した。

「いや~、人に見せるほどのものではないですよ」


青年は、急に柿谷が遠ざかったように感じた。

たった今、彼がこれまでの来歴を語ったときには、彼の存在が身近に感じられ、心が通ったような気がしたのに、青年の問いに対するこの答えによって、その距離はいきなり開いてしまったのだ。

距離の開きに焦りを覚えた青年は、柿谷を捕まえるかのように追撃した。

「しかし、ぜひ拝見したいんですがね。僕は芸術が好きで、絵を描く人に多大な尊敬を抱いているのです。柿谷さんの絵を見せていただければ、例えば僕と芸術的な連帯を結ぶことも可能だと思うんです」

「水無月さんは作曲をするんですよね。聴いてみたいな」


青年は、職業訓練校の自己紹介の場で、作曲が趣味だと言っていた。

柿谷は律儀にも、生徒全員の自己紹介をメモしていたのだ。


「返報性の原理」という言葉が青年の脳裏に思い浮かんだ。

この読書好きの青年は、心理学の本を読みかじって得た知識を実践することがあった。

心理学の本を読むのは、青年の対人コミュニケーションにおける苦手意識から来るものだった。

自分の創作物を見せることで、青年は柿谷の創作物が見られるのではないかと期待したのだ。

「今度持ってきますよ」

おお、と柿谷は驚いたように声を上げた。


しかし、それに続く言葉はなかった。


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